団体の目的と構成員の人権
甲斐素直
問題
A
社は、経営が苦しいとして、多年にわたって賃上げを実施してこなかった。さらに、世界的な不況のあおりから、経営が逼迫したとして、派遣労働者を全員解雇した。そのため、正社員は著しく残業が増加し、過労状態となった。そこで、
A社の労働組合(以下、Xという)執行部は、必要とあらばストライキを敢行してでも賃上げと労働時間の短縮を獲得するべきであると考え、臨時組合総会を開催し、@Xとしてストライキを行った場合の闘争資金の確保のため臨時組合費8000円、AA社の下請けで、社員にA社以上に厳しい労働条件を押しつけているB社労働組合が行うことを計画しているストライキの支援カンパ1000円、B派遣労働者の安易な解雇を可能とした労働者派遣法改正のための政治闘争資金1000円、合計1万円を各組合員から臨時に徴収することを内容とする提案を行った。Y1など計100名の組合員(以下、Yという)は、世界的不況下でストライキを行ったりすれば、A社そのものが倒産する恐れがあるとしてその提案に反対したが、X執行部の提案は、組合員の賛成多数で可決された。これに対し、YはXから脱退して、第2組合を結成し、A社に対して協調的な路線をとることとした。
そこで、
Xは、Yに対し、YがXの組合員であった時の組合総会決議はYを拘束するとして、100名分、計100万円を支払うように求めたが、Yが拒否したため、Yを相手取って訴えを提起した。これに対し、
Yは次のように反論した。(
1) Yは、Xの総会決議に反対したので、@ABの決議はいずれもYを拘束しない。(
2) B社労働組合に対する支援カンパは、Xの定款に掲げる目的の範囲外の行為であるのでAの決議は無効であり、仮に有効であるとしても反対したYを拘束しない。(
3) 政治活動は、Xの定款に掲げる目的の範囲外の行為であるので、Bの決議は無効であり、仮に有効であるとしても反対したYを拘束しない。上記(
1)(2)(3)の諸点の主張に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。[はじめに]
人が、なぜ人権を享有できるかと言うことは、難しい問題である。昔は単純に人間の尊厳と説明したが、今日では議論が分化して、人格的自律権説と一般的行為自由権説の対立が存在していることは、諸君も知っていると思う。どちらの説を採るか、というのは難しい問題なので、将来、是非取り上げて論じてほしいが、ここでは脇に置いて、一応、人であれば、人権が享有できるものだと考えよう。
そうすると、次にくる問題が、人とは何か、と言うことである。
現在、人権享有主体性に関して議論の対象になるものとして、自然人では、天皇その他の皇族、外国人、女性及び未成年者がある。自然人ではないものとして、本問で取り上げる団体がある。
法学的にいうと、自然人以外で権利の主体となり得るのは法人ということになっており、憲法学でも法人の人権享有主体性という形で問題にすることが多い。しかし、ここで団体という表現をとっているのは、大きく分けて二つの理由からである。
第一に、法学における法人には、人の集まりである社団と、財産の集まりである財団とがある。しかし、人権享有主体となり得るのは、後で詳しく述べる理由から、社団だけである。だから、法人といってしまうと財団でも人権享有主体性が認められる場合があるように思えてしまい、諸君に誤解を与える恐れが強い。それを避けるために、人の集まりだけであることを強調する意味で、団体という。
第二に、実定法上の法人と、憲法で言う人権享有主体性を持つ団体とは概念が違っている。例えば、日本大学は、私立学校法によると、財団である。私立学校法に言う学校法人は、人権享有主体性を持っていない。他方、憲法
23条で大学の自治を保障している。この場合の大学は、私立学校法にいう財団ではなく、教授等の人の集まり、つまり社団を意味していると考えなければならない。あるいは、会社法にいう株式会社は株主という自然人の集まりとしての社団である。しかし、憲法で議論するときの会社とは、代表取締役以下の被傭者の集まりとしての社団と考えた方が正しい場合が多い。このように、実定法上の法人概念と、憲法で言う人権享有主体性を持つ団体には、かなりのずれがある。そのことをはっきり理解して貰うためにも、法人という言葉は避けた方が良い。本問は、国鉄時代における広島地区の労働組合から脱退して第2組合を作った者に対して、国労が小問(1)〜(3)に相当する主張をした事件をベースに作問している(昭和50年11月28日最高裁判所判決=百選第5版328頁参照)。換言すれば、国労広島事件最高裁判所判決を理解していれば、自動的に答えの書ける平易な問題である。
この判決は、南九州税理士会事件最高裁判所判決が、明確にその判決中で引用しており、その意味で、同一の論理と見ることができるという意味で、極めて重要である。正確な理解をする努力をしてほしい。
一 団体の人権享有主体性
(一) 概説
人権の歴史は、自然人における権利獲得の闘争の歴史である。従って、団体が人権共有主体になることは本来予定されていなかった。しかし、今日では、団体は大きな社会的実在として存在するに至った。その結果、実定法上、団体に、人権享有主体性を認めて議論した方が、都合がよい場合が生じてきた。
問題は、どういう論理でそれを認めるか、である。簡単に言えば、憲法学的にも団体は実在していると考えるのか、それとも、それはやはり法的擬制に過ぎないと考えるのか、という対立である。
憲法の分野では、近時は法人実在説的理解を唱える学者もいる(例えば、伊藤正己『憲法』第3版、201頁。同旨、佐藤幸治『憲法』第3版、386頁等。)
しかし、これを支持する人は少ない。なぜなら、団体は、その構成員の持つ何らかの権利の実現手段として、単に道具として存在しているにすぎないからである。したがって、自然人の人権の延長上に考えればよく、それと切り離された独自の主体性を考える必要はない。
しかし、団体は、それを構成する自然人の人権の単なる足し算的な人権を保有するわけではない。例えば集団としてのデモ行進は、その参加者である自然人が単に同時に行進しているととらえたのではその実体を正しく把握しているとは言えない。あるいは、既に120年もの歴史を持つ日本大学を、単に特定時点における教員や学生の集合と見るのも正しくない。それと同様に、様々な団体において、団体それ自体を、その構成員の道具以上の社会的実在として、それを構成する自然人の人権とは別個独立の主体と考える必要が生じてきた。
そこで、通説は、次のように定義を与える。
「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属することに加えて、法人が現代社会において一個の社会的実在として重要な活動を行っていることを考えあわせると、法人に対しても一定の人権の保障が及ぶと解するのが妥当であろう」(芦部信喜『憲法』第4版87頁)
ここで注意するべきは、ここに上げられているのは、二つの別の理由だということである。すなわち、第一の理由は、「法人の活動が自然人を通じて行われ、その効果は究極的に自然人に帰属すること」である。ここで言っていることは、団体は自然人の活動の道具であるのだからといって、一々個人に分解する必要はない、ということである。これは明確に擬制説である。しかし、同時に、このように集会や結社の自由が保障されている根拠は、集団としての人には個人としての人には出来ないことも可能になることのためである。したがって、集団や結社の機能を、一々個々の自然人に分解し、あるいは還元して理解するのは、明らかに妥当ではない。
予備校の教師などは、この定義の最初の部分を軽視し、後半の「法人が現代社会において一個の社会的実在として重要な活動を行っている」というところを誤読して、この定義を法人実在説と教える例が多い。しかし、間違いである。例えば長谷部恭男は次のように説明する。
「法人が社会において自然人と同じく活動する実体であることは、法人に独立の法人格を認める論拠とはなりえても、直ちに憲法上の権利を認める論拠にはならないであろう。」(長谷部『憲法』第4版132頁)
この社会的実在性は、一般的には財産権(憲法29条)の主体としての意味を持つ。例えば、学校法人日本大学や宗教法人オーム真理教という法人格があれば、その有する不動産を、その名義で登記できる。すなわち、
「法人の概念は、主として、財産権の主体となることにその意味を持つものであるから、人権宣言の規定は、主として財産法上の権利義務に関しては、法人にも適用される結果になる。」(宮沢俊義『憲法U』245頁より引用)
だから、ある団体が、宗教活動を行うためだけであれば、別に実定法上の法人格を有している必要はない(宗教法人オーム真理教解散命令事件=最決平成8年1月30日=百選第5版86頁参照)。その団体が社会的に存在していればよいのである。
また、こうした団体が享有できる人権は、その構成員が、その団体に加入している理由の限度に拘束されることにも注意してほしい。例えば、日本大学は、大学として学問の自由の主体性を認められる。それは、教員や学生が学問の場として、その団体の一員になっているからである。だから、それ以外の人権、例えば信教の自由の主体になれる存在として日本大学を考える必要はない。
同様に、宗教団体は信教の自由の主体と考えることができるが、それ以外の人権、例えば教育を受ける権利の主体として考える必要はない。さらにいえば、そこにいう信教の自由とは、その構成員が信じている宗教活動をする自由のことであって、構成員の信じる宗教とは別の宗教を、宗教団体が信じる自由(例えば宗教法人本願寺がキリスト教を信じる自由)を認める必要はない。これらは、すべて団体が、その構成員の活動の道具として存在しており、「その効果は究極的に自然人に帰属する」ところから生じる結果である。その意味で、団体の人権享有主体性は、どうしても擬制として理解するしかないのである。
(二) 定款における目的の意義
本問では、小問(2)や(3)で、定款における目的ということが議論の対象になっている。これは、直接には民法34条の述べるところである。諸君から提出された論文では、この点に関する問題意識がなかったので、簡単に説明する。
民法34条は、次のように述べている。
「法人は、法令の規定に従い、定款その他の基本約款で定められた目的の範囲内において、権利を有し、義務を負う。」
つまり、自然人はあらゆる事項について権利能力を有しているが、法人は定款(財団の場合には寄附行為)の目的に明記していること以外については権利能力を持たない。このように限定している理由は、民法が法人擬制説に立っているためである。しかし、これを厳格に理解してしまうと、法人の社会的活動は大幅に制限されざるを得ず、不合理な場合が生じる。そこで、一般に次のように解する。
「法人の権利能力の範囲を決定する『目的ノ範囲』ということと『目的自体』とは明瞭に区別すべきことである。法律の定めた目的または定款もしくは寄附行為に記載された目的自体は、限られたものであっても、それは、法人の担当する社会的作用を立言しただけである。法人は、この作用を完うするために、社会において行動をなし、適当な範囲内において権利義務を取得するのである。従って、権利能力の範囲を決定する目的の範囲内というのは、目的として挙げられた事項に限るのではなく、この目的を遂行するに適当な範囲内の全般にわたるべきである。」(我妻栄『新訂民法総則』156頁)
権利能力がなければ、人権もまた享受できないことは明らかなので、この議論は、憲法における人権享有主体性にもそのまま妥当するのである。
二 労働組合の享受する人権と構成員との利害衝突
本問では、明確に議論の主体を労働組合に限定している。ところが、提出された論文では、労働組合であるということに対する問題意識が極めて不足していたので、この点について、簡単に補足する。
憲法28条は次のように規定する。
「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」
労働組合は、憲法28条の保障するこの労働基本権の具体化である。すなわち「労働者の団結する自由」を行使した結果、生じる団体である。したがって、労働組合の結成目的は「労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、労働者がその労働条件について交渉するために自ら代表者を選出することその他の団体行動を行う」(労働組合法1条)ことである。
憲法28条は、明らかに個々の労働者の権利として規定されている。しかし、先に述べた論理から、我々としては労働基本権を一々分解し、個々の労働者に還元して理解する必要はない。その活動の効力が究極的には個々人に及ぶという条件の下で、労働組合は労働基本権の享有主体であると考えて良い。つまり、労働組合が憲法28条の保障する団体交渉権や争議権その他の団体行動権を有すると考えて良い。ただ、あくまでもそれは擬制であるから、個々の労働組合員の人権と、組合の行動が衝突した時、労働組合の人権と組合員の人権の衝突と捉えて両者の比較考量問題と考える必要はない。
(一) 小問(1)について
団体として行動するということは、特別に全会一致という建前をとっている場合を除いて、多数決で意思を決定すると言うことである。多数決を採用するとは、それで決まったことには、反対した者も従うということである。最高裁判所は、三井美唄事件判決(最大昭和43年12月4日=百選第5版326頁参照)において、次のように述べた。
「労働基本権を保障する憲法28条も、さらに、これを具体化した労働組合法も、直接には、労働者対使用者の関係を規制することを目的としたものであり、労働者の使用者に対する労働基本権を保障するものにほかならない。ただ、労働者が憲法28条の保障する団結権に基づき労働組合を結成した場合において、その労働組合が正当な団体行動を行なうにあたり、労働組合の統一と一体化を図り、その団結力の強化を期するためには、その組合員たる個々の労働者の行動についても、組合として、合理的な範囲において、これに規制を加えることが許されなければならない」
だから、X組合がストライキを将来行うことを想定して、そのための闘争資金を蓄積することを多数決で決定した場合に、それに反対した者も、その決議に従わなければならない。その決議が気に入らなくて、Y1等が第2組合を結成しても、それによりXの組合員だったときに負担した義務を免れるわけには行かない。つまりYの(1)の主張は、団体における多数決原理という根本に違反し、成り立たない。
(二) 小問(2)について
問題は、他の組合に対する闘争資金のカンパについてまで、組合は決議できるのか、である。Yは、第一次的にそれがXの目的の範囲外として不可能と主張しているのである。
最高裁判所は、先に紹介した三井美唄事件判決において、次のように述べた。
「労働者がその経済的地位の向上を図るにあたっては、単に対使用者との交渉においてのみこれを求めても、十分にはその目的を達成することができず、労働組合が右の目的をより十分に達成する手段として、その目的達成に必要な政治活動や社会活動を行うことを妨げられるものではない」
確かに、小問(2)でYが主張しているように、特定企業の労働組合は、その企業の使用者との間において団体交渉をし、団体行動することしか、定款の目的には書かれていないのが通例である(Xの定款そのものは問題文には含まれていないが、Yがそう主張していることから、Xの定款にもそう書いていないと考えて良い)。しかし、その社会的な存在目的の達成に必要な限度で、その他の社会活動に拡大することができることは、先に民法34条について説明したことからも、明らかである。問題は、どこまで拡大可能かである。
小問(2)に書かれている関連企業の労働争議への支援が可能かを考えてみよう。国労広島事件最高裁判所判決は、国労による、全日本炭鉱労働組合という他の組合に対する支援資金をカンパするという決議の有効性に関して次のように述べた。
「右資金は、上告組合自身の闘争のための資金ではなく、他組合の闘争に対する支援資金である。労働組合が他の友誼組合の闘争を支援する諸活動を行うことは、しばしばみられるところであるが、労働組合ないし労働者間における連帯と相互協力の関係からすれば、労働組合の目的とする組合員の経済的地位の向上は、当該組合かぎりの活動のみによつてではなく、広く他組合との連帯行動によつてこれを実現することが予定されているのであるから、それらの支援活動は当然に右の目的と関連性をもつものと考えるべきであり、また、労働組合においてそれをすることがなんら組合員の一般的利益に反するものでもないのである。それゆえ、右支援活動をするかどうかは、それが法律上許されない等特別の場合でない限り、専ら当該組合が自主的に判断すべき政策問題であつて、多数決によりそれが決定された場合には、これに対する組合員の協力義務を否定すべき理由はない。」
この組合員の有する協力義務を、労働組合を主体にいえば、組合の統制権という。
この論理に従う限り、関連企業の労働組合に対するカンパは、当然Xの定款の範囲内と考えて良いから、Xのこの点に関する統制権は肯定され、Yの主張は成り立たない。
(三) 小問(3)について
三井美唄事件最高裁判所判決は、先に述べたとおり、労働組合に関しては目的の範囲という制限は緩やかに解するべきであると述べた。その一環として、政治活動について、次のように述べた。
「このような労働組合の結成を憲法および労働組合法で保障しているのは、社会的・経済的弱者である個々の労働者をして、その強者である使用者との交渉において、対等の立場に立たせることにより、労働者の地位を向上させることを目的とするものであることは、さきに説示したとおりである。しかし、現実の政治・経済・社会機構のもとにおいて、労働者がその経済的地位の向上を図るにあたつては、単に対使用者との交渉においてのみこれを求めても、十分にはその目的を達成することができず、労働組合が右の目的をより十分に達成するための手段として、その目的達成に必要な政治活動や社会活動を行なうことを妨げられるものではない。」
したがって、Xが政治闘争を行うと、多数決で決定したことは、有効な目的の範囲内の行動である。問題は、目的の範囲内の行動であれば、すべて組合は統制権を有するか、ということである。国労広島事件で、最高裁判所は次のように述べた。
「労働組合は、労働者の労働条件の維持改善その他経済的地位の向上を図ることを主たる目的とする団体であつて、組合員はかかる目的のための活動に参加する者としてこれに加入するのであるから、その協力義務も当然に右目的達成のために必要な団体活動の範囲に限られる。」
つまり、統制権が及ぶのは、組合活動の全てではなく、個々の組合員が加入した目的を達成するために必要な範囲内とするのである。そして、結論的に次のように述べる。
「多数決原理に基づく組合活動の実効性と組合員個人の基本的利益の調和という観点から、組合の統制力とその反面としての組合員の協力義務の範囲に合理的な限定を加えることが必要である。」
そこで、小問(3)で問題となる政治的活動については、次のような見解を示した。
「政治的活動は一定の政治的思想、見解、判断等に結びついて行われるものであり、労働組合の政治的活動の基礎にある政治的思想、見解、判断等は必ずしも個々の組合員のそれと一致するものではないから、もともと団体構成員の多数決に従つて政治的行動をすることを予定して結成された政治団体とは異なる労働組合としては、その多数決による政治的活動に対してこれと異なる政治的思想、見解、判断等をもつ個々の組合員の協力を義務づけることは、原則として許されないと考えるべきである。かかる義務を一般的に認めることは、組合員の個人としての政治的自由、特に自己の意に反して一定の政治的態度や行動をとることを強制されない自由を侵害することになるからである。」
この論理に従えば、小問(3)に関しては、Yの主張が認められることになる。
三 今後の勉強のために
以上で、本問の解説は終わりであるが、以上に紹介した三井美唄事件最高裁判所判決及び国労広島事件最高裁判所判決が、南九州税理士会事件判決(最判平成8年3月19日=百選第5版82頁)とどう繋がっているのか、簡単に説明しておく。
(一) 南九州税理士会訴訟について
判決のポイントとなる部分は次のように述べる。
「税理士会は、法人として、法及び会則所定の方式による多数決原理により決定された団体の意思に基づいて活動し、その構成員である会員は、これに従い協力する義務を負い、その一つとして会則に従って税理士会の経済的基礎を成す会費を納入する義務を負う。しかし、法が税理士会を強制加入の法人としている以上、その構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている。したがって、税理士会が右の方式により決定した意思に基づいてする活動にも、そのために会員に要請される協力義務にも、おのずから限界がある。」
ここに引用した部分は、先の二つの最高裁判所判決の論理とほとんど同じことが判ると思う。つまり、君たちにこの判決に関して論文を書かせると、「強制加入法人」という部分をやたらと強調して論文を書く。しかし、従来の最高裁判所判決と比べれば、強制加入団体ではない労働組合でも、全く同じ論理を最高裁判所が展開していることが判る。すなわち、議論の焦点は「構成員である会員には、様々の思想・信条及び主義・主張を有する者が存在することが当然に予定されている」という方にあるのだということが判る。
では、強制加入団体という部分は、どういう意味を持つか。それは、労働組合の場合には、政治活動を行うことが、組合の目的の範囲内に含まれるのに対して、政治活動を行うことは、絶対に税理士会の目的にはならない、としている点にあるのである。
「そうすると、前記のような公的な性格を有する税理士会が、このような事柄を多数決原理によって団体の意思として決定し、構成員にその協力を義務付けることはできないというべきであり、税理士会がそのような活動をすることは、法の全く予定していないところである。税理士会が政党など規正法上の政治団体に対して金員の寄付をすることは、たとい税理士に係る法令の制定改廃に関する要求を実現するためであっても、法49条2項所定の税理士会の目的の範囲外の行為といわざるを得ない。」
最後の一文に明らかな通り、ここでの議論の焦点は、目的の範囲内か否かという点にある。そして、その目的内か外かを判断するための決め手になっているのが、公的性格、すなわち強制加入団体性にある。
では、最初に引用した部分で、最高裁判所は、なぜ内部統制権について議論していたのか。その理由は、税理士会でも政治活動が目的の範囲内に無いことは十分承知していて、政治的活動は、南九州税理士会の場合であれば、「南九州各県税理士政治連盟」というダミー団体が行っているのであって、税理士会そのものは政治活動を行っていないからである。その上で、税理士会で決議を行うことにより、特別会費を徴収し、これを政治連盟に寄付するという手法を採用している。会費の徴収自体は、特別会費であろうとも、目的の範囲内にあることは言うまでもない。その結果、結局、先の国労広島事件と同様に、団体の内部統制権がこの場合に認められるか否かの点が、中心の論点となるのである。この点につき、判例は次のように言う。
「原審は、南九各県税政は税理士会に許容された活動を推進することを存立の本来的目的とする団体であり、その活動が税理士会の目的に沿った活動の範囲に限定されていることを理由に、南九各県税政へ金員を寄付することも被上告人の目的の範囲内の行為であると判断しているが、規正法上の政治団体である以上、前判示のように広範囲な政治活動をすることが当然に予定されており、南九各県税政の活動の範囲が法所定の税理士会の目的に沿った活動の範囲に限られるものとはいえない。」
つまり、南九各県税政というダミー団体経由であったとしても、政治献金を行うことは許されない、というのである。
こうしたわけで、南九州税理士会事件はダミー団体の存在までも問題文に含めて考えないと、判決文が理解できない、という意味において、国労広島事件等より遙かに難しいものなのである。
(二) 群馬司法書士会事件について
南九州税理士会事件とよく似た事件に、群馬司法書士会事件がある。この事件は、阪神・淡路大震災により被災した兵庫県司法書士会に復興拠出金を寄付することとし、拠出金総額を3000万円とし、会員から登記申請1件当たり50円の復興支援特別負担金(復興支援証紙)徴収を行う旨の総会決議をしたところ、一部会員が、本件決議の無効及び債務不存在の確認を求めた事案である。第1審前橋地方裁判所平成8年12月3日判決では、南九州税理士会事件を受けて、このような性格の資金は、強制加入団体である司法書士会の目的の範囲外として、許されない、とした。これに対して、第2審東京高裁平成11年3月10日判決では、これが会員の思想、信条の自由に対する何らかの制約になるとしても、その程度は軽微であって、思想・信条等の自由を根本的に否定するほどのものではないから、司法書士会の目的の範囲外で無効とはいえない、として決議を有効とした。
それに対し、最高裁判所第1小法廷平成14年4月25日の判決は、次のように述べた。
「司法書士会は,司法書士の品位を保持し,その業務の改善進歩を図るため,会員の指導及び連絡に関する事務を行うことを目的とするものであるが(司法書士法14条2項),その目的を遂行する上で直接又は間接に必要な範囲で,他の司法書士会との間で業務その他について提携,協力,援助等をすることもその活動範囲に含まれるというべきである。」
すなわち、この事件の場合にも、判断のポイントは、目的の範囲内にあるか否かであって、強制加入団体であるか否かにあるわけではない。