司法権の概念と違憲審査の根拠規定

甲斐素直

問題

 A県知事Yは、県知事の資格において靖国神社の春の例大祭に出席し、玉串料5000円を県知事交際費から支払った。

 これに対し、A県住民であるXは、これは憲法203項並びに89条に違反するとして、地方自治法242条に従い監査請求をしたが、請求後60日が過ぎても監査委員が監査を行わなかったため、地方自治法242条の2に従い、Y知事の行為の違憲性を根拠に住民訴訟を提起した。

 これに対し、Yは次のように主張した。

「警察予備隊訴訟最高裁判決(最大1952108日民集69783頁=百選第5428頁参照)は次のように述べている。

『わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予期して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異なるところはないのである。』

 これによれば、違憲審査権は憲法76条の保障する司法権の効力として考えられるのであって、憲法81条によって、司法権とは関係なく与えられたものと考えるべきではない。そして、司法権とは

『具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用』(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁)

のことである。

 有効な司法権の行使が行われるためには具体的争訟性が必要であることも、上記警察予備隊訴訟の判決に明らかである。そして、具体的争訟とは、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」のことであり、これは、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう。

 しかるに、住民訴訟においてXについては何ら具体的な権利義務関係の問題はない。したがって、住民訴訟は、裁判所法3条前段にいう『法律上の争訟』ではなく、後段にいう『その他法律において特に定める権限』であるに過ぎない。

 すなわち、住民訴訟は憲法76条にいう司法権の行使には該当しないから、裁判所は住民訴訟においては、そもそも違憲審査を行うことはできない。」

 これに対し、Xとしては、住民訴訟においても、裁判所は違憲審査ができると主張したい。そのために必要な自らの見解を述べ、その理由を挙げなさい。

[はじめに]

 本問は、二つの要素から成り立っている。司法権概念に関する議論と、違憲立法審査権に関する議論である。このうち、前者については、旧司法試験で頻出されており、拙著憲法ゼミナール読本でも、それらを網羅する形で紹介している。本問はそれに更に一ひねりを加え、司法権概念で採用する説と違憲審査権の根拠議論との結びつけている点で、難易度が上がっている。

 今回の問題を読んでもらえれば、Yの反論は実に論理にかなっており、普通であればそれで決まり、と思ったことであろう。しかし、同時にYの反論が現時点においても有効に成り立つなら、そもそも津市地鎮祭判決や愛媛玉串判決が出る訳がない。あるいは選挙訴訟という訴訟類型を利用して下された昭和51年の衆議院議員定数違憲判決も、同じ論理で最高裁判所は憲法判断ができないという結論が出なければおかしい。さらに、司法領域に目を転じれば、例えば八幡製鉄政治献金事件訴訟なども、やはり住民訴訟や選挙訴訟と同じ客観訴訟だから、そもそも最高裁判所が合憲・違憲の判断をしたこと自体がおかしい、といわねばならないことになる。

 すなわち、これらの判決が出た段階で、Yが反論の基礎とした警察予備隊判決の先例性は、これら判決に抵触する範囲で失われているといわねばならない。問題は、その「範囲」なるものが、具体的にはどの範囲か、という点である。それについては、学説が激しく対立しており、それこそが、諸君が基本書と相談して書かねばならない点である。

 住民訴訟は、具体的争訟という概念をかつての通説・判例的定義にしたがって下した場合、それに該当しないということが問題になる。つまり、抽象的争訟が、実定法において既に定められている状況下で、司法権概念をどのように定めるのが妥当か、という問題なのである。警察予備隊判決で確定された従来の司法権概念の下で、住民訴訟という制度を合憲というためには、裁判所法3条にいうところの、その他法律で定める事項と考える以外にない。しかし、そう考えた場合、警察予備隊判決にしたがって、違憲審査権の根拠が76条にあるという説を採る限り、Yのいうとおり、住民訴訟で違憲審査権を裁判所が行使するのは間違いという答え以外にはあり得ない。これを合憲というには、何をどう主張したらよいのか。本問の論点はそこにある。

 憲法ゼミナール読本では、司法権概念に関して佐藤幸治説、浦部法穂説、高橋和之説、戸波江二説の4説を紹介した。このうち、浦部法穂説を採れば、本問の客観訴訟で違憲審査権を行使する根拠が76条であることが、また戸波江二説を採る場合には81条であることが、比較的無理なく説明できるし、何より、その教科書の中にも理由説明が書き込まれているから、判り易いかどうかはともかく、諸君として書きやすい。これに対して、佐藤説の場合には81条説だ、ということは、教科書には書かれておらず、そのため、この説を本文で採ることは大変難しい作業を必要とする。ところが驚いたことに、提出された論文は、すべて佐藤説を採っていた。しかも、肝心要の81条説を採る根拠としては、単に76条説だとYの主張するような結果になるから、という便宜性が書かれているだけで、Yの主張に対する理論的な反論は皆無と言う恐るべきものばかりが揃っていた。何故、そんな論文を書いておかしいと思わないのか良く理解できない。

 私自身の感覚的には、佐藤説は今後、日本でも一般化するであろうと予想されるクラスアクションその他、米国の新しい訴訟の流れに適応できないオールドファッションなもので、今後通説化する可能性はなく、通説化するのは浦部法穂説か戸波江二説あたりと予想しているのであるが、今日は、時間の関係もあり、上記の通り、君たちが嗜好が極端に佐藤説に偏っているので、それに限定して議論をすることとしたい。

一 司法権の概念

 日本国憲法761項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定して、司法権が裁判所に属することを明らかにしているが、その司法権がどのような権力なのかについては全く定義を与えていない。戦前の大日本国憲法でも、その点は同様であった。

 戦前においては、司法権観念の歴史的流動性を強調して、司法と行政の区分は不可能とし、明確な定義を与えないとする説が通説であった(歴史的概念説)。後に述べるように、この説は、今日においても学説の底流として存在しているので、重要である。

 これに対して、現行憲法下においては、問題文に示したとおり、次のような積極的な定義を下すのが、一時期の通説・判例であった、ということができるであろう。

「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁)

 なぜこのように、積極的な定義を下せるのであろうか。この説を採った場合には、この点が第一の論点にならなければならない。清宮は、次のように説明する。

「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスや米国の制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」

 この定義の中核は、冒頭にある『具体的争訟』という言葉にある。この言葉は米国合衆国憲法32節の司法権の権限が「事件又は争訟case or controversy」によって決せられることを明文で保障しているところに由来している。

 これを逆から言うと、この具体的争訟に限定される、ということをいうために、米国法系の司法制度に変わった、という必要があるのである。わが憲法76条は、このような定義文言は存在していないからである。そして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」という言葉が、この事件性の要件を定めたものと一般に理解されてきた。

 問題文のYの主張は、こうした古い時代の判例・通説を忠実に展開したものである。

 

二 米国法における変化について

 上記のとおり、かつての判例・通説の根拠であったものは、わが国が米国法をけいじゅしたのであるから、文言の解釈もまた米国法に従うべきである、と言う考え方である。

 ところが、この説の基礎となっている米国の判例法そのものが、この説とは違うものになってしまったところに、この説が、今日通用力をうしなった原因がある。しかも、その変化は意外に大きなものである。その変遷状況を、阪本昌成は次のように説明している(『憲法理論T』補訂第3版、成文堂2000年刊393頁より引用)。

1910年代の米国最高裁判例は、憲法3条上の『事件・争訟性の要件』の構成要素として、『法に保護された利益の侵害があること』や『裁判所による執行可能性』をあげていた。ところが、1970年代以降は、その法的利益テストを『事実上の損害(injury in fact)を被っていること』に代え、さらに、執行可能性を不要とした。

 もっとも最近の連邦最高裁は、『事件・争訟性の要件』の内包・外延の曖昧さを避けるためか、この要件によるよりも、一般に『司法判断適合性』(justiciability)という用語に依って司法権の限界を求めてきている。

 司法判断適合性とは、裁判所が実体問題とその意味合いを理解し、その問題を適正に解決する上で必要な知識と視野を当事者に提示させることによって、司法的介入を、(ア)紛争解決に必要な範囲に限定し、(イ)他の部門の憲法上の権限を剥奪しない状況に限ろうとする試みであって、その一部は憲法上の要請であり、他の一部は政策的な配慮から来るものである、といわれている。」

 ここにでてきた司法判断適合性とは、具体的には、当事者適格、成熟性、ムートネスなど一連の法理の名前で諸君が、憲法訴訟論の中で学ぶことになる要件のことである。つまり、今日の憲法訴訟論は、そもそも古典的な司法権概念が成り立たないことを前提に、理論体系が作られているのである。したがって、Yの主張そのままでは妥当性がないことは明らかである。どの辺に具体的に問題が発生するのかを見てみよう。

 最大の問題は、米国の判例法の変化を、わが国は明確な国会による立法という形でけいじゅしている、と言う点にある。その端的な例が、本問の住民訴訟である。当然のことながら、この住民訴訟に代表される客観訴訟については、従来からの司法権概念をそのまま維持する限り、司法の本質とはかかわりないために、法律で付与された権限ということになってしまう点である。

 米国法には81条に相当する規定がなく、司法権という概念そのものが合憲性の司法審査を許容しているという考え方が、マーベリー対マディソン事件判決以来、確立している。そして、わが国最高裁判所は、この司法審査の権限を明文の規定で確認したものと理解してきた。

「現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第81条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第98条の最高法規の規定又は第76条もしくは第99条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分抽出されうるのである。米国憲法においては、前記第81条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、1803年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第81条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである」

(最大194878日刑集28801頁=参照百選「第4版」432頁参照)

 そしてその趣旨は、警察予備隊違憲訴訟判決でも確認されていることは、問題文中に引用したとおりである。

 この解釈に従えば、違憲審査権は、司法権に内在する権限であり、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随してその権限を行使することができるが、逆に司法権行使の要件を満たす事件・争訟がなければこの権限を行使することはできないことになる。それゆえ、この権限は、一般に「付随的違憲審査権」と呼ばれている。

 したがって、従来の通説・判例にしたがう場合、Yの言うとおり、客観訴訟では憲法判断は許されないと考えるのが妥当である。

 しかし、現実の憲法訴訟において、客観訴訟が占めている重要性を考えると、これは戦後憲法訴訟の中核を否定するに等しい大変な問題である。

 こうして、この点から、今日では、様々な学説の対立が生じてくることになる。議論の方法としては、大きく三つの方法を考えることができる。

 第1は、司法権は従来のまま維持しつつ、違憲審査権は81条により与えられた権限であるので、法律により裁判所に付与された権限についても違憲審査を可能である、とする論理である。

 第2は、司法概念そのものを拡大してその中に客観訴訟の概念を含むようにする一方で、違憲審査権は76条の司法権に含まれる、という点は修正せずに維持することである。

 ここでは、さらに大きく二つの方法を考えることができる。その1は、具体的事件性という言葉を維持しつつ、「具体的」という概念について、主観訴訟よりも拡張して、客観訴訟を含みうるようにすることである。その2は、具体的事件性という概念それ自体を放棄して、新たな概念を中核に司法概念そのものを構築し直すという方法である。

 第3は、司法権概念を見直すということに加えて、さらに、違憲審査権の根拠としても、76条ではなく、81条とする、というように、司法権、違憲審査権の二つ共を、かつての通説・判例から修正していく方法である。

 現実に、学界を見れば、そのいずれの学説も存在している。したがって、諸君としては、これらの方法のうち、どれがもっとも諸君の感性に合致するかを考えて、この点に関する自説を確立しておくことが大切である。しかし、前述のとおり、論文を提出した全員が、なぜか佐藤説だったので、以下は、それだけを論じる。

 

三 法原理機関説

 佐藤幸治の説は第1の立場の代表ともいうべきものである。従来の司法権概念を維持する場合にも、清宮のいうように、米国法を継受したから、という理由はもはや使用できない。なぜなら、先に説明したように、今日では、米国判例法自体が変化してしまっているからである。したがって、この第1の立場を維持するためには、米国法とは無関係な独自の理由から、結果として従来の通説と同じ定義を導かねばならない。佐藤が、その独自の理由として案出したのが「法原理機関」という概念である。次のように説く

「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。)

 このように具体的事件性を把握する場合には、従来の通説・判例と同じく、主観的当事者訴訟だけが司法権の行使として許容されることになる。では問題となる客観訴訟についてはどう考えるのだろうか。その点については次のように説明する。

「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律において特に定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民衆訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」

 つまり、ここでは司法権は一種の制度的保障として把握される。しかし、典型的な制度的保障のように、どのような権限を追加的に付与するのも完全に立法府の裁量に委ねられているわけではなく、@付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、Aその決定には終局性が保障されるものでなければならないという、一定の限界があると説くわけである。しかし、ここで使われている「法原理的決定の形態になじみやすい」という表現は抽象的で、本問の場合にどういう形で答えがでるかがわかりにくい。そこで、この佐藤説を、阪本昌成師が言い換えて定式化しているところを紹介してみよう。

客観訴訟が「憲法上許容されるためには、@具体的な国家の行為があり、Aそれをめぐって国家と原告の間に鋭利な見解の対立が存在し、B裁判所が終局的な解決を図りうることといった『争訟性』を擬製するだけの実質を持たねばならない(佐藤幸治『現代国家と司法権』250頁〜2頁参照)。」

阪本前掲書443頁より引用

 すなわち、認められないという結論はすべて共通しているが、理由がそれぞれ違うので注意する必要がある。

 ここまでの議論で、客観訴訟は『その他法律において特に定める権限』として認められるのであって、決して、76条の司法権に含まれる訳ではないことがはっきりしたといえよう。

 したがって、違憲審査権は76条の司法権の内容である、といえば、Yの主張は、そのまま妥当し、本問に対する回答としては、Xの主張を認める余地はない、と言う答えにならなくてはおかしい。

 

四 法律委任説

 違憲判決の効力としては、かつてから基本的は個別的効力説と一般的効力説が対立してきた。これは、そのまま違憲審査権の根拠に関する76条説と81条説の対立と考えて良い。

 なぜか、ということを、個別的効力説の根拠から説明しよう。普通、次の二点が上げられる(もっといろいろあげる立場もあるが、ここでは割愛する)。

  a 違憲審査権は司法作用であり、具体的な事件・争訟の裁判に付随して、事件・争訟の解決に必要な範囲においてのみ行使されるのであって、違憲の判断も当該訴訟当事者に関する限りのものである

  b 一般的効力を承認した場合には、一種の消極的立法作用を承認することとなり、憲法41条に違反する

 ここで注目して欲しいのは、aの点である。これが述べていることを別の表現で表すと、違憲審査権は76条を条文上の根拠とする、ということである。すなわち司法権は当然に違憲審査権を含んでいると理解する場合には、それは76条で読めるから81条は注意規定と理解することになるわけである(警察予備隊訴訟などにおける判例の立場)。そして、そう理解する場合には通常の司法権の行使に、法令改廃の機能を認めることはできないから、違憲判決にもそのような効力を認めることはできない、という見解に結びつくことになる。

 それに対して、76条から独立して81条で読む場合には、司法権概念からは独立した、憲法が特に与えた権限と解することになる。その場合、司法権の枠内では違憲判断を下す必要がない場合にも、裁判所としては判断を示すことが可能と考えることができる。こうした立場から判例を見ると、例えばメーデー事件における念のため判決は、その典型例となる。また、通常の判決以上の効力を法律で与えることも可能と考えることになる。

 今度はbの点を考えてみよう。違憲判決の効力については、伝統的に一般的効力説と個別効力説が対立していることは諸君の知るとおりである。その中間にあって、法律委任説と呼ばれる説がある。すなわち、その点については憲法は沈黙しており、したがって、どちらにするかは法律で決定しうるとする。佐藤幸治、長尾一紘などの主張するところである。戸波江二も、この説の支持者と考えて良いであろう。

 わが国のかつての通説は、司法権概念においてアメリカ法の継受を主張する一方、このbにみられるとおり、判決の効力については、アメリカ法の継受を否定した。すなわち、アメリカ法は判例法主義を採るから、違憲判決は当然に対社会的、一般的効力を持つのであるが、その判例法主義は継受していない、としたのである。その結果、76条の司法権の一環として行使される違憲判決の効力は、通常の判決の効力と全く同一であると考えた。このような考え方をいま「純粋個別的効力説」と名付けることにしよう。

 最初のaが、前節で述べたうちの主観訴訟に限定する見解であり、したがって、今日これを貫こうとする場合には、アメリカ法の継受以外の積極的理由付けが要求されることは、すでに理解してもらえたと思う。

 また、bが前述の通り、判例法の形成を認めないという主張の別の表現であることも判るであろう。ここで、通常裁判所の通常の判決の持つ効力がどのようなものかを考えてみよう。それは次のようなものである。

 @ 判決は、当事者をその訴訟の対象となっている問題(訴訟物)に関してのみ拘束

 A 判決が拘束力を持つのは、主文に書かれている点に限定

 B 判決の拘束力は、その事件が発生した過去に遡及

 いま、想定した純粋個別的効力説は、違憲判決についてこれとまったく同じ効果を認めるとする説なのだから次のような結論を予定するはずである。

@ 憲法判断は、訴訟物が異なれば、当事者についても拘束力を持たない。例えば刑事裁判で、根拠法が違憲とされて無罪となっても、同じ事件の民事裁判では根拠法を合憲として損害賠償を否定しても構わない。

A 憲法判断は、判決の理由に過ぎないから主文に書かれることはなく、したがって他の同種事件における裁判所の判断をまったく拘束しない。例えばある刑事判決で最高裁は尊属殺を違憲とし、次の事件では合憲としても問題はない。当然、他の国家機関、例えば検察庁は、最高裁が尊属殺を違憲とした後においても依然としてその違憲判決に拘束されず、尊属殺で起訴することができる。

 このような結論を認めてしまっては、わざわざ憲法81条が違憲立法審査権を明言した意義は完全に失われてしまう。そこで、個別的効力説をとる論者も、何らかの論理で、程度の差こそあれ、対社会的な効力を認めようとする傾向を示すことになる。それが礼譲期待説等の学説である。

 先に述べたとおり、個別的効力説の根拠の一つは、司法権及び違憲審査権の概念内容が一致しており、しかも主観訴訟に限定される、という点にあった。したがってこの二つのいずれか、あるいは二つともに否定する場合には、個別的効力説の妥当性そのものが揺らぐことになる。

 すなわち違憲審査権が、76条ではなく、81条から導かれると考える場合には、違憲判決の効力が通常の判決の効力と一致する必要はない。また、客観訴訟の場合には、一般に対社会的効力を認めなければおかしいといえる。住民訴訟で、同一の財政活動に対して、住民Aが起こした訴訟と住民Bが起こした訴訟の結果が一致しなかったら大変なことだからである。

 このように考えた場合には、違憲判決の効果が憲法理論的に導くことができる、という個別的効力説や一般的効力説の前提そのものに疑問を投げかけざるを得ないという主張が当然に発生してくることになる。憲法的に決定されないのであれば、それを決定するのが国権の最高機関たる国会と考えざるを得ない。すなわち法律委任説である。

 佐藤幸治は、違憲判決について特段の定めをおいていないから「一般的効力、個別的効力のいずれに解するかは、法律の定めるところに委ねられている」(佐藤・375頁)とする結論を導くのは当然に可能である。これは当然に81条説にたっての話と言うことになる。