税務調査権と憲法
35条問題
所得税法は、収税官吏が所得税に関する調査について必要があるときは、納税義務者などに質問しまたは帳簿書類その他の物件の検査をすることができる旨を規定し、それらを拒否・妨害・忌避した者に対しては罰則規定を定めている。
A市で食肉販売業を営んでいるXは、A市を管轄するB税務署に、当該年度の所得額に関する確定申告提出した。
この確定申告内容に疑問を感じた
B税務署収税官吏Cは、税務調査のため、そこに備え付けられている帳簿書類等の検査し、それに基づいて質問をしようと、数回にわたってXを訪問した。しかし、
XはCに対し、その都度、司法官件の発した令状無しに、Xの店舗に立ち入ることを認めた所得税法に基づく検査は令状主義を定めた憲法35条1項の違反であるとの理由で、検査を拒否した。そのため、Xは、所得税法242条に基づき起訴された。Xの主張の憲法上の問題点について論ぜよ。
参照条文 所得税法
234
条(当該職員の質問検査権)242条第10号(罰則)において同じ。)その他の物件を検査することができる。 国税庁、国税局又は税務署の当該職員は、所得税に関する調査について必要があるときは、次に掲げる者に質問し、又はその者の事業に関する帳簿書類(その作成又は保存に代えて電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他の人の知覚によつては認識することができない方式で作られる記録であつて、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。)の作成又は保存がされている場合における当該電磁的記録を含む。次条第2項及び第
242
条 次の各号のいずれかに該当する者は、一年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。ただし、第三号の規定に該当する者が同号に規定する所得税について第240条(源泉徴収に係る所得税を納付しない罪)の規定に該当するに至つたときは、同条の例による。第234条第1項(当該職員の質問検査権)の規定による当該職員の質問に対して答弁せず若しくは偽りの答弁をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ若しくは忌避した者 九
[はじめに]
(一) 憲法演習ゼミナール読本(下)
464頁に、税務調査権と憲法31条という問題が載せてある。本問は、それと同旨の問題であるが、憲法35条を問題にしている点が違っている。しかし、31条は刑事基本権に関する総則規定である。つまり、税務調査に31条の適用がなければ、そもそも35条の適用可能性を考える余地がない。そう言う意味で、これは基本的には同根の問題であるので、本問の論文作成に当たってもそれを参照して書いてくれて、最後の段階で31条と35条の異同から、適用可能性に差異が生じるか否かを検討してくれれば、十分に合格レベルの答案が書けるのである。そして、諸君の全員が参照してくれていれば、本日のレジュメは,その問題と
35条の問題の異同だけを説明すればよい。残念ながら、全く参照してくれた形跡がない答案が提出されているので、そうも行かない。そこで、今回は、まず簡単に31条の問題の要点を説明し、ついで35条の説明をすることとしたい。(二) かつて、行政手続に憲法
31条が適用になるか否かは、激しく争われた。しかし、今日では、通常の行政処分は、行政手続法の定めるところにより、告知・聴聞等の手続きを踏むことが要求されている。したがって、告知・聴聞の不存在等は、法律違反の問題になるので、憲法違反を論ずる必要はない。しかし、本問の税務調査に代表される行政調査については、同法3条14号により、同法が適用除外とされている。これは、場合によっては抜き打ち調査など、事前告知が不適切な場合もあるからである。したがって、その様な特殊な場合を除いては、やはりこの結果、憲法違反を争うほかに、適切な争訟方法がない。つまり、今日ではこの種事件に限り、憲法問題になるというわけである。(三) 税務調査権は、大きく分けて3種類ある。
第一は、納税義務確定のための資料集を目的とする調査権である。本問で問題となっている所得税法
234条の調査権がその典型である。この調査権は、その性質上、被調査者の同意・協力を前提とする任意調査である。それにもかかわらず、被調査者は調査を受忍する義務を負い、応じない場合には罰則による制裁を受けるという点に特徴がある。したがって、間接強制力を持っているといえる。第二は、租税徴収のための調査権である。滞納処分を下すためには、滞納者の財産を把握する必要があり、この調査権は、そのために、国税徴収法で認められているものである。この場合には、すでに滞納という違法状態が発生しており、これを受けて、現行法は、納税者が協力しない場合には、第三者や警察官の立ち会いを認めるなど、直接的強制力を一定限度で認めている。
第三は、犯則事件のための調査権で、国税犯則取締法が定めるものである。犯罪事実の確定を目的としたものであり、その結果、判例が憲法
38条の黙秘権を認めていることに現れるように、犯罪捜査の性格を明確に有している。この三つは、このように、それぞれ法的性格がかなり違うので、ある調査権を行使するそのついでに行うとか、密かに他の調査権の目的を達成するようなことは許されない。そのことは、所得税法
234条2項の明言するところである。すなわち「前項の規定による質問又は検査の権限は、犯罪捜査のために認められたものと解してはならない。」
一 適正手続き
本問の第一の論点は、憲法
31条の定める法定手続きの保障とは、英米法にいうデュープロセス概念と読む、ということを意味するか否かである。そして、第二に31条の表現から、告知、弁解、防御の機会を行政手続においても認めねばならないということを読み込むことが可能か、という論点がそこから生じる。英米法における
due process of lawの理念とは「手続及び実体要件の双方について法定されなければならないのみならず、内容も共に適正なものでなければならない。」というものである。すなわち、デュープロセスは、さらに実体的デュープロセスと手続き的デュープロセスとに分けて論じられる。しかし、ここで本問で論点としている告知、弁解、防御の機会というのは、そのうち手続き的デュープロセスを意味する。ちなみに、実体的デュープロセスは、わが憲法学では一般に幸福追求権として論じられる概念にきわめて近い。わが憲法において、13条で手続き的デュープロセス概念も読もうとする説は、この点から導かれてくる。due process of lawにいうlawとは、法律の意味ではなく、法的正義の意味である。すなわち、ドイツ流の罪刑法定主義が、罪と刑の双方を法律という法規範で制定することを要求するのに対して、ここでは、それが正義の理念にかなったものであることを要求する点に最大の特徴がある。
39条にまでさかのぼるといわれる。すなわち、 その源流は、マグナカルタ
「いかなる自由人も、その同輩の合法的裁判によるか、または国土の法によるのでなければ、逮捕、監禁、差し押さえ、法外放置、もしくは追放され、または何らかの方法によって侵害されることはない。」(樋口=吉田編『解説世界憲法集』より引用)
5条でこれが謳われている。すなわち、 米国合衆国憲法の場合には、修正
「何人も・・法の適正な過程によらずに生命、自由または財産を奪われることはない。」(同上)
同条の場合、連邦機関による恣意的な権力行使の抑圧を目指し、専ら手続き的デュープロセスを定めているにすぎない。これに対して、南北戦争後に、戦後処理の一環として黒人差別の禁止などととも制定された同修正
14条1節は、逆に連邦による州に対する干渉権を認めて、次のように定める。「いかなる州も法の適正な過程によらずに、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。」(同上)
この規定の場合、名宛人として州が明確に定められている点で、連邦最高裁の権限が拡張されている。
普通、継受法解釈の原則からすれば、アメリカ憲法の影響下に制定されたわが国現行憲法の解釈に、英米法のデュープロセス概念を読むことに問題はないように思える。しかし、マッカーサー草案の制定過程において、デュープロセス概念は意識的に排除され、その結果、憲法
31条の文言も、「法律の定める手続きによらなければ」に対応する英文は“except according to procedure established by law”という表現をとっていて、“due process of law”いう表現はとられていないのである。ここから、上述の第一の論点の問題は出てくる。すなわち、立法過程においてあえて排除したデュープロセス概念を、ここにいう法定手続き保障という言葉に読み込むことが可能か、という問題である。
自動的に第二の論点の問題も出てくる。英米法のデュープロセス概念は、行政手続きにも及ぶことははっきりしている。これに対し、
31条は文言的には刑事手続きを対象としたものだからである。そして、総論規定である
31条が行政手続きに適用にならない限り、各論規定である35条の、行政手続き適用可能性を考えることはできない。したがって、本問では、まず31条について論じ、それがどこまで35条の解釈に及ぼせるか、という論理の流れを採る以外に方法はない。
二 学説の状況推移
(一) わが国では、上記のような制定経緯を受けて、憲法
31条が米国流のデュープロセス概念を採用したものではない、という説が初期においては通説であった(美濃部達吉『新憲法逐条解説』1947年刊70頁参照)。その後においても、例えば日本国憲法制定過程の研究者であり、米国のデュープロセスの研究者である田中英夫が「憲法31条(いわゆる適正手続き条項)について(『日本国憲法体系』有斐閣1965年刊、第8巻、165頁)」という論文において、31条は米国のデュープロセス概念とは無関係である、と断じている。これら消極的な考え方の根拠には、この立法経緯の影響が大きい。しかし、徐々にではあるが、同条を手続き的デュープロセスと読む学説が登場してくる。そして、今日では、むしろ認めるのが一般的になっている。
しかし、その場合でも、狭く解する立場と広く解する立場の対立がある。
狭く解する代表者は宮沢俊義である。彼は次のように述べて、
31条が米国流のデュープロセスであるという。due process of law)とその趣旨を同じくするといえよう。」(宮沢俊義『日本国憲法』1955年刊、285頁) 「『法律の定める手続』は、かような意味において、いわゆる『妥当な法の手続』(
さらに宮沢俊義は、行政手続きへの準用を肯定する。しかし、それは、次の通り、刑事手続に類する場合に限るのである。
286頁) 「かならずしも刑罰の場合以外は、『法律の定める手続き』によらずに、自由を侵していいという意味ではない。そういう場合には、当然、本条が、ことの性質に応じて、準用されるべきものとおもう。たとえば、少年法による保護処分や伝染病予防法による強制収容などは、やはりそれぞれの性質に即した『法律の定める手続き』によるべきものである。」(同書
これに対し、全面的な肯定説もある。代表的な肯定説を見ることにしよう。
2版271頁) 「こんにちにおいては、かつての『消極国家』の時代とは違って、刑罰権のみを制約することだけで人権侵害の危険性がのぞかれるものではない。『積極国家』という言葉で表されるように、こんにちの国家は国民生活に多種多様な形でー単に秩序維持・弊害除去といった消極的な形だけでなく、より積極的に特定の政策目的を推進するなどの形でーかかわりをもつようになっている。ここでは、必然的に、行政権の役割が増大する。このように、行政権の機能が増大し国民生活に大きくかかわるものになってくると、行政権の行使による国民の権利・自由侵害の危険性が、刑罰権の発動による場合と同じく、(あるいはそれ以上に)、重大な問題とならざるを得ない。そうであれば、人権保障のためには、行政権の発動についても、適正な手続きによるべきことが要請されなければならないことになる。」
(浦部法穂『憲法学教室』全訂第
ここでは、条文の文言がどうか、という問題は度外視し、行政手続におけるデュープロセスの適用の必要性が正面に押し立てられているということができる。日本国憲法の下でデュープロセス概念を承認しつつ、それは
13条で読む有力説がある(佐藤幸治『憲法』第3版587頁参照)。しかし、その立場だと、35条を行政手続きに及ぼす余地はないから、本問のXの主張とはかみ合わないので、ここでは、紹介しない。(二) こうして、かつてとは異なり、近時はデュープロセスを何らかの形で行政手続きにも肯定するのが多数説となりつつあるが、では、その学説の内容として、どのような点が論じられているか、というと、必ずしも明確ではない。
29条以下に基づく知事の強制入院など) 1 刑罰と実質的に同様の機能を果たす秩序罰や、執行罰としての科料
2 身体の拘束を伴う行政処分(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律
というような実質的に刑罰類似の機能を果たす行政活動について、手続き的保障が及ぶという点についてはほとんど異論がない。しかし、では、上記場合に令状主義がとられていないことを直ちに違憲というか、という点についてはとたんに明確性が欠ける。
より一般的に行政手続きにデュープロセス保障は及ぶか 3
という点になると議論が分かれてくる。松井茂記は、この状況を、批判的に次のように要約している。
31条が『行政手続き』に適用されるかどうか、という形でしか論じられなかった。しかも憲法31条の要求が『行政手続き』にも適用されるべきだといわれながら、その適用されるべき『行政手続き』というのが具体的にはいかなる手続きを指すのか、いっこうに明らかにはされなかった。 「行政手続きにおける手続き的デュープロセスの問題は、概して、そもそも憲法
さらに従来の学説は、そもそも憲法
31条が行政手続きに適用されるか否かというレヴェルでの議論に終始したため、憲法31条が適用された場合、いかなる手続きが要求されるのかというレヴェルでの議論が全く欠けてしまった。つまり、具体的な行政の手続きが手続き的デュープロセス違反だとして裁判所で争われたときに、裁判所が手続きの合憲性を判断する具体的な基準の議論が存在しなかったのである。」(松井茂記「行政手続きにおけるデュープロセス」ジュリスト
1089号273頁)要するに、そうした点については、憲法学は、判例と行政法学に任せていた、といっても過言ではない状況だったのである。
幸いにも、行政法学は、この責任をきちんと果たしてくれている。そこで、諸君としても、憲法学に関する問題でも、基本的に、行政法学の説くところにしたがって記述すればよい。それによれば、行政手続きにおける適正手続きの内容については、適正手続き四原則というものの存在を認めることができる。塩野宏『行政法』
222頁に準拠しつつ簡単に概念内容を紹介すれば、次の通りである。(1) 告知・聴聞
行政処分をする前に、相手方に処分内容及び理由を知らせ、その言い分を徴する事により、処分の適法性、妥当性を担保し、公権力の侵害から国民の権利・利益を守ろうとするものである。
(2) 文書閲覧
聴聞に際して、処分の相手方が当該事案に関し、行政側の文書等の記録を閲覧することをいう。告知によって、相手方はどのような理由で処分がされることを知ることができるが、文書閲覧を認めることにより、それがどのような証拠によって支えられているかを知ることができることになる。これによって、当事者は聴聞の段階で的確な意見を述べることが可能になるわけで、聴聞の意義を実質的に支える機能を有する。
(3) 理由付記
行政処分をするに際して、その理由を処分書に付記して相手方に知らせることをいう。これにより行政処分の恣意抑制機能、慎重配慮確保機能、不服申立ての便宜機能等が確保され、行政手続きにおける公正、透明性の向上に資することになる。最高裁判所は、司法修習生の裁判官任官拒否を行うに当たり、その理由を明らかにしない方針をとっているが、これはこの原則に対する明らかな違反ということができる。
(4) 審査・処分基準の設定・公表
申請に基づく利益処分であれ、不利益処分であれ、行政庁が処分する際によるべき基準を設定し、これを事前に公表しておくことである。
しかし、本問の論点である憲法
35条の適用可能性が認められるか、という問題は、こうした行政手続法の保障した範囲を超えているので、単純な回答は困難である。
三 川崎民商事件
(一) 民商とは?
判例が、どのように推移してきたか、ということも、諸君にとっては大事な問題だが、それについても憲法演習ゼミナール読本に譲ることとし、ここでは、いきなり ここでは、最初から川崎民商事件=最大昭和
47年11月22日(憲法百選260頁)を検討することにしよう。事実関係は極端に簡略化されているが、本問は基本的に、同事件に依存したものだからである。具体的な議論に入る前に、民商という言葉を説明しておく。日本には、商工会議所法という法律に基づいて、全国の市に、商工会議所という半公的な商工業者の組織が存在している。そして、町村部には、同じく商工会法という法律に基づいて、商工会議所類似の商工会という名の組織が存在している。これは、ドイツで発達した
Handelskammerの日本的な受け入れである。川崎民商事件で知られる「民主商工会(民商)」は、これと非常に紛らわしい名称であるが、法的根拠の無い純然たる民間組織である。このように紛らわしい名称が許されるのは、それが商工会法の制定より古い歴史を持っているからである。すなわち、昭和
23年に荒川民主商工会が誕生したのをきっかけに全国に広がり、現在では会員数35万人を数える大組織に成長している。民主商工会は、共産党系の中小企業者の組織で、国家の権威、特に税務署に対しかなり戦闘的で、例えば堺税務署事件(最判昭和52年12月19日)では、徴税虎の巻を税務署職員に持ち出せて、秘密漏洩罪に問われるという事件を起こしている。民商がそういう態度をとる以上当然なのかもしれないが、税務当局は民商を非常に嫌い、民商加盟者に対して嫌がらせ的な税務調査を全国的に展開した時期がある。その結果、最高裁判決だけをとっても、川崎民商事件(最判大昭和47年11月22日)、荒川民商事件(最判昭和48年7月10日)、京都民商事件(最判昭和63年12月20日)、奈良民商事件(最判平成6年6月24日)と、理論的にも重要な有名事件が続出することになる。本問を読むと、
Xはわざわざ税務署にけんかを売っているように読めるのだが、このベースとなった川崎民商事件の場合も、そうした共産党系の戦闘的性格が、検査拒否という対応を引き起こしたものと理解することができる。
(二) 最高裁判所の論理
諸君の教科書を読むと、最高裁判所は、川崎民商事件において次のように述べて、憲法
35条の行政手続き適用性を肯定したと書いてあるものが多い。35条1項の規定は、本来、主として刑事責任追及の手続における強制について、それが司法権による事前の抑制の下におかれるべきことを保障した趣旨であるが、当該手続が刑事責任追及を目的とするものでないとの理由のみで、その手続における一切の強制が当然に右規定による保障の枠外にあると判断することは相当ではない。」 「憲法
教科書で、これだけを読むと、だから行政手続きに
35条は適用になるのだ、と単純に理解してしまい、そのように論文にも書きたくなると思う。しかし、これはきわめてミスリーディングな書き方といわざるを得ない。なぜなら、最高裁は結論としては否定しているからである。この文章に先行して、最高裁判所はまず次のように述べる。35条違反をいう点は、旧所得税法70条10号、63条の規定が裁判所の令状なくして強制的に検査することを認めているのは違憲である旨の主張である。 「所論のうち、憲法
たしかに、旧所得税法
70条10号の規定する検査拒否に対する罰則は、同法63条所定の収税官吏による当該帳簿等の検査の受忍をその相手方に対して強制する作用を伴なうものであるが、同法63条所定の収税官吏の検査は、もつぱら、所得税の公平確実な賦課徴収のために必要な資料を収集することを目的とする手続であつて、その性質上、刑事責任の追及を目的とする手続ではない。また、右検査の結果過少申告の事実が明らかとなり、ひいて所得税逋脱の事実の発覚にもつながるという可能性が考えられないわけではないが、そうであるからといつて、右検査が、実質上、刑事責任追及のための資料の取得収集に直接結びつく作用を一般的に有するものと認めるべきことにはならない。けだし、この場合の検査の範囲は、前記の目的のため必要な所得税に関する事項にかぎられており、また、その検査は、同条各号に列挙されているように、所得税の賦課徴収手続上一定の関係にある者につき、その者の事業に関する帳簿その他の物件のみを対象としているのであって、所得税の逋脱その他の刑事責任の嫌疑を基準に右の範囲が定められているのではないからである。
さらに、この場合の強制の態様は、収税官吏の検査を正当な理由がなく拒む者に対し、同法
70条所定の刑罰を加えることによつて、間接的心理的に右検査の受忍を強制しようとするものであり、かつ、右の刑罰が行政上の義務違反に対する制裁として必ずしも軽微なものとはいえないにしても、その作用する強制の度合いは、それが検査の相手方の自由な意思をいちじるしく拘束して、実質上、直接的物理的な強制と同視すべき程度にまで達しているものとは、いまだ認めがたいところである。国家財政の基本となる徴税権の適正な運用を確保し、所得税の公平確実な賦課徴収を図るという公益上の目的を実現するために収税官吏による実効性のある検査制度が欠くべからざるものであることは、何人も否定しがたいものであるところ、その目的、必要性にかんがみれば、右の程度の強制は、実効性確保の手段として、あながち不均衡、不合理なものとはいえないのである。」このように、税務調査に
35条は適用にならない、と延々と論じた後に、先に引用した文章は入ってくる。そして、先に引用した文章に続いて、次のように最高裁判所はいう。70条10号、63条に規定する検査は、あらかじめ裁判官の発する令状によることをその一般的要件としないからといつて、これを憲法35条の法意に反するものとすることはできず、前記規定を違憲であるとする所論は、理由がない。」 「しかしながら、前に述べた諸点を総合して判断すれば、旧所得税法
こういう文章を総合すると、行政手続に
35条が適用になるというのは、リップサービスに過ぎず、本問のような税務調査に関する限り、完全否定というのが最高裁判所のスタンスと言うことが判る。では、いったいどんな行政事件ならば、最高裁判所は憲法
35条の適用を認めるだろうか。先に、税務調査は大きく3種類に分けられると説明した。その第3の種類である国税犯則取締法違反事件には、その2条1項が次のように規定している。「収税官吏ハ犯則事件ヲ調査スル為必要アルトキハ其ノ所属官署ノ所在地ヲ管轄スル地方裁判所又ハ簡易裁判所ノ裁判官ノ許可ヲ得テ臨検、捜索又ハ差押ヲ為スコトヲ得」
つまり、現実に
35条による令状主義が、現行法上、明確に採用されているのである。最高裁判所が35条適用を肯定する税務調査の典型がこれであることは疑う余地がない。そこで、諸君として考えるべきは、本問の税務調査と、国税犯則取締法の定める税務調査は、どう違うのか、という点である。国税犯則取締法違反事件に関して、最高裁は憲法38条の適用を肯定している、と先に述べた(最判昭和59年3月27日=租税判例百選〔第4版〕274頁参照)。同判決は、38条が適用になる論理として、次のように述べる。38条1項の規定によるいわゆる供述拒否権の保障は、純然たる刑事手続においてばかりでなく、それ以外の手続においても、対象となる者が自己の刑事上の責任を問われるおそれのある事項について供述を求めることになるもので、実質上刑事責任追及のための資料の取得収集に直接結びつく作用を一般的に有する手続にはひとしく及ぶものと解される。」 「憲法
そんなことを言っても、本問の税務調査だって、最終的には刑事責任追及につながる可能性がある。その点については次のように言う。
12条ノ2又は同法17条各所定の告発により被疑事件となって刑事手続に移行し、告発前の右調査手続において得られた質問顛末書等の資料も、右被疑事件についての捜査及び訴追の証拠資料として利用されることが予定されているのである。このような諸点にかんがみると、右調査手続は、実質的には租税犯の捜査としての機能を営むものであって、租税犯捜査の特殊性、技術性等から専門的知識経験を有する収税官吏に認められた特別の捜査手続としての性質を帯有するものと認められる。」 (国税犯則取締法)「の性質は、一種の行政手続であって、刑事手続ではないと解されるがって、その手続自体が捜査手続と類似し、これと共通するところがあるばかりでなく、右調査の対象となる犯則事件は、間接国税以外の国税については同法
つまり、税務の特殊性から、収税官吏に捜査権が認められたのであり、その実質は刑事捜査に他ならない、ということになる。先に
31条に関する学説をいくつか挙げたが、刑事手続に準ずる場合にのみ肯定する宮沢俊義的なスタンスがここでは貫かれている、と読むことができる。こうして、判例のスタンスは、
31条の行政手続に関する適用可能性の議論のうち、1に述べた実質的刑事事件性にあるのだと考えられる。このスタンスは、成田新法事件最高裁判決における園部判事の意見に明確に現れている。31条又はその精神に求めることができる」 「個別の行政庁の処分の趣旨・目的に照らし、刑事上の処分に準じた手続によるべきものと解される場合において、適正な手続に関する規定の根拠を、憲法
なお、この事件では、しかし、最高裁は黙秘権の告知義務が税務調査側にはない、と言い出すのだが、今日、同じ事が問題になれば、行政手続法との比較から考えても告知義務は肯定するはずだと思われる。
四 本問への適用
以上に述べたことを要約すると、諸君としては、次のような形で論文を構成していく事になろう。
第一に、
31条が英米法流のデュープロセス概念を継承したものであって、その内容は告知・弁解・防御の機会を与えることとしたという点については、肯定するのが妥当であろう。ここで否定してしまうと後の議論が続かなくなる。問題は理由付けである。近時の教科書では、例えば「この規定は、〈中略〉アメリカ憲法にいう『法の適正な手続き』(
due process)条項に由来し、国民の権利・自由を手続きの点から保護することを目的としている」(戸波江二・新版322頁より引用)というように、あっさりとデュープロセスを読む傾向が強い。だから諸君もそれに倣って書いて、問題もない。ただ、本稿に書いたように、文言そのものは明確にデュープロセスを排除する意図で書かれていたことなどを考えると、法学協会の「英米法の『適法手続』を採用したと解するのは、全体として英米法の影響を受けたわが憲法の解釈として不当ではない」という押さえた表現の方に、私としては与したい。
第二に、デュープロセスの行政手続きへの適用を肯定しなければ、これまた議論が続かない。この点は議論が少し難しくなる。アメリカ法において幅広く行政手続きへの適用が肯定されている。
ここで、諸君として採るべき道が二つに分かれるわけである。広く全ての行政手続に肯定するのか、刑事手続に準じる場合にのみ肯定するのか、ということである。これについては、学説的にはどちらが正しいと言うことはない。諸君が使用している基本書に準じて議論を展開するのが無難なので、そこからは基本書に併せて決めて、理由を書くようにしてほしい。