泉佐野市民会館事件

準パブリックフォーラムにおける審査基準

甲斐素直

 団体Xは、A市の近くに建設されるB空港新設に反対して、一連の爆弾テロを行うなど、過激な闘争を展開してきた。そして、その反対闘争の一環として、○○年○月○日にA市立市民会館の大ホールで「B空港反対総決起集会」を開催することを企画し、市民会館に対して、同ホールの使用許可申請を行った。

 本件会館は、A市が市民に芸術性の高い文化に触れる機会を提供し、市民自らが文化活動を展開することによって、文化の創造及び振興を図ることを目的として設置したもので、市内最大の繁華街に位置している。

 会館側では、申請された日の使用予定が無いところから、いったん使用許可を与えたが、その後に、Xが過激な活動を行っている団体であることに気がついた。そこで、A市長Yは、Xに本件会館を使用させると、不測の事態が憂慮され、その結果、周辺住民の平穏な生活が脅かされるおそれがあること、また対立する他の過激派団体による介入も懸念されることなどを根拠として、A市民会館使用条例第31項一号及び三号を準用する第4条一号に基づき、使用許可を取り消す処分を下した。

 これに対し、Xは、本件条例4条が準用する31項一号及び三号は、極めて曖昧な内容であるが故に憲法211項に違反して無効であり、また本件不許可処分は、同条2項前段の禁止する検閲に当たり、地方自治法244条に違反すると主張して、処分取り消しの訴えを提起した。

 この事案における憲法上の問題点について論ぜよ。

参照条文

 A市民会館条例

3条 市民会館大ホールを使用しようとする者は、あらかじめ指定管理者の許可を受けなければならない。ただし、次の各号のいずれかに該当するときは、使用を許可しない。(1) 公の秩序又は善良な風俗を害するおそれがあると認めるとき。

(2) 施設、附属設備その他器具備品等(以下「施設等」という。)を汚損し、破損し、又は滅失するおそれがあると認めるとき。

(3) 管理上支障があると認めるとき。

(4) その他指定管理者が適当でないと認めるとき。(2項以下略)

(許可の取消し等)

4条 指定管理者は、使用の許可を受けた者(以下「使用者」という。)が、次の各号のいずれかに該当するときは、使用の許可を取り消し、又はその使用を制限し、若しくは停止し、若しくは退去を命ずることができる。

(1) 前条第1項各号のいずれかに該当する事由が生じたとき。

(2) 前条第3項による条件に違反したとき。

(3) この条例又はこれに基づく規則に違反 したとき。

 

[はじめに]

 これは、泉佐野市民会館事件の事実関係を簡略化してはいるが、かなり忠実に事例化したものである。但し、条例だけは、その後、同市で若干の改正が行われているので、最新のものに直してある。

 この論文を書くに当たってのポイントは、Xはこの条例を表現の自由の規制立法として論じているのを、素早く否定して、その否定に立脚した形で、表題のサブタイトルに示した準パブリックフォーラム論を引っ張り出し、それを中心に論じる、という点にある。

 本問は、昨年一度出題したものであり、その解説のレジュメも、そのままホームページに載せてあるので、今回は合格答案が続出するものと期待していた。ところが、案に相違して、かなり惨憺たる結果となっている。これは、昨年の解説自体が難しすぎて、それを読んだだけでは到底論文が書けなかったのであろうと自己批判をし、全面的に改稿して、今ひとつ基礎の部分から説明を試みてみた。

 

一 普通の表現の自由の問題では…

 諸君に注目してほしいのが、Xの主張である。上述したとおり、本問では、Xの主張は論点ではない。だから、それについての詳しい議論は、諸君の論文の中には全く書き込む必要がない。それにもかかわらず、何故こんなことが書いてあるのか。これは決して引っかけではない。現実に、泉佐野市民会館事件において、原告弁護団は、この通りのことを主張しているのである。そして、普通に表現の自由が論点になった問題では、必ずこの通りの主張を、諸君も書いて貰わないと困る。本問で本当の論点になっている時・所・方法の規制論は、これが出発点となって展開されているので、このXの主張が何を意味しているのかが判らなければ、時・所・方法の規制論も、そもそも理解できない。

 本来、わが国の憲法訴訟は、付随的憲法訴訟とされる。すなわち、具体的な事件が生じた場合に、その事件を解決するのに必要な限度で違憲審査を行うのが本来の姿である。そうであれば、違憲審査は、当該法令がその事件に適用される限度で審査(適用審査)すれば、それで十分というべきである。換言すれば、合憲限定解釈を採ればよい。

 合憲限定解釈といわれてもぴんとこない人もいると思うので、都教組が、地方公務員の争議権を制限している地方公務員法に反してストライキを実施した事件で、都教組事件最高裁判所大法廷昭和4442日判決(百選第5318頁)で、最高裁判所が合憲限定解釈についてどのように述べたのかを見てみよう。この判決では、前提として、憲法28条が労働基本権を保障しているので、公務員の争議行為を全面的に禁止するのは違憲という判断が存在している(その後判例変更)。それを受けての文章である。

「(地方公務員法37条及び61条の)規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。

 しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨ヒ調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである。

 かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない。」

 このように、権力分立制度上、裁判所と同位の国家機関であり、しかも民主的基盤を持ち、立法に関しては裁判所よりも遙かに専門知識をもっている国会の判断を尊重するならば、できる限り法律の文言は合憲になるように解釈すべきである、と言う解釈手法である。

 ところが、問題になるのが表現の自由の場合には、このような解釈手法を採ってはならない。なぜなら、それでは立法に萎縮効果(Chilling Effect)が発生するからである。つまり、立法が過度に広汎な文言を使っていたり、不明確な表現を使っている場合には、合憲限定解釈を裁判所が採用すると、確かにその事件で権利を侵害された人は救済できる。しかし、その様な判決が出るまでは、人々は、どの範囲までが本当に合憲であるかが判らないために、法律の文言に該当するすべての行動を萎縮して行わないという効果が発生してしまうのである。

 付随的違憲審査制の下においては、裁判所が違憲立法審査権を有する目的は、その事件で権利を侵害された特定の人の救済である。しかし、それだけが違憲審査制度の目的ではない。憲法訴訟の今ひとつの重要な機能に憲法保障機能がある。裁判所は、人権の最後の砦として、可能な限り憲法が尊重されるよう、判決を下す義務がある。そして、その義務は萎縮効果を排除することを要請するのである。

 ここから導かれるのが、文面審査(facial scrutiny)という概念である。定義的にいえば

「法令の合憲性を、その事件から離れて、法令そのものの文面において審査する」

ということである。司法審査の対象となっている事件を解決するためだけであれば、法律の文面がどうかなどと言うことを審理する必要はない。しかし、司法審査を行う機会に、違憲判決の持つ憲法保障機能を発動するためには、事件とは関係なく、文言の妥当性も判断するのである。その場合に使用する審査基準が、Xの主張している過度の広汎性の理論ないし明確性の理論である。過度の広汎性の理論とは、次のように定義される。

「表現活動を規制するある法律の適用範囲が過度に広汎であり、そのためにそれが憲法上保護されているはずの表現活動をも規制・禁止するものとなっている場合には、その法律は『過度の広汎性の故に無効』(void for oberbreadth)とされる」(藤井俊夫「過度の広汎性の理論及び明確性の理論」芦部信喜編『講座憲法訴訟第2巻』347頁)

 これに対し、明確性の理論は次のように定義される。

「本来は、刑罰法規はそれによって禁止・処罰を受ける個人に対して何が禁止された行為なのかが十分に判るような明確な文言で定められていなければならないとするものであり、したがって、不明確な文言が使用されていることにより、それが個人に対して『公正な警告』を発しているといえない場合には、その刑罰法規は『あいまいさの故に無効』(void for vagueness)とされる」(同上)

 つまり、21条の表現の自由が問題になる場合には過度の広汎性の理論で対応し、31条の罪刑法定主義が問題になる場合には明確性の理論で対応するのが、本来は正しい。しかし、両者の内容は、実体面ではともかく、手続面で見れば類似したものがあるので、個々の言葉遣いに神経質になる必要はない。なお、この問題についてきちんと理解したい人は、芦部信喜『憲法学V』388頁以下も参照してほしい。

 このような文面審査がわが憲法訴訟において認められることは、例えば憲法31条に関する徳島市公安条例事件(最大昭和50910日)や憲法21条に関する税関検査事件(最大昭和59122日)など、最高裁判所も繰り返し確認しているところである。例えば、税関検査事件判決は、次のように述べている。

「基本的人権のうちでも特に重要なものの一つである表現の自由を規制する法律の規定が不明確であつて、何が規制の対象となり、何がその対象とならないのかが明確な基準をもつて示されていないときは、国民に対してどのような行為が規制の対象となるかを適正に告知する機能を果たしておらず、また、規制機関による恣意的な適用を招く危険がある。その結果、国民がその規定の適用を恐れて本来自由にすることができる範囲に属する表現までをも差し控えるという効果の生ずることを否定できない。したがつて、表現の自由を規制する法律の規定は、それ自体明確な基準を示すものでなければならない。」

 以上のことから、本問のXの主張は、A市条例にいう「公の秩序又は善良な風俗を害するおそれがある」という文言が過度に広汎であって、具体的にXがどのような集会を開こうとしているかに関わりなく、違憲・無効と判断すべきだというもであることが判る。

 確かに、A市条例が、表現の自由規制立法であるならば、上記文言は過度に広汎で、何が規制されるのかが運営者の恣意的判断で決まることになるので、それが違憲・無効であることは疑う余地がない。同様に、この条例の上位法である地方自治法2442項がつかっている「正当」という言葉も、過度に広汎であり、違憲・無効といわれかねない。

 したがって、諸君の論文は、Xの主張は誤っており、A市条例や地方自治法は、そもそも表現の自由規制立法ではない、と論証するところからスタートしなければならないことが判って貰えると思う。

 

二 時・所・方法(time, place and manner)の規制の概念

 道路交通法という法律を、一つの例として考えてみよう。この法律は、「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」ものである(同法1条)。だから、この法律は表現の自由の規制を目的とした立法ではない。だから、二重の基準論による限り、経済的自由の規制立法として、合憲性は狭義の合理性基準を使用して審査すればよい。もちろん、文面審査をする必要はない。

 しかし、同法771項は「道路において祭礼行事をし、又はロケーシヨンをする等一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法により道路を使用する行為又は道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為で、公安委員会が、その土地の道路又は交通の状況により、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要と認めて定めたものをしようとする者」は、「当該行為に係る場所を管轄する警察署長〈中略〉の許可〈中略〉を受けなければならない 」と定める。そして、デモ行進は憲法21条の保障対象であるが、同時にそれは間違いなく「道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」に該当する。つまり、表現の自由の規制に道交法を適用することは可能である。実際、使われたことがある(佐世保デモ事件=最高裁判所昭和571116日判決=百選第5184頁参照)。

 本問の場合に問題になっているのは、地方自治法である。地方自治法も「地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする」法律なのであるから、表現の自由の規制を目的としたものではない。したがって、その条文の審査にあたっては狭義の合理性基準で十分であり、もちろん文面審査は必要ない。しかし、この場合にも、問題文にあるように、同法2442項は「普通地方公共団体〈中略〉は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない」と定めている。したがって、地方公共団体は、自ら正当な理由と考えるところにしたがって、公の施設の利用を拒むことが可能になる。その結果、本問にあるように、憲法21条の保障する集会の自由を規制する手段として適用することが可能になる。

 このように、本来は、表現の自由とは関係のない立法でありながら、場合によっては表現の自由の規制に利用可能なものを「表現内容中立規制」という。定義的にいうなら、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」である(芦部信喜「憲法学V」431頁以下参照)。

 そこで、問題は、このように本来は表現の自由とは関係のない立法が、表現の自由の規制手段として適用される場合でも、その合憲性審査に当たっては、原則に従って狭義の合理性基準で判断すればよいのか、ということである。

 その答えは、一概には言えない、ということである。

 常識的に考えて、その法律の原則に従った緩やかな違憲審査をする方が妥当な場合と、それよりも、より厳格度を上げた審査をするのが妥当な場合とがあることは判ると思う。例えば、深夜というに、住宅街や病院・学校のすぐ脇というで、拡声器という方法を使用して大きな音量で演説をするような行為を禁止するために適用される立法は、その演説の内容がどのようなものであるかを問題とするまでもなく、妥当であろうから、緩やかな審査で十分である。他方、選挙になれば、朝夕の通勤時間帯というに、どの候補者も駅前広場というにやってきて、支持を呼びかけを、拡声器を使った演説あるいはビラ配りという方法で行うものである。つまり、そうした時の駅前広場は伝統的に選挙活動のための場といえる。だから、そういうでの拡声器使用やビラ配りという方法の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。あるいは、深夜というにおける住宅街というであっても、自らの意見を書いたビラを各家のポストに投入するという方法は、一般的には規制する必要はないから、それを規制することに適用される立法は、厳格に審査した方がよい。

 もう少し本問に密着した例を挙げれば、市が図書館や結婚式場として建設した施設で、本問のような集会を開かせろという要求に対する拒否処分に対しては、単純に断って、何の問題もないが、本問のような集会を本来の目的とした施設では厳格に考える必要がある。

 時・所・方法の規制とは、このように、表現の行われる時間帯、その行われる場所、あるいは方法により、規制立法の同一の法文に対して、異なる審査基準を適用しようという考え方なのである。

 問題は、どういう時・所・方法であれば厳しく審査するべきで、どういう場合なら緩やかで良いか、というその使い分けの基準論である。いくつかの説が存在するが、我が国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、伊藤正己判事が現JR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた事件の最高裁判所判決(昭和591218日=百選第5130頁参照)中の補足意見で、次のように述べて展開したパブリック・フォーラム(Public forum)論である。

「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリツク・フオーラム』と呼ぶことができよう。このパブリツク・フオーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。」

 このパブリック・フォーラム理論に対しては、学説的には批判が無いわけではない(例えば判例百選の時・所及び方法の規制に関連する各判例の解説参照)。しかし、判例としては確立した感があり、通説でもあるので、学生の論文としてはこれに依拠した形で論ずるのが一番無難な論じ方であろう。

 このパブリック・フォーラムの一類型として存在しているのが、本問の中心論点である準パブリック・フォーラムである。

 「公会堂、公立劇場、公立学校講堂等のように、国ないし地方公共団体が自発的に公衆の表現活動の場として利用に供してきた公共の場所は、「指定された(designated)」もしくは「限定された(limited)」広場として考えられなければならない。その場合、その場所の管理者は公開性を維持しなければならない、という義務を負担するものではないが、公開原則を維持する限り、上記と同様に、規制の合憲性を厳格に検討することが求められる。」(芦部信喜『憲法学V』444頁)

 この場合の典型的な事件が、泉佐野市市民会館事件である。準パブリック・フォーラムとは、集会に使用することを本来の目的として建設されたものである点に、純粋パブリック・フォーラムとの違いがある。

 

三 準パブリック・フォーラムについて

 前回のレジュメが、関連する様々なことをせっかくの機会だからと説明しようとしたことが諸君が消化不良を起こして、合格論文が書けなかった原因と思うので、今回は本問に関係するところに絞って説明することにしよう。

 泉佐野市民会館事件で最高裁判所判決を、論理の順を追って述べるところを見ていこう。

「集会の用に供される公共施設の管理者は、当該公共施設の種類に応じ、また、その規模、構造、設備等を勘案し、公共施設としての使命を十分達成せしめるよう適正にその管理権を行使すべきであって、これらの点からみて利用を不相当とする事由が認められないにもかかわらずその利用を拒否し得るのは、利用の希望が競合する場合のほかは、施設をその集会のために利用させることによって、他の基本的人権が侵害され、公共の福祉が損なわれる危険がある場合に限られるものというべきであ」る

 最高裁判所の悪い癖で結論として、「…に限られる」ということだけがここでは述べられていて、なぜそのように限られるのか、という理由は述べられていない。しかし、学生諸君は、最高裁判所のような権威を持っているわけではないから、結論だけを書けば、それでよく書けました、とほめて貰うわけにはいかない。

 煩をいとわず、少し基礎から説明すると、こういうことである。純粋のパブリックフォーラムの場合、例えば道路とか公園とか駅前広場の本来の設置目的は表現の自由の場として使われることではない。だから、その本来の用途との間での比較考量で、どの範囲まで表現の自由に供するべきかは考える必要がある。そこで、時・所・方法が妥当である結果、その条項を適用するに当たっては、通常の審査基準より一段階上に上げたもの、すなわち厳格な合理性基準で十分といえる。これに対し、準パブリックフォーラムの場合には、本来の設置目的が表現の自由に奉仕することである。例えば図書館であれば知る自由に、そして本件市民会館であれば集会の自由に、それぞれ奉仕する目的で、地方公共団体はそれを設置したのである。したがって、純粋パブリックフォーラムが厳格な合理性基準が妥当するならば、ここではそれよりも、更に一段厳しい審査基準を使うのが妥当といえる。とはいえ、厳格な合理性基準は、本来、表現の自由に関する違憲立法審査基準として米国判例が開発したものである。したがって、そこまで厳格度を高めるのはおかしい。そのあたりに、泉佐野事件における最高裁判所の苦心がある。ここで、その代わりに述べられているのは、比較考量基準の一種である。最高裁判所は上記箇所に引き続いて、比較考量の細部を述べている。

「右の制限が必要かつ合理的なものとして肯認されるかどうかは、基本的には、基本的人権としての集会の自由の重要性と、当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度等を較量して決せられるべきものである。」

 ここでは、比較衡量の対象になるのは、一方が「集会の自由の重要性」であり、他方が「当該集会が開かれることによって侵害されることのある他の基本的人権の内容や侵害の発生の危険性の程度」とされている。

 普通、比較衡量というと、博多駅ビデオフィルム提出命令事件に代表される個別的利益衡量論(ad hoc balancing test=単純な利益衡量論)を使用する。事件ごとに、その事件限りの基準=秤を開発し、それにより事件を解決する、という手法である。しかし、そうした手法に頼らなければならないのは、事件ごとに衡量の対象となる問題が違っていることが大きな原因である。

 それに対して、時・所及び方法の規制の場合、比較するべき利益の一方は固定されている。表現の自由(本問であれば、そのうちの集会の自由)である。このように概念内容が固定されているので、実際問題として、衡量するべきは他の秤の方だけということになる。

 このような場合、表現の自由については定義を与えて固定する、という手法を採るので、定義づけ比較衡量論と呼ばれる。大分県屋外広告物規制条例事件において、伊藤正己判事が示した見解が代表的なものである。すなわち、

「それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れないというべきである。」

 このように定義づけ比較衡量にとどまるのは、純粋パブリック・フォーラムの場合には、本来の用途は集会ではないため、表現の自由が他の利益に一般的に優越するとは断定できないからである。そのため、他の利益との比較衡量に当たっては、基本的に等価的な比較衡量とならざるを得ない。但し、一方に載っているのが表現の自由であるために、より厳格度を増した審査が当然に要請されることになり、「原告側が違憲性を証明しない限り、合憲」というような判断には間違ってもならない。むしろ、国側が反対側の秤に載るものを積極的に証明しない限りにおいて、違憲と判断されることになるはずである。

 本問の場合にも、秤の一方に乗っているのは、明確に概念内容が判明している集会の自由である。だから、その意味で、これは定義づけ衡量を基本的には採用しているといえる。

 しかし、本件のような準パブリック・フォーラムの場合には、さらに踏み込んだ比較衡量が可能となる。なぜなら、繰り返し強調するが、施設の設置目的そのものが集会の自由に奉仕することだからである。その結果、施設管理者は基本的に集会の自由を尊重し、施設を貸与するべき義務を負っているからである。道路や公園のような別の使途は存在していないのである。地方自治法244条が「普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。」と定めているのは、この理を示している。

 泉佐野市最高裁判所判決は、この点について次のように述べる。

「このような較量をするに当たっては、集会の自由の制約は、基本的人権のうち精神的自由を制約するものであるから、経済的自由の制約における以上に厳格な基準の下にされなければならない。」

 何故こう言えるかというと、冒頭に述べたとおり、二重の基準論を前提にしているからである。

 これを受けて登場するのが、「重み付け比較衡量論」と呼ばれる手法である。すなわち、比較衡量に当たっても、予め表現の自由に積極的に優位性を与えた形での衡量を行うことが要求されることになる。

「右のような趣旨からして、本件会館における集会の自由を保障することの重要性よりも、本件会館で集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合をいうものと限定して解すべきであり、その危険性の程度としては、前記各大法廷判決の趣旨によれば、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要であると解するのが相当である。そう解する限り、このような規制は、他の基本的人権に対する侵害を回避し、防止するために必要かつ合理的なものとして、憲法21条に違反するものではなく、また、地方自治法244条に違反するものでもないというべきである。」

 この下線部を付した部分が、本判決の白眉であり、この言葉が諸君の論文に書かれていなければ、自動的に落第答案と言って良い。

 パブリックフォーラム論においては、先に説明したとおり、一般には中間審査基準、すなわち厳格な合理性基準が求められるにとどまる。しかし、わが国最高裁判所は、準パブリックフォーラムにおいては、表現の自由を尊重するべき必要性が高いことから、要件をさらに一段強化して、いわゆる「明白かつ現在の危険」という基準を導入したのである。

 この基準は、米国において、防諜法違反事件におけるO.W.ホームズ判事による次の説明で、導入されたものである。

「すべての行為の性格は、それが行われるときの状況いかんによって決定される。言論の自由のもっとも厳格な保護も、劇場において偽って火事だと叫び、パニックを引き起こした者を保護しないであろう。(中略)問題は、いかなる場合にも、用いられた言葉が連邦議会が防止する権限を持つ実質的な害悪を生み出す明白かつ現在の危険を生ぜしめる状況において用いられ、かつそのような性質のものかどうかである。それは近接性と程度の問題である。」

 これは極めて悪名高い論理でもある。ここで登場した明白かつ現在の危険理論は、厳格な審査基準に比べると、一段緩やかな審査基準なのである。戦時下という特殊性を根拠に、本来なら厳格な審査基準で判断するべき表現の自由規制立法に、合憲という結論を引き出すための手法として強引に案出されたのが、この審査基準である。第二次大戦後においても、数多くの反共立法の合憲化にこれが利用された。そこでの最大の問題は、何が明確かつ現在の危険なのか、に関する判断が、完全に判事の主観に依拠しているという点である。

 わが国最高裁も、この弱点は承知していて、上記引用箇所に続けて、次のように述べている。

「そして、右事由の存在を肯認することができるのは、そのような事態の発生が許可権者の主観により予測されるだけではなく、客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測される場合でなければならないことはいうまでもない。」

 さらにもう一つ強調しておきたいことは、明白かつ現在の危険基準は、理論的必然として導かれたものではなく、あくまでもこの判決が開発した基準だと言うことである。すなわち、準パブリック・フォーラムにおいては、純粋パブリック・フォーラムにおける厳格な合理性基準よりさらに厳格度を増すべきである、というところまでは理論として言える。しかし、それが具体的には、明白かつ現在の危険基準であるべきだ、ということは、理論として言えることではない。この問題に対するわが国最高裁判所の選択である、というに尽きる。だから、諸君の論文にも、理由としてそのことを明記し、客観的妥当性等から、この基準を支持すると言うように述べる(あるいは不徹底なものであり、厳格な審査基準を使用するのが妥当とまで述べる)のが正しい。

 本問を、時・所及び方法の規制論ではなく、表現の自由からアプローチした人の場合には、どうしても、審査基準としては厳格な審査基準が導かれる。他方、泉佐野市事件最高裁判所判決で明白かつ現在の危険を採用していることを知っているものだから、前者からいきなり後者へと話をつなげる、という強引な論法をする人が良くいる。しかし、これは上記の理由から致命的なミスである、ということを理解しておいて欲しい。

 なお、Xの主張に対しては、最高裁は、次のようにあっさりと片付けている。

「本件条例7条による本件会館の使用の規制は、このような較量によって必要かつ合理的なものとして肯認される限りは、集会の自由を不当に侵害するものではなく、また、検閲に当たるものではなく、したがって、憲法21条に違反するものではない。」

 ここに言及されている市民会館条例7条は、本問同様、「公の秩序をみだすおそれがある場合」には、会館使用を許可しないと言っており、これは、表現の自由からアプローチしていけば、必然的に過度に広汎な規定として、文面違憲の結論が出るはずの文言である。しかし、最高裁判所は、これに対して、合憲限定解釈の手法を導入することで、合憲といっているのである。先に説明したとおり、文面審査とは、萎縮効果を防ぐために合憲限定解釈を禁ずる理論のことである。したがって、この文章の前提に、時・所及び方法の規制にあたっては、文面審査⇒文面違憲の理論を適用するのは不適切である、という前提が存在している、ということが読み取れるであろう。