編集の自由とアクセス権

甲斐素直

問題

 AB市の市長Cは、D党に所属している。

 B市は近頃、財政赤字が増大しているが、Cは何とかB市が財政再建団体に転落するのを防ごうと大幅な支出の節減に乗り出している。その為に小中学校の統廃合など、福祉サービス水準の大幅な低下や職員の給料削減・首切りなどを断行しており、市として必要最低限の機能しか動いていない状態にあるため、住民の日常生活にも多大の影響が出るようになっている。

 テレビ局YB市に住んでいる人々の生活に関する特集を組むことを決め、総合的な取材を行った。

 D党と対立するE党では、この機会にD党に不利な政治状況を作り出そうと、Yの報道編集局長Fに積極的に働きかけた。

 E党の話を聞いて、D党が政治的に不利な状況になるのは良いことだと考えたFは、取材成果のうち、Cの施策のため市民の生活に様々な悪影響が生じていることや、それを批判する市民の声だけを取り上げ、Cの努力を肯定する市民の声や、さらにはCを支援するために自発的に市の活動を無償で支援するボランティア活動に関する取材はすべて没にした。このため、放映された番組を見る限り、B市財政は末期的状況にあり、このような状況に市を追い込んだC市長やD党がいかにも無能で、市民の支持も失っているという印象を与えるものになっていた。

 そこで、B市民が自発的に様々なボランティア活動も行っていることを偶々知っていたA県民Xは、CDに不利な情報のみをまとめた偏った報道であるとして、その是正を求めてYに訂正放送を行うように求めたが、Yが拒否したので訴えを提起した。これに対し、Yは放映した内容は客観的に真実な情報のみであること、Yも一国民として表現の自由を有しており、取材結果のどれをどのように利用するかはYとしての編集の自由に属すると反論した。

 Yの反論の憲法上の当否について論ぜよ

参照条文:放送法

 

第一条(目的)  この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

第三条(放送番組編集の自由) 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

第三条の二(国内放送の放送番組の編集等)  放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

 公安及び善良な風俗を害しないこと。

 政治的に公平であること。

 報道は事実をまげないですること。

 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

2〜4項 略

第四条(訂正放送等)  放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によつて、その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人から、放送のあつた日から三箇月以内に請求があつたときは、放送事業者は、遅滞なくその放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から二日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正又は取消しの放送をしなければならない。

放送事業者がその放送について真実でない事項を発見したときも、前項と同様とする。

前二項の規定は、民法(明治29年法律第89号)の規定による損害賠償の請求を妨げるものではない。

 

[はじめに]

 報道の自由は、19世紀的な表現の自由概念が、20世紀的な諸要因の影響を受けて変質し、知る権利概念が確立したことから導かれた概念である。しかし、21世紀の今日、全体としてはインターネットの影響を受けて、そして電波メディアに関してはデジタル化の影響を受けて、再び激しい変革にさらされている。要するに、20世紀までは問題なく正しいと認められた記述が、21世紀的状況の下で、必ずしも正しいものではなくなってきている。つまり、今日では、インターネットにホームページを設けたり、ブログを書いたり、ツィッターでつぶやいたりして、誰もが再び情報の発信者としての地位を取り戻した。また、ネットを検索することにより、誰もが膨大な量の情報を収集することが可能になった。また、電波メディアに関しては、デジタル化により、電波が決して希少な資源ではなくなった。そのことは、例えば衛星テレビやケーブルテレビが100を超すチャンネルで発信していることに端的に示されている。しかし、そうした問題状況を真っ向から論じると完全に論点ぼけを起こす。そのあたりの問題状況に触れずに報道の自由をどう記述するかが、今の時点でこのテーマを取り上げたときの、最も難しい点となっている。

 そのあたりの記述に注意しさえすれば、報道の自由に関する論文を書くのは大変易しい。完全に内容が定型化されているので、その定石通りに書けば合格答案と評価されるからである。本問の答案構成を示せば、次のようになる。

@ 報道の自由に関する論文は、常に知る権利の説明から書き始めなければならない。そのためには、さらにその前提として表現の自由概念そのものを論じなければならない。表現の自由をどのような概念かを、まったく述べずに、いきなり報道の自由に関する議論を始めるのは、基本的に間違っている。

A その知る権利に奉仕する権利として、報道の自由を論証する。論証にあたって注意するべきは、その特権性と、その限界である。

B 報道の自由から派生する権利として、取材の自由と編集の自由を導く。ここまでは、どんな形で出題された場合にも、基本的に同一の文章を書けばよい。

C 本問の場合には、編集の自由が中心論点であるから、編集の自由の特権性と限界性が詳しい議論にならねばならない。

D 報道の自由の限界から、マスメディアへのアクセス権を導く。

E アクセス権を、実定法上、どのように行使するべきかが最後の論点となる。

 なお、放送法は極めて重要な法律であるにも拘わらず、携帯型六法には掲記されていないので、参照条文として示した。

 

一 知る権利と報道の自由

(一) その基本的な概念

 表現の自由は、本来、あらゆる人間が情報の発信源となりうる状況を前提に、その自由を保障することによって、国民の知る権利が実質的に保障されることを予想していた。つまり、「思想の自由市場」が存在していれば、国民は、そこにアクセスさえすれば、知りたいことは何でも知ることができるから、わざわざ知る権利を書く必要はなかった。そのために、わが国憲法21条に代表されるように、憲法の文言それ自体は、知る権利を保障する文言を欠いていたのが普通だった。その結果、石井記者事件最高裁判例(昭和2786日=百選第5156頁)に代表されるように、表現の自由とは「言いたいことはいわせねばならない」ということに尽き、いう内容を探す行為は憲法の保障の下にはない、という意見が、かつては通説的地位を占めていた。

 しかし、20世紀においては、二つの大きな変化が発生した。

 一方において社会国家が発達し、膨大な情報を収集、蓄積し、それを活用して、莫大な国費を投じ積極的な行政活動を行うようになった。しかし、その行政活動を行う基礎となった情報の安易な公開は、一面ではプライバシー侵害に繋がり、他面では国家機密の侵害になるとして、そのほとんどに守秘義務をかぶせて国民に公開して来なかった。この状態を放置したのでは、国民は国の情報操作の客体にされるだけで、国政の主体とはなり得ず、国民主権は形骸化してしまう。こうした状況の下で、国民の主権者たる地位を確立するためには、表現の自由を、情報発信の自由ではなく、知る自由として捉える必要が発生する。

 他方、マスメディアが発達したために、情報の発信源としての地位を事実上それら情報産業が独占するようになり、送り手と受け手の分離が大幅に進んだ結果、表現の自由概念を大きく再構成する必要が発生した。すなわち、国民は一般的には情報の受け手としての地位にある。そこで、これらマスメディアが適切な情報を適切な手段で国民に提供することにより、知る権利に奉仕することができる。

 この20世紀における大きな変化が、表現の自由の重要な内容として、知る権利を考えル必要を生じさせたのである。

 こうした状況の変化を受けて、国際人権B規約(昭和41年制定、わが国の批准は昭和54年)192項は表現の自由の概念そのものが、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定義する。すなわち、人権規約のいう表現の自由は、わが国の伝統的な理解に比べると、第一に、思想・信条、すなわち「考え」に限定されるわけではなく、「情報」にまで拡大されている点、第二に、「伝える自由」だけでなく「求め、受ける自由」も含む総合概念となっている点に大きな相違がある。わが国憲法21条は表現の自由を保障しており、我々は今日、この国際人権規約の定義にしたがって表現の自由を理解するから、21条から知る権利を読むことができるのである。

 上記説明は、いわば外側から、形式的に説明したものである。憲法上に明確な根拠の内権利を論証するには、常に、形式・実質両面から説明する必要がある。実質的に説明する為には、知る権利の本質そのものに遡って、例えば、人権の本質を人格的利益説に求める立場では、各人は自らの人格を自由に発展させる権利を持つのであり、そのためには、自己を成長させるために必要なあらゆる種類の情報を、求め、または受ける権利を必然的に保有する、と述べるのが適切であろう。論文で、紙幅の関係からこのように長く書く余裕がないときには、、「自己実現と自己統治の権利確保のために」知る権利が認められるといっても良い。こういう簡潔な表現も是非覚えてほしい。

(二) 報道の自由の定義について

 報道の自由は、決して表現の自由の一類型ではない。その本質は、上述した知る権利に奉仕する権利という点に求められる。すなわち、表現の自由とは異なる権利類型である。報道の自由とは、報道機関が国民に対して事実の伝達をする自由を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人である点に第二の特徴がある。

 いつも強調しているように、定義は真空中から生まれるものではない。定義を下したら、必ず、何故その様に定義を下すことができるのか、その理由を述べなければいけない。

  1 事実の伝達

 事実の伝達という点を押さえることは、編集の自由を中心論点とする本問では特に重要である。事実の伝達を使命とするものであるから、その事実を歪める形に編集権を行使することが問題となるからである。

 かつては、表現の自由は、憲法19条の思想信条の自由を受けて、これを外部的に表白する自由を意味すると解されていた。その前提の下においては、純然たる事実の伝達は、そのままでは表現の自由の保護客体とならない。そのため、かつての学説は「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」というような詭弁を弄して、無理にその保護対象に取り入れていた(本問Y側の主張はこのことを念頭に置いている)。

 このような説明の下においては、報道の自由は、自民党の自由新報や共産党の赤旗のように、特定の主義主張の下に、必要とあらば真実をねじ曲げる編集をするような報道姿勢の場合には保護対象となりやすいが、報道の自由の理念に忠実に、純粋に客観的真実の報道に徹すれば徹するほど、保護から遠のくという奇妙な結論が導かれる。また、石井記者事件最高裁判決に端的に現れているように、取材の自由までは保障しないという結論が容易に導かれることになる。

 これらの見解は、報道の自由の本質を捉えて、それを真っ正面から保護しようという姿勢に立つ理論とはいいがたい。その様な説明は、無益どころか、有害なものと評価すべきであろう。

  2 報道機関による活動

 表現の自由の享有主体は、あらゆる人である。そして、表現の自由が情報の伝達を含む概念である以上、一般人が、その表現の自由権行使の一形態として客観的真実の伝達を行うことも多い。しかし、その様な活動のことを報道の自由の行使という必要はない。わざわざ、事実の伝達活動を、通常の表現の自由とはことさらに分けて、「報道の自由」というとき、それは、報道機関という特別な機関による事実の伝達活動をいうものと理解すべきである。それは、報道機関が行う事実の伝達活動は、一般人が行う事実の伝達活動に比べて、憲法上、特別の保護と、制約が課せられるからである。

 その相違は、一般人が行う事実の伝達活動は、上述したところから明らかなように、純然たる表現の自由そのものであるのに対して、報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。

 このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和441126日、百選第5162頁参照)は次のように述べている。

「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」

 すなわち、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない点をきちんと押さえておかねばならない。

 この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。なぜなら、上述のようにマスメディアが今日では情報の発信を独占しているが故に、その持つ報道の自由を特別に保護することによってしか、我々国民の知る権利を実効的に保障することはできないからである。

 その報道機関に対する特別の保障の結果、例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道機関により報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。その中心にあるのが、取材の自由という概念の下に、特に論ぜられる様々な特権である。

 他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求され、さらに一定の偏りがあった場合には、国民からのアクセス権が肯定される場合がある。この最後の点については、詳しくは後述しよう。

  3 編集権について

 芦部信喜は、岩波書店から出している教科書では、報道の自由も表現の自由に含まれるとし、その理由として奇妙なことを述べる。

「これは、報道のために報道内容の編集という知的な作業が行われ送り手の意見が表明される点から言っても、さらに、報道機関の報道が国民の知る権利に奉仕するものとして重要な意義を持つ点から言っても異論がない。」(『憲法』第4版岩波書店171頁より引用)

 しかし、「報道内容の編集という知的作業が行われること」という点をとらえて、報道の自由を表現の自由の内容として肯定するという主張は、基本的にかつての「事実の報道と思想・信条の発表の区別は困難である」という主張の亜流であって、とうてい妥当とはいえない。それを「知る権利に奉仕する権利」ということを併記するのは、むしろ矛盾を拡大する。知る権利に奉仕するということは、それが客観的情報であることを必要とするが、編集を通じて送り手の意見が現れている場合には、それは客観報道とは言い得ないからである。

 実は、『憲法学V 人権各論(2)[増補版]』(有斐閣2000年刊)283頁では、芦部は編集にあたって報道するものの意見が混入するという見解に対して、そのような「論旨だけでは、国民の知る権利と報道の自由との現代社会における不即不離の関係を明らかにすることはできないであろう」と切って捨てている。こちらが後からの著作であり、遙かに詳しい記述であることから見れば、教科書にある上記表現は、芦部にとっても克服さるべき過去の説と評価することができるであろう。

 このような編集権の行使に、報道者側の主観が混入するという問題を巡っては、テレビ朝日報道部長放言事件が有名である。学生諸君の場合には、そんな話は聞いたこともないという人も多いと思うので、簡単に紹介すると、これは次のような事件である。

 平成57月の第40回衆議院議員選挙において、自民党は223議席に止まったのに対して、共産党を除く野党の合計議席数は243議席に達し、自民党は政権の座から滑り落ちた。この選挙では、テレビが重要な役割を果たしたといわれた。そこで、民放連の作っている放送番組調査委員会は、921日、「政治とテレビ」をテーマとして取り上げ、テレビが演じた役割とともに、今後の政治報道のあり方について検討を行った。その場の報告者であった椿貞良・テレビ朝日報道局長が、選挙時の同局の報道姿勢について、オフレコを条件に次のような発言を行った。

「『今度の選挙は、やっぱし梶山幹事長が率いる自民党を敗北させないとこれはいけませんな』ということを、ほんとに冗談なしで局内で話し合った」「私どもがすべてのニュースとか選挙放送を通じて、やっぱしその55年体制というものを今度は絶対突き崩さないとだめなんだという、まなじりを決して今度の選挙報道に当たったことは確かなことなんです」「55年体制を突き崩して細川政権を生み出した原動力、主体となった力はテレビであると私は確信しています」「報道局の政経のデスクとか編集担当者とも話をした」「今度の一連の選挙運動報道に関する限り、『われわれはやっぱし55年体制を突き崩さないとだめなんだ』というところに視点を置いてものを作っていったわけですから、そういう意味合いからいけば、例えば、何度も何度も私は文句を一言われ、それから『赤旗』にも書かれたんですが、やはりああいう場面で、共産党に対してその公正な時間を、公正な機会を与えることはかえってこれはフェアネスでなくなるというふうに僕は判断するわけなんです。」

 このように番組の編集にあたって偏った姿勢をとったことが放送法の定める不偏不党性に違反するとして、同氏は同年1025日、衆院政治改革調査特別委員会に喚問され、テレビ朝日そのものの放送免許そのものの取り消しまで検討される事態に発展した。

 このように、報道機関がフルに編集権を活用すれば、視聴者の知る権利を踏みにじり、特定の見解を持つ方向に誘導することが可能である。当然のことながら、これは電波メディアの場合には放送法が明文で要求している不偏不党性に反し、印刷メディアの場合にも新聞協会の倫理綱領に違反するもので、その様な編集権の行使は到底肯定できない。

 このように、編集権を論点とする論文では、知る権利に奉仕する権利という点から、不偏不党性を侵害し、発信者の意見を伝えるような編集権の行使は許されないと議論すればよい。編集権の限界はそこにある。

 

二 マスメディアへのアクセス権

 問題は、そのことを裁判でどうやって争ったらよいか、である。出題者は、当初、Xを番組制作のために取材を受けた者とし、Xとして、自らの意見が放映されることを期待できる権利というものを想定して作問しようとした。しかし、上述のとおり、マスメディアには編集の自由があり、特に電波メディアの場合には、放送法3条が明文で保障するところである。他方、期待権とは具体的な権利性は持たない権利の総称だから、少なくとも憲法学的にそれを論証することは不可能である。そこで、本問では、一般聴視者の持つ、マスメディアへのアクセス権として作問している。

(一) アクセス権の根拠

 知る権利は、本来はマスメディアが自分の報道の自由を確保するための理論的支柱として開発したものであるが、理論は常に一人歩きする。知る権利はその生みの親のマスメディアを制約する理論として登場してくる。

 簡単に要約すると、次のようになる。

 情報の送り手と受け手が分離した結果、我々国民の知る権利の充足は、マスメディアの報道に全面的に依存するようになる。そのため、一面においてマスメディアは我々一般国民が有する情報を求める権利よりも強力な取材の自由が保障される。例えば、公務員にその秘密を明かすように求める行為は、我々一般国民が行えば犯罪であるが、マスメディアが行えば正当業務行為とされる(外務省秘密電文漏洩事件=最高裁判所昭和53531日判決=百選第5166頁参照)。また、一般国民の表現の自由よりも強力に報道の自由が保障される。例えば人の名誉を傷つける表現は、一般国民が行えば犯罪になるが、マスメディアが行った場合には、「専ら公益を図ることにあった」という推定が働く結果、構成要件該当性が一般に否定されることになる(月刊ペン事件、有閑和歌山時事事件等参照)。

 このように強力な取材の自由、報道の自由を保障される代償として、しかし、マスメディアの表現の自由、特に編集権には大きな制約が生まれてくる。我々一般国民としては、マスメディアの提供する情報に依存して、判断を下すのであるから、マスメディアの情報が一党一派に偏ったものであってはならない。その結果、マスメディアは我々一般国民の有する表現の自由、すなわち自分の思想・心情を表現する自由に関しては否定されるということになる。それを肯定しては、客観的な情報を報道するが故に認められる報道の自由その者の否定になるからである。

 問題は、報道の不偏不党性をどのようにして保障するか、である。

 第一に、国家機関そのものがマスメディアに介入して、偏向した情報を発信した場合に、それを抑圧する、という方法がある。例えば、先に紹介したテレビ朝日報道部長放言事件の場合がそれである。しかし、このような方法をとる場合には、報道の自由そのものが国家権力により歪む可能性があり、一般論としては妥当ではない。

 第二に、政府や国会から独立した独立行政委員会によって規制する、という方法がある。アメリカでは現在は連邦通信委員会(Federal Communications Commission)がその任に当たっている。例えば、アメリカであるテレビ局が社説放送を行ったのに対して、テレビ局に思想・信条等の表明の自由はない、として連邦通信委員会がそのテレビ局の免許を取り消した事件がある。この決定は米国連邦最高裁によっても支持された。

 わが国でもかつてはFCC類似の電波監理委員会が存在していたが、現在は廃止されて存在していないから、この方法は、現行実定法的には不可能である。

 第三の方法が、本問のメインテーマであるマスメディアに対するアクセス権である。報道が偏向しており、誤った情報がその受け手に供給された場合には、国民としてマスメディアにアクセスし、正しい情報を誤った情報と同一の手段、規模で報道し直すように要求する権利を肯定するのである。そのような再度の報道は、マスメディアにとって非常に大きな負担となるから、当然、情報の変更を避けるために大きな努力を払うことになる。すなわち、マスメディアへのアクセス権を承認することは、報道の不偏不党の重要な手段と考えることができる。この場合、報道が偏向した誤ったものであったか否かは、最終的には裁判所による判定を待つことになる。

 つまり、マスメディアとの関係における知る権利の性格は、対国家関係における知る権利とはかなり違う。基本的に、マスメディアに対して、その思想や良心に関する表現の自由を否定しようと言うのだから、これを21条から直接引き出すことは絶対に不可能である。この権利の内容は、国(司法権も含めて)に対して、マスメディアが情報を自由に操作しないように、中立、公平な報道を行うように監視することを要求しているから、典型的な社会権である。したがって、根拠条文は25条ないし13条ということになる(どちらになるかは基本書に相談しよう)。

 マスメディアに関して、現行実定法は大きく異なる二つのスタンスをとっている。本問で問題になっている電波メディアに関しては、実定法そのものが一応の規定をおいているのに対して、印刷メディアに関しては、何の規定もない。その分だけ、電波メディアに限定している本文は易しいことになる。

(二) 電波メディアにおける訂正請求権

 報道内容の不偏不党という要求は、電波を媒体としたメディアには、全面的に向けられている。なぜなら、電波、特に地上波は極めて限られた周波数しか使用可能ではない、という意味で、貴重な公共の財産であり、その本質から電波媒体を利用したメディアは必然的にマスメディアになるからである。このような貴重な公共材の私物化は到底許容できない、という事情から、これに対する中立性の要求は容易である。参照条文に付したとおり、わが国放送法第1条は明確に不偏不当性を要求している。

 さらに、314号は、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と定めて、聴視者の、知る権利を確保することを要求している。この結果、電波媒体によるメディアでは「社説放送」をすることは事実上不可能になっている。

 このような条文を見た後ならば、テレビ朝日報道部長の、情報操作により自民党を敗北に導くことができた、という趣旨の不用意な発言をした場合、それがなぜ国会喚問という事態を招いたのか、容易に理解できるであろう。あれは実定法上、明確に違法な行為だったからである。喚問が表現の自由に対する国家権力の介入というとらえ方をされなかったことは、この知る権利が、十分に確立していることを端的に示している。

 このように、電波メディアにおける表現の自由は厳しく制約される結果、放送法41項は「放送事業者が真実でない事項の放送をした」場合における「その放送により権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」からのアクセス権を認めている。

 本問の場合、一般に大きく意見が対立する問題について、特定政党の意見のみを感じさせるような形に編集権を行使したのであるから、明らかに放送法314号に抵触している。問題は、Xが「権利の侵害を受けた本人又はその直接関係人」といえるか否かである。

 文言だけからすれば、誤った報道によって個人的損害を受けた場合に限定しているように見える。そこから言えないと考えた場合には、しかし、Xの知る権利がYの編集権の歪んだ行使により侵害されたのであるから、そのことに基づいて、いわば条理に基づいて、つまり放送法4条の類推適用で訴えを行うことになる。

 しかし、類推適用が可能なぐらいなら、直接適用を考えた方が話は早い。Xは知る権利の侵害を受けたのであるから、権利の侵害を受けたといえると考えれば、4条に基づいて直ちに訂正請求権を行使しうる。

 印刷メディアに関するサンケイ新聞事件(最高裁判所昭和62424日判決=百選第5170頁参照)において、最高裁判所は、反論権という権利をマス・メディアに対するアクセス権から直ちに導くことは許されず、国に対する情報公開請求権の場合と同じように、立法を必要とする、とした。そこで、前記放送法4条が、そうした授権立法といえるか、という問題が生ずるので、この問題に言及し、同条も反論権までも肯定するものではない、とする。

「放送法4条は訂正放送の制度を設けているが、放送事業者は、限られた電波の使用の免許を受けた者であつて、公的な性格を有するものであり(同法443項ないし5項、51条等参照)、その訂正放送は、放送により権利の侵害があつたこと及び放送された事項が真実でないことが判明した場合に限られるのであり、また、放送事業者が同等の放送設備により相当の方法で訂正又は取消の放送をすべきものとしているにすぎないなど、その要件、内容等において、いわゆる反論権の制度ないし上告人主張の反論文掲載請求権とは著しく異なるものであつて、同法4条の規定も、所論のような反論文掲載請求権が認められる根拠とすることはできない。」

 このように、反論権という特殊な主張はともかく、本問に対する回答としては、Xは訂正請求権までは問題なく認められると考えて良い。