昭和女子大事件といわゆる部分社会の法理

甲斐素直

問題

 Yは、「穏健中正な思想」を教育の指導精神とし、保守的教育で知られる私立大学である。Yでは、その指導精神に基づき「生活要録」という名称の学生心得を定めており、その中で、学内における政治活動を禁止すると共に、外部の政治団体への加盟を禁止していた。ところが、同大学学生であるXは、生活要録の規定に反して、左翼系の過激な活動を行うことで知られる政治団体Zに加入し、また、大学構内で学友に対し、Zへの加入を求めるビラを配布した。

 そこで、YはXに対し停学1ヶ月の処分に付すると共に、Zからの脱退を求めた。これに対し、Xはマスコミに、Yの処分を憲法21条に違反するとして批判する談話を発表した。Yは、このような一連の行動は、生活要録に違反し、Y学生たるにふさわしくないとして、Xを改めて退学処分に付した。

 Xは退学処分無効及び学生身分確認の訴えを提起した。これに対し、Yは、そもそもこのような学内の処分は、司法判断になじまないと反論した。

 Yの反論における憲法上の問題点を指摘し、論ぜよ。

 

[はじめに]

 本問は、比較的忠実に昭和女子大事件を事案化している。昭和女子大事件といえば、憲法判例百選には人権の私人間効力の問題に関する判例として掲記されている。だから、諸君としては、私人間効力の問題としてまとめたいと思うであろう。

 ところが、少なくとも判例にしたがう限り、そうはいかない。なぜなら、富山大学事件と呼ばれる最高裁判例が存在しているからである。そして、後述するとおり、最高裁は、そこで説かれたいわゆる部分社会の法理は私立大学にも適用になると明言しているからである。したがって、現時点で、この事件が起きたならば、大学側は当然にいわゆる部分社会の法理にしたがって争うことが予想される。実際、本問におけるYの主張は、そのことに他ならない。だから、本問の回答は、私人間効力論などは無視して、いわゆる部分社会の法理について議論を展開するのが正しい、ということになる。私人間効力論は書かなくてよい。

 憲法訴訟論的な説明を加えると、こうなる。いわゆる部分社会論は、司法審査の対象となるか否かを論ずる。それに対して、私人間効力論は、司法審査の対象となることを肯定し、かつ民法90条を適用した上で、Yの処分が、公序良俗違反といえるレベルか否かを判断している。したがって、論理的には常にいわゆる部分社会論が先行する。そこで、後に説明する有害説を採用してこの説の適用を排除し、司法審査の対象になると確定して、はじめて私人間効力論を論じる余地が生ずるのである。いわゆる部分社会論において、無益説(これが通説か?)ないし原則肯定説を採用する場合には、Yの主張通り、学園内紛争であって司法審査の対象にはならないという結論が導かれるから、私人間効力論に議論が届くことはないのである。

 しかし、では必ず「いわゆる部分社会論」を展開する必要があるか。答えは「ない」ということである。

 部分社会を真っ正面から取り上げた問題としては、平成2年度の旧司法試験問題が有名である。

「いわゆる部分社会における法律上の係争は、その自主的、自律的解決にゆだねるのが適当であり、裁判所の司法審査の対象とはならない。」という見解について、事例を挙げて論ぜよ。

 本問は、これとは異なり、問題文中には、一言半句も部分社会という言葉は出てきていない。いわゆる部分社会論に対しては、学説的には有害説、無益説及び原則承認説の3説が大別して存在する。そして、諸君の多くが使用している基本書は、おそらく通説である無益説を採用していることであろう。その場合には、本問であれば、学問の自由から導かれる大学の自治が、司法審査権の限界を形成するか、ということが論文の中心課題となる。したがって、その場合には、提出される論文は、一行問題に転換するならば「大学の自治について論ぜよ」というものに相当する。ただ、司法審査権の限界という点だけが論点になる点で、上記一行問題よりも易しいものになるのである。

 これに対し、諸君が少数説である有害説ないしは原則承認説を採る場合に、はじめていわゆる部分社会論が論点として浮上してくることになる。

 以下では、出題者の意図がいわゆる部分社会論を取り上げたいという点にあったことを考慮し、それを説明するが、それと諸君が書くべき答案構成は必ずしも一致しないのだ、という点には注意をしてほしい。

 

一 問題の所在

(一) いわゆる部分社会論の本質について

 裁判所というものの持つ様々な性格上の限界から、裁判所が、司法判断を下すことを回避するという結論を下す場合が良くある。例えば、私が諸君に対し、不可という評価を与えたとする。それに対し、いや自分は絶対に優のはずだ、と訴えても裁判所は取り合ってくれない。成績評価は、学問的な問題であって、法的判断になじまないという理由からである。富山大学事件は、それによく似ている。

 しかし、教員による成績評価の当否自体が争われているのではなく、学内における行政処分で、特定教員に成績評価権を認めないとしていることが争われている。その結果、法的判断にはなじみうることになる。しかし、学内における処分それ自体が、司法判断を下すのに適当な問題なのか、という基本的な疑問が存在する。つまり、大学の内部に、国家権力の一環である司法権が介入して良いのか、という問題である。

 この判決以前においては、このような場合に、司法介入を回避するという結論を説明する手段として、判例は二通りの論理を持っていた。私立大学の場合には、私人間効力論である。本問が事例化している昭和女子大事件が、そのリーディングケースである。この場合には、一応司法審査の対象とした上で、実質的には判断を回避する。

 それに対し、国公立大学の場合には、特別権力関係論を採用していた。富山大学事件の第1審、第2審は、いずれもその立場である。しかし、拘置所における在監者の人権に関して、判例は特別権力関係論を否定しているのに、国公立大学で認めては理論的な一貫性に乏しい。そこで、本判決で、それに代わって登場したのが、いわゆる部分社会論である。

 そして、判例はこの理論は、次の通り、単に国公立校だけではなく、私立校にも適用になると明言している。

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であつて、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものである」

 したがって、この判例に先例性を認める限り、昭和女子大事件も、この判決理論のうちに含めて考えていかねばならない。そこで、問題は、この事件の射程距離がどこまであるか、である。

 上記昭和女子大事件の場合、学生は退学になっている。あるいは、後で説明する日本共産党・袴田事件では、袴田里見は共産党から除名になっている。つまり、富山大学事件の論理的を当てはめれば、どちらも一般社会との交わりがある処分ということになりそうである。それでも裁判所は、いずれについても司法判断を拒否している。特に、袴田事件の場合には、富山大学判決と同じ、いわゆる部分社会論を使用しているだけに、統一的な説明の必要に迫られることになる。

 つまり、富山大学事件の場合にも、経済学部事件だけではなく、大学院専攻科事件においても、司法判断の回避という結論を下す余地はあったのである。あるいは、私立大学と国公立大学では、司法介入を許す余地に違いがあると立論して、富山大学事件と昭和女子大事件の落差を説明する方策を採用することもできる。とにかく、この判例だけを見るのではなく、一連の最高裁判決の流れの中で、この判決の射程距離を見極める必要がある。

 

(二) 施設利用権について 

 富山大学事件判決には、奇妙な表現が現れる。大学を卒業する権利のことを、「学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利」だといっているのである。公の施設を利用する権利とは、例えば、地方自治法244条が明言している権利である。すなわち、

「普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。

 普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。

 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。」

 すなわち、公の施設とは、図書館とか公民館というように、誰でも利用できる施設のことで、だからこそ、施設側の一方的判断で使用を拒めば、例えば泉佐野市民会館事件のように、その合憲性が問題になるのである。

 しかし、大学というものは、本当に一般市民の誰もが利用できるのだろうか。本当に大学側の一方的判断で使用を拒まれることはないのだろうか。例えば、諸君が富山大学を受験して落ちた場合に、入学許可処分を求めて訴訟を起こしたら、本当に裁判所は、諸君を入学させることにより明白かつ現在の危険が発生するとは認められないから、入学拒否は違憲であるといって救済してくれるのだろうか。

 明らかにそうではない。つまりこの論理は、難しい法律論を展開するまでもなく、明らかにおかしい。

 何でこんなおかしなことを最高裁判所が言うのかというと、それは東大ポポロ事件(百選第5188頁)のためである。この事件で、学生側は、警察の活動が大学の自治を侵害していると主張した。それに対し、最高裁判所は、学生に学問の自由の主体性を否定し、したがって大学の自治の主体性も否定した。そして、学生の権利は、単なる公の施設の利用権であると論じたのである。

 後で説明するとおり、本問では、いわゆる部分社会論をどのようにとらえようと、最終的に大学の自治を避けて論じることはできない。だから、間違っても、こういうおかしな所をそのまま論文上に再現してはいけない。

 

(三) 記述上の問題点

 いわゆる部分社会論について書かせると、かなりの人が、いわゆる部分社会に、自主的、自律的な法が存在している、ということを認定し、そこから、いきなり司法審査の限界になることを肯定する、という書き方をする。これも、普通の部分社会というものを理解していないことから来た誤りである。

 部分社会というものは、どれでも、それ固有の自主的・自律的な法を有している。それが部分社会というものの基本的な定義だからである。すなわち、そうした自主的・自律的な法の存在をメルクマールとして、社会の他の部分と識別できる部分集合のことを部分社会と呼ぶのである。

 普通、部分社会において紛争が生じた場合には、裁判所は、その部分社会の自主的、自律的な法を把握し、それを基準に紛争を解決する。たとえば、売買契約をメルクマールとする部分社会であれば、その当事者が合意した契約内容を把握した上で、それを基準に紛争を解決する。株式会社内部の紛争であれば、取締役会や株主総会決議の内容を把握して紛争を解決する。ただし、たとえば契約内容が公序良俗に違反していたり、少数株主権を侵害していたりすれば、裁判所は、その部分社会の法を排除して、全体社会の法である民法や商法の規定を直接適用して、紛争を解決することがある。

 したがって、自主的・自律的な法の存在だけを根拠として、いわゆる部分社会の法理が述べるところの、司法審査権の限界を導くことは、絶対に不可能なのである。司法審査権の限界を導くには、単なる部分社会と異なる、「いわゆる部分社会」にだけ存在する特殊性を指摘する必要がある。

 

二 判例の見解

いわゆる部分社会の法理が、判例の発展の中から現れてきたことについては疑問の余地がない。したがって、本問を論ずるに当たっては、どのような判例で、どのような議論を行ってきたかを理解しておくことが必要である。

 関係する重要な判例はたくさんあるが、紙幅の都合もあるので、理論的に重要な、次の三つの判例に限定して説明する。すなわち、@村議会議員懲罰事件、A富山大学単位認定事件およびB日本共産党袴田里見事件である。順次、簡単に説明したい。

 

(一) 村議懲罰事件(昭和351019日大法廷判決)

 いわゆる部分社会論に関する嚆矢といえるのは、米内山事件(最大昭和28116日=行政判例百選に載っているので参照のこと)における田中耕太郎判事の少数意見である。それが発展してきて、この判決に至って、最高裁判所多数意見が初めて部分社会の法理を使用することを述べた、という点で、この事件は重要である。ここでは、最高裁は次のように述べた。

「司法裁判権が、憲法又は他の法律によつてその権限に属するものとされているものの外、一切の法律上の争訟に及ぶことは、裁判所法三条の明定するところであるが、ここに一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない。一口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあるのである。けだし、自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当としないものがあるからである。本件における出席停止の如き懲罰はまさにそれに該当するものと解するを相当とする。」

 要するに、ここではすべての部分社会ではなく、「自律的な法規範をもつ社会」においては、その内部自律に関する紛争は「必ずしも、裁判にまつを適当としないものがある」と述べるにとどまり、裁判で解決するのがふさわしくない問題とは何かについては、一般的な形では全く論及しなかった。

 この判決では、それに先行する米内山事件や板橋区議事件(最大昭和3539日)との差異を明確にする目的から、傍論としてであるが、次のように述べた点にもう一つの特徴がある。すなわち、

前述した二件の事件では、「議員の除名処分を司法裁判の権限内の事項としているが、右は議員の除名処分の如きは、議員の身分の喪失に関する重大事項で、単なる内部規律の問題に止らないからであつて、本件における議員の出席停止の如く議員の権利行使の一時的制限に過ぎないものとは自ら趣を異にしているのである。従つて、前者を司法裁判権に服させても、後者については別途に考慮し、これを司法裁判権の対象から除き、当該自治団体の自治的措置に委ねるを適当とするのである」。

 要するに、懲罰だから司法権は及ばないのであって、除名では及ぶのである。しかし、どのような点で重大性があれば、司法権が及ぶことになるのかは、この判決でははっきりしない。

 

(二) 富山大学単位認定事件(昭和52315日大法廷判決)

 この判決は、いわゆる部分社会の法理の内容を明確にした最高裁判決という意味で重要である。そして、内容的には、同じ単位の認定事件でありながら、卒業資格に直結する大学院専攻科の学生と、直結しない学部の学生とで区別して論じた、という点で重要である。学部の学生に関しては、最高裁は次のように述べた。

「裁判所は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが(裁判所法31項)、ここにいう一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争を意味するものではない。すなわち、ひと口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上裁判所の司法審査の対象外におくのを適当とするものもあるのであつて、例えば、一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならないものと解するのが、相当である。」

この後に、先に紹介した、大学は国公立であると私立であるとを問わず、このような特殊な部分社会だ、という記述が行われることになる。

 この判決でも、主体となる部分社会そのものは、単に「自律的な法規範を有する特殊な部分社会」と呼ばれているだけで、その範囲に関しては、はっきりしない。しかし、司法権の及ぶ限界については明確化した。すなわち、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」というのである。

 この点から、この判決では大学院専攻科の学生については、一般市民法秩序の問題と位置づけて部分社会論を排除した。

「思うに、国公立の大学は公の教育研究施設として一般市民の利用に供されたものであり、学生は一般市民としてかかる公の施設である国公立大学を利用する権利を有するから、学生に対して国公立大学の利用を拒否することは、学生が一般市民として有する右公の施設を利用する権利を侵害するものとして司法審査の対象になるものというべきである。そして、右の見地に立つて本件をみるのに、大学の専攻科は、大学を卒業した者又はこれと同等以上の学力があると認められる者に対して、精深な程度において、特別の事項を教授しその研究を指導することを目的として設置されるものであり(学校教育法57条)、大学の専攻科への入学は、大学の学部入学などと同じく、大学利用の一形態であるということができる。そして、専攻科に入学した学生は、大学所定の教育課程に従いこれを履修し、専攻科を修了することによつて、専攻科入学の目的を達することができるのであつて、学生が専攻科修了の要件を充足したにもかかわらず大学が専攻科修了の認定をしないときは、学生は専攻科を修了することができず、専攻科入学の目的を達することができないのであるから、国公立の大学において右のように大学が専攻科修了の認定をしないことは、実質的にみて、一般市民としての学生の国公立大学の利用を拒否することにほかならないものというべく、その意味において、学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利を侵害するものであると解するのが、相当である。」

 これは、第一の事件で、除名と懲罰とを区別して論じていた点とも対応する議論となる。つまり、この判決までであれば、判例の論理は一貫していると一応言いうる。

 

(三) 日本共産党袴田里見事件(昭和631220日第3小法廷判決)

 この判決は、除名が明確に部分社会の問題になる、と判決した点で重要である。最高裁は次のように述べた。

「政党の結社としての自主性にかんがみると、政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきであるから、政党が組織内の自律的運営として党員に対してした除名その他の処分の当否については、原則として自律的な解決に委ねるのを相当とし、したがって、政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」

 この判決では、一見すると、第一及び第二の判決と同じ論旨を展開しているように見える。しかし、決定的な一点で異なっている。それは、袴田氏が日本共産党から除名されているにも関わらず、それを「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」という理由の下に救済を拒否している点である。先に強調したとおり、第一及び第二の判決では、裁判所は懲罰と除名あるいは単に認定と卒業認定を区別して、後者については司法権が及ぶという姿勢を示した。第二の判決では実際にその旨の本案判決を行っている。ところが、本判決では、除名に対して司法権が及ばない、と明言したのである。

しかもこれは判例変更ではない。すなわち、先の二つの判決がいずれも大法廷判決であるのに対して、これは第3小法廷判決なのである。したがって、市民法秩序との関わりという点において、部分社会の種類によって異なる判断を許容する、という姿勢が裁判所には存在している、と見ることができる。この事件の場合には、いわゆる部分社会論ではなく、私人間効力論で処理することも可能であろう。しかし、日本新党繰り上げ当選事件のように、政党の公的性格が問題となる場面では、それが使えないことは明らかである。

 

三 自説の展開

この問題をどのように解決するにせよ、いわゆる部分社会論というものに対する見解は、明確に示さなければならない。

 この問題に対する学説の対応は、大きく二つに分けることができる。すなわち原則的肯定説と、否定説である。否定説はさらに大きく二つに分けられるから、学説的には3つに分類できることになる。

 

(一) 有害説

 第一は有害説である。例えば戸波江二は、いわゆる部分社会論は、過度の司法消極主義の原因となり、あるいは裁判を受ける権利の侵害になるので有害であり、速やかに放棄すべきである、とする。有害説を採る場合には、判例の問題点を指摘していけば、判例の見解に対しては、自ずと答案ができあがる。例えば、

  1 部分社会とされる団体には、地方自治体の議会、国立大学の一学部、政党というような異質のものが混在しており、論理的一貫性がない。すなわち政党はともかく、前2者は通常の場合には、通常は団体の一部であって、団体とは認められていないのである。

  2 司法権が及ばないとする根拠が大雑把にすぎ、説得力がない。内部自律には及ばない、というが、それがどのような場合なのかは、日本共産党事件と他の事件とで矛盾を示しているように、統一ある理論を構築できていない。

  3 大学や労働組合の処分で、司法審査を行っている事例もあり、どのような場合に部分社会論が妥当するか、はっきりとしない。

というようなことを書いていけばよいわけである。

 問題は、それに代わって、どのような理論でこの問題を解決すればよいのかがはっきりしないことである。この説は、いわゆる部分社会論を採用した場合には「団体によって不利益処分を受けた構成員の救済が図られない(戸波江二[新版]436頁)」と主張しているから、学部・大学院専攻科の別なく、実体判断を求めているように思える。しかし、それが本当に大学の自治に対する裁判所のよる干渉とならないのか、という問題がある。その点には基本書は回答を与えてくれていないから、そうした問題点については自力で理論を構築しなければならない。そして、本問の場合、冒頭にも述べたとおり、ここからは私人間効力論の議論につなげていくことになる。

 

(二) 無益説

 第二は、無益説である。地方議会の自律については地方自治の本旨(92条)から、大学の自律については大学の自治(23条)からそれぞれ部分社会論を使用した場合と同様に処理しうるので、このような統一理論は不要とする立場である(芦部信喜、佐藤幸治、樋口陽一等)。

 無益説を採る場合には、それがいわゆる部分社会論を論じることを明確に要求している問題であれば、上記のようなばらつきを指摘した上で、判決がとろうとしている結論は、要するに、地方自治(92条)、大学の自治(23条)、結社の自由(21条)、宗教的結社の自由(20条)等の理論をきちんと構築していけば自ずと解決できるものであって、部分社会の法理というような特別の理論を必要とするものではない、と論じていけばよい。

 しかし、本問の場合には、その理論の前提から、いわゆる部分社会論を論じる手間暇をかけることなく、大学の自治の理論から、司法介入を禁じることが妥当か否かを論じればよい。富山大事件の場合、大学院専攻科について、一般市民法秩序に属するという議論を展開した。その論理に従えば、退学の場合には司法審査の対象となる。他方、昭和女子大事件の論理に従えば、私人間における司法介入の限界から、それを厳しく解釈するという差異が生じることになる。

 

(三) 原則肯定説

 原則的肯定説は、この無益説に非常に近い立場である。例えば伊藤正己は

「部分社会と司法権の関係については共通の問題があることを意識しつつも、これを一律に考えるのではなく、当該団体の目的、性格、社会的役割などを考慮して判断することになろう」(第3268頁)

と説く。すなわち、部分社会という認定の下に機械的に同一に扱おうとするのではなく、個々の問題についてそれぞれの特徴に応じて個別に処理することを肯定しつつ、そこに特定の性格の部分社会としての共通性を認めているに過ぎない。したがって、共通性の承認という点を除くと、この説と無益説とはかなり近い考え方を示すことになる。現実の判例は、前述のとおり、この説で理解しやすい。すなわち、部分社会という概念で画一的に一定の範囲について司法審査を排除するのではなく、部分社会の性質に応じて、その範囲が変化するからである。

私自身はこの説を採る。そこで、この説について、もう少しきめ細かく説明してみたい。

 いわゆる部分社会論の難点の一つは、「自律的な法規範を持つ社会」と述べるだけで、その概念を明確化していない点にある。

 しかし、それをいきなり判例に期待するのはそもそも無理と考える。これは、具体的事案を離れた過度の一般化を禁ずるブランダイスルール3の要求するところだからである。そもそも憲法訴訟における様々の理論、すなわちブランダイスルール、二重の基準、合理性基準などは、いずれも、単一の判決によって一挙に成立したものではなく、数多くの判例の積み重ねの中から、徐々に構築されてきたものである。いわゆる部分社会論も、同様に、そうした判決の積み重ねの中からその含意するところを把握し、構築していくべきものであって、いきなり完成品を望むのは妥当な姿勢とは言えない。

 司法権が及ばない、とする根拠が大雑把である点も、同様に、判例の積み重ねの中で解決されるべき問題であろう。実際に、判例はきめ細かな対応を示している。国や地方公共団体の機関における除名や退学には司法審査が及ぶとする一方で、日本共産党のようなきわめて政治色の強い団体については、除名までも内部自律の問題とする。同様に、昭和女子大事件では、私立大学からの退学は人権の私人間効力の否定から、実質的には司法審査が及ばない、とした。

 このような問題について、果たして個別の法理でどこまで対応できるのかは疑問である。例えば、同じく地方自治の尊重といっても、県議会内部における懲罰と、知事部局における懲罰とでは異質のものがあり、92条だけからそのことを説明しきれるとは思えない。むしろ、いわゆるいわゆる部分社会という共通性からアプローチをとる余地が十分にあり得るのではないか、と私は考えるのである。その上で、個々の団体の性質に応じて、きめ細かく適用限界を定めていくべきであり、そこに学説の使命があると考える。

 しかし、このように説明したからと言って、本問について、判例に則して論理を展開すればよいことにはならない。やはり憲法23条の学問の自由=大学の自治から、この場合における部分社会論の限界を探っていくという構成になる。だから、いわゆる部分社会論を肯定するか否定するか、という点を除くと、答案構成においては、無益説と原則肯定説は同じものだと言うことになる。