予算の概念

甲斐素直

[はじめに]

 明治憲法下においては、予算概念について訓令説や承認説が通説で、今日の通説である法規範と捉えるものは少なかった。たとえば美濃部達吉は訓令説を採り、予算を「国家の歳入及歳出の見積表」と述べて、歳入歳出予算のみを予算とし、かつ、その内容は見積表であるとしていた(1)

 しかし、今日においては、予算が国法形式の一種であることについては、ほとんど異論を見ない。また、予算を法律そのものと考える説(予算法律説)もあるが、それが妥当でない点については、別途詳述したので、ここでは論じない(2)

 ここで論じようとするのは、予算をもって法律や命令と並立する独立の国法形式とする説における、予算の概念である。法規範説を形式的には採りながら、上述の訓令説や承認説の影響を脱しきれず、法形式という前提と矛盾する不適切な概念把握を行う者が、憲法学者の多数を占めている。本稿では、現在の通説的な予算概念にどのような問題があり、したがって、どのような概念として把握するのが適切であるかについて論じたい。

一 従来学説の予算概念とその問題点

(一) 従来学説における定義

 明治憲法下においては、法規範説を採る者の場合にも予算の概念をきわめて限定的に定義した。例えば、その代表というべき宮沢俊義は「すべて国庫金の支出は必ず予め定められた正文の準則によって為されるを要する。そうした準則を実質的意味の予算または予算法という」(3)と述べて、歳出予算以外は、実質的には予算ではないという姿勢を端的に示した。当時の予算は、予算総則、歳入歳出予算、継続費、繰越明許費から構成されていたから、歳出予算以外のもの、すなわち予算総則、歳入予算、継続費、繰越明許費については、実質的意味の予算ではない、としていたことになる。

 戦前において、予算に対してこのように厳しい定義を下していた原因の一つに、プロイセンの憲法争議が存在していることは明らかである。それを理論的に解決するためにパウル・ラバントによって創出された二重立法概念に従う限り、予算は議会の本来の権限である法律には属さない。そして、天皇主権制度の下においては、国家の財政権は天皇に属し、明治憲法が特別の定めをおいた事項を除き帝国議会には属さないから、予算概念をより厳格に限定するほど、相対的に議会の権限が拡大することになるからである。

 これに対して、現行憲法下における学説は、大別して二つの傾向がある。

 第一は、依然として戦前と同様の極端に限定的な定義を示すものである。宮沢俊義が戦前の定義を墨守している(4)のは当然として、戦後派の学者の中にもその例は多い。例えば、松井茂記は「公金の支出は、予算として国会の承認を受けなければならない」とするから、この流れに属すると見ることができる(5)。これより若干拡張して、歳出予算に加えて、歳入予算も予算の実質的内容とする立場もある。例えば佐藤幸治は「予算とは一会計年度の歳入歳出の見積もりを内容とする財政行為の準則」と定義する(6)(以下、両者を併せて「狭義説」と呼ぶ)。したがって、財政法が定め、毎年度制定されている現行の予算制度にこの定義を適用すれば、予算の内容を形成しているその他の事項、すなわち予算総則、歳入予算、繰越明許費、継続費及び国庫債務負担行為(財政法16条)は、本来、実質的な予算に属さない異分子であると考えていることになる。

 第二は、一転して、非常に緩やかに予算概念を把握するものである。例えば芦部信喜は「一会計年度における国の財政行為の準則」と述べるにとどめ、その内容について触れない(7)。あるいは上記第一の類型の定義に、「主として」という言葉を補完することにより、その言葉の解釈次第であるが、広い概念を実質的に採用している者も多い。管見の限りでは、この「主として」型が、現在の通説あるいは少なくとも多数説を形成している(8)(以下、両者を併せて「広義説」という)。

 広義・狭義いずれの説の論者についても、そのような概念把握を採用した根拠について明言している者はない。

 そこで、想像を加えれば、狭義説は、おそらく戦前の定義に対して、基本的には無批判に承継しているものと思われる。歳出予算に加えて、歳入予算も予算の内容とする者の場合にも、これはおそらく現行予算制度が「歳入歳出予算」として一体的に可決しているためであって、歳入予算部分に法規範性を承認したためだからではないからである(9)

 これに対して、広義説が通説を形成するに至った理由の背景には、おそらく、第一に上記定義が現実の予算内容と食い違っていることに対する問題意識からと思われる。さらに、現行憲法が国民主権原理を基本的にとり、国会中心財政主義を採用した結果、法律と予算との峻別の必要性が低下したという考え方があるのではないか、と思われる。

 しかし、芦部信喜の定義に従う場合には、歳入歳出予算以外の予算内容が、予算に加わるのが承認されるにとどまらず、さらに特例公債(赤字公債)の発行の根拠法や租税特別措置法も明らかに予算に該当することとなり、少なくとも現行の予算制度に比べると、明らかに広すぎる定義となっている。通説というべき「主として」型の定義の場合には、そもそもそれら現行予算制度の周辺に位置してそれを補完している立法あるいは議会の議決のどこまでが、憲法86条にいう予算に含まれると考えているのか、ということ自体が判然としないという、より深刻な問題を抱えている。

(二) 従来の定義の問題点

 実質的意味の予算に対する定義として、現行予算制度(形式的意味の予算)に比べて狭すぎる狭義説、あるいは広すぎる広義説を採用していながら、憲法学者がそれを問題を感じないのは、予算の定義を憲法学的に明確に下す必要性があること自体を認識していないためと思われる。しかし、次の理由から、形式的意味の予算と実質的意味の予算は、厳密に一致していなければならないと考える。

 すなわち、現行憲法においては、予算という名称の付される法規範には、様々な特殊な取扱いが認められているからである。特に重要なのは、予算が通常の法律と異なり、憲法60条の定めるところにより、衆議院に圧倒的な優越が認められている点である。一方の院に圧倒的な優越を認めるということは、わが憲法が採用する二院制の、必然的な要求である両院対等の原則に対する大きな例外である。このような例外的な取扱いの許容は、そうすることが必要な内容だけに限定されなければならないのは当然であろう。すなわち、実質的意味の予算に本来属さない事項であって、国会の議決を必要とする事項については、例え、財政に関する問題であろうとも、原則に戻って、両院対等の議決権を認めなければならないはずである。また、それが法規範としての性格を有するものであるならば、衆議院に憲法五九条二項の認める優越を認めれば十分であって、通常はそれを超える衆議院の優越性を必要とするとは考えられない。

 わが国の場合に、何が実質的意味の予算かを論ずる目的は、まさにこの点にあるといわなければならない。実質的意味の予算に属さない事項を、予算としての法形式を利用して、衆議院の優越の下に議決する行為は、両院対等の原則を潜脱しているという意味において、まさに違憲行為と評価しなければならないはずだからである。

 すなわち、上述の狭義説が正しい場合には、予算総則、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為という諸事項を、現在のように予算に計上して簡易迅速な手続で成立させるのは、違憲である、という結論を下さなければならないはずである。戦前においては、この狭義説は、憲法理論上の問題はなかった。なぜなら、第一に、歳入予算や継続費を形式的意味の予算に計上することは、憲法が明文で要求していたからである(前者について64条1項、後者について68条)。そのような明文の例外規定がない現行憲法下であれば、当然、それらを予算形式で簡易迅速に可決することは、狭義説の下では違憲と評価すべきであろう。第二に、今日、国庫債務負担行為と呼ばれている活動や、同じく今日では予算総則や歳入予算で規制されている国債の発行は、明治憲法62条3項の定めるところに従って、予算とは別に、法律等の形で決議されており、予算の内容ではなかった(10)。したがって、戦前と基本的に同一の予算概念を採用する以上、それと同じように、これらもまた予算ではなく、法律等で可決すべきことになるはずである。しかし、そこまでの問題意識をもってこの説を今日の時点で主張されているのではないらしく、国庫債務負担行為等を予算に含めることに関してすら、違憲との記述例は皆無である。

 広義説を採用する場合には、こうした問題は消滅するが、それに代わって「予算の抱き合わせ」の危険に直面することになる。これはかつてフランスにおいて、非常に大きな問題となった。すなわち政府与党は、予算における特別の取扱いを利用する意図から、非常に広い範囲の法規範を予算中に盛り込み、成立させたのである。同国では、その防止のため、予算に計上できるのは「厳密に財務に関係する事項に限る」とするような限定がその後の憲法では加えられたにもかかわらず、この抱き合わせを根絶することができなかった。社会国家では、いかなる法律も何らかの形で財政と関わりがあると言い得るからである。このために、現行の第五共和制憲法の下においては、予算組織法により、予算に計上しうるものを限定列挙することで対応するまでに至っている(11)。このような意味で、広義説は、二院制を崩壊させる危険なものといわなければならない。

 しかし、より根本的な問題は、ここまでに例示してきたすべての定義が、今日の福祉国家における動的な財政活動の準則としての機能を正確に把握したものではない点にある。そのことを現行憲法の条文的に即して換言すれば、これら両説に共通する問題は、憲法85条の明文を無視している点にある。すなわち、85条は、83条の定める国会中心財政主義の原則を具体化して、国会の有する財政権を、「国費を支出すること」と「国が債務を負担すること」の二つに関して、国会の決議を要求している。そして、この85条の具体化として86条で予算制度を定めているのであるから、予算の内容としては、まさにこの二つがあると考えなければならないはずである。ところが、狭義説の定義は基本的に国費の支出のみに偏ったものであって、その意味で、憲法の要求する予算の法規範性を正確に把握したものということはできない(12)。他方、広義説は、この二つの要求が存在していることを認識しているか否か自体が全く不明確である点で、より一層問題が大きいといえる(13)

 

二 予算の法規範性解明のための道具としての用語の提案

 上述したとおり、わが国憲法学・財政法学における予算概念は、大別して広義説、狭義説のいずれも、現実の予算との整合性を持たない。その大きな原因は、憲法85条が要求している二つの法規範性を端的に表現する用語が一般的な形で存在しないために、議論がかみ合っていないこと自体が明確に認識されていないためと思われる。そこで、ここに、予算の法規範性を解明するための道具として、二種類の言葉を提案したい(14)

 憲法八五条は、国費の支出と国の債務の負担の二つを国会の議決にかからしめることを要求している。前者、すなわち、従来狭義説に立った場合には予算の唯一の法的機能と考えられてきた支出権限の授与行為を、「支出授権」と呼ぶ。これに対して、後者、すなわち国が債務を負担するために、契約の締結その他の、債務負担の原因となる行為を行う権限を、国会が、当該行政庁に授権する行為を、以下、「契約授権」と呼ぶ(15)。ここにいう契約は、実定法上、行政行為として構成されているもの、例えば公務員の雇用契約や補助金の交付契約等も含む概念と理解されたい。予算について、この二つの用語を使用することにより、その機能の本質、したがって、その法規範性の意味するものについて、適切な検討を行いうると考える。

 すなわち、憲法85条については、従来、前者ばかりが重視され、後者については、別に否定されているわけではないが、予算機能として十分に認識されていなかった嫌いがある。これらの用語の使用により、そうした議論の欠落そのものを明らかにすることができるであろう。その結果、歳出予算以外の予算科目の法規範性の正しい評価が可能になる。

 また、抽象的授権(一般的授権)と具体的授権(個別的授権)の概念区別を提案したい。ここに抽象的授権とは一般性を有する授権を、そして具体的授権とは一般性を有しない授権を意味する。この用語を使用することで目的としているのは、予算と法律の関係を明らかにすることである。

 わが国憲法及び財政法の学説は、広義説・狭義説の別なく、憲法85条が定める支出授権と契約授権に関して、例外なく、両者の授権の実行方法には違いがあると主張する。すなわち、支出授権は予算によって、そしてそれのみによって行われるのに対して、契約授権は憲法上、特に授権方法が特定されておらず、財政法は法律と予算という二つの方法を予定しているとするのである(16)。こうした主張は明らかに誤りであると考える。

 支出授権について言うならば、そのような主張は、論者が、予算と法律の不一致というあまりにも有名な論点の意味をまったく理解していないことを端的に示しているものである。すなわち、支出授権は、それが抽象的授権に止まるのであれば、法律で行うこともできるのであり、ただ、法律による支出授権の場合には、特定年度において現実に支出を行うには、重ねて、当該年度を対象とする予算による具体的支出授権が必要となるのである。そして、法律による抽象的支出授権と予算による具体的支出授権の間に不一致があるのが、予算と法律の不一致という問題に他ならないからである。

 それとまったく同じ意味において、契約授権も、法律と予算の二つの形式で行うことができると言うべきであろう。従来の学説は、単純に、財政法15条が、その冒頭で契約授権を法律によって行い得ることを明言していることに依拠して、法律による契約授権が可能であると述べるばかりで、そうした法律による授権が毎年の予算中でどのように扱われているかについてはまったく考慮の外においている点に問題がある。確かに、財政法15条でいう法律は、財政法4条但し書きによる建設公債の発行授権を筆頭に、膨大な数が存在している。しかし、それで契約授権は完成しているのではない。そうした法律による契約授権は、抽象的授権のレベルにとどまるので、毎年度の予算の冒頭を飾る予算総則では、そうした契約授権を目的とした法律を受けて、公債、一時借入金、国連機関拠出金、債務保証等等の類型別に、各年度毎の契約授権の限度額を定めている。これが予算による具体的授権である。すなわち、契約授権においても、法律による抽象的授権と予算による具体的授権の二つが同時に存在しているのである。仮に、法律が抽象的契約授権を行っているにも拘わらず、予算総則での具体的授権が存在しない場合には、支出授権における場合とまったく同じ意味で、やはり予算と法律の不一致の問題は発生することになるのである。

 したがって、予算における法律と予算の不一致の問題は、究極的には、法律による授権と予算による授権とは、どのように相違しているか、という点に求められるべきなのである。その分析の道具として、前述した抽象的授権と具体的授権の区別が意味を有すると考える。

 以下、この二種類の概念を使用することにより、わが国予算の基本機能を分析してみたい。

 

三 福祉国家と予算における契約授権の重要性

 本節では、予算の持つ二つの重要な機能のうち、従来十分に認識されてこなかった契約授権の意義を検討する。結論的に述べるならば、契約授権機能の方が、支出授権機能よりも重要な予算機能と考えるべきである。

(一) 契約授権機能の必要性

 わが国では、憲法83条の定める国会中心財政主義の下、議会の有する予算制定権が、特定年度の国の全収入・支出をコントロールするという法制を採用している。このような国においては、予算制定権の内容として、収入や支出のみを対象とした権限だけでは十分なものとは言えない。

 なぜなら、国家機関が国会のコントロールを受けることなく、国の支出の原因となる契約を自由に締結することができるとするならば、議会の持つ支出に関する予算制定権は全く無意味なものとなってしまうからである。行政庁が勝手に締結した契約であっても、その契約上の支払期限が到来した時には、議会としては、契約の誠実な相手方である国民の犠牲の上に支払いを拒絶することはできないから、機械的に支出の承認をするほかはないためである(17)。したがって、国会として国の支出を完全にコントロールするためには、その支出の原因となる債務を負担する行為もまた、国会が予算によって同時にコントロールするという制度が必要なのである。そこに憲法85条が、支出授権と契約授権を並列的に定めた法意があると考える。同条を敢えて前後二つに切断し、支出授権だけを予算の権限とし、契約授権は予算の基本機能と考えない、とするのは同条の文言から見ても、極めて不自然な解釈であって、とうてい妥当なものとは言えない。

 同様のことは収入についてもいうことができる。国の収入の原因になる契約は、国の一方的賦課徴収である租税と異なり、通常、国からのそれに見合った金銭以外の出捐、すなわち典型的には国有財産や物品の民間への払い下げ等の存在を意味している。国に財産的出捐を義務づけない収入原因となる片務契約、すなわち純然たる寄付のような場合にも、それにより有形無形の対価を期待している場合が往々にしてあるので、国会中心財政主義の下においては、やはりそれを国会のコントロールの下におく必要がある。このことは、皇室に対する関係では憲法八条の明定するところであるが、それ以外のあらゆる国家機関についても通有性を有する問題であるといわなければならない(18)。明治時代初期のわが国における最大の財政スキャンダルとして、北海道開拓使払い下げ事件がある。あのような不祥事を再び引き起こしてはならないことは、国会中心財政主義の下にあっては、なおのこと当然の要求だからである。

 したがって、わが国のように国会中心財政主義の下に総計予算主義を採る国にあっては、予算権限とは、実は契約授権と支出授権の二つの機能から構成された権限と考えなければならない。

(二) 契約授権の福祉国家における重要性

 かつての消極国家の予算は、支出授権を中心に構成されていた。国が、国民との間にできるだけ接触を持たないことが善とされる価値体系の下では、国と国民との契約に重要性がなかったのは当然である。これに対して、現代福祉国家においては、給付行政が国の活動の中心となる。そこでは、契約授権が予算の中心とならざるを得ない。その理由はきわめて単純にして明確であろう。すなわち、行政庁は、その行政施策を遂行するのに必要な諸々な人的物的資源を獲得するために予算を必要とするのであり、決して現金の支出そのものを目的としているわけではない。そして、そうした人的物的資源の獲得は、契約行為を通じて行われるからである。

 したがって、今日のわが国予算は契約授権を中心に構成されているべきであるし、また、現実にもそうである。すなわち、予算総則、歳入歳出予算、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為のすべてが契約授権の効力を持ち、また、財政法中の様々な規定もすべて、契約授権を適切にコントロールするために設けられているのである(19。これに対して、支出授権は、観念的には各行政庁に対して行われるが、国の現実の収入や支出のほとんどは日銀(その代理店等を含む。)において行われる(会計法七条及び一五条)のであって、個々の行政庁が直接行うことは原則としてない(20)。したがって、行政庁が日常において認識している予算の効力は、もっぱら契約授権であって支出授権ではない。

 

四 予算の定義ーー私見

 以上に述べたように、伝統的な予算の中心概念である具体的な支出授権に加えて、具体的な契約授権こそが今日における予算の中心機能であることを直視する場合には、予算は、次のように定義されるべきであろう。すなわち、予算とは、

「一会計年度にかかる、国の支出及び債務負担に関する権限を行政庁に授与することを目的とする具体性ある法規範を、悉皆的にとりまとめたもの」

をいう、と考える。これを分説すると、次のとおりである。

 1 財政準則という表現を排した点について

 憲法八三条は、国会中心財政主義を明記し、単に国会自身のみならず、行政や司法も含む国の財政処理のすべてを国会の議決にかからしめることを定めた。予算は、この国会の有する財政権の基本的な表現形態である。その意味で、従来の定義が指摘しているとおり、予算が財政に関する準則(準拠すべき法規範)であることは間違いない。

 しかし、財政に関する準則は、予算以外にも、恒久法であれば財政法や会計法を筆頭に様々なものが存在している。狭く解して毎年度作成するものに限っても、予算編成作業の際には、狭義の予算のほかに、俗に第二の予算と言われる、財政投融資計画および租税特別措置法案の編成作業も同時並行で行われている。近年は、赤字公債を発行するための特例法も必要である。こうした財政に関する様々な準則の存在を考えるとき、単に財政準則という表現で、予算を、他の法規範から識別できると考えるべきではない。予算の内容に、より密着した識別のメルクマールが必要となると考えるべきである。また、仮に、財政投融資計画や租税特別措置法を、そのまま予算の一部とすることも可能と主張しているのであれば、それは予算内容の不当な拡大というべきである。

 2 「一会計年度」について

 予算の特徴の第一は、一会計年度単位で作成される点にある。これは、財政権に関しては、権力分立制の採用が不可能という点に起因している。

 権力分立制は、主権者たる国民が、それに代わって権力を行使する者から害される事態を防ぐために、人類が重ねた多年の努力の結果、認識された手法であり、軽々に排除することは許されない。そして、国家機関は、基本的に財政的基盤なくして活動できない。その観点から見た場合には、財政権は、自律権の基本的要素と考えられなければならない。事実、個人レベルにおける財政権、すなわち俸給受領権に関しては、憲法は、議員及び裁判官に関して明文でこれを保障している。これに対して、組織体に対しては、三権のいずれの財政自律権をも排除し、すべての権限を国会に統合した点に、憲法83条の、そして財政の、最大の特徴がある。

 これは、現代福祉国家における財政は、国として、国民経済に影響を与える手段として総合的に運用されなければならないので、一元的に管理される必要が存在するからである。このため、各権力府に、自らの財政的基盤に関して自律決定を行う権限を認めることにより、予算編成権を多元化することは許されない。そこで、それに代って権力を制限する方法として、人類の知るいま一つの方法、すなわち時間的に、その限界を設ける手法がここに導入される。すなわち、年度単位に制定されるということになる。その意味で、予算について定義を与える際、この年度性は欠くことのできない要素となる。

 ただし、これは時系列において権力を区分するという財政一般の特徴であって、予算特有の特徴ではないことにも留意する必要がある。すなわち、国の特定年度の財政活動を規制する目的で制定される法律、例えば租税特別措置法や特例公債の根拠法は、通常、予算と同様に、年度単位の時限立法となる。また、事後的規制というべき決算もまた、年度を単位として制定される。決算にどの範囲で法規範性を認めるか、という問題は、決算を通じての財政統制をどの限度で行うか、という点の判断を巡って流動的な要素が強く、一律には言い難い。しかし、どのような説を採用する場合にも、そこに何らかの法規範性は存在していること自体は疑う余地のない事実である。したがって、この年度単位の制定という点だけを、予算を他の法規範と識別する絶対的な特徴として把握する見解、例えば「一会計年度における国の財政準則」というような単純な定義は、そうした意味から、誤りと見るべきである。

 なお、現実問題として、財政に関する収入や支出の見積もりは、会計年度を単位とせず、より長期的展望をもって行われるようになってきている。しかし、それらは依然として単なる収入、支出の予定表にすぎず、いまだ法規範性をもつとはいえない。

 3 「具体性」について

 予算の実質面における最大の特徴は「具体性」という要素にある。ここに具体性とは「一般性」の反対概念である。

 憲法41条によれば、国会は国の唯一の立法機関とされる。これに基づき国会が独占する立法は二重立法概念により説明される。すなわち、対国民的な法規範(実質的な意味の立法)を国会が独占する。実質的意味の立法には、一般性が要件と把握するのが通説である。これは、権力分立の要請に基づく。具体性ある法規範を国会に制定することを許容する場合には、国会は立法の形式で、実質的に行政行為や司法行為を行うことが可能となるからである。

 形式的意味の立法は、国の制定する法規範であって、実質的意味の立法以外のものをいうから、結果としてそれは国の内部法を意味する。財政の領域では、法律の形式以外に、憲法上明確に、予算と呼ばれる法形式が予定されている。

 予算は行政庁に対する具体的な授権行為であって、同一会計年度中にそこに規定されている要件に該当する事態が繰り返し発生したとしても、その都度繰り返し適用される(一般性)ことはなく、その特定の要件に該当する事態の総額についてを規制するという性格を有する。例えば、国際会議費という予算がある場合、その年度中に国際会議を開催する都度、そこに掲記されている金額を使用することが許されるのではなく、その年度に開催されるすべての国際会議における個々具体的な経費のすべてを、そこに掲記されている金額で賄うことが要求されている。

 このように、個別の行政活動に関する具体性ある規範であるという点に、予算の最大の特徴が存在している。この点も後に詳述するが、これに対して、法律という形式を採用している限り、例え年度単位の時限立法であっても、それは一般性ある規範に限定される。具体性ある財政規範は予算が独占していると考えるべきである(21)

 4 「法規範」について

 予算の法規範性は、ミクロ、マクロの二つの面で認めることができる。

 (1) ミクロの法規範性

 ミクロにおけるそれは、憲法八五条の規定する二つの権限の授与から構成される。前述の支出授権及び契約授権である。予算による具体的授権がない限り、行政庁は支出を行い、あるいは契約等を締結することが許されない、という意味で、これが通常認識される予算の法規範性となる。

 支出授権は歳出予算の独占するところである。換言すれば、支出は、毎年度、歳出予算による具体的授権を受けなければ行うことはできない。すなわち、国家と国民の関係を規律する法規範は、実質的意味の立法に属する(憲法41条)。したがって、財政に関する法規範であっても、内容的に実質的意味の立法に属する場合には、その支出授権は法律によってなされなければならない(法律の留保)。ただし、実質的意味の立法は、一般性をその要件とすると解されるから、法律による支出授権は、抽象的授権にとどまらなければならない。これに対する具体的授権を行うのが歳出予算である。

 なお、歳出予算には具体的支出授権の外に、抽象的支出授権を行う機能も存在していることに留意する必要がある。すなわち、給付行政の領域においては、法律の留保が原則的に働かない(22)結果、特別の授権法がない場合でも、歳出予算に計上されていれば、それに基づいて国は経費を支出することが可能とされている。国が私人としての立場で行う契約の実施に関しては、一般に抽象的支出授権を内容とする法律は存在せず、予算のみを根拠として実施される。それ以外でも、歳出予算によって抽象的授権が行われる場合もないわけではない。いわゆる「予算補助」がその代表的なものである。

 契約授権は、予算のきわめて一般的な機能である。すなわち、予算総則のほとんどの規定に加え、歳入歳出予算、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為のすべては、いずれも契約授権を定めたものである。これを大別すると、わが国予算の場合、契約授権には三種類の方法が存在している。第一のそれは、支出授権と同様、一年度を限りとして行われるもので、歳入歳出予算がそれである。第二のそれは、二年あるいはそれ以上の長期にわたって国を拘束する契約等を締結する権限を授与するもので、その授権の内容の相違により、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為の三通りの方法が認められている。第三のそれは、債務保証、損失補償など、何の事故も発生しなければ、将来も国が支出義務を負担することのない契約の実施に関するものである。その場合には、一般的な契約授権は法律で行い、ただ、当該年度限りの具体性ある規範的命令部分、すなわち限度額についてだけ、予算で定めるもので、予算総則の規定の多くはこれに向けられている(23)

 (2) マクロの法規範性

 マクロにおけるそれは、フィスカルポリシーと呼ばれ、国会として、国民経済に対する財政の影響力を利用するという目的で設定される。財政の国民経済に対する影響は、第一に財政規模そのものの大小により発生するので、その規模の決定という形で行われる。第二に、歳入を狭義の租税によるか、それとも公債その他の手段によるかという選択により、行われる。一般に、同一の歳入規模であっても、それを租税で賄うときは国民経済を沈静化させ、公債等の手段で行うときは活性化させる機能を持つ。第三に、歳出の規模及びその投入分野の決定という形で行われる。一般に、歳出の規模が拡大すれば国民経済を活性化させ、規模を縮小すれば沈静化させる機能を持つ。財政活動は波及的効果を持ち、投入金額の数倍に達する規模の影響をもつことが知られている。波及効果がどの程度発生するかは、どのような経済分野に投入するかによって異なり、また、それはその時々の経済情勢によって異なるので、国会は投入資金が最大の効率性をもつように予算を決定する。

 夜警国家理念の下においては、予算は特定年度の歳入・歳出の見積もりであった。その見積もりは、個々の事業に対する歳出額の見積もりを積み上げて行われた。しかし、今日の福祉国家理念の下では、このマクロの規範性から、予算はまずその全体規模が決定される。個々の事業に関する歳入や歳出は、むしろそれに併せて調整されるというのが正しい。

 予算は、このような政策の実施手段としての規範的命令である。したがって、命令の名宛人たる各行政庁(立法府、司法府を含む。以下同じ。)は、その予算の執行に当たり、予算で命じられた収入、支出の総額とそれぞれの行政庁における財政活動が一致するように努力しなければならない。このことは、現実の毎年度の予算総則の上で、歳入歳出予算は確定的な金額で規定されていることに端的に現れている。これに対して、公債の発行等は、その上限額で規定されているのである。

 歳入歳出予算までも、その収入や支出の上限を定めたものにすぎず、下回る分にはいくら下回ってもよいと解するのが通説である(24)が、これは、したがって、明白に文言に反した解釈である。そのような解釈による場合には、行政庁が、独自に国会の制定した予算を審査し、不要と認める場合には、まったく執行しない(執行留保)という自由を認めることが可能となるが、そうした解釈は、国会中心財政主義に違反するといわなければならない。執行留保は、かって米国で、ニクソン大統領の下で大々的に実施された例があることに明らかなとおり、わが国においても、国会の予算修正権の限界と絡んで、十分に可能性のある問題なのである(25)

 (3) 予算の強制力について

 今日においても、歳入予算の法規範性を否定し、あるいは非常に弱く解釈する見解が存在する。これは、予算にマクロの法規範性のあることに気づいていないことが第一の原因であり、ミクロの法規範性としての契約授権機能に気がついていないことが第二の原因である。しかし、より根本的には、法規範性があるという以上、それに違反する行為には無効その他の強制力が伴っているはずだという錯覚が存在していることが原因になっていると思われる。

 しかし、財政領域の法規範の場合、予算であると、法律であるとを問わず、一般に強制力を伴わない。例えば、歳出予算の配賦を受けなかったにもかかわらず、ある行政庁が勝手に契約を締結した場合、相手方に過失があればともかく、通常は、その契約は有効である。国としてそのことに気がついた場合には支払いをするか、将来に向かって契約の解除を行い、相手方に与えた損害の賠償を行うかのいずれかが必要となる。

 5 「悉皆性」について

 予算の形式面における最大の特徴は、「悉皆性」という要素にある。すなわち、すべての具体性ある財政に関する法規範を予算という単一の法典に集約することにより、国家の当該年度の財政活動の全貌を単純明瞭に示すことを目的としている。

 この性格は、前述の法規範の第二の要素である「マクロの法規範性」から導かれる。すなわち、通常の法規範は、その個々の要素の積み上げであって、個々の条項ないしその一部だけを制定することでも十分に意味がある。予算の場合にも、その法的性格がミクロの法規範性にとどまるのであれば、予算は単一のものである必要はない。たとえば省庁別に予算案を編成し、それぞれを別個の委員会で審議する方が、個々の内容の詳細に至るまで国会の目が十分に届くという意味で、遙かに合理的な方法といえるかもしれない。しかし予算は、前述の通り、国会の、国の財政管理の主たる道具である。予算は、その全体額及び個々の要素の全体に対する割合が一つの法的機能を果たすのである。すなわち、多数の単一予算が単に集められたものではない点に、予算の予算たる意義があるのである。したがって、この悉皆性という要素が欠落した場合には、予算はその本来の機能を果たすことが不可能になる、という意味で、きわめて重要である。

 

注記

(1) 美濃部達吉『憲法撮要』有斐閣1927刊、521頁より引用。

(2) 予算法律説の問題性については、拙著『財政法規と憲法原理』八千代出版1996年刊、51頁以下参照

(3) 宮沢俊義『憲法略説』岩波書店1942年刊、255頁より引用。

(4) 宮沢俊義が旧憲法時代の説を変更していないことについては、『日本国憲法』日本評論社1955年刊、721頁参照。

(5) 松井茂記『日本国憲法』第二版、有斐閣2002年刊181頁より引用。引用文に明らかなとおり、これは予算そのものの定義として書かれたものではないが、『予算』という項の冒頭に書かれており、以降においてもこれに抵触する記述を行っていないことから、歳出予算だけを予算の実質的内容と考えていると見て良いと思われる。

(6) 本文にあげた佐藤幸治の定義は、『憲法』第三版、青林書院新社1995年刊185頁より引用。

 そのほか、同様のものとして次のものがある。

 阪本昌成「将来の一定の期間(通常は一会計年度)に予想される収入と支出とを均衡ある形で見積もった国家の財政計画(予定的算定)の準則」(『憲法理論T』成文堂1993年刊279頁)

 辻村みよ子「会計年度に関する国の歳入歳出に関する財政行為の準則」(『憲法』第2版、日本評論社2002年刊、535頁)

(7) 芦部信喜の予算の定義は、『憲法』新版、岩波書店1997年刊324頁より引用。戸波江二も「一会計年度における国の財政行為の準則であり、とりわけ歳入歳出の予定準則である」(『憲法』新版、ぎょうせい1998年刊、471頁)として、基本的に同一の見解を示している。

(8) 「主として」という文言を定義の中に取り込んでいるものは非常に多数に上る。本文で通説とした理由である。代表的な例を示すと次の通りである。

 伊藤正己「一会計年度における国の財政行為の準則であり、主として歳入・歳出の予定見積を内容とし、国会の議決を経て定立される国法の一形式」(『憲法』第三版、弘文堂1995年刊663頁)

 浦部法穂「一会計年度における国の財政行為(主として、歳入歳出)の準則である。」(『注釈日本国憲法』青林書院1988年刊1327頁)

 清宮四郎「一会計年度における、国の財政行為の準則、主として、歳入歳出の予定準則を内容とし(実質的意味の予算)、国会の議決を経て定立される、国法の一形式(形式的意味の予算)」(『憲法T』第三版、有斐閣1991年刊、269頁)

 杉原泰夫「会計年度における、主として国の歳入歳出に関する財政行為の準則」(『憲法U』有斐閣法学叢書7、1989年刊、441頁)

 佐藤功「会計年度における国の財政行為の準則、主として歳入歳出の予定的見積もり」(『日本国憲法概説』全訂第四版、学陽書房1991年刊、492頁)

 長谷部恭男「一会計年度における、国の財政行為の準則、主として、歳入歳出の予定準則を内容とし、国会の議決を経て制定される国法の一形式」(『憲法』第二版 新世社2001年刊、359頁)

 樋口陽一「一会計年度についての国の財政行為の準則、主として歳入歳出の予定準則を内容とした、国法の一形式」(『憲法T』青林書院1998年刊342頁)

 長尾一紘「一会計年度の予定的見積もりを主たる内容とする財政行為の準則」(『日本国憲法』新版、世界思想社1991年刊457頁)

(9) 例えば佐藤幸治は、前記注6に引用した箇所に引き続いて「歳入に関する部分はその性質上法的拘束力を有しない」と明言しているから、法規範としての予算は、歳出予算のみである、と考える点で、宮沢俊義と違いはない。

(10) 明治憲法下の慣例については美濃部『逐条憲法精義』有斐閣、1927年刊637頁以下参照。それによると、実際の慣例としては、国債を起こす場合における議会の協賛形式としては法律を採用し、今日でいう国庫債務負担行為については「予算外国庫の負担となるべき契約を為すの件」という特別の形式が定められていたが、法律の形式で協賛を与えた場合も少なくないということである。

(11) フランスにおける予算の抱き合わせに関する詳細については、小嶋和司『憲法と財政制度』有斐閣1988年刊90頁以下参照。

(12) 狭義説との関連で注目するに値するのが、旧憲法下では明確に訓令説を採用していた美濃部達吉の新憲法下における説である。現行憲法における予算概念としては、憲法85条を基礎に次のように定義する。

「予算は一会計年度間に於ける国の総歳入総歳出および国の債務負担行為の予測であって、国会の議決を経て成立し財政の運用殊に国費の支出に関して政府を拘束する力を有するものである。」(美濃部『日本国憲法原論』有斐閣1948年刊、389頁)

 惜しむべきは、依然として法規範と考えず、承認説に立っている。このために通説化しなかったのであるが、その性質という点を度外視すれば、狭義説、広義説のいずれと比べても、格段に正確な定義である。

(13) 従来示されていた定義の中で、この二つの機能を明確に指摘しており、その意味で最も正確な予算の定義は槇重広の示した次のものと考える。

「予算は、内閣が国会に提出した、一会計年度における、国の諸機関に必要な債務の負担と、現金の支出との見込額に対して、国会が最高限度を定めて、内閣にその施行の権限の付与と制限を、文書を持って明確にした、国法の一形式である。」『財政法原論』弘文堂、平成三年刊、一三七頁、より引用。

 これをそのまま採用しない理由は、多分に私自身の定義の説明と重複するので、ここでは触れないが、この定義は、債務負担が予算の重要な権限であることを認識している点において、従来の他の定義に比べて遙かに正確である。

(14) 契約授権等の二つの言葉は、注2引用の拙著92頁以下で初めて使っている。またこの用語の提案及び概念内容の詳細については、拙著『予算・財政監督の法構造』(信山社2001年刊)29頁以下に詳述している。

(15) ここで、「契約授権」という造語の根拠について、簡単に説明しておきたい。本文に詳述したとおり、この語は憲法85条にいう「国が債務を負担する」行為に対する国会の議決の性格を説明するために創出したものである。したがって、85条の文言に忠実に言葉を選択するならば、ドイツ現行財政制度の Verpflichtungserm?chtigungの訳語として採用した「債務負担授権」あるいは「負債授権」の方が素直な造語といえるであろう。しかし、債務負担ないしは負債というのは、契約の効果のうちの義務的部分だけを取り出した用語であって、そこで実際に国の機関が行っている行為そのものを端的に表現したものとは言えない。また、そのような用語を85条が使用していたために、現行憲法制定以来半世紀の間、これが金銭債務に限らないすべての債務を意味するのだという実務においては常識的な事実が、学界に認識されなかったという問題がある。

 こうした行為を財政法規は「支出負担行為」と呼んでいるが、これは行政庁の活動を中心としてみた場合に妥当する用語であって、国会を中心とした場合にはふさわしくない。一方、財政法34条の2第1項は、支出負担行為を定義して、「国の支出の原因となる契約その他の行為をいう」としている。

 これらのことから、より包括的な名称である「契約」の語を、授権と結びつけて採用することが妥当と判断した。

(16) 例えば宮沢俊義『日本国憲法』715頁は次のように述べる。

「『国会の議決』の方式については、本条は別に定めるところはない。要するに、国費を支出し、または国が債務を負担することが、国会の意志にもとづいて行われれば、本条の要求はみたされるのであり、その場合の『国会の議決』の方式は、どんなものでも差し支えないとされる。

 国費の支出に対する『国会の議決』は、予算の方式によってなされる(86条)。

 国が債務を負担することに対する『国会の議決』の方式については、憲法には規定はないが、財政法は予算または法律によるべきものと定めている(財政法22条)」

(17) 現行法体系上、国会が支出授権を拒否できない形式上の根拠は会計法29条の11にある。同条は、複雑な規定でその真意を読みとりにくいが、簡単に要約すれば、国と契約をする者に同時履行の抗弁権を認めず、先履行義務を課しているということである。この結果、国が支出を求められる場合には、原則として、相手方の給付は完了しているので、それにも関わらず、国会が具体的な支出授権を拒めば、信義誠実の原則に違反することになるのである。なお、念のため、付記すれば、本文では、決してこの会計法の規定を根拠に憲法解釈をしているのではない。本条は、昭和36年に追加された規定で、それ以前においてはこの点については何ら積極的なきてはなかったのであるが、それ以前から原則として相手方が先履行していたのである(この点につき、井上鼎著『体系官庁財政会計辞典』公会計出版センター1985年刊614頁以下参照)。一般に、国と契約をする者は、国の支払い能力に不安を持たないため、上述の会計法のような明文の規定がない場合にも、同時履行の抗弁権に頼る必要を認めないからである。そして、相手方のそうした信頼を覆す権利を、国会の財政権に認めることはできない。

(18) 槙重博『財政法原論』弘文堂1991年刊、73頁は、現行憲法の下における基本的な予算原則として「寄付受領禁止主義」の存在を指摘する。

(19) 予算総則以下の各予算科目が持つ契約授権機能の詳細な検討については、前掲注14の拙著収録の「現行予算制度における契約授権の検討」(67頁以下)で行っている。

(20) 現行の財政法制度の下においては、本文に述べたとおり、国庫金は原則として日本銀行を通じて受け払いがなされるため、公務員が現金を取り扱う場合は、通常生じない。現行法制下で現金を取り扱う職員(「出納官吏」という)は、収入官吏、資金前渡官吏及び歳入歳出外現金出納官吏の三種類がある(出納官吏事務規程一条参照)。このほかに、従来は繰替払等出納官吏が存在していたが、これは郵政官署に設置されているのみであったため、郵政公社の設立に伴い廃止された。したがって、直接支出を担当する職員は、現在は、資金前渡官吏及び歳入歳出外現金出納官吏のみである。歳入歳出外現金は、その名の通り、国庫金ではないから、国庫金を直接支出するのは、資金前渡官吏のみである。前渡資金とは「交通通信の不便な地方で支払う経費、庁中常用の雑費その他経費の性質上主任の職員をして現金支払をなさしめなければ事務の取扱に支障を及ぼすような経費で政令で定めるもの」(会計法一七条)であるから、本質的に少額であり、例外的な性格を有する。

(21) 実際の政府及び国会における取り扱いは、まさにそのとおりである。例えば赤字公債の発行に当たっては、それを財政法4条1項の規定にもかかわらず可能にするために、毎年度「平成○○年度における公債の発行の特例に関する法律」という名称の特別法を制定する。しかし、この法律は、抽象的な契約授権の限度においてのみ制定される。具体性を有する、その法律の規定により公債を発行することができる限度額については、当該年度の予算総則6条2項で、法律とは別途に定める、という取り扱いが、一貫して行われている。

(22) 法律の留保が、各行政分野で、どの限度で認められるかについては、拙稿「法律の留保ーー行政と立法の関係ーー」『司法研究所紀要』日本大学司法研究所、1991年刊、第3巻3頁以下参照。

(23) 支出授権及び契約授権という概念を通して、現実の予算をどのように理解することが可能となるか、という点の詳細に関しては、前掲注14引用の拙著67頁以下参照

(24) 予算が支出の最高限とする見解を明言するものとして、例えば宮沢前掲書721頁。清宮前掲書269頁。

(25) 米国における執行留保の詳細については、前掲注2引用の拙著131頁以下参照。