国籍法3条1項の合憲性
甲斐素直
問題
Aは、P国籍を有する女性である。Aは平成○年に、興行の滞在資格(3か月)を付与されて本邦に入国し、以後、在留期間の更新を受けながら本邦に在留している。
Bは、日本国籍を有する男性であり、妻C及び娘Dがいる。
Bは、平成15年頃からAと交際を始め、16年に、C及びDのいる家を出てAと内縁関係に入った。そして、さらに平成17年にAが妊娠したことをきっかけとして、BはAと正式に婚姻する意思を固め、Dと離婚協議を開始した。しかし、Dは、片親になることがDの将来に悪影響を与える可能性があるところから離婚に難色を示し、B・C間の離婚は、今日に至るも協議が整わず、実現していない。
平成18年、Aは、Bの子であるXを出産した。Bは、X出生後の平成19年にXを認知した。Aは、X出生後に再び妊娠し、平成20年にEを出産した。Bは、Eについては、平成19年にXを認知した際に、同時に胎児認知をしている。
A及びBは子供達に日本国籍を取得する必要を感じ、X及びEの親権者であるAは、平成20年3月4日に、X及びEが、Bから平成19年に認知を受けていたことを理由に、F地方法務局において、法務大臣Y宛にX及びEの国籍取得届を提出した。これに対し、同月14日、F地方法務局長から、Eについては、国籍法2条1号により、出生の時から日本国籍を有している旨の通知を受けた。
しかし、Xについては、同日にF地方法務局長から、「平成20年3月4日付け国籍法第3条第1項の届出は、国籍取得の条件を備えているものとは認められないので、通知します。」という通知を受けた。
そこで、Xは、Yを相手取って、自らが日本国籍を有することの確認を求めて訴えを提起した。
訴えの提起にあたり、Xは次のように主張した。
「胎児認知という手続を執った場合には子が生来的に日本国籍を取得する途が開かれているのに、出生後の認知の場合には子が生来的に日本国籍を取得する途がない とすると、同じく外国人の母の嫡出でない子でありながら、認知時期の違いにより、子が生来的に日本国籍を取得する途に著しい差があることとなるので、国籍 法3条1項は憲法14条1項に違反し、無効である。」
Xの主張の憲法上の当否について論ぜよ。ただし、憲法10条及び救済法については論じなくてよい。
参考条文
国籍法3条(平成20年3月4日時点のもの)
1 父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で20歳未満のもの(日本国民であった者を除く。)は、認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であった場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であったときは、法務大臣に届け出ることによって、日本の国籍を取得することができる。
2 前項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。
[はじめに]
本問は、同じ両親の子として生まれながら、認知時期の前後により、国籍が付与される場合とされない場合が生じるという限界的な設定を行うことで、誰の目にも14条違反であることが明確な問題になるよう、工夫した。さらに問題文を工夫し、それで足りないところは、問題文中に「ただし、憲法10条及び救済法については論じなくてよい。」という限定文言を挿入するという奥の手まで使用して、徹底的に易しい14条の問題になるよう工夫した。そのことは、出題担当者の方でも判っているはずなのに、サブゼミで伝達するのを忘れたのか、提出率はきわめて低く、しかも論点を外したものばかりであった。今後、サブゼミの活性化も含め、対策を検討する必要がある。
一 内外人無差別原則について
これは本来、本問の論点ではない。しかし、これを論点と誤認し、かつ、我が憲法の根本原則である、内外人無差別原則について全く理解していない答案が提出されたので、最初にその点について簡単に説明する。
憲法第3章は「国民の権利及び義務」と題されているので、憲法の法文だけから見れば基本的人権は日本国民にしか保障されないように見える。実際、現行憲法制定当時において、旧憲法時代からの生き残りの学者の間には、そのような理解をする者もいないわけではなかった。しかし、この説はすぐに消える。
わが憲法の解釈に当たっては、その基本原理たる個人主義、すなわち個人の尊厳の尊重という原理に照らし、すべての人が人権の享有主体であると考えられるからである。そこで、次に現れたのが、憲法の条文が「何人も」となっている場合には、外国人にも日本国憲法の人権保障は及び、「日本国民は」となっている場合には、外国人には準用されるにとどまる、とする説である。しかし、憲法の使い分けには統一的な基準が見あたらないこと、日本国憲法は英文も正文とされるが、英文の憲法では、10条をのぞきすべて日本国民という文言は使用されていないこと等から、この説も早くに消える。その結果、判例も、非常に早い時点から「いやしくも人足ることにより当然享有する人権は不法入国者といえどもこれを有する」(最判昭和25年12月28日)としてこの理を確認している。
その結果、今日の通説は、権利性質説である。マクリーン事件最高裁判所判決(昭和54年10月4日)は「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべき」であると端的に述べて、判例もこの説を採ることを確認している。
では、14条は、権利の性質としてどちらなのか。それは14条の性質論そのものなので、詳しくは次に説明するところにゆだねるが、内外人無差別原則を我が憲法が採用していることは疑う余地が無く、通常はわざわざこれを論点とする必要そのものが全くない。
二 14条の本質
14条を巡る近時の最高裁判所判決は、どれをとっても次のように述べている。
「このようにして定められた国籍の得喪に関する法律の要件における区別が,憲法14条1項に違反するかどうかは,その区別が合理的な根拠に基づくものということができるかどうかによって判断すべきである。なぜなら,この規定は,法の下の平等を定めているが,絶対的平等を保障したものではなく,合理的理由のない差別を禁止する趣旨のものであって,法的取扱いにおける区別が合理的な根拠に基づくものである限り,何らこの規定に違反するものではないからである(最高裁昭和37年(オ)第1472号同39年5月27日大法廷判決・民集18巻4号676頁,最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁)。」
このように、昭和39年という恐ろしく古い判例を引用して、このように述べるのが、最高裁判決の標準的なパターンとなっている。なお、もう一つ引用されているのは、非嫡出子相続分判決である。
しかし、昭和39年判決も含め、最高裁判所判決には、なぜこのように考えるのかという理由が全く書かれていない。いつも強調するとおり、論文の命は理由である。したがって、仮に諸君がこれをこのまま丸写しにしていれば、理由不足として減点されるのは間違いない。この程度のことさえ書いていなければ、それはそもそも論文ではない。
今日の学説の通説は、相対的平等概念を、平等原則から引き出す。だから、そのあたりの展開をきちんと書いてくれねば合格答案とはならない。
簡単に、平等権に関する講義を復習すれば、今日、学説は、14条は権利ではなく、平等原則を定めたものだと考える通説と、平等権という権利を保障したものだと考える少数説(少数説にたつ代表的な論文として、川添利幸「平等原則と平等権」公法研究45号1頁=1983年=がある。たいていの教科書に紹介されている。ただし、ここでは内容は説明しない。前回の講義で反対説の内容を説明したところ、全く無意味なつまみ食いをした論文が提出されたので、余計な知識はない方が安全と言うことを痛感したためである。)。
平等「権」と理解した場合には、川添の指摘するとおり、権利である以上、当然に他者との比較を抜きにした絶対的な平等という概念が導かれないとおかしい。つまり、上記最高裁判所判決が「絶対的平等を保障したものではな」いという記述は、平等権は、実は権利ではない、といっているに等しい。これが平等権=平等原則説である。すなわち平等を「権利」ではなく、「原則」と理解することが、相対的平等という重要な概念が導かくためのポイントなのであって、その逆ではない。
ここでの鍵は、憲法14条が、単に平等といわずに、「法の下の平等」と言っている点にある。ここに、法というのは、法の支配(rule of law)とか、法定の手続きの保障(due process of law)というときの法(law)の意味であって、法律(act)ではない。英語のLawは、ドイツ語のRechtと同じく、法的正義の意味であって、実証法思想の下では、配分的正義そのものと理解するべきである。
すなわち、アリストテレスによると、公法の領域を支配している形式的意味の正義は「配分的正義」と呼ばれるもので、これは「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱え」という法諺により有名である。この法諺が、平等権と同じ内容であることは、容易に認識できると思う。したがって、平等権とは、平等原則の意味である、ということは、結局、配分的正義と同じことになるのである。
すなわち、憲法13条と同様に、14条もまた、包括的基本権の1種である。憲法は公法秩序を定める法規範であるから、そこに保障される人権は当然すべて配分的正義の実現を目指している。そこで、ほとんどの場合には、14条に言及するまでもなく、個別の具体的権利の中で平等原則を読み切れる。例えば、三菱樹脂事件の場合、思想・信条に基づく差別的取扱いであるから、広い意味では間違いなく平等原則違反の事件であるが、解釈論的には19条の思想・信条の自由に対する侵害として把握すれば十分であって、14条に言及する必要はない。しかし、例えば議員定数違憲訴訟における47条のように、その権利の歴史的あるいは文言的理由から個別の人権では読み切れない場合には、14条を使用して権利を保護する必要が生ずる。本問で問題になっている国籍法は、憲法10条の定めている立法裁量権に関する文言的理由から、個人の保護が読み切れないために、補完的に14条を使用する必要が生じるのであり、その点で、議員定数違憲訴訟と類似している。
このように、公法体系を支配する根本的な正義概念が現れているものであるから、行政や司法のみならず、立法もこの平等原則に従う必要がある。法律が実質的正義に背馳する内容のものであれば、当然に本条に違反して違憲と評価されることになる。
以上をもう少し簡潔に述べれば、諸君の書くべき論文としては十分であり、それ以上余計な議論を書いてはいけない。抽象的議論は、本問の解決に必要不可欠にとどめるのが、事例形式の問題の鉄則である。
立法者非拘束説について言及していた人があったが、これは上述のように平等原則と考える場合には当然のことで、わざわざ独立の論点とする必要はない。立法者非拘束説はかつて佐々木惣一という大先生が唱えたもので、同先生への敬意から今日でもかなりの教科書がこれに言及している。しかし、今日、この説を採る学者はおらず、その結果、常識的に考えて、これを採点者側が論点として予定しているということはまず考えられない。予備校本などでは、論点としてあげられている場合が多いが、間違いである。書いても点にならず、その分、本番試験で大事な時間と紙幅が失われる。こういうことを書く余裕があったら、その分、少しでも点になる議論を深める努力をした方がよい。実際問題として、佐々木説は大変複雑な説であって、2行や3行で否定できるようなものではないから、佐々木説を否定した記述と評価される可能性はないからである。
三 14条の審査基準
(一) 14条1項後段列挙事項の意味
平等権の本質を原則であり、相対的平等であると理解した場合には、合憲の場合と違憲の場合をどのような審査基準で区別するか、という深刻な問題が発生する。特に問題となるのは、14条1項後段に列挙されている事項に何か特別の意味があるか否かである。最高裁判所は、先の引用部分で説明した昭和39年判決で、次のように述べた。
「右各法条は、国民に対し、法の下の平等を保障したものであり、右各法条に列挙された事由は例示的なものであつて、必ずしもそれに限るものではないと解するのが相当である」
以来、今日まで、この点も判例として引き継がれている。この説は、おそらく、今日でも、学説的にも通説であるといって良い。だから、諸君としてはこの説で展開して悪い理由は何もない。きちんと書いてくれれば、以下の特別意味説と同じく高く評価される。
これに対し、近時、例示であることは確かだが、単なる例示ではなく、裁判規範として特別の意味がある、という主張が有力になされるようになっている。諸君のかなりの人は、この説が絶対的に正しいものと機械的に考えているらしく、満足な理由も挙げずに採用している。しかし、少なくとも、判例に対立する考え方なのであるから、理由がきちんと挙げられていなければ評価の対象とはならない。
この説のやっかいなところは、統一的な説ではなく、学者により、かなり説明が違うことである。
その最初の主張者である伊藤正己判事は次のように言う。
「そこに列挙された事由による差別は、民主制の下では通常は許されないものと考えられるから、その差別は合理的根拠を欠くものと推定される。したがって、それが合憲であるためにはいっそう厳しい判断基準に合致しなければならず、また合憲であると主張する側が合理的な差別であることを論証する責任を負う。これに反して、それ以外の事由による差別は前段の一般原則に関して問題となるが、ここでは代表民主制の下での法律の合憲性の推定が働き、差別もまた合理性を持つものと推定される。したがって、合憲であるための基準も厳格でなく、また意見を主張する側が合理性の欠如を論証しなければならない。」(伊藤『憲法』第3版、249頁)
この説を採る場合には、最低限ここに引用した範囲までは書かないと、説としての全体像が見えない。この説は、特別の意味の根拠を民主制に求めている。これに賛同する説もある(例えば芦部信喜)。確かに思想や信条に関しては民主的な要素が強いとはいえる。しかし、平等原則は、自由や民主と並ぶ基本原則であって、民主制的な当否が平等原則違反か否かを一般的に決定するとは考えられない。そこで、より平等権に密着した理由が求められた。例えば、浦部法穂は次のように主張する。
「先天的に決定される条件や思想・信条に基づく異なった取り扱いは、どのような権利・利益についてであれ、原則として許されない。」(浦部『憲法学教室』全訂第2版109頁)
この説に対して、松井茂記は「先天的な条件がすべて疑わしいものともいえないように思われる。またもし先天的な事情が疑わしいとしても、なぜ信条がその先天的なものと同一視されるのかも定かではない」と批判する。
その松井茂記自身は次のような理由を挙げる。
「これらの列挙事由は、歴史的にしか理解することは困難であろう。つまり、それらは過去において『市民』を市民でないものとして、あるいは二級市民としてしか扱わないためにしばしば用いられてきた徴表であったというべきであろう。これらの事由は、そのために社会に偏見を生み、代表者がこれらの少数者の利益を適切に代表することを拒否してしまうため、裁判所による厳格な審査が正当化されるのである。」(松井『日本国憲法』第2版、367頁)。
この問題に関する学説を、これ以上紹介しても煩雑になるばかりなのでこの辺で打ち切るが、もう少し複雑な理論を唱える者もおり、理由に関する学説はかなり錯綜している状況にある。ここで大事なのは、どんな学説があるかを知ることではなく、諸君が基本書としている説は、どのような理由からどう述べているのか、ということを正確に認識しておくことである。複数の説の理由をつまみ食いしたようなものを並べても、通常合格答案としての評価を得ることは難しい。
ここでさらに大事なことは、その基本書の述べている理由と、本問の論点である中心論点とが結びついていないと、わざわざ特別意味説を展開する必要が失われる、ということである。
例えば戸波江二は、本文には単に「不合理な差別の典型を列挙した」(戸波江二『憲法』新版、195頁)という程度に述べて、なぜこれが不合理なのかについての基準を挙げていない。その場合でも、そのあとで、「収入」という概念を例に挙げて、それに基づく納税における差別は合理的な差別で、デモ行進における差別は不合理な差別だ、と説明している。だから、戸波説をとる場合には、「不合理な差別の典型を列挙した」とだけ書いたのでは合格ラインには届かないのである。それぞれの事例問題においては、列挙事項のどれに抵触するのかを述べるとともに、なぜそれが不合理の典型なのか、という理由を事案に沿って挙げる必要があるのである。
(二) 審査基準
14条後段列挙事由が単なる例示と考えた場合の審査基準であるが、最高裁判所は一貫して狭義の合理性基準を採用している。例えば、先の最高裁判所判決引用箇所で言及されていた非嫡出子相続分合憲判決は、次のように述べている。
「本件規定における嫡出子と非嫡出子の法定相続分の区別は、その立法理由に合理的な根拠があり、かつ、その区別が右立法理由との関連で著しく不合理なものでなく、いまだ立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えていないと認められる限り、合理的理由のない差別とはいえず、これを憲法14条1項に反するものということはできないというべきである。」
これに対し、通説及びそれに従う近時の下級審判決は、次の三分説を採用している。
@ 精神的自由権に関連した差別には、厳格な審査基準を適用する。
A その他一般的な差別の合理性が問題になる場合には、厳格な合理性基準を適用する。
B 一般的な差別の中でも、経済的自由の分野における差別については、狭義の合理性基準を適用する。
例えば、上記最高裁判決と同様に、非嫡出子相続分に関する事件で、東京高裁判決は次のように述べている。
「社会的身分を理由とする差別的取扱いは、個人の意思や努力によつてはいかんともしがたい性質のものであり、個人の尊厳と人格価値の平等の原理を至上のものとした憲法の精神(憲法13条、24条2項)にかんがみると、当該規定の合理性の有無の審査に当たつては、立法の目的(右規定所定の差別的な取扱いの目的)が重要なものであること、及びその目的と規制手段との間に事実上の実質的関連性があることの二点が論証されなければならないと解される。」
ここで述べられているのが、中間審査基準であることはわかると思う。非嫡出子は精神的自由とも、経済的自由とも関係がないから、中間審査基準ということで、同じ事件の最高裁判決と鮮やかな対比を示しているのである。本問の場合にも、国籍は精神的自由権とも経済的自由権とも結びつかないから、中間審査基準と言うのが答えになるはずである。諸君の中に、この通説を採用している人はいなかったので、これ以上の説明は差し控える。
これに対し、14条1項後段特別意味説の場合には、学説の多様性に対応して、大変基準が錯綜している。一般的には次のような三分説を採用していると考えられる(例えば戸波江二前掲書195〜196頁参照)。
@ 列挙事項に該当する場合=厳格な審査基準
A 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係する場合=厳格な合理性基準
B 列挙事項以外の事由であって個人の人格に関係しない場合=狭義の合理性基準
これに対し、諸君の多くが使っているのではないかと思われる芦部信喜は次のように、これとはまったく異なる基準による三段階審査を主張する(以下の括弧内の数字は、芦部信喜『憲法学V 人権各論(1)』有斐閣1998年刊の頁数である)。
@ 人種や門地による差別=厳格な審査基準(27頁)
A 信条、性別、社会的身分等による差別=厳格な合理性基準(30頁)
B 経済的自由の領域に属するかそれに関連する社会・経済政策的な要素の強い規制立法について平等原則が争われる場合=狭義の合理性基準(29頁)
これ以上、学者ごとの使い分けの基準を並べるとこれも煩雑になるばかりなので、この2例で打ち切るが、この2例だけを見ても、かなりのばらつきがあることが判ると思う。そして、ここでは説明の手を抜いているが、この3分類の基準は、それぞれ理由があって行われている。だから、諸君としては、この場合に適用される審査基準を単に述べるだけでは駄目で、平等権に関する審査基準体系全体を説明し、かつそれぞれの分類では、どういう基準をどういう根拠で使用するのかを、理由を挙げて説明しないと、合格点には届きにくいことは判ってもらえると思う。
多くの諸君は、列挙事項に該当する、よって…という式に全く理由を示すことなく、審査基準を導いていたが、それでは評価できないことは理解してもらえたであろうか。
本問の場合、芦部説だと、14条違反をどのような点に着目して考えるかによって、大きく結果が違うことになる。すなわち、国籍法3条は内縁であることを問題とし、国籍取得に純正を求めている。しかし、わが国の場合、社会の中における法律婚の比率が非常に高く、したがって、非嫡出子は全人口のせいぜい1%程度に過ぎない、といわれる。世論調査では、非嫡出子の相続分を改めるべきではないとする意見が多数を占めているが、このような消極姿勢は、非嫡出子が、その様に社会的少数者に過ぎないことに起因しているといわれる(例えば久貴忠彦「非嫡出子の相続分に関する大法廷決定をめぐって」ジュリスト1079号51頁参照)。この点を重視すれば、芦部説でも、非嫡出子差別は、社会的少数者に対する差別となるが、社会的少数者差別の場合には厳格な審査基準が妥当するとされている。あるいは、門地に該当すると考えた場合にも、厳格な審査基準という答えが出てくる。これに対し、単に生まれに基づく差別と考えた場合には中間審査基準となる。先に述べた、列挙事項の各概念をどのように定義するかの重要性はここに出てくるのである。
* * *
本問では、問題文に限定文言を付し、かつ説明の冒頭で付した立法理由を、問題文からは割愛している。その結果、諸君の論文は、ここまでを論じてくれればよい。
しかし、本当の事件では、この限定文言や立法理由が主戦場となっていた。その点で、この判例は大変レベルの高い問題であり、この限定文言がない限り、諸君の知識のレベルではとうてい論文が書けるものではない。しかし、同時に、国家試験を受ける時点では、こうした限定形で出されても、きちんと全ての論点を論じられるようになっていてくれなければ困る。そこで、以下、本判例の主要論点について説明する。
まず問題文そのものにしかけをすることで排除した論点について説明し、ついで明文で排除した二つの論点を説明する。
四 国籍法3条1項の14条にいう合理性について
[簡単な解説]
憲法訴訟論の一環に、立法事実論と呼ばれるものがある。司法消極説の下においては、裁判所は、立法が正義に合致しているか否かを審理する権限はない(何故かと言うことは、ここでは説明の手を抜くが、秋に憲法訴訟を取り上げる時までにはわかるようになっていて呉れねば困る)。それに代わって裁判所が行うのは、その立法の合理性の審査である。そして、立法に合理性があると言うためには、その合理性を支える事実が存在していなければならない。これを立法事実といい、どのような立法事実がある場合にどのように判断するべきかという議論を立法事実論論という。
ある立法が合憲か違憲かの判断を下すためには、多岐にわたる立法事実について検討する必要がある。本問では、立法事実の提供を諸君にしていないので、実は、合憲か違憲かの判断を下すことは不可能な問題であるということができる。これは本問に限らず、一定の時間内に回答を求める試験制度の本質的な限界である。それにもかかわらず、このような問題でも、諸君は、極めて軽々にXの主張は合憲とか違憲と、決めつけて書く傾向がある。それは本来なら減点対象の誤った記述であるし、減点されない場合にも、時間や紙幅が失われるので、厳に避けるべきである。
実は、そのことが、先に述べた審査基準論の重要性を増している。すなわち、諸君の論文では、何を審査基準に選ぶかで、事実上結論が決まるという書き方をするのが正しい。
厳格な審査基準ないし厳格な合理性基準とは、立法の違憲性を裁判所としては推定し、Yがそれを反証をあげて覆さない限り、違憲として取り扱うということである。
これに対し、狭義の合理性基準は、立法の合憲性を推定し、X側がそれを反証をあげて覆さない限り、合憲と扱うという意味である。
だから、本問のように確定的に違憲審査の不可能な問題では、前者の審査基準を採用した場合には、違憲と仮定して後の論点に進むという論文の書き方が正しいのである。
(一) 不平等の所在
冒頭にも述べたが、諸君は、どのような関係で不平等な取扱いが存在しているのか、ということをきちんと吟味しないままに、非嫡出子差別の問題であるという結論に飛びついている。諸君が行わなければならなかったのは、その点の正確な分類である。本事件のベースとなった地裁判決(以下「18年判決」という)は次のように分類した。
〔1〕日本国民を母、外国人を父として出生した嫡出子は、国籍法2条1号により日本国籍を取得し、
〔2〕日本国民を父、外国人を母として出生した嫡出子は、国籍法2条1号により日本国籍を取得し、
〔3〕日本国民である母と外国人の父との間に出生した非嫡出子は、国籍法2条1号により日本国籍を取得し、
〔4〕日本国民である父と外国人の母との間に出生した非嫡出子のうち、日本国民である父から胎児認知を受けたもの、国籍法2条1号により日本国籍を取得し、
〔5〕日本国民である父と外国人の母との間に出生した非嫡出子のうち、父から生後認知を受け、かつ、父母が婚姻したもの(準正子)は、国籍法3条1項により日本国籍を取得することができ、
〔6〕日本国民である父と外国人の母との間に出生した非嫡出子のうち、父から生後認知を受けたが、父母が法律上の婚姻をしていないもの(非準正子)は、国籍法2条にも、3条1項にも該当しないから、出生又は届出による日本国籍の取得をすることができないことになる。
すなわち、日本国籍は一般に、嫡出子であるか、非嫡出子であるかの別なく取得できるのであるが、〔6〕に該当する場合だけが阻まれるのである。
これが合理的と言えるか否かが、次の論点である。18年判決は、XY双方から提起された準正に限定することの根拠を、@我が国との強い結び付きないし帰属関係、A法律婚の尊重、B準正要件の基準としての客観性、C偽装認知のおそれ、D各国の法制度、E条約等との関係、と多岐にわたって検討している。すなわち、それだけの項目に渡って検討を行って、ようやく合憲・違憲の判断が可能になるのである。
しかし、このうちの幾つかは、諸君の知識の限りでも、立法事実の検討が可能であるから、検討しなければならない。
(二) 我が国との強い結び付きないし帰属関係
Y(政府)が、国籍法3条の立法事実として一番強調したのがわが国との結びつきである。
本問で、論点となった国籍法の規定は、昭和59年に女性差別撤廃条約を批准するに当たり、国籍法の父系主義を父母両系主義に改正した際に、制定されたものである。一連の判決が認定したところによれば、法3条1項の基本的思想は、国籍法が基調とする血統主義を前提としつつ、出生時に日本人父と法律上の親子関係を有していなかったことから、法2条1号によっては日本国籍を付与されなかった日本人の実子について、届出によって補完的に日本国籍を認めようとしたものであるという。すなわち、血統主義の観点だけからみれば同じ日本人の実子であっても、父親から認知を受けたにすぎない子の場合は父親と生活上の一体性を欠くことが通常であり、親子関係が希薄であることから、我が国との結びつきも強いとはいえないという理由で国籍付与の対象から除外したものであるという。
確かに、国籍の付与は、基本的に強い結び付きないし帰属関係が認められる場合に与えるというのが、どこの国でも採用されている立法主義である。そして、各国の法制は、それを認める手段として、血統主義をとる国と属地主義をとる国に分かれる。しかし、どちらもそれを徹底することはしない。日本は血統主義をとるが、補完的に属地主義を採用する(国籍法2条3号)。逆に米国は、属地主義を採用するが、補完的に血統主義を採用し、外国で生まれた米国人の子に、他よりも容易に国籍をとる道を開いている。
しかし、仮に日本との結び付きの強さというものを重視するとしても、その基準を準正に求める理由ははっきりしない。属地主義は、通常、その国との結び付きの強さを基準にする。その場合に重視されるのは、その国で生まれ、育つということである。こうした属地主義的な要素を導入するのならともかく、なぜ準正という異質の制度がこの場合にだけいわれなければならないのか、ということは、政府説明でもよく判らないのである。
そもそも血統主義は、属地主義と異なり、わが国との結び付きの強さというものは基本的に問題にしない。例えば、ペルーの元大統領のフジモリ氏を考えてみよう。彼は1938年にペルーの首都リマで生まれた。両親は日本の熊本県出身であり、ペルーに1934年に移住した移民である。しかし、彼が誕生すると両親は日本の領事館に出生を届け出たため、同氏は日本国籍を保有することになった。諸君も承知しているとおり、同氏はその後、ペルー国民として生きて大統領にまでなった。つまり、まったくわが国との結びつきのない人物でも、国籍を付与するのが血統主義というものなのである。
したがって、仮にYの言うとおり、血統主義の補完が必要になったのであれば、属地主義を導入するのが妥当で、非嫡出子を差別するような第3の基準を導入するのは、妥当性を欠くと言える。
最大の問題は、なぜ、父親が日本人であり、かつ出生後に認知した場合に限って、準正が要件になるのか、という点である。
また、冒頭に元ペルー大統領の例を挙げた。あの場合には嫡出子であったが、それと同様に、準正子という条件は、日本国内で生まれ、居住することを求めるものではないから、我が国との強い結び付きないし帰属関係を証明するものではない、という点も指摘するべきであろう。早い話、日本人である父親が認知後に母親と正式に婚姻しさえすれば、その子が母親の母国で生まれ、一貫して母国で居住していて、事実としては日本との帰属関係を全く持たない場合でも、立派に準正子なのであるから、日本国籍が与えられるのである。
(三) 法律婚の尊重
Y側としては、何度も引用している非嫡出子に関する相続分の差別を例にとり、法律婚主義の下では、非嫡出子に対する差別をしても良いのだ、と主張する。
これに対し、厳格度を増した基準の下では、法律婚主義の尊重が、国籍法についても言えるか、という点を検討するべきである。先に指摘したとおり、3条1項のケースを除いては、国籍法は法律婚か内縁かを区別していないからである。
なお、18年判決は次のような指摘も行っている。
「上記のような日本国内における民法上の取扱いの差異とは異なり、非嫡出子が、両親が婚姻していないがゆえに日本国籍を取得することはできないとすることは、両親が婚姻している嫡出子に比して明らかに不利益な取扱いであり、かつ、基本的人権の保障を受ける上でも、また、日本国内において現実に生活を送る上でも、重大な障害となることは明らかである。日本国籍を認められた上で民法上の取扱いの差異が生じることと、そもそも日本国籍が認められないことは、全く問題を異にするものであり、前者において法律婚の尊重の観点から合理的な理由があるからといって、後者においては優れて子供自身の問題なのであるから、その両親についての法律婚の尊重という観点から合理的な説明を行い得るとすることはできないといわざるを得ない。」
五 条約について
これも立法事実の検討の一環である。本問ではXに単に14条違反と主張させることで、この論点を排除しているが、数多くの国際条約が存在しているのでそうした排除文言が無い場合には避けて通ることは許されない。
(一) 基本的問題
平等権関連の領域では、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、児童の権利条約という調子で国際条約が多数存在し、近時、現実の裁判において重要性を増している。したがって、当然論点となる。児童の権利条約以外にも、国際人権規約や女性差別撤廃条約も論点になるのだが、あまりたくさん挙げても大変なので、ここでは一番容易な児童の権利条約に限定して説明する。
条約について論じると言う場合、多くの諸君がこれを憲法と条約のいずれが優位するか、という問題ととらえる傾向を示す。ポツダム宣言のように、条約の内容と憲法とが矛盾する場合に、それを論じるのはよい。しかし、本問のように、わが国が、憲法の定める条約締結手続にしたがって締結されている条約では、そのような衝突があるわけがないから、それは基本的に論点にならない。
本問のような条約の場合、条約は憲法の細部規定と考えるのが、一番理解が容易であろう。例えば、知る権利を考えてみよう。わが憲法21条は、言論、出版など対外的表現行為を例に挙げて、表現の自由を保障している。だから、かつての学説は、知る権利が人権とは考えなかった(例えば宮沢俊義)し、最高裁判所もそうだった(例えば石井記者事件)。しかし、国際人権B規約19条2項が、表現の自由を「あらゆる種類の情報を求め、受け、及び伝える権利」と定義した結果、今日では知る権利が21条の保障の下にあることを疑うものはいなくなった(知る権利を憲法21条では依然として読めないと主張しても、知る権利を否定する立法が条約違反として無効になることに変わりはない)。
このように、今日、我々は、わが憲法の漠然たる表現をより具体的に補完するものとして国際条約を読むのである。だから、本問の場合にも、14条を児童の国籍についてどう考えるのか、という補完手段として条約を考えればよい。すなわち、条約違反であれば、14条違反と考えるのである。
児童の権利条約2条は、次のような条文である。
「1 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。
2 締約国は、児童がその父母、法定保護者又は家族の構成員の地位、活動、表明した意見又は信念によるあらゆる形態の差別又は処罰から保護されることを確保するためのすべての適当な措置をとる。」
ここで、問題になるのは、「この条約に定める権利」という文言である。これは具体的には7条を意味する。こうした基幹的な条約については、日頃からなじんでいる必要がある。試験場の受験用法文は現実問題として短い試験時間では利用できないと理解しておいてほしい。7条は次のように規定している。
「1 児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。
2 締約国は、特に児童が無国籍となる場合を含めて、国内法及びこの分野における関連する国際文書に基づく自国の義務に従い、1の権利の実現を確保する。」
ここに、登録という言葉で表現されているのが、国籍の取得のことであることは明らかであろう(各国の国籍制度のばらつきに対応できるように、このような曖昧な表現がとられている)。
(二) Yの主張
Yの主張は一つしかありえないことは明らかであろう。要するに、国籍法3条1項は、条約に違反していない、というものである。もう少し詳しく説明すると、例えば、次のような主張になる(18年判決より引用)。
「児童の権利に関する条約2条1項については、非嫡出子に関して、明示の定めを欠いており、少なくとも、国籍の取得という局面における嫡出子と非嫡出子との取扱いの違いについてまで規定していると解することはできない。また、同条2項にいう『地位』については、これが『活動』、『表明された意見』及び『信念』と同列に並べられていることにかんがみると、これは、父母が特定の政党の構成員であるなどといった『政治的・社会的地位』を意味すると解するのが素直であり、父母が法律上の婚姻関係にあるか否かなどといった身分的・親族的地位を指すと解することは困難である。よって、これらの規定が、国籍取得における嫡出子と非嫡出子との取扱いの違いについてまで規定していると解することはできない。」
同様に、7条については次のように述べる。
「児童の権利に関する条約7条は〈中略〉と規定している。しかし、これらの規定は、無国籍児童の一掃を目的としたものであり、無国籍児ではない非嫡出子に対して締約国の国籍を付与することを締約国に義務付けたものとまで解することはできない。」
(三) 学説的には
わが国は、国連児童の権利委員会より、2004年2月26日に、本条約に関して、次のような勧告を受けている。
「委員会は、締約国が、婚外子に対するあらゆる差別、特に相続や市民権、出生登録における差別や『非嫡出』なる差別用語を法律及び規制から撤廃するために法律を改正するよう勧告する。」(児童の権利委員会最終見解26より引用)
文中、締約国というのは、日本のことである。児童の権利条約が自力執行可能な条約といわれる根拠となる、条約管理機関が、本条を条約違反と考えているという事実は、上記Yの解釈は誤りであることを端的に示している。
何故誤りなのかを理解するのは容易である。条約7条は、Yの解釈でも、無国籍児の発生を防止することを締約国の義務としている。ところが、国籍法3条1項は、母親の母国法がどうなっているかを問うことなく、〔6〕のパターンの場合に、非嫡出子に国籍付与を一律に拒否している。だから、例えば母親がアメリカ人であれば、シャピロ・エステル・華子事件*[1]に明らかなとおり、この子は確実に無国籍者になってしまうのである。したがって、これはYの条約解釈に依存した場合にも、明らかに、条約7条に違反した立法であり、無効といわねばならない。
ここで、今度は明文で除外した二つの論点に議論を移そう。
六 憲法10条
これは憲法訴訟論で詳しくは論じられる立法裁量論の問題である。簡単に説明する次のような議論である。
「裁判所が法律の合憲性の審査を求められたとき、立法府の政策判断に敬意を払い、法律の目的や目的達成のための手段に詮索を加えたり裁判所独自の判断を控えることを、立法裁量論という。」(戸松秀典『立法裁量論』有斐閣1993年刊、3頁より引用)
戸松秀典によると、立法裁量には次の3種がある。
1 広い立法裁量
例えば、小売市場事件(最大昭和47年11月22日)に代表されるもので、「立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は右裁量的判断を尊重するを建て前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲としてその効力を否定できる」とするものである。
2 狭い立法裁量
例えば、衆院議員定数違憲判決(最大昭和51年4月14日)に代表されるもので、「不平等が、国会において通常考慮し得る諸般の要素をしんしゃくしてもなお、一般に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を越えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り憲法違反と判断するほかはない」とするもので、明らかに広い立法裁量に比べ、国会の立法裁量権に対する尊重の度合いが狭くなっている。
3 立法裁量論の不適用(立法裁量権のゼロへの収束)
例えば、ハンセン病事件熊本地裁判決(熊本地裁平成13年5月11日判決)に代表されるもので、国会の立法裁量権を考慮することなく、合憲違憲の審理を行うのがそれである。
そして、審査基準論との対応関係では説の分かれるところであるが、例えば、戸松秀典によると、広い立法裁量は狭義の合理性基準、狭い立法裁量は中間審査基準(厳格な合理性基準)、立法裁量論の不適用が厳格な審査基準にそれぞれ対応するという。
本問の場合、憲法10条を見ると、単に「法律でこれを定める」だけあって、何ら制限文言が付いていない。したがって憲法としては、国会に全面的な立法裁量権を予定していると考えることができる。そうなると、広い立法裁量に該当するから、裁判所には審理権はないと考えるか、仮に14条を適用するとしても、「著しく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲としてその効力を否定できる」ということになる。このように考えた場合には、この段階で問題に対する答えは終わり、それ以上書くことはない。それでは、せっかくのゼミ問題の意味がないので、排除したわけである。
それに対し、違憲判決を指向する場合には、この論点を撃破しておかねばならない。例えば、18年度判決は、次のように論じた。
「国籍の得喪に関する要件の定め方において、立法府に広範な裁量が与えられているとしても、その結果生じた区別は、あくまでも憲法によって許される範囲内で認められるものにすぎないから、国籍の得喪に関する要件が定められた結果によって生じた区別が合理的な理由のない差別であれば、やはり、憲法14条1項によって禁止されるといわざるを得ない。
そして、国籍の取得は、我が国において基本的人権の保障を受ける上で重要な意味を持つものであることは多言を要しない。また、法の下の平等は、民主主義社会の根幹を成す重要なものである。これらの点を考えると、国籍の得喪に関する要件をいかに定めるかについては、立法府に広範な裁量が認められるとしても、それは自由に定め得るというわけではなく、国籍の得喪の要件における区別の合理性が必要であり、本件では、この点につき判断することが求められているものと解すべきである。
また、実際にも、子供の福祉の観点からも、また親の感情の面からも、日本国民を親として生まれてきた子供は、日本国籍を持つことを期待していることが多いことは容易に想像し得るところである。したがって、このような期待が当然の権利であるということはできないものの、後述するように、現行の国籍法が父母両系血統主義に拠って立って立法されていることにかんがみると、その期待は、無視することはできず、前記の合理性の判断をする上でも、重要な考慮要素になると考えるべきである。
そうすると、立法府に与えられた前記の広範な裁量を理由として、日本国民の子供の間で、国籍の取得につき異なる扱いをすることを当然に肯定することはできないというべきである。」
別にこれに従う必要はないが、このような何らかの論理で立法裁量論を撃破しておかないと、普通の14条論に移行できないことは理解しておいてほしい。
七 救済法
先に述べたとおり、本問で提供されている資料の限りでは、諸君は確定的に合憲か違憲かの決定をすることはできない。そして、本問の問題構造上、救済法が論点になること明らかである。したがって、限定文言が問題文に付されていない場合には、審査基準論で何を採用したかに関わりなく(つまり明白性基準を採用した場合にも)、「今仮に、国籍法3条1項が違憲と判断された場合には、救済法が問題になる」と書いて、以下の議論をしなければならない。
国は、この事件において、仮に国籍法3条1項が憲法14条1項に違反して無効であるとしても、これまで国籍法3条1項によって認められていた準正による嫡出子の国籍取得が認められなくなるだけのことであり、このことによって非嫡出子である原告らの国籍取得原因が発生することにはならないから、Xの主張には理由がない、と反論した。要する
「憲法によって裁判所に与えられた違憲立法審査権は、存在する規定についてそれが違憲であるかどうかを審査し、違憲と判断したときにはこれを無効として、つまりいわば存在しないものとして、適用しないことを本質とする。ある規定が実定法上に存在しないとき、それがいかに憲法上望ましいものであろうとも、違憲立法審査権の名の下に、これを存在するものとして適用する権限は裁判所に与えられていないのである。」
要するに、違憲立法審査権は、憲法41条との関連において権力分立制を重視する場合には、その効果は立法の無効を宣言することに尽きるのであって、さらに進んで積極的な立法活動をすることはできないと考えるのである。
このように考える場合には、国籍法が14条違反と判断された場合にも、違憲宣言を下すに留まり、実質的な救済は、その違憲宣言に触発されて国会が、国籍法の改正を行わない限り不可能という結論になる。しかし、米国においては、ブラウン事件*[2]に代表されるように、救済法の導入が、判例上認められている。さらにわが国でも、高田事件*[3]に代表されるように決して絶無ではない。そこで、わが国でも高田事件的な論理の範囲内において、何らかの憲法訴訟論的な手法により、救済法の導入が可能ではないかということが検討されてきた。
学説的には二つの説が、最高裁判決以前において存在していた。
第一は、何らかの合憲限定解釈の手法により、国籍確認の判決を下すことである。
第二は、判決では規定の不存在の違憲性を確認するにとどめ、どのような立法で解決するかは立法者に委ねるという手法である。
最高裁はこの第一の道を選んで、違憲判決を下したことは、諸君の知るとおりである。救済法ついては、詳しくは、昨年12月17日のゼミ問題レジュメを参照してほしい。
*[1] シャピロ・エステル・華子事件=国籍法が父系主義を採用していた時代において、米国人の父と日本人の母の間に日本で生まれた原告・控訴人が、米国法が属地主義で米国籍も取れず、無国籍になったことから、国籍法を憲法14条違反として争った事件。東京高裁(昭56(行コ)27号)昭和57・6・23判決、判例時報1045号78頁 LEX-DB27604039
*[2] ブラウン事件=小学生であったオリバー・ブラウンが、人種別学を強制する州法は、修正14条の平等保護規定に違反しているとして、法律の執行差し止めと、最寄りの白人生徒の通う学校に入学する許可を求めて提訴した事件。この事件は、長期にわたったが、最終的に米国連邦最高裁が、立法府や行政府に代わって人種隔離制度の撤廃に向けての推進者としての役割を引き受けた。詳しくは、畑博行『アメリカの政治と連邦憲法裁判所』有信堂1992年刊156頁以下参照。
*[3] 高田事件=他の事件の審理のため、長期にわたって審理が中断した事件において、憲法37条1項の迅速な裁判の保障に反するとして、法律上の根拠はないにも拘わらず、免訴とされた事件。最高裁(昭45年(あ)第1700号)昭和47・12・20判決、判例時報687号18頁 LEX-DB27760987