税関検査における二重の基準と明確性

甲斐素直

問題

 XX年、AB市所在のC美術館で、写真家Dの回顧展が開催された。Dは、人間の性や肉体などをテーマとする作品を発表し、写真を用いた現代美術の第一人者として美術評論家等から高い評価を得て活躍した写真家である。その回顧展における展示作品のカタログには、100枚を超える展示作品の写真が掲載されている。それは、Dの写真家としての経歴とその作品の芸術的特性を示すことに徹しており、極めて専門的な内容である。その中に人の性器を撮影した写真数葉が含まれていたが、性行為と直接結び付けて表現されたものはない。

 日本国内において、図書の販売業を営むXは、このカタログの芸術性を高く評価し、国内で芸術愛好家に販売する目的で、同カタログ多数を輸入しようとした。これに対し、税関では、関税法69条の1117号に違反するとして、輸入禁制品該当通知を行った。

 そこで、Xは国Yに対し、輸入禁制品該当通知処分取消等を請求して訴えを提起した。その訴えの中で、表現行為に対する事前規制は、憲法21条に照らし、厳格かつ明確な要件の下においてのみ許容されるものといわなければならないが、関税法69条の1117号は単に「風俗」と定めるのみであって、何ら明確なものではないので、違憲・無効であると主張した。

 このXの主張の憲法上の当否について論ぜよ。

参照条文

 関税法69条の11

1項 次に掲げる貨物は、輸入してはならない。

 公安又は風俗を害すべき書籍、図画、彫刻物その他の物品(次号に掲げる貨物に該当するものを除く。)

 児童ポルノ(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律第二条第三項 (定義)に規定する児童ポルノをいう。)

3項 税関長は、この章に定めるところに従い輸入されようとする貨物のうちに第一項第七号又は第八号に掲げる貨物に該当すると認めるのに相当の理由がある貨物があるときは、当該貨物を輸入しようとする者に対し、その旨を通知しなければならない。

 

[はじめに]

(一) 素材となった事件について

  1 問題に取り上げた素材となったのはメイプルソープ事件と呼ばれるものである。メイプルソープ(Robert Mapplethorpe1946-1989年)はアメリカの写真家である。男性の裸体や性器などを被写体とした衝撃的な写真などで注目を浴び、1970年以降、死亡するまでの約20年間、写真を用いた現代美術の第一人者として美術評論家等から高い評価を得て活躍した写真家であり、日本でも、1992年〜93年に、外務省、文化庁、アメリカ大使館の後援の下に、同人の作品展が東京都庭園美術館他5カ所の公立美術館において開催されている。

  2 問題の素材となった事件の内容は具体的には次の通りである。

 ニューヨークのホイットニー美術館(Whitney Museum of American Art)が19897月〜10月に回顧展を開催した。その回顧展のカタログとして写真集である「Robert Mapplethorpe」が制作された。これには100枚を超える展示作品の写真が掲載されている。また、収録されている評論は、メイプルソープの写真家としての経歴とその作品の芸術的特性を解説することに徹しており、極めて専門的な内容である。したがって、購読者として想定される者は、メイプルソープの回顧展に足を運ぶ写真芸術の愛好者と、観覧の機会は持てなくとも、同人の作品に関心を持ち、同人の作品集を手元に置いておきたいと希望する者程度であるとみるのが相当である。本件写真集が、広告媒体によって通俗的興味をかきたて、広く販売することを予定したものでないことは、その体裁、内容からみても明らかであった。

 本件写真集と同一書籍は、1992年当時から東京都内の書店で継続的に陳列・販売されており、またメイプルソープの他の写真集「BLACKBOOK」や「MAPPLETHORPE」、「ドイツ語版MAPPLETHORPE」なども、同様に書店で公然と陳列・販売され、何人も入手可能な状態であった。これらの書籍には、本件写真集に掲載され、東京税関がわいせつ性を有すると主張する写真の全部又は一部が掲載されているが、いまだにこれらの書籍がわいせつであるとして摘発されたことはなく、現時点においても、アマゾン等を通じて購入することが可能である。

 現実の事件そのものは、個人的に米国で購入したものを日本に持ち込もうとして、わいせつ物として、東京税関長に輸入禁制品に該当する旨の通知を受けた、というものである。この通知がなされると、以後、当該物品についての通関手続は進行せず、輸入申告者は、これを適法に保税地域から引き取ることができなくなり(関税法731項、2項、1091項)、その後は、輸入申告者の自主的判断に基づいて、所有権の放棄、積戻し、当該物品中の公安又は風俗を害すると指摘された箇所の削除等により処理されることが予定されている。そこで、その通知の取り消しを求めた、という事件である(平成11年2月23日最高裁判所第三小法廷判決=以下、「米国版メープルソープ判決」という)。

 本問では、この事件から離れて、販売目的の輸入とした。個人的鑑賞目的としておくと、猥褻性を巡って、一つ論点が発生し、諸君として、その分、若干難しくなるからである。

  3 このカタログに関しては、今ひとつの事件が発生している。日本のアップリンク社は、このカタログの版権を獲得し、翻訳出版し、朝日新聞朝刊第一面に販売広告を掲載するなどの販売促進活動を行った結果、平成7年1月1日から平成12年3月31日までの間に都市部の大規模書店を中心とする書店販売や通信販売等の方法により合計937冊を販売した。この会社の取締役が、平成11年9月12日、商用のため日本からアメリカに出国した際、自社出版物の見本として本件写真集を携行し、同月21日、我が国に帰国した際、成田空港所在の成田税関支署旅具検査場において、検査官に対し、本件写真集を呈示し、本件写真集は見本として我が国から携行したものであることを説明した。しかし、それにもかかわらず、東京税関成田税関支署長は、同年1012日、本件写真集は、風俗を害すべき物品と認められると通知処分をしたという事件がそれである(平成20年2月19日最高裁判所第三小法廷判決=以下、「日本版メープルソープ判決」という)

 なお、従来、問題の規定は、従来は関税定率法にあったが、その後の法改正で、文言は修正されないままに、関税法の方に引っ越したので、この問題では、条文はそちらにあわせてある。

(二) 論点について

 元々の税関検査事件(最高裁判所大法廷昭和591212日判決)は、憲法212項にいう検閲とはいかなる概念か、とか、211項にいう事前抑制禁止の法理は、実体・手続きの両面で、それぞれどのような要件を必要とするか、といった複雑な論点を抱えた事件である。しかし、今回は、学生諸君から二重の基準論の勉強をしたいという希望があったので、論点はそれに限定してある。逆に言うと、問題文が明確に論点を限定しているのに、例えば検閲概念について論じたりすると、それ自体、減点要素になる、ということである。

 

一 表現の自由

 冒頭に述べたように、本問は基本的に憲法訴訟論がテーマであるから、表現の自由に論及するにしても、それは単に憲法訴訟論、特に二重の基準論を引き出すための導入部という意義があるだけであるから、あまり詳しく書く必要はない。

 表現の自由という理念の重要性を述べるに当たっては、人権の基礎との関連をいう必要がある。人権の基礎理論としては、諸君も知るとおり、人格的利益説と一般的行為自由説の対立がある。国家試験受験生の多くは、人格的利益説によっていると思うので、それだけを説明すると、次の二つの価値であるとするのが一般的理解である。すなわち、第1に個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるとする個人的な価値(自己確立)であり、第2に言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという社会的価値(自己統治)である。これを論ずることが中心論点ではないので、できるだけ切りつめた記述が好ましい。何らかの形でこの二つに論及してくれれば、本問の場合にはそれで十分である。しかし、人格的利益説そのものについては、ある程度しっかりした記述をしておくことが好ましい。それは、後で説明するとおり、論文の流れの中で、その記述を引用し、発展させた議論が必要になるからである。

 

二 違憲審査に関する判断基準について

 二重の基準論に入る前に、君たちの論文には書く必要はないが、違憲審査に関する判断基準について説明しておきたい。この言葉には、厳密に言うと、二種類の概念が存在しているので、その差異をしっかりと理解することが大切である。すなわち、

 @ 実体的判断基準standard of constitutionality

    基本的人権に関する条文解釈等によって導き出される法令の解釈基準

 A 審査基準standard of proof of constitutionality

 裁判の過程で、当該法令、あるいは当該事件における適用が実体的解釈基準に達しているかどうかを審査するための基準

の二つである。このように定義だけを示してもわかり難いと思うので、一つのたとえを引いてみたい。今ここに、酸性の液体とアルカリ性の液体があるとする。これは本質的にどう違うか、という面でいうと、酸とは水素原子と塩基の化合物であり、アルカリとは金属原子と水酸基の化合物である、ということができる。しかし、このような知識は、目の前にある液体のどちらが酸で、どちらがアルカリであるかを決定するには、何の役にも立たない。酸かアルカリかの判定手段は、リトマス試験紙を入れて、青いのが赤くなるか(酸)、赤いのが青くなるか(アルカリ)を見るのが一番確実である。

 それと同様に、ある問題についての違憲性を裁判所が審査するに当たり、司法積極主義によるべきか、それとも司法消極主義によるべきかを決定する必要があるとする。前に、自制論でこの問題を検討し、原則的には司法消極主義によるのが正しい、という結論を導いた。しかし、その上で、自由権のあらゆる種類について、すべてこの原則通りに取り扱っていいのか、それとも特別の理由があれば、積極主義に立つことも許されるのか、という問題である。

 それを振り分けるときに使う基準が、実体的判断基準(standard of constitutionality)である。自由権に関する実体的判断基準としては、これから説明しようとする二重の基準論が知られている。先のたとえでいうところの、酸とアルカリの化学的な違いを説明する理論に相当する。

 しかし、ある自由権については司法積極主義を採り、他の自由権では消極主義をとる、と決まっても、それだけでは具体的事件において適用されている国の立法等が、合憲か違憲かを決定することはできない。そのためには、先のたとえでいうリトマス試験紙に相当する物差し、すなわち一定の条件を満たせば違憲、満たさなければ合憲、という答えを出すことのできる基準が必要である。その物差し役の基準が、第二に紹介した審査基準(standard of proof of constitutionality)である。リトマス試験紙を、使う対象が酸かアルカリかによって赤いものと青いものを使い分けるように、審査基準も対象となる自由権が司法積極主義を採るべきものであるときと、消極主義を採るべきものであるときとで種類を使い分ける。実体的審査基準である二重の基準論に対応する審査基準が合理性基準である。二重の基準なのだから、対応して審査基準も2種類あれば良さそうだが、化学と違っていろいろな説があり得るところが、法律学における問題の複雑なところである。

 

三 二重の基準

 憲法訴訟論として表現の自由を云々する最大の理由は、二重の基準論を引き出すためである。本問で、二重の基準に論及しないのは、その意味で、相当大きな減点要素と理解して欲しい。二重の基準は、典型的には次のように説明される。

「二重の基準の理論は、元々アメリカ合衆国の1938年の判例で確立した理論ですが、その内容、中身を簡単に言えば、

@精神活動の自由の規制:厳しい基準によって合憲性を審査する。

A経済活動の自由の規制:立法府の裁量を尊重し緩やかな基準で合憲性を審査する。

こういう考え方であります。」(芦部『憲法判例を読む』岩波セミナーブックス98頁)

 いきなり1938年のアメリカの判例などといわれても判らないと思うので、簡単に説明する。

 アメリカ連邦最高裁判所は、初期においては明確に司法積極主義を採用していた。マディソン対マーベリ事件、ドレッド・スコット事件などを経て、19世紀末になると、南北戦争を契機に制定された修正条項を利用して、いわゆる実体的デュープロセス・オブ・ロウ判断を行い、連邦法ばかりか州法にまで積極的に違憲判定を行うようになっていく。

 この連邦最高裁判所の司法積極主義が、ニューディール政策を巡って、アメリカ連邦大統領と衝突を起こし、それが二重の基準論を生み出すことになる。簡単に時系列にまとめると次のようになる。

1929年 大恐慌始まる

193211月 ルーズベルトが大統領に当選する。翌1月に就任。ニューディール政策が開始される。

19351月 連邦最高裁判所が全国産業復興法(National Industrial Recovery Act NIRA*を違憲と判断する。これを皮切りに翌年5月までの17ヶ月間に11のニューディール関連立法が違憲と連邦最高裁判所によって判断される。

193611月 ルーズベルト、連邦最高裁判所を改革することを叫んで大統領選で地滑り的大勝利をあげる。

19372月 ルーズベルト大統領は、司法部改革案を議会に提案したが、否決される。しかし、連邦最高裁判所は大統領にあゆみより、以後、ルーズベルトコートといわれるようになる(憲法革命)。

1938年   キャロリーヌ判決

 この最後のものが、二重の基準論を述べた判決で、そのため、二重の基準論はキャロリーヌドクトリンとも呼ばれる。その元となっているキャロリーヌ判決脚注4に書かれている内容はかなり複雑なもの*だが、日本では一般に先に述べたように説明される。

 換言すれば、自由権のうち、精神的自由権については司法積極主義を認め、経済的自由権については司法消極主義を妥当とする考え方のことである。

 その根拠は、司法と民主政の関わりの中で、司法審査の外延を決定するべきだという考え方に求めることができる。すなわち、

「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」

(芦部信喜『憲法学U』有斐閣、218頁)

 本問で問題になっているのは、精神的自由権としての表現の自由だけだから、この文章中、経済的自由権に関する部分については言及はしなくて良い。言及しても減点するということはないが、加点要素とならない以上、書かないことで、紙幅と時間を節約するのが、国家試験の受験では正しい答案構成といえる。

 ここで、上述した投票箱の論理ではなく、単純に精神的自由権がより尊重されるべき権利だから、という式の理由付けをする人が良くいる。実体法レベルにおいて、精神的自由権が経済的自由権に優越する高次の権利であると考える(という価値観を持つ)のは諸君の自由である。しかし、憲法訴訟の問題では、それは根拠にならないことだけは理解しておいて欲しい。なぜなら、ここで要求されているのは、裁判所が、民主主義的正統性ではより高い地位を持つ国会や内閣を押しのけて、司法積極主義を採る理由だからである。実体法的に精神的自由権の方が民主主義的に高次の権利であることを主張することは、その論理の限りでは、国会等の意見をより尊重するべき根拠にはなっても(例えば統治行為論参照)、その逆の根拠には絶対にならないのである。

ここまでは、論文として必然的な導入部であるから触れないわけにはいかない、という論点だから、くどい議論をするのは間違いである。次のところからが議論の中心となる。

 

四 合理性基準

 先に述べたとおり、二重の基準は実体的判断基準であり、これ自体から直ちに具体的事件について、合憲・違憲の判定をすることはできない。そのため、この判断基準に対応した審査基準が必要となる。これに対応して、アメリカ連邦最高裁が開発した審査基準が一連の合理性基準である。すなわち、合理性基準には理論的根拠があるわけではない。連邦最高裁が開発して、様々な事件に適用した結果が妥当なので支持するという考え方である。

 本問の場合には、精神的自由権だから、より厳格度を増した審査基準を採用するべきである、と論じられることになる。

(一) 厳格な審査基準(strict scrutiny test

 より厳格度を増した審査基準としてアメリカ連邦最高裁が最初に開発した審査基準が、この厳格な審査基準である。(この文章の表現は大事である。繰り返し強調するが、諸君の論文ではややもすると、厳格な審査が要求されるということから理論的に下記の二つの要件が導かれるようにかかれることが多い。しかし、厳格な審査ということと、それを具体化した場合に、「厳格な審査基準」になるということとの間には理論的関連性はない。あくまでも、その具体化としてアメリカ連邦最高裁が開発したにすぎないのである。だから理由としてはそう書くしかない。)

 この領域では原則として立法の違憲性を推定し、この推定を覆すために、次の二点の立証を国側に要求する。

@ 立法目的が正当であること、

  A 立法目的を達成するために採用された手段が、立法目的の持っている「やむにやまれぬ利益 compelling interest)」を促進するのに必要不可欠であること、

アメリカでは、精神的自由権に限らず、米国憲法修正1条〜修正10条までの規定が保障する個人の自由、すなわち、具体的には、表現の自由、投票権、信教の自由、旅行の自由、刑事手続上の権利等に対する侵害立法である場合にこの審査基準が使用される。

(二) 厳格な合理性基準(strict rationality test

 これは、厳格な審査基準と狭義の合理性基準の中間的な性格を持つ審査基準であるため、中間審査基準 intermediate standard)とも呼ばれる。しかし、司法積極主義を背景に違憲性推定原則を採用している点では、厳格な審査基準と同質の厳格度を増した基準であって、その意味では決して中間的なものではない。

 この基準と厳格な審査基準の相違は、違憲性推定を覆すための基準の違いにある。

@ 立法目的が重要な国家利益(important government interest)に仕えるものであり、

 A 目的と手段の間に「事実上の実質的関連性(substantial relationship in facts)」が存在することを要求する。

 すなわち、立法目的が、それを達成するために法によって用意された手段によって合理的に促進されるものであることを、国の側は事実に基づいて証明しなければならないとともに、それで足りるとした点で厳格な審査基準を軽減しているのである。狭義の合理性基準を基本的に適用しながらも、事実上の実質的関連性の審査に当たって、問題の性質上、立法目的の合理性そのものの合理性に関しても審査できること、及びそれに当たって国家利益に適合するか否かを審査可能である点で、合理性基準よりも司法介入を強く認める点に特徴がある。

 以上のどちらの基準を使うにせよ、諸君としては、関税法という立法の目的、及び目的と手段の関連性ということを考えなければならない。そこで問題となるのは、それらを、何を基準に判断したらよいか、ということである。

 

五 事前抑制禁止の原則

 米国連邦最高裁は、更に個々の人権の性格の差異に応じて、この厳格度を増した審査基準に対する補完的な審査基準を採用している。

 表現の自由を国家が抑制する場合、それが事後的に行われるか事前に行われるかにより、質的な差異があり、その差異の結果、事前抑制(prior restraint, previous restraint)の場合には、事後抑制と異なる厳しい制限が必要との理論が、米国の憲法訴訟に関する判例法上で発達している。同じ表現の自由の不当な行使であるにも関わらず、なぜ事後抑制に比べて、事前抑制についてはより厳しい制約が課せられなければならないほどの質的差異があると考えるのであろうか。これが本問のもっとも重要な論点である。

憲法判例百選(第5148頁)は、この肝心の理由を、北方ジャーナル事件(最判大法廷昭和61611日判決)から引用していないために、判決原文を読まずに百選だけを読んでいる人には、この理由付けは難問になる。原文を読むと、同判決において、最高裁は次のようにこの点を説明していることが判る。

「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。」

 ここで上げられている理由は、いずれも事前抑制が禁止される重要な理由であり、論文を書く場合に漏らしてはいけない。ここで押さえておいて欲しいことは、事前抑制禁止の原則は、211項から導かれるのであって、2項ではないということである。

 この、表現の自由に関して、なぜ事前と事後を分けるのか、という論点を全く気にしなかった場合には、当然積極的な減点要素となる。そうした事態を防ぐため、本問では、わざわざ問題文の中に「表現行為に対する事前規制は」という言葉を挿入して、見落としの内容に配意した。

 

六 明確性の法理

 わが国の司法審査は、一般に付随的違憲審査であると解される(本来は、なぜそうなのかを論じなければいけないが、本稿では手抜きをする)。すなわち、私権を保障する手段として違憲審査を行うのであるから、その場合に必要なのは、法律が一般的に違憲かどうかを決定することではなく、その事件に適用すると違憲といえるかどうかだけを判断すれば十分である( as applied scrutiny=適用審査)。

 しかし、司法府に違憲審査権が与えられている理由は、今ひとつ、憲法保障の目的がある。憲法保障機能を確保するためには、裁判所は、具体的事件について判断するに際し、その法律の文面」(on its face)を審査(facial scrutiny)し、文面の段階で違憲であれば、事件の具体的内容(司法事実)の審査を行うまでもなく、違憲と判断しなければならない(文面違憲)。

 ここで問題になるのは、第一に、どういう場合に文面審査をすべきか、ということであり、第二に、その場合にどのような判断基準を使用するのが妥当か、ということである。

 その答えとして、表現の自由の内容規制の場合には文面審査をすべきであり、その基準としては明確性の法理を採用すべきであるといわれる。その論理を米国版メープルソープ判決における尾崎行信判事及び同元原利文判事の反対意見においてみてみよう。意見は、北方ジャーナル事件判決中の上記に引用した箇所を、そのまま引用した上で、次のように議論する。

「この意味で、表現行為に対する事前規制を定める法律の規定は、その解釈により規制の対象となるものとそうでないものとが明確に区別され、かつ、合憲的に規制できるもののみが規制の対象となることが明らかにされている場合でなければならず、また、一般国民の理解において、具体的な場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読み取ることができるものでなければならない。もしこのような制約を付さなければ、規制の基準が不明確であるかあるいは広はんに失するため、表現の自由が不当に制限されることとなるばかりでなく、国民がその規定の適用を恐れて本来自由に行い得る表現行為までも差し控えるという効果を生むこととなる。このように解することによって、初めて憲法上保護に値する表現行為をしようとする者をい縮させ、表現の自由を不当に制限する結果を招来するおそれがないということができるのである。」

 すなわち、文面審査をとるべき理由は、国民一般の萎縮効果の存在にある。

 ここまでの論理の流れについては、税関検査事件昭和59年最高裁判所判決も完全に同一の考え方をとる。つまり、ここまでは誰もが基本的に同一の論文を書かねばいけない。

 59年判決は、ここから大きく修正を掛ける。

 修正を加えるにあたり依拠した論理は、当時税関検査の根拠規定が置かれていた関税定率法は、明治43年、つまり旧憲法下で制定された法律だ、ということである。

 普通、明確性の法理が適用される条文については、合憲限定解釈をとることは許されない。なぜならそれでは萎縮効果を防げないからである。しかし、関税定率法2113号の「風俗を害すべき書籍、図画」等の中に猥褻物以外のものを含めて解釈するときは、

「規制の対象となる書籍、図画等の範囲が広汎、不明確となることを免れず、憲法211項の規定の法意に照らして、かかる法律の規定は違憲無効となるものというべく、前記のような限定解釈によつて初めて合憲なものとして是認し得るのである。《改行》そして、本件のように、日本国憲法施行前に制定された法律の規定の如きについては、合理的な法解釈の範囲内において可能である限り、憲法と調和するように解釈してその効力を維持すべく、法律の文言にとらわれてその効力を否定するのは相当でない。」

として、「風俗」とは「性的風俗を害すべきもの、すなわち猥褻な書籍、図画等を意味するものと解する」のだという。

 それでは、性風俗と限定すれば、明確性があると言えるだろうか。言える、と最高裁は言う。なぜなら

「猥褻性の概念は刑法175条の規定の解釈に関する判例の蓄積により明確化されており、規制の対象となるものとそうでないものとの区別の基準につき、明確性の要請に欠けるところはなく、前記三号の規定を右のように限定的に解釈すれば、憲法上保護に値する表現行為をしようとする者を萎縮させ、表現の自由を不当に制限する結果を招来するおそれのないものということができる。」

 要するに、本規定を「一般国民の理解において、具体的場合に当該表現物が規制の対象となるかどうかの判断を可能ならしめるような基準をその規定から読みとることができる」から、表現の自由を不当に制限する結果を招来するおそれはないとしたのである。

 ここまで説明すると、米国版メープルソープ判決と日本版メープルソープ判決で結論が逆転した理由も理解できるであろう。米国版メープルソープ判決の時点では、同カタログが国内流通しているという事実はないから、波打ち際で防ぐという論理も通用する。ところが、日本版メープルソープ判決の時点では、既に国内で大量に流通しているのである。そこで、最高裁は言う。

「当該表現物の流通につき、その形態が公然としたもので当然に捜査機関の目に触れるものであるにもかかわらず、わいせつ物としての取締りを受けてその流通が止んでいたというような事情もなく、継続して通常の流通に置かれていたのであれば、前記のとおり表現の自由の重要性に基づき制限的な解釈をすべきことに照らして、従前の我が国での通常の流通の事実により、我が国における健全な風俗を害していなかったものと推定すべきであって、従前、当該表現物の流通によって我が国における健全な風俗がいかなる影響を受けていたか、また、当該表現物が我が国に持ち帰られることによって、それが持ち出される前の状態にいかなる変化が生じるかを具体的に検討し、それらを総合的に判断した結果、従前の流通によって我が国における健全な風俗が害されたと具体的に認められるか、その後の事情変更等の結果、当該表現物を輸入した場合には我が国における健全な風俗を害するものと認められる場合に初めて、当該表現物は4号物品に該当するというべきである。」

 ところで、本問の場合、冒頭に述べたとおり、取締根拠規定が関税定率法から関税法に移動している。つまり現行憲法下で制定された法であるから、そもそも合憲限定解釈を行う根拠が失われているのである。そうであれば、本問の事例では取締規定に明確性が欠如しており、したがって違憲・無効と単純に断定できることになる。

 おそらく、関税定率法の規定に合憲判決が下されていることから、単純にそのまま移行しても、合憲であると判断したのであろうが、明らかな立法のミスと言うべきである。