浴場営業の自由

甲斐素直

問題

 Xは、AB市で一般公衆浴場を新規開業するために、A県知事Yに対し、営業許可を申請をした。しかし、A県公衆浴場法施行条例4条の規定によれば、市部においては既設の一般公衆浴場からおおむね300m以上離れていることが要求されているところ、Aの施設は150mしか離れていないことを理由として、他の要件はすべて満たしているにも拘わらず、Yは当該営業許可申請に対し、不許可処分を下した。

 そこで、Xは、Yの不許可処分は、憲法の保障する営業の自由を侵害するものとして、処分取り消しを求めて訴えを提起した。

 本件における憲法上について論じなさい。

(参照条文)

公衆浴場法

第二条 業として公衆浴場を経営しようとする者は、都道府県知事の許可を受けなければならない。

都道府県知事は、公衆浴場の設置の場所若しくはその構造設備が、公衆衛生上不適当であると認めるとき又はその設置の場所が配置の適正を欠くと認めるときは、前項の許可を与えないことができる。但し、この場合においては、都道府県知事は、理由を附した書面をもつて、その旨を通知しなければならない。

前項の設置の場所の配置の基準については、都道府県が条例で、これを定める。

都道府県知事は、第二項の規定の趣旨にかんがみて必要があると認めるときは、第一項の許可に必要な条件を附することができる。

A県公衆浴場法施行条例

第四条 法第二条第三項の設置の場所の配置の基準は、一般公衆浴場の敷地が他の一般公衆浴場(その経営について法第二条第一項の許可がされているものに限る。以下「既設の一般公衆浴場」という。)の敷地から、市の区域にあってはおおむね三百メートル以上、その他の区域にあってはおおむね三百五十メートル以上離れていることとする。ただし、既設の一般公衆浴場との間が橋梁のない河川又は踏切のない鉄道等で遮断されている場合、既設の一般公衆浴場の周辺に公営住宅等がある場合その他の特別な事情がある場合であって、知事が衛生上支障がないと認めるときは、この限りでない。

[はじめに]

 昨年、この問題を取り上げた時には、諸君から出てきた論文では、こうした問題に関する司法審査についての理解にかなり問題があったように感じたので、営業の自由については簡単に説明するに止め、主として司法審査について説明することとした。しかし、今回の答案では、やはり営業の自由に問題があるようなので、再び原点に戻って営業の自由そのものに力を入れた説明をすることにした。営業の自由に関しては、昭和40年代に巻き起こった営業の自由論争を挟んで、学説が大きく変化している。そのことを理解していないと、きちんとした論文を書くのは難しいので、ここではその点にポイントを絞ってみた。

 営業とは、専ら商法が対象とする概念である。例えば日本評論社『新法学辞典』は次のような定義を与えている。

「利益を得る目的で同種の行為を継続的反復的になすことである。営利目的がある限り現実に利益を得たことは必要ではなく、また継続・反復の意思がある限り実際に反復することを要しない。しかし営利を目的とするすべての職業が営業となるわけではなく、医師・弁護士・画家などの職業は営利を目的としても一般に営業とは見られない。」

 憲法学においても、同様の理解と解して良いであろう。例えば渋谷秀樹は「営業とは利潤追求の為に自己の計算に基づき行われる職業」と定義する(渋谷『憲法』有斐閣274頁)。この営利追求性が定義自身の中に明確に含まれている点に、営業の自由を経済的自由の一環として把握できる根拠が存在しているので、本問で冒頭に定義を掲げるのは必須の要求と言うことができる。

 諸君の先輩達は―かなり勉強している人でも―ほとんど理由も示さないままに、営業の自由の根拠を憲法22条に求める傾向があった。しかし、最高裁判所が、共有林分割制限違憲判決において、営業の自由に属する事案を29条の問題として解決したに端的に示されるように、今日の学説の多数説は2229条説であり(学者によっては「通説」と表現する)、22条説が少数説に転落していることは間違いない。

 今回、出てきた論文の場合には、そのことを知識としては理解しているが、なぜそうなのかは判っていないようである。論文で大事なことは、何が通説であるかを知ることではない。自分の説が、どのような根拠でそう説かれているかを知ることである。

 そこで、今回は、その点に力点を置いて説明したい。

 

一 営業の自由論争

(一) 営業の自由の公序性

 営業の自由は、現在社会におけるきわめて根幹的な自由であるにもかかわらず、わが国憲法ばかりでなく、欧米主要国憲法のいずれにおいても直接的保障規定がない、と言う不思議な権利である。

 この不思議に対して、端的な説明、すなわち営業の自由が憲法に自由権として保障されていないのは、それが権利ではなく、公序(Public policy)だからだと説明したのは、憲法学から見れば門外漢である経済史学者の岡田与好が昭和44年に書いた「『営業の自由』と『独占』及び『団結』」と題する論文であった(東京大学社会科学研究所編『基本的人権の研究』第5巻129頁以下参照)。

 それまでの憲法学の理解では、営業の自由は、職業選択の自由の一亜形としての基本的人権であり、また法人企業にも適用されるべきものと考えられていた。しかし、歴史的にみて、それは正しくない、と岡田は考えた。たとえばフランス革命期をみると、職業選択の自由が実現される一方で、労働者の団結や経営者の独占という営業の自由が否定された。すなわち、営業の自由を国家からの自由と捉えると、営業の自由に対する国家的規制、すなわち独占禁止は違憲と捉えられなければいけない。しかし、労働者の団結や大企業の独占という営業の自由は、個人の職業選択の自由を侵害する。その意味で、営業の自由は、職業選択の自由の一部であるどころか、むしろ職業選択の自由の対照ともいうべき存在なのである。そして、擁護されるべき基本的人権は「個人」の自由である以上、それを侵害する営業の自由は法的に規制されうるのである。つまり、営業の自由とは、国家からの自由ではなく、独占からの自由を意味する。この営業の自由の法的規制という任務を担うのが独占禁止法・行政である。それは、社会のあり方によって修正されうる、また修正されるべき、一つの公共秩序にすぎない。

 この批判は全く正しいものだったから、憲法学者は無視することはできなかった。成立史と解釈は別であるという反論はその一つの現れである。いつも強調するように、国家試験レベルの論文では、他説に対する批判を記述する必要はないが、どのような反論があるかを知っていることは大切である。そこで、判りやすい反論例を一つ紹介しておきたい。

「確かに歴史的に見た場合、営業の自由は、独占からの自由を意味したと解するのが正しい。ところが、独占は、1617世紀のイギリスに見られたごとく、徒弟条例、同業組合法、定住法といった国家の法制によって保護されてきたのであり、国家の強制力と大いに関連している。営業の自由は、この種の法制を排除する要求であり、したがって、営業の自由を国家からの自由ととらえるのが正当である。」

(阪本昌成『憲法理論』V225頁)

 また、学説のもう一つの転機になったのが、伊藤正己が同じ22条で保障している居住・移転の自由に精神的自由権としての側面があることを論証したことである。それをきっかけに、従来、経済的自由として疑われることのなかった職業選択の自由に対して、精神的自由権としての側面が承認されるようになった。

 この時点以降、新たな学説が、岡田説の衝撃による自己批判の中から誕生してきた。

 今日の通説は、営業の自由を営業する自由と営業活動の自由に分けることができ、前者の自由は22条の自由であるが、営業活動の自由は29条の財産権の保障の中で読むべきであるとする説である(今村成和「『営業の自由』の公権的規制」ジュリスト46041頁以下参照)。

「憲法22条は『開業の自由、営業の維持・存続の自由、廃業の自由』を内容とする狭義の『営業することの自由』のみを保障し、『なにをいくらでだれに売るか、あるいはだれから仕入れるか』といった広義の営業活動の自由は財産権行使の自由として憲法29条から導かれる自由である」(野中俊彦他著『憲法T』第4版、有斐閣452頁=高見勝利執筆部分)

 この説は、雇用されて労働する者の営業活動を考えた時、もっとも妥当性を発揮する。浦部法穂は次のように説明する。

「職業は、営業だけでなく、自分が雇われてする職業もある。こういう職業のばあいには、職業選択の自由はむしろ労働権(27条)と密接にかかわるものとなり、営業の自由とは全然無縁のものとなる。無縁であるだけでなく、場合によっては職業選択の自由と営業の自由とが対立することとさえなる(たとえば営業主体の廃業の自由は、そこで働く労働者の働く権利=その職業を行う自由を奪うことになる)のである。つまり、職業選択の自由は営業の自由を含むが、しかし、営業の自由とは無縁の、場合によってはそれと対立する側面をもつものであり、『職業選択の自由=営業の自由』という図式は必ずしも正確ではない、ということである。

 一方、営業の自由というものは、営業することの自由だけでなく、個々の営業活動の自由をも含むものであるはずである。営業活動の自由というのは、たとえば、何をいくらでだれに売るか、あるいは誰から仕入れるか、とか、営業時間を何時から何時までにするか、とかの自由であるが、これらのことは、職業選択の自由から当然に出てくる自由であるとはいえない。それは要するに、財産権行使の自由であって、29条の財産権の保障から導かれる自由である。」(浦部『憲法学教室』日本評論社、全訂第2220頁)

 さらにいうと、22条の権利は、本来職業選択の自由の延長線上に考えられるものであり、職業選択の自由は「人間がその能力発揮の場の選択を保障する」というところに本質があるから、自然人にしか考えることができない。したがって、法人が営業活動を行うのは、29条によってしか説明できないのである。

 この説の基本的な理由付けとしては、次のものが簡明で判り易いであろう。

「この見解は、職業選択の自由が、人間がその能力発揮の場の選択を保障するものとして、いかなる社会体制にも通用する普遍的原理であるのに対して、営業の自由は資本主義社会に固有の原理であるという基本的認識が根底にあり、また、権利の制約の範囲について、前者は、それが、人間の能力の発揮の場であるのに鑑み、その自由は、十分に尊重されなくてはならないのであるが、精神的自由とは異なり、他人の生活に密接な関連を有するものであるのに対して、後者については、資本財としての財産権行使の自由には、自由主義経済の法的支柱としての役割があるために、高度の統制を必要とするというのである。このような見解は、同じく経済的自由といっても、憲法22条と29条の間に性質上の際があることに着目し、職業選択の自由と営業の自由との関係を明確にしたものとして支持できるのである。」

(樋口陽一他著『憲法U』注解法律学全集2、青林書院91頁=中村睦男執筆分)

 これに対して、長谷部恭男は、今日においても基本的には22条説をとる(正確に言うと、22条か29条かは重要性を持たないと主張する=長谷部『憲法』新世社[第4版]238頁)が、営業の自由論争に関しては、次のように述べる。

「いわゆる『営業の自由』論争を提起した岡田与好教授の議論の核心には、憲法上保障された経済的自由は、基本的人権としての個人の自由の不可欠の如何をなす部分と、公共の福祉の観点からすると政策的選択の結果として保障され、ときには社会の構成員に強制される部分とからなる、との主張があった。

 本章の枠組みでいえば、前者は『切り札』としての人権であり、後者は公共財としての憲法上の権利である。このような複合的な性格は、本文で見た通り経済的自由のみではなく、表現の自由のような、典型的な精神的自由権についても見ることができる。」(長谷部『憲法』新世社[第4版]120頁)

 長谷部は、個人の自律的な決定権を切り札としての人権と呼び、公共の福祉に基づく人権を公共財としての人権と呼んで、人権はこうした二重構造をもつと主張しているのだが、その複合構造と言う把握の原点が、岡田の指摘にあることを、この文章は示している。

 

(二) 営業の自由と精神的自由権としての側面

 前に述べたとおり、今日においては、営業の自由を単純に経済的自由として扱うことは許されず、精神的自由権としての側面の存在を考えなければならない。もっとも、一般には、表現の自由に代表される精神的自由権との混同を嫌って、人格的価値という言い方をする。

 すなわち、確かに職業は「人が自己の生計を維持するために行う継続的な活動」であるから、その選択の自由は、封建制との決別という歴史的意義はともかく、今日における法的機能としていうならば、人の経済的生活の基盤を提供するものとして意義を無視できないから、二者択一を強制するならば、経済的自由の一環に属するとして判断することが許されるであろう。しかし、単なる経済的自由権として評価することは許されない。なぜなら、人の職業は、「各人が自己の持つ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有する」からである(「」内は、昭和50430日最高裁薬事法判決から引用)。

 すなわち、人は単に営利の目的で職業を選択するのではない。各人の人格の社会的表現の形態として、人は職業を選択するのである。だからこそ、職業に貴賤はないという建前にもかかわらず、あまり経済的には報われない職業が社会的尊敬の対象となり、一方、経済的には非常に有利な職業があまり重要視されないという、単に営利目的の活動であれば矛盾ともいえる現象が起こるのである。こうして職業の自由ないし営業の自由は、本質的には経済的自由に属するとはいうものの、精神的自由としての側面をもつ、いわば複合的な自由であることを看過してはならない。

 純粋の精神的自由、例えば内心の自由は基本的に社会との関わりが小さい。表現の自由でさえも、それが社会に対して明白かつ現在の危険をもたらすような場合でない限り、対社会的影響を、その解釈に当たって考慮する必要は原則的としてない。ところが、職業ないしその経済的表現としての営業活動は、上記のような意味で各人の人格の社会的表現であり、しかもそれが持続的に行われるところに特徴がある。そのため、表現の自由で想定しているような一過性のものではないから、それだけに広く社会的関係が発生するところに特徴がある。この対社会性の大きさが、純粋の精神的自由権と切り離した議論が必要な理由であるが、そのことは決して、単なる経済的自由として全面的に制約を認めて良いということを意味するものではない。

 この精神的自由権としての側面を、国家試験で許されるわずかな紙面と、限られた時間の中でどこまで書き込むかは難しい問題である。本問で一段の加点を期待する場合には、この論点を避けて通ることはできない。それに対して、本問では確実に合格点をとれば十分という守りの姿勢で書く論文の場合には、例えば定義の段階で、例えば、営業の自由とは経済的自由のことを言い、精神的側面は職業の自由で読む、と断って、その論点の存在は知っているが本問の論点からは理由があって外すのだ、ということを明確にした上で、避けてとおる、というような工夫をすることも可能と考える。

 

二 営業の自由の限界

(一) 「公共の福祉」文言の意義

 憲法22条及び29条という、営業の自由の根拠規定と目される条文は、いずれも13条とは別に、わざわざ「公共の福祉」による制約文言を有している。これについては、一般に、表現の自由などに比べて、より強い制約を受けることを肯定している趣旨であると説明される。例えば、高見勝利は次のように言う。

「憲法221項が、職業選択の自由について、『公共の福祉に反しない限り』という留保を加えているのは、この自由が、(ア)現実の社会生活における公共の安全・秩序維持の見地からする消極的な内在的制約、および(イ)福祉国家的理念の実現という憲法の目標からする積極的な政策的制約に服しうることを示すものである。」

 これは、基本的に薬局距離制限違憲判決で最高裁判所が次のように述べたところから、通説化している。

「本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法221項が『公共の福祉に反しない限り』という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。このように、職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、性質、内容、社会的意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も、国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的なものから、社会生活における安全の保障や秩序の維持等の消極的なものに至るまで千差万別で、その重要性も区々にわたるのである。そしてこれに対応して、現実に職業の自由に対して加えられる制限も、あるいは特定の職業につき私人による遂行を一切禁止してこれを国家又は公共団体の専業とし、あるいは一定の条件をみたした者にのみこれを認め、更に、場合によつては、進んでそれらの者に職業の継続、遂行の義務を課し、あるいは職業の開始、継続、廃止の自由を認めながらその遂行の方法又は態様について規制する等、それぞれの事情に応じて各種各様の形をとることとなる」。

 このように、消極、積極2種類の規制がそこに存在していると説かれるわけである。しかし、諸君は、現実の規制形態を知らないので、議論がややもすると空転する傾向を示す。今日のように、事例問題が国家試験における基本となっている時代に、規制形態が抽象的に何を意味するかが判らなくては話にならない。

 そこで、営業の自由の審査基準を論ずる前に、そもそも営業の自由に関して、どのような形態で制限が発生するのかを検討しておこう。その制限の発生形態に対応した形で審査基準は考えられねばならないからである。以下の記述は、国家試験では不要であるが、その意味からある程度詳細に紹介している。

 

(二) 営業の自由の規制形態

  1 消極規制

 消極規制とは、職業活動のもたらす社会的弊害を防止するという観点から、職業ないし営業に加えられる規制を意味する。すなわち、他者の自由権を侵害する事態を防止することがこの種規制の目的である。この目的で行われる規制の態様として、現在存在しているものとしては、次のものがある。

  (1) 禁止: 反社会性の強い職業(例えば売春婦=売春防止法)や職業そのものは社会的必要性が高いものであっても、私人が営業活動として行う場合には弊害が伴いやすい場合(例えば有料職業紹介事業=職業安定法321項))については、それに就くことが全面的に禁止され、例外的にも解除されることがない。

  (2) 資格制限(個人免許): 人の生命や安全にかかわったり、高度の専門的知識を必要とする職業については、一般的に禁止をし、国が特に十分な能力を有すると認めたものについてのみ、免許という形で営業の許可を与える。医師、薬剤師、弁護士、調理師、教員等の免許がこれである。

  (3) 営業に関する免許、許可、登録、届出: 営業に関する規制は、様々な目的からなされ、それに応じて国からの規制の形態も様々である。例えば、上記の資格制限のある職業の場合には、現に営業を行うに当たり、正当な資格を有する者が関与していることを確認する手段として規制をかける場合がある(弁護士会に登録しない限り、弁護士活動ができないという規制)。それに加えて、様々な設備が備わっていることの確認手段として行われるものがある(例えば、調剤設備の存在を確認した上で行われる薬局開設の許可)。問題を起こし易い営業であるため、問題が発生した場合に、その営業の差し止めを行いやすくする目的で行われる場合もある(例えば風俗営業の許可)。

  2 積極規制

 積極規制とは、福祉国家理念の下に、「国民経済の円満な発展や社会公共の便宜の促進、経済的弱者の保護等の社会政策及び経済政策上の積極的目的を達成するための制約(薬事法判決参照)である。すなわち、他者の社会権が制約原理となる制約である。次のような態様が存在する。

  (1) 国家の独占事業: 郵便事業に代表されるもので、これらについては私人が取り扱うことが許されない。これについては、第三の規制類型である国の財政目的が強調された時代もあったが、今日残っているそれは、むしろ「市場の失敗」のために、自由主義経済にゆだねた場合には、すべての者にサービスが提供されなくなる性格を有するために、やむを得ず、国家が担っていると考えるべきであり、典型的な社会国家機能といえる。小泉政権下において、その最後の牙城がゆらぎ始めていることは諸君の知るとおりである。

  (2) 特許: 電気、ガス、鉄道、その他の公益事業については、市場競争による事業の失敗などのためにそのサービスの提供が止まることが、一般国民の生存にきわめて深い関わりがある。そこで、特定の者に特許を与えて一定限度で独占を認め、その代償として、料金を認可制にすることによって消費者が独占により被害を受けないようにするものである。その意味で、これも社会国家的観点から承認される規制形態である。

  (3) 独占禁止法に基づく規制: 自由競争、すなわち営業の自由を実質的に確保する観点から、私的独占状態の発生を防止する事を目的とする種々の規制がこの範疇に含まれる。公序説による場合には、これが規制の中心ということになるであろう。

  (4) その他、社会的経済的弱者保護を目的とした規制: 典型的には過当競争により中小企業の倒産を防ぐことを目的とする規制で、大店法や小売商業調整特別措置法等がそれに当たる。実際の規制の手段としては、消極規制の場合と同じく、免許、許可、認可、届け出制等が使用されることが多い。

  (5) 専売:たばこ、塩、樟脳、アルコールの専売は、少なくとも専売制を導入した時点においてはもっぱら国の財源の確保という政策的目的から行われた。しかし、今日では、これらは、例えばたばこ以外に栽培不可能な荒蕪地で農業を営むたばこ農家の保護など、社会的弱者保護を目的としたものに転化しており、積極的規制の一環として理解すべきである。

 

(三) 営業の自由の多様性の根拠について

 このように営業の自由に対しては、多種多様な規制が行われている。

 薬局距離制限違憲判決の場合、先に引用した箇所の後に、薬事法の距離制限については、消極的規制に属すると判断し、その判断基準として明確に厳格な合理性基準を採用する。これに対して、昭和47年の小売り市場判決においては、積極的規制に対して、これも明確に狭義の合理性基準を採用して判断を下す。このことから、判例は、規制の形態に応じて判断基準を2重にする、という解釈が一般に採られるようになった。しかし、なぜ同じ営業の自由の規制でありながら、2種類の基準が現れるのかについては、はっきりしない。

 なぜなら、経済的自由権の場合には、二重の基準理論によると、裁判所としては、国政への正常な意見反映のメカニズムが破壊されているような場合を除いて、原則として立法府の裁量を尊重し、その裁量の結果が、きわめて明白に違憲と認められるような場合を除いて、憲法判断を自制するのが適切と考えられる。この結果、営業の自由を経済的自由権の一環として理解する限り、消極規制、積極規制の別なく、広く狭義の合理性基準に従って判断すれば足りることとなるはずだからである。実際、松井茂記は、その様な視点から、この2分説を批判している(『日本国憲法』第3版、有斐閣、576頁参照)。

 さらに、その後、共有林分割制限という形で林業経営の自由を制限していた森林法の規定の判断にあたり、厳格な合理性基準により違憲判断を下す事例が現れた。これは上記の分類でいえば積極的規制に該当するから、なお、判断が難しい問題である。

 この点については現実問題としてほとんど論じられておらず、したがって、通説的な見解はないため、以下においては、基本的に私見によりつつ、説明したい。

 

  1 自由権と消極規制

  (1) 精神的自由権的側面の規制

 職業等の自由の制限にあたって、問題が複雑になるのは、それに精神的自由権としての側面も存在していることである。精神的側面の規制に関しては、原則として、一般の精神的自由権に関する理論に従うべきである。すなわち、その面に関する限り、厳格な審査基準を使用すべきことになりそうである。

 しかし、ここで、職業の自由の持つ大きな特徴のために、異なった解釈が導入されることになる。すなわち、通常の表現の自由権の対社会的行使は、個々単発的なものである。そのため、その表現が「言論の自由市場」に到達するか否かは重要な問題となる。そこで、事前抑制禁止の原則が導かれる。これに対して、職業ないし営業の形式による対社会的な表現活動は、反復継続して実施される点に大きな特徴を示す。このことは、一方において、過去の経験の分析から、過度に広汎にならない範囲での営業の制限を行うことが可能であることを意味する。他方において、反復継続性の結果、不適切な営業活動により、多くの人々に害悪を及ぼす可能性が明白に認められる場合が、類型的に存在している。このため、営業の自由の抑制手段として、事前抑制が一般的に承認されることになる。

 このように、類型的に制限可能性が認められる場合には、類型的に制限可能性が否定されている場合に使用される厳格な審査基準が不適切なことはいうまでもない。この結果、一段緩和された厳格な合理性基準が判断基準として使用される妥当性が導かれる。

 ただし、現実の判例の中では、この点が正面から説かれて、審査基準選択の根拠となった例はなく、せいぜい次に述べる経済的自由権としての側面において厳格な合理性基準を採用する際の傍証程度に扱われている。

  (2) 経済的自由権的側面の規制

 経済的自由権としての側面に関する規制についてはどのように考えるべきであろうか。

 消極規制は別名、警察規制とも呼ばれる。行政法学上、警察とは「公共の安全と秩序を維持するために、一般統治権に基づき、人民に命令し強制し、その自然の自由を制限する作用(田中二郎『新版行政法下U』全訂第1版、弘文堂253頁)」をいうと一般に定義される。

 警察権という強大な国家権力については、人民の権利・自由の侵害を保障しようという観点から、警察権の行使をその目的に照らし、必要最小限度にとどめなければならない。そのために、様々な原則の存在が指摘されるが、規制との関係では、行政法上「警察消極目的の原則」と呼ばれるものが重要である。 すなわち、警察は、直接に公共の安全と秩序を維持し、これに対する障害を未然に防止し、除去することを目的とする作用であるから、警察はこの消極的な目的のためにのみ活動することができる。最高裁は、このことを確認して、「個人の経済活動に対する法的規制は、個人の自由な経済活動からもたらされる諸々の弊害が社会公共の安全と秩序の維持の見地から看過することができないような場合に、消極的に、かような弊害を除去ないし緩和するために必要かつ合理的な規制である限りにおいて許されるべき」であるとする(薬事法判決)。この結果、警察規制の場合には、最小限度法則に基づき厳格な合理性基準が要請されることになる。その結果、LRA基準を使用することが求められることになる。

「自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである(薬事法最判)」

 つまり、同じ厳格な合理性基準を採用する場合であっても、それが精神的自由権的側面を制約している場合と、警察規制の場合という、二つの異なるメカニズムが働いている、ということができる。

 

  2 社会権と積極規制

 営業の自由では、それが対社会的な継続的表現としての機能を有するために、自由権と衝突する可能性だけではなく、他者の有する社会権と衝突する場合が発生する。社会権では、国家が当事者間に積極的に介入して新たな措置をとり、それに伴い、関連する経済的自由権が制約されるという形が発生する。その場合、社会権の保障は、営業の自由に対する制約を最も小さくすればよいというものではなく、むしろ、社会権を最も効率的、経済的に保障できるものがよいということになる。その結果、制約される自由権の側から見ると、単純な最小限度の侵害に止まらない制約を肯定しなければならない場合が発生するのである。例えば、特定の業者の経営の安定を目的とする規制の場合、その業者の生存権を保障しようとしているのであるから、典型的な社会権に基づく規制といえる。

 このような場合について、小売り市場判決は次のように述べる。

「憲法は、全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡のとれた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つ者に対する適切な保護政策を要請していることは明らかである。このような点を総合的に考察すると、憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であり、国は、積極的に国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、もつて社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることも、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、許されるべきであつて、決して、憲法の禁ずるところではないと解すべきである。もつとも、個人の経済活動に対する法的規制は、決して無制限に許されるべきものではなく、その規制の対象、手段、態様等においても、自ら一定の限界が存するものと解するのが相当である。」

 この判決の冒頭で、福祉国家理想と述べているところに、端的に社会権に基づく規制であることが示されている。そして、この社会権に基づく規制の場合における特徴として次のように述べる。

「 社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない。というのは、法的規制措置の必要の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するにあたつては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがつて、右に述べたような個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」

 すなわち、この場合には、二重の基準論の根拠の中でも、特に、裁判所の判断能力の限界と、同等の専門的国家機関に対する謙譲ということが大きな理由となって、狭義の合理性基準が使用されることになる。

 この結果、社会権実現のために立法裁量の幅を広く肯定しなければならないから、単純にLRAテストを行うことはできないが、それでも「重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置である」かないかの審査は行わなければならない、とする。したがって、通常の合理性基準でいうように、明白性基準だけで合憲とすることはできない。小売市場最高裁判決は、薬事法最高裁判決より3年早く下されているので、この点は文言上明確ではないが、審査内容を見ると、「過当競争による弊害が特に顕著と認められる場合についてのみ、これを規制する趣旨である」ことなどを決め手として合憲としており、既にこの重要な公共の利益という判断が下されていることが判る。その意味で、許可制には一般に厳格な合理性の基準が適用になるといえよう。

 

[まとめ]

 本問の場合、浴場の開業の自由に対する規制であるから、もっぱら22条が問題となり、29条を考える必要がないので、ここまでの検討を行えば足りることは判ると思う。

 浴場経営については、憲法判例百選に載っている大法廷判決があまりに有名であるが、今日の目から見た場合に、その理論的構成はあまり参考にならない。しかし、平成元年に、浴場経営に関して、第二と第三の小法廷判決が、ほぼ同時期に下されているので、そこでの理論構成を見てみよう。

 平成元年1月20日最高裁判所第二小法廷は、歴史的説明に力点が置かれている。

「公衆浴場法に公衆浴場の適正配置規制の規定が追加されたのは昭和25年法律第187号の同法改正法によるのであるが、公衆浴場が住民の日常生活において欠くことのできない公共的施設であり、これに依存している住民の需要に応えるため、その維持確保を図る必要のあることは、立法当時も今日も変わりはない。むしろ、公衆浴場の経営が困難な状況にある今日においては、一層その重要性が増している。そうすると、公衆浴場業者が経営の困難から廃業や転業をすることを防止し、健全で安定した経営を行えるように種々の立法上の手段をとり、国民の保健福祉を維持することは、まさに公共の福祉に適合するところであり、右の適正配置規制及び距離制限も、その手段として十分の必要性と合理性を有していると認められる。もともと、このような積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法については、立法府のとつた手段がその裁量権を逸脱し、著しく不合理であることの明白な場合に限り、これを違憲とすべきである」

 ここでは、距離制限が警察規制ではなく、国民の健康を維持するという社会権的要求の規制であることが明確に示されている。末尾の一言は、小売市場判決の引用で、その系譜に属する判決であることを示しているが、その前の記述では、小売市場事件よりも踏み込んだ事実認定が下されており、決して明白性基準に頼り切った判決とはなっていない。。

 若干遅れて、平成元年3月7日に下された第三小法廷判決は、現状の分析の方に力点を置いて、次のように述べる。

「法22項による適正配置規制の目的は、国民保健及び環境、生の確保にあるとともに、公衆浴場が自家風呂を持たない国民にとって日常生活上必要不可欠な厚生施設であり、入浴料金が物価統制令により低額に統制されていること、利用者の範囲が地域的に限定されているため企業としての弾力性に乏しいこと、自家風呂の普及に伴い公衆浴場業の経営が困難になっていることなどにかんがみ、既存公衆浴場業者の経営の安定を図ることにより、自家風呂を持たない国民にとって必要不可欠な厚生施設である公衆浴場自体を確保しようとすることも、その目的としているものと解されるのであり、前記適正配置規制は右目的を達成するための必要かつ合理的な範囲内の手段と考えられるので、前記大法廷判例に従い法22項及び大阪府公衆浴場法施行条例2条の規定は憲法221項に違反しないと解すべきである。」

 ここでも、本件規制が国民の健康目的の積極規制であることは明白に示されている。しかし、審査基準として小売市場判決には言及しておらず、内容的にも規制の合理性に関する分析が行われていて、やはり単なる明白性基準とは言えない。