校則と教育を受ける権利

甲斐素直

問題

 私立高校Yは、清潔且つ質素で流行を追うことなく華美に流されないまじめな態度を保持するという教育方針を創立より有しており、この方針は同校の生徒の保護者から多くの支持を受けており、入学希望者に対する説明会などではこの学校の特色として紹介され、この高校の校風として有名であった。

 Yは、この教育方針に基づき、校則において、生徒がオートバイの運転免許を取得したり、オートバイを購入したり、乗ったりしない事(就職活動等で真に必要とされ、その事実を学校が認め、許可を与えられた場合は例外)、髪の毛にパーマをかけたり、髪の毛を染めるなど、華美な髪型をすること、香水などを使用することを禁止した規定を定めており、さらに同規定に違反したものは退学処分とすると規定していた。

 Yの生徒であるXは、2年生最後の春休み中に学校に無断でバイクの免許を取得し、親の買い与えたバイクを乗り回すようになり、春休み明けの4月の始業式にそのバイクで登校したため、生活指導の教師から厳重に注意を受けた。それにも拘らず、その後もY周辺でバイクを乗り回すことをやめず、繰り返し注意を受け続けた。Yは、夏休み直前の7月の初旬、再三の注意に対しても全く行動を改めようとしない為、Xに対して3日間の停学処分を下した。するとXは停学明けから、夏休みに入るまでの数日間を欠席し、そのまま夏休みに入った。

 夏休み中に、Xは同級生Aにバイクを貸したところ、同人は無免許であるにも拘わらず運転中、警官に呼び止められたため運転を誤って通行人Bに衝突し、Bに全治3カ月の重傷を負わせたが、そのまま現場から逃走した。Aは、Xと相談した結果、事故を警察及びYに報告しなかった。しかし、間もなくAは逮捕され、Yに、Xが事故に関係していることが発覚した。

 Yは、Xが、無断でオートバイ免許を取得するなど校則に違反し、さらに再三の注意に対して耳を貸さず校則違反行為を続け、停学処分まで受けたにも係わらず反省するどころか、同級生まで校則違反に巻き込み、轢き逃げ事件の原因を与えたことを重く捉えつつも、Xが3年生であることを考慮して、拒んだ場合は退学処分にするとしつつ、10月1日付けで、自主退学をするよう、勧告した。

 Xはこの勧告を拒んだため、Yは、12月1日付けで退学処分を下した。

 これに対し、翌年4月、Xは、そもそもYの校則のオートバイ規制に関する規定は憲法に違反して無効であり、ひいては退学処分自体が無効であるとして、Yに対し、卒業認定及び卒業証書の授与を求めて訴えを提起した。

 本問における憲法上の問題点について論ぜよ。 

[問題の所在]

 本問は、基本的な論点としては、そもそもオートバイに乗る権利が人権となりうるかという問題がある。しかし、それを議論すると、本問は大変な難問になる。なぜなら、それは第一に、人権の本質をどういう点に求めるかという問題と直結している。そして、特に人格的利益説に立つという結論を下した場合には、自己決定権の一環としてのライフスタイルの決定権として把握するほかはない。この自己決定権の議論も、ライフスタイルの議論もかなり難しい。今の君達のレベルでは無理なので、この議論は避けて通った方がよい。

 そこで、本問では校則という問題についてもっぱら論じることとしたい。

 今回の問題、私は諸君の方から出されたものを単純化させただけで、基本的な修正をしていない。そして、本問の特徴は、Xの行為は校外における問題だという点にある。毎日の登校にバイクを使用したとか、パーマをかけて毎日登校したとか、あるいは必修とされている剣道を履修しなかった、長期にわたって無断欠席したなどという学内の行為に対する処分を論じた問題とは、本問は明らかに異質なのである。

 このような校外における行為を、校則違反として、そもそも処断しうるのであろうか。少なくとも作問者の基本的な問題意識はそこにあったはずである。

 残念ながら論文提出者の全てから無視されて、26条について論じてくれた人はいなかった。しかし、わが国では高校教育は義務教育とはされていないが、現実問題としてほとんどの都道府県で99%までが高校を終了している。その中で、学業とは関係のない理由で高校中退となった場合、たとえ学歴が不問とされていても大企業やホワイトカラー職種への就職は不可能となり、ブルーカラー職種への就職も困難となる。したがって、不当な退学処分は明らかに健康で文化的な最低限度の生活権の侵害であり、したがって教育を受ける権利が問題になることは、理解できると思う。

一 校則に対する司法審査

 国公立学校なのか、私立学校なのかで、若干の違いがあるにせよ、従来からわが国裁判所は、学校内部で発生した問題に対して、司法審査を控えるという傾向を明確に示してきた。そのための理論として、判例が発達させたものは、幾つかある。代表的なものを紹介しよう。

(一) 私人間効力説

 昭和女子大事件で採用したのがこれである。すなわち、私立学校で、学生が校則違反で退学処分を受けた場合に、人権の私人間効力説を適用し、退学処分が民法90条の公序良俗違反といえるほどに極端な場合を除き、司法審査をしないとしたものである。しかし、今日においてこの問題が起これば、(三)に述べるいわゆる部分社会論の問題になるはずである。

(二) 特別権力関係論説

 国公立学校では、学校側の学生に対する処分に司法審査をしない理由として、私人間効力説が使えないので、その代わりにかつて使用された説である。例えば、次に紹介する富山大学単位認定事件における下級審は、この説を使用していた。

(三) いわゆる部分社会の法理説

 富山大学単位認定事件で、明確に導入されたのが、この説である。学校の自律権を根拠として、その自律の範囲内に属する問題については、司法審査の対象にならないとする。しかし、本問の場合、退学処分に発展しており、富山大学事件における大学院生のケースに相当するから、司法審査が必要であることは明らかである。

(四) 行政裁量説

 同じく国公立学校において、学校側の学生に対する処分行為を行政処分と捉え、学校当局の行政裁量権に属する限りにおいては、当不当の問題であって、合法違法の問題ではない、という論理の下に、司法審査を控えるという論理である。熊本県公立中学丸刈り強制校則事件などは、これによったと読むこともできる。しかし、神戸高専剣道必修事件最高裁判所判決は、退学という重要な処分を行うに当たっては、その裁量権に大きな制限が加わることを明らかにした。本問は私立学校のケースであるので、そもそもこの論理は妥当しないが、公立学校であったとしても、裁量権にどのような制約が働くかは検討しなければならない。

(五) 就学契約説

 教育法学界の現時点における通説とも言える説で、校則を就学契約の内容として拘束力を認め、その拘束力を認められる範囲内では、契約の効力として問題を処理するという方法である。上記の各説のように、直接に司法審査を回避しているわけではないが、実際に運用の詳細に踏み込まない点で、同様の効果を有する。しかし、この説を採用した場合にも、退学という終局的な判断、すなわち就学契約の破棄にまで発展しているので、そのような重大な判断を支えるだけの重大な契約不履行がX側に認められるか否かが大きな論点となる。

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 本問が、国公立学校なら、最初の私人間効力説を除くいずれかが使用できる。本問のように、私立学校の場合には、私人間効力説、いわゆる部分社会の法理説及び就学契約説のいずれかが使用できる。どれを採用するかは、諸君の基本書と相談して決めてくれれば良く、どれが正しく、どれが間違いとは言えない。ただ、今日においては高校以下のレベルでは就学契約説をきちんと展開できるように努力した方がよい。

何人かの諸君が、未成年者の人権をひたすらパターナリズムから説明する姿勢を示していたが、これは、児童の権利条約以前の古い発想といえ、米国のように、同条約を批准していない国ならともかく、わが国では今日とうてい通用する議論とはいえない。

 理論的にはここから児童の権利条約について議論を発展させても良いのだが、冒頭に述べたとおり、本問で問題になるのは教育を受ける権利であり、現行憲法上明確に存在しているので、特に児童の権利条約に踏み込んで論じる必要はない。

二 校則に基づく教育を受ける権利の排斥

 校則は、いわゆる校内暴力を何とか鎮静し、学園秩序を取り戻そうとする努力の過程において、その場その場での教師の思い付き的な規制ではなく、一貫性ある指導方針を提示する手段として現れてきたもので、それ自体としては十分に合理性ある発想ということができる。

 問題が発生するのは、それがその制約を受ける児童生徒側(父兄も含めて)の同意なく学校当局によって一方的に決定され、しかもその内容に、単なる指導方針の域を超えて、服装や髪型等の極端な細部に渡る規制などが含まれており、学園秩序の域を超えた市民生活の場における行動までも規制するものとなっている場合がある点にある。

 ここで問題は、児童生徒がある学校に通うということの法的意味である。学校は、たとえば登下校の時間や制服・制帽、授業のカリキュラムその他様々な児童・生徒の行動の自由を制約する規則を制定する。本問で問題となっているバイクにおける三無い規定もそうした規制の一環として制定されたものである。

 現場においては、今日においても、特別権力関係論が有力に主張される。しかし、仮にそれに依る場合にも、在監者に対する人権制限の限界において説かれた比例原則は、当然に学校にも妥当する。その場合には論点は第2の、それが過度の規制にあたるかどうかが問題となり、あたるとした場合には、校則に準じていたと言うことは、なんら違法性を消滅させる理由とはならないと言わなければならない。

 判例は、かつては特別権力関係論ないしは行政裁量論的な理解を示していた。すなわち、公立学校における丸刈り強制に関する判決は次のように述べて、規制の対象が著しく不合理と言えないことを根拠に丸刈り校則を是認していた。

「中学校長は、教育の実現のため、生徒を規律する校則を定める包括的な権能を有するが、教育は人格の完成を目指すものであるから、右校則の中には、教科の学習に関するものだけでなく、生徒の服装等いわば生徒のしつけに関するものも含まれる」

(熊本地裁昭和601113日判決=百選46頁参照)

 また私立学校におけるバイク通学禁止校則に関する判決も同様に次のように述べていた。

「高等学校は、公立私立を問わず、生徒の教育を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも学校長は、その教育目的を達成するために必要な事項を校則等により一方的に制定し、これによって在学する生徒を規律する包括的権能を有する」(千葉地裁昭和621030日判決=なお参照百選54頁)

 しかし、この判例で問題になったのはバイク通学であって、校外におけるバイクの利用ではない。また、この判例の大きな問題は、そこにいう「包括的な権能」が何に基づいているのか、が明確に述べられていない点にある。

 特に、本問で問題となる学校外の行為の規制が、なぜ校則で可能なのかは大きな問題である。先に述べたとおり、今日の教育法学における通説的な理解によれば、それは就学契約である。すなわち、児童側の自由な選択による私立学校ないし高校以上の国公立学校ばかりでなく、学校選択の余地に乏しい小中学校の場合も、その本質は学校と児童生徒側との契約と理解されている。このことを校外における活動に投影すると、これは結局、契約によって親の持つその監護下にある児童生徒に対する監護権が学校に委任されていると理解する以外に方法はないということができる。そこでの話のポイントは、この契約は包括的委任を定めているという点にある。校則による規制は、その包括的委任の範疇に属するものである限り、必ずしも最小限度のものである必要はないし、また、事前のものである必要もない。ただし、事前に明示されていればそれが包括的委任の範囲に属しているという余地は広がるし、また、契約関係にはいるか否かの自由度が大きい私立学校の方が、契約の自由そのものが大きく制限されている公立校よりも、委任の範囲が大きくなるはずである。

 本問の場合、私立学校であり、しかも、本問冒頭のパラグラフによれば、本問で問題となった校則は、校風ということで、入学説明会などでも説明されていたというから、それを承知の上で入学したことは、校則に対する同意と認めることができることになる。

 問題は、必ずしも明確に承知していない細部の拘束力をどのように把握するかである。それは、結局、民事法でいう、普通契約約款と同様に理解することになる。すなわち、そうした細部規定が、承諾を与えた大綱の範囲内に属すると、社会の標準人が評価する場合には、その細部校則にも拘束力が認められるということである。

 平成にはいると、判決の傾向に、この学説の明確な影響が見えるようになる。すなわち、私立学校におけるバイク通学とパーマ禁止に関する事件(修徳高校パーマ退学訴訟)に関して、裁判所は次のように述べた。

「高等学校は、生徒の教育を目的とする団体として、その目的を達成するために必要な事項を学則等により制定し、これによって在学する生徒を規律する権能を有し、他方、生徒は、当該学校に入学し、生徒としての身分を取得することによって、自らの意思に基づき当該学校の規律に服することを承認することになる。勿論、学校設置者の右権能に基づく学則等の規定は、在学関係を設定する目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的なものであることを要し、学則等の規定の内容が合理的なものであるときは、その違反に対しては、教育上必要と認められるときに限り制裁を科すことができ(学校教育法11条)、これによって学則等の実効性を担保することも許されるのであり、制裁が生徒の権利や自由を制限するというだけで、直ちに右規定が無効になるということはできない。

 本件においては、原告は、修徳高校に入学することで、包括的に自己の教育を同校に託し、その生徒としての地位を取得したのであり、修徳高校は、法律的に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによって在学する生徒を規律する包括的権能を有するものと解され、右包括的権能は、在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的といえる範囲において認められる。」

(東京地裁平成3621日判決)

 すなわち、基本として就学契約説としてのスタンスを打ち出したのである。この事件については平成41030日に東京高裁が、平成8718日に最高裁がこの判決を支持して確定した。

 そこで、本問を検討してみよう。Yがこのような校則を作ることは可能であり、校風としての包括的な説明の一環に属するから、これを遵守することは、就学契約としてXに義務づけられているといえる。したがって、校則違反として停学等の措置を講じることは可能であり、そのことをXが争うことは出来ない。ただし「その内容が社会通念に照らして合理的といえる範囲」に限られる。

 問題は、第一にXの校則違反の行動がもっぱら校外に限られている点である。問題文によれば、Xがバイクで登校したことは確かに3年生の始業式時に1回あるが、そこで指導を受けると、それ以後は登校には使用していない。学校周辺で乗り回したが、それはあくまでも校外である。また、轢き逃げという刑事事件を起こしたのはXではなく、Xはバイクを貸すという行為と、事件を起こしたことを知っても警察には通報しなかったという非刑事的な行為に止まっている。学校をサボったことはあるが、それは夏期休暇前の数日にとどまっており、長期に無断欠席をした訳ではない。ちゃんと勉強してそれなりの成績を取っていたことは、退学理由に学業成績不良が掲げられていないことに明らかである。

 そして問題の第二は、停学などに止まらず、このように高校3年生の12月という、高校における学業終了の直前期という時期に、退学という究極的な処分をするほどの重大な違反行為かという点である。

 神戸高専剣道必修事件において、最高裁判所判決(平成838日)は、学内における処分は基本的に校長の自由裁量に属することを承認しつつ、結論的に次のように述べている。

「退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則133項も4個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである〈中略〉。そして、前記事実関係の下においては、以下に説示するとおり、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超えた違法なものといわざるを得ない。」

 この判決中で引用されている4個の退学理由とは次のものである。

 一 性行不良で改善の見込がないと認められる者

 二 学力劣等で成績の見込みがないと認められる者

 三 正当の理由がなくて、出席常でない者

 四 学校の秩序を乱し、その他学生又は生徒としての本分に反した者

 本問の場合、広く解すれば四に該当するといえるが、少なくとも明白に該当しているとは言い難い。

 このような判断基準に照らす限り、単に校則に定められているところに従わなかった、というだけの理由からこの時期に退学処分を行うことは、学校側に就学契約解除権の濫用があった可能性が高い。すなわち、Xの教育を受ける権利を侵害している可能性を認めることができる。

 なお、付言する。諸君は、すぐに確定的に処分が妥当であるとか、不当であるとか書いてしまう。しかし、本問が求めているのは「憲法上の問題点について」論じることであって、事実認定をすることではない。

 また、ここに示されているだけの事実関係では、正確な事実認定は不可能であることも認識してほしい。例えば、Xの両親がなぜ校則違反を知りつつXにバイクを買い与えたのか、XはなぜYの教員に発見されやすい学校周辺でのバイク搭乗を繰り返したのか、指導を受けたのにバイク搭乗をやめなかったのは何故か、など、校則違反として処分をするにあたっては判断材料にするべき多くの事実関係が欠落しており、確定的に判断することができないのである。