定住外国人の地方参政権
甲斐 素直
B市に住んでおり、相当の資産を有して多額の納税を行っており、出入国管理及び難民認定法22条に定める日本の永住資格を認められている。またXはB市で行われている各種ボランティア活動にも市民の一員として積極的に参加してきた。 問題
XはA国国籍を有する成人である。しかし、祖父の代から日本国内の
ボランティア活動において知り合い、人格的に優れた人物と考えていたCが、B市市会議員選挙に出馬したので、Xは是非Cのために投票したいと考え、公職選挙法
23条に基づく選挙人名簿の縦覧を行ったが、自分の氏名が登載されていなかったので、同法24条に基づきB市選挙管理委員会(以下、Yという)に対し、異議の申し立てを行った。これに対し、Yは、地方議会議員選挙における名簿登載資格は同法20条の定めるところにより「選挙人名簿の登録は、当該市町村の区域内に住所を有する年齢満二十年以上の日本国民(第十一条第一項若しくは第二百五十二条又は政治資金規正法 (昭和二十三年法律第百九十四号)第二十八条 の規定により選挙権を有しない者を除く。)で、その者に係る登録市町村等(当該市町村及び消滅市町村(その区域の全部又は一部が廃置分合により当該市町村の区域の全部又は一部となつた市町村であつて、当該廃置分合により消滅した市町村をいう。次項において同じ。)をいう。以下この項において同じ。)の住民票が作成された日(他の市町村から登録市町村等の区域内に住所を移した者で住民基本台帳法 (昭和四十二年法律第八十一号)第二十二条 の規定により届出をしたものについては、当該届出をした日)から引き続き三箇月以上登録市町村等の住民基本台帳に記録されている者について行う。」とされており、A国籍を有するXはこれに該当しないとして、異議申立てを却下する処分を行った。そこで、XはYを相手取って、同法
25条に基づき、処分取り消しの訴えを提起した。その訴訟において、Xは次の
2点を主張した。一 日本国憲法
93条2項は「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」と定めており、XはB市の住民であるから、地方選挙における選挙権を認めるべきであり、地方選挙における選挙権者を日本国籍保有者に限定している公職選挙法20条は憲法に違反する。二 国際人権B規約
25条は、「全ての市民」に対し、「直接に、又は自由に選んだ代表者を通じて、政治に参与する」権利を保障しており、B市の市民であるXにB市における選挙権を認めないのは、同条約に違反する。Xの上記二つの主張の当否について論じなさい。
[はじめに]
憲法において内外人無差別の原則が採用され、さらに国際人権規約が批准された今日、外国人の人権の排除という議論は完全に意味を失っている。その唯一の例外として、今も議論の対象となるのが、本問のテーマである、定住外国人、すなわち国籍法上の日本国籍を有していないが、それにも関わらず、わが国国籍保有者と同視しうる程度に、わが国を生活の本拠地として在住し、わが国政治と深い利害関係を有する者に、参政権を承認する余地があるかどうかである。したがって、この定住性という点に関する評価が論文の中に明確に含まれていなければ、その論文は落第答案となる。
一 外国人の概念について
本問とは直接には関係がないが、諸君の知識を整理しておくために、外国人という概念を整理しておきたい。
「国民」という概念は人類の長い歴史からみれば非常に新しい。ナポレオンが出現して、国民国家というものを作り出し、国民を基盤として戦いを展開したために、他国も、自国の居住者に国民としての意識を植え付けて、ナポレオンと戦うことを余儀なくされたのが広く国民という概念が使われるようになった時である。さらに、今日のように国籍という概念が出現し、外国を旅行するにはパスポートが必携という時代が出現するのは、遙かに遅れて、全面戦争(総力戦)が展開された第
1次世界大戦時と考えて良い。第
1次世界大戦を終結させたベルサイユ条約では民族自決原則がとられ、民族単位で多くの国が生まれた。それと共に、国家が絶対視されるようになり、互いに内政不干渉原則が取られるようになった。この時代においては、国民と外国人の区別が絶対視されるようになったのである。しかし、それが第
2次世界大戦という悲惨な結果を導いたことから、第2次世界大戦後は、再び国民と外国人という区別を、特に人権において否定するようになった。それが[はじめに]に述べた内外人無差別原則である。今日、最大の問題はこの「原則」の例外がどの範囲において認められるか、という点に存在している。外国人ということを単純に定義すると、第
1次大戦後の概念に照らすと、日本国籍を有しないものとなる。そこには、外国籍を有する者と無国籍者が存在する。しかし、今日の憲法学において、この意味の外国人全てに認められる例外はないから、憲法学的に「外国人」というものを議論することは意味はない。外国人という一般的な概念に代わって、今日論じられるのは、次の
3概念である。一般外国人
難民
定住外国人
これらの概念は、どのような人権について、どのような例外を認めるか、という観点からの分類である。
@の一般外国人は、典型的には観光客や密入国者である。外国人に特に関係する人権について例外が認められるか否かが議論の対象となるものである。例えば、出国の自由や入国の自由等が、その中心となる。
Aの難民は、直接には国連難民条約に定められる難民である。難民は、世界主義の下に、例えば入国の自由が認められるなど、極めて強い内外人無差別原則が認められている。わが国は、難民条約を批准した際に、国内法から外国人を差別した条項のほとんどを削除している。例えば、国民年金や国民健康保険は、その名称にも拘わらず、内外人に無差別に適用になる。かつて、外国人は社会権の主体にならないという説が強く唱えられたが、この説は、今日では現行法の全てを違憲と主張しない限り不可能になっている。
Bの定住外国人とは、日本国籍を有しないという点を除けば、日本国民と同視しうる程度に日本を生活の本拠地としている人のことである。生活の本拠地としている程度に応じて、出入国管理法上の一般永住資格者(本問の
Xはこれに当たる)、日韓条約等に基づく永住資格者、それ以外の定住者に分類することができる。一般論として述べるならば、定住外国人については、その生活実態を重視し、可及的に日本国民と同様の人権保障がなされるべきである。その結果、本問の場合が例外となるかどうかが問題となるわけである。
二 定住外国人の参政権 総説
今日、定住外国人の参政権は、世界的におおきな問題になっている。
欧米などでは、定住外国人は人口の十数%から数十%という高い率に達するため、これら定住外国人をどのように処遇するかは、国家にとり深刻な問題であり、したがってそれを解決するため、様々な政策的取り組みが行われてきた。その場合、多くの国では、国政レベルと地方政レベルについて立法を分け、定住外国人に対して地方参政権を許容する例が増えてきている(2010年時点では、地方参政権について認める国は
39ヶ国、国政レベルについても認めるのは11ヶ国)。近隣の国家としては、韓国で2005年6月に「永住外国人に対する外国人地方参政権付与法」が可決されている。これに対してわが国では、在日外国人が急速な増加を見せた現時点においてすら、外国人登録をしている人数は全国総人口の
2%弱に過ぎず(法務省の外国人登録者統計によれば、2007年末現在、我が国の外国人は215万2,973人であり、総人口の1.7%)、さらに定住者と認めうるのは広く見ても、せいぜいその7割弱(2007年末では、一般永住者49万2,056人、特別永住者42万0,305人、定住者25万8,498人、日本人の配偶者等24万5,497人、永住者の配偶者1万7,839人、計143万4,195人で、外国人登録者数の66.6%)という低さから、本質的には大きな社会問題となり得なかった。しかし、地域によっては多数の外国人が居住していることもあり(例えば岐阜県大垣市は外国人が住民の10%を越えている)、欧米諸国における施策に刺激されてわが国に定住する外国人自身による参政権訴訟が相次いだことから、わが国の学説でも、これが論じられるようになってきた。そうした外国人参政権訴訟の中でも、次の
2件については、最高裁が判決を下した。2小法廷平成5年2月26日判決) (一) 在日英国人が参議院選挙権を求めるヒッグス・アラン訴訟(最高裁第
(二) 在日韓国人の地方選挙における選挙権、被選挙権を求める金正圭訴訟(最高裁第
3小法廷平成7年2月28日判決)このうち、前者では、裁判所は、マクリーン事件最高裁判決を引用しつつ、参政権については日本人に限られるとして単純に退けているにすぎず、内容に乏しく、表現にも新味がなかったため、社会にあまり大きなインパクトは与えなかった。
これに対して、後者に対しては、最高裁第
3小法廷は、その判決中で、立法論的には外国人の地方参政権を肯定する余地がある、と述べた(以下、「平成7年判決」という。)。外国人参政権問題に関しては、この判決から、にわかに議論が活発化した感がある。平成
7年判決の中には、大別して二つの判断が存在している。第一の判断は次の箇所に現れている。
3章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法15条1項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び1条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第8章は、93条2項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法15条1項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法93条2項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。」 「憲法第
すなわち、ここでは三つのことが断言されている。
第一に、参政権者とは国民主権原理の下においては、国民のことのみをいう、という点である。
第二に、国民とは、国籍保有者のことをいう、という点である。
第三に、地方自治に関する伝来説にしたがって、住民とはその地方公共団体に住む国民をいう、という点である。
これらの点について、本判決が違う判断を下した、という錯覚を持っている人が時々いるので注意してほしい。
この点については、上記のヒッグス・アラン訴訟をはじめとする多数の定住外国人参政権問題に関する判決によって従来から示されてきたところから、ほとんど一歩も出ておらず、判例としての新味はない、ということができるであろう。
それに対して、この判決が広く社会の関心を呼び、一般新聞の第一面トップにさえも掲げられたゆえんは、次の論述にある。
93条2項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第8章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。」 「憲法
これは、文章がきわめて短く、内容が不明確なため、どのような憲法学的構成からこういうことを述べたのかは、はっきりしない。しかし、前半の記述と対比してみれば、少なくとも地方自治体の場合には、住民以外のものであっても、選挙権を付与することが可能である、と主張していることは明らかである。また、本訴訟が参政権、すなわち、選挙権と被選挙権の双方を求めて提起された訴えであることから考えると、そのうちの選挙権だけを付与する余地がある、と述べたものと読むのが妥当であろう。
こうして、この問題が立法課題として浮上したことが、社会に大きな反響を呼ぶことになったのである。
三 学説の状況
「禁止」「許容」「要請」は、規範的命題の基本的カテゴリーであるが、本問題に関しても、この三類型の学説が存在している。すなわち、禁止説は、外国人に参政権を与えることは、憲法の禁止するところであると解する。要請説は、逆に外国人に人権を与えることが憲法の要請であり、したがって与えないことは違憲であると解する。許容説は、その中間にある説で、外国人に参政権を与えるか否かは立法裁量の問題であって、いずれも許容されていると解する。
近時、本最高裁判決の影響を受けて、国政と地方政とで分けて論ずる立場が増加しているから、その要素を加えてこれをさらに細分化すると、@全面(国政、地方の両者)禁止説、A全面許容説、B全面要請説という従来から存在していた説の外に、最近では、その中間説として、C国政禁止・地方許容説、D国政禁止・地方要請説、E国政許容・地方要請説など、組み合わせ的に考えられるかぎりのバラエティが出現してきている。
更にこの組み合わせでは説明できない特殊な学説がある。それは、定住外国人を旧植民地人とその他の定住外国人の二種に区分して、別々に論ずるという説である。すなわち朝鮮人や台湾人は、旧憲法下においては、わが国の国策の一環として日本国籍をいったんは付与されていた。しかし、第二次大戦後の混乱状態の中で、国民の間ではもちろんのこと、国会においてさえも本質的な議論を全く行うことなく、一片の法務省民事局長通達に基づいて、日本国籍を剥奪された。植民地支配を行っていた国が、旧植民地に独立を認めるに際しては、旧植民地人に対して宗主国の国籍を保持するか放棄するかの選択権を認めるのが国際的な慣例であるのに、そうした選択の機会は全く与えられることなく、一方的に剥奪された点に、この時の大きな特徴がある。このことから、日本国籍を剥奪された旧植民地出身者と、その他の定住外国人とを区分して、前者について要請、後者について許容という立論を行う説が存在する(江橋崇「外国人の参政権」樋口・高橋編『現代立憲主義の展開(上)』有斐閣、
1993年刊、199頁参照)。今ひとつの特殊な説は、定住外国人を永住権者とその他の定住外国人に区分して別々に論ずるという説である。例えば民主党がその実現を選挙公約として掲げたことから、再び関心を呼んでいる外国人地方参政権法は、正式名称を「永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」といい、この立場に立っている。どのような根拠から、永住権者とその他の定住外国人を区分しているのかは、この法案からははっきりしないが、例えば次のような説が存在している。
3版、日本評論社2008年刊、149頁より引用 「日本では、ドイツの議論等に依拠して定住外国人という概念が多用されているが、この概念の用法は一定せず、法制上の用法とも異なる。そこで、この紛らわしい用法を棄て、現行法上の区分によって『永住者』(ないし永住外国人)の概念を重視すべきと考える。そのような前提に立つと永住者(一般永住者及び特別永住者)を『永住市民』として、国民に準じて国制参政権も地方参政権も持つことを理論的な帰結とする見解が成立しうる。」辻村みよ子『憲法』第
いつも説明するとおり、国家試験の論文のレベルでは、他説への批判は書く必要はない。しかし、上述の通り、この第二の説は、国会の審議の行方にも依るが、わが国の実定法となりうるものである。そこで、この説に論及する必要は全くないが、法曹の一員として、諸君はこの説に対する態度を決めておく必要がある。そこで、この説の問題点は、本稿の最後に整理しておいたので参考にしてほしい。
以上に述べたところから、本問のような定住外国人の参政権に関する論点は判ったと思う。すなわち、第一に国民主権の意義であり、第二に参政権の意義であり、第三に国民概念と住民概念の異同であり、第四に選挙権と被選挙権の異同ということになる。ただし、本問では第四の点については、論点から外してあることが問題文から明らかである。
四 憲法上の国民の意義
(一) 参政権の主体
平成
7年判決で、一番問題となる部分は、憲法15条1項の規定は「国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものに他ならないところ、主権が『日本国民』に存するものとする憲法前文及び1条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有するものを意味することは明らかである。」とある箇所であることは明らかである。憲法
10条は、国籍保有者を、法律で定めるとする。そして、国籍保有者が誰か、ということに関する一般法は、国籍法である。公職選挙法は、理論的には国籍法とは別個に0条に言う法律として国民概念を定めても良い。しかし、現行法は、問題文にも明らかなとおり、この国籍法の定める国民概念をそのまま利用して参政権者を決定している。確かに、一般外国人には、参政権を認める必要はない。参政権の主体は、国民主権の直接の結論として、国民を構成する者に限られると解するのが妥当だからである。すなわち、国民主権原理は、憲法の基本原理であるところの個人主義から導かれる政治における自己決定権の一形態であるから、選挙人の範囲を少なくとも主権者たる国民の一員に属するものに限ることを要求していると解するのが妥当である。憲法
15条が、公務員の選定権を「国民固有の権利である」としているのは、この趣旨を示すものと解せられる。(二) 主権者としての日本人の概念
ここで問題となるのは、日本人という概念の定義そのものである。平成
7年判決の表現に従うならば、この平成7年時点における国籍法により国籍を与えられている者だけが、国民主権にいうところの国民概念を充足する、ということになる。しかし、これは論理の逆転というべきであろう。すなわち、国民主権にいう国民とは憲法を制定する権力の保有者である。その憲法
10条が国民を法律で定めると言い、それに基づいて制定されたのが国籍法である。したがって、この最高裁の説は、憲法制定権力の保有者たる国民を、憲法よりも下位の法律の定めるところにより決定されると主張しているに他ならないからである。国籍法は、決して憲法の一部ではなく、いわんや不磨の法典ではない。他の通常の法律と全く同じように、社会の必要や問題意識のあり方に応じて、常に修正を受ける存在であるに過ぎない。
現に、現行国籍法は、エステル・華子・シャピロ事件(東京高等裁判所昭和
57年6月23日判決)によって国籍法が従来疑うことなく採用してきた父系主義の憲法秩序的妥当性に疑問が表明され、同時に女性差別撤廃条約を批准した結果、国会がこれを受けて、父母両系主義に全面改正していたものである。この改正の結果、その時点における多くの無国籍者が日本国籍を取得している。また、国籍を保有する者の外延を決定するのは、法解釈に関する通達である場合も多い。アンデレ・リース事件(最高裁平成
7年1月27日第2小法廷判決)で、血統主義そのものに疑問が表明され、限定的にではあるが属地主義が拡大された。この結果、この判決を受けて発せされた通達に従い、従来、日本人と認められていなかった多くの無国籍者に対して、その時点でやはり日本国籍が与えられたのである。近時においては、婚姻関係にない日本人の父と外国人の母の間に生まれた子が、出生後に認知を受けた場合に、準正がない限り国籍取得を否定していた国籍法
3条が違憲とされ、国籍保有者であることが認められた(最高裁平成20年6月4日大法廷判決)。このような法改正や解釈変更によって新たに国籍保有者と認められた者は、それ以前には国籍法の観点からすれば無国籍者であったわけだが、彼らが憲法上の国民に属さなかったというのは明らかにおかしい。国籍保有者と扱われる以前から憲法上の国民の一員であったからこそ、国籍保有者と扱う法改正等が許されたと考えるべきである。したがって、特定時点で日本国籍を有する者の総体を、憲法でいう主権者たる国民と同視したのは誤りというべきである。
そもそも近代国家においては、いかなる個人に自国の国籍を与えるかは、原則として国家の自由にまかされているといわれる。しかし、それは、日本国民の要件の決定を完全に国会の自由裁量にゆだねたという意味ではない。
憲法
10条は、日本国民たるの要件は法律で定めるべきことを規定する。これは国籍決定権の根拠は、主権そのものにあること、本条は、それを前提にして、この権力の行使権が国会にあることを明らかにしたものである。国籍決定権の根拠が主権にある、ということは、国籍保有者の外延が、憲法でいう主権者たる日本人に限られねばならない、ということを意味する。その上で、その主権者たる者のうち、どの者に国籍を与えるかに関し、一定の裁量権が国会に認められるという意味であるに過ぎない。当然のことながら、主権者とは、特定の時点における法律のレベルで日本国籍を有すると定められている者の総体ではなく、憲法解釈上、それに先行して、日本国民と観念されるもののことでなければならない。すなわち、国籍法改正権の外延として、広い国民概念が要請されることになる。
そのような広い国民概念の基準を何に求めるかについては説の分かれるところである。私は以下のように考える。
そもそも国家という理念は、近代民主主義革命の嫡出子である。近代国家が出現する以前は、ルイ
14世の「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、国家とは同一人に忠誠を誓う人の集団であった。したがって、その忠誠の対象である人が死亡、退位その他の理由で存在をやめたり、あるいは人々が忠誠の誓いを放棄した場合には、その瞬間に崩壊するような脆弱で一時的な存在でしかなかった。しかし、フランス革命に代表される市民革命の過程で、主権者としての君主に変わる概念として国民概念が必要となったのである。しかも、市民革命は、法理論的には自然法思想に立脚したものであったために、市民の概念は、国家以前に先験的存在するものと構成するほかはなかった。今日のわが国法学の基本である法実証主義の下においては、国民概念は、現実の社会を支配している理念にのっとって決定されなければならない。
こうして、主権者である総合人としての日本国民の構成要素たる個々の国民概念について検討する必要がある。この場合、国民主権に関して、学説的には、狭義の国民主権と考える立場と、いわゆる人民主権と考える立場の対立がある。この点について深入りすると、本講の論点がぼける恐れがあるので、ここでは、結論として、私は狭義の国民主権説を支持している、と述べるにとどめる。
狭義の国民主権説に立つ場合、主権の主体としての日本国民は、例えば、憲法前文に「われらとわれらの子孫」という表現があり、また、
11条や97条に、「現在及び将来の国民」という表現があることからも明らかなとおり、単に「現在」という一瞬に存在する日本人ではなく、将来の日本人をも含み、さらに現在という瞬間は絶えず未来に向けて移動していくことを考えると、過去の日本人をも含む概念と理解される。すなわち、過去、現在及び未来に存在するすべての日本人の総和が、憲法が考える主権の主体たる日本国民であると解されることになる。ここで問題は、何をもって主権者たる国民概念の外延を画する理念とするかである。
狭義の国民主権概念を採用する場合、その基本理念は「治者と被治者の自同性」にあることは異論がないと思われる。したがって、治者としての日本人の外延は、被治者である点に求めることができる。すなわち、恒常的に日本国の支配に服している者は、同時に治者のとしての日本人の構成要素に他ならない、ということが、国民主権原理そのものから導くことができる。そして、現行国籍法により日本国籍保有者とされている者以外に、特定の時点において、この被治者としての地位にあるものは、わが国に定住する外国人である。こうして、定住外国人に国籍を付与することの可能性を導くことができる。
また、国民主権理念においては、現在という一瞬に存在する国民は、全国民概念のごく一部を構成するにすぎない。過去及び将来の国民もまた主権者たる国民である。将来の国民が主権者たる国民に含まれるということは、将来において、わが国国民たらんとして来日する人は、すべて、主権者たる国民に含まれるということである。ここから、国会が広く、海外にわが国対する移民を求める意図で国籍法を改正する権限を有することを、主権論的に認証することができる。
ただ、このように観念的に主権者たる国民とされるもののすべてを、あらゆる時点で日本国籍保有者とする必要はない。特に将来の国民の場合、未だ誕生していない外国人を含む概念である。ここから、国会が、特定の時点で日本国籍保有者として保護の手を伸ばす対象となる人の範囲を決定する権限を導くことができる。この裁量権を承認した規定が、憲法
10条であると理解することができる。同時に、このような裁量権は、特定人に日本国籍を強制する力を持ち得ないことも認識しておく必要がある。優秀な人材を世界から招致するには、帰化を日本側の恩恵とするのではなく、法定の条件を満たせば、帰化をするか否かは個人の側が選択できるという状態にすることが必要であることは政策面からも明らかといえよう。が、それ以上に憲法的要請であるということができる。現行憲法を貫いている個人主義の思想は、権利といえどもそれを強制されることがないことを保障している。国籍に関して、そのことは、憲法
22条2項が国籍離脱の自由という側面において明記しているところであるが、同じ保障は、国籍獲得の側面においても働くものと考えるべきである。したがって国籍は、国家の恩恵として付与されるものではない。国会の裁量したところにより決定される一定の要件を具備している個人に対しては、個々人が希望した場合には、自動的に付与されるものでなければならない。(三) 国政レベルと地方政レベルの区分
地方自治の本旨として、今日、固有説を採る者はない。制度的保障説や新固有権説など、学説の対立はあるが、基本的にすべて伝来説を採用していることは諸君の知るとおりである。したがって、どの学説を採ろうとも、基本的に、地方政を支配しているのは国民主権原理である。特に、制度的保障説を採り、住民自治の概念を採用している場合、住民とは、最高裁の言うとおり、その地域に居住する国民と解する他はない。その意味で、憲法学的に国政レベルと地方政レベルで、選挙権者を区分して考えることが出来る、とする説は成り立たない。
また、地方議会が参政権者について独自の条例を定めることもまた、許されない。なぜなら、地方自治の本旨に関し、憲法
92条は「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」と述べており、それは法律の専管事項だからである。しかし、そのことと、国会がその有する立法裁量の行使として、国政と地方政を分けて規定することは別問題である。その論理はどのように展開されるのか、以下に見てみよう。
(四) 国籍概念と参政権
普通に我々が、国籍と呼んでいるものは、実際には一連の権利の束であって、単一のものではない。現在のわが国では、この権利の束は、通常は、一括して行使できるかできないかの二者択一となっているが、これは決して論理の必然ではない。合理的な根拠があれば、国籍と呼ぶ権利の束を分割して、国籍概念を構成している権利の一部をある国民に保障し、他の国民には保障しない、とする立法を採用することが可能である。
参政権は、この国籍を構成する権利の一つであるが、これもまた単一の権利ではない。そして、参政権に関しては、わが国もまた、明確に分割して一部の者に保障するという立法を採用している。このような分割が可能なのは、先に述べた国民主権論の一つの帰結である。すなわち、主権という概念について重要なことは、分有主権ということは考えられないということである。かつて、ボーダンは、王権神授説を前提として、主権について、国家の絶対かつ恒久的権力であって、最高、唯一、不可分のものであり、すべての国家にとって不可欠の要素である、と説いた。その後、人民主権、国民主権など幾多の主権概念が出現したが、主権の基本的属性についての理解としては、今日においても基本的にこのボーダンの考えが妥当するとされている。
したがって国民主権原理の下においては、総体としての国民が主権者なのであって、個々の国民そのものは決して主権者ではなく、単にその構成要素であるに過ぎない。その結果、総体としての国民を構成する者のうちの誰に参政権を与えるかは、国会自身が決定しうる、とする原理を導くことができる。フランス
1791年憲法は、財産を基礎とする制限選挙を認めていた。同様に、イギリス、アメリカその他いずれの近代民主主義国家においても制限選挙が一般的形態であったのは、このような理論的必然性による。この段階においては、参政権は、国民固有の権利ではなく、むしろ公民としての義務であった。その後、各国で積極的に普通選挙運動が展開されて憲法的保障の対象となった結果、今日では、一般に、人種、信条、性別、社会的身分、教育、財産によって選挙権を制限することは認められなくなった。このため、参政権は一定の限度で、国民固有の権利としての性格を帯びることになり、今日では権利と義務の二重性格と捉えるのが通説となってきている。しかし、その義務的側面に基づいて、依然として参政権者の制限が可能となる。
例えばアメリカ合衆国現行憲法は、帰化者について、連邦レベルにおける被選挙権を制限している。このように憲法自身で制限している場合は当然であるが、国民主権原理をとる限り、有権者の範囲は基本として国会の立法裁量に属するという原則が今日においても貫かれている。このことは、わが国現行憲法
44条本文で「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める」と宣言していることに明らかである。すなわち、それは日本でも国会の立法裁量に属するのである。現実に、公職選挙法は、現行国籍法上、れっきとした日本国籍保有者である者に対して、
20歳未満の者、転居後3ヶ月以内の者、一定の犯罪を犯した者等の要件の下に、参政権を否定し、あるいは制限している。また、選挙の種類に応じて、被選挙権を、ある場合には25歳以下の者に、ある場合には30歳以下の者に、それぞれ否定している。わが国では、これまで帰化者の参政権について、その一部を制限する、という立法政策を採用したことはなかった。が、アメリカ合衆国現行憲法と同様に、わが国でも帰化者の参政権の一部を制限するという立法政策は当然に許容されることとなろう。
(五) 国籍保有者概念の区分的運用について
上述のように、国籍保有者概念なるものが、一定の権利の束であって、それを区分して個々の権利ごとに保障し、あるいは剥奪することが可能であることを前提とすると、観念上、国籍保有者という概念を、統一的に理解しなければならないという必要性は失われる。すなわち、ある法律関係では、国籍保有者としての権利が保障されるが、他の法律関係では否定されるという、区分的取扱いは、それを必要とする合理的根拠さえ存在すれば、憲法
14条に違反することなく、実施することが当然に許容されるべきである。また、国籍法と公職選挙法は、同格の法律である。しかも、国籍法が、日本国の庇護の対象となる国民の範囲を定めているのに対して、公職選挙法は、選挙人等の資格を定めている。すなわち、相互に適用範囲が異なる法であって、決して一般法と特別法の関係に立つものではない。したがって、わが国国籍保有者として旅券の交付を受け、海外において日本国民としてわが国政府の保護を期待する地位を有する者と、わが国国内において国籍保有者として参政権の主体となれる地位を有する者とを、同一の基準で統一的に決定しなければならない、という理論的理由はない。主権者たる日本国民に属すると憲法上観念される者の範囲に属してさえいれば、公職選挙法が、国籍法とは異なる独自の基準で国籍保有者の資格を定めることは許容されるものと言わなければならない。
ここに段階的市民権(
denizenship)という概念を導入することが可能となる。これは現実に多数の外国籍定住者が存在する欧州で、彼らが政治的決定過程から排除されるという国民国家における民主主義の矛盾を解決すべく、永住者に参政権を与えたり、または二重国籍(dual citizenship)を認めて永住者の帰化を奨励するなど様々な方策を追求する一環として、北欧諸国で誕生したものである。ここでは、従来の国民と外国人の二分法から三分法へ移行し、国民と外国人の中間概念を明確に設定しているところに特徴がある。つまり、純然たる外国人と、参政権の全面的保有者である市民(citizen)の中間段階としてのデニズン(denizen)という存在を考えることにより、外国人の内国民化を容易にしようとしているのである。現行国籍法上、国籍保有者とされない者、すなわち定住外国人であっても、公職選挙法としては、その独自の基準に基づいて、そのうち一定の範囲の者に対して日本国民として、参政権を授与することが許される。逆に、国籍法上日本国民とされる者に対しても、公職選挙法としては、その独自の基準に基づいて、一定範囲の参政権を制限することが、可能なのである。そして、後者については前述のとおり、既に採用されているところである。また、その過程において、地方参政権は許容するが、国政参政権は否定するとか、いずれについても、一定期間被選挙権を否定する、等の中間的な立法裁量の余地を認めることができるであろう。現に国政レベルと地方政レベルとで、定住外国人の参政権を区分して考える説が指摘するとおり、両者の間には様々な法的異質性があるのであるから、それらを踏まえて異なる法制をとることが当然に可能と言わなければならない。
同様に、選挙権と被選挙権を分けて、前者については肯定するが、後者について否定する、という方法も、政策衡量の問題として、この立場では理解されることになる。
五 国際人権規約における市民概念について
小問二で、市民的及び政治的権利に関する国際規約
25条にいう市民概念が問題になっている。しかし、これはそう難しい問題ではない。他の人権規約の条文が「人」を主語にしているのに対して「市民」を主語としており、少なくとも、これがすべての人に共通に認められる人権ではなく、自らが市民と認められる国との関係においてのみ、認めうる権利であることを明らかにしている。さらに、同規約は世界人権宣言を発展させ、法規反省を持たせた者であるが、宣言
21条は「すべての人は、直接に又は自由に選出された代表者を通じて、自国の政治に参与する権利を有する。すべての人は、自国においてひとしく公務につく権利を有する。……」と定めている。これらに照らすと、B規約25条の「すべての市民」が自国に在留する外国人に対して地方参政権を保障しているものと解することはできない。
補説 現行法制における永住権者を基準とする説及び法案について
<いつも強調するとおり、他説に対する批判は小論文では書く必要がない。したがって、以下の記述は単なる参考にとどめてほしい。>
定住外国人のうち、どのような要件を備えた者に対して、段階的にどのような市民権を与えていくかは、基本的には立法政策の問題であるが、ここで特に注意を要するのは、現行法制で永住権を与えられている者を対象として、一定の参政権を与えるという説が存在することである。冒頭に紹介した
144国会に提出された「永住外国人に対する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権等の付与に関する法律案」も、その名称に示されるとおり、現行法制において永住権を有する者に限定して地方参政権を与えると規定している。しかし、そのような法制は、現行憲法44条違反となって許されない、と解する。すなわち、憲法
44条但書は、選挙権を認めるに当たって、「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産または収入」による区別を導入することを禁止している。これは、それらを理由に不利な取扱をすることを禁じているだけでなく、有利な取扱も禁じていると解するべきことは、普通選挙の歴史に鑑み、明らかである。現行法制では、永住権者には二種類がある。第一は出入国管理法に基づき永住権を与えられている者(以下「一般永住権者」という。)であり、第二は「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(平成
3年11月1日施行)により、永住権を与えられた者(以下「特別永住権者」という。)である。一般永住権者の場合、永住権を獲得するための条件は、独立の生計を営むにたりる資産または技能を有することである(出入国管理法
22条2項)。この結果、資産を有することを理由とする場合は「財産」による差別に該当し、技能を有することを理由とする場合は「教育」による差別に該当することになり、いずれも44条但し書きに該当することになる。また、特別永住権者の場合、朝鮮民族または中国民族に属しているということを理由とする永住権であるから、同じく但書にいう「人種」による差別に該当する。
したがって、現行法制における永住権者は、一般永住権者の場合も、特別永住権者の場合も、いずれも憲法
44条但書に抵触することになるので、そのような身分を持つことを理由に参政権を付与することは、違憲といわざるを得ない。永住権者という現行法上の明確な概念に変えて、定住外国人という、講学上の、したがってその限界が不明確な概念を使用しなければならない理由はここに存在する。同法で問題となっているのは地方参政権で、憲法
44条は直接には妥当しないが、同条の意義が制限選挙の禁止にあることを考えると、地方選挙の場合にも、憲法14条違反として考えるのが妥当であろう。したがって、国会としては、この定住外国人に該当する者の中から、人種、教育、財産、収入による差別にはならない範囲で裁量権を行使して、適当と認める基準をたてて、それを満たす者を対象として参政権を付与するべきである。