人権の私人間効力

甲斐素直

  問題

 XY社の入社試験において、「あなたはいずれかの政党に現に所属していますか、あるいは所属していたことがありますか」と質問され、「いいえ、どこの政党にも所属していませんし、所属していたこともありません」と答えた。しかし、実際にはXA政党にそれまで属して活動していたが、就職氷河期と呼ばれる厳しい雇用情勢の下で、 政治的に偏った主張をすることで知られるA政党に属していたのでは就職が困難と考え、脱退していた。採用後にそのことが判明したため、Xは入社試験において虚偽の 陳述を行い、もって雇用関係の基本である相互の信頼関係を破壊したとして、解雇された。

 そこでXは、Yの入社時の質問は、そもそも憲法19条の保障する内心の自由を侵害するものであり、したがって解雇は憲法違反であると主張して、解雇無効の訴えを提起した。これに対し、Yは「憲法19条は、対国家的権利であって、私人間には効力を有しない」と反論した。

 Yの反論の憲法上の当否について論ぜよ。

 

[はじめに]

 近年では、国家試験では人権問題は、まず間違いなく事例形式で出題される。事例形式の場合には、人権の私人間効力という問題はまず論点にならないと考えてよい。例えば、私人間効力に関する重要な判例は、三菱樹脂事件判決(最大昭和481212日=百選第526頁)、日産自動車事件(最判昭和56324日=百選第530頁)、それに昭和女子大事件(最判昭和49719日=百選第528頁)等がある。しかし、その事件の事実関係が、そのまま事例形式の問題として出た場合には、私人間効力を論じる必要はない。

 三菱樹脂事件を例にとれば、その事実関係の下において、「単純に憲法上の問題点を論ぜよ」と聞かれたら、試用期間における雇用契約解約の自由と勤労の権利(憲法27条)が中心論点となる。そして、27条は社会権だから、私人間効力が認められるのは当然で、論点にはならないのである。三菱樹脂事件では、訴訟当事者が27条ではなく、19条を問題にしたことからそれが論点となったのである。三菱樹脂事件の事実関係に忠実に則った事例問題においては、本問のように、それがわざわざ示されない限りは27条だけを論じるのが正しい。

 日産自動車事件の場合、今日であれば、女性差別撤廃条約及び男女雇用機会均等法が論点となる。ブランダイスルールの下においては、例え当事者が違憲性を主張しても、条約や法律という下位の規範で問題が解決可能な場合には、憲法問題を論じる必要はない。そして、これらの条約等は私人間のおける直接適用を予定しているから、今日の辞典における出題であれば、やはり私人間効力はもはや論点にはならない。

 昭和女子大事件の場合には、今日では富山大学事件最高裁判決に従い、いわゆる部分社会論を検討すべきであろう。そして、通説・判例に従う限り、あの事例では原則的には司法審査の対象とはならないから、司法審査の対象となることを前提とする私人間効力について論究するのは間違いということになる。

 こうした事情の結果、私人間効力が中心論点となる事例問題というのは、本問のように、無理矢理当事者に主張させない限りは今日では想定するのは難しい。そして、それほどの無理をして、私人間効力論を論点とする論文問題が出題される可能性があるかというと、まずない。司法試験や公務員試験の受験生レベルには、これは少々難しすぎる問題なので、全員落第で合格者ゼロということが容易に予想でき、受験者を合格者と落第者に二分するという試験制度の目的に反するからである。

 しかし、論文として書くことが難しいということが、国家試験で全く出ないということを意味するものではない。たとえば、平成19年度新司法試験短答式の公法第3問では、次のような問題が出題されている。

「私人間における人権保障に関する次のアからエまでの各記述について,明らかに誤っているもの二つの組合せを,後記1から6までの中から選びなさい。

. 憲法は,国家対国民の関係を規律する法であるから,憲法の人権規定は,特段の定めのある場合を除いて私人間においては適用されないとする説は,国家と社会を分離する自由主義的国家論と,人権はすべての法秩序に妥当すべき価値であるとの考え方を理論的背景としていると指摘されている。

. 憲法の人権規定は,私人間においても直接適用されるとする説に対しては,私法の国家化をもたらし,私的自治の原則及び契約自由の原則の否定にならないか,国家権力に対抗するという人権の本質を変質ないし希薄化する結果を招くおそれがあるのではないかと指摘されている。

. 市民社会の自律的作用を尊重すべきであることから,民法第90条の公序良俗規定等の私法の一般条項を媒介として,憲法の人権規定を私人間において間接的に適用するとする説に対しては,資本主義の高度化に伴い,国家類似の組織を有し,国家類似の機能を行使する社会的権力の登場による人権侵害の危険性と可能性が増大していることを看過していると指摘されている。

. 私人相互間の社会的力関係から,一方が他方に優越し,事実上後者が前者の意思に服従せざるを得ない場合,憲法の人権規定を,私人間においても適用ないし類推適用するとする説に対しては,こうした関係は法的裏付けないしは基礎を欠く単なる社会的事実としての力の優越関係にすぎず,国又は公共団体の支配が権力の法的独占に基づいて行われる場合とは性質上の相違があると指摘されている。

  1. アとイ  2. アとウ  3. アとエ  4. イとウ  5. イとエ  6. ウとエ」

 したがって、論文が書けなくとも、少なくとも短答式を突破できる程度の理解はもっていないとどうにもならない。ここでは、そうした基本的な理解をねらって、私人間効力についてずばり聞く問題を工夫してみた。この問題に関しては、近時、高橋和之が鋭い問題指摘を行って無効力説を打ち出し、他方小山剛が保護義務論を打ち出して違う角度から問題提起を行っている結果、憲法学界の関心はきわめて高い状況にあり、この程度の短答式問題は今後も頻出が予想されるのである。

 

一 私人間効力が問題となる人権とは?

 本問の具体的な説明に入る前に、言葉の意味を正確に説明しておきたい。つまり、この節に書くことは、諸君の論文に記入する必要はない。

 人権の私人間効力という言い方を聞くと、まるであらゆる人権について、私人間効力が問題になるような印象を受ける。その結果、学生諸君の中には、私人間で人権が論点になる問題にぶつかると、それが何であれ、構わず私人間効力について記述する者をよく見かける。しかし、今日のわが国憲法においては、私人間効力が問題となる人権は、意外に少ない。そのあたりからまず説明してみよう。

 近代市民革命は、封建国家権力から人民を解放して、自由をもたらすことを目的として行われた。そうした自由主義(LibertarianismLiberalismではない点に注意)の理念を根本原理とする夜警国家にあっては、国家の機能は治安の維持と国防に限定される。すなわち憲法は、国家から個人の権利を守るために存在しているのであるから、互いに対等な地位に立つ私人間にそれが適用にならないのは、当然のことということができる。

 しかし、19世紀末から今世紀にかけての資本主義経済の発達は、国家と人民との中間に位置するいわゆる中間大規模組織の発生・発達をもたらした。これらの組織は、一面においては、自然人の人権行使手段として、人権享有主体性までも一定の範囲で認められる(団体の人権享有主体性の議論参照)。同時に、その構成員である自然人の自由を、一定範囲で制限する機能を有する。この結果、単に国家が私人間の問題に介入しないという政策(laissez-faire=レッセ・フェールといわれる)を維持しているだけでは、必ずしも自然人の自由を確保することを意味しないということが明らかになってきた。

 他方、同時に起きた民主主義の発達は、国家が人民の権利を抑圧するものではなく、それどころかその権利を擁護する味方として機能することを、人民として信用できる状態をもたらした。こうして、国家が人権の擁護者として積極的に私人間に介入する積極国家が誕生するに至った。

 積極国家の下において、憲法そのものにより、国家に積極的に私人間に介入することが命じられている人権(すなわち社会権)については、私人間での効力が肯定されることは当然のことであって、改めて議論する必要すら存在しない。

 また、わが国憲法の根本原理であり、したがって自由主義の上位規範である個人主義に基づき、個人の尊厳そのものを踏みにじるような形態の私的自治が、憲法のレベルにおいても許されないことも当然である。私法上、生命権や貞操権に代表される人格権と呼ばれる権利の使用、収益、処分を内容とするものがこれに当たる。人格権は、それが尊重されることは憲法上あまりにも当然であるため、ほとんど憲法に規定はなく、明文があるのはわずかに奴隷的拘束の禁止(18条)程度に止まる。しかし、その他の権利についても同様に、私人間においても直接適用があると考えるべきである。

 さらに、積極国家の基礎を形成している健全な民主主義を揺らがすような行為は、私人間で行われることが多い。それは民主主義の直接的な脅威であるが故に、憲法レベルにおいて禁止されるのは当然である。これもあまりに当然のことであるために、憲法に明文があるのは、選挙権の行使に「私的にも」責任は問われることはない(154項)ことが保障されている程度に過ぎない。しかし、その他の参政権行使を妨げる行為についても同様に考えるべきである。例えば、選挙において立候補する自由は、次の通り、人権として直接私人間にも適用がある、と最高裁は述べている。

「選挙に立候補しようとする者がその立候補について不当に制約を受けるようなことがあれば、そのことは、ひいては、選挙人の自由な意思の表明を阻害することとなり、自由かつ公正な選挙の本旨に反することとならざるを得ない。この意味において、立候補の自由は、選挙権の自由な行使と表裏の関係にあり、自由かつ公正な選挙を維持するうえで、きわめて重要である。このような見地からいえば、憲法151項には、被選挙権者、特にその立候補の自由について、直接には規定していないが、これもまた、同条同項の保障する重要な基本的人権の一つと解すべきである。」

最大昭和43124日(三井美唄事件=百選第5326頁参照)

 そしてこの立候補の自由を侵害しない限度でしか、労働基本権を認めなかったのである。

 また、本質的に私人間の紛争であるが、憲法的な評価も必要なもの、例えば名誉権や私法上のプライバシー権を巡る紛争は、それが本質的に私人間紛争であるが故に、私人間効力を論じる必要はない(石に泳ぐ魚事件=百選第5140頁参照)。他方、公法上のプライバシーは国家と国民の関係が問題になっているから、これまた私人間効力を論じる必要はない(早稲田大学江沢民事件=百選第546頁参照)。

 結局、私人間効力が問題となる種類の人権とは、消極国家において、従来厳密に国家が私人間に介入することを禁じられていた一連の基本権そのほとんどは論理の必然から自由権及び自由主義的平等権に限られることになる。

 ここでもう一つ重要な限界を述べなければならない。今日のわが国は、冒頭に述べた消極国家ではなく、積極国家となっていることから、私人間に国家が積極的に介入するという立法を、国会が行うこと自体は当然に合憲であるという前提が存在している。私人間効力に関して後述する無効力説も、立法者の立法義務の問題と捉えてこれを肯定する。

 例えば、家は個人の城であるから、家庭内の問題に国家権力が介入するのは許されない。しかし、夫婦喧嘩等の家庭内暴力において、女性が一方的に被害者になる事態が多発しているのを放置できない場合には、国会は「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」(いわゆるDV法)を制定することができる。ちなみに同法前文は次のように述べている。

「我が国においては、日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、人権の擁護と男女平等の実現に向けた取組が行われている。〈中略〉

 ここに、配偶者からの暴力に係る通報、相談、保護、自立支援等の体制を整備することにより、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護を図るため、この法律を制定する。」

 このようにDV法は、明確な国家権力の私人間への介入法なのである。このようなな国家権力の家庭内への介入を許容する立法が、どの限度で許容されるかについては、それ自体が憲法学的に検討しなければならない問題であり、この前文の存在は、立法者自身にも同様の問題意識があることを示している。しかし、ここで諸君に見て欲しいのは、そのような問題についても、人権の直接適用を認める立法が存在しているという事実である。

 したがって、いわゆる人権の私人間効力と呼ばれる問題を厳密に表現し直すならば、

「歴史的に国家と国民の関係だけを規律するとされている種類の基本権が、国会の立法を待たずして、私人間に適用になることはあるか。あるとすれば、それはどのような形を採用して行われるべきか。」

となる。もっと簡単にのべれば「基本権(自由権)の規範内容を具体化する立法を待たずに、人権規定が私法領域においてもつ効力」といえる。本問におけるYの主張もそのように理解しなければならない。私人間効力論とは、その程度の問題なのであって、私人の間で人権が論じられさえすれば、常に論点になるというものでは決してない。学生諸君の中には、私人間の紛争と読むと、機械的に私人間効力の議論を書く人がよくいるが、それは完全な間違いである。減点される危険を考えると、むしろ私人間効力には原則として論及しないというスタンスの方が無難かもしれない。

 

二 私人間効力の考え方

 繰り返し強調するが、近代憲法における基本的人権規定の「名宛人」は、本来国家であり、したがってそれが適用されるのは、公権力と国民との関係において捉えられてきた。つまり私人間に人権の効力は及ばない、というのが近代市民国家における憲法の常識といえる。しかし、第2次大戦後に、米国とドイツで、これに対する問題意識が芽生えた。そのおおよその内容と、日本への影響を簡単に紹介しよう。

(一) 米国におけるスティト・アクション法理

 米国連邦憲法は、本来、連邦の活動を規制するのが目的であった。したがって、その修正条項の冒頭にある権利章典にしても、名宛人は連邦であり、州政府は対象ではなかった。つまり、州法によって、そこに書かれている人権侵害が行われても、それは連邦憲法違反ということにはならないのである。

 しかし、南北戦争後、連邦政府は、南部諸州の行う立法や行政に干渉する必要に迫られた。その結果、制定された憲法第14修正が、各州(State)の活動(Action)に対して、「人の生命、自由、財産を奪ってはならない」と定めた。この適正手続(due process of law)保障を利用して、連邦最高裁判所は、違憲審査権の対象を、州の立法その他の活動にも拡大していった。

 さらに、本来は州が行うべき活動を私人にゆだねた場合に、その私人が人権侵害等を引き起こした場合には、それを州(State)の活動(Action)に準じて14修正違反になるという理論(スティト・アクションの法理)と言われるものが、連邦判例上、出現したことから注目されるようになった。

 例えば、州が公営駐車場を設置している場合に、その中のレストランを同じく公営で経営していれば、そのレストランが黒人差別を行うことは、連邦憲法に違反することは、明らかである。それに対して、そのレストランの経営を私人に委ねていた場合に、その私人が黒人差別を行った場合には、それは本来は私人間の問題だから、連邦憲法違反ということにはならないはずである。しかし、これを州の活動と同視することが許される条件が存在している場合には、連邦憲法を適用して判断することが可能になる(Burton v. Wilmington Parking Authority 365 U.S.715)。ただこの場合に、どういう条件が存在する場合に、私人の活動を州の活動と同視しうるかは、米国法特有のかなり複雑な問題となる。しかし、本問は本質的にState Action法理で解決できる種類のものではないので、ここでは詳しい説明は割愛する(興味のある人は、芦部信喜『憲法学U』有斐閣1994年刊、314頁以下が詳しいので参照すること。)。

(二) ドイツにおける理論

 日本語では、法と権利は別の言葉で表現されている。ところが、ドイツ語では、法も権利も同じ“Recht”という言葉で表現される。たいていは文脈でどちらの意味かは判るが、限界的な場合にはドイツ人にとっても、少々紛らわしい。そこで、議論しているのが、法なのか権利なのかを特に明確にする必要がある場合には、法は“objektives Recht”(客観的なRecht)、権利は“subjektives Recht”(主観的なRecht)と呼んで区別する。

 このような区別を受けて、ドイツの憲法学説は、人権(Menschenrechte)というRechtには、主観的な権利としての側面と、客観的な法秩序としての側面の二つがある、と一般に考えるようになった。そして、主観的権利としての人権は国家に対してしか効力を持たないが、客観的法としての側面は、全法秩序に対して効力を持つという考え方が出現した。

 その場合、その客観的法秩序が私人間に直接に適用されるのか(直接適用説)、間接的に適用されるにとどまるのか(間接適用説)が論じられるに至った。これに対して、伝統的な、そもそも人権は、それが客観的法秩序としても私人間には効力を持たないという考え方も存在する(無効力説)。

 この点を巡って、ドイツ連邦憲法裁判所で下されたのがリュート判決(Lueth-Urteil, BVferGE 7,198)である。これは、ハンブルク州広報室長のリュートが、公開の席や新聞紙上で、ナチス時代にユダヤ人迫害映画を作成した映画監督ハーランを名指しにして、彼がドイツ映画界に再登場することは、ドイツの国際的評価を破壊するとして、彼の映画のボイコットを呼びかけたのに対して、ハーランの映画の配給会社が訴えた事件である(つまり、この事件は私人と私人の間の紛争であって、決して団体と個人の間の紛争ではないことに注意する必要がある。諸君が、論文で私人間効力を論じる場合に、ややもすると個人対団体の場合に限って問題が生じるような書き方をするが、団体との関係に限定するのは間違いである)。

 この事件に関して、ドイツ連邦憲法裁判所は次のように述べた。

「基本権は、基本権思想史・制定史、憲法異議申立制度の趣旨からして、第1次的には、国家に対する市民の防御権(Abwehrrechte)である。しかし、基本権は同時に、人間の尊厳と人格発展権を中心とする客観的価値秩序を形成しており、この価値体系は、憲法の根本的決定として、民法を含む法の全領域に妥当し、解釈の指針となる。〈中略〉基本権の内容は、客観的規範として、基本権的価値基準の形式をとって、公序の一部を成す強行法的私法規定を媒介として侵入する。」(ドイツ憲法判例研究会編『ドイツの憲法判例』信山社1996年刊、126頁=木村俊夫担当部分より引用)

 このように、憲法裁判所判例が明確に間接適用説を採用したことも大いに寄与して、ドイツでは、間接適用説が、通説的地位を持つようになり、それが日本に輸入されて、わが国でも通説的地位を占めて今日に至っている。

 このように、間接適用説とは、Rechtに含まれる「客観的価値秩序」という側面については私人間にも間接的に適用があるという説であって、決して権利(市民の対国家防御権)そのものが間接的に適用されるという説ではない。それと同様に、ドイツにおける直接適用説は、「客観的価値秩序」は、日本で言えば民法90条に相当する「強行法的私法規定を媒介」する必要はなく、直接に私法領域に適用可能なのであるとする説のことであって、まちがっても人権(主観的なRecht)が私人間に直接適用があるという説ではない。この部分は、学生諸君がほとんど例外なく誤解している部分であり、ずばり国家試験に出題したら、全員落第は間違いないと試験委員をおびえさせる理由である。

(三) 日本における近時の問題意識

 日本では、米国法とは憲法構造が違うこともあり、戦前からの流れもあって、この点ではドイツ学説の影響を強く受けた。特に、ドイツ連邦憲法裁判所が上述の通り間接適用説を採用したことが、日本で間接適用説を通説的なものとした大きな原因と考えられる。この考え方によれば、自由権や平等権については、民法第90条などの一般条項の内容を、憲法人権規定に含まれている客観的法が充填するという間接的なプロセスを経て、私人間の行為を規律する、ということになる。そして、三菱樹脂事件判決も、通説は、間接適用説を判例が採用したものと読む。

 これに対し、近時、高橋和之は、無効力説の立場から、鋭い批判を展開している。そこでは、間接適用説に対し、客観的法は何故直接適用されないのか、と次のような疑問を提示している。

「おそらく、それはこの法的価値が未だ抽象的な段階のものであり、現実の適用を見るためには『具体化』されなければならないからであろう。その具体化は、一方で、『主観的な基本権』規定として憲法の中で争われるが、他方で、私人間については、私法の一般条項への価値充填という操作を通じて行われるという構想なのであろう。この結果、憲法は全方位的な基本権(客観的な法的価値)と対国家的な具体的基本権の両者を自己の内部に持つことになり、憲法あるいは基本権規定の性格を曖昧化させることになった。憲法は、前憲法的な『倫理的価値』を保護するために国家権力を組織する規範であり、基本権規定は国家がその任務を遂行するにあって侵してはならない国民の権利を掲げたもの、というのではなく、あるいは、その様なものに尽きるものではなく、全社会の基礎として社会内のあらゆる関係において妥当すべき法的価値をも宣言したものという性格を帯びることになる。後者の憲法観・人権観は、徹底すれば、近代的な立憲主義の観念を逆転し、憲法・人権が権力ではなく、国民を拘束するものへと転化するモメントを秘めており、看過することのできない重大な意味を持つものといわざるを得ない。」(「『憲法上の人権』の効力は私人間に及ばない人権の第三者効力論における『無効力説』の再評価」ジュリスト1245号=200361日号137頁以下に収録の論文より引用)

 ここで高橋が指摘した、憲法が「全社会の基礎として社会内のあらゆる関係において妥当すべき法的価値をも宣言したものという性格を帯びる」という考え方は、ドイツでは明確に意識されており、それに対する答えは国家の基本権保護義務論という形に展開されている。これは簡単に紹介すれば、国家が個人の人権を保護する義務を負うとして、日本では、この説は小山剛(慶応大学教授)によって展開されている(代表的なものとして、小山剛『基本権保護の法理』成文堂参照)。

 もう少し細かく説明すると次の通りである。

「基本権三極関係(「国家─基本権侵害者─基本権被侵害者」)の下で、国の義務として基本権保護(正確に言えば「基本権法益の保護」)を導き出し、それによって立法者および裁判所に基本権保護の具体化と配慮を命ずることにその解釈論的特徴をもち、理論化に当たっては防禦権以上のものを内部に見出すがゆえに、且つまた、基本法(憲法)に社会権の明文規定を持たない下で展開されてきたドイツでの特殊な基本権理論の状況とも相俟って、保護義務論の射程範囲も限定された理論であることにその理論的特質をもつ」(戸波江二「人権の現代的展開と保護義務論」『日独憲法学の創造力』信山社722頁より引用)

 諸君に余計な知識を与えて混乱させることを恐れるので、ここではこれ以上の紹介を避ける。ただ、芦部信喜が、これについては「そのまま日本の解釈論に挿入することには問題がある」(「憲法50年を回想して」公法研究59号=1997年)と指摘している。佐藤幸治はさらに踏み込んで、次のように述べている。

「確かに国家の保護義務を強調しなければならない局面があることは否定できないが、一般的に広く国家の保護義務を憲法理解の根底に据えることは、個人の自由を核とする人格的自律権の発展と相容れない契機を孕んでいるように思われてならない。」

佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂168頁より引用。頭点も原著者)

 ここにみられるように、少なくとも人格的利益説に立つ限り、無理のある説といえる。私自身は、保護義務論は、戸波も指摘しているとおり、保護義務論は、社会権に具体的権利性を認めないドイツ学説の生み出した特殊性から生じたものなので、社会権に具体的権利性を肯定するわが国では、保護義務論を採るよりも、国家の介入義務は社会権で論じた上で、それと自由権との境界の明確化を計ることこそが、人権擁護の真の道ではないかと考えている。

 批判者の高橋自身は、こうしたことから、フランス革命時に成立した、人権を自然権としてとらえる視点からの無効力説を提唱している。

「憲法という法領域の特性が国家を名宛人とするものである以上、憲法上の『個人の尊厳』は、道徳哲学において有した全方位性を限定されて、国家に対する要請に転化する。たしかに、憲法は最高法規であり、下位規範を拘束する。しかし、その拘束も『対国家性』を超えることはできない。ゆえに、私人間を規制する法律は、私人が国家に対して主張しうる人権を制約する限りでは、憲法の拘束を受けるが、私人相互の水平的な関係に関しては、憲法の人権規定は効力を及ぼさず、その拘束を受けない。」

 そして、従来、通説が間接適用説と評価してきた三菱樹脂判決についても、「直接適用はおろか間接適用も否定した典型的な無適用説といってよい」と評価している(高橋和之「人権の私人間効力論」高見勝利・岡田信弘・常本照樹編『日本国憲法解釈の再検討』(2004年、有斐閣)14頁)。そして、学説が判決の立場を間接適用説と理解するに至った理由については、原審判決である東京高裁昭和43612日判決(判時52319頁)が「企業が労働者を雇用する場合等、一方が他方より優越した地位にある場合」に企業が労働者の思想の自由をみだりに侵害してはならないと述べたことへの反論を述べているからである、と指摘する。そして、最高裁判決の論旨について「私人間における調整は立法で対処するということをポイントとしており、民法90条等に言及してはいるが、それは法律による調整の仕方の例示であって、その規定を媒介にして人権規定の効力を及ぼしていくという発想をとっているわけではない」と評価する(同書15頁)。

 

三 学説の現状と問題点

 本設問に関しては、学説的には大きく三説の対立があるとされる。すなわち、無効力説、直接適用説及び間接適用説の三説である。

(一) 無効力説とその問題点

 純粋の自由国家理念の時代の学説は、無効力説が普通であった。その場合、私人間への介入を定めた立法がただちに違憲という結論を導くものであった。しかし、このような過激な考え方は次第に影を潜め、その後は、公法私法二元論の下に、憲法上の人権とは切り離された法体系として私法領域を考える、ということを主張しているに過ぎない。

 今日では、厳密な意味でこの学説を採用する学者は、私の知る限りでは存在しない。第2次大戦後の憲法学者の中では、小嶋和司は無効力説とされるが、その場合にも憲法を間接適用しようとしないだけで、民法90条に基づく純然たる私法上の問題として、同様の保護の手を伸ばして解決するという点に違いはないのである。

 高橋の主張は、いわばこの過去の学説を、新しい切り口から現代に復興させたものなので、新無効力説と呼ばれたりする。その最大の問題点は、自然法思想に立脚しているという点にある。高橋は、この点徹底していて、例えば主権論においても、実証法思想に立つ狭義の国民主権説ではなく、人民主権説を取る。このことに端的に表れているように、高橋の無効力説を採るためには、憲法体系全体を自然法思想によって固めていく必要があるが、それは普通の学生諸君にはきわめて困難であろうと考える。

(二) 直接適用説

  無効力説の対極にたつのが、直接適用説である。すなわち、私人間においても人権の保障機能は認められるとする。直接適用説というと、学生諸君は、あらゆる場合に完全な私人間への適用を主張する説のように思うのが普通のようであるが、その理解は間違いである。そのように私人間に全面的に国家が介入することを認めてしまっては、結局、全体主義となって、現行憲法の根本原理である個人主義を否定することになるからである。したがって、この学説の下においても、先に紹介したとおり、人権そのものが私人間に適用になるのではなく、それに含まれる客観的法秩序が直接適用されるのであり、しかもその場合にも無条件で全面適用になるのではなく、個人の利益としての私的自治という客観的法秩序が、同様の重要性を持つ規範として認められ、この二つの相対立する規範相互間の比較衡量によって、個々の場面でどの限度で人権に含まれる法秩序の適用が認められるかが決定されることになる。

 この亜形として「社会的権力説」ないし「国家類似説」と呼ばれる説がある。この説は、一般的な私人間においては間接適用説で対応しつつ、先に紹介したスティト・アクション法理に基づき、強大な「社会的権力」については、国家に比すべき強大性の故に、直接適用を肯定する(橋本公宣『憲法』青林書院新社171頁参照)。しかし、医師会や弁護士会のように、法律に根拠を持つ独占団体ならともかく、単なる大企業レベルまでもこれに含めるのは、日本の現況に照らした場合は無理があるということができるであろう(企業に国家類似性が認めるには、他から隔絶された企業城下町のように、特定企業がその地域のあらゆる面を支配している、というような場合がその典型例となる。)。

(三) 間接適用説

 間接適用説と呼ばれる学説は、宮沢俊義が最初に唱えた学説であるが、厳密にいえば、無効力説の一種である。ただ、個別具体的な法律がない場合にも、民法90条を具体的権利を導くための根拠法として使用できると主張することにより、基本権保障を実質的に私人間に及ぼす道を一般的に開いている、という点に、狭義の無効力説との大きな相違を示しているのである。

(四) 説の選択の決め手

 こうして現実の学説の対立としては、間接適用説か、直接適用説かの対立となる。上記の通り、両学説は実質的に見る限り、その結論をほとんど異にしないのであるから、両者を選択する決め手は、各論者の基本的な人権観に依存することになる。それだけに、基本的な人権観からのきちんとした展開が、諸君の論文としては重要性を持つことになる。

 積極国家としての視点を強調し、自由権の社会権化を比較的緩やかに承認する学説を採用する場合には、直接適用説が妥当性を持つといえるであろう。

 これに対して、芦部信喜、佐藤幸治をはじめとする、諸君の多くが使用する教科書の著者は、普通は、自由権と社会権とを峻別し、自由権をできるだけ厳密な形で維持しようとする基本的前提を採る。その場合には、当然に間接適用説が妥当することになるであろう。この点について佐藤幸治は次のように説明する。

「基幹的人格的自律権を土台とする人権の本来的性質からすれば、それは対公権力、対私人を問わず妥当すべきものであるが、その妥当の仕方には違いがあるのであり、対私人関係にあっては人格的自律権の相互尊重と自律権の延長としての私的自治の原則が基本的な考慮要素とされなければならない」(第3版、428頁)

 なお、このように間接適用が妥当とされる、ということは、その領域において、国家が直接介入するという立法を行うことを禁ずるものでは、決してない。

 そのような立法は、介入の程度が低い場合には、公序良俗という一般的、抽象的規範の具体化として把握することができる。男女雇用機会均等法が、私企業における女性差別を解消させるため、企業主に対して援助を行うと定めているが、これはその一例である。

 それに対し、国家の介入の度合いが強いときには、むしろ自由権の社会権化傾向の一環として把握すべきことになるであろう。例えば情報公開法は、表現の自由としての知る権利から、社会権としての知る権利への憲法学における質的発展を反映しているということができる。

 

四 挙証責任の配分

 間接適用説をとる場合、その訴訟はいわゆる憲法訴訟ではなく、純然たる民事訴訟となる。したがって、憲法訴訟で説かれる審査基準論はここでは不要である。その代わりに、それと同様の重要性を持つのが、挙証責任の配分の問題である。

 考え方としては二通りあり得る。基本的に私的自治が優越している法領域であるから憲法規範が劣後すると考えるか、それとも憲法規範は公序となっているとして私的自治に優越すると考えるか、である。

 前者の考えを採ると、人権の間接適用を主張する側が挙証責任を負うと考えるべきことになる。これに対して、後者の考えを採ると、私的自治を主張する側が当該場合において憲法が公序ではない、と挙証する責任を負うべきことになる。

 例えば三菱樹脂事件仙台高裁判決は「社員採用試験の際、応募者にその政治的思想、信条に関係のあることを申請させることは、公序良俗に反し、許されない」として、企業側に挙証責任を負わせた結果、原告が勝訴した。これに対して、同事件の最高裁は、個人の基本的自由や平等に対する侵害の態様・程度が「社会的に許容しうる限度を越える」ときは、「場合によっては、、私的自治に対する一般的制限規定である民法1条、90条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって」私的自治の原則と人権との適切な調整を図る方途も存すると指摘して、原則的に私的自治を優越させた結果、挙証責任を従業員側に課した結果、企業側が勝訴している。

 公序良俗というものが、とらえどころのない抽象的な概念であることを考えると、現実の裁判においては、その内容の積極的な証明は至難の技であり、したがって、挙証責任の配分が決定的な重要性を持つ。そのことは、上記三菱樹脂事件の下級審と最高裁の判決の差に明らかであろう。

 私人間効力一般としては、どちらと解すべきかを一律に決定することは困難であろう。すなわち、個々の人権ごとに、さらには個別の事例ごとに、個別に決定されるべきである。例えば、三菱樹脂事件のような、雇用関係における思想信条の問題であれば、一般的には、内心の自由の重要性に鑑み、それを侵害するような行為には公序良俗違反性が推定されると言うべきであり、したがって企業側が自らの行為が公序良俗に違反しないことを証明する義務を負うと言うべきである。しかし、問題となっているのが、いわゆる傾向企業である場合には、企業は自らが傾向企業であることさえ証明すれば、原則的には思想信条を調査するような行為が許容されるというべきである。したがって、その場合には逆に従業員側が、その調査が例外的に公序良俗違反となることを挙証する責任を負うと考える。

 場合によっては、立法的に解決されている場合もある。例えば、企業が性に基づく差別を行っている場合における挙証責任の配分に関しては、今日においては、女子差別撤廃条約が立法的に解決している。すなわち同条約2条eは、企業が性差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとることを求めており、その措置の内容として「女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求する(2条本文)」義務を締約国に課している。これは、私人間においても、性差別の存在は原則的に公序良俗違反と評価すべきことを要請していると考える。したがって、企業側が合理的差別であることを挙証する義務を負うのである。挙証に失敗すれば、そのような就業規則は自動的に公序良俗違反と評価されることになる。

 また、近時有力になりつつある14条列挙事項特別意味説にしたがえば、性別など、そこに列挙されているものは、その歴史的背景から、私人間においてもそれに抵触する行為に対しては公序良俗違反という推定が働き、それとは異なる主張をする側が、公序良俗該当性を挙証する責任がある、というべきことになろう。