情報プライバシー

甲斐素直

問題

 私立大学Yは、A国要人Bの講演会を学内で開催することを企画した。その出席者を自校の学生に限定する都合から、その講演会への出席を希望する学生は、各学部事務所等に用意された出席者名簿に、氏名、学籍番号、住所および電話番号を記載することを必要とするものとした。Xは、同講演会に出席することを希望したので、同名簿に所定の記入を行った。

その後、警察、外務省、A国大使館等から、Yに対し、Bの政治的重要性に鑑み、警備体制について万全を期すよう要請があった。それを受けて、Yの職員、警察の担当者、外務省及びA国大使館の各職員の間において、数回にわたり、警備の打合せが行われた。それを受けて、Y大学で内部検討した結果、Bのような要人の警備を内部職員のみで十分に行うことは不可能と判断し、本件講演会の警備を警察にゆだねることを決定した。Yからの警備の依頼に対し、警察から、警備の都合上、本件講演会に出席する者の名簿を提出するよう要請があった。そこで、Yでは、警視庁に本件名簿を提出した。

 これに対して、Xは、Xを含む本件講演会出席申込者の氏名等が記載された本件名簿の写しを、出席申込者に無断で警視庁に提出したことが、Xのプライバシーを侵害したものであるとし、損害賠償を求めて訴えを提起した。

 この事案における、憲法上の問題点を指摘せよ。

 

[はじめに]

 本問は、早稲田大学江沢民事件最高裁判決(平成15912日=百選第546頁参照)の事例を、憲法上の論点とは関係のない枝葉を削って簡略化したものである。本問においては、論文を書き出す前に理解しておかねばならない点が二つある。順次説明しよう。

(一) 私法上のプライバシー権と情報プライバシー権の異同

 プライバシーは非常に多義的な概念である。本問の場合、プライバシーのうちでも、情報プライバシーが問題となる。諸君は、具体的な問題文を見て、それが私法上のプライバシー権の問題なのか、それとも情報プライバシー権が問題になっているのかの区別をつけるのを苦手とする人が多い。二つはどこが違うのかを、少し詳しく検討してみよう。

 ちょっと見ると、本問は、Y大学とその学生という私人間の問題であるから、私法上のプライバシーが問題になっているように見える。しかし、Y大学がXの個人情報を保有しているのは、むしろXが積極的にその情報を提供したからである。また、学籍番号に至っては、YがXに与えた情報なのであって、Xがそれらを本件名簿へ記入したことにより、はじめてYが獲得した情報ではない。その意味で、ここで問題になっている情報は、本質的にYを含む何人にも、Xが知られたくないと考えている情報、たとえば寝室における夫婦の会話(宴の後事件)といった私生活上の秘密とは、その本質を異にしていることが、容易に理解できると思う。さらにいえば、私法上のプライバシー権が成立するためには、その情報が真実である必要はなく、真実らしく見えることで十分である。

 それに対し、情報プライバシー権の場合には、情報が真実であることが重要である。後に詳述するが、他人が保有する自己の情報が真実でない場合には、その訂正請求権の存在が大きな論点となるほどである。

 また、本件において、Xがプライバシー侵害を主張する根拠は、Xが不知の間に、その同意を得ることなく、本件名簿が国家機関たる警察にわたった点にある。しかし、この名簿はYが発案して作成し、その所有にかかるものであって、本来であれば、それを誰に渡そうと問題であるはずはない。それが問題たり得るのは、Xに、このような個人情報をX本人が不知の間に、国家にわたすことを拒絶でき、あるいは受け取った個人情報を国家がそのまま保有し続けることを拒絶する権利があるといえて、はじめて肯定される。すなわち自己に関する情報を、各人がコントロールする権利があるのか、ということが憲法学の段階ですでに問題になることが判るであろう。

 これに対し、私法上のプライバシーの場合には、その成立要件そのものは私法上で論じられるところで決まり、憲法学的には特に論じられない。憲法学で問題となるのは、それを、表現の自由などとの対立関係の中で、どう位置づけるかである。換言すれば、私的情報が何かの形で表現されてはじめて権利侵害が論じられる。例えば、友人が顔に醜い病痕を有していることを知っているだけでは、あるいはそれに伴う苦悩を本人の口から聞かされて記憶にとどめているだけではプライバシー侵害ではない。それを「石に泳ぐ魚」と題する私小説にまとめて、本人を知る者であれば、容易に本人の同定が可能である形で公表した時点になって、はじめてプライバシー侵害が問題となるのである。

 このような差異が存在する結果、情報プライバシー権が成立するための要件は、私法上のプライバシーのそれとはかなり違ったものとなる。特有の要件を、きちんと根拠をあげて書けるか否かが本問に関する答案の合否を決めることになる。その場合、成立の根拠そのものが憲法学上の問題であるため、単に13条が包括基本権の根拠である、という説明では、不十分である。このような権利が存在するという主張は、人格的利益説に立つ佐藤孝治の主張するところであり、その結果、成立要件そのものが、濃厚に人格的利益説を反映している。だから、人格的利益説の根拠と、自己情報コントロール権の関連をしっかりと説明することが必須の要求となる。なお、一般的行為自由説による場合には、自己情報コントロール権それ自体を承認しないことになるのである(後に詳述する。)。

 

(二) OECD8原則

 1980年にOECDが行った「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告」により、いわゆるOECD8原則が示された。その内容の概略を示せば、

(1) 収集制限の原則:個人データの収集には制限を設けるべきであり、いかなる個人データも適法・公正な手段によって、かつ適当な場合にはデータ主体に知らしめ、又は同意を得た上で収集されるべきである。

(2)データ内容の原則:個人データは、その利用目的に添ったものであるべきであるとともに、利用目的に必要な範囲内で、正確、完全かつ最新のものでなければならない。

(3)目的明確化の原則:個人データが収集される目的は、収集されるときに特定されなければならず、また、その後のデータの利用は、本来の収集目的を達成することに限定されなければならない。

(4)利用制限の原則:個人データは、データの対象たる本人の同意又は法律の授権ある場合を除き、前項に示された目的以外のために提供その他の利用に供されてはならない。

(5)安全保護の原則:個人データは、紛失又は不当なアクセス・破壊・利用・修正・提供等の危険に対し、合理的な安全保護措置により保護されなければならない。

(6)公開の原則:個人データに関する開発、運用及び政策については、一般的公開の方針が採られねばならず、また、個人データの存在、性質及びその主要な利用目的並びにデータ管理者の身元、勤務所在地に尽き、容易に知る手だてがなければならない。

(7)個人参加の原則:個人は、自己に関するデータが存在するか否かにつきデータ管理者に確認を求めること、自己のデータを合理的な期間内に過度にならない費用で合理的な方法により、判りやすい形で閲覧すること、その請求が拒否された場合にはその理由を開示されること、また、自己に関するデータにつき争い、そのデータを消去、修正、補正させることができる。

(8)責任の原則:データ管理者は、以上の原則を実行あらしむる諸措置を遵守する責任を有する。

(これは各原則のおおよその意味を紹介したものである。正確な内容については、外務省のホームページhttp://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oecd/privacy.Htmlを参照のこと)

 わが国は、OECD加盟国として、この勧告の国内法化を義務づけられており、それを受けて、国の保有する個人情報については、「行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律」(かつては個人情報保護法と略称された)は、既に1988年に制定され、1990年から全面的に施行された。

 同様の保護義務を民間人にも課した「個人情報の保護に関する法律」は、報道機関などによる強い反発があって成立が難航したが、平成15530日に成立したことは、これも諸君のよく知るところであろう。例えば、私立大学も、「個人情報データベース等を事業の用に供している」といえるから、同法に言う個人情報取扱事業者(同法23項)である。

 問題は、このような情報保有者の自由を制限する立法が、なぜ合憲か、ということである。これが憲法学的に説明できなければ、これらOECD8原則に基づく一連の立法は、違憲・無効と評価されることになる。自己情報コントロール権の理論は、この要請に応えて開発されたものということができる。諸君の論文において、OECD8原則に言及する必要はない。諸君の論文の各論に当たる部分は、総論を受けての理論的帰結として書かれねばならない。しかし、その理論は、各論段階に到達すると、この8原則を充足するものにならねばならないということを、その背景をなす事実として把握しておくと、個々の結論が理解しやすくなるであろう。

 但し、これらの法律で規制されているのは、何れの場合にも、電子情報化されたものに関してであって、本問で問題になっている手書きの名簿は、その直接の規制対象ではないから、直接同法の問題ではない。直接の法律を欠く結果、憲法そのものの直接適用が問題となるのである。しかし、議論の内容的には、やはりOECD8原則の適用の問題となる。

 

一 幸福追求権の性質

 次に説明する幸福追求権の性質に関する議論のうち、最初の二つの点は、本問では大きな論点ではない。全体のバランスの中で、紙幅がないと判断した場合に書かないことにしても、大きな減点になる箇所ではないという意味である。しかし、書く場合には正確に書いてほしいという願いを込めて説明している。それに対し、人格的利益説に関する説明は、自己情報コントロール権という説を採る場合には、どこまで簡略化するかが問題であるが、絶対に落とすことはできない。

 

(一) 法的権利性について

 憲法13条が、その根底としているのは、現行憲法がその最高の基本原則としているところの個人主義である。そのことは、第1文が「すべて国民は個人として尊重される」と述べている点に端的に現れている。この規定が、すべての基本的人権の基礎となる条文である、ということは、人権そのものが個人権であることを端的に示している。

 わが憲法13条は、その由来的にはアメリカ独立宣言と非常に密接な関係にある規定である。すなわち、その第2節第2文は「すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。」と述べている。独立宣言は、いわゆる人権宣言ではない。彼らはこれにより、イギリスに対する抵抗権の存在と、自らの統治機構を制定する権利とを確認したのである。したがって、わが13条についても、ここから我々は、さまざまの公的権利の創設権を読みとることができる。その意味で、これは基本的に政治的プロパガンダではあっても、かっての通説が説いた訓示規定では元々あり得ないものだったのである。

 ただ、こうした由来に過度に依存するあまり、今日における幸福追求権を、そうした伝統の延長線上に理解して、後に述べるように自由権に限定するような解釈を行うのが妥当かどうかは疑問がある。先に述べたとおり包括的基本権、したがって無名基本権の総括規定と考える場合には、本条は、個人主義に根ざすところのあらゆる人権の総則規定としての意義を有するものとするべきであろう。

 

(二) 具体的権利性について

 本条が無名基本権に関する法的権利性を承認するものとして、では、抽象的権利を保障するにとどまるのか、それとも具体的権利を保障するものであるのか、という点が次に問題となる。なお、抽象的権利にとどまるとは、裁判で権利主張を憲法自身に基づいてすることは許されず、それは国会によって憲法を具体化する法律の制定を待って始めて可能になる、という意味である。

 これについては、例えば「具体的権利となるためには権利の主体とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』第3版、229頁)」という批判がある。しかし、これは論理が逆転している、というべきであろう。すなわち、社会の変遷に伴って、人権カタログに掲載されていない新しい種類の人権が生まれ、その権利の主体や射程範囲に至るまで詳細に、社会の人々の法的確信によって支持されるような状態になった人権について、13条を根拠に直接肯定することが許されないか、という方向から、本条の具体的権利性は考えるべきなのである。

 その場合

「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。

 しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容を以下に限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」

(芦部信喜『憲法学U』341頁より引用)

 そして、その絞り込みの手段として、次項に述べる「人格的利益」が考えられる。

 

(三) 人格的利益説について

 佐藤孝治及び芦部信喜に代表されるわが国通説は、幸福追求権とは人格的な利益であるとしてきた。その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。こう論ずることによって、人格的自律権とはいわゆる自己決定権と同義であり(同459頁参照)、私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることがようやく明らかになったのである。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それからは征する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。

 この説を採用する場合には、第一に、なぜ、このように狭い定義を採用するのか、特にあらゆる生活領域に関する行為の自由(一般的行為自由説)を意味するものではなぜないのか、そして、第二に、この概念を採用した場合に、伊藤等の抽象的権利説の批判に的確な反論ができるのか、という点について、明確な回答を与える必要がある。

 第一点については、前節に述べた可能な限り定義を絞り込むという見解を基礎に、憲法で基本権として説明する以上は、単なる生活上の自由、たとえば服装の自由、趣味の自由、あるいは散歩の自由、読書の自由などではなく、より根元的な「『秩序ある自由の観念に含意されており、それなくしては正義の公正かつ啓発的な体系が不可能になってしまう』ものであるとか、『基本的なものとして分類されるほど、わが国民の伝統と良心に根ざした正義の原則』であると説かれ、どの権利が基本的であるかを裁判官が自己の個人的な観念に基づいて決める自由は存しない」(芦部信喜、上記348頁より)、と説明できる。

 なお、佐藤幸治は一般的行為自由説に対する批判として、新しい視角を導入している。すなわち、かっては人はすべての行為を行う自由をもち、それは公共の福祉によってのみ制約されるものと理解するのが普通であった。しかし、近時は、例えば強盗する権利とか、殺人を犯す権利というものは、他の人の人権と衝突するから、その限度で、ということではなく、そもそも本質的に権利性をもたないと考えるべきではないか、との見方が有力になってきている。その場合、一般的行為自由の外延を憲法上画そうとすれば、「結局『公共の福祉に反しない限り』とか『他者を害しない限り』での一般的行為ということにならざるを得ないのではないか、そうした『権利』の捉え方はそもそも『基本的人権』という観念と両立するであろうか」(佐藤第三版447頁)と批判するのである。

 第二点について、佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上447頁)と反論する。芦部信喜には明確な議論はないが、やはり同様に理解して良い。

 次の段に詳しく書くとおり、この人格的自律を中核として、要件を絞り込む、という発想が、自己情報コントロール権を概念として成立させる鍵となる。

 

二  情報プライバシー権(informational privacy)

(一) 自己情報コントロール権

 これは、わが国では佐藤幸治の提唱になるものである。佐藤は、情報プライバシー権は、すべての種類の個人情報を法的保護に値するものと見て、「自己情報は情報主体が本来管理すべきものである」「自分の個人情報はすべて自分のものである」と主張する。この場合、しかし、すべての個人情報を一律に法的に保護するときは、その外延がはっきりしないため、行政等が円滑に機能しなくなるおそれがある。ひいては情報社会そのものの崩壊となるところから、幸福追求権とクロスさせて、その一環として絞り込もうとする。すなわち、「個人が道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求して、他者とコミュニケートし、自己の存在にかかわる情報を開示する範囲を選択できる権利(佐藤第3453頁)」と定義される。これを利用して、情報プライバシー権の対象となる情報を、プライバシー固有情報とプライバシー外延情報とに区分して、法的保護に差異を設ける。

 

 1 プライバシー固有情報

 これは、人の道徳的自律の存在にかかわる情報と定義される。通常の用語でいえば、秘匿性、非公知性、感情侵害性の程度の高い情報と考えて良いであろう。これについては、公権力は、その人の意思に反して接触を強要し、取得し、蓄積し、利用し、あるいは対外的に開示することが原則的に禁じられる。

(1) この種情報の収集の問題を取り上げた代表的な判決として、デモ行進時の国による写真撮影の問題を論じた京都府学連事件がある(最高裁昭和441224日大法廷判決=42頁)。判決は憲法13条を引用した上で、次のように述べた。

「これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。しかしながら、個人の有する右自由も、国家権力の行使から無制限に保護されるわけでなく、公共の福祉のため必要のある場合には相当の制限を受けることは同条の規定に照らして明らかである。そして、犯罪を捜査することは、公共の福祉のため警察に与えられた国家作用の一つであり、警察にはこれを遂行すべき責務があるのであるから(警察法21項参照)、警察官が犯罪捜査の必要上写真を撮影する際、その対象の中に犯人のみならず第三者である個人の容ぼう等が含まれても、これが許容される場合がありうるものといわなければならない。

 そこで、その許容される限度について考察すると、身体の拘束を受けている被疑者の写真撮影を規定した刑訴法2182項のような場合のほか、次のような場合には、撮影される本人の同意がなく、また裁判官の令状がなくても、警察官による個人の容ぼう等の撮影が許容されるものと解すべきである。すなわち、現に犯罪が行なわれもしくは行なわれたのち間がないと認められる場合であつて、しかも証拠保全の必要性および緊急性がありかつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。このような場合に行なわれる警察官による写真撮影は、その対象の中に、犯人の容ぼう等のほか、犯人の身辺または被写体とされた物件の近くにいたためこれを除外できない状況にある第三者である個人の容ぼう等を含むことになつても、憲法13条、35条に違反しないものと解すべきである。」

 すなわち、厳格な合理性基準を適用しており、強力な権利として承認されている。

(2) この種情報の対外的開示の問題を論じたものとして、前科照会に対する安易な回答を違法として損害賠償を命じたもの(最高裁昭和56414日第三小法廷判決=百選44頁)がある。すなわち、

「前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉、信用に直接にかかわる事項であり、前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて、市区町村長が、本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもないところである。前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて、市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合には、裁判所から前科等の照会を受けた市区町村長は、これに応じて前科等につき回答をすることができるのであり、同様な場合に弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが、その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない。」

としている。この場合には、いわゆるやむにやまれぬ利益基準、すなわち厳格な審査基準が使用されており、最高度の保護の対象とされている。

(3) このように、本人の感知しない間に収集、蓄積された情報がプライバシーにふれるものとして問題となる以上、情報プライバシー権の中核を占める具体的な権利としては、情報主体の自己情報閲覧権・訂正請求権となる。当然、それに対応した形で情報処理機関の側に供覧・訂正義務が生ずることになる。

 このことを明確に認めた判例として、在日台湾人の身上調査票訂正請求事件がある(東京地裁昭和591030日判決)。それによれば

「個人情報が当該個人の前科前歴、病歴、信用状態等の極めて重大なる事項に関するものであり、かつ、右情報が明らかに事実に反するものと認められ、しかもこれを放置することによりそれが第三者に提供されることなどを通じて当該個人が社会生活上不利益ないし損害を被る高度の蓋然性が認められる場合には、自己に関する重大な事項についての誤つた情報を他人が保有することから生じうべき不利益ないし損害を予め回避するため、当該個人から右個人情報保有者に対して、人格権に基づき右個人情報中の事実に反する部分の抹消ないし訂正を請求しうるものと解するのが相当である。けだし、右のような場合において、当該個人は他人の保有する自己に関する誤つた情報の抹消・訂正を求めることにつき、重大かつ切実な人格的利益を有しているのに対し、これを認めることにより右個人情報保有者の被る不利益は全くないか、あるいは極く些細なものに留るものと解されるからである。」

 2 プライバシー外延情報

 プライバシー固有情報に対して、プライバシー外延情報、すなわち道徳的自律に直接かかわらない外的事項に関する個別的情報(秘匿性等の程度の低い情報と考えて良いであろう。)については、正当な政府目的のために正当な方法を通じて取得・保有・利用しても、ただちにはプライバシー権の侵害とはいえない。本問で、Y大学の行ったX等に関する個人情報の蓄積は、その典型といえる。

 しかし、このような情報も、悪用され又は集積されると(例えば、本問のように、一定の要件に基づいて名簿化されると)、個人の道徳的自律に影響をもたらすものとして、権利侵害の問題が生ずる。この具体的な内容としては、先に述べたとおり、OECD8原則が登場してくることになる。その詳細は、教科書を見れば判ることなので、ここでは説明の手を抜くが、[はじめに]でも述べたように、諸君は、それを総論の議論の各論的展開として書かねばならない。

 

(二) 一般的行為自由説からのアプローチ

 一般的行為自由説に立つ場合には、情報プライバシー権の問題に対して、人格的利益説をその中核としている自己情報コントロール権という把握の仕方をするわけにはいかない。そこで、この問題についてはまったく別種のアプローチが必要になる。例えば次のようなアプローチを行うことになる。まず、プライバシー権そのものを次のように捉える。

  「プライヴァシーとは、個人がある確実な私的領域を持っていること、その領域には他人が進入できないことを指す。プライヴァシー権は、社会的評価から自由な活動領域を個人に与えるための法上の概念であり、自由という保護領域の典型例である。プライヴァシーは、対自的自我(意識体験としての自我)と対他的自我(他者との対立や関係交渉によって完治される自我)との間の個体内コミュニケイションを自由に解放して人間の精神の平穏さを守るのである」 (阪本昌成『憲法理論U』成文堂250頁)

 この結果、次のように論ずる。

「プライヴァシー権を自己情報コントロオル権と同視することを避ける。自己情報コントロオル権といわれる権益から、情報化社会への対抗策を志向すべきではなく、個人情報を大量に収集・処理している組織体の責務(情報管理責任)を明らかにすることからアプロオチすべきところであろう。(同254頁)」

 つまり、この説の場合には、個人の権利という方向からのアプローチが不可能なので、その逆、個人情報を保有する者の義務という方向から、OECD8原則問題を処理しようとしているのである。

 ただし、同じように一般的行為自由説を採りつつ、戸波江二の場合には、その中核に人格的利益説を肯定するから、その限りで自己情報コントロール権を認められることになるであろう。

 

三 本問への当てはめ

 上述のとおり、個人情報の保護に関する法律は、電子情報のみを対象とするが、それは電子情報が、そうしたデータマッチング等を通じて、容易に巨大な害悪を発生しうるものだからである。したがって、電子情報化されていない場合であっても、本問のように他の情報とデータマッチングを行い、それにより不利益取り扱いの可能性が存在する場合には、やはり情報プライバシー権の問題が発生することになる。

 早稲田大学江沢民講演会事件において、原審段階で、既に明確に「このような本件個人情報は、プライバシーの権利ないし利益として、法的保護に値するというべきであ」ると述べられているのは、このためである。

 以下、諸君が人格的利益説に立っているか、一般的行為自由説に立っているかの区別無く説明が成り立つように、各学説の用語ではなく、OECD8原則を使用して説明する。しかし、諸君が自分の論文を書く場合には、以下の説明のOECD8原則という語を、それぞれの説の用語に翻案して記述しなければならない。

 本問事例にOECD8原則を適用すると、まず、第1原則によって、本件データは、講演参加者を「自校の学生に限定する」という目的を達成する手段として作成されたものである。したがって、第3原則により、この目的以外に使用することは原則として許されない。第4原則により、本来の目的とは異なる目的に使用される場合には、改めて本人の同意を得るか、あるいは本人の同意を得なくとも他に提供できるとする法律による授権を必要とする。そのような法律は存在しないから、本人の同意が不可欠である。

 したがって、原則論からすれば、Y大学として、当初別の目的を示して作成したこの名簿を、後に警備を警察に委ねるようになったからといって、単純に警察に提供することは許されない、という結論が導かれる。提供するためには、改めてそのことを明らかにして、異議ある者に申し出でをさせるか、あるいは、その条件を付した上で、改めて名簿を作成するべきだったのである。

 ここで問題となるのが、その原則をそのまま適用して良いのか、それとも、この場合には何らかの例外に該当すると解する余地があるか、という点である。

 この点について、江沢民事件東京高裁平成14717日判決は次のように述べた。

「本件個人情報は、基本的には個人の識別などのための単純な情報にとどまるのであって、思想信条や結社の自由等とは無関係のものである上、他人に知られたくないと感ずる程度、度合いの低い性質のものであること、上告人らが本件個人情報の開示によって具体的な不利益を被ったとは認められないこと、早稲田大学は、本件講演会の主催者として、講演者である外国要人の警備、警護に万全を期し、不測の事態の発生を未然に防止するとともに、その身辺の安全を確保するという目的に資するため本件個人情報を開示する必要性があったこと、その他、開示の目的が正当であるほか、本件個人情報の収集の目的とその開示の目的との間に一応の関連性があること等の諸事情が認められ、これらの諸事情を総合考慮すると、同大学が本件個人情報を開示することについて、事前に上告人らの同意ないし許諾を得ていないとしても、同大学が本件個人情報を開示したことは、社会通念上許容される程度を逸脱した違法なものであるとまで認めることはできず、その開示が上告人らに対し不法行為を構成するものと認めることはできない。」

要するに、個人情報コントロール権が侵害されることによって発生する害悪と、情報が警察にもらされたことによる利益との比較考量論を適用したと言えるであろう。最高裁判決に付いている亀山継夫並びに梶谷玄裁判官の反対意見も同旨である。

 これに対して、最高裁は次のように批判した。

「 このようなプライバシーに係る情報は、取扱い方によっては、個人の人格的な権利利益を損なうおそれのあるものであるから、慎重に取り扱われる必要がある。本件講演会の主催者として参加者を募る際に上告人らの本件個人情報を収集した早稲田大学は、上告人らの意思に基づかずにみだりにこれを他者に開示することは許されないというべきであるところ、同大学が本件個人情報を警察に開示することをあらかじめ明示した上で本件講演会参加希望者に本件名簿へ記入させるなどして開示について承諾を求めることは容易であったものと考えられ、それが困難であった特別の事情がうかがわれない本件においては、本件個人情報を開示することについて上告人らの同意を得る手続を執ることなく、上告人らに無断で本件個人情報を警察に開示した同大学の行為は、上告人らが任意に提供したプライバシーに係る情報の適切な管理についての合理的な期待を裏切るものであり、上告人らのプライバシーを侵害するものとして不法行為を構成するというべきである。原判決の説示する本件個人情報の秘匿性の程度、開示による具体的な不利益の不存在、開示の目的の正当性と必要性などの事情は、上記結論を左右するに足りない。」

 すなわち、東京高裁は、自己情報コントロール権と警備の利益について、対価的な比較考量を行っているが、これは、先に述べたとおり、そもそも本件が自己情報コントロール権に反して、原則として情報の他への提供を禁じられている問題であることを看過した議論である。ある問題について、原則が確立している場合には、その例外とするべき特別の事情があるか否かを検討し、そのような特別事情がなければ、常に原則が優越するものと解するのが正しいのである。

 なお、本問については、私人間効力を論ずる余地はない。なぜなら、本問では、Yが国家権力たる警察に情報を引き渡した点が問題になっているから、その意味で国家対個人の問題だからである。これに対し、たとえばYが民間警備保障会社に警備を依頼することとして、その依頼の一環として本件情報を引き渡した場合には、私人間効力の問題となりうるのである。もしも、本問を私人間効力論を使用して解決した場合には、住所・氏名等の情報の警備保障会社への提供が、公序良俗違反になるわけがないので、必然的にプライバシー権侵害は否定されることになろう。本問のような事案で、機械的に私人間効力論を書き、他方、判例に併せてプライバシー侵害を肯定する、というように、木に竹を接いだような論文を平気で書く人がいるが、自説の内容を理解していない記述は自殺行為である。