非嫡出子の遺留分
甲斐素直
問題
Xは、Aの認知を受けた非嫡出子であり、Yは、Aの養子である。Aは一度も婚姻したことがなく、Aの相続人は、この2名である。Aは、平成16年6月2日、Yに財産全部を包括して相続させる旨の遺言をし、平成17年6月10日死亡した。Aの相続開始時の遺産は187億9822万1175円と評価され、また、Aの相続開始時の債務は、23億3592万1610円である。
平成1
8年3月22日、Xが、Yに対し、遺留分減殺請求の意思表示をした。それにあたり、次のように主張した。「民法
1044条は、遺留分権利者の遺留分を侵害する遺言がある場合に、遺留分権利者に遺留分を保障するために、遺留分を侵害された相続人に対して遺留分に相当する相続財産を回復する権利を認める規定であって遺言者の意思によってその適用を回避することのできない規定であり、およそ補充規定ではあり得ない。そして、民法900条4号但書の規定は憲法14条に違反して無効である。また、最高裁判所大法廷判決は法律婚の尊重を言うが、本件相続においては、本件規定の立法目的である法律上の婚姻という保護法益が欠如しており、本件規定が適用される根拠がないから、原則に戻って、民法
900条4号本文が適用されるべきである。少なくとも本件規定は本件事案に適用する限りで違憲無効である。
したがって、Xの遺留分は
3分の1である。」X
の主張の憲法上の当否について論ぜよ。
[はじめに]
新聞報道に依れば、
2010年7月10日、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は、嫡出子と、非嫡出子の間に遺産相続の格差を設けている民法の規定が、「法の下の平等」を保障した憲法に違反するかどうかが争点となった遺産分割の家事審判の特別抗告審で、審理を最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允(ひろのぶ)長官)に回付した。したがって、近い将来に非嫡出子相続分に関しては、1995年最高裁判所大法廷判決が見直される可能性がある。したがって、これを今、勉強し直す価値は十分にあるであろう。回付の対象になったのは、家事審判事件で、和歌山県の女性が
2009年に、2002年に死亡した母の遺産を巡り、非嫡出子である弟との分割を申し立てたもの。和歌山家裁と大阪高裁は規定に沿った分割を命じたのに対し、非嫡出子の弟は「規定は憲法に反し無効」と主張し、相続分を嫡出子側と平等にするよう求めて最高裁に特別抗告していた。この事件が具体的にどのような内容のものであるかについては、これ以上公表されていないので不明である。
そこで、それに代えてここに取り上げたのは、東京高裁平成
22年3月10日判決のものである(実際の事件では養子が二人おり、したがって遺留分が10分の1か6分の1かが争われているが、事件の本質とは関係がないので単純化している。遺産額は論理的には上げる必要はないが、遺留分の差異の持つ影響を感じて貰う狙いであげておいた)。見れば判るとおり、1995年大法廷判決が、その合憲判決の法的拠り所とした法律婚の尊重という理由が存在しない事例である点に第一の特徴がある。また、大法廷判決となった事件では、相続分が争われ、その場合には被相続人の意思が、非嫡出子を差別することにあった点が明白であったことから、民事法的な合理性も存在していた。しかし、本件では被相続人の意思とは無関係の遺留分が争われており、その点でも大法廷判決の妥当性が失われている事件である。本件も最高裁判所に上告されており、上告自体は受理されているので、おそらく上記回付された事件とあわせて、あるいは同時期に結論が下されるものと予想される。
一 平等の意義
14条は、法の下の平等というが、ここに、法というのは、法の支配(rule of law)とか、法定の手続きの保障 (due process of law)と言うときの法(law)であるから、法的正義を意味する。
諸君は法学の時間に、法的正義の概念について習ったと思う。簡単に復習すると、アリストテレスは、正義を第一段階においてソクラテスの説いた遵法的正義として理解し、第二段階で、今日形式的正義として知られている概念を説いた。形式的正義は、対等当事者間を支配する交換的正義と、国家と国民の関係を支配する配分的正義(英:
distributive justice、独:Verteilungsgerechtigkeit)に分類された。憲法は、後者の典型的な法であるから、それを支配するのは当然に配分的正義である。配分的正義は、「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」という法諺に示される。これが平等権である。 つまり、平等権とは、その名に反して、実は権利そのものではなく、配分的正義がむき出しに規定されたものであり、その意味で、平等原則というのが正しい。ここから「合理的差別」という概念が導かれる。なぜなら、平等原則は「等しきものは等しく」扱うことだけを要求しているのではなく、「等しからざるものは等しからざるよう」に扱うことも要求しているからである。等しからざる場合までも等しく扱った場合には、かえって正義に反することになる。したがって、ここで、論じなければならないのは、何をもって等しいと考えるか、という基準をどこに求めるか、という問題になる。
判例は、このことを「合理的差別」という用語を用いて述べている。
14
条は「国民に対し絶対的な平等を保障したものではなく、差別すべき合理的な理由なくして差別することを禁止している趣旨と解すべきであるから、事柄の性質に即応して合理的と認められる差別的取扱をすることは、なんら右各法条の否定するところではない。」(最高裁判所大法廷昭和39年5月27日判決)少し角度を変えて説明すると、配分的正義に反すると認められるあらゆる場合は、平等権違反として論じることができる。すべての有名基本権は配分的正義を確保するために論じられているのだから、常に
14条違反という議論が成り立つ。しかし、それでは議論を無用に煩雑化するものであるので、13条の幸福追求権から導かれる無名基本権と同じく、14条についても補充性を肯定する必要がある。すなわち、14条の平等権とは、15条以下の有名基本権や13条の幸福追求権としては説明できないが、しかし、配分的正義に反すると認められる場合に問題になるのである。
二 憲法適合性判断基準について
憲法
14条1項後段列挙の「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」は、不合理な差別を例示したものである。これらが単なる例示である、とする説が長らく通説・判例であったが、近時、これに対し、特別の意味を持つ規定であるとする説が勃興し、有力に唱えられている。学界全体としては依然として少数説であるが、国家試験に通用するレベルの教科書に限定すれば、それの方がむしろ多数説の感さえある。今日において、人権を論じる場合、その中心論点は憲法適合判断についての基準を何に求めるかである。単なる例示とする従来の通説と、特別の意味があるとする少数説が、ここで大きく議論が分かれる。
(一) 従来の通説に立った場合
従来の通説の場合には、基本的には二重の基準論の平等権における特殊バージョンを論じることになる。精神的自由権に関連した平等権侵害の場合には、厳格な審査基準を適用して論じる(ここでは説明の手を抜くが、諸君がこの立場で書く場合には、当然、なぜ精神的自由権関連の場合には厳格な審査基準が求められるのかを、きちんと理由を挙げて論じなければいけない)。そして、経済的自由権に関連した平等権侵害の場合には、狭義の合理性基準が適用されなければならない。そして、その中間領域は中間審査基準(厳格な合理性基準)が適用される。
本問の場合には、非嫡出子という社会的身分に基づく差別であって、それは精神的自由権とも経済的自由権とも関連しない。その結果、この場合には中間審査基準が妥当する。高裁以下のレベルの判例には明確にこの立場をとるものが少なくない。例えば、非嫡出子の相続分に関する東京高裁平成
6年11月30日判決(判例時報1512号3頁)は次のように述べている。13条、24条2項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」 「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法
なお、最高裁判所は、平等権が問題になった事件においては、すべて狭義の合理性基準で対応している。それは、非嫡出子相続分合憲判決のような場合だけでなく、尊属殺違憲判決のような場合にも一貫して採用している。
(二) 特別意味説に立った場合
今日、国家試験レベルの教科書の場合には、上述のとおり、ほとんどが特別意味説を採用している。しかし、ここで気をつける必要があるのは、統一的な特別意味説というものは存在しておらず、学者の数だけ説があると言える状況にある、ということである。それを例示しても良いのだが、大変繁雑なことになる。おそらく諸君の大半は芦部説に依っていると思うので、以下、そのポイントをと説明する。他説を採る人は、この芦部説との差異を自分の基本書で相違点を確認していって欲しい。
1 特別意味の根拠
この立場では、まずなぜ特別意味があると解釈するのか、という理由付けが必要である。芦部信喜は、自分では特段の理由を挙げず、基本的に伊藤正巳野主張を支持している(芦部信喜『憲法』第
4版127頁)ので、伊藤の見解を紹介すると次のとおりである。3版249頁) 「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また違憲を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第
本問のような事例が果たして民主主義から説明が可能なのか、疑問があり、実際他の学者の批判はこの点に向けられているが、芦部説支持者としてはこのように述べておけばよい。 あるいはもう少し踏み込んで次のような表現まで書いておけばよりよい。
Xの主張) 「このような事由に基づく差別が民主主義における基本理念である個人の尊厳ないし尊重に著しく反するものとして、憲法が特に列挙するものである。これらの事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。」(本問のベースとなった事件における
厳密に言うと、これは民主主義ではなく、個人主義をベースに論じたものなのだが、基本書の枠を守りつつ、その弱点を補うものとしての工夫である。
2 使用する審査基準
芦部説の最大の特徴は、次のような基準による三段階審査を主張する点である(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学V 人権各論(
1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。27頁) @ 人種や門地による差別=厳格な審査基準(
A 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(
30頁)B 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(
29頁)この芦部基準を、本問に当てはめると、非嫡出子が門地に該当すると考えた場合と、社会的身分に該当すると考えた場合では審査基準が違うことが判る。このように、特別意味説を採った場合には、列挙事由のどの文言に、どういう理由から外とすると考えるのか、ということが、極めて重大な論点になる。
そのあたりになると、基本書には書かれていないので、諸君自身で考えて、いずれに該当するのか、その理由は何なのかをしっかりと書けるかどうかが論文の合否を決めることになる。
厳格な審査基準をとるにせよ、厳格な合理性基準をとるにせよ、次に来るのは、そこで求められる二つの基準、すなわち第一に立法目的、第二に目的と手段の関連性の二つが引き続き問題となる。
(イ) 本件規定の立法目的
最高裁判所大法廷
1995年判決の説いたところに依れば、本件規定の立法目的は、婚姻関係にある配偶者とその子を優遇し、婚姻関係外において出生した非嫡出子を差別して不利益に取り扱うという方法により法律婚を尊重し奨励することに他ならない。これを肯定するか、それともそれは非嫡出子の個人の尊厳を著しく損なうものであって、憲法
24条2項に反するものであると論じるかは、諸君の価値観の問題である。。(ロ) 立法目的と規制手段との間の関連性
実は上記大法廷の論理は少々破綻しているところがある。生存配偶者の相続権は、相続財産の
2分の1とされており、非嫡出子の相続分を嫡出子と平等にしたからといって、配偶者の相続権が侵害されるわけではないし、非嫡出子の相続分を差別したからといって、配偶者の相続分が増加するわけではない。また、非嫡出子の相続分を差別する規定を設けても、その父母の婚外関係の発生の抑制、非嫡出子の出現の抑制という法律婚を奨励する効果を期待することはできず、このような効果は証明されていないからである。更に重要なのが国際人権規約との関係である。国際人権B規約
26条は、すべての者は法律の前に平等であり、出生又は他の地位等のいかなる理由による差別に対しても平等かつ効果的な保護をすべての者に保障すると定めている。また、児童の権利条約2条1項は、児童に対し、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、確保すると定めている。そして、B規約及び児童の権利条約はいずれも、自力執行可能な条約であり、同規約の法規範性を担保する目的で設けられた国連規約人権委員会から、平成10年11月に、本件規定を含め法制度を改正するための必要な措置を執るよう勧告され、さらには平成15年8月には、国連女性差別撤廃委員会から非嫡出子の相続権に関する法律上の差別及びそれが女性にもたらす重大な影響を懸念して差別を是正するための立法を導入するよう勧告を受けている。したがって、大法廷のように狭義の合理性基準を採用すればともかく、より厳格度を増した審査基準を取る限り、非嫡出子差別が合理性を持たないことは明らかである。
(ハ)本件相続の特殊性について
本問の面白いところは、最高裁判所の論理を採用しても、依然として少なくとも適用違憲の結論を導きうる点である。
東京高裁はまず次のように述べて、最高裁判所と同じスタンスを取ることを明示する。
2分の1としたことが、上記立法理由との関連において著しく不合理であり、立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えたものということはできないのであって、本件規定は、合理的理由のない差別とはいえず、憲法14条1項に反するものとはいえない(この点は、最高裁平成7年7月5日大法廷判決・民集49巻7号1789頁以下の累次の最高裁判決等が判示するところである。)。」 「現行民法は法律婚主義を採用しているのであるから、上記のような本件規定の立法理由にも合理的な根拠があるというべきであり、本件規定が非嫡出子の法定相続分を嫡出子の
しかし、その上で、次のように述べる(名称を本問にあわせて修正している)。
被相続人であるAは一度も婚姻をしたことがないのである。Yは養子で、Aの嫡出子ではあるが(民法809条)、婚姻関係から出生した嫡出子ではないから、本件事案に本件規定を準用してXの遺留分を嫡出子の遺留分割合の2分の1にし、Yの取り分を増やすことは、法律婚を尊重することには何ら結びつかないものである。すなわち、被相続人につき婚姻関係が成立していない本件事案において、本件規定を準用して本件区別をもたらすことと立法理由との間に直接的な関連性は認められず、法律婚の尊重という立法理由からは、その合理性を説明できないというべきである。本件規定は、もともとその規定ぶりがその立法目的に照らして広汎過ぎるといえるのである。確かに、法制度である以上、ある程度割り切ってどこかで一律に線を引かざるを得ない面があるといえるが、本件区別によりXが被る不利益は、以下のとおり、決して僅少なものとはいえないのである。すなわち、被控訴人は、遺留分が嫡出子の2分の1となるという重大な財産的不利益を受けるだけではなく、法律婚関係にない男女の間に生まれたという本人の意思や努力によって変えることのできない事情によってこのような差別的な取扱いを受けることにより、精神的に大きな苦痛を被ることになるのである。それは、平等原則、個人としての尊重、個人の尊厳という憲法理念にかかわる問題である。また、立法当時と比較すると、その後の社会情勢、家族生活や親子関係の実態、我が国を取り巻く国際的環境等は、著しく変化をしているのであり(公知の事実)、本件規定及び本件区別を正当化する理由となった社会事情や国民感情などは、本件相続発生当時の時点(平成7年)でみると、もはや失われたのではないかとすら思われる状況に至っているという点も考慮しなければならない。すなわち、我が国における社会的、経済的環境の変化等に伴って、夫婦共同生活のあり方を含む家族生活や親子関係に関する意識も一様ではなくなってきており、本件相続発生当時においても、少子高齢化に伴う家族形態の変化、シングルライフの増加、事実婚ないし非婚の増加、出生数のうち非嫡出子の占める割合の増加の傾向など、家族生活や婚姻関係の実態も変化し、多様化してきていたことは公知の事実である。また、ヨーロッパ諸国においては、非嫡出子の増加現象が1つの契機となって、おおむね1960年代ころまでに、非嫡出子の相続分を嫡出子の相続分と同等とする法改正を行っているし、我が国においても、本件規定は法の下の平等の理念に照らし問題があるとして、平成7年ころに同趣旨の改正要綱試案が公表され、本件相続発生時からまもなくの平成8年2月には法制審議会が同趣旨の民法の一部を改正する法律案要綱を法務大臣に答申したという状況にある。また、我が国が平成6年に批准した、児童の権利に関する条約2条1項には「締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の(中略)出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。」との規定が置かれているのである。このような点に照らすと、本件規定及び本件区別を正当化する理由となった社会事情や国民感情などは、本件相続発生当時の時点(平成7年)でみると、もはや失われたのではないかとすら思われる状況に至っているのである。 「
このような諸事情を総合考慮すると、本件規定ないしこれを準用する民法
1044条が法令として違憲・無効であるとはいえないにしても、これを本件事案に適用する限りにおいては、違憲と評価され、効力を有しないというべきである。そうすると、本件事案については民法
900条4号本文を準用して判断していくべきことになる」 ここでは、大法廷判決の論理を応用して、実質的に非嫡出子差別規定の空洞化を図っていることが判る。