信教の自由と内容中立規制
甲斐素直
問題
A教団は,理想の社会を追い求めて集団生活を営む信者のみが救済されるという教義を信奉しつつ活動する宗教団体であった。A教団には,「暗黒」な部分を除去しなければ理想社会は実現できないという信条を強く持つ信者も少なくなく,
200X年,一部の過激な信者達が,複数の官庁・企業周辺で同時爆弾テロを実行し,その計画,指示,実行に当たった教団幹部や信者は逮捕された。この同時爆弾テロは,A教団の活動として行われたわけではなかったが,A教団は自発的に解散せざるを得なくなった。その
2年後,A教団の元信者達は,同教団の幹部であった甲を代表として,新たにB教団を結成した。B教団は,A教団当時に行われたテロ行為について深い反省の意思を表明し,A教団との決別を宣言している。しかし,同時爆弾テロ事件で逮捕されなかったA教団の元幹部が全員B教団の幹部となっており,B教団の教典もA教団の教典と同一である。B教団の教義によると,信者は集団で居住して修行しなければならないことになっており,B教団結成に伴い,集団居住のための新たな施設を建設する必要が生じた。B教団は,かつてA教団の施設があった幾つかの都道府県で本部施設の建設を計画したが,いずれも反対運動が起こり,断念せざるを得なかった。そこで,B教団は,新たに信者となった乙がC市にまとまった土地(敷地面積
1200平方メートル)を所有していたことから,同土地の上に本部施設を建設することを計画した。当該施設は,本部機能を有するとともに,信者が集団で居住し,修行する施設となるものである。C市は,特例市(地方自治法第
252条の26の3第1項に基づき,政令による指定を受けた市)である。C市では,以前から,市民の間に良好な住環境を守ろうとする意識が強く存在し,行政もそれに積極的に対応してきている。C市は,安心して暮らせる安全で快適な住環境の維持に特に注意を払い,独自の「C市まちづくり条例」(以下「条例」と表記)を制定している。この条例は,都市計画法上の許可制とは別に,C市内の「まちづくり推進地区」に指定されている地域における1000平方メートル以上の開発事業(大規模開発事業)について許可制を導入しており,大規模開発事業を行おうとする者に対して,事前手続として,「周辺住民」の過半数が同意する開発事業協定の締結及び市との協議を義務付けている。そして,条例第18条第2項に定める要件に該当する場合には,市長は,当該開発事業を許可しないことができる。B教団本部施設の建設が計画されているD地区は,都市計画法上は都市計画区域のうちの市街化区域であり,条例上は「まちづくり推進地区」に指定されている。D地区は,C市の中でも住宅地区として人気が高く,常に各種ランキングで住んでみたい街の上位に位置していた。C市の相談窓口には,「周辺住民」ばかりでなく,B教団の本部施設建設計画を知った市民からも,問い合わせや要望が多数寄せられるようになった。
B教団の本部施設建設計画は,都市計画法上の許可要件を満たしている。B教団は,条例に基づいて「周辺住民」を対象とする事前説明会を開催した。この説明会には該当する住民の
90%以上が出席し,出席した住民からは「テロリスト集団を引き継ぐB教団の本部新設は絶対に認められない。」といった趣旨の発言が相次いだ。これに対して,B教団の信者から威圧的な発言があり,出席した住民は一層強い不安をかき立てられた。そして,B教団との間での開発事業協定の締結に同意する「周辺住民」は,一人もいなかった。市長は,B教団との事前協議の結果を踏まえ,条例第17条第2項に基づいて開発事業の中止を勧告した。しかし,B教団は,これに従わず,計画を実施する構えを見せた。そこで,市長は,条例第18条に基づいて,C市まちづくり審議会の意見を聴いた上で,B教団の開発事業計画を不許可とする処分を行った。B教団は,C市を相手どって当該不許可処分の取消し等を求める訴えを提起した。(出題者注:本問においては,「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」(平成
11年12月7日法律第147号)については考慮しないこととする。)Bは、不許可処分取り消しの訴えの根拠として、本件不許可処分がBの信教の自由を侵害していると主張した。Bの主張の当否について論ぜよ。
[はじめに]
見れば判るとおり、平成19年度新司法試験問題である。本問を提案されたとき、私は、基本的には諸君に書ける問題だと考えた。なぜなら、本問には大雑把に言えば二つの論点が含まれているが、いずれも今年、ゼミでのテーマとしてすでに採り上げた問題だからである。
すなわち、第一に法律と条例の問題があるが、それは9月17日に徳島市公安条例判決そのものを取り上げている。また、精神的自由と内容中立規制の問題については、5月28日に、泉佐野市民会館事件判決そのものを、これも取り上げている。だから、本問は、この二つのゼミ問題に対する小論文を、諸君が合格答案のレベルにまで高める努力を自分でしていてくれれば、単にその二つの答案を串刺しに記述するだけで、合格答案が基本的にはできあがる。その意味で、基本的には諸君の現在の実力で合格答案が容易に書ける問題なのである。
ちゃんとそのことに気がつけた人は努力をしていると思うし、それに応える意味で、ゼミ問題として取り上げて良いと考えたのである。
しかし、その後、考え直したのは新ゼミ生の諸君もいるである。それを考えると、これでは論点が多すぎて、論文としてまとめるのは辛いのではないか、と思うに至った。そこで、やはり絞り込みを行った方が良いと考えた。そこで、どちらの論点を残すべきか考えたのだが、そうなると、法律と条例の方が、問題としては若干難しい。簡単に答案構成を説明すると、@92条に言う地方自治の本旨を説明し、制度的保障における侵すべからざる中核概念として、団体自治、住民自治、補完性を述べる。A団体自治から条例制定権を説明し、94条に言う「法律の範囲内」は何を意味するかを論じる。B補完性から国と地方自治体の立法権の差異を説明する。Cここから都市計画法の法的性格が、ナショナル・ミニマムか否か、つまり上乗せ条例を許容するものかどうかを論じる、という論理の流れとなる。同法の立法趣旨を論じることは、憲法の問題と言うより、ほとんど行政法の問題になる。これは、おそらくほとんどのゼミ生諸君の能力の限界を超えている恐れがあると判断したのである。
念のため原問題に取り組んだ人のために付言すると、設問1でBの代理人として主張する場合には、都市計画法は規制の上限を定めており、上乗せ条例は禁じられると論ずればよい。理由としては、同法が財産権の自由に対する重大な侵害であることを強調すれば良いであろう。設問2に関しては、単純にこれを支持しておいても構わないが、そうすると自動的に他の論点は消えてしまうので論文としては余り好ましくない。しかし、ナショナルミニマムである、という確定的な回答を行う必要はない。というより、そのような確定的な回答を行うと誤答と評価されよう。なぜなら、都市計画法の法的性格をきちんと論じるに足るだけの立法事実が、問題に付されていないからである。したがって、憲法レベルの議論をきちんと展開し、その最後に「本問では、都市計画法の立法事実が明確ではないので、ナショナルミニマムか否かを確定することはできない。以下の諸論点については、同法がナショナルミニマムとしての法的性格を有することを前提として論じる」と結ぶのが最善である。
それに対して、精神的自由権と内容中立規制の問題は、泉佐野市民会館事件とは若干ずれるところがある。それは準パブリック・フォーラムに関する問題であったのに対し、本問は純粋パブリック・フォーラムに関する問題だからである。したがって、純粋パブリック・フォーラムでは、論理にどのようなずれが生じるかは改めて説明する価値がある。そこで、その点への絞り込みを行うこととした。本問が出題されたとき、法科大学院の学生でさえも、信教の自由との関係でも内容中立規制が論じられることが判らず、混乱していた者があったので、その意味でも、ここで、改めて取り上げておくことは大切と思われるからである。しかし、信教の自由は、学問の自由などとならんで、表現の自由の一環であるから、表現の自由で問題になることは、信教の自由でも考えることができるのは当然なのである。
なお、司法試験委員会から公表された本問の出題趣旨には、上述した2論点に加えて、今ひとつ、「人権の保障と民主主義の関係」という論点も述べられている。しかし、これは独立の論点と言うより、地方自治について議論を展開する中で、住民自治にどのように言及するかという意味で、第一の論点の一部である。したがって、上述のような絞り込みの結果、この論点も消えることになる。
一 精神的自由に関する内容規制立法に対する審査基準
本問では、問題となった土地の広さが
1200平方mであったために、1000平方mという制限を超え、条例の定める一定の手続が要求されることとなった。問題文に、条例の目的が「大規模開発事業」についての許可制という表現があることに明らかなとおり、本件条例は、典型的には市街化区域におけるマンション等の高層建築の建築に当たり、周辺住民との日照権紛争等を事前に解消する目的のものと見られる。すなわち、本来は、その建物に誰が入居し、どのような事業を行うかというような、活動内容に着眼した規制ではない。このように考えると、本件条例は、典型的な内容中立規制立法であると言うことができる。本問では、条例の規制限界を超える建物建設であったことから、条例による規制が問題になった。そして、大規模開発であることではなく、入居者が
Bであることが反対理由となって、Bは教団本部建物の建築を妨げられた。普通の宗教であれば、信仰はその信じる神と個々の信者の間の関係であるから、教団本部建物の建設が不許可になっても直ちに信教の自由に対する侵害とはならない。しかし「B教団の教義によると,信者は集団で居住して修行しなければならない」ため、集団居住のための施設建設が不許可になることは、直ちに個々の信者にとっての信教の自由の侵害になってしまうと言う特殊事情が存在している。その結果、本問は信教の自由との関係を考えなければならない。精神的自由権の内容を規制する立法に対する場合と、内容中立規制が結果として精神的自由権を規制する場合とでは、憲法解釈の手法が全く異なることになるので注意する必要がある。
信教の自由を含む精神的自由権の内容規制立法に対しては、通常は文面審査・文面違憲という解釈手法を採用する。
本来、わが国の憲法訴訟は、付随的憲法訴訟とされる。すなわち、具体的な事件が生じた場合に、その事件を解決するのに必要な限度で違憲審査を行うのが本来の姿である。そうであれば、違憲審査は、当該法令がその事件に適用される限度で審査(適用審査)し、その事件における適用に問題があれば違憲と判断(適用違憲)すれば、それで十分というべきである。
ところが、問題になるのが精神的自由権に対する内容規制立法の場合には、このような解釈手法を採ってはならない。なぜなら、立法が過度に広汎な文言を使っていたり、不明確な表現を使っている場合には、取り締まり当局が、法規範によって許容される限界がはっきりしない結果、本来は許されない規制を行った場合に、最終的に個別のケースで適用違憲とされて救済を受けても十分ではない。そのような立法が存在していれば、人々は規制を受ける危険を避けるために、萎縮し、その文言に確実に規制されないような行動だけを取るからである。これを萎縮効果(
Chilling Effect)という。付随的違憲審査制の下においては、裁判所が違憲立法審査権を有する目的は、その事件で権利を侵害された特定の人の救済である。しかし、それだけが違憲審査制度の目的ではない。憲法訴訟の今ひとつの重要な機能に憲法保障機能がある。裁判所は、人権の最後の砦として、可能な限り憲法が尊重されるよう、判決を下す義務がある。そして、その義務は萎縮効果を排除することを要請するのである。
ここから導かれるのが、文面審査(
facial scrutiny)という概念である。定義的にいえば「法令の合憲性を、その事件から離れて、法令そのものの文面において審査する」
ということである。司法審査の対象となっている事件を解決するためだけであれば、法律の文面がどうかなどと言うことを審理する必要はない。しかし、司法審査を行う機会に、違憲判決の持つ憲法保障機能を発動するためには、事件とは関係なく、文言の妥当性も判断するのである。その場合に使用する審査基準が、
Xの主張している過度の広汎性の理論ないし明確性の理論である。過度の広汎性の理論とは、次のように定義される。void for oberbreadth)とされる」(藤井俊夫「過度の広汎性の理論及び明確性の理論」芦部信喜編『講座憲法訴訟第2巻』347頁) 「表現活動を規制するある法律の適用範囲が過度に広汎であり、そのためにそれが憲法上保護されているはずの表現活動をも規制・禁止するものとなっている場合には、その法律は『過度の広汎性の故に無効』(
これに対し、明確性の理論は次のように定義される。
void for vagueness)とされる」(同上) 「本来は、刑罰法規はそれによって禁止・処罰を受ける個人に対して何が禁止された行為なのかが十分に判るような明確な文言で定められていなければならないとするものであり、したがって、不明確な文言が使用されていることにより、それが個人に対して『公正な警告』を発しているといえない場合には、その刑罰法規は『あいまいさの故に無効』(
つまり、
21条の表現の自由が問題になる場合には過度の広汎性の理論で対応し、31条の罪刑法定主義が問題になる場合には明確性の理論で対応するのが、本来は正しい。しかし、両者の内容は、実体面ではともかく、手続面で見れば類似したものがあるので、個々の言葉遣いに神経質になる必要はない。なお、この問題についてきちんと理解したい人は、芦部信喜『憲法学V』388頁以下も参照してほしい。このような文面審査がわが憲法訴訟において認められることは、例えば憲法
31条に関する徳島市公安条例事件(最大昭和50年9月10日)や憲法21条に関する税関検査事件(最大昭和59年12月2日)など、最高裁判所も繰り返し確認しているところである。例えば、税関検査事件判決は、次のように述べている。「基本的人権のうちでも特に重要なものの一つである表現の自由を規制する法律の規定が不明確であつて、何が規制の対象となり、何がその対象とならないのかが明確な基準をもつて示されていないときは、国民に対してどのような行為が規制の対象となるかを適正に告知する機能を果たしておらず、また、規制機関による恣意的な適用を招く危険がある。その結果、国民がその規定の適用を恐れて本来自由にすることができる範囲に属する表現までをも差し控えるという効果の生ずることを否定できない。したがつて、表現の自由を規制する法律の規定は、それ自体明確な基準を示すものでなければならない。」
したがって、仮に問題になった条例が内容規制立法であれば、まず文面審査を行い、曖昧性故に無効の法理で処理していく必要がある。例えば、
B教団本部の建設を規制する目的で、「宗教施設建設規制条例」というものを制定しているような場合がそれに当たる。それに対して、本問のような内容中立規制の場合には、適用する手法が全く異なるものとなる。
二 内容中立規制立法の合憲性に関する考え方
(一) 時・所・方法の規制とは
道路交通法という法律を、一つの例として考えてみよう。この法律は、「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図り、及び道路の交通に起因する障害の防止に資することを目的とする」ものである(同法
1条)。だから、この法律は規制により経済活動が制限されることはあるであろうが、本来的には精神的自由の規制を目的とした立法ではない。だから、二重の基準論による限り、経済的自由の規制立法として、合憲性は狭義の合理性基準を使用して審査すればよい。もちろん、文面審査をする必要はなく、適用審査でよい。しかし、同法
77条1項は「道路において祭礼行事をし、又はロケーシヨンをする等一般交通に著しい影響を及ぼすような通行の形態若しくは方法により道路を使用する行為又は道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為で、公安委員会が、その土地の道路又は交通の状況により、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要と認めて定めたものをしようとする者」は、「当該行為に係る場所を管轄する警察署長〈中略〉の許可〈中略〉を受けなければならない 」と定める。そして、デモ行進は憲法21条の保障対象であるが、同時にそれは間違いなく「道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」に該当する。つまり、表現の自由の規制に道交法を適用することは可能である。実際、使われたことがある(佐世保デモ事件=最高裁判所昭和57年11月16日判決=百選第5版184頁参照)。本問の場合に問題になっているのは「
C市まちづくり条例」である。同条例は、その目的を次のように定めている。この条例は,本市のまちづくりについて,その基本理念を定め,市,市民及び事業者の責務を明らかにするとともに,市民参加によるまちづくりを推進するための基本となる事項を定めることにより,市民が安心して生活できる安全で快適な,かつ,環境保護にも配慮したまちづくりを推進し,もって,C市らしい個性豊かで住み良い都市環境の形成に寄与することを目的とする。」 「
したがって、精神的自由規制を目的としたものではない。その内容は、C市内の「まちづくり推進地区」に指定されている地域(所)における大規模開発事業(方法)について許可制を導入しているというものであるから、いわゆる時・所・方法の規制に該当する。したがって、その条文の審査にあたっては狭義の合理性基準で十分であり、もちろん文面審査は必要ない。
しかし、
Bの教義が先に述べた特殊なものであったために、本来は、精神的自由権の規制という性格を持たない立法でありながら、結果として規制効果を発揮したのである。このように、場合によっては表現の自由の規制に利用可能なものを「表現内容中立規制」という。定義的にいうなら、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」である(芦部信喜「憲法学V」431頁以下参照)。
(二) 時・所・方法の規制における審査基準
そこで、問題は、このように本来は表現の自由とは関係のない立法が、表現の自由の規制手段として適用される場合でも、その合憲性審査に当たっては、原則に従って狭義の合理性基準で判断すればよいのか、ということである。
その答えは、一概には言えない、ということである。
常識的に考えて、その法律の原則に従った緩やかな違憲審査をする方が妥当な場合と、それよりも、より厳格度を上げた審査をするのが妥当な場合とがあることは判ると思う。例えば、深夜という時に、住宅街や病院・学校のすぐ脇という所で、拡声器という方法を使用して大きな音量で演説をするような行為を禁止するために適用される立法は、その演説の内容がどのようなものであるかを問題とするまでもなく、妥当であろうから、緩やかな審査で十分である。他方、選挙になれば、朝夕の通勤時間帯という時に、どの候補者も駅前広場という所にやってきて、支持を呼びかけを、拡声器を使った演説あるいはビラ配りという方法で行うものである。つまり、そうした時の駅前広場は伝統的に選挙活動のための場といえる。だから、そういう所での拡声器使用やビラ配りという方法の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。あるいは、深夜という時における住宅街という所であっても、自らの意見を書いたビラを各家のポストに投入するという方法は、一般的には規制する必要はないから、それを規制することに適用される立法は、厳格に審査した方がよい。
時・所・方法の規制とは、このように、表現の行われる時間帯、その行われる場所、あるいは方法により、規制立法の同一の法文に対して、異なる審査基準を適用しようという考え方なのである。
問題は、どういう時・所・方法であれば厳しく審査するべきで、どういう場合なら緩やかで良いか、というその使い分けの基準論である。いくつかの説が存在するが、我が国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、伊藤正己判事が現
JR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた事件の最高裁判所判決(昭和59年12月18日=百選第5版130頁参照)中の補足意見で、次のように述べて展開したパブリック・フォーラム(Public forum)論である。「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリツク・フオーラム』と呼ぶことができよう。このパブリツク・フオーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。」
このパブリック・フォーラム理論に対しては、学説的には批判が無いわけではない(例えば判例百選の時・所及び方法の規制に関連する各判例の解説参照)。しかし、判例としては確立した感があり、通説でもあるので、学生の論文としてはこれに依拠した形で論ずるのが一番無難な論じ方であろう。
どのような場所がパブリックフォーラム性を有するかは、その時に選択される表現方法等により異なる。デモ行進という表現手段を採用する場合には、道路とか公園といった人の集合できる場所が、パブリックフォーラムといえるかどうかが問題となる。これに対し、立て看板という表現手段を執る場合には、電柱とか街路樹といった看板を固定するのに適した場所がパブリックフォーラムといえるかどうかが問題となる。
本問の場合、宗教活動を行う自由を保障する場合に、その宗教活動の場を確保することが重要な意味をもつている。特に
B教団の場合、「信者は集団で居住して修行しなければならない」という教義を持っているから、修行のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、宗教活動は不可能になる。問題文によれば、問題の土地は市街化地域とされている。市街化区域は都市計画法に基づく都市計画区域のうち、既に市街地になっている区域や公共施設を整備したり面的な整備を行うことにより積極的に市街地を作っていく区域とされている。B教団の本部施設建設計画は,都市計画法上の許可要件を満たしているとあるから、宗教施設の設置に対するパブリックフォーラム性を肯定できると考えるべきである。
(三) 定義づけ比較考量論
少し基礎から説明すると、純粋のパブリックフォーラムの場合、例えば道路とか公園とか駅前広場の本来の設置目的は表現の自由の場として使われることではない。だから、その本来の用途との間での比較考量で、どの範囲まで表現の自由に供するべきかは考える必要がある。そこで、時・所・方法が妥当である結果、その条項を適用するに当たっては、通常の審査基準より一段階上に上げたもの、すなわち厳格な合理性基準で十分といえる。
本問の場合も一緒で、市街化区域は、決して専ら宗教施設を作るための場所ではなく、その地域の特性に応じた本来の用途との比較考量で判断していくべきことになる。
普通、比較衡量というと、博多駅ビデオフィルム提出命令事件に代表される個別的利益衡量論(
ad hoc balancing test=単純な利益衡量論)を使用する。事件ごとに、その事件限りの基準=秤を開発し、それにより事件を解決する、という手法である。しかし、そうした手法に頼らなければならないのは、事件ごとに衡量の対象となる問題が違っていることが大きな原因である。それに対して、時・所及び方法の規制の場合、比較するべき利益の一方は固定されている。表現の自由(本問であれば、そのうちの宗教活動の自由)である。このように概念内容が固定されているので、実際問題として、衡量するべきは他の秤の方だけということになる。
このような場合、表現の自由については定義を与えて固定する、という手法を採るので、定義づけ比較衡量論と呼ばれる。大分県屋外広告物規制条例事件において、伊藤正己判事が示した見解が代表的なものである。すなわち、
「それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れないというべきである。」
このように定義づけ比較衡量にとどまるのは、純粋パブリック・フォーラムの場合には、本来の用途ではないため、表現の自由が他の利益に一般的に優越するとは断定できないからである。そのため、他の利益との比較衡量に当たっては、基本的に等価的な比較衡量とならざるを得ない。但し、一方に載っているのが表現の自由であるために、より厳格度を増した審査が当然に要請されることになり、「原告側が違憲性を証明しない限り、合憲」というような判断には間違ってもならない。むしろ、国側(本問の場合には
C市)が反対側の秤に載るものを積極的に証明しない限りにおいて、違憲と判断されることになるはずである。本問の場合にも、秤の一方に乗っているのは、明確に概念内容が判明している宗教活動の自由である。だから、その意味で、これは定義づけ衡量を基本的には採用するべきケースである。
ここで、規制の厳格な審査とは、次の内容を持つ。すなわち、時・所・方法の規制を行うことは許されるが、許されるためには、その規制は米国連邦最高裁判所の判決が定立した基準によれば、
(1)重要な公共的利益に役立つべく厳格に定められており、
(2)他の選びうる十分なコミュニケーションの経路を残すものでなければならない。
この最初の基準が厳格な合理性基準に該当するものであり、後者の基準がいわゆるLRA基準を求めているものであることがわかると思う。ただし、これの場合には典型的なLRAとは逆に、他の代替手段の存在することが規正を合憲化する方向に働くことを看過してはいけない。
本問において、(1)の点に関して問題になるのは、
Bの母体となったAが社会的に危険な活動を行った団体であったところから、Bもその延長線上で評価されているのが妥当か、という問題である。この点に関し、試験委員の出題趣旨は次のように述べている。
「不許可処分の違憲性に関しては,安全・安心の確保と人権の保障との兼ね合いが問題となる。ここでは,B教団の「危険性」に関する評価が焦点となるが,資料に掲げられた事実の一面だけをとらえて,危険だから不許可は合憲,危険でないから不許可は違憲といった資料の読み方では不十分である。本問で前提となっているのは,教団の「危険性」への懸念にも一定の理由があるが,その有無・程度等には不確実な面もあるといった状況である。この文脈で,審査基準論が意味を持つ。審査基準論が用いられる文脈,意義・内容を正確に把握した上で検討することが求められる。」
要するに、冒頭に述べた都市計画法の立法趣旨と同様、ここでも確定的な判断を下すに足るだけの情報は諸君には提供されていない、ということをふまえ、認められるか認められないかは断言できない、という形で終えるのが最善である。
(2)の方は、かなり深刻である。
C市限りについて言えば、まちづくり地域から外れて建設すれば、あるいは大規模開発に該当しないレベルで教団本部を建設する場合には規制しないということになっているから、他のコミュニケーションの経路を残すものと言うことが一応は可能である。しかし、問題文によれば、「B教団は,かつてA教団の施設があった幾つかの都道府県で本部施設の建設を計画したが,いずれも反対運動が起こり,断念せざるを得なかった。」という事情がある。したがって、この地から閉め出されると、他のコミュニケーション経路を残しているとはいえなくなる可能性がある。しかし、この点についても、確定的に結論を下せるだけの情報は提供されていないから、論理の流れだけを示しておくことが最善の回答となる。