下級審の憲法裁判権

甲斐素直

 問題

下級裁判所の裁判権の行使に関し,「下級裁判所は,訴訟において,当該事件に適用される法令が憲法に違反すると認めるときは,その事件を最高裁判所に移送して, 当該法令の憲法適合性について最高裁判所の判断を求めなければならない。」という 趣旨の法律が制定された場合に生ずる憲法上の問題点について論ぜよ。

平成13年度司法試験問題

[問題の所在]

 問題の趣旨は、最高裁を憲法裁判所として位置づけ、下級審から憲法裁判権を奪うことは憲法に違反しないか、ということである。すなわち、ここでは、付随的事件訴訟という概念の中核を何に求めるか、ということが論点となる。

 本問の問題点をきわめて端的に述べた有名な判決が、警察予備隊訴訟における最高裁判所判決(最大昭和27108日百選[第5版]428頁参照)である。

 わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異るところはないのである

 この判決で明らかなとおり、本問の論点は、オーソドックスにとらえれば司法権とは何か、というにつきる。だから本問のような設問の代わりに「司法権の本質について論ぜよ」という1行問題ととらえても、ほとんど論点は変わらないことになる。例えば平成9年度の司法試験で次のような問題が出た。

「 住民訴訟(地方自治法第242条の2)の規定は、憲法第76条第1項および裁判所法第3条第1項とどのような関係にあるかについて論ぜよ。

 また、条例が法律に違反することを理由として、住民は当該条例の無効確認の訴えを裁判所に提起できる旨の規定を法律で定めた場合についても論ぜよ。」

 ずいぶん問題の形式は違うが、どちらも司法権の本質をどう把握するか、という点が中心論点という点において、答案構成はほとんど変わらない。典型的な類題ということができる。換言すれば、これが類題だと判る程度に問題を理解していないと、国家試験での合格は難しいわけである。

 司法権概念の話を聞いていない2年生もいることを考慮し、基本的な部分から改めて説明したい。

 

一 司法権の概念

 日本国憲法761項は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と規定して、司法権が裁判所に属することを明らかにしているが、その司法権がどのような権力なのかについては全く定義を与えていない。現代の通説・判例は、これに次のような定義を与える。

「具体的争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」

(清宮四郎『憲法T』新版、有斐閣昭和56年刊、330頁)

 なぜこのように、積極的な定義を下せるのであろうか。どのような説を採った場合にも、この点が本論文での第一の論点にならなければならない。清宮師は、次のように説明している。

「(戦前の司法制度は)フランスによって代表せられる、ヨーロッパ大陸の諸国で発達した制度に由来するものである。これに対して、日本国憲法は、イギリスやアメリカの制度にならって、司法とは、民事及び刑事の裁判のほか、行政事件の裁判をも含めて、すべての争訟の裁判を意味するものとなし、この作用を行う権能を司法権といい、すべてこれを裁判所に属するものとした。」

 この定義の中核は、冒頭にある『具体的争訟』という言葉にある。この言葉は米国合衆国憲法32節の司法権の権限が「事件又は争訟case or controversy」によって決せられることを明文で保障しているところに由来している。逆から言うと、この具体的争訟に限定される、ということをいうために、アメリカ法系の司法制度に変わった、という必要があるのである。わが憲法76条は、このような定義文言は存在していないからである。そして、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」という言葉が、この事件性の要件を定めたものと一般に理解されている。平成9年度の司法試験問題が裁判所法3条に言及している第一の理由はそこにある。第二の理由は、裁判所法3条が、その法律上の争訟に該当しない場合であっても、法律で特に定めれば、裁判所の権限を増大させることが可能であると述べている点にある。

 ここまで説明すると、本問の論点が見えてくると思われる。すなわち、司法権の本質が具体的訴訟を対象とするものであり、憲法81条が、違憲立法審査権の行使は具体的訴訟に限られる、という以上、憲法裁判の権限は、司法権の概念その者に含まれていることになるから、当然に下級審裁判所もその権限を有していることになる。

 このように司法権概念に、違憲審査権が当然に含まれる、というのは、わが国の判例であると同時に、アメリカにおいて、違憲審査の出発点となったマーベリ対マディソン事件においてマーシャルの論じたところでもある。その論拠は、わが国の場合であれば、981項の憲法の最高法規性と763項の裁判官の独立及び99条の裁判官の憲法尊重擁護義務に求めることになる。

「憲法は国の最高法規であってその条規に反する法律命令等はその効力を有せず、裁判官は憲法及び法律に拘束せられ、また憲法を尊重し擁護する義務を負う。〈中略〉従って、裁判官が、具体的訴訟事件に法令を適用して裁判するに当たり、その法令が憲法に適合するか否かを判断することは、憲法によって裁判官に課せられた職務と職権であって、このことは最高裁判所の裁判官であると下級裁判所の裁判官であるとを問わない。」

最大昭和2521日=百選[第4版]416頁参照。

 このように、違憲審査権が司法権の概念に含まれていると解する場合には、本問のように、違憲審査権を下級審から剥奪し、最高裁の専権事項とすることは、憲法761項に違反し、許されない、という結論になる。

 問題が、これだけのことであれば、本問は、非常にやさしい。すなわち、昭和25年の判決の論理だけでは、今日の憲法学における論文としては合格答案とは言い得ない。そこで、考えるべきは、先に類題と呼んだ平成9年度問題のメインテーマであった客観訴訟である。

 

二 具体的事件性について

(一) 通説・判例の問題点とその打開策

 先に紹介したかつての通説・判例は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」は、第一に当事者間の具体的権利義務又は法律関係の存否に関する紛争であり、第二に、法律の適用によって終局的に解決しうることをいう、とする(例えば警察予備隊訴訟最高裁判決参照)。

 その場合、客観訴訟が司法の本質とはかかわりなく、法律で付与された権限ということになってしまう。この結果、司法権という概念そのものが合憲性の司法審査を許容しているという考え方をとり、かつ、客観訴訟は具体的事件性がない、と考える場合には、客観訴訟は、司法権そのものの行使ではなく、法律によって特に裁判所に付与した権限に過ぎないと解することになる。したがって、そのような裁判の際に、違憲審査を行うことは、継受法解釈の原則に従う限り無理がある。したがって、従来の通説・判例にしたがう場合、客観訴訟では憲法判断は許されないと考えるのが妥当である。

 しかし、現実の憲法訴訟において、客観訴訟が占めている重要性(例えば住民訴訟による政教分離違憲判決、選挙訴訟による議員定数違憲判決)を考えると、これは戦後憲法訴訟の中核を否定するに等しい大変な問題である。だから、当然、今日の学説は何らかの工夫により、客観訴訟についても違憲審査を可能とする説を工夫せざるをえない。

 工夫のやり方は大きく分けて三通りある。

 第一は、司法権の概念は、事件性の要件を必ずしも要求していない、と立論することである。そうすれば、事件性の概念内容そのものは主観訴訟に限定しておいても、司法権の概念内容には客観訴訟を組み入れることが問題なく可能となり、違憲審査が可能となる。この場合、アメリカ法の継受という前提を捨てることになる。この場合には、違憲審査権の根拠は76条でよいように思える。しかし、現実には様々な理由から、この説の場合にも81条をとることができる。戸波江二、畑尻剛などが代表的な論者である。

 第二は、事件性の概念そのものは主観訴訟に限定し、したがって客観訴訟は司法権の概念に含まれない、という点までは、従来の判例・通説を維持しつつ、客観訴訟でも違憲審査は可能である、ということである。この場合、客観訴訟について行われる違憲審査を76条から説明することは不可能だから、81条は単なる注意規定ではなく、違憲審査権は本条によって特に裁判所に与えられた権限と解することになる。すなわち、司法権概念を継受当時のアメリカ法に限定する代償として、司法権が当然に違憲審査権を含むとするアメリカ法の最大の特徴を放棄することになる。そのように81条に根拠を求めた場合には、本問の立法は許容される余地が出てくる。佐藤幸治が代表的な論者である。

 第三は、事件性の概念そのものを拡張し、客観訴訟でも事件性の要件を満たしている、といえるようにすることである。そうすれば、司法権概念に具体的事件性を要件としつつ、司法権に客観訴訟が含まれるのだから、それについても違憲審査が可能となる。この説の場合には、本問の立法は無条件で違憲である。浦部法穂、高橋和之などが代表的な論者である。

 以上の要約で判るとおり、第三の説をとる場合には、81条は本問では全く論点にならない。76条の司法権概念の解釈論だけで議論はすべて終わることになる。第一及び第二の説をとった場合にのみ、81条が76条とは異なる独立の論点として浮上してくることになる。しかし、その場合でもまず論ずるべきは76条であることに変わりはない。諸君の中には違憲審査権と聞くと、条件反射のように81条について議論したがる人がいるが、そういう答案構成では決して合格点はとれないものと肝に銘じておかなければならない。

 なお、以下に並べた学説名は、いずれも私が便宜的に付けたもので、論者自身がそう名乗っているわけではない。

(二) ドイツ憲法説

 本問で書かれているのは、実をいうと、ドイツ司法裁判所と憲法裁判所の関係に関する現行制度である。要するに、ドイツ法をわが国現行憲法の下で、継受することが可能か、というのが問題の趣旨である。

 先に、戦前のわが国学説が大陸法を継受していたのに対して、戦後現行憲法がアメリカ法を継受したところから、戦後の学説が出発した、と述べた。しかし、現在のドイツボン基本法では、裁判所は憲法裁判に加えて、通常(民事及び刑事)、行政、財政、労働及び社会と半ダースに分かれ、それぞれ別の最高裁判所が設置されている。しかし、それにもかかわらず、各裁判権をすべて司法として一元的にとらえるという形式を採用している。裁判所に司法権(Rechtsprechung)が一元的に帰属するという観点からは、わが国現行憲法と同様の構造となっている。そして、司法権の内容に関するアメリカ憲法32項の規定に相当するものはわが憲法は持っていないのであるから、その欠落部分をドイツ法的発想で補完しても悪いはずはない。

 ドイツ憲法学では、司法権は一般に「法に関する紛争又はその侵害があった場合に、特別の手続きによって、有権的な、したがって拘束力ある判断を下す職務」と理解されている。これは、憲法裁判所による抽象的規範統制をもし法の概念に含めようとするところに基本的な狙いがある。したがって、この定義を仮にわが国で採用するならば、司法権の概念内容に客観訴訟を含めつつ、本問の問に対しては、肯定的な回答を与えることができるであろう。

 私の知る限り、わが国で明確にこの立場を宣言している学者はいない。しかし、戸波江二師の説は、非常にこれに近いものと思われる。次のように論じているからである。

「付随的審査制説をとる通説・判例には論理的に疑問がある。まず、付随的審査制説はその根拠として憲法76条の『司法』=『事件性』を重視するが、事件性の要件は必ずしも例外を許さない絶対的な要件ではないと解される。現に事件性を欠く訴訟が法定され、紛争にかかわらない憲法判断が示されていることは前述の通りである。次に、抽象的違憲審査制の観念自体が多義的であり、法律の合憲性を争って国会議員が提訴するという抽象的審査の他に、通常の訴訟制度で生じた憲法問題を最高裁判所に移送する制度などもある。さらには、付随的審査制説の指摘する憲法上の明文規定のないことは、必ずしも決定的な理由とはいえない。<改行>このように考えると、通説のように抽象的違憲審査制をとるには憲法改正が必要であるとは解されず、法律によって抽象的違憲審査制を導入することは憲法上可能であると思われる。このことは、憲法76条とは別に、特に憲法81条で違憲審査権について定め、そして、最高裁判所を、法令等が合憲かどうかを『決定する権限を有する終審裁判所である』とする規定の趣旨にも合致する。」

(戸波江二『憲法』新版、440頁より引用)

 ここでは、事件性の要件を司法権概念から外すという先に示した第一の立場が明確に示されており、その結論として極めて端的に本問の法制度が合憲であると述べられている。

 

(三) 法原理機関説

 佐藤幸治師の説は、第二の立場の代表である。すなわち、司法権の概念を在来の主観的訴訟にとどめ、したがって客観訴訟は司法権の内容ではない、としつつ、客観訴訟においても違憲審査権を認めようとする立場の代表ともいうべきものである。

 まず具体的事件性の概念について、次のように説く

「司法権の観念が歴史的に流動的なものだとしても、それが立法権や行政権と異なる独自のものとされるゆえんは、公平な第三者(裁判官)が、関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するいう、純理性の特に求められる特殊な参加と決定過程たるところにあると解される。これにもっともなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利・義務をめぐって理をつくして真剣に争うということを前提に公平な裁判所がそれに依拠して行う法原理的決定に当事者が拘束されるという構造である。」

(『憲法』第3版、青林書院平成7年刊、295頁以下より引用。以下同様)

 このように具体的事件性を把握する場合には、主観的当事者訴訟だけが許容されることになる。そこで問題となる客観訴訟についてはどう考えるのだろうか。その点については次のように説明する。

「裁判所が司法権を独占的に行使するということは、他方、裁判所は司法権のみを行使すること、換言すれば、裁判所が本来的司法権ならざる権能を行使してはならないこと、を直ちには意味しない。本来的司法権を核として、その回りには法政策的に決定さるべき領域が存在している。いわゆる『客観訴訟』の創設とか非訟事件の裁判権の付与などがそれである。裁判所法3条も、『その他法律において特に定める権限』という。が、法律により、裁判所に対し、本来的司法権ならざる権能を付与することについては、憲法上の限界があると解される。すなわち、付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、その決定には終局性が保障されなければならないと解される。〈中略〉行政事件訴訟法は、個人の具体的な権利・義務に関する訴訟(主観訴訟)を中心に、個人の権利利益の侵害を前提としない『客観訴訟』と呼ばれる、機関訴訟と民衆訴訟を例外的に認めている。この客観訴訟は、司法権の当然の内容をなすものではなく、法政策的権利から立法府によって特に認められたものであると解される。」

 つまり、ここでは司法権は一種の制度的保障として把握される。しかし、典型的な制度的保障のように、どのような権限を追加的に付与するのも完全に立法府の裁量に委ねられているわけではなく、@付与される作用は裁判による法原理的決定の形態になじみやすいものでなければならず、Aその決定には終局性が保障されるものでなければならないという、一定の限界があると説くわけである。そして、明言はしていないが、その条件を満たすならば、それについては違憲審査権を認めるとするものと考えられる。

 このように考える場合には、結局、違憲審査権は、司法権とは別に、981項及び81条によって裁判所に与えられた権限であると解することにより、客観訴訟についても違憲審査権を肯定することになるはずである。

 そうであれば、81条の解釈に当たり、立法裁量権を肯定し、本問のいうように、法律の定めるところにより違憲審査権を最高裁の専権事項とすることも可能という答えになるであろう。前に述べたとおり、この第三の立場をとる場合にのみ、81条は独立の論点として浮上することになる。

 この点、教科書には明確に書かれていないが、違憲判断の効力について、法律委任説を採っていることから、81条説であることが判る。76条説であれば、司法権概念によって判決の効力は決まるのであって、法律で自由に定めることができる、という結論はあり得ないからである。

 

(四) 公権的裁定説

 浦部法穂師の説く公権的裁定説は、第三の、司法権概念そのものの拡大を行う立場の一つの典型である。そこでは、具体的事件性の要件について次のように説明する(『全訂憲法学教室』日本評論社2000年刊319頁以下より引用。なお参照『注釈憲法』761項=浦部法穂執筆部分)。

「もともと裁判所というものは、権力支配の秩序維持のための国家機関として、社会に生起する個別的な紛争の公権的裁定を、その任務として与えられているものである。要するに、全体の統治=支配機構の中で、特に個別的な紛争の公権的解決を通じて秩序維持に仕えることを任務としている。だから、それは、はじめから、個別的紛争の存在を前提にして機能するものであり、そして、そこでは、公権的に裁定する必要性の認められる紛争だけが取り上げられることになるのである。」

 このように、公権的裁定の必要の有無が事件性を決定することになれば、その裁定の必要がある種類の事件か否かは、立法裁量の対象となる、と考えることが可能である。しかし、そこで、個別的事件性という点が歯止めとなると考えることになる。浦部法穂師に依れば、個別的紛争というには、次の二つの要件が充足される必要がある。

「第1は、法的に解決可能な紛争が具体的な形で存在していることである。法的に解決可能な具体的紛争とは、要するに、特定の者の法律上の地位・利害に関わる紛争である。〈中略〉第2は、その紛争が現実に存在していることである。つまり、その紛争が、特定の者の法律上の地位・利害をめぐる争いという形をとっていても、それが仮定的なものであったり、将来起こるかもしれないというものである場合には、現実の問題としてその紛争が生じたときに取り上げれば十分であって、そうでないのに裁判所が裁定する必要はない、ということである。」

 近時、アメリカにおいては、納税者訴訟あるいはクラスアクションというような形で、わが国の客観訴訟に類似した司法が、判例法の積み重ねの中で承認されるようになっている。すなわち、前に述べた主観訴訟に限定して事件性を理解する1910年代のアメリカ判例法で形成された司法概念は、アメリカにおいても維持することが不可能になっている。

 そこで、近時のアメリカ法における司法概念は、司法判断適合性の理念に基づいて構築されるようになっているが、この説はまさにそれを継受したものである。この説による場合には、客観訴訟は現実に法的に解決しうる紛争が存在している、という点において具体的事件性を充足しており、司法権の行使と判断されることになる。すなわち、司法権の内容として違憲審査権を肯定する立場を貫くことが可能になる。

 したがって、昭和25年の最高裁判決の論理をそのまま維持することが可能であるから、本問の場合には下級審から審査権を奪うことは違憲という答えが導かれるはずである。

 

(五) 法の支配説

 高橋和之師は、同じく、事件性の要件を拡大する、という第二の工夫を採用している。その拡大を、アメリカ法の部分的継受という形で説明する。すなわち、上記ドイツ法継受説でも説明したとおり、わが国現行憲法には、アメリカ憲法第3条第1節に相当する規定はあるが、第2節に相当する規定はない。だから、第2節でいう具体的事件性の要件は不要とするのである。

 その根拠としては、法の支配の理念から、権力分立制とつなげて説く、という独特の構成を示す。かなり複雑な説なので、その詳細はその原典に諸君自身で当たってほしい。(「司法権の観念」樋口陽一編『講座憲法学』第6巻、日本評論社1995年刊13頁以降参照)。

 その大きな特徴は、具体的事件性を要件としない、とするが、事件性そのものは、司法権の要件と考える点にある。すなわち、

「付随審査制においては『事件』の存在が前提となるということになる。しかし、ここにいう『事件』とは具体的事件に限定されない。司法裁判所に適法に係属した『事件』なら『抽象的』事件でもかまわない。たとえば、行政法学上民衆訴訟、客観訴訟と呼ばれている訴訟も含まれる。それらの『事件』の解決に付随して必要な限度で違憲審査をするのが付随審査制である。実際、日本の違憲審査制はこのような理解で運用されてきている。ゆえに、日本の違憲審査制が司法審査型であることは、司法の概念が事件性の要件を含まねばならない根拠とはならないのである。」

 この定義においては、司法権が受動的な権力であることが重視される。そこでは、活動の前提として提訴権を考えねばならない。では、その提訴権はどこから生ずるのか。すなわち、訴訟はいかなる場合に提起することが認められるのか。その点については、憲法32条の裁判を受ける権利であると主張する。すると、ここからさらに提訴権が認められるのは、裁判を受ける権利が認められる場合に限定されるかどうか、という問題が導かれる。 一部受験予備校の模範解答で、32条を論点としているものがあるが、それはこの説をとった場合にのみ浮上する論点であって、他の説の場合には、論点とはならない。

 かなり複雑な説なので、ここでは詳述を避けるが、本問との関連でいえば、司法権概念の本質としての付随的事件性概念はそのまま維持して、その一環として違憲審査権を考えるのであるから、下級審の違憲審査権を否定することは、違憲と考えることになるはずである。

 

三 抽象的事件審査について

 司法権の内容として、違憲審査権を含んでいると考える場合には、前に述べたとおり、本問の議論は76条のかぎりで終わってしまい、81条を独立の論点として論ずる必要はない。これに対して、違憲審査権は981項及び81条によって特に裁判所に与えられた権限であって、司法権そのものの当然の内容ではない、と考える場合には、81条の認めている審査権が、どのような内容のものかが独立の論点として浮上してくる。

 これについては、今日大きく分けて、81条自体も付随的事件訴訟を要求していると解する説(付随的事件訴訟説)と、どのようにするかは国会が立法によって定めうるところとする説(立法裁量説)の対立がある。

 付随的事件訴訟説をとる場合、次の三点を通常根拠として上げる。

 1 違憲立法審査権は司法の章に規定されており、通常の司法作用の一部として構成されていると認められること

 2 立法経緯に照らして、米国法を継受していると認められること

 3 通常の司法作用と異なる作用としての抽象的審査制を認めるのであれば、訴訟手続き、訴訟提起権者、違憲判決の効力等について、より詳細な規定があるべきこと

 このうちのどれか一つだけしか根拠としてあげない人がいるが、それでは合格答案足り得ない。なぜなら、どの理由も反論が可能だからである。これは、後述するとおり、三つ全部を並べて、その相互補強作用により、辛うじて根拠となりうる程度の薄弱な理由なのである。

 実際問題として、81条を76条とは別個独立の条文と解する場合には、当然これを否定し、立法裁量説を肯定するのが、説として素直な展開というべきであろう。反論を逐次紹介すると、次のようになる。

 第一点については、前述のとおり、ドイツ憲法裁判所は司法権の一環として把握され、現に司法の章に定められている点を指摘すれば、反論として十分であろう。

 第二点に対する反論は少々複雑である。おそらく諸君がこの理由を見れば、その通り、現行憲法がいわゆるマッカーサー草案を下敷きにして作られていることはよく知られているのだから、違憲審査制度についてもアメリカ法を継受しているというのに何の問題もない、と考えるであろう。ところが、実は、マッカーサー草案の違憲審査についての規定は、明確にアメリカ法の継受を排除する形で作られているのである。

 マッカーサー草案の実際の作成にあたったGHQ民政局のケーディス大佐以下の面々は、ルーズベルトボーイズと呼ばれ、ニューディール政策の実行に努力した者たちである。ところで、ニューディール政策が、アメリカ連邦最高裁の反動判決により大きく阻害されたことはよく知られている。その結果、GHQとしてはできる限り、裁判所の違憲審査権をそぐ方向で草案を作成したのである。草案では、いま現在の81条と異なり、次のように、かなり限定的なものであった。

73条第1

 最高裁判所は、終審裁判所である。法律、命令、規則又は処分の合憲性が問題となった場合に、最高裁判所の判決が第3章のもとで生じた事件又は同章に関連する事件についてなされたものであるときは、その判決は最終的である。しかし、法律、命令、規則又は処分の合憲性が問題となった場合で、最高裁判所の判決がそれ以外の事件についてなされたものであるときは、その判決は、国会の審査に服する。

 第2

 審査の対象となった最高裁判所の判決は、国会の総議員の3分の2以上の賛成投票があったときに限り、覆される。国会は、最高裁判所の判決の審査の手続きについての規則を定めるものとする。」

高柳賢三他編著『日本国憲法の制定過程』T巻295頁より引用

 改めて強調するまでもなく、裁判所が違憲審査権を付随的事件訴訟のみでしか行使できないとする場合には、そもそも第3章の人権以外の事件が起こる可能性はまず存在しない。すなわち、この第1項の定め方は、個人の権利義務に関わる事件以外についても、違憲審査が可能であることを予定していたと解する他はないのである。また第二項で、国会による審査があるということは、最高裁判所判決に抽象的規範の形成力を承認していることと等しい。すなわち、少なくともマッカーサー草案の存在を根拠としてアメリカ法を継受したとは言えないのである。

 なお、アメリカ連邦最高裁の違憲審査権の実際の行使は、条文上は実体的適正手続という概念に依存して行われているが、その根拠を与えないようにという配慮から、31条の英文でも、慎重にdue process of lawという言葉の使用を避けて、その面からも裁判所の権限の縮小をはかっていることも記憶にとどめて良いことである。

 わが国現行法にアメリカ法の継受があるというためには、現行憲法の制定時における衆議院における審議と修正に踏み込む必要があり、その場合にも、継受があった、と断定しうるか否かはかなり微妙な問題である。

 第三点に対する反論は簡単で、現行憲法で新たに導入された制度でありながら、詳細を憲法が定めず、法律にゆだねている場合は、17条、41条などをはじめとして多数存在していることを指摘すれば十分であろう。

 要するに、どれか一つだけの理由では反論を受けてそれきりになってしまう。しかし、一つ一つの理由は弱くとも、たくさんを並べれば、それ相当の説得力を持つ、というやり方しか、付随的事件訴訟説の根拠付けはできないのである。

 立法裁量説の方は、上記反論を並べて、国会の裁量と考えるべきであると結論づければよいことになる。

 この結果、法原理機関説をとる場合には、本問のような立法は、おそらく合憲という判定を下しうるのではないか、と考える。