救 済 法
甲斐素直
25年法律第147号)は、当初父系主義を採用していたが、昭和59年に女性差別撤廃条約を批准するに当たり、父系主義は同条約に違反するとの判断から、父母両系主義に改正された。次の事件は、事案説明に明らかなとおり、父母両系主義に改正される前の時点で発生したものである。その時点におけるこの訴えに対し、父系主義が憲法14条に違反しているという前提の下において、どのような判決を下すのが適切か、論ぜよ。 問題
わが国国籍法(昭和
Xは、アメリカ合衆国国籍を有する父Aと日本国籍を有する母Bの長女として、昭和52年8月24日東京都港区において出生した。Xの両親は、同年1月26日に婚姻しており、今後とも日本に居住する予定であって米国で生活するつもりはないので、Xを日本人として養育することを決意し、母Bが同年9月5日東京都港区長に対し、Xの出生届をするとともにXを自己の戸籍に入籍させるように申し出た。ところが、国籍法2条は、出生により日本国籍を取得する場合として、「出生の時に父が日本国民であるとき」(一号)、「出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったとき」(二号)、「父が知れない場合又は国籍を有しない場合において、母が日本国民であるとき」(三号)及び「日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき」(四号)のいずれかに該当することを必要としているため、港区長は、同月12日付書面をもって、国籍法2条各号の規定により原告は出生により日本国籍を取得できず母の戸籍に入籍させられない旨を通知してきた。
他方、米国の
1952年移民及び国籍法301条によれば、両親の一方を外国人として他方を米国市民として米国及びその海外属領以外で出生した者は、米国市民である親が子の出生に先立ち米国若しくはその海外属領に通算10年以上(そのうち少なくとも5年以上は14歳に達した後であること)居住したのでなければ、出生により米国国籍(市民権)を認められない、と規定している。ところが、父Aは、昭和3年にハルビンで出生し、同6年日本に、同8年旧満州に、同11年日本に移住し、同33年日本の大学を卒業後同35年米国に移住し、ニューヨークでC映画会社に入社し、社命により翌年日本に、同40年プェルトリコに赴任した。そして、同人は、同43年、プェルトリコ滞在中に米国への帰化を申請して同年5月23日その許可を受け、ついで右会社日本支社長を命ぜられて再度日本に移住し現在に至っている。このように、Aの原告出生前における米国若しくはその海外属領での居住期間は10年に満たないので、原告は出生により米国国籍を取得できないのである。そこで、Xは、出生による日本国籍の取得については父母の血統を平等に扱うべきであり、国籍法2条は憲法14条に違反しており、したがって出生の時に母Bが日本国民であるXは、出生により日本国籍を取得したものであることを確認を求めて、国Yを相手取って訴えを提起した。
[はじめに]
シャピロ・エステル・華子事件(東京高裁昭和
57年6月23日判決=百選第5版74頁)を救済法に限定して問題化したものである。憲法
98条1項によれば、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」から、本来、違憲判決に対する効力は、無効とすることである。確かに、裁判において問題となっている国民の権利が自由権に属する場合には、それに対する規制立法の違憲性を宣言することにより、違憲状態を終局的に解消することができる。なぜなら、憲法において自由とは国家からの自由を意味するからである。換言すれば、自由を制約する立法がある場合、その法を無効として排除しさえすれば、それにより自動的に、元の完全な自由が回復するからである。それに対し、本問に出てくる平等権の場合、自由権と同じく古くから知られている人権であるにも拘わらず、このような違憲=無効という論理によっては、違憲である法律の被害者を救済することはできない。
シャピロ・エステル・華子事件において、東京高裁は原告・控訴人に対し「誠に気の毒なことである」と述べつつも、結論的には次のように判決した。
「憲法によって裁判所に与えられた違憲立法審査権は、存在する規定についてそれが違憲であるかどうかを審査し、違憲と判断したときにはこれを無効として、つまりいわば存在しないものとして、適用しないことを本質とする。ある規定が実定法上に存在しないとき、それがいかに憲法上望ましいものであろうとも、違憲立法審査権の名の下に、これを存在するものとして適用する権限は裁判所に与えられていないのである。」
要するに、違憲立法審査権は、憲法
41条との関連において権力分立制を重視する場合には、その効果は立法の無効を宣言することに尽きるのであって、さらに進んで実質的に積極的な立法に属する活動をすることはできないとしたのである。このように考える場合に、国籍法が
14条違反と判断された場合にも、前回説明した事情判決の手法を使用して違憲宣言を下すに留まり、実質的な救済は、その違憲宣言に触発されて国会が、国籍法の改正を行わない限り不可能というのが一応の結論になる。しかし、その場合に、国会が判決を無視して、何もしなかったらどうなるのであろうか。そのような事態が発生した場合には、もう少し積極的な救済を行う余地が認められていない限り、事情判決の強制力が失われるのではないか、ということが論じられる。司法権が有する、その究極的な解決手段を救済法(remedial law)という。
一 ブラウン判決
救済法を語るとき、米国ブラウン判決を避けて通ることはできない。それは、立法・行政両権が長きにわたって無策であった状況下で、司法権が積極的に介入することで、問題を解決した事件である。そこで、ごく簡単にその概要を紹介しよう。
(一) その前史
米国合衆国憲法の人権条項は、本来は連邦に対する制約であって、各州の立法を規制するものではなかった。その状況を大きく変えたのが、南北戦争の終了を受けて、南部諸州の立法に干渉する目的で作られた修正
13条(1865年)、修正14条(1868年)、及び修正15条(1870年)である。これを受けて、連邦議会は一連の公民権法(Civil Rights Acts)を制定した。その一つ、1875年法は、黒人に対し、旅館、鉄道、船舶、劇場等の公共的施設を白人と対等に利用する権利を保障した。これに対し、連邦最高裁は、
1883年、この法律を憲法は私人間に適用がないことを根拠に違憲と判決した。これに勢いづけられた南部諸州は相次いで人種差別立法を行った。その一つにルイジアナ州議会が1890年に制定した「乗客の慰安を促進する法律」がある。同法は、鉄道会社に黒人専用車を増結する義務を課し、乗客は白人及び黒人専用車に振り分けて乗る義務を課していた。公民権グループは、祖母に黒人を持ち、その結果8分の1だけ黒人の血を持つプレッシー(Homer Plessy)に依頼して、同法の違反行為を行わせた。彼は外見上は完全に白人であるにも拘わらず、同法に依れば、混血児として黒人扱いになるのである。彼は裁判所で同法違反として300ドルの罰金を言い渡された。ルイジアナ州最高裁は全員一致で同法を合憲としたので、プレッシーは連邦最高裁に上告したが、1896年5月18日、「分離すれど平等“Separate but Equal”」は違憲ではないとして、連邦最高裁も7対1で合憲とした(Plessy v. Ferguson, 163 U.S. 537 (1896))。この判決は、ブラウン事件まで破られることはなかった。
(二) ブラウン判決(
Brown v. Board of Education of Topeka, Kansas)この事件の原告は、カンザス州トピーカ市に住む小学
3年生のブラウン(Linda Brown)であった。彼女は、カンザス州法が黒人と白人の通学校を分離することを認めていたため、自宅からわずか5ブロック離れた所に白人の小学校があるにも関わらず、21ブロック(約1.6km)離れた黒人小学校まで、危険な操車場を横断して通学しなければならなかった。リンダの父オリバー・ブラウンは娘を近くの白人校に入学させようとしたが、拒否された。そこで1951年に、トピーカ市教育委員会を提訴したのがこの事件である。1953年に連邦最高裁長官に就任したウォーレン(Earl Warren)は、連邦最高裁を率先指揮して、ウォーレン・コート(The Warren Court=1953?1969)と呼ばれるリベラルな判決で知られる一時代を築いたことで名高いが、その筆頭に来るのが、このブラウン判決である。連邦最高裁判所は1954年5月17日判決において、次のように述べた(第1次ブラウン判決=347 U.S. 483 (1954))。14条が採択された1868年に、あるいはプレッシー対ファーガソン判決の書かれた1896年に戻すことはできない。我々は、公教育をその完全な発展と全国におけるアメリカ人の生活の中での今日的位置に照らして考慮しなければならない。このような方法によってのみ、公立校における隔離が上告人から法の平等保護を奪っているか否かを決めることができるのである。」「人種だけを理由に彼ら(黒人)を年齢も資格も同じ他の者から隔離することは、社会における彼らの地位について劣等感を与え、彼らの心にいやしがたい影響を及ぼすかもしれない。」「公教育の分野において『分離すれども平等』の立場は存在し得ず、分離された教育施設は本来不平等である。」 「この問題に対処するに当たっては、我々は、時計の針を修正
しかし、影響する範囲が大きいため、救済については引き続き審理する、とした。翌
1955年5月31日、連邦最高裁は、黒人生徒を人種的に統合された学校に「適切な速度で(with all deliberate speed)」入学させるために、必要かつ適切な措置を教育委員会にとらせるため、事件を連邦地裁に差し戻す判決を下した(第2次ブラウン判決=349 U.S. 294 (1955))。すなわち、教育委員会は、連邦地裁の指示と監督の下に、適切な速度でそれぞれの管轄区域内の公立学校の人種統合を実現する義務を負わされたのである。換言すれば、裁判所が、立法府や行政府に代わって人種隔離制度の撤廃に向けての推進者としての役割を引き受けたことになる。実際には、トピーカ市では地方裁判所の判決後に選挙があり、政治状況に変化が生じていた。その結果、トピーカ市教育委員会では、
1953年8月には学校の統合作業に着手しており、1956年1月には全ての統合が完了していた。したがって、第2次ブラウン判決が実際に機能を発揮することはなかったのである。 なお、このブラウン事件における原告チームを率いたマーシャル(Thurgood Marshall)は、1967年に米国初の連邦最高裁黒人判事に就任した。
(三) スウォン判決(
Swann v. Charlotte-Mecklenburg Board of Education)南部諸州においては、ブラウン判決の「適切なスピードで」という言葉は絶好の逃げ口上となり、白人校と黒人校の統合は遅々として進まなかった。そこで、全米有色人種地位向上協会(
NAACP)は、第2次ブラウン判決の発動を狙った訴訟を計画した。北カロライナは穏和な地域で、統合への抵抗も他に比べると弱かったが、それでもシャーロット・メクレンバーグ教育委員会の校区をみると、若干の黒人は白人校に通学していたが、大多数は依然として黒人校に通学していた。そこで、公民権グループでは、
6歳のスウォン(James Swann)に訴えを提起させた。スウォンが選ばれたのは、彼の父親が神学の教授であり、地域からの仕返しを受けにくい立場だったからである。地方裁判所は、校区内の白人対黒人の人口比である71対29の比率を各学校で実現させるための対策を教育委員会に検討させるとともに、外部の専門家にも検討を依頼した。教育委員会は十分な対案を提出しなかったのに対し、外部専門家はバス通学を提案したので、地裁はこれを採用してして、同校区にある105校に上る学校を人種的に統合するよう命じた(このため、地裁判事は地域から阻害され、彼の事務所や自宅、車は爆破された。)。連邦最高裁はバーガーコート(
The Burger Court=1969?1986)* の時代に入っていたが、この命令の当否を巡る上告審で、最高裁判所は9対0で、地裁の決定を支持した(402 U.S. 1 (1971))。判決は、問題の地域が第2次ブラウン判決が出た後も、故意に人種隔離を維持し、地裁裁判官の忍耐強い努力にも拘わらず、承認を得られるような独自を案を推し進める明白な義務の履行を怠ったことを強調している。 この判決により、全米にバス通学が広がることになる。
二 わが国における救済法
(一) 学説の状況
ブラウン事件及びスウォン事件におけるバス通学の強制は、裁判所が実質的意味の立法と行政の双方を行使したことを意味する。このうち、行政については、わが国でも行政権の第
1次裁判権の講で説明したとおり、権力分立制論から単純に否定する説はなくなった。それでは、立法についての救済法を、わが国で導入することはどうなのだろうか。これは、基本的には先に、立法の不作為に関して説明した講で提起した問題に対応する。立法の不作為を争う方法としては、大きく分けて、通常訴訟による方法と、国家賠償法による方法があった。救済法が問題になるのは、このうち通常訴訟による方法である。そのとき、どのような判決を下しうるかが、ここでの中心問題である。
わが国では、この問題は、議員定数違憲判決との関連で論じられてきた。前講で論じた事情判決が、立法府から無視された場合に、司法府としてどのような対策があり得るかが問題になったからである。
積極説に立つ代表的な存在として、田中英夫の主張を、その論文「定数配分不平等に対する司法的救済」(ジュリスト
830号41頁以下)に述べたところに従って紹介しよう。わが国現行司法制度、特に違憲立法審査権に関して、米国法の継受という要素を否定する者はいない。そうであれば、米国の司法権に発動可能な救済法も、当然にわが国で可能と考えることができるはずである。それに対する反論としては、米国における救済法は、米国司法府特有の権限に基づくものであり、その点についてはわが国司法は継承していないという主張が存在する。具体的には、救済法は米国裁判所の有するエクイティ上の権限に基づいたものであり、日本の裁判所にはエクイティ上の権限がないからそういうわけにはいかない、といわれることが多い。
若干補足すると、ここにエクイティとは、衡平法裁判所あるいは大法官裁判所と訳される裁判所の準拠する法の意味である。イギリスにおいて大法官とは、法務大臣のことなので、大法官裁判所は行政処分的な活動を行いうるのである。すなわち、コモンロー裁判所が付与し得る救済が金銭賠償に止まるのに対して、衡平法裁判所は、ある行為をすること又はこれを自制することを直接禁止したり命じたりする権能があるとされる。米国裁判所は、コモンローとエクイティとの融合が大いに進められた以降のイングランド法を承継したので、連邦裁判所とほとんどの州裁判所では、同じ裁判所がコモンローとエクイティの双方を管轄する。それゆえ、原告は、一回の手続でコモンロー及びエクイティ双方の救済を得ることができる。
田中は、上記問いかけに対して、次のように答える。
「我々が問題とすべきなのは、エクイティという歴史的観念及びそれに由来する制度ではなく、こういう救済手段を裁判所が案出していくことが司法作用の本質に反するものとして許されないと考えるべきか否かという問題ではなかろうか。」
上述の論文では、記述の順序は前後するが、司法作用の本質について、田中は次のように、救済法は司法権の本質から来る要求であるとする。
「司法についての一つの基本原理は、裁判所は、紛争の解決に直接・間接に資する場合でなければ、訴訟を取り上げるべきではないということである。損害賠償とか差し止め命令とかいった、司法的救済手段の発動が予定されていない場合には、特段の事情がない限り事件を取り上げないというのが、(その法技術的内容は時と所によって異なるが)『確認の利益』が要求されることの基本精神なのではなかろうか。」
確かに、紛争の終局的解決が訴訟の一つの要件であることは、ほとんど異論のないところであろう。このことから、次のように結論づける。
「こういう角度からみれば、〈裁判所は政治問題については一切判断を示さないのがよいとする立場〉は、違憲と宣言する判決をしても、それが議会によって従われない可能性がかなりあり、その際に有効なエンフォースメントの手段を用意できない以上、空しい確認判決をすることは避けるべきであるという態度をとったものといえる。」
このように述べて、事情判決のように違憲を宣言した以上は、立法府がそれに従わない場合には、その終局的な解決を司法的手段で実現することを覚悟するのが、司法権の本質に合致すると主張する。
そして、実質的に積極的立法に該当する活動を行うことについては、次のように述べる。
「今日では、判例による法形成機能という点では、先例の『拘束性』に関するたてまえをはじめ、英米法と大陸法との間に質的差異は存在しない。わが国でも判例による法形成は盛んに行われている。」
と述べて、縮小解釈や拡張解釈、例文解釈などを例に引く。要するに、判例法の形成を肯定する場合には、その限度で実質的立法権を肯定できるとするのである。
こうして、議員定数違憲判決の場合、裁判所は必要とあらば定数表の作成をすることも可能であると結論する。
こうした主張は、例えば高橋和之も支持するところである(「定数不均衡違憲判決の問題点と今後の課題」ジュリスト
844号21頁以下参照)。あるいは芦部信喜も次のように述べて、基本的に賛成であることを明言する。269頁より引用) 「私は『裁判所による立法を認めることであり、司法権の本質から来る限界を超える』という批判には直ちに賛同しないけれども、この方法は、むしろ将来効的選挙無効判決との組み合わせの形で用いる方が実際的ではなかろうかと思う。」(芦部『人権と憲法訴訟』有斐閣
あるいは、平成
5年判決において、園部逸夫判事も、次のように意見を述べている。「選挙無効判決に併せて、国会に対して、速やかに議員定数配分規定の改正をすることを義務付ける判決をするか、あるいは、当該選挙管理委員会が判決の趣旨に従って再選挙を施行するために必要かつ具体的な方策を示すのでなければ、当該定数訴訟を提起した当事者の権利の救済に何ら資することにはならないと考える。〈中略〉私は、これらの手段を裁判所が案出することが司法作用の本質に反するものとは考えないけれども、諸般の事情にかんがみれば、現在の段階では、その機が熟していないといわざるを得ない。」
この場合、結論としては法廷意見に賛同しているのであるが、救済法は、少なくとも司法権の本質に反していないと考える点において、ここに紹介した諸説と一致している。
ここに紹介した諸説に見られるように、救済法はわが国でも可能と考えるのが、今日ではわが国でも多数派になっていると見ることができる。そこでの問題は、上記芦部論文や園部意見に見られるように、それをどの限度で承認し、あるいは限界を超えたとして承認しないとするのか、という基準になる。
(二) 高田事件
わが国で救済法を語るとき、避けて通れないのが、高田事件判決である(百選第
5版268頁)。少なくとも、この判決の論理の限度においては、判例も救済法を承認していると考えることができるからである。事件の概略を紹介する。被告人は、昭和
27年6月、愛知県瑞穂警察署高田巡査派出所等を襲撃する事件を起こして起訴され、公判が開始されていた。しかし、被告人は、同年7月に起きた大須事件(日本共産党とその傘下団体によるデモ隊が、火炎瓶を投げて警官隊に抵抗し、400人余が検挙され、騒乱罪の成立が認められた事件。デモ隊と警官隊のどちらが先に仕掛けたかが争点となって裁判が長期化した。)の被告ともなったため、大須事件の審理が優先された結果、高田事件の審理が中断した。大須事件の結審は昭和44年5月になったため、高田事件の審理が再開されたのは、同年6月になってからで、中断期間は15年以上に達した。そこで、弁護人は、再開した第1回法廷において、憲法37条1項が保障する迅速な裁判を受ける権利の侵害を理由に公訴棄却あるいは免訴による審理の打ち切りを申し立てた。第
1審裁判所は次のように述べて、これを受け入れた(名古屋地裁昭和44年9月18日)1条に掲げられた刑罰法令の適正且つ迅速な適用実現の理念は同法各条文を解釈運用する際の指針となるべきものであることを考えると、結局本件においては公訴時効が完成した場合に準じ、刑事訴訟法第337条第4号により被告人らをいずれも免訴するのが相当である」 「憲法に違反する訴訟遅延が生じた場合の被告人の救済方法について現行刑事訴訟法上は何らの具体的な明文規定を設けていないが、そのことから直ちにそのような訴訟遅延に対して裁判所が何らの訴訟法的措置を採らなくてよいとか、採るべきでないということにはならないのであつて、場合場合に応じて、憲法の理念を全うするべく、個個の法条を合目的的にかつ時にはある程度弾力性をもたせて解釈し、もつて妥当なる結論に到達するようつとめなければならない。本件においては、先きに述べた如く、その実体は正しく公訴時効が完成したかの如き効果が発生しているのであり、刑事訴訟法第
これに対して、控訴審裁判所は次のように判決した(名古屋高裁昭和
45年7月16日)「裁判の遅延からいかなる方法をもって被告人を救済するかは、立法により解決されるべき問題であり、法解釈によってこれを救済する余地はないものといわなければならない。いいかえると、刑事被告人の迅速な裁判を受ける憲法上の権利を現実に保障するためには、いわゆる補充立法により、裁判の遅延から被告人を救済する方法が具体的に定められていることが先決である。ところが、現行法制のもとにおいては、未だかような補充立法がされているものとは認められないから、裁判所としては救済の仕様がないのである」
そこで、被告人側から上告された。最高裁は次のように判決して、第
1審を支持した(最大昭和47年12月20日)37条1項の保障する迅速な裁判をうける権利は、憲法の保障する基本的な人権の一つであり、右条項は、単に迅速な裁判を一般的に保障するために必要な立法上および司法行政上の措置をとるべきことを要請するにとどまらず、さらに個々の刑事事件について、現実に右の保障に明らかに反し、審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判をうける被告人の権利が害せられたと認められる異常な事態が生じた場合には、これに対処すべき具体的規定がなくても、もはや当該被告人に対する手続の続行を許さず、その審理を打ち切るという非常救済手段がとられるべきことをも認めている趣旨の規定であると解する。 「当裁判所は、憲法
もつとも、『迅速な裁判』とは、具体的な事件ごとに諸々の条件との関連において決定されるべき相対的な観念であるから、憲法の右保障条項の趣旨を十分に活かすためには、具体的な補充立法の措置を講じて問題の解決をはかることが望ましいのであるが、かかる立法措置を欠く場合においても、あらゆる点からみて明らかに右保障条項に反すると認められる異常な事態が生じたときに、単に、これに対処すべき補充立法の措置がないことを理由として、救済の途がないとするがごときは、右保障条項の趣旨を全うするゆえんではないのである。
それであるから、審理の著しい遅延の結果、迅速な裁判の保障条項によって憲法がまもろうとしている被告人の諸利益が著しく害せられると認められる異常な事態が生ずるに至つた場合には、さらに審理をすすめても真実の発見ははなはだしく困難で、もはや公正な裁判を期待することはできず、いたずらに被告人らの個人的および社会的不利益を増大させる結果となるばかりであつて、これ以上実体的審理を進めることは適当でないから、その手続をこの段階において打ち切るという非常の救済手段を用いることが憲法上要請されるものと解すべきである。」
このように、本判決は、法律のない場合には、憲法の直接適用により問題を解決するという姿勢を示すことにより、問題を解決したものである。同様に、法律が不存在の場合に、憲法の直接適用により問題を解決するという手法は、河川附近地制限令事件でも採られており、救済法としては確立した感がある。
三 本問について
上記高田事件において、諸君に着目してほしいのは、[はじめに]において紹介したシャピロ事件東京高裁判決の論理と、高田事件名古屋高裁の論理が酷似している点である。いずれも、司法消極主義を固守し、そこから一歩も出ないという姿勢をとっている以上、必然的にこのような同一の結論が導かれることになる。
したがって、高田事件最高裁判所の論理に照らすとき、本事件においても、もう一歩踏み込む余地があったのではないか、ということが問題となる。ただし、大きな相違点としては、憲法
37条1項は、権利の内容について憲法自身が明言しているのに対し、国籍の場合には、憲法10条は、その具体的内容を法律に委ねるとしているため、立法裁量の幅が高田事件の場合よりも、明らかに広い点である。そこで、そこをどうクリアするかが、本問における議論の焦点となる。実をいうと、その点については判例においてはすでに解決済みの論理が存在している。議員定数違憲訴訟の場合、問題となる憲法
47条は、憲法10条と同様に具体的内容を法律に委ねるとしているからである。そこで、この問題の突破方法として、最高裁判所が採用した方法は、本問においても適用可能ということになる。国籍法
3条1項に関し、近時、最高裁判所が注目するべき判決を下したことは、諸君も知るとおりである(平成20年6月4日最高裁大法廷判決)。この事件の経緯もまた、高田事件と酷似している。すなわち、東京地裁が積極的に救済法を論じ(東京地裁平成18年3月29日判決)、東京高裁が消極説を論じ、最高裁は東京地裁の積極説に賛同して、原審判決を破棄自判したのである。この事件の背景を簡単に紹介する。シャピロ・エステル・華子事件が高裁判決で終わった理由は、わが国が女性差別撤廃条約を批准したことから、父系主義をとる国籍法が明らかに条約違反となり、昭和
59年に父母両系主義に国籍法を改正され、その附則で、日本人を母とする子について、国籍取得の特例が認められたため、もはやそれ以上争う必要がなくなったからである。18年東京地裁判決は、その59年改正法で新設された3条1項が、日本国民たる男性が出生後に認知しただけでは国籍が取得できず、父母が婚姻して準正が起こる必要があると定めた点が違憲ではないか、と争われた事件である。すなわち、同じ内縁関係であっても、母親が日本人である場合や、父親が胎児認知をした場合には国籍を取得できることとの比較において、明らかに14条違反と認められるからである。実は、この事件以前の最高裁平成14年11月22日判決において、3名の判事が補足意見において、国籍法3条1項を「憲法14条1項に反する疑いが極めて濃い」と明言したことにより、具体的にそのことが訴訟物となれば最高裁は違憲判決を下すだろうとの予測で提起された訴訟であった。
最高裁判決を紹介するよりも、第
1審判決を紹介した方が、詳しく述べられていて判りやすいと思うので、以下、本問と関連する限度で紹介する。
(一) 憲法
10条と14条の関係について本事件において、国側は、憲法
10条が予定する立法裁量権を根拠に、広い立法裁量を主張し、裁判所の審理権を原則的に否定し、したがって14条も適用がないと主張した。これに対し、地裁判決は次のように判断した。
14条1項によって禁止されるといわざるを得ない。 「国籍の得喪に関する要件の定め方において、立法府に広範な裁量が与えられているとしても、その結果生じた区別は、あくまでも憲法によって許される範囲内で認められるものにすぎないから、国籍の得喪に関する要件が定められた結果によって生じた区別が合理的な理由のない差別であれば、やはり、憲法
そして、国籍の取得は、我が国において基本的人権の保障を受ける上で重要な意味を持つものであることは多言を要しない。また、法の下の平等は、民主主義社会の根幹を成す重要なものである。これらの点を考えると、国籍の得喪に関する要件をいかに定めるかについては、立法府に広範な裁量が認められるとしても、それは自由に定め得るというわけではなく、国籍の得喪の要件における区別の合理性が必要であり、本件では、この点につき判断することが求められているものと解すべきである。」
諸君としては、別にこれを忠実になぞる必要はないが、こうした何らかの議論が必要であることは、判って貰えると思う。
(二) 条文の可分性
本問では条文が
14条違反であることが議論の前提だから、大きく二つの判決方法があり得る。第一は、何らかの合憲限定解釈の手法により、国籍確認の判決を下すことである。第二は、判決では規定の不存在の違憲性を確認するにとどめ、どのような立法で解決するかは立法者に委ねるという手法である。本問は、基本的には第一の道を選択した場合の解決手段を尋ねている。地裁判決は次のように答える。
Xが主張しているのは、国籍法3条1項全体の違憲無効ではなく、届出による国籍の取得を認める同項のうち、『父母の婚姻』及び『嫡出子たる身分』の部分の違憲無効であり、これが認められれば、同項によって、日本国民である父又は母の認知と届出のみによって日本国籍を取得することが可能となるから、Xの主張、すなわち、準正要件の違憲性を判断することには、意味があるということができる。」 「
そして、部分的に違憲というための憲法訴訟技術として、判決は、次のとおり、国籍法
3条1項が可分であると論じた。3条1項の基本的思想とは、(1)国籍法が基調とする父母両系血統主義を前提として、出生後に日本国民である父と法律上の親子関係があると認められるに至ったものの、出生時には、これが認められなかったために、同法2条1号によっては日本国籍を付与されなかった日本国民の実子について、父母両系血統主義を徹底、拡充するため、届出によって日本国籍を取得させようとしたものであり、(2)ただ、同じ日本国民の実子であっても、父親から認知を受けたにすぎない非嫡出子の場合は、父親と生活上の一体性を欠き、家族としての共同生活が認められないのが通常であって、そのため我が国との結び付きも強いものとはいえないという理由で、国籍付与の対象から除外したものであると理解することができる。そして、既に判示したところによれば、このうち、上記(1)の部分には合理性があるということができるが、上記(2)の部分には合理性があるということはできないことになる。 「(一) 国籍法
(二) そこで、上記(一)(
1)の部分と上記(一)(2)の部分とが不可分一体のものか否かについて検討するに、国籍法3条1項の要件のうち、上記(一)(1)と上記(一)(2)の立法者意思に対応する部分、すなわち、後者の準正要件と前者のその余の要件については、本来的、論理的には可分なものである。そうすると、法律の規定は、できるだけ合憲的に解釈すべきであるから、同項のうち、一部を違憲無効と解することで足りるのであれば、そのように解するにとどめるのが相当であるというべきである。」
本件で問題となっている国籍法
3条1項の場合、全体として一文であって、少なくとも見た目には、可分性があるとは言えない。しかし、時国康夫は、可分・不可分の判定基準として、次のような米国判例を引用している。259頁に紹介されている“Carter v Carter Coal Co., (298 U.S. 238〔1936〕)”より引用) 「可分、不可分の問題を解く正しいアプローチは、法案が議会に継続中に、いま違憲と判断した条文を削除する動議が出され多数の賛成を得たと想定してみて、それにも拘わらず、議会がこの条文と関連する他の条文を可決成立させるだろうかどうかを考究してみることである。」(時国「憲法上の争点を提起する適格」芦部信喜編『講座憲法訴訟第一巻』有斐閣
この主張は、先に救済法論者として紹介した田中英夫も、違憲判断の対象に関して、次のように述べているところである。
separabilityないしseverabilityの原理と呼ばれるものがあることは、高柳賢三教授以来紹介されているところである。この考え方によれば、裁判所は、原則として、法律の中で違憲な部分−特定の条項または条項の一部−のみを無効と判示すべきであるとされる。ただし、その部分が無効だということになるとその法律を制定した目的が達せられないと思われる場合−別の言い方をすれば、立法者はその条項無しでは立法しなかったであろうとみられるとき−には、全体を無効と判示すべきことになる。」 「アメリカにおける違憲立法審査制の運営に関して
文中の
separabilityないしseverabilityが可分性の意味である。これらは、スイス債務法
1条が、裁判規範としての条理について「自分が立法者ならば法規として規定したであろうと考えるところに従って裁判すべきである。」と述べているが、その発想を可分性に適用したものということができるであろう。すなわち、可分か否かは条文の構造自体が可分性を持っているかどうかで決定するのではない。それは立法技術上の問題に過ぎないからである。その代わりに、可分の法概念を含んでいるか否かで決定するべきなのである。本判決は、このように明確に述べている訳ではないが、本条に二つの異なる基本思想が含まれていると認定し、その上で、準正に関する基本思想を反映した文言は可分であるとして、それについてのみ違憲・無効という判断を示したのである。その結果、少なくとも判決の論理上は、積極的な立法行為形式を踏むことなく、原告の救済に成功している。
従来、わが国判例では、可分性に関しては、最高裁判所昭和
51年衆議院議員定数違憲判決が、選挙区が全体として可分なのか不可分なのかをめぐって多数意見と少数意見の対立があった程度で、あまり論じてこなかった。この点で本判決は注目すべき判決である。
(三) シャピロ・エステル・華子事件について
実は、シャピロ・エステル・華子事件において、原告は、基本的には上記判決と同一の主張を行っている。すなわち、東京高裁は、原告の主張を次のように紹介している。
2条1号『出生の時に父が日本国民であるとき。』について、右規定は、憲法13条、14条1項、24条2項に違反しているから、いわゆる合憲的解釈を行い、右規定中『父』とあるのを『父又は母』と解釈すべきであると主張する。」 「控訴人は、国籍法
したがって、上記可分性の議論をこれに加えれば、基本的には同一の解釈を導くことが可能になるのである。
[おわりに]
こうして、救済法を導入することが、本問においても可能と考えられるが、先の述べた第
2の道、すなわち事情判決を下すという方法も十分考えられ、事実、有力な学説であるから、きちんと書いてくれれば、高い評価の対象となる。ただ、その場合、本文中に紹介した様々な批判点をどう解決するか、については意識してしっかりと記述する必要がある。特に、裁判というものは、紛争の終局的な解決を目指して行われるものであるから、救済法を肯定せず、事情判決にとどめるということは、司法権の本質に反するのではないか、という批判にどう答えるかは重要な問題である。仮に、オーソドックスに、権力分立制から答えるだけでは、終局的解決につながらない事情判決を許容する論理を引き出すのは困難ということである。その場合には、司法権の発動を自制するというところまで踏み込む必要がある、という本文中に引用した田中英夫の批判までも意識した解答が必要となる。本問からは離れるが、第
3の道、すなわち、国家賠償訴訟で争うことはどうだろうか。これについては、否定的に考えざるを得ない。第一に、原告の目的は国籍を得ることであるため、単に違憲判決を得たり、金銭賠償を得るだけでは、問題の終局的な解決にはならないからである。第二に、立法の不作為を国家賠償法で争う場合には、在宅投票事件最高裁判所判決という壁がそびえている。なるほど、ハンセン病事件熊本地裁判決が、その壁を一部崩した。しかし、それは、犯罪者でも伝染性疾病の患者でもない人間を閉じこめ続けるという、立法裁量がゼロに収束している事案であった。それに対し、本問の場合には立法裁量権は基本的に尊重せざるを得ない事案である。判例に従う限り、原告の勝訴可能性はきわめて小さいといわなければならない。したがって、第3の道を模索することを考える場合には、在宅投票事件最高裁判決の論理そのものを正面から打ち崩す必要があることになる。