未成年者の人権

甲斐素直

問題

 A市は,児童・生徒によるインターネットの利用を促進するため,市立のすべての小学校,中学校,高校で児童・生徒がインターネットを使えるようコンピューターを配置するとともに,児童・生徒が教育上ふさわしくないサイトにアクセスすることがないように,コンピューターにフィルタリングを導入し,性的に刺激的な内容,残虐性を助長する内容,自殺を肯定したり奨励する内容など,児童・生徒の健全な発達を阻害するおそれがあると教育委員会が判断したサイトヘの接続ができないようにした。

 この措置が提起する憲法上の問題について検討せよ。

平成15年度公務員国家1種法律職試験問題

[はじめに]

 本問は、何の予備知識もなく取り組む場合には大変な難問たり得る。幸いなことに、出題時にアナウンスしたとおり、岐阜県青少年保護育成条例事件という名で知られる有名な判例がある(最高裁第3小法廷平成元年919日判決=百選[第5版]114頁=以下、「岐阜県事件」という)。念のため、簡単に事実関係を説明すると、岐阜県では、児童・生徒が教育上ふさわしくない図書を読むことがないように、図書の内容が、著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長するため、青少年の健全な育成を阻害するおそれがあると認めるときは、当該図書を有害図書として指定するものとし、有害図書と指定された雑誌を自動販売機で販売すること禁じたことが問題となった事件である。

 つまり、岐阜県事件における自動販売機をインターネットに、有害図書を有害サイトに、そして知事の指定の代わりに教育委員会によるフィルタリングと言葉を入れ替えて、岐阜県事件をリライトすると、自動的に最低限度の合格答案なら書き上げることが出来る。だから、今回は論文も沢山出て、合格答案が揃うと期待したのだが、どうやらこの判例を読む手間さえ掛けてもらえなかったらしく、今回も惨憺たる結果となっている。

 但し、リライトすれば合格答案になると言っても、一点注意を要する。それは、この判例が平成元年時点のものである点である。すなわち、わが国は平成6年に児童の権利条約を批准した。したがって、積極的に児童の権利条約そのものの違憲性を主張するつもりがあればともかく、そうでなければ、今日、未成年者の人権に関する論文は、この条約を前提として議論を展開しなければならない。その意味で、リライトに当たってはこの条約を論点に加味する努力が必要となる。

 以下、未成年者の人権について、基本的な考え方を説明し、それを前提に、岐阜県事件と対比しつつ、個々の論点を検討することとしよう。

 

一 未成年者の人権はなぜ制約可能か

(一) 論文作成にあたっては常にその論文を通じた基本哲学の確立が重要である。それなくして、単に事実をかき集めて羅列したり、個々の論点について、前とは独立していくら詳細に論じたところで論文の体をなすとはいえない。本問の場合、その根本的な問題とは、そもそも未成年者に人権が認められるのか、という点である。そして、認められるとして、その制限はいかなる論理の下に、どの限度で認められるのか、ということになる。

(二) 欧米における考え方は、諸君の論文レベルでは触れる必要はないが、根源的な考え方を整理する上で有用なので、以下に簡単に説明する。

 欧米では、主権論の根本において、狭義の国民主権論が主流のわが国と違って、人民主権論が一般に肯定されている。人民主権論は社会契約説を基礎にしているから、社会契約に参加できる能力が、人民となるための要件になる。この結果、人とは人民になる能力を有する者、つまり成人だけを指す。

 この結果、かつてパスカルが「子供は人間ではない」と言ったことに端的に表れているように、子供は不完全な人に過ぎず、したがって、欧米では伝統的に子供に権利の主体性を認めることがなかった。そのような考え方の下では、未成年者にどの範囲で権利を認めるかは、国家のパターナリスティックな裁量に服することになる。つまり、その場合には、権利が制限されているのではなく、むしろどの範囲で権利を認めるかが問題となる。そうした発想の下で本問を見れば、本問は児童の権利を制限したのではなく、インターネットへのアクセス権を国が認めた事例と言うことになり、議論はそこで終わる。

(三) この点で興味深いのが、米国における児童の権利についての議論の変化である。米国では、初期においては欧州と同様に児童の権利主体性については否定的であった。しかし、ウォーレン連邦最高裁長官の登場とともに、流れが変わる。ウォーレンは1896年以来、数十年にわたって確立していたSeparete but Equalは合憲とする最高裁判例を破棄し、黒人の平等を確認したブラウン判決(1954年)を皮切りに、警察官に取調べに先立ち被疑者の権利告知を義務づけるいわゆるミランダ警告(1966年)を確立するなど、数多くのリベラルな判決を下したことで知られる、いわゆるウォーレン・コート(Warren Court)と呼ばれる一時代を築いた。

 1969年のティンカー事件(Tinker v. Des Moines Independent Community School District, 393 U.S. 503 (1969) )は、そのウォーレン・コートの掉尾を飾る事件である。この事件では15歳のジョン・ティンカー(John F. Tinker)とその仲間達が、ベトナム戦争への抗議の意を込めて、黒い腕章を巻いて登校したことを学校側が処罰したことが問題となった。その判決で、最高裁は、「校門をくぐったとたんに生徒も教師も言論、表現の自由への憲法上の権利を失うものではない。」という格調高い表現で知られる生徒の人権容認を行った。それ以来、米国にはキディリブの強い潮流が存在していた。

 この時期の米国の主導で作られたのが、国連児童の権利に関する条約で、児童に人権共有主体性を明確に肯定した点に特徴がある。

 ところが、この判決によるSchool Speech法理の確立によって、米国では急速に「学校の荒廃」が進行、激化し、単に児童生徒の能力が低下するばかりでなく、性風俗の早熟化、麻薬や銃器の濫用等に象徴される心身両面に渡る問題の深刻化した。その結果、そうした自由主義は、むしろ行き過ぎた自由化との認識が広まった。

 こうした基本思想の変化を受けて、連邦最高裁判所も、1986年のフレイザー事件(Bethel School District v. Fraser, 478 U.S. 675 (1986))事件においては、高校生には、性的な風刺を含んだ発言を生徒総会で行う憲法上の自由は保障されていないとした。下品なスピーチ(indecent speech)には、ティンカー判決の保障は及ばないとしたのである。さらにヘイゼルウッド事件(Hazelwood School District et al. v. Kuhlmeier et al., 484 U.S. 260(1988))においては、学校は、学校の経費で発行している学校新聞記事の内容を、正当な教育上の理由があれば規制する権利があるとして、同じくティンカー事件の適用を制限した。

 モース対フレデリック事件(Morse v. Frederick, 551 U.S. 393 (2007))では、修正1条に合致する場合においてすら、学校主催の行事であれば、学校の敷地外(実際には公道上)で開催されたものであっても、違法薬物の使用をそそのかす発言と合理的に見なしうる場合には学校は規制しうるとした。このように、完全に裁判所は完全に児童の権利の制限傾向を見せている。

 こうした世論の逆行を受けて、米国においては、児童の権利条約は激しい批判の対象となり、今日に至るまでこれを批准していない。

(四) わが国では、子宝という言葉に示されるように、子供を大事にする思想が強く、そのことは昭和26(1951年)という非常に早い時点で「児童憲章」が作られているという点にも現れていると言える。わが国の問題は、子供を単に庇護の対象として考える傾向が強く、子供そのものを権利の主体として尊重するという発想に乏しかった点である。それが、一方的に大人の価値観を押しつける、いわゆる校則問題の多発などにつながったのである。

 したがって、わが国において、児童が人権主体性が認められていのか、それとも欧米と同じくパターナリスティックな保護の対象としていたのかは、従来必ずしもはっきりしていなかった。その意味で、児童の権利に関する条約をわが国が批准したことの持つ最大の意義は、児童の権利という概念を明確に確立したこと、したがって従来の児童保護手段についても、その観点から、改めてその当否及び射程距離を再構成する必要を迫っているという点に存していると言っても差し支えないであろう。

(五) 今日、未成年者が人として基本的人権の享有主体として肯定される点にはまったく疑問の余地がない。未成年者の権利制限は、女性における権利制限(例えば、坑内労働や妊産婦等の危険業務に対する就業等の禁止)と性格を同じくする。すなわち福祉目的により行われるものである。ただ、未成年者というものの特殊性が、女性に対する保護よりもその範囲を広くし、かつ程度を高めているに過ぎない。

 

二 未成年者の知る権利とその限界

(一) 知る権利の権利性の議論

 本問で論文を書く場合、知る権利それ自体が論点であることは明白である。報道の自由に関する議論に明らかなとおり、かつて、わが国最高裁判所は、憲法21条では知る権利は含まれていないと判決していた。したがって、この無名基本権が21条に含まれるということについては、一定の行数を投入しなければならない。同時に、本問の場合、議論の中心は、知る権利が権利であるか否かではない。あくまでも、未成年者の場合に、その制限が認められるか、という点にある。知る権利の権利性は、それに至る導入部としての役割を担っているにすぎない。したがって、全体のバランスを考えるなら、せいぜい23行くらいしか投入できない、という判断を下せなければいけない。

 実をいうと、本問で問題としているインターネットと知る権利の関連は、それを真っ向から行うとかなり難しい議論になる。その意味でも深い議論は避けるという戦術を検討するべきである。単にこれだけを述べても判りにくいと思うので、本問とは関係がないが、簡単に説明する。

 普通、知る権利は20世紀型人権として説明される。20世紀において、マス・メディアが出現して情報の送り手と受け手が分離するとともに、社会国家が発達したことが、知る権利の権利性をうみだす大きな理由と説かれる。ところが、今日、このマス・メディアの情報発信の寡占状況は、インターネットの出現により大きく揺らいでいる。なぜなら、インターネットの世界では、だれもがホームページを作ることにより、きわめて容易に情報の発信者となることが可能となった。大企業が、一消費者のホームページの前に全面降伏を余儀なくされるような事件が現実に多発しているのである。こうした状況の中で、知る権利をどう説明するかは、学説的にはきわめて難しい問題になる。

 こういう問題に、学生諸君が上手に答えようとしても無理だし、本問の中心論点はこういうところではなく、これは単なる導入部にすぎないから、先に述べたとおり、簡単に触れる程度で逃げる方が、余計な記述をして減点されるよりも賢い戦略なのである。私としてお勧めしたいのが、先に紹介した児童の権利条約13条と世界人権B規約192項から論証することである。

 児童の権利条約13条は、次のように述べる。

1 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。

2 1の権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。

a 他の者の権利又は信用の尊重

b 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

 これを見ると、その述べている内容は、国際人権B規約192項とほとんど違わないことが判るであろう。すなわち、この二つの条文は、どちらも、表現の自由をあらゆる種類の情報を求め、受け、及び伝える自由と述べているが、この求める自由及び受ける自由だけが問題となるとき、知る権利という、という程度の記述である。

(二) 未成年者の知る権利の重要性

 提出された論文では、未成年者の人権は制限可能である、とあっさり論じていたが、それは間違いである。

 本問の規制は、憲法の保障する精神的自由にかかわるものであるから、経済的自由に対する規制などに比べると、はるかに慎重な検討を要する問題である。例えば、米国では、本問に現れたような規制を連邦レベルで法律(Communications Decency ActCDA、通称「通信品位法」)で実施しようとしたが、連邦最高裁から違憲判決を受けて挫折している(Reno v. American Civil Liberties Union, 521 U.S. 844 (1997))。ただ、本問では、一般人を対象としない、学校内に設置されているパソコンのみを対象にしている点で、問題は米国の事例はもちろん、岐阜県事件よりもはるかに平易なものとなっている。

 伊藤判事は、未成年者の知る権利を制限しうる根拠として、岐阜県事件の補足意見で次のように述べた。

「青少年の享有する知る自由を考える場合に、一方では、青少年はその人格の形成期であるだけに偏りのない知識や情報に広く接することによって精神的成長をとげることができるところから、その知る自由の保障の必要性は高いのであり、そのために青少年を保護する親権者その他の者の配慮のみでなく、青少年向けの図書利用施設の整備などのような政策的考慮が望まれるのである」

 この補足意見を知らなくとも、冒頭に述べたとおり、児童の権利の問題では、機械的に児童の権利に関する条約をチェックするという姿勢を持っていれば、同じような結論に容易にたどり着くことができる。すなわち、児童における知る権利保障の必要性が高いことについては、児童の権利に関する条約17条が次のように明言している。

「締約国は、大衆媒体(マス・メディア)の果たす重要な機能を認め、児童が国の内外の多様な情報源からの情報及び資料、特に児童の社会面、精神面及び道徳面の福祉並びに心身における健康の促進を目的とした情報及び資料を利用することができることを確保する。」

 同条はこれを受けて、さらに具体的な保障に論及するのであるが、ここに述べられていることと伊藤補足意見は、表現こそ違え、児童の知る権利の重要性を述べたものである。諸君も、議論に当たってこの原点、すなわちある意味においては、知る権利は、児童において、成人の場合より一層重要性を有することを看過してはならない。

(三) 未成年者の人権制限

 問題がこれだけであれば、本問の結論は規制は許されないということになる。しかし、盾の半面も忘れてはならない。

 岐阜県青少年保護育成条例に代表される、いわゆる有害図書を青少年の手に入らないようにする条例は、かなり多くの地方公共団体において制定されているが、その背景には、今日のメディアが、地方公共団体によって有害図書に該当するとされた各雑誌を含めて、表現の自由の保障を受けるに値しないと考えられる、価値の極めて乏しい出版物を、もっぱら営利的な目的追求のために刊行している、という現実がある。そのため、規制が一般に受けいれられやすい状況がみられるに至っている。その結果、各都道府県等の制定している青少年保護育成条例に見られるような法的規制に対しては、表現の送り手であるメディア自身も、社会における常識的な意見も反対しない現象があらわれている。

 岐阜県で問題となった、自動販売機による有害図書の販売について、最高裁は「自動販売機による有害図書の販売は、売手と対面しないため心理的に購入が容易であること〈中略〉から、書店等における販売よりもその弊害が一段と大きいといわざるをえない。」とのべた。この直接対面性の欠如は、本問で取り上げられているインターネット上の有害サイトでは、一層顕著であり、しかもこうした印刷メディアの場合よりもはるかに過激な場合が少なくなく、深刻な問題を引き起こしている。

 ここで、規制を許容する大義名分が、条例名に現れている青少年の保護育成という概念である。岐阜県事件で、上記引用箇所に引き続いて、伊藤判事は次のように述べる。

「他方において、その自由の憲法的保障という角度からみるときには、その保障の程度が成人の場合に比較して低いといわざるをえないのである。すなわち、知る自由の保障は、提供される知識や情報を自ら選別してそのうちから自らの人格形成に資するものを取得していく能力が前提とされている、青少年は、一般的にみて、精神的に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要があるといわねばならない。」

 この点について補完すれば、次のように言えるだろう。

 近代国家における法制度を支配する最も重要な原理である自由主義及び平等主義は、基本的にすべての人が同等の能力を持つことを前提に、私人に対する政府の干渉を排除し、同等の機会を提供することを持って必要にして十分なものとする。しかし、現実の国民は決して同等の能力を持つものではない。特に、完全に自由競争に委ねたのでは、その犠牲者となることが確実なほどに能力の劣るものに対しては、国家として積極的に私人間に介入し、それによって実質的に自由及び平等の回復を図ることが必要となる。これが20世紀型基本原理とも言われる福祉主義である。

 そこでは、社会的、経済的ないしは肉体的に弱者であるものが強者との平等の自由競争にさらされることにより、一方的に収奪・搾取される事態の発生を防ぐ責務を国家に要求すること自体が国民の基本的人権の一翼を構成しているものと理解する。そして、一般に未成年者はそうした弱者としての地位にあることから、その保護のための様々な政策が採られることとなる。未成年者の場合、その発達段階にもよるが、そうした保護が、日常生活のあらゆる面に及ぶため、一般に強者として理解される成人男性を基準として人権を考えた場合、人権に対する抑圧原理として現れてくる場合もある。しかし、それをもって未成年者が人権を否認されていると考える必要はない、ということなのである。

 すなわち、未成年者は、成年者よりも強く知る権利を保障されるからこそ、その強い保障が、福祉主義の要請から、権利制限という形態をとることもある、というわけである。

 しかし、ここまでの議論だけでは、いまだ教育委員会のフィルタリングを肯定することはできない。なぜなら、26条で述べた教育の私事性から、

「もとよりこの保護を行うのは、第一次的には親権者その他青少年の保護に当たる者の任務である」(旭川学テ判決より)

という結論が出てくるからである。そこで、公教育の導入と同じように、現代社会における複雑性の下では、そうした親の監督権は

「それが十分に機能しない場合も少なくないから、公的な立場からその保護のために関与が行われることも認めねばならないと思われる。」

と述べて、はじめて本問規制の肯定可能性が生まれてくるのである。公的機関による未成年者の人権制限のためには、どのような議論を積み重ねる必要があるかが判ってくれたと思う。

 

三 憲法訴訟論に関する緒論点

 こうして、ようやく憲法実体法のレベルでは教育委員会の関与権を認める、という結論が引き出せたのであるが、これだけでは、依然として本件フィルタリングが肯定されるという結論までを引き出すことはできない。二重の基準論から、精神的自由権に対する制限を裁判所として肯定するには、厳格な審査が要請されるからである。

 これが精神的自由権以外の人権規制が問題になっているのであれば、狭義の合理性基準(明白性基準)で判断すればよい。例えば、校則による丸刈り強制事件において、熊本地裁は、校則「の内容が著しく不合理でない限り、右校則は違法とはならない」として、狭義の合理性基準を採用した上で、「丸刈にしたからといつて清潔が保てるというわけでもなく、髪形に関する規制を一切しないこととすると当然に被告町の主張する本件校則を制定する目的となつた種々の弊害が生じると言いうる合理的な根拠は乏しく、又、頭髪を規制することによつて直ちに生徒の非行が防止されると断定することもできない。《中略》してみると、本件校則の合理性については疑いを差し挟む余地のあることは否定できない」としながらも「丸刈の社会的許容性や本件校則の運用に照らすと、丸刈を定めた本件校則の内容が著しく不合理であると断定することはできない」としているのである(熊本地裁昭和601113日判決=百選[第5版]48頁参照)。

 これに対して、厳格な審査をする場合には、有害サイトへのアクセスが児童の非行化を招くという証拠が存在するわけがないから、フィルタリングが合憲であると言う結論が出てくるわけがない。したがって、諸君としてまず必要になるのは、未成年者に関しては、審査基準を成人の場合よりも緩和してよい、という理論の展開である。

 伊藤判事は、岐阜県事件補足意見で次のようにいう。

「ある表現が受け手として青少年にむけられる場合には、成人に対する表現の規制の場合のように、その制約の憲法適合性について厳格な基準が適用されないものと解するのが相当である。」

 理由はこれまで述べてきた福祉主義である。

 そうであるとすれば、一般に優越する地位をもつ表現の自由を制約する法令について違憲かどうかを判断する基準とされる諸原則、例えば明白かつ現在の危険原則とか、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)原則、はそのまま適用されない。同様に、事前抑制の禁止原則とか明確性原則といった違憲判断の基準についても、成人の場合とは異なり、多少とも緩和した形で適用されることになるものと考えられる。具体的に以下検討しよう。

(一) 立法事実論について

 厳格な審査は、二つの要件から成り立っている。目的の正当性と、その目的と手段との間の合理的な関係である。本問の場合であれば、目的は「児童・生徒の健全な発達」である。手段としてはフィルタリングである。ここで問題は、フィルタリングが本当に健全な発達に役立つと言えるのか、という点である。立法者がそう考えた、というだけでは不十分である。例えば、同じ目的で、学校によっては校則で、男子生徒に丸刈りを強制する例があり、常識的に健全な発達にどれだけ寄与するか疑問であるところから問題となった。すなわち、目的と手段の間の合理的関連性が科学的に証明されていなければ、一般的には規制は許容されない。

 有害図書を読んだり、有害サイトにアクセスすることは、丸刈りに比べると、健全な発達に害を与える可能性が高いことは確かであろうが、青少年が有害図書に接することから、非行を生ずる明白かつ現在の危険があるといえないことはもとより、科学的にその関係が論証されているとはいえない。成人の場合には、その証明が存在しない場合には、そのような手段を禁圧することは、知る権利に対する侵害として許されない、と考えられることになる。

 しかし、青少年の場合、害悪の証明がないからといって、看過した場合、先に述べたアメリカにおけるような悲惨な結果が将来する可能性がある。そこで、伊藤判事はいう。

「青少年保護のための有害図書の規制が合憲であるためには、青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りると解してよいと思われる。もっとも、青少年の保護という立法目的が一般に是認され、規制の必要制が重視されているために、その規制の手段方法についても、容易に肯認される可能性があるが、もとより表現の自由の制限を伴うものである以上、安易に相当の蓋然性があると考えるべきでなく、必要限度をこえることは許されない。しかし、有害図書が青少年の非行を誘発したり、その他の害悪を生ずることの厳密な科学的証明を欠くからといって、その制約が直ちに知る自由への制限として違憲なものとなるとすることは相当でない。」

 科学的証明に代えて、高度の蓋然性でたりる、とするのである。髪型の場合には、そのような蓋然性すら存在していないことが、議論の焦点となったわけである。

(二) 包括指定と事前抑制

 本問のフィルタリングは、日々に内容が更新されるであろうサイトに、その日々の内容を全く検討することなく、事前に、それを有害サイトと決めつけて機械的にアクセスを制限するのであるから、単なる事前抑制よりも遙かに弊害の大きな包括事前抑制という類型に属する。したがって、それが許容されるか否かは、単なる事前抑制の場合よりも真剣な検討が必要なのである。伊藤判事は岐阜県事件で次のようにいう。

「憲法212項前段の『検閲』の絶対的禁止の趣旨は、同条1項の表現の自由の保障の解釈に及ぼされるべきものであり、たとえ発表された後であっても、受け手に入手されるに先立ってその途を封ずる効果をもつ規制は、事前の抑制としてとらえられ、絶対的に禁止されるものではないとしても、その規制は厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許されるものといわなければならない」

 ここでも、未成年者の人権制限における特殊性を述べる以外に、これを許容する手段はない、といわなければならない。伊藤判事はいう。

「青少年保護のための有害図書の規制を是認する以上は、自販機による有害図書の購入は、書店などでの購入と異なって心理的抑制が少なく、弊害が大きいこと、審議会の調査審議を経たうえでの個別的指定の方法によっては青少年が自販機を通じて入手することを防ぐことができないこと(例えばいわゆる『一夜本』のやり方がそれを示している。)からみて、包括指定による規制の必要性は高いといわなければならない。もとより必要度が高いことから直ちに表現の自由にとってきびしい規制を合理的なものとすることはできないし、表現の自由に内在する制限として当然に許容されると速断することはできないけれども、他に選びうる手段をもっては有害図書を青少年が入手することを有効に抑止することができないのであるから、これをやむをえないものとして認めるほかはないであろう。」

 有害図書で一夜本が可能である以上に、インターネットにおいてホームページを作成することは容易なのであるから、ここでの議論はそのままインターネットにおける包括規制=フィルタリングを認める根拠として妥当するのはいうまでもない。

(三) 基準の明確性

 およそ法的規制を行う場合に規制される対象が何かを判断する基準が明確であることを求められるが、とくに精神的自由権を侵害する場合には明確性が厳格に求められる。すなわち、不明確な基準であれば、規制範囲が漠然とするためいわゆる萎縮的効果を広く及ぼし、不当に表現行為を抑止することになるからである。そこで、有害サイトを認定する基準としての「性的に刺激的な内容,残虐性を助長する内容,自殺を肯定したり奨励する内容など」という要件が、そのような明確性を具備していると言えるかが問題となる。

 同じことは岐阜県事件でも、その条例における「著しく性的感情を刺激し、又は著しく残忍性を助長する」とされていた表現を巡って問題となった。本問基準がこれに酷似しているのは、出題者として、同様の問題を論点とする意図があったことは明らかである。

 伊藤判事は、条例そのものは不明確であっても、下位の法規範による具体化、明確化が行われている結果、総合すれば、明確性を具備しているとした。

 ところが、本問では、そのような下位規範が存在するとは書かれていない。そうすると、この点において、本問規制は違憲という解答を書くのが、出題者の予定する穏当な答えと言うことになる。あるいは、それを明確化する下位法規の存在を条件に、合憲と書いても良い。いずれにせよ、本問の条件下で、何の留保もなしに合憲と解答するのは、落第答案と評価されるであろう。