立法裁量論と立法の不作為

甲斐素直

問題

 ハンセン病は、らい菌によって引き起こされる細菌感染症であるが、ほとんどの人に対して病原性を持たないため、人の体内にらい菌が侵入し感染しても、発病することは極めてまれである。また、治療薬プロミン等のスルフォン剤により、現在では、ハンセン病は、早期発見と早期治療により、障害を残すことなく外来治療によって完治する病気であり、不幸にして発見が遅れ障害を残した場合でも、手術を含む現在のリハビリテーション医学の進歩により、その障害を最小限に食い止めることができるとされている。

 しかし、明治40年制定の「らい予防法」及び昭和28年のその改正法(新法)に基づいて、政府が戦前・戦後にまたがってほぼ全患者を対象とする収容の徹底・強化を行ったことにより、多くの国民は、ハンセン病が強烈な伝染病であるとの誤った認識に基づく過度の恐怖心を持つようになり、その結果、ハンセン病に対する社会的な差別・偏見が増強され、治療薬の登場によりハンセン病が治し得る病気となった後も、新法がハンセン病に対する隔離政策を継続したことによって、ハンセン病に対する差別・偏見が助長・維持され、新法廃止まで根強い差別・偏見が厳然として存在し続けた。その中で、ハンセン病患者は、保健所職員の度重なる勧奨等により入所を余儀なくされるなど、勧奨による入所という形をとっていても、その実態は、患者の任意による入所とは認め難いものであった。そして、入所に当たっては、優生保護法のらい条項の下で、昭和30年代まで優生手術を受けることを夫婦舎への入居の条件としていた療養所があり、入所者が療養所内で結婚するためには優生手術に同意をせざるを得ない状況もあった。

 国際的には、次第に強制隔離否定の方向性が顕著となり、昭和31年のローマ会議、昭和33年の第7回国際らい会議(東京)及び昭和34年のWHO第2回らい専門委員会などのハンセン病の国際会議においては、ハンセン病に関する特別法の廃止が繰り返し提唱され、政府や国会の関係者もそれを承知していた。しかし、らい予防法は平成8年に至るまで廃止されず、同法に基づく隔離が継続された。

 そこで、元患者が、同法の下で受けた隔離による被害に対して国家賠償を求めた。

 この国家賠償請求の可否に関する憲法上の問題点につき検討しなさい。

 

[はじめに]

 一読すれば、熊本地方裁判所ハンセン病事件平成13511日判決(以下「本件判決」という=百選[第5版]440頁参照)を下敷きにしたものであることは判ると思う。

 本問で一番大きな問題は、本件判決が、それ以前の判例を大きく変更するものだ、という点である。この判決以前に、立法の不作為に対する国家賠償請求については、在宅投票制度廃止最高裁判決(昭和601121日=百選[第5版]438頁参照)を始めとして、多数の否定的な判例が積み重ねられていていた。それに対して、本件判決は熊本地裁という下級審判決ではあるが、政府では、これに対して控訴することなく、確定している。そのため、この判決の論理が、その後の判例を支配することとなり、例えば在外邦人選挙権訴訟大法廷判決などが下されることになった。

 この点を無視して、単純に従来からの学説にしたがって論文をまとめても、そこそこの合格答案とすることは可能である。しかし、せっかく出題の山があたった場合には、単に合格答案を書くにとどまらず、他の、山があたらなかった問題での失点を挽回する程度の高得点を狙う答案を構成しておきたいものである。したがって、在宅投票事件最高裁判所判決と、本件判決をどのような論理で調和させるかが最大の問題となるわけである。

 その場合、立法の不作為は、立法裁量論の限界として論じられる事を考える要がある。立法裁量論及び国賠法については、郵便法違憲判決(平成14911日=百選[第5版]292頁参照)がきわめて重要であり、その熟読が必要である。この機会に、簡単にまとめて論じておきたい。念のため断っておくが、そういう理由から立法裁量論について詳しく説明しているので、答案構成的には立法の不作為を中心として論じなければならない。

 

一 司法権の自制

 違憲審査権に関しては、基本的に二つの見解が存在しうる。司法積極主義と司法消極主義である。かつて、アメリカ連邦最高裁は、当初は一貫して司法積極主義を採り、特に19351月から翌年の5月までの1年半の間に12の法律に対して、相次いで違憲無効を宣言し、ルーズベルト大統領のニューディール政策を壊滅に追い込んでいる。これに対して国民から強い批判の声が挙がり、193611月に行われた大統領選挙では、ルーズベルト大統領は地滑り的大勝利をあげた。この勝利を前にして、連邦最高裁はルーズベルトの前に膝を屈し、以後、司法消極主義を基調とするいわゆるルーズベルト・コートが誕生することになる。この事件をアメリカでは憲法革命(Cnstitutional Revolution)と呼んでいる。

 これ以降、基本的に司法消極説が米国法において通説的地位を占めるようになる。そして、わが国憲法訴訟論も、その影響下に立つことになる。

 その場合の理論的根拠について、以下、芦部信喜の示すところにより検討しよう(以下の「」内はいずれも芦部『憲法訴訟の理論』有斐閣昭和48年刊、32頁以下からの引用)

(一) 裁判所の非民主性

「第一は、裁判所は本来非民主的な機関であるから、国民の代表者(多数者)の意思を最大限に尊重し、法律の『賢明さ又は弊害』ではなく『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』を探求すべきである、という理論的理由である」

 これは、司法消極説の中心的な理由付けといってよい。国民から直接に選出された数百人の国会議員が慎重に審議して成立させた法律を、民主的地位においてはそれより遙かに劣位に立つ一握りの裁判官によって覆すことは認められない、という考え方である。ここで特に注意するべきが、司法消極説の下においては、違憲立法審査とは、法律そのものを審査するのではなく、『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』を審査するのだ、という考え方である。二重の基準論から導かれる厳格な審査基準でさえも、審査がこの点にとどまっているという意味において、依然として基調としては司法消極主義にあることは理解しておかねばならない。

(二) 国民の信頼確保の必要性

「(第二の論拠は)最高裁の憲法裁判の権威は、国民が最高裁は『いかなる欠点を持とうとも、・・・・抽象的な憲法上の命令を具体的なそれに変えうるもっとも客観的な、公平な、また信頼するに足る管理者であると考え』るところに究極の根拠があるのだから、最高裁がもし多数者の意思に余りにも反対するなど、『みずからの慎重さによってのみ拘束される・・・・おそろしい権力(司法審査権)』を積極的に行使すべきだとすると、最高裁の客観性と公平さに対する国民の信頼は傷つけられ、司法部の積極的な発言も、結局『混沌たる状態の中ではほとんど尊重されない』から、最高裁の権威は低下し、その実効的な活動は阻害される。このような他権力との衝突を避けるためには、自己制限の技術に訴えることが必要である、という理由である。」

 前に述べたとおり、アメリカにおいて憲法革命が起きた最大の原因は、司法の独善に対する国民からの強い批判であった。政府や議会は、国民の信頼を失うことを恐れる必要はない。信頼を失った場合には、選挙により、再び信頼を獲得する手段を有しているからである。それに対して、裁判所は、信頼を失った場合に、総辞職とか解散というような信頼回復の手段を有していない。ここに、裁判所が信頼を失うことを、他の権力機関と違って強く恐れなければならない理由が存在しており、それこそが、ルーズベルトの前に連邦最高裁が膝を屈した理由であった。この理由は、わが国最高裁判所も同様に有しているといわなければならない。

(三) 他の国家機関活動に対する信頼性

「第三に、自制論が以上の論拠に付け加えて、重大な憲法事件での合憲性は事件をめぐる事実(circumstances)に関する判断に還元されるという経験的なアプローチーしたがって『憲法問題を抽象的に扱い、それを空疎な法的問題の面から形式的で表す傾向は、すべて実際とは無関係の内容貧弱な結論に至る』という立場ーを強調する点が注目される。フランクファータが、政治の第一次的責任を負う機関の判断を司法的判断をもって替える違憲審査は、具体性のない通則によって決して正当化できない、という見解を堅持したのは、そのためである。ここに『不確実は同位の統治機関の賢明さと誠実さ、及びそれらの機関が責任を負う国民の利益になるよう、解決さるべきである』という自制論の重要な一つの論拠が見出される。」

 これは、司法消極説を採用して、実害が発生するのではないか、という問題に対する答である。文中、フランクファータとは米国連邦最高裁判事Felix Frankfurter (November 15, 1882 ? February 22, 1965)のことで、司法消極主義の代表的な論客として知られる。

 

二 立法裁量論

(一) 立法裁量の概念

 立法裁量論を定義すると、次のようにいえる。

「裁判所が法律の合憲性の審査を求められたとき、立法府の政策判断に敬意を払い、法律の目的や目的達成のための手段に詮索を加えたり裁判所独自の判断を下すことを控えるべきである」(戸松秀典著『立法裁量論』有斐閣1993年刊、3頁より引用)

 すなわち、立法裁量論とは、二重の基準論と同様に、司法権の自制における一つの態様である。

 国会は、立法事実を評価し、それに適切に対処しうるよう配意しつつ、立法作業を行う。しかし、特定の立法事実が、常に特定の立法を要求するものではない。立法府は同じ立法事実に対して裁量権を行使し、適切と信ずる様々な立法を行う自由がある。例えば、全国民を代表する国会議員を選出するという立法事実に対して、小選挙区制、中選挙区制、全国区、比例代表制、若しくはそれらの組み合わせのいずれを選択するかは、国会の裁量の問題である。その当否を司法審査の対象とするのは、民主的基盤を持たない裁判所としては適切ではない。ここに、裁判所がそうした問題の判断を自制する根拠がある。

 冒頭に掲げた戸松秀典の定義をよく読んでほしいのだが、立法裁量の問題は、司法審査の内在的制約ではない。あくまでも司法府が、立法府の裁量を尊重して、自ら審査権の行使を自制する、という問題なのである。したがって、場合によっては自制を破って、司法判断を下すことも可能である。どういう場合に、どういう条件があれば、自制を破るのが適切とみなされるか。これが立法裁量論である。国会の持っている立法裁量権そのものに関する議論ではないので、くれぐれも注意して欲しい。

 

(二) 立法裁量論の根拠

 最高裁判所は古くから、「それは立法政策の問題であって」というような言い回しで、しばしば立法の違憲審査請求を退けてきた。しかし、他方、そうした配慮なしに、立法の内容に踏み込んで違憲審査を実施した例も存在する(判断の結果が合憲であるか違憲であるかは、ここでは問題ではない)。すなわち、立法裁量に対する尊重の度合いは、すべての事案で同一ではない。そこで、以前から、それを何らかの基準で分類整理する必要が認められ、いくつかの理論が提出されてきた。そのうち、今日においてもっとも一般的な支持を集めているのは、戸松秀典の理論と思われるので、以下、これについて説明する。

 戸松秀典自身は、立法裁量論の根拠について、次のように整理している。

「最高裁判所が立法裁量論を適用するときの論拠に注目すると、上述の裁判例の中から次にような要因を摘出することができる。すなわち、@立法措置をするにあたって種々多様な要素についての判断が必要であること、A国の財政事情に関わる判断であること、B専門技術性を伴うこと、C複雑微妙な政策判断、あるいは、複雑かつ高度な政策的考慮を必要とすること等がそれである。これらの要因を根拠として、政策決定の判断権者としては、司法府よりも立法府の方が適しているから、裁判所は、立法府の判断を尊重して立法措置についての立ち入った判断をしない、としているのである。」(戸松『憲法訴訟』253頁より引用)

 ここで戸松が述べているのが、先に自制論の根拠として紹介した三つの考え方と一致していることが判ると思う。

 戸松は、さらにこの立法裁量論の類型が、立法の具体的な審査に入った場合には、合理性基準論に対応すると主張する。すなわち、広い立法裁量の場合には狭義の合理性基準、狭い立法裁量の場合には厳格な合理性基準(中間審査基準)、立法裁量論の不適用の場合には厳格な審査基準がそれぞれ妥当するとするのである。

 しかしながら、このように11で対応すると把握する場合には、結局、問題は審査基準論で論ずればよいことになり、立法裁量論を独自に論ずる実益がないことになる。実際、戸波江二等は、このような視点から、立法裁量論自体を否定し、論じないのである。

 私自身は、若干この点に関しては見解を異にするが、この講義は私の見解で諸君を悩ませることが目的ではないから、これまで単純に戸松説を紹介してきたし、以下においてもそれにしたがって説明する。

(三) 立法裁量の類型と具体的判例

 1 広い立法裁量

 これは、原則的に立法府の下した裁量を尊重し、その裁量が明白に不合理であると認められない限り、違憲審査の対象とはしないという姿勢を示す領域を意味する。いわゆる明白性の原則が採用されるので、この類型に該当する場合には、立法事実の検討作業には原則として入らないことになる。典型的には小売市場事件判決に見られる(最大昭和471122日=百選[第5版]204頁参照)。すなわち、

「個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は右裁量的判断を尊重するを建て前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲としてその効力を否定できる。」

 このような問題についても、かつては司法審査の対象としていた。例えば、浴場距離制限判決(最大昭和30126日=百選[第5版]206頁参照)は、次のように述べた。

「公衆浴場は、多数の国民の日常生活に必要欠くべからざる、多分に公共性を伴う厚生施設である。そして、若しその設立を業者の自由に委せて、何等その偏在及び濫立を防止する等その配置の適正を保つために必要な措置が講ぜられないときは、その偏在により、多数の国民が日常容易に公衆浴場を利用しようとする場合に不便を来たすおそれなきを保し難く、また、その濫立により、浴場経営に無用の競争を生じその経営を経済的に不合理ならしめ、ひいて浴場の衛生設備の低下等好ましからざる影響を来たすおそれなきを保し難い。このようなことは、上記公衆浴場の性質に鑑み、国民保健及び環境衛生の上から、出来る限り防止することが望ましいことであり、従つて、公衆浴場の設置場所が配置の適正を欠き、その偏在乃至濫立を来たすに至るがごときことは、公共の福祉に反するものであつて、この理由により公衆浴場の経営の許可を与えないことができる旨の規定を設けることは、憲法22条に違反するものとは認められない。」

 これは、立法裁量論というスタンスから見る限り、後述する立法裁量論の不適用に該当するものとして、直ちに裁判所が実体判断を行ったものということができる。しかし、平成元年120日最高裁判所第二小法廷判決は、上記小売市場判決を踏まえて次のように述べて、この点に関する限り、実質的に判例を変更した。

「このような積極的、社会経済政策的な規制目的に出た立法については、立法府のとつた手段がその裁量権を逸脱し、著しく不合理であることの明白な場合に限り、これを違憲とすべきであるところ(最高裁昭和45年(あ)第23号同471122日大法廷判決)、右の適正配置規制及び距離制限がその場合に当たらないことは、多言を要しない。」

 この他、社会権(堀木訴訟=最大昭和5777日=百選[第5版]300頁)、租税(サラリーマン税金訴訟=最大昭和60327日=百選[第5版]70頁)なども、この類型に属すると認められる。

 ここに示した広い立法裁量の例は、いずれも先に挙げた自制論の根拠のうち、三番目の同位の国家機関の専門的判断に対する尊重に由来するものである。しかし、それだけが広い立法裁量の根拠になるのではない。第一にあげた裁判所に民主的基盤がないことを理由とするものもある。すなわち、国民自らが、あるいは国民の代表者が決定するべき問題については、民主的基盤を持たない裁判所は審査を自制する。有名な例としては、(旧)日米安保条約と憲法9条の関係が問題になった砂川事件最高裁判決(昭和341216日=百選[第5版]434頁参照)がある。

「(安保条約が)違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。」

 ついでに言及しておくと、このように国会の裁量を強く尊重する場合には、常に合憲判断になりそうな気がするであろう。しかし、実際問題として最高裁判所が「著しく不合理」な立法として、違憲判断を示した例がいくつかある。尊属殺等の判例(最高裁昭和4844日判決=百選[第5版]62頁)がそれである。

「加重の程度が極端であつて、前示のごとき立法目的達成の手段として甚だしく均衡を失し、これを正当化しうべき根拠を見出しえないときは、その差別は著しく不合理なものといわなければならず、かかる規定は憲法141項に違反して無効であるとしなければならない。」

 2 狭い立法裁量

 立法裁量を尊重する姿勢を司法府が示す、という点では、上記場合と変わらないが、裁量を尊重する幅を狭め、その幅から逸脱した場合には司法審査の対象とする、という姿勢を裁判所が示す領域である。

 典型的には、薬局開設距離制限違憲判決に見られる。すなわち、

「右のような検討と考量をするのは、第一次的には立法府の権限と責務であり、裁判所としては、規制の目的が公共の福祉に合致するものと認められる以上、そのための規制措置の具体的内容及びその必要性と合理性については、立法府の判断がその合理的裁量の範囲にとどまるかぎり、立法政策上の問題としてその判断を尊重すべきものである。しかし、右の合理的裁量の範囲については、事の性質上おのずから広狭がありうるのであつて、裁判所は、具体的な規制の目的、対象、方法等の性質と内容に照らして、これを決すべきものといわなければならない。」

 この判決で示した姿勢は、共有林分割違憲判決でも同様に採用されている(最大昭和62422日=百選[第5版]212頁参照)。ここでは、第三のジャンルに属する理由が、自制の根拠である。

 他方、平等権に関する事件でも、この領域に属するとする判決が存在する。典型例は、衆院議員定数違憲判決(最大昭和51414日=百選[第5版]336頁参照)に見られる。

「具体的に決定された選挙区割りと議員定数の配分の下における選挙人の投票価値の不平等が、国会において通常考慮し得る諸般の要素をしんしゃくしてもなお、一般に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を越えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り憲法違反と判断するほかはないというべきである」

 この判決のスタンスは、その後の数多くの議員定数判決でも貫かれていくことになる。ここで自制の根拠になっているのは、言うまでもなく、裁判所の非民主性である。

 このように、立法裁量を認める必要がある事例では、薬局距離制限や共有林分割制限のように、単純な自由権制限立法であれば、問題はない。制限規定が違憲であれば、その制限は無効となり、その結果、人々が元来有していた完全な自由が復活するだけだからである。これに対して、それ以外の権利を制限する場合には、実質的意味の立法に該当する活動を司法権が行うわけに行かない。例えば、選挙制度の場合、ある選挙法が違憲であるとしても、そのを無効とすれば、そもそも選挙は実施不可能になる。特に公職選挙法が違憲であると言うことになれば、その違憲の公職選挙法に基づいて実施された総選挙によって当選した衆議院議員は全てその職を失う。その結果、公職選挙法を改正すること自体が完全に不可能になる。そこで、上記衆議院議員定数違憲判決で、最高裁判所は、新たに事情判決という手法を開発し、公職選挙法は実質的に違憲としつつ、その改正は国会自身に待つことを可能にした。

 これと同根の問題が、先に言及した在宅投票事件最高裁判決である事を理解して欲しい。詳しくは後述する。

 3 立法裁量論の不適用

 立法裁量の不適用(裁量のゼロへのに収束)とは、裁判所が国会の裁量権を全く尊重せず、直ちに立法の違憲性審査を行うということである。定義からいえば、立法府の裁量権を論ずることなく、直ちに立法の当否を論じていれば、これに該当することになる。しかし、先に例示した公衆浴場距離制限昭和30年判決に見られるように、単にそのような問題意識がなかっただけと見られる場合が、初期の判例には多いので、そのような単純な見地は採りにくい。その結果、具体的にどの判例がその範疇に属するかは難しい問題である。

 しかし、例えば河川附近地制限令事件(最大昭和431127日=百選[第5版]228頁参照)は、立法裁量のゼロへの収束の典型例といえる。

「同令42号による制限について同条に損失補償に関する規定がないからといつて、同条があらゆる場合について一切の損失補償を全く否定する趣旨とまでは解されず、本件被告人も、その損失を具体的に主張立証して、別途、直接憲法293項を根拠にして、補償請求をする余地が全くないわけではないから、単に一般的な場合について、当然に受忍すべきものとされる制限を定めた同令42号およびこの制限違反について罪則を定めた同令10条の各規定を直ちに違憲無効の規定と解すべきではない。」

この判決の場合、憲法293項は、特別犠牲を課するにもかかわらず、財産権補償を否定する立法を禁止していると解されるので、立法機関の裁量権を裁判所として尊重しなければならない理由がないため、自制することなく司法審査を行っているのである。本問で取り上げた熊本ハンセン病事件判決も、この一種と考えることができる。

 これら、裁量権がゼロに収束している場合、判例は注目すべき論理を展開する。それが、立法の不作為と呼ばれるものである。

 

三 立法の不作為概念

 立法の不作為とは、憲法上、立法府として当然に行うべき立法を行わないことである。あるべき法が存在しないこと、といった方がわかりがよいかもしれない。

 誤解しないで欲しいのだが、憲法が制定を要求している法が存在しないということは、決して直ちに憲法上の問題になるということではない。例えば、憲法96条は、憲法改正の要件として国民投票を要求しているが、つい最近までそのような法律は制定されていなかった。これも間違いなく立法の不作為であり、立法論のレベルでは問題であるが、現実に憲法改正の手続に取りかかりながら、そうした法律が不存在であるがために断念した、というような事態が起こっていないので、国民に具体的な影響を与える問題にはならない。そして、国民に具体的な影響が発生しない限り、付随的審査制の下では、司法審査の問題にはならない。すなわち、本問は、単に立法の不作為が存在しているだけでなく、その不存在に基づいて、人権侵害が発生している、という事態を考えて、始めて問題足りうる。

 

四 司法審査の可能性

 かつては「立法の不作為の問題は、その性質上、政治過程の中で処理されていくべきもので、原則として裁判過程に馴染むものではない」と一般に考えられていた(佐藤幸治『憲法』第3346頁)。これは、自由国家理念と密接に結びついた理由である。

 自由国家理念の下においては、立法の不作為は司法審査の対象となる可能性自体を持ち得ない。なぜなら、自由とは国家からの干渉のない状態であり、したがって法律が存在していなければ完全な自由状態を享受できるから、法律の不存在により人権の侵害が発生すると言うことはあり得ないからである。もちろん、これは自由権についての問題であって、国務請求権や参政権については、自由国家理念の下でも、法律の不存在により人権侵害の問題は発生してくるのである。しかし、自由国家においては、その自由を確保するためのメカニズムとしての権力分立制には絶対的なウェイトが置かれる。現に存在する法律に対する違憲審査でさえも、それが消極的な立法としての性格をもつが故に問題視される状況下においては、立法の不作為を司法府が論ずることは、まさに司法による積極的な立法行為を意味するだけに、当然に違憲と判断されることになる。

 実を言えば、これは立法の不作為の場合だけの問題ではない。行政の不作為についても同じことが言われていたのである。すなわち、存在する行政についての違憲審査はともかく、まだ何らの行政行為が行われていない段階で、特定の行政行為を行うように司法府が命ずることは、権力分立制に違反し、許されない、とかつては説かれていた。いわゆる「行政権の第一次判断権」と言われる問題である。今日ではこの問題は、憲法レベルの問題ではなく、立法裁量レベルの問題であると理解されている。すなわち、行政事件訴訟法が、行政活動に対する後行的司法審査を原則としているので、その限度で行政権の第一次判断権が承認されるのであって、行政行為の不存在の場合にも司法審査そのものは可能であると説かれる。その結果、今日においては、有名抗告訴訟として不作為の違法確認の訴えが認められ、また無名抗告訴訟の形で、行政行為の義務づけ訴訟、あるいは差し止め訴訟が肯定され、現実にも多数の訴訟が行われている状況にある。

 この行政権の第一次判断権という理論は、権力分立制という理念と、司法審査の拡充による国民の権利保護という対立する概念の調和点として存在しているものであるが、同様の問題を立法に関して考えたとき、登場してくるのが、本問の「立法の不作為」概念なのである。したがって、立法の不作為という概念を、司法審査と切り離して考えることは適当ではない。

 しかし、今日の国家の把握として、かっての自由国家から社会国家、福祉国家、積極国家としての把握が通説となるとともに、それに伴う国家任務の増大が認識され、社会的公正を実現するための立法活動が強く要求されるようになったことによって、この観念が司法上、肯定されるに至った。そこで、先に紹介した佐藤幸治は、先に紹介した文章に続けて、「けれども、個人の重要な基本的人権が立法の不作為ないし不備によって実際に侵害されていることが明確な場合には、憲法訴訟における争い方如何によっては、司法審査の対象となりうることがあると解される」と述べている。

 さらに、憲法訴訟理論が深められたことにより、国民の憲法上の権利保護の手法が研究されるようになり、広く認められるに至ったといえる。

 この点を論ずるに当たり、注意を要するのは次の二点である。

 第一に、司法審査を否定する学説は既に過去の遺物である。今日において、そのような立場を墨守する者はいない。したがって、この点を論点でない、とはいわないが、これに力点を置いて論ずるのは誤りである。国家試験レベルであれば、せいぜい23行以上をこの点について使用してはいけない。書いて減点されるわけではないが、これにつぎ込む行数があれば、次項以下に述べる数多くの重要な論点における議論を深めるために投入すべきである。これについて詳しく論じた結果、重要論点を落としてしまえば減点されたのと同じことになる。この点は完全に落としても、以下の議論をしっかりと書けば、問題なく合格答案となる。これはその程度の重要性しか持たない、と認識しておけば十分である。

 第二に、上述のように、社会国家化に伴い、立法の不作為が問題になるようになった、という議論の代わりに、時々社会権で立法の不作為が問題になるように書く人がいる。しかし、「社会国家」と「社会権」とは別の概念である。確かに立法の不作為には、堀木訴訟のように社会権が中心論点となっている判例も多い。しかし、在宅投票制度復活訴訟や衆議院議員定数不均衡是正訴訟)のように参政権ないし平等権が問題になったものもある。さらに、第3者没収(最大昭和371128日=百選[第5版]430頁)や河川附近地制限令事件のように財産権ないし適正手続きが問題になったもの、高田事件(最大昭和471220日=百選[第5版]268頁)のように迅速な裁判を受ける権利が問題になったものなど、自由権が問題になった事件も多いのである。

 このように、あらゆる人権の領域で社会国家概念に基づく国家の積極立法義務は普遍妥当するのであって、社会権だけがこの概念から導かれる人権ではない。むしろ、社会権の場合には、自由権などと違って、国会の裁量の幅が広がるので、立法の不作為という主張を退ける例が多い。

 

五 立法の不作為の実体的要件

 わが憲法は、社会国家理念を基本的に採用しているが、それは権力分立制などに代表される自由国家理念を否定したことを意味するのではない。したがって、この二つの基本的な国家理念の折衷点をどこに求めるかにより、立法の不作為にどのような要件が存在する場合に、司法審査を可能ならしめるか、を論ずる必要がある。

 これをこのレジュメでは、実体的要件と呼ぶことにする。決して実体法上の要件という意味ではなく、後述する司法手続き上の要件と区別するための呼称である。

 これについて、在宅投票制度復活訴訟において、札幌高裁は次のように述べた。

「国会が或る一定の立法をなすべきことが憲法上明文をもつて規定されているか若しくはそれが憲法解釈上明白な場合には、国会は憲法によつて義務付けられた立法をしなければならないものというべきであり、若し国会が憲法によつて義務付けられた立法をしないときは、その不作為は違憲であり、違法であるといわなければならない。」(札幌高等裁判所昭和53524日判決)

 以下、これを分解して説明しよう。

(一) 憲法上の立法義務の存在

 立法の不作為に違憲性が認められるための第一の要件は、ここに述べられた憲法上の立法義務の存在である。それは憲法の条文に明示されている場合に限らず、黙示、すなわち解釈上明白に認められる場合であっても良い。

 なぜこの要件が要求されるのだろうか。それは、繰り返し強調するが、司法権が実質的意味の立法を行わないためである。国会の行うべき立法の内容が、憲法そのものから明確であれば、裁判所があるべき法律の内容を確定しても、権力分立制を侵したことにはならない。例えば、何度か引用している河川附近地制限令事件の場合、損失補償をすべきだと認められれば、その法律の規定内容は明確なのである。

(二) 相当の猶予期間

 第二の要件は、国会が憲法の即して立法を行うための相当の猶予期間の存在である。衆議院議員定数違憲訴訟に関する最高裁大法廷昭和60717日判決(百選[第5版] 338頁)は、そのことを明言した。

 相当の猶予期間が必要なのは、立法は、機械的な作業ではなく、あるべき状態を作り出すために必要な一定の範囲内に存在する選択肢から、何が最善かを検討、審議するために一定の時間が必要であるためである。特に、例えば先に挙げた情報公開請求権のように、その問題について各方面の意見が分かれている場合には、それにかなりの長期間を要するのにも無理のないところがあるからである。これに対して、立法の不作為により侵害されている国民の利益が一義的に決定できる場合には、立法の猶予期間は必要ではない。例えば河川附近地制限令事件の場合には、損失補償内容は、その国の活動によって個人が被った財産的全損害であって、そこに立法裁量の余地はないから、猶予期間を論ずることはないのである。

 相当の猶予期間があった、というためには、それに先行して国会が、違憲状態の発生を認識していなければならない。上記衆議院議員定数の場合には、それに先行して51年の違憲判決などがあったので、違憲状態の発生を認識することが容易であった。マスコミ等で繰り返し違憲状態の発生を論議していたからである。

 これに対して、参議院議員定数不均衡の場合には、むしろ最高裁は衆議院において違憲と認定した状態をはるかに上回っていた場合にも合憲という判決を出し続けた。この結果、平成4年の選挙において、1票の価値に16.5の格差が生じていたことをもって最高裁は違憲状態の発生を認定したが、国会にそのことを認識する契機が存在していなかったことを理由に、立法裁量権の限界を超えるという認定をすることができなかった(最大平成8911日=百選[第5版]34 0 頁)。

 それが最大どの程度の期間となりうるかについては、60年最高裁判決から、一般に最大5年間といわれている。

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 以上の2要件の外に、@立法内容の明白性、A事前の救済の必要性及びB他の救済手段の不存在等の要件が必要である、と論ずる人がいる。これはおそらく台湾人元日本兵事件第2審判決にあげられていた要件を、一般的な要件と誤解したことからでたものと思われる。これらの要件は、一般に行政に対する義務づけ訴訟の要件として説かれるものであるところから、立法の義務づけにも類推できる、と考えられたものであろうが、妥当ではない。少なくとも、国賠法の問題ではないので、本問で言及するのは間違いである。

 

六 立法の不作為の訴訟上の要件

 立法の不作為を訴訟として争う手段としては、大きく分けて、通常訴訟の一環として争うという方法、立法の不存在によって直接損害を受けたことを理由として、国家賠償訴訟で争う方法、及び特定の内容の制定を国会に命じ、もしくは立法府の不作為が違憲であることの確認を求める方法の三つを考えることができる。

 このうち、最後の訴訟は、具体的事件とは離れて、憲法の抽象的判断を裁判所に求めることに他ならないから、わが国憲法が定めている憲法訴訟が付随的憲法訴訟である、という建前から否定していかない限り、肯定することは不可能である。この結果、現時点でこれを一般的に肯定する者はいない。

 もっとも、学者の中には、行政事件に関しては、無名抗告訴訟の一環としてこれを理論づけられると主張するものもいる(例えば大須賀明「生存権論」)が、そこまで踏み込むと、国家試験レベルの論文できちんと論ずることは不可能なので、論文として破綻してしまうことになるであろう。したがって議論の対象となるのは、通常訴訟と国家賠償訴訟の二つということになる。

 例によって、念のため、注記しておく。仮に、本問が1行問題であれば、ここに書いていることは当然議論しなければならない。しかし、本問は事例問題であるから、上述した方法別の分類論はもちろん不要であるし、通常訴訟の形式で争うことができる、という点について言及する必要もない。いきなり、国賠法を通じて争うことが可能か否かを論ずれば足りるのである。ここで、通常訴訟を説明しているのは、あくまでも諸君の体系的理解を助けるために他ならない。

 

(一) 通常訴訟の一環として争う方法

 立法の不作為は、通常訴訟において、その一環として司法審査の対象となる。刑事事件(河川附近地制限令事件、第三者没収違憲事件、高田事件等)、行政事件(堀木訴訟、国会議員定数違憲訴訟等)というように、その訴訟類型は問題とならない。

 通常事件として争う場合に、最大の問題は、裁判所はどの範囲で救済判決を行うことができるか、であろう。すなわち、単なる自由権の制約であれば、その法律を無効とすることで完全な自由状態に戻すことができるから、事件を最終的に解決することができる。これに対して、立法の不作為によって出現している場合には、法律そのものが存在していないのであるから、自由権侵害のような単純な方法による違憲状態の解消ができない(逆から言うと、自由権に関して立法の不作為を考える余地はおそらくない。)。そこで、どうしたら、法律の存在と同じ結果を導けるかが問題となる。

 河川附近地制限令事件の場合には、293項の直接適用という論理を通じて、河川附近地制限令の違憲性を否定した。

 これに対して、昭和51年衆議院議員定数違憲判決の場合には、事情判決という独特の手法を編み出すことで、対応している。

 なぜこのような異なる対応が行われたのかが、諸君に考えて欲しい点である。

 両者の違いは、立法裁量論にある。河川附近地制限令事件のように、憲法の直接実施という手法は、立法の不作為の違憲状態除去のためにはもっとも直截で有効な方法であるが、裁判所が、本来立法府が行う活動を行うことは疑う余地のない事実である。したがって、これが可能であるためには、具体的権利性を確保するだけの理論や実務の集積が存在する場合に限られる。河川附近地事件は、先に例として上げたとおり、損失補償をするか否かに関しては、国会の立法裁量の幅がゼロに収束しているとみなしうる結果、裁判所が判断を自制する必要がない場合なのである。

 これに対して、衆議院議員定数が不均衡である場合、1票の格差を13の範囲内にとどめるのに可能な立法には、単に1010減というように、13の限界を超えている選挙区だけを是正する対症療法的なものから始まって、選挙区の全面見直しや比例代表制の導入など、非常に広い選択の余地がそこには存在する。そこで、この場合には、裁判所として国会に代わって判断を下すことができないので、違憲になっている点について、国会に警告を発し、速やかに是正することを求める事情判決になったのである。

 

(二) 立法の不作為によって損害を被ったとして国家賠償を請求する方法

 通常訴訟に代えて、国賠法1条によって争うことができるか、ということが本問の中心論点である。国賠法による場合にも、立法の不作為の要件を充足している必要があるのはもちろんである。そこで、以下検討していこう。

 1 立法義務の明確性

 問題文に述べたとおり、強い伝染性を持つ病気でもないのに国家が強制隔離することは、人権侵害である。また、仮に強制隔離に何らかの理由が存在したとしても、既に病気が完全に治癒した患者を引き続き隔離することは、明白な人権侵害である。したがって、そのような人権侵害以外のなにものでもない法律を廃止する義務が国会に存在することは、解釈上きわめて明白である。

 このところで、そもそもどのような人権が侵害されているのか、という疑問を持つ人もあると思う。新法に基づいて行われたどの部分を重視するかにより、18条の奴隷的拘束、22条の居住移転の自由、31条の適正手続き等を個別の条文としては考えることができ、また、それらすべての背景にあるより根本的な権利として、人格権(13条)を考えることができる。しかし、事案としてあまりにも深刻な人権侵害事態であるので、どの部分がそのどれに該当するのか、というようなことを細かく議論する実益はない。全体として、様々な人権が侵害されている、ということさえ確定すればそれで十分である。

 しかも、本件判決が注目を集めた立法の不作為と国家賠償の関係は、次に述べるとおり、かなりの行数を要するのは必至である。したがって、異論の出る余地のない人権に関する議論は、単なる導入部としてできるだけ簡略に通り過ぎるのが、答案構成上、当然の要求である。

 2 憲法17条の法意

 通常訴訟として争う場合と、国賠法をとおして争う場合を分けているのが、憲法17条の法意をどう把握するか、である。

 憲法17条の国家賠償請求権の法的性格については、自己責任と考えられる。その根拠は、平等主義の下、特別犠牲を特定の国民に負担させるのが適切ではない、というものである。その視点から見た場合、国賠法1条の文言は、立法行為を排除したものとは読めないし、個々の議員から離れて合議体としての国会の過失を認めることもできる、という理由から、学説は一般に認める。

 すなわち、立法の不作為に関して、国家賠償責任を認める最大の根拠は、国家賠償法が代位責任ではなく、国家の自己責任を定めたものとする判例・学説のこれまでの努力があることを看過してはならない。その結果、故意・過失という要件について客観化、形式化して認定することができるからである。

 例えば、自己責任である以上、加害公務員を特定する必要がないので、行政組織に一体として過失が認められれば、実際に過失を犯した公務員を特定する必要はないとすることができる。例えば、新島の海岸で旧軍の砲弾が爆発した事件で最高裁は次のように述べた。

「新島警察署の警察官を含む警視庁の警察官は、〈中略〉単に島民等に対して砲弾類の危険性についての警告や砲弾類を発見した場合における届出の催告等の措置をとるだけでは足りず、更に進んで自ら又は他の機関に依頼して砲弾類を積極的に回収するなどの措置を講ずべき職務上の義務があつたものと解するのが相当であつて、前記警察官が、かかる措置をとらなかつたことは、その職務上の義務に違背し、違法であるといわなければならない。」(最高裁昭和59326日判決)

 これと同じように、組織体としての国会に全体として責任を認めることができれば個々の国会議員の責任を問題にする必要はない、というのが学説のスタンスである。

 しかし、最高裁判所は、立法の不作為を国賠法訴訟を通じて争うことを否定した。

「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにも関わらず、国会が敢えて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的な場合でない限り、国家賠償法11項の規定の適用上、違法の評価を受けないのである。」(在宅投票制度復活請求訴訟)

 この判決を、最高裁判所が立法の不作為の司法審査自体を否定した、と誤解している人がいるが、もちろん間違いである。先に紹介したとおり、通常訴訟により争える点は、既に確立した判例である。ここで問題になったのは、あくまでも国賠法を通じて争うことに限られる。

 憲法17条の国家賠償制度を立法による侵害の場合には認めないという判例は、これ以降、一般民間人戦災者を対象とする援護立法をしないことに関するもの(昭和62626日第二小法廷判決・裁判集民事151147頁)、生糸の輸入制限に関するもの(平成226日第三小法廷判決=百選[第5版]208頁)、民法733条の再婚禁止期間に関するもの(平成7125日第三小法廷判決=百選[第5版]66頁)等、同旨判決は多数に上る。

 ここで思い出して欲しいのが、事情判決が下った衆議院議員定数判決である。この事件は憲法47条が法律に委ねることを明言している選挙区の設定方法を問題にしている。それと同様に在宅投票制度も、投票の方法を問題にしているという点で、やはり憲法47条の問題なのである。仮に、在宅投票事件の訴えが、国賠法ではなく、衆議院議員定数事件と同じように選挙訴訟で提起されていたとすると、最高裁判所が原告の主張を承認したとしても、やはり事情判決しか下し得ない事例は間違いない。なぜなら、当時の形式による在宅投票制度を廃止したこと自体が違憲とはいえても、その代わりにどのような在宅投票制度を作ればよいか、という点に関しては、広い選択の幅が広く存在するからである。同様の裁量の幅は、それ以降の同旨判決に共通して認めることができる。

 それに対して、本件ハンセン病事件の場合には、元々隔離の必要性が疑わしく、しかもいかなる根拠から見ても隔離の必要が完全に消滅した後も、隔離を継続したというものである。そのような、何の必要もないのに人権を制限する立法を行う権限を国会に認めることはできない。すなわち、裁量論が不適用となり、裁判所として自制の要がない。したがって、通常訴訟の形式で提起された場合には、問題なく自由を命じる判決が下るはずだといえる事例である。

 このような、立法裁量論レベルにおける性格の差が、ハンセン病事件と在宅投票事件で、国賠法形式の訴えの場合に、結論を分けたものと考えることができる。同判決は、次のように述べている。

「右の最高裁昭和601121日判決は、もともと立法裁量にゆだねられているところの国会議員の選挙の投票方法に関するものであり、患者の隔離という他に比類のないような極めて重大な自由の制限を課する新法の隔離規定に関する本件とは、全く事案を異にする。右判決は、その論拠として、議会制民主主義や多数決原理を挙げるが、新法の隔離規定は、少数者であるハンセン病患者の犠牲の下に、多数者である一般国民の利益を擁護しようとするものであり、その適否を多数決原理にゆだねることには、もともと少数者の人権保障を脅かしかねない危険性が内在されているのであって、右論拠は、本件に全く同じように妥当するとはいえない。また、その後の最高裁判決の事案も、であり、本件に匹敵するようなものは全く見当たらない。」

 3 相当の猶予期間

 相当の猶予期間の要件は、国賠法形式で訴えた場合にも、同じように必要である。先に述べたとおり、新法は、制定の当初から違憲の疑いがある。しかし、立法の不作為が成立するためには、単に違憲であるだけでなく、そのことを国会が知った後、相当期間の経過が必要である。新法制定当時は、国会議員も一般国民と偏見を共有していた可能性が高く、違憲性を認識していたと断言することは難しい。そこで、ハンセン病事件判決は、次のように述べている。

「 新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきであり、遅くとも昭和35年には、その違憲性が明白になっていたのであるが、〈中略〉新法の隔離規定が存続することによる人権被害の重大性とこれに対する司法的救済の必要性にかんがみれば、他にはおよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合として、遅くとも昭和40年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性を認めるのが相当である。」