条約の司法審査

甲斐素直

問題

 平成○年、日本国政府(X)は、A国との間に軍事的内容を持つ条約を締結した。更に、同年、その条約がXに課した義務を履行するために、「A国との条約に基づく刑事特別法」を制定した(以下、「刑事特別法」という)。

 Yは、XがA国と条約を締結したことに反対して、日本国内にあるA国施設前に於いてデモを行い、デモ行進の余勢から施設内に乱入したため、刑事特別法に違反したとして逮捕、起訴された。

裁判において、Yは、刑事特別法制定の原因となったA国との条約は、軍事的内容を持っているために、憲法9条に違反して無効であり、その結果、それに基づく義務を履行する目的で制定された刑事特別法も無効であるので、無罪であると主張した。

 これに対し、Xは、裁判所による違憲立法審査権の内容を規定している憲法81条は「一切の法律、命令、規則又は処分」を列挙して、これらについての違憲審査権を裁判所が有していると述べており、この列挙事項からは条約が欠落していること、Xの無効主張の根拠となる憲法98条においても、1項では「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部」と列挙して、ここでも81条同様に条約が除外されていること、そして2項においては、この1項で敢えて除外した条約について「日本国が締結した条約…は、これを誠実に遵守する」と述べていることから見て、わが憲法は、裁判所による条約の違憲審査権を否定したものと考えるべきであり、したがって、そもそもYの主張について裁判所は審査するべきではないと主張した。

 Xの主張の、憲法上の当否について論ぜよ。

 

[はじめに]

 問題文に書いた、条約に関する憲法の文言解釈は、かつては憲法学界の通説とも言うべきもので、反対者は先ずいなかった。砂川事件最高裁判所判決は、これに反して、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」と述べて、違憲審査に関する明白性基準(狭義の合理性基準)説を採用し、例外的には違憲審査の可能性を肯定した。このため、古い時代の学者の支持を得られず、現在の憲法判例百選で、統治行為のタイトルの下に掲げられているのは苫米地事件であって、砂川事件ではないのは、ここに原因がある。

 これに対し、今日においては状況は逆転し、条約に対する司法審査を否定する学者は先ず以内状況にある。しかし、その場合には問題文におけるXの主張をどのような論理で退けるかについては、大変難しい問題となっている。

 わが国では、裁判所に違憲審査権が認められているが、その根拠を何条に求めるかについては、76条説と81条説という学説の対立があることは、諸君の知るとおりである。通説・判例の採る76条説ならば、81条の文言がどうなっているかは関係ないように思えるかもしれない。しかし、76条説も、81条を否定する訳ではなく、単なる注意規定と見るので、その条文が課している制限を完全に無視することはできないし、何かの論理で無視ししても、98条という壁が待っている。したがって、この文言解釈の壁を突破しない限り、条約に対する司法審査という問題は解決できないのである。

 以下、説明したい。

 

一 条約の法的性格

 条約は国際法である。それに対し、憲法は国内法である。そこで、この国際・国内2系統の法規範が相互にどのような関係に立つのかがかつては争われた。すなわち、両者は別系統とする2元説と、国際法を上位規範とする1元説である。

 しかし、この問題は、今日では立法的に解決されたので、理論として論じる実益が失われた。すなわち、条約法に関するウィーン条約は、国連が制定し、世界の多数の国が批准したことで、今日では憲法982項にいう確立された国際法規と認められる状態になっており、したがって超憲法的な効力を有している。

 その条約法条約は、条約と憲法の関係について、二つの条文をおいている。

 その1は、27条で、次のように述べている。

「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない。この規則は、第四十六条の規定の適用を妨げるものではない。

 先に述べたとおり、憲法は国内法であるので、条約の不履行理由として、その条約が憲法違反である、と主張することはできない、という意味である。ここでは、援用が禁じられているのであるから、憲法そのものが効力を持たない、ということではない。すなわち、2元説を採用していることが判る。

 今ひとつは、上記条文が引用していた46条である。次のようにいう。

「第1項 いずれの国も、条約に拘束されることについての同意が条約を締結する権能に

関する国内法の規定に違反して表明されたという事実を、当該同意を無効にする根拠として援用することができない。ただし、違反が明白であり、かつ、基本的な重要性を有する国内法の規則に係るものである場合はこの限りではない。

 第2項 違反は、条約の締結に関し通常の慣行に従いかつ誠実に行動するいずれの国に

とっても客観的に明らかであるような場合には、明白であるとされる。」

 1元説と2元説の対立が問題となるのは、特に、条約が有効に成立した後、事後に国会がそれを否決した場合の効果についてである。1元説に立てば、それは問題なく有効ということになる。他方、2元説に立てば、国内法的には憲法の要求する有効要件を満たしていないのであるから、過去に遡って無効になると考えるのが妥当である。一方、国際的にはそうした条約も、誠実な遵守義務が課せられていることになる。

 したがって、条約法条約の存在する今日においては、国内における憲法解釈として、わが国憲法が条約優位説を採っているか憲法優位説を採っているかとか、一元説と二元説のいずれをとっているか、という議論は全く無意味なものとなった。それに代わって、わが国憲法がいう国会の事後承認が、一般に条約法条約46条が要求している二つの条件を具備しているといえるかどうかという点に問題の焦点が移った。肯定されれば憲法が国際的にも優位する事になり、いずれか一方だけでも否定されれば、国際的には条約が優位する事になり、確定的にどちらかの説が正しいという議論は、もはや不可能なのである。

 国会の承認が条約の成立要件であるということは、憲法そのものの規定だから、「基本的重要性を有する国内法の規則に係るもの」であることは確かである。今一つの「違反が明白」かどうかについては、462項が更に詳しい解釈基準を与えている。先に述べたとおり、現行憲法の有権解釈としては、狭義の条約に限定してさえも、すべての条約が国会の承認を必要とするわけではない。そして、承認の必要性の有無は国内法の解釈ないし予算の配賦の有無にかかっているので、これらは「条約の締結に関し通常の慣行に従いかつ誠実に行動するいずれの国にとっても客観的に明らかである」事実とはいえないと考える。したがって、条約の制定手続きの憲法違反という瑕疵を根拠に、その対外的無効を主張することは、通常は困難と考えられる。したがって、原則論的にいえば、国際法的側面に関する限り、条約優位説にしたがって理解する必要がある。

 以上のことからいうと、解釈法学的には、国会の事後における条約承認の拒否は、意味のない行為といわなければならない。予備費の支出に対する事後の承認拒否決議が、法的に意味がないのと同様に理解することができるであろう。

 

二 条約と司法審査総論

 条約は大きく2種類に分かれる。自力執行可能(Selfexecuting)な条約と、自力執行不能(Non-selfexecuting)な条約である。諸君が確実に知っている条約の中から例をあげれば、国際人権B規約は前者に属するのに対し、国際人権A規約は後者に属する。

 すなわち、国際人権B規約の場合には、そこに定める人権を保障する国内法が存在しない場合にも、直ちに国内法として効力を有するから、裁判規範として機能する。諸君は、法廷において国家活動が国際人権B規約に違反していることを理由としてその無効を主張できる。

 これに対して、国際人権A規約は、締約国に義務を課するのみである。締約国が、そこに定める人権を保障する国内法を自主的に制定していない限り、法廷で、人権を侵害している国家活動の無効を主張しても、裁判所としてそれを取り上げることはできない。例えばA規約8条は全てのものの労働基本権を保障しているが、日本が公務員の労働基本権を制限する立法を堅持している限り、その条約違反を法廷で主張することはできない。

 

三 自力執行不能な条約における司法審査

 ほとんどの条約は、後者に属する。すなわち、国家が他の国家に対して負担する国際法上の権利や義務の関係を規定するのみであって、条約当事国における国家と国民の関係を規定するものではない。したがって、国家と国民の間に、条約をめぐって具体的争訟が発生する可能性は、そもそも存在しない。したがって、憲法訴訟の本質を付随的違憲訴訟と捉え、条約そのものを司法審査の対象とすることはありえない。

 もちろん、そうした国際法上の権利や義務を履行する必要上、当事国の一方において、国家と国民の関係に影響を与える立法を必要とする場合が存在する。例えば、先に挙げた国際人権A規約は、その締約国に対し、様々な立法を行う義務を課している。しかし、そうした立法は、通常の国内法制定の一環として制定される。したがって、その場合には当該法律が、司法審査の対象になっているのであって、決して条約が司法審査の対象になるわけではない。

 確かに、法律を司法審査するに当たっては、立法事実の検討が必要である(先に立法事実論として議論した)。すなわち、裁判所は、法律そのものが正しいものか、誤ったものであるかを審査するのではなく、その立法を支える諸事実に照らして、合理性を有しているか否かを審査するのである。

 条約が、政府に課している義務を履行する手段として法律が制定された場合、当然、当該条約は、その法律の合理性を審査するに当たっての立法事実の重要な一環をなす。立法事実に関しては、当事者主義は適用にならず、裁判所による司法確知(Judicial notice)の対象となる。立法事実が、条約というそれ自体、立法である場合には、その条約という立法の立法事実もまた司法確知の対象となる。このことは、決して条約が司法審査の対象になっていることを意味するものではない。したがって、Xの主張は、この場合には妥当しないのである。

 したがって、そこから先は立法事実がどの範囲で、立法に(本問の場合であれば刑事特別法に)合理性を与えているかどうかを、裁判所はどのような基準で判断するべきか(審査基準論)の問題となる。

 本問のベースとなった砂川事件最高裁判所判決は、国民主権原理の下において、国民自身が決定するべき重要な政治性を持っている案件であることを根拠に、この問題は、基本的に投票箱に委ねるべきであり、裁判所は自制するべきであるとして、明白性基準を採用することを明らかにした。

 すなわち、日米安保条約は、単に日本国政府が米軍に対して、基地提供の義務を課しているだけであって、日本国政府と国民の関係については規定していない。しかし、基地提供のためには、日本政府としては、国民の権利を制限する必要が生ずる。その典型が、砂川事件の根拠法であった「日本国とアメリカ合衆国との観の安全保障条約第3条に基づく地位協定に伴う刑事特別法」である。同法を審査するにあたっては、その立法事実の一環として必然的に地位協定や日米安保条約そのものが、司法確知の対象とならざるを得ないが、そのことは、法的に言う限り、条約そのものが司法審査の対象となったのではないのである。

 

四 自力執行可能な条約と司法審査

 本問に関しては、以上で議論は終わりであるが、参考までに、自力執行不能な条約について、本問と同様の紛争が発生した場合には、どのように考えるべきかを以下、説明しよう。

 自力執行可能な条約についても、自力執行不能な条約と同様に、改めてそれを国内法化するための法律を制定する必要がある、という憲法慣行を持つ国(例えばイギリス)もある。しかし、わが国の場合には、憲法に明文の根拠はないが、明治以来の慣行で、そのような条約の場合には重ねて国内法化する必要はない、とされている。すなわち、条約としての形式のままで、直ちに国内法としての効力を有するとされるのである。その結果、このような条約については、司法審査の問題が発生することになる。

 これについては、条約は、司法審査の対象から除外されるという有力説がある(宮沢俊義著・芦部信喜補訂『日本国憲法』では、それが通説とし、佐藤幸治第3345頁も同じ見解を示している。すなわちかつてそれが通説であったことは間違いない)。その根拠として、宮沢が指摘するのは、本文に書いたXの主張に見られる形式的な根拠に加え、実質的根拠として2点を挙げる。

@条約は、憲法第81条及び981項の列挙から特に除外されている、

A国家間の合意という特質を持ち、一国の意思だけで効力を失わせることはできない、

B極めて政治的な内容を含むものが多い、

 しかし、前述のとおり、国際法と国内法の2元説を採用する場合には、国内法としての側面に関して裁判所が審査権を有するのは当然ということができる。これがむしろ今日の多数説ということができるであろう。この立場からは、

@ 条約は、国際法的効力と国内法的効力を有するから、条約が81条に明記されていないことから、直ちに司法審査権を排除しているとまでは言えない、

A 国家間の合意という特質は、条約の国内法的側面の司法審査まで否定する意味を持つとは考えられない、

B 政治性が強い場合には、立法裁量論や統治行為論の適用可能性がでてくるだけであって、条約一般に司法審査権が及ばない理由とはならない、

という説明をすることになる。

 この説を採る場合、条約を81条のどの文言に、どのような根拠から含ませて理解するかが論点となる。大別して、法律に含ませる立場、命令に含ませる立場、及び81条のいずれの文言にも含まれないとしつつ「憲法全体の精神・構造を根拠に」実質的に司法審査の対象となるとする立場(佐藤幸治第3345頁)がある。基本書の見解にしたがって、議論を詰める必要がある。

 私自身は、法律に含まれるとする説を採る。なぜなら、先に述べた英国における憲法慣行こそが、国際法の基本的なスタンスであり、国内法化を要しないとは、単にそのプロセスを省略したに過ぎない、と考えられるからである。実際、英国においても、今日では、EU条約関連の諸条約など、一部の条約については、国内法化を要せず、国内法の効力を認めるようになっている。

 このように、条約に対して司法審査権が及ぶと考えた場合には、どのような場合にその審査権が制限されるかという議論を行う必要がある。これは、憲法訴訟における司法権論そのものだから、ここでは詳しい紹介はさけるが、個々の論文ではむしろこれが最大の論点ということになる。

 一般論として述べれば、基本として、司法積極主義に立つのか消極主義に立つのかがまず問題となり、議院ないし内閣の自律権という限界(形式審査の場合にはこれが主たる問題となる。)、統治行為、立法裁量論などのいずれを採用するかが第2に問題となり、さらに、その具体的な内容に応じて厳格な審査基準によるのか、合理性基準によるのか、ないしは例えば「一見明白に違憲無効」の場合には司法審査権があるとするかなどが問題とされなければならない。