学問の自由・大学の自治とその限界

甲斐素直

問題

 X大学理工学部のA教授は、従来の水素爆弾の爆発原理と異なる、全く新しい原理の開発に成功した。その内容を知る者は皆、公表されればノーベル物理学賞は間違いないのではないか、と評価したほどに、それは極めて画期的なものであった。そこで、A教授は、この研究成果を英語の論文にまとめ、学内で刊行されている欧文の研究紀要に投稿して公表することにした。同紀要は、従来から世界百数十ヶ国の主要大学に送付されており、国際的にも大変高い権威のあるものであったからである。紀要編集委員会は、学内からノーベル賞受賞者を出せるチャンスと受け止めて、これを掲載することに決めた。

 日本政府(以下Yという)は、A教授の記者会見によってそのことを知り、Xに対し、A教授の研究成果を公表すれば、開発途上国でさえも容易に水素爆弾の開発が可能になるので、世界的に大規模な核拡散をもたらす恐れが強く、核廃絶に向けた世界の流れに大いに反することになり、ひいては世界の平和を脅かすものであるとして、同紀要にA教授の論文を掲載することを中止するよう申し入れた。しかし、Xはそれを研究成果発表の自由を侵害するものとして拒んだので、Yは紀要の発行差し止めを裁判所に申し立てた。

 その口頭弁論において、Xは、紀要の発行差し止め申立ては、国家権力による大学の自治の侵害に該当し、憲法23条に反すると主張した。

 Xの主張に含まれる憲法上の論点について、論ぜよ。

 

[はじめに]

 本問では、論点は大別して2つある。第1は狭義の学問の自由である。第2は、大学の自治である。

 表現の自由の亜型として認められる権利について論ずる場合には、一般にそれと狭義の表現の自由の異質性をきちんと押さえることが合格答案のポイントである。学問の自由の場合にもそれがいえる。すなわち、研究教育機関構成員の学問の自由に対する保障は、一般市民が有する表現の自由に対する保障よりも遙かに強力である。学問の自由に対するリーディングケースというべき「東大ポポロ事件」最高裁判決も、学問の自由は広く全ての国民に保障されるものであると述べつつ、「大学が学術の中心として深く真理を探究することをその本質とする」ことから、23条は特に大学における学問の自由を保障する趣旨である、と述べている。すなわち、大学の自治こそが、学問の自由の、19条や21条からの異質性の中核ともいえる概念であることを押さえていくことが大切である。

 以下では、本問で論じる必要が無い点についても言及して、諸君が今後、学問の自由に関する問題にぶつかったときに、参考になる重要論点についても紹介している。

 なお、本問は、一見、事前差し止め禁止の法理の問題に見える。しかし、本問の場合には、問題文が明確に23条に論点を限定しているから、それは気にしなくて良い。23条の持つ、21条等に対する異質性の最も大きな点として、国家権力が学問の自由に介入しうるかどうかが問題になる。国家権力の介入を認めるという説を採れば別だが、通説的見解を採る限り、学問の自由に対する国家権力の介入は絶対に認めない、と考える。そう考える場合には、裁判所も国家権力の一種だから、事前差し止めの例外を考える必要はないのである。それに対して、国家権力の介入を認めるという説を採ると、どのような審査基準で審査するべきか、という問題に発展する余地が初めて出てくる。

一 学問の自由と大学の自治のかかわり

 学問の自由は、ドイツと米国では異なる発展の歴史を経た(その詳細については、芦部信喜『憲法学V』220頁以下参照)。それを簡単にいえば、ドイツでは国家権力から教会類似の独立性を有する存在として大学の自治が保障され、その結果として、そこで行われる学問の研究は、大学教授が有する特権として学問の自由(akademische Freiheit)が保護の対象となった。これに対して、米国の場合には表現の自由の一亜型として学問の自由(academic freedom)がとらえられ、その学問研究の中心の場所として大学の自治が考えられた。したがって、ドイツ型の場合には、大学以外の場における学問研究はあまり保護の対象とならない、という弱点を有し、米国型の場合には、広く学問の自由が保障される代わりに、大学の自治は建前上は重視されなかった。

 わが国は、戦前、ドイツの強い影響下に大学の自治の理念が導入された。他方、現行憲法は、米国の強い影響下に、文言的には学問の自由だけが論及され、大学の自治については全く述べられていない、という構造を持つ。それにもかかわらず、わが国憲法学界は、当初から学問の自由の一環として大学の自治を読む、という点について全く異説を見ない。すなわち、わが国憲法解釈としては、ドイツ流の強力な大学の自治と米国流の広範な学問研究の自由の保障が、同時に肯定されて、いわば両者の長所を兼ね備えた強力な保障が存在している、と理解することができる。

 

二 狭義の学問の自由

(一) 学問の自由と表現の自由の関連

 学問の自由の基本的概念内容は、すべて表現の自由の中に含まれている。その意味では、表現の自由から当然に導くことのできる下位概念である。このため、独立の条文としてこれを保障している憲法は、世界的にみても少ない。例えば、もっとも充実した人権カタログとなっている国際人権規約においてもその直接的な保障規定は置かれていない。わが国憲法が学問の自由をわざわざ明文化したのは、天皇機関説事件や京大滝川事件に代表されるように、戦前のわが国で、大学における研究活動に対して、政府からの露骨な干渉が存在していたため、特にこれを保障する独自の意義の存在が認められたからである。

 このように、学問の自由を表現の自由から独立して保障しているのであるから、学問の自由は、通常の表現の自由以上の強力な保障の対象となっていると考えるべきで、表現の自由の一部を単に注意的に保障したと見るのは妥当ではない。その意義は、大学の自治を中心として発生する。

 表現の自由は、国際人権B規約192項にあるとおり、今日においては「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」ものと理解されている。これを学問の自由に投影して考えれば、情報を求め、受ける活動に対応するものとしては「学問的真実の研究の自由」が考えられる。もちろん研究そのものは内心の自由(19条)の形態をとって行われる部分もあるが、それは独立の概念として把握する必要はない。また、その成果を他に伝える自由に対応するものとしては「研究成果発表の自由」を考えることができる。要するに学問の自由はこの二つの下位概念に分解して理解するのが妥当である。このうち、後者の研究成果発表の自由の重要な内容としては、さらに「研究成果刊行の自由」と「研究成果教授の自由」の二つの下位概念に分けて理解することができる。

(二) 学問の自由の享受主体

 本問の場合には、教授が問題となっているため、主体性について議論する必要はないが、一般的にはどの範囲までが保障の対象になるのかが問題となる。

 大学教員における研究・教育が学問の自由として保護されることは、その発展の歴史に照らしても疑う余地はない。しかし、上述のように、学問の自由が広く一般に保障される権利と理解する場合には、その主体となるのが広く民間企業の研究者なども含まれることは疑いの余地がない(島津製作所の田中耕一という民間企業の研究者でさえ、ノーベル賞が受賞できるは知っての通りである)。

 現在、特に論じられているのが、初等ないし中等の教育機関において現実に子どもの教育の任にあたる教師(以下「教員」という。)が、本条に基づく教授の自由を有するか、すなわち公権力による支配、介入を受けないで自由に子どもの教育内容を決定することができるか、と言う問題である。

 判例は限定的な肯定説である。すなわち「子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的な要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない」として、23条の教授の自由が教員にも存在するとしつつ「大学教育の場合には学生が一応教授内容を批判する能力を備えていると考えられるのに対し、普通教育においては、児童生徒にこのような能力がなく、教師が児童生徒に対して強い影響力、支配力を有することを考え、また、普通教育においては、子どもの側に学校や教師を選択する余地が乏しく、教育の機会均等をはかる上からも全国的に一定の水準を確保すべき強い要請があること等に思いをいたすときは、普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されないところといわなければならない」として、文部省による画一教育の必要性を優越させている(旭川学テ最判より引用)。

 学説は判例に好意的なものもあるが、大勢としては反対と考えて良い。第1に、本条のそれは、自らの行った研究成果の教授の自由を意味する。もちろん研究は大学のみに許され、または可能なことではなく、初等中等教育機関の教員やその他の一般人も独自の研究を行うことは当然にあり、それもまた本条による保護の対象となる。その場合に、研究成果の教授の自由を当該教員その他が有するのは当然である。しかし、教科書に書いてあることを単に判り易く教育するだけの活動は、研究成果の教授という概念には含まれない。

 第2に、研究成果の教授を、義務教育として当該教員の教育に服することを要求されている児童生徒を対象として行うことは許されない。なぜなら自由権は、決して一方的なものではないからである。教授の自由があるときには、受け手の側には、聴取する自由が保障されなければならない。大学において教授の自由が保障されているのは、聴衆である学生が、大学や学部そのものの選択に加えて、特定の教科についても、誰から教授を受けるかの選択権が存在しているからである。捕らわれの聴衆に自分の欲する内容を教授する自由を、憲法が保障することは、いかなる場合にもあり得ない。

 初等中等教育機関における教育が、教員と児童との人格的触れ合いだとし、そこで教育内容の裁量権が教員に認められるべきだとする最高裁の指摘そのものは正しいものと考える。ただ、ここで言う教授の裁量権は、23条ではなく、26条の、子供達が国民として適切な教育を受ける権利の内容の一部として、教員側に認められるべきものである。

(三) 学問の自由の限界

 学問の自由も、表現の自由一般と同じく、決して無限定の自由を意味するものではない。なぜならノーベルのダイナマイトやアインシュタインの相対性原理がもたらした原爆に代表されるように、いかなる研究も社会と没交渉ではあり得ないからである。本問の場合には、水爆における核拡散の危険というものが、それによってもたらされる具体的な危険として提示されている。

 しかし、学問の自由の限界は、内在的一元論に従う限り、漠然とした「公共の福祉」ではなく、あくまでも他者の人権との比較衡量である。最大の問題は、研究の危険性を誰が判断するかという点にある。その判断権を時の為政者に認めるときは、天皇機関説事件や京大滝川事件の再来を意味し、とうてい是認できることではない。

 そこで、芦部信喜は次のようにいう。

「時の政府の政策に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件のように、学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究は、真理探究のためのものであるという推定が働く』と解すべきであろう。」(芦部信喜『憲法』第4161頁)

 このような見地からすれば、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」(平成12年法律第146号)が「特定胚の取扱いは、指針に従って行わなければならない。」(同5条)とし、さらに「文部科学大臣は、〈中略〉特定胚の取扱いが指針に適合しないと認めるときは〈中略〉当該特定胚の取扱いの方法に関する計画の変更又は廃止その他必要な措置をとるべきことを命ずることができる。」(同71項)として、学問研究を文部科学相が規制しうることを定めていることは違憲の疑いが濃厚である。もっとも、戸波江二は次のようにいう。

「知の統制という重要な人権を規制するという点でも、倫理的・社会環境的に逸脱した研究を明確にするという点でも、法律によって規制することが必要である。法律でルールが設定されることによって、研究の限界が明らかにされ、かえって研究が促進されるという効果も期待される。」(戸波江二『憲法』新版279頁)

 しかしながら、その場合に政府の法律あるいはその運用による過干渉をどう防ぐかを述べていないため、ほとんど賛成者はない。ここで言われているのは、明確性の法理に過ぎない。表現の自由は、明確な法規範により規制することが認められている。したがって、この説は、学問の自由の保障を、表現の自由一般と同レベルで足りるとするに他ならないが、それでは学問の自由が表現の自由から独立して憲法上の保障を与えられた意義が失われることになると思われるからである。

 中間的な説を渋谷秀樹が述べている。ヒトクローン法については、それが「人間の尊厳」を問題にしていることから「研究の自由を制約するルールはこれを対抗利益とした厳格審査に服させるべきである」とする(渋谷『憲法』有斐閣396頁)。この場合には、人間の尊厳が論点となる種類の規制については、司法権の判断対象となることは承認するものと思われる。

 これらの説に対し、芦部に代表される通説的な見解に従う限り、基本的に研究の限界は、それは、同等の研究者相互における自己規制の形態をとらざるを得ないものと思われる。脳死問題で、各大学医学部がその判定のための内部倫理委員会等を設けて客観的な評価に当たろうとするのはその好例である。もちろん、それでも不必要な規制が発生し、学問の自由が実質的に制限される事態が生ずることを防ぐことはできないが、そこが実際上、調和点とならざるを得ないことは是認されるものと思われる。

 この論理を本問に当て嵌めると、紀要編集委員会という同僚の教授達で構成する委員会が、その論文内容を審査し、発表可能と判断したのであるから、自主規制としての要件は満たしていることになる。

 

三 大学の自治

 このような自己評価機関を政府による干渉から守るのための保障が、ここで述べる大学の自治ということになる。

(一) 大学の自治の保障根拠

 大学の自治について、学問の自由の一環として論ずる場合には、普通は制度的保障説に載って議論を展開すれば十分であろう。しかし、実際には大学の自治の本質に関する議論はかなり複雑である。例えば一番簡単なコンメンタールであり、諸君も当然に持っているであろう『基本法コンメンタール=憲法』(別冊法学セミナー=日本評論社刊)等のコンメンタールを開いてみると、この問題に関しては、通説である@制度的保障説に対して、A機能的自由説(高柳信一他)、B23条・26条説(兼子仁、永井憲一他)、C教師団自治説(佐藤功)D結社の内部運営の自由説(阪本昌成)等、様々な異説が存在していることが判るはずである。

 諸君が使用している基本書は、おそらく全て制度的保障説であろうから、これら異説の内容をさしあたり理解する必要はない。それら異説から制度的保障説に対してどのような批判が行われているかを知っていれば、それだけで十分異説を意識した理由付けが可能になるはずである。

 一般的にいわれる制度的保障説の問題は次の点にある。

 第一に、制度的保障といいながら、その不可侵の中核が何かを論じていない。

 第二に、仮に大学制度が、制度的保障にいう制度であるとするならば、小学校教育から大学教育までの全ての制度が制度的保障の対象となるのではないか、ということである。

 これらの指摘はまことに鋭い。特に第一の指摘はもっともで、制度的保障説という以上、どのような点が不可侵の中核であり、どの点については立法等により侵害可能であるかをきちんと説明しなければ、説として成立し得ない。困ったことに、制度的保障説を採用している学者で、こうした疑問点に対する回答をきちんとした形で論じている者はいない。そこで、以下に述べるのは私見である。

 私は、この問題は、地方自治との比較論で理解するのが一番妥当と考えている。すなわち、地方自治制度を制度的保障ととらえる場合、住民自治と団体自治の二つの概念を、その制度の中核を構成する概念ととらえている。この二つの理念は、単に地方公共団体に限らず、およそあらゆる団体における自治を考えるに当たり、普遍妥当する理念であると考える。住民自治とは、すなわち、団体内部における意思決定は、その団体を構成する者の合議によって決せられるべきである、という意味であり、団体自治とは、その団体の意思形成に、外部勢力、特に国家が介入することを禁ずるという意味である。大学の自治においても、この二つが同じように、不可侵の制度的中核として存在する。

 第二の問題については、すでに初等中等教育機関における学問の自由の享受可能性の問題として論じたので、ここでは繰り返さない。

 このように中核概念を把握し、また、初等中等教育機関との区別を行う場合、その主体となる大学という概念も、社会通常の概念と若干の相違を示すことを理解する必要がある。すなわち、私立大学において大学の自治の主体となる大学と、学校教育法上、公教育の主体とされている学校法人とは全く別の存在である。学校法人は財団、すなわち財産の集まりであり、その意思決定は理事会によって行われる。これに対して、大学の自治にいう大学は、学問の自由の主体である研究者の集まりとして把握しなければならないから、社団としての性格を有することになる。その社団における意思決定は、少なくともその中核的構成員たる教授団によって行われねばならない。大学の規模が小さく、教授団が全学的に形成されている場合は、大学の自治にいう大学と実定法上の大学とはあまり差違を示さない。それに対して、日本大学のように大学の規模が大きい場合には、大学の自治にいう大学とは、実は学部のことを意味することになる。

 国立大学においては、現在は実定法上は国立大学法人として、その意思決定は教授会ではなく、経営評議会(同法20条)や教育研究評議会(同21条)とされている。しかし、大学の自治の主体としてはやはり教授会(集団としての教授)を考えなければならない。

 大学の自治をどのように把握するにせよ、いわゆる法人の人権享有主体性と結びつけて論ずるのは間違いである。むしろ、上記のように、法人の人権主体性では説明不可能な問題であるからこそ、制度的保障としての大学の自治がいわれると考えた方がよい。

(二) 大学の自治の主体

 わが国戦後の大学の自治は、一般に教員のうち、教授としての地位にある者により組織される教授会が最終的な意思決定機関として活動するという慣行を伴っている。これについて注意すべきことは、教授だけが大学において学問の自由の享受主体ではないということである。すなわち大学という社団の一員として、学問の自由を享受するものとしては、教授以外に、准教授、助教、講師、助手、大学院生などが該当する点については異論がなく、後に述べるとおり、学部における学生もその主体の一つと数えることが許されよう。したがって、教授会が大学自治の最高意思決定権を有すると言うことは、決して直ちに学問の自由の大学における享受者の総意により自治権が行使されることを意味しない。これは、主体と権利の実質的行使者とをできるだけ近づけるという観点からは好ましい方法であることは明らかで、特に学問の自由の現実の行使に当たって、同一大学内部による自己規制の道が組み込まれている点において特に優れているものと言える。しかし、他方、学内行政のために教授等から少なからぬ研究時間を奪うこと、非常に多数の合議体となるため、個々の教授の能力に関わりなく衆愚政治に陥る危険があること(大学教授は学問的能力に基づいて選任されるが、学内行政にはそれとは異質の行政能力ないし政治能力が要求される。)等、さまざまな欠陥があり、決して唯一の方法でもなければ、最善の方法でもない。裁判官における身分保障と同様に、大学研究者には身分的保障、すなわちその選任及び罷免に当たっては教授会によることを必要とするが、一般の学内行政については、教授会の総意により専門の理事者等にゆだねて、教授会は最高決定権だけを留保するとしても憲法上の問題はない。

 学生については、単に大学という営造物の利用者であって、自治の主体ではない、と言う主張がある(ポポロ事件最高裁判例)。しかし、教授の自由は発信者である大学教員だけで成り立つものではなく、その受け手としての学生が不可欠であること、また、学生はそれ自体、研究の自由の主体ともなり得ること等を考え合わせると、それが教員と並ぶ大学の自治の主体であることは否定できない。もっとも、受信者としての学生は、その受動的な地位であるが故に、本質的に教員側の教授の自由の包括的な一部であって、その限りでは独立の主体性を有するということはできない。すなわち、学生に大学運営に当たって一定の発言権を与えるか否かは大学側の裁量の問題であって、大学の自治の一部を形成しているという理由に基づいて直ちに運営に対する発言権までも肯定されるものではない。

(三) 大学の自治の内容

 地方公共団体における自治が、その団体内部における自主立法権、自主行政権、自主司法権及び自主財政権を意味するのと同様に、大学の自治もそれら4者を意味すると解するのが妥当である。

 その場合、自主立法権とは学則あるいは学部規則など内部法の制定権を意味する。

 自主行政権は、内部行政を意味するが、ここの研究者の研究内容を統制することは、学問の自由を侵害することになるので許されない。結局、研究者との関係での中核は、自主人事権、すなわち、誰を教授その他の教員として任用するか否かの権限となる。判例上、それが問題となったのは、国立大学である九州大学で、井上正治教授が大学評議会により学長事務取扱いに選出されたにも関わらず、文部省がこれに難色を示した事件である。これについて東京地裁は次のように述べた。

「大学自治の原理、なかんずく右原理の中核ともいうべき大学における人事の自治に鑑みれば、前記教特法10条にいう『大学管理機関の申出に基いて』とは、大学管理機関(同法2516号により、当分の間は学長)から申出がなされたときは、任命権者(国立の大学にあつては国家公務員法551項により文部大臣、公立の大学にあつては教特法252項により当分の間その大学を設置する地方公共団体の長)は、右申出が既に同法四条に準拠して大学の自主的選考を経たものとされる以上、その申出に覊束されて、申出のあつた者(それはおのずから一つの地位に一人だけと解さねばならない。)を任命すべく、そこに選択の余地、拒否の権能はなく、他面、申出がなければ、右の人事を行ない得ないものと解するのが相当である。」

(昭和4851日東京地方裁判所判決=百選5192頁参照)

 このように、学長等の人事にも大学の自治権が及ぶのある。

 自主司法権は、もっぱら学内における秩序を乱した者に対する懲罰権の行使の形で現れる。後に詳述するとおり、判例は、部分社会の法理を適用することにより、それに対しては、退学など、その部分社会からの排除に至らない限り、司法権も及ばないとして、その自治権の存在を承認している。

 もっとも問題があるのが、自主財政権である。私立大学において自主財政権が認められ、それに伴い私学補助に問題があることは、憲法89条に関連して常に論じられるところである。これに対して、国立大学においては、83条の国会中心財政主義の制限により、全く自主財政権が認められないという考え方も採れるであろう。しかし、学問の自由の尊重の必要性は私学においても国立大学においても等しく認められることを考えれば、私学補助が許される限度において国会の財政コントロール権が縮減されるのと同様に、国立大学の財政に関する運営に当たっても、私学補助における公の監督の限度に、国会及び内閣の財政権は縮減されると考えるのが妥当であろう。

 本問にこれを当て嵌めれば、紀要の発行権は学内行政にあたり、これに国家が介入することは、大学の自治の侵すべからざる中核に対する侵害になるというべきであろう。

 

四 補説=大学の施設管理権と警察権

 本問においては、全く触れる必要がないが、東大ポポロ事件(百選第5188頁)や愛知大学事件(同190頁)などで、大学校内への警察権力の侵入が、大学の自治を侵害するのではないかと言うことが、繰り返し問題となってきた。私は、それは憲法問題ではない、と言う見解を持っている。

 すなわち、かつての警察国家ならばいざ知らず、現代自由国家においては、警察のような侵害性の強い行政には、そもそもその本質に照らして強力な法の支配の要請が課せられる。ブランダイス・ルールから考えても、行政法で説明のつかないレベルに達して、初めて憲法上の大学の自治との関連は論じられるべきなのである。そして、判例において問題になった事件は、いずれも行政法レベルで解決可能なものと私は考えている。

 その点を簡単に補説しておきたい。

(一)行政法上の警察の概念

  1 行政法上、警察は一般に「公共の安全と秩序を維持するために、一般統治権に基づき、人民に命令し、強制し、その自然の自由を制限する作用」(田中二郎『行政法』下Uより引用。)と定義される。すなわち、特別権力関係による命令ではなく、一般統治権に基づく命令である点に警察作用の大きな特徴がある。それをさらに細かく示せば、交通警察、警備警察(社会、公共の安全、特に要人の警備等を中心とする警察作用)、保安警察(上記以外の一般的な警察作用、例えば風俗、少年、暴力団、公害、麻薬、地域活動等に関するもの)に分類可能である。この意味での警察活動は、決して警察庁以下の、その名称中に「警察」の文言を有する機関の独占するものではない。厚生労働、経済産業、農水、国土交通等、ほとんどの省庁では、程度の差こそあれ、保安警察の概念に属する活動を行うのである。また、逆に、社会通念的には警察活動の中心となる刑事警察は、実定法上及び講学上は司法警察と呼ばれ、警察概念に属さないのも注意する必要があるであろう。すなわち、犯罪の捜査、被疑者の逮捕等の司法警察活動は、刑事訴訟法1891項等の規定により、初めて警察の権限とされるのであって、本来の警察概念には該当しないのである。

  2 警察作用は、侵害行政の典型であるので、我が憲法の採用する法治主義の下においては、警察権は、常に法律の根拠なくして行使することができない。そればかりでなく、法律の根拠がある場合にも、次のような諸原則に基づく制約に服して活動する必要があると説かれている。

  (1)警察消極の原則:警察権の行使は自由主義のもと、厳密に法の定める目的に限って行使可能である。例えば、食品衛生法上の警察権はあくまでも食品衛生を確保する限度においてのみ行使が認められ、食品店相互間の過当競争防止などの福祉目的に使用することは許されない。

  (2)警察責任の原則:警察は、警察違反Polizeiwidrigkeitの状態にあるときにのみ、その状態発生に関して警察責任Polizeihaftungある者に対してのみ発動しうる。この原則から、重要な三つの派生原則が導かれる。すなわち

 ア 私生活不可侵の原則

 イ 私住所不可侵の原則

 ウ 民事不介入の原則 である。

  (3)警察比例の原則:警察権は、除去されるべき障害に対比して、普通の社会人を標準として是認できる程度にとどまらなければならない。例えば、その発動は、通常の社会人をして耐え難いとみなすほどの障害が発生して初めて是認され、その際に認められる強度も侵害の程度に応じて最低必要限度にとどまらなければならない。

(二)大学構内における警察権の行使

 大学は治外法権を有するものではない以上、一般的に警察権行使の対象となる。すなわち大学建物の安全性は消防当局の、大学職員の労働は労働基準監督署の、大学内の食堂は保健所等のそれぞれ取締の対象となり、そうした取締目的に必要な限度で、適時適切に身分、目的を明示した警察職員の学内への立ち入りを、大学側が大学の自治を理由にして拒むことができないことは当然である。

 このことは、同時に大学が一般私人が警察権の行使を拒むことができる限度において、学内への警察権の介入を拒む権利を有することをも意味する。例えば、警察職員は、風俗営業法の施行に必要な限度において風俗営業の店舗に立ち入ることができるが、それに際しては身分を示す証明書を携帯し、関係者に示す義務を負い、また、この立入権を犯罪捜査のために行使してはならない(風俗営業法37条参照)。すなわち、証明書を掲示せず、あるいは犯罪捜査の目的と認められる場合は立入を拒否することが許されることになる。

 大学構内は、通常の人々にとっては、デパートやホテルなどと同様に自由に立ち入ることの可能な場所である。しかし、公道ではなく、私人の住宅やマンションの通路と同様に、私人の看取する場である。したがって、私人の住宅に、その管理者の許可がない限り立ち入ることができないのと同様に、こうした大規模公共施設の場合にも、その管理責任者の許可・要請があるか、正規の令状がない限り、警察が警察権の行使の目的で立ち入ることはできない。例えば、警邏パトロール中不審者を見つけてこれを追跡したところ、大学構内に逃げ込んだ場合、警察は速やかに大学職員等の了解を得、あるいは立ち会いの下でなければ大学構内の捜査はできない。

 すなわち、ここで問題となっているのは大学の自治ではなく、警察権行使の限界なのである。

(三)大学構内における警察目的の情報収集活動について

 警察権の行使、すなわち直接的な自由の制限行為と、その前段階としての情報収集活動を同視するのは適切ではない。およそ行政庁は、国民の血税によって活動する機関の常として、最小限の人数と費用で最大限の効率的活動を行うことを、当然に要請されている。この要請を実現するためには、行政庁としては、恒常的に警察活動の対象となり得べきる領域における情報の収集に努め、その分析、研究により、警察権を現実に行使する場面における対象者及び場所、時間等を可及的に限定するように努力する必要がある。その目的のため、一般私人に許されると同様の権限を利用して、情報を収集する行為は、いかなる意味においても違法視されることはない、というべきである。

 この理は、情報収集の主体がいわゆる公安警察であり、また、情報収集の最終的な目標が思想・信条等に基づく過激活動である場合においても異ならないと言うべきである。

(四) 東大ポポロ事件について

 本事件の下級審判決は、元富士警察署員が東大内の情報収集を行っていたことを根拠に、「かかる行動は、それ自体としては一見、逮捕、監禁、暴行等の可罰的違法類型に該当するかの如くに見える。しかし、被告人の右の行動は、憲法第23条を中心にして形成される重大な国家的、国民的法益の侵害に対し、徒らにこれを黙過することなく、将来再び違法な警察活動が学内において繰返されざらんことを期し、これを実効的に防止する手段の一つとして、逃げ走ろうとする警官をその場において捕え、氏名、官職、所属警察署等を確かめ警官の違法な学内立入りの事実を明かにしようとしたものと言えるのである。」

として正当行為とした。が、上述のように、情報収集は、それが違法な手段によって行われない限り、一般に合法的な活動であり、憲法的にも是認されるものと言える。よって賛成できない。

 他方、最高裁は、大学の自治を学問の自由を目的とするものであるから、学問の自由と関係のない政治的な活動等は、自治権の外にあると言う。しかし、何が学問の自由に属し、何がそうでないかを国家権力が判断すること自体が、学問の自由に対する国家権力の介入になり得る。したがって、そのような見解には賛成できない。現に、ポポロ劇団は、大学当局が公認している活動だったのである。

 以上のことを総合すると、国家権力による情報収集は合法かつ民主的統制の下に行われる活動に限られるべきであり、かつ公然と行われるべきではない。公然と行われるときには、その存在それ自体が、隠然たる事前抑制の機能を有する可能性が高いからである。具体的には通常の報道機関がわが国憲法上有している取材の自由と同等の、情報収集の自由は有するが、違法な取材とみなされるような活動は警察活動においても許されないと考える。この考え方を取る場合には、ポポロ劇団の公演は一般公開されていたものであるから、当然、警察と言えどもその自由に観劇することが許されるのであり、その暴力的な排除は違法と考える。