在監者の人権
甲斐素直
問題
交通事故を起こして有罪判決を受け、A刑務所に懲役刑で拘置されている受刑者Xは、ある図書を自費で購読しようとした。A所長Yがその内容を確認したところ、その図書はどこにでもいるいたって普通の人間が時に詐欺師、時に元服役者、時に暴力団組員と出会い、夜の酒場で酒を交わして語り合い、時に拳で語り合い、相互理解をしていくという小説であり、非常にリアリティーのある作品であったため、その図書を読むと受刑者がその道に行くことを考えたりするようになり、拘留の目的である更生を害することになる可能性が高いと判断し、刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律47条1項2号に基づき、Xがその図書を読むことを認めないとする処分を下した。
そこでXは人権の侵害であるとして、Yの下した処分の取り消しを求めて出訴した。
この事案における憲法の問題点を論ぜよ。
参照条文 刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律第46条 受刑者が自弁の書籍等を閲覧することは、この章及び第11章の規定による場合のほか、これを禁止し、又は制限してはならない。
第
47条 刑事施設の長は、受刑者が自弁の書籍等を閲覧することにより次の各号のいずれかに該当する場合には、その閲覧を禁止することができる。一
刑事施設の規律及び秩序を害する結果を生ずるおそれがあるとき。二
矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがあるとき[はじめに]
在監者の人権の問題は、最近では平成11年度に旧司法試験で、次の問題が出題されている。
受刑者Aは刑務所内の処遇改善を訴えたいと考え、その旨の文書を作成して新聞社に投書しようとした。刑務所長は、Aの投書が新聞に掲載されることは刑務所内の秩序維持の上で不相当であると判断して、監獄法46条2項に基づき、文書の発信を不許可とした。
右の事案に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。
ついでなので、この問題についても問題意識を持ちつつ、以下、説明していきたい。
司法試験問題に出てきた監獄法は、明治41年に作られた法律で、できた当時は江戸時代及び明治前半の野蛮な行刑と一線を画したもので、在監者のマグナカルタといわれたりしたが、今となれば、100年も前の古色蒼然たるもので、とうてい現行憲法に整合するものではなかった。そこで法務省では以前から「刑事施設法」という名の抜本改正案を用意し、昭和57年を皮切りに3度にわたり国会に上程したが,後述する代用監獄の規定が問題となり、日弁連などの反対により、いずれも廃案となった。
それが平成18年にいたり、ようやく問題文に揚げた「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」となって成立し、監獄法が廃止された。
この法律と監獄法の相違点は、次の点である。第一に、受刑者の処遇ばかりでなく、実質的な改正がされないまま旧監獄法によって規律されていた未決拘禁者・死刑確定者の処遇を、受刑者と同等のものとした。第二に、刑事施設だけでなく、留置施設(警察署の留置場)及び海上保安留置施設(海上保安庁の収容施設)についても規定された。これらの施設は、旧監獄法上、代用監獄(代用刑事施設)として利用されていたが、法律上の設置根拠が存在せず、処遇に関する明確な規定もないなど、問題点が指摘されていた。そこで、改正法は、これらの施設の設置根拠及びその処遇を明確に規定することとし、留置施設における捜査部門と留置部門の分離を明確に規定し(16条3項)、刑事施設の収容対象者について、受刑者・死刑確定者を除き、刑事施設への収容に代えて留置施設に留置することができる旨の代替収容の規定を整備した(15条)。
一 在監者と特別権力関係論
(一) 特別権力関係論の内容
かつては、在監関係は、特別権力関係論と呼ばれる公法理論によって一律に処理されると考えられていた。今日では、この理論は、少なくとも憲法学の分野では一般に否定されて久しく、現役の学者でこの説を採っている人は皆無であるので、本問に対する回答としての諸君の論文では、この理論に言及する必要はまったくない。
しかし、現実問題としてかなりの人が書いており、しかもその理解は必ずしも正しいものではなかった。また、特別権力関係は、広く、公務員、国公立学校の生徒・学生から公立図書館等の利用者に至るまで幅広く成立するものとされているから、その意味はきわめて大きい。実際、公立学校の校則問題については、比較的最近までこの理論により処理する判例が多数存在していたし、文科省は今も公式にはこの立場を貫いているのである。したがって、一度きちんと理解しておかないと、この理論の当否そのものを聞くような出題をされたときに対応できなくなる。そこで、この機会に整理しておくことにしよう。
特別権力関係論の典型的な主張を、判例からみてみよう。大阪拘置所に収容されている死刑囚が、拘置所側の新聞購読の禁止、ラジオ聴取の制限、信書発信の制限など各種の処分に対して、実に詳細な不服申立を行った事件での国側の主張である。(大阪地裁昭和33年8月20日判決=百選第4版34頁参照)。
そこで、まず特別権力関係と言う言葉の意味について確認しておく。
「公法上の権力関係には一般構力関係と特別権力関係とがある。一般権力関係は、国が一般行政目的を遂行するため私人に義務を課し、その権利、自由を制限する国と私人間の関係であつて、その内容は法規によつて規律される。一般権力関係に基いてなされる行政庁の処分に不服のある者は、裁判所に訴訟を提起することができる。これに対し特別権力関係は、国が特定の行政目的を遂行するため特別の地位にある私人に対し、強度の服従を要求しうるもので、公の勤務関係や営造物利用関係をその主要な例とする。その関係の成立には法律の根拠を要するが、特別権力関係が成立した以上は、国と当該私人との間には、特定の行政目的の実現を中心として、ある程度継続的かつ有機的な関係が成立し、その特別権力関係の性質によつて定まる一定の範囲内において私人は包括的な服従義務を負う。この場合、直接、権力を行使する行政庁の私人に対する下命行為は、一般的なかたちでなされるときは行政規則としてそうでないときは個別的、具体的な下命行為としてあらわれる。」
ここまでが、特別権力関係と言う言葉の説明である。要するに、一般の人の国家との関係を一般権力関係と呼ぶとき、それとは異なる特別の支配服従の関係がある、ということで、このこと自体は今日でも否定する必要のない言葉である(時々、今日では特別権力関係と言う概念それ自体が否定されているかのように錯覚している人が、ちゃんとした学者でさえいて、驚かされるが、間違いである。)
特別権力関係「論」と言われる議論は、この特別権力関係が存在する場合には、自動的に人権が否定されるとする理論である。この事件で人権侵害を主張する原告に対して、国は「被告が原告に対してする各種の処分は、特別権力関係に基くものであり、行政訴訟の対象にならない」と反論している。
「一般に、公法上の特別権力関係は、特別の法律関係に基いて成立する関係であり、設定目的のために必要な限度において、法治主義の原理の適用が排除され、営造物を管理する者は、管理権に基いて、個々の具体的な法律の根拠なしに、包括的な支配権の発動として命令、強制をなし得るものであると説かれている。」
なぜ、特別権力関係があるとそういう効果が発生するかというと、その理由は次のとおりである。
「下命行為は法規によるものではなく、行政庁の合目的的な裁量に委されているからその処分の当否につき法規による評価ということはありえない。」
(二) 在監者と特別権力関係論
在監者に対する関係での、特別権力関係論の妥当性について始めて問題にしたのは上記に引用した大阪地裁判決である。同判決は、下級審判例でありながらこの分野におけるリーディングケースと認められている。在監者の関係だけを切り離した形で論じたので、この判決の射程距離は決して大きなものではなかったが、その後の、判例・学説に与えた影響は、一下級審判決としては実に巨大なものだった。この重要性にも拘わらず、百選第5版では残念ながら削られてしまったことでもあり、同判決の中心となる部分を、少々長文であるが、以下に紹介する(なお下線は私が付している)。
「刑事被告人の拘禁関係は、被告人が定つた住居を有しないとき、被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき、被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき、発せられる勾留状の執行によつて生ずる強制力行使関係であり、死刑の言渡を受けた者の拘禁関係は、刑事被告人としての拘禁に引き続いた、もしくは収監状の執行によつて生ずるところの、死刑確定者に対する死刑の執行のため、その執行を果すまでの強制力行使関係である。いずれも拘置監という堅固に作られた物的施設関係と必要な威力を行使する人的配備関係のもとに、収容者の身体の自由を拘束して、事実上に自由な活動をなし得ないようにする継続的行為であつて、何人も法律の定める手続によらなければ自由を奪われない(憲法31条)し、何人も正当な理由がなければ拘禁されない(憲法第34条)から、拘禁関係は法律によつてのみ成立する関係である(勾留につき刑事訴訟法第60条以下、死刑の言渡を受けた者につき刑法第11条、刑事訴訟法第484条以下)。拘禁関係が任意に成立することはないし、従つて、拘禁者又は被拘禁者が任意に拘禁関係を排除離脱することも許されない。
一般に営造物の行政的管理は命令の形式でできるが、使用の強制と自由権の制限は法律をもつてしなければならない。監獄関係はその最たるものであることは多言を要しないであろう。
監獄は、設置目的に従つて、権力行使に属する行為をなすことによつて、国のために公用を果すことを主たる任務とするものであり、その任務を行うことによつて収容者に利益を与えることはない。収容者に特別の苦痛(自由刑が教育刑として執行されねばならぬこととは別問題である)を与えることによつて国の公の目的、すなわち刑罰制度およびこれに伴う諸制度の維持に寄与し、一般社会の公共の福祉の保護の要請に応えようとするものである。これがため、被拘禁者が身体の自由を拘束されるのはやむをえないところであるが、拘禁が法律に基いて容認された以上、被拘禁者のすべての人権の制限は当然それに包括され、具体的の法律の根拠なしに人権の侵害が許されると考うべき理はない。それは人権を保障し尊重する憲法の精神に照し、絶対に容認できないことといわなければならない。身体の自由以外の権利に侵害を加えることは決して拘禁の目的とするところではないのであるが、拘禁の目的を達する必要上、必然的に制限せざるを得ない限度において、基本的人権が、拘禁に伴つて制約を受けることはやむをえないところと解すべく、また、それとともに、法律によるその制限も、設定目的に照して必要最小限度の合理的制限のほかは認められるべきでない。
拘禁は監獄の生命であり、受刑者に対する教化矯正のことを別とすれば、監獄の主たる任務は、保安処分たる戒護である。戒護の目的は、外部との自由な交通を遮断し、隔離作用の充実を期するとともに、逃走、暴行殺傷を予防し、構内および房内の紀律維持を図るにある。一般の営造物権力においても、内部の紀律維持権が与えられているが、監獄においては、それは集団生活が行われるための欠くべからざるものとされ、監獄の本質につながつているのである。従順、静粛、衛生、清潔、融和は、監獄という一小社会の秩序と紀律であり、収容者はこの社会の一員であるから、この秩序と紀律に従わせなければならない。拘禁と戒護の面において、監獄行政は最良にして最高度に、技術的、合目的的、かつ自主的であらねばならない。もつとも法律は、人権に触れることが多いところから、重要な若干につき規定し、その他を監獄当局に委ねているが、法律の枠内と委ねられた範囲では、被告の自由裁量行為が行われるものであることはもちろんである。
かようにみてくると、原告と被告の関係が特別権力関係に包摂されるからといつて、右特別権力関係に基く支配行為は絶対的なもので、これに対して司法救済の途がないということはできない。ただ前述のとおり法律による規制を必要としないような右営造物設定の目的から要請される範囲内の特別権力による裁量行為に対しては、特別権力関係の内部において認められた手段によるほか法律に特別の規定のない限り司法救済の途はないというべきであるが、特別権力に基く行為も、法律の規制に違反し、また右存立目的から合理的に不可欠と考えられる範囲を逸脱し、社会観念上著しく妥当を欠いている場合、要するに違法に人民の基本的人権を侵害するがごとき場合には、司法救済を求めることができるというべきである。換言すれば、拘置監という小社会の収容者は、『公共の福祉』保護の要請から設けられた監獄法その他の刑事法を根拠として拘置監に拘禁され、拘禁の目的に服する範囲で必然的に人権の収縮された保障を余儀なくされ(憲法第11条、第13条。右法文の体裁は「国民」の権利義務となつているが、基本的人権の享有は必ずしも日本の国民に限られることなく、法律によつて差別を設けることが合理的だと認められる場合のほかは外国人にも等しく及ぼされるべきである)、その収縮につき法律に規定されている限度ないし右管理機関である被告に裁量の認められている限度では、違法の問題は起らないが、その限度を超える場合には違法の問題を生じ、司法救済を求めることができるのである。」
かなり長く引用したが、その述べるところは判ってもらえると思う。これをダイジェストすれば、特別権力関係論について聞かれた場合には、君たちの論文の序論はできあがることになる。
この判決を契機に、憲法学界では、一般に特別権力関係論を否定的に見る見方が定着する。最高裁も、この下級審判決以降においては、特別権力関係論を全く使用しなくなっている。例えば、富山大学経済学部で単位認定を巡って争われた事件で、下級審は特別権力関係論で問題を解決したのに対し、最高裁判所はいわゆる部分社会論で処理したのである。
二 在監関係の目的と人権の制限
一口に在監者というが、これには、判決が確定していないが収監されている者(未決囚)と、判決が確定した結果収監されている者(既決囚)の2種がある。既決囚には、判決による刑の執行そのものとして収監されている者と、生命刑の判決が確定したが、未だ執行にいたっていないもの(死刑囚)とがある。これに応じて、在監関係に差異が生じ、ひいては人権制限の範囲及び理由にも差異が生ずるのは当然である。したがって、一律に在監者の人権を考えるのは妥当とはいえない。本問は既決囚だけに限定して出題してあるが、せっかくの機会であるので、以下においては、上記3類型に応じて判例の見解を紹介し、どのように考えるべきかを検討したい。
(一) 未決囚の在監関係
未決囚の場合、判決確定までの間は無罪と推定される。それにもかかわらず、その行動の自由を制限しうるのは、その者に「逃亡及び罪証隠滅のおそれがあると疑うに足りる相当の理由がある」場合だけである(刑訴法60条)。したがって、拘留した場合における人権の制限も、3類型の中ではもっとも緩やかなものでなければならない。では、それは、どの限度で考えるべきであろうか。
1 被拘禁者の喫煙の禁止
この分野における最高裁のリーディングケースといえる判決は、未決囚が拘置所内でたばこを吸う権利を求めて訴えたという、相対的には軽微な事件である。この事件では、結論において請求を否定し、現状を維持しているにもかかわらず、大法廷判決となっている。これは、その論理において、最高裁判所として特別権力関係論を否定する、という重大な要素をもっていたからに他ならない。
「未決勾留は、刑事訴訟法に基づき、逃走または罪証隠滅の防止を目的として、被疑者または被告人の居住を監獄内に限定するものであるところ、監獄内においては、多数の被拘禁者を収容し、これを集団として管理するにあたり、その秩序を維持し、正常な状態を保持するよう配慮する必要がある。このためには、被拘禁者の身体の自由を拘束するだけでなく、右の目的に照らし、必要な限度において、被拘禁者のその他の自由に対し、合理的制限を加えることもやむをえないところである。
そして、右の制限が必要かつ合理的なものであるかどうかは、制限の必要性の程度と制限される基本的人権の内容、これに加えられる具体的制限の態様との較量のうえに立つて決せられるべきものというべきである。
(最高裁昭和45年9月16日大法廷判決=百選第5版36頁参照)
この事件の場合、喫煙は火災の危険につながることになり、火災は、収容者が行動の自由を制限されている拘置所では、一般建造物に比べてはるかに危険性が高い。したがって、禁ずることを妥当とする結論が導かれること自体はあまり不思議がない。とにかく、人権制限にあたり、一律に特別権力関係論で説明せず、比較衡量を要求している点が、この判決のポイントである。諸君は、単純に審査基準論で対応しようとする傾向を示すが、このように国の施設管理の利益と個人の人権の衝突というような場面では、二つの利益の衡量が求められることを忘れてはいけない。比較衡量としては、アドホック比較衡量に属するとする表現がとられているが、それは制限される人権の種類が特定されていないからである。基本的に最小限度規制しか許容されないのであるから、人権の種類が確定されれば、そこから先は定義づけ比較衡量を行うことになることは、次の判例に明らかである。
2 被拘禁者の新聞や小説等の閲読権
未決囚が拘置所内で私費で購読していた新聞のうち、よど号事件(過激派が日航機をハイジャックし、乗客を人質として既に服役中の過激派の釈放を政府に要求し、政府が超法規的措置としてこれに応じた事件)関連部分を拘置所側が墨で抹消したという「知る権利」と直接結びつく重要な行為に関連する判決では、最高裁は上記喫煙権判決を引用した上で、次のように言う。
「およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要なところである。〈中略〉しかしながら、このような閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて、もとより上告人らの主張するようにその制限が絶対に許されないものとすることはできず、それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがあることもやむをえないものといわなければならない。そしてこのことは、閲読の対象が新聞紙である場合でも例外ではない。この見地に立つて考えると、本件におけるように、未決勾留により監獄に拘禁されている者の新聞紙、図書等の閲読の自由についても、逃亡及び罪証隠滅の防止という勾留の目的のためのほか、前記のような監獄内の規律及び秩序の維持のために必要とされる場合にも、一定の制限を加えられることはやむをえないものとして承認しなければならない。しかしながら、未決勾留は、前記刑事司法上の目的のために必要やむをえない措置として一定の範囲で個人の自由を拘束するものであり、他方、これにより拘禁される者は、当該拘禁関係に伴う制約の範囲外においては、原則として一般市民としての自由を保障されるべき者であるから、監獄内の規律及び秩序の維持のためにこれら被拘禁者の新聞紙、図書等の閲読の自由を制限する場合においても、それは、右の目的を達するために真に必要と認められる限度にとどめられるべきものである。したがつて、右の制限が許されるためには、当該閲読を許すことにより右の規律及び秩序が害される一般的、抽象的なおそれがあるというだけでは足りず、被拘禁者の性向、行状、監獄内の管理、保安の状況、当該新聞紙、図書等の内容その他の具体的事情のもとにおいて、その閲読を許すことにより監獄内の規律及び秩序の維持上放置することのできない程度の障害が生ずる相当の蓋然性があると認められることが必要であり、かつ、その場合においても、右の制限の程度は、右の障害発生の防止のために必要かつ合理的な範囲にとどまるべきものと解するのが相当である。」
(最高裁昭和58年6月22日大法廷判決=百選第5版38頁参照)
本問は、出題者がかなりいじり回し、更に私が加工しているので、ぴんと来なかった人も多いと思うが、実はこの判決をベースにして作られている。
この判決では、アドホックな比較衡量ではなく、知る権利の重要性を前提とした上で、比較考量することを要求する、いわゆる定義づけ比較衡量が要求されている点が重要である(定義づけ比較衡量に関しては、大分県屋外広告物規制条例事件での伊藤正己判事の補足意見が有名である。併せて読んで欲しい=最判昭和62年3月3日・百選第5版128頁)。
なお、上記判決中ではいずれも述べられていなかったが、未決拘留における人権制約の大きな要素として、自他殺傷の防止という点が存在することは明らかである。近時、一部の刑務所で、刑務所職員による受刑者に対する暴行が問題となったが、そこで問題視された皮手錠は、そうした自他殺傷の防止目的で本来は認められているものである。
《注記》
上記引用文中に〈中略〉とした箇所がある。これは、判決が閲覧権が認められる憲法上の根拠を述べた箇所で、その原文は次のとおりである。
「それゆえ、これらの意見、知識、情報の伝達の媒体である新聞紙、図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、思想及び良心の自由の不可侵を定めた憲法19条の規定や、表現の自由を保障した憲法21条の規定の趣旨、目的から、いわばその派生原理として当然に導かれるところであり、また、すべて国民は個人として尊重される旨を定めた憲法13条の規定の趣旨に沿うゆえんでもあると考えられる。」
この箇所は、百選でもそのまま引用してあるので、学生諸君は、自分の論文でも、このまま書けば合格点が貰えると錯覚してしまうのだが、それをやると落第答案になるので注意しよう。すなわち、第一に、今日では閲覧権は知る権利から問題なく導けるから、根拠としては憲法21条のみでよいのである。そして、知る権利は決して表現の自由の派生原理ではない。第二に、憲法19条は、今日では一般に沈黙の自由、すなわち自らの内心にあるものを消極的に表明しない自由として理解されており、したがって知る権利を積極的に行使する際の根拠とはならない。第三に、憲法13条は包括的基本権条項として理解されている。そして、包括的基本権の補充性から、有名基本権の場合に13条を、それに加えて根拠として引用するのは間違いである。
なお、引用文中、〈中略〉の数行後に「これに優越する公共の利益」という言葉が出てくる。これは、明らかに戦後すぐの頃に強力に唱えられた美濃部達吉の基本的人権が公共の福祉という外在的制約に服するという説の用語法である。それに対して、今日の憲法学は宮沢俊義の内在的一元論をベースに展開されている。したがって、この表現も、そのまままねすると、落第答案につながるので絶対にやめてほしい。
(二) 自由刑受刑者と在監関係
未決囚と違って、自由刑受刑者が、その在監関係が人権の制限になっているとして訴えた事件はあまり多くない。最高裁で判断を示したのは、外からの差入を制限した事案である。すなわち、偽名を使った外部の者から差入を受けたことのある受刑者に対して新たにあった差入に対して、その者の調査が済むまでの間、差止たことの違法性を主張して争った事件において、最高裁判所は、刑務所長の幅広い裁量権を肯定して次のように述べた。
「受刑者については、法は、規則において差入を不許可とすべき場合として明文で定める場合を除き、それ以外の場合の差入の許否を刑務所長の裁量にゆだねているものと解するのが相当である。けだし、差入は受刑者と外部との交通の一態様であるが、懲役刑は、受刑者を一定の場所に拘禁して社会から隔離し、その自由をはく奪するとともに、その改善、更生を図ることを目的とするものであって、受刑者と外部との交通は一般的に禁止されているものであるところ、およそ物品は、その本来の用途以外にも通常の予測を超えた目的用途に利用される可能性を持つものであり、また、特定の者からの差入という事実自体によつて受刑者に一定の影響を与えることがあり得る性質のものであること及び多数の受刑者を収容し、これを集団として管理する施設である刑務所において紀律保持の必要があることにかんがみ、法は、規則において差入を不許可とすべき場合として明文で定める場合を除き、それ以外の場合は、刑務所長が、目的物の性質、形状、内容、差入人と受刑者との人的関係等諸般の事情を考慮して、その裁量により差入の許否を決することを予定しているものと解されるからである。そうであるとすると、差入人と受刑者との人的関係が明らかでないため、その差入が受刑者の処遇上害があるか否か不明である場合は、刑務所長は、その裁量により、右差入の許否を決することができるものというべきである。」(最高裁昭和60年12月13日第2小法廷判決)
この事件の場合、受刑者自身が差止禁止を違憲と主張していないから、当然最高裁判所の憲法解釈そのものが示されていない。しかし、その内容からすれば、未決勾留の場合に比べて、人権の制約の許容範囲が相当広がっているという判断が存在しているものと見ることができる。これは、既決囚の場合の拘禁目的には、未決囚のそれに加えて、矯正・教化という点があり、人権の制約それ自体が刑の執行そのものの一部と把握されているためである。
本問は、この既決囚に関する事案である。上記判例では、差し入れであるのに対し、本問は自費での図書の購読である。未決囚の場合には、先によど号事件判決で示したとおり、刑務所内の秩序維持上問題が生じるか否かを基準として、最小限度規制というスタンスで比較衡量が要求された。しかし、既決囚の場合には、収監という手段により自由を拘束することにより、その者を矯正し、健全な社会人として復帰させるということがもっぱら収監の目的なのである。逃走・証拠隠滅の恐れを除去することだけが収監目的である未決囚の場合との大きな相違点として存在している。それが、問題文で、刑務所長が図書の購入を差し止めた根拠とした法47条1項2号である。
この場合には、図書の内容のみではなく、その者の服役態度その他、総合的に判断して、差し止めの要否を検討する必要がある。その結果、刑務所長の広汎な判断権を承認せざるを得ず、未決囚のような最小限度規制という基準が必要ということはできないのである。例えば、自費による購読についても、いくらでも買えるわけではなく、冊数制限等があったりする。だから、同じ本でも今は許可しないが、もう少し経って、矯正が効果を上げだしたら閲読を許可する、という処分もありうるのである。
なお、司法試験問題について説明する。当時の監獄法
46条は次のようなものであった。46
条 在監者には信書を発し又は之を受くることを許すA 受刑者及び監置に処せられたる者には其親族に非ざる者と信書の発受を為さしむることを得ず但特に必要ありと認むる場合は此限に在らず
これに対し、現行法は遥かに詳細なものとなっている。禁止に関する規定は次のようになっている。
128条 刑事施設の長は、犯罪性のある者その他受刑者が信書を発受することにより、刑事施設の規律及び秩序を害し、又は受刑者の矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがある者(受刑者の親族を除く。)については、受刑者がその者との間で信書を発受することを禁止することができる。ただし、婚姻関係の調整、訴訟の遂行、事業の維持その他の受刑者の身分上、法律上又は業務上の重大な利害に係る用務の処理のため信書を発受する場合は、この限りでない。 第
これ以外にも
129条以下にさらに細かな規定があるが、本問を現時点で読み替える場合には、「刑事施設の規律及び秩序を害し、又は受刑者の矯正処遇の適切な実施に支障を生ずるおそれがある」で読めるかどうかが問題になることになる。
(三) 死刑囚と在監関係
冒頭に掲げた特別権力関係に関する大阪地裁判決は死刑囚からの訴えであった。同様に、死刑囚からの訴えの件数は意外に多い。最近の例では三菱重工爆破事件の犯人として死刑判決を受けた者が、拘置所内での処遇に関連して、人権擁護委員会等に連絡をしようとしたことを拘置所側が不許可としたことの違憲性を訴えて争ったものがある。少々長いが、様々な論点が網羅的に示されているので、東京地裁の判決主要部を次に紹介する。
11条2項)が、右規定による拘禁は、自由刑の執行の内容としての拘禁とも、未決勾留による拘禁とも、その目的及び性格を異にするものであることはいうまでもない。すなわち、自由刑確定者の拘禁は、それ自体が自由刑たる刑罰の執行であり、その拘禁に将来の社会復帰を前提にした教育的効果を期待し、かつ、要求すべきものであるが、これにたいし、死刑確定者の拘禁は、生命刑たる刑罰そのものではなく、また、将来の社会復帰を前提にした教育的効果を何ら目的としないものである。そして、未決勾留による拘禁は、いわゆる無罪の推定を受ける者を専ら逃走及び罪証湮滅の防止を目的として身柄を拘束するものであるが、死刑確定者の拘禁は、罪証湮滅の防止は再審請求の場合を除き考慮する余地がなく、刑法が死刑執行の必然的な前提手続として定めたものである。 「死刑確定者は、執行の時まで監獄に拘置するものとされる(刑法
拘禁とは、そもそも一定の場所に身柄を拘束することであるが、限られた物的・人的設備をもって被拘禁者の身柄拘束を確保・維持するためには、被拘禁者の移動の自由を制限するだけで事足りるものではなく、施設管理移動の自由以外の各種の自由にも一定の制限を加える必要性も否定することができず、その制限が拘禁確保のために必要かつ合理的なものと認められる限りは、拘禁そのものに必然的に伴う自由の制限として、被拘禁者は、これを甘受せざる得ないというべきであり、さらに、前記のとおり、三種の拘禁は、それぞれ法的な目的及び性格を異にするものであり、その相違点がそれぞれ拘禁に付随する具体的処遇の局面に反映することも、必要かつ合理的な限度で是認されるべきであるから、移動の自由以外の自由に対して、いかなる内容の制限をいかなる程度まで許容しうるかは各拘禁の法的な目的及び性格を考慮して決定すべきである。従って、監獄法は、死刑確定者には、特段の規定のない限り、刑事被告人に関する規定を準用すると定めている(同法9条)が前述のとおり未決勾留と死刑確定者の拘禁とは、その法的な目的及び性格を異にするものである以上、同法は、死刑確定者の処遇に関する別段の規定がないときに、死刑確定者の処遇について、刑事被告人に関する規定をそのまま適用して刑事被告人と同一の扱いにすることを要求しているわけではなく、死刑確定者の拘禁と刑事被告人の拘禁との法的な目的及び性格の差異に応じた修正を施したうえで、刑事被告人に関する規定を適用して、死刑確定者に対しその拘禁の目的及び性格に応じた適正な処遇がされるべきことを要求しているものと解すべきである。
そして、以上のうち、死刑確定者の拘禁について特に注意すべき性質としては、死刑の生命刑として有する特質である。すなわち、死刑確定者の他の被拘禁者との顕著にして最大の相違点は、死刑確定者には、社会復帰はもちろん、生への希望さえも断ち切られている点である。このために、死刑確定者は、あるいは、絶望感にさいなまれて、自暴自棄になり、あるいは、極度な精神的不安定状態を招来し、あるいは、自己の生命・身体を賭して(死刑確定者に対しては、既に死刑という極刑が科せられていう以上、新たに重罪を犯すことに関し新たな重罪を科することによる威嚇効果は期待されず、その負担する危険は逃亡時における自己の生命・身体に対する危険である。)、逃亡を試みるなどして、拘禁施設の現場担当者の管理に支障・困難が生ずる危険性が他の被拘禁者に比すべきもなく高いものであることは、容易に推察されるところである。そのため、死刑確定者についてはその管理の必要上、精神状態の安定について、格段の配慮を行う必要性がある。
法は、在監者の信書の発信については、これを監獄の長の許可に委ねると規定し(同法
46条1項)、その許容の基準については、受刑者及び監置に処せられた者に関してのみ規定を設けているが、死刑確定者に関しては、法令上明文の規定を設けていない。しかし、明文の規定を欠くからといって、その許否が全くの自由裁量に委ねられると解することも、あるいは反対に無制限に許可されると解することも、相当ではなく、死刑確定者の信書の発信は、移動の自由に対する制限と同じく、その拘禁の法的な目的及び性格並びに特質性に照らして、必要かつ合理的な範囲内において制限しうるものというべきである(端的な例としては、監獄外の者に対して逃走援助を要請する信書や被害者の遺族に対するその遺族の心の安寧をおびやかす内容の信書の発信が挙げられよう。)。」東京地裁平成元年5月31日=判例時報1320号43頁こうして、人権擁護委員会への訴えが、死刑囚の逃走その他をもたらすことはあり得ないとして国の敗訴とした。この事件は国側が上訴せず、地裁段階で確定している。
死刑囚は、有罪の確定した者ではあるが、収監目的は刑を執行するまでの間、逃亡を防止する、という一点にのみ存在し、矯正目的が存在しないため、未決囚と同様に拘置所に収監される。その結果、その自由の制約される範囲は、未決囚よりも更に狭まることになり、制約には厳しい最小限度基準が求められることになる。