文化祭と校長の裁量権
甲斐素直
問題
公立A高校で文化祭を開催するにあたり、生徒から研究発表を募ったところ、キリスト教のある宗派を信仰している生徒Xらが、その宗派の成立と発展に関する研究発表を行いたいと応募した。これに対して、校長Yは、学校行事で特定の宗教に関する宗教活動を支援することは、公立学校における宗教的中立性の原則に違反することになるという理由で、Xらの研究発表を認めなかった。
右の事例におけるYの措置について、憲法上の問題点を指摘して論ぜよ。
(平成10年度司法試験問題)
[問題の所在]
本問は、問題を見れば、校長の裁量権が認められるか否かが論点であることは極めてはっきりしている…と思っていた。だから出題に当たっては、神戸高専剣道必修事件最高裁判所判決を熟読すること、というヒントを付しただけで、特にそれ以上掘り下げた解説は書かなかった。ところが、例によって誰も神戸高専事件判決を読むだけの手間さえもかけてくれなかったらしく、そこでの議論を引用した答案は皆無であった。
その結果、良い、悪いという以前に、添削する余地のある答案は、すなわち本問の論点を取り上げて書いてある答案は一通も出てこないという惨憺たる結果となった。
(一) 23条について
提出された答案の特徴その一は、高校生であるXに23条の学問の自由の主体性を肯定できるとする奇想天外なものである。
憲法23条は、条文には全く書いてないにもかかわらず、そこから当然のごとくに大学の自治という概念が導かれることから判るとおり、学問的真実の研究がその保障内容である。だから大学やそれと同等の高等研究機関(例えば民間研究所=いわゆるシンクタンク)の活動の自由を保障するためのものである。もちろん町の発明家など、個人の研究の自由もレベルが高ければ含まれるが、あくまでも新規性・独創性があるような学問研究を念頭に置いているのである。だから、その主体となりうるのは、ぎりぎりで在来型大学院生であり、ロースクール生などでは無理である。まして大学生は、一般的にはその主体性はない。本問は高校生であるので、それについて23条の主体性を考える余地は、一般論としてはあるわけがない。
もちろん、高校生の身分であっても、超天才がハイレベルの研究を行っているような場合であれば、もちろん23条の主体性を考えることが可能である。しかし、そういう極めて独創的な研究だ、というような断り書きは本問にはない。だから、本問で言う研究とは、高校の文化祭で行われている普通のレベルの「研究発表」なるものと考えればよい。君たち自身がついこの間まで高校生をやっていたのだから、その研究発表なるもののレベルは良く承知しているはずである。普通に文化祭での研究発表とは、単に既往の刊行物を適当に切り貼りして作り出したに過ぎず、何の新規性も独創性もないもので、とうてい23条のレベルのものではないというのが常識であろう。超天才高校生というような常識外のことまで、場合分けをして論じる必要はないのである。まして、高校生の行うあらゆる研究が23条レベルに到達しているなどという想定は、少なくとも出題者の想定外である事は間違いない。
(二) 20条について
特徴その2は、20条の信教の自由に対する侵害とする。しかし、本問は、普通に読めば、それは2次的な関わりしかない論点であることが自明である。
信教の自由とは、宗教を信じる自由、あるいは信じない自由である。しかし、高校での文化祭発表を禁じたからと言って、その生徒の信教の自由に何か影響が生じるだろうか。高校の文化祭で発表する事を、その宗教活動の本質的な要素としており、それを禁止する事が信教の自由の侵害になるという宗教は、一般には知られていない。神戸高専事件においては、エホバの証人という宗教が、武道を行う事を学校の授業レベルでさえも宗教的に禁止していたから問題になった。しかし、その場合ですら、それが問題文中に明記されていて、初めて議論の対象になる。本問のように何も書いていない場合に、文化祭での発表を必須の要素とするという奇妙な教義を信奉している宗教を想定して論じる必要はない。
(三) 26条について
高校では、「文化祭」で、なぜ生徒に「研究発表」をやらせるのだろうか? そこを考えてくれない限り、本問の解答にはなり得ない。
普通の高校教育は、文科省の検定を通った教科書を使い、指導要領にしたがって行われる。そこに教師の側の創意工夫の余地は乏しい(だから、高校教師は23条から導かれる研究内容教授の自由の主体ではあり得ない。)。まして、生徒の側では、常に受動的に教えられるばかりである。そこで、わずかではあっても、生徒が積極的に勉強する機会を与えて、大学以降への教育に繋げたいという考えが生じる。これが文化祭というものの教育上の意義である。だから、文化祭の実行そのものも、たいていの高校が生徒側の責任で行わせようとするのである。しかし、教育行政という観点から見る限り、文化祭とは、校長の責任において行われる全校的な教育活動の一環と考えて良い。すなわち、本問は、基本的には26条の「教育を受ける権利」をめぐる議論が中心論点である。
報道の自由に関する解答が、知る権利を導入部として書く、という意味で、どんな問題が出ようと、解答の半分くらいまでは完全に共通であるのと同じで、26条が論点になる問題は、必ず教育を受ける権利とは何か、ということが共通の導入部になる。報道の自由が、知る権利から論じるというコツをつかめば易しい問題であるのと同じ意味で、教育を受ける権利に関する問題も、そのパターンさえつかめば、常に易しい問題である。
一 教育を受ける自由と教育を受ける権利の関係
(一) 基本的概念の整理
憲法26条の保障する教育権は、社会権と呼ばれる権利の一種と理解されている。すなわち、健康で文化的な最低限度の生活を現代社会においておくるには、社会の中にあふれている情報を適時適切に受領し、理解し、それに基づいて行動する能力を有していなければならない。そのための能力を身につける権利が教育を受ける権利である。
社会権として捉えた場合、社会権たる教育を受ける権利が存在するための論理的前提として、それとは別に、自由権としての教育を受ける自由を考えることができる。両者が同じ26条で保障されていると考えるのである。自由権から社会権に、どのような契機で転換するかが、教育権に関して常に論点となる。本問でもそれは変わらない。
さて、諸君が論文に書くのは、次のところからである。
(二) 教育を受ける自由と「私教育」
教育権の主体は、本人である。すなわち、本人が自分の受けるべき教育内容を決定する権利を持つ。すなわち、人はその全生涯にわたって、自らを教育する自由を有する。
ただし、本人が未成年者で、自分がどのような教育を受けるのが適当かについて十分な判断能力を持たない場合には、親(親権者)がその教育内容を決定する権限を持つ(民法820条)。これは家族を基本とする身分権を、人格権の拡張としての人格的共同体と把握した場合に、その必然的結果として導かれるものである。なお、世界人権宣言26条3項は「親は子に与える教育を選択する優先的権利を有する」としている(なお、児童の権利に関する条約5条はより包括的な表現を採用しているが、同趣旨と理解して良いであろう)。憲法26条2項は、逆に親の教育の義務の側から定めているが、これも、その権利性を肯定した上での規定と理解することができる。
本来、教育は私人がその教育の自由の行使として、私人としての立場から行うものである。これを「教育の私事性」と言い、こうした理念に基づく教育を「私教育」という。家庭内において、親が子に行う躾その他の教育は、その典型である。
教育基本法は、簡略すぎる憲法26条を補完する目的で立法された準憲法というべきものである(だから、憲法によく似た前文がついている)が、その10条は、次のように述べて、父母による私教育の重要性を明らかにしている。
「1 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。」
(三) 教育を受ける権利と「公教育」
教育を受ける自由の行使として、個人の力で私教育として実現できる範囲には、しかし限界があるところから、社会権が現れる。すなわち、国民は、個人の努力の限界を超えた場合には、国家に対して教育というサービスを提供するように請求する権利を有する。この結果、国として、各人に対し、その能力に応じた教育を受ける権利を保障する義務を負うことになる。このように、福祉国家理念の下に行われる教育を「公教育」という。教育基本法6条は次のように定めている。
「法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。」
この下線部が、この条文のポイントで、国公立の教育機関ばかりでなく、私立学校によって行われる教育も含めて、学校教育はすべて、公教育に属することを宣言している。
教育を巡る問題では、常にこの教育の私事性(私教育)と公教育という、教育の基本的な、しかし、互いに相矛盾する概念をどのように調和させるかが第一の論点となる。
この点に関して、もっとも明確な答えを与えたのが、旭川学力テスト事件最高裁判所判決(最大昭和51年5月21日=百選第5版308頁参照)で、次のように述べている。
「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然関係に基づいて子に対して行う教育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれる」
諸君は、基本的にはこれを完璧に暗記した上で、教育に関する問題が出たら、必要に応じてこれを簡略化したものを書かなければ、その答案はその段階で、すでに落第答案となっている。
(四) 公教育の特殊性
公教育は、国家として行う教育であるが故に、私教育にはない、様々な制約に服する。代表的な制約を示せば、次のとおりである。
1 教育の機会均等
(1) 男女共学
(2) 障害児童に対する教育
2 義務教育の無償
3 教育の中立性
(1) 宗教的中立性
(2) 政治的中立性
これらは、いずれも私教育には存在しないが、それが公教育に転化したことによって発生する制約である。
例えば、男性は女性に比べて優れた性であるという信念を持つ親がいたとして、その親が家庭内教育の場で、その信念を子供に教えるのは、その自由である。しかし、その信念の故に、思想・良心の自由(憲法19条)を主張して、男女共学の公立校であることを理由にその子の就学を拒否し、家庭内教育をする自由は認められない。教育を受ける権利を有しているのは、本人であって、親ではないからである。
ここまでは、教育権に関する問題であれば、どんな問題でも共通に書かねばならない事である。記述が変わるのはここから先である。
本問の場合には、上記のうち、3の教育の中立性から導かれる教育の宗教的中立性に関する問題としてこの部分を詳しく展開すればよい。
この26条の宗教的中立性という概念の背後には、確かに憲法20条の政教分離原則がある。しかし、20条自体は本問の論点ではない。
本問に対する回答から離れて、すこし政教分離に関するぎろんの前提を紹介しておく。
政教分離に対する国家の姿勢には様々な類型がある。フランスの採る敵対的政教分離の場合には、国家は宗教を公的場面において否定する。現在、ブルカという顔を隠す衣装を着て公的空間に立ち入るのを法的に禁止しているるのは、基本的にはこのためである。この場合、学校という場所で宗教色を出す事は全て禁じられる。したがって、イスラム教徒の女子高生がスカーフを巻いて登校すると退学処分にする。
ドイツの採る部分的政教分離の場合には、国家は宗教に対して可能な保護は積極的に与える。例えば、教会の10分の1税は、税務署が所得税を徴収するついでに徴収して、その税務署管内の信者の数に応じて各教会に配分する。この場合、学校という場所での宗教の扱いは次のようになる。
「宗教教育は、宗派に関わりのない学校を除いて、公立学校においては正規の授業科目である。宗教教育は、国の監督権を妨げることがなければ、宗教団体の教義にそって行われるものとする。いかなる教師もその意思に反して宗教教育を行う事を義務づけられない。」(ドイツ憲法7条2項)
それに対して、日本の政教分離の場合には、宗教からの中立を要請し、国は宗教に協力もしないし、敵対もしない。
これを公教育という概念に投影した結果が、教育の宗教的中立性という概念である。もちろん本格的な論文を書く場合には、20条から説き起こす必要があるが、司法試験程度の簡易な問題の場合には、20条についての議論は割愛して、教育基本法15条を引用しておけば十分である。同条は次のように述べている。
「1 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」
すなわち、公教育においては、特定の宗教を信じている児童生徒に対しては、他の宗教を信じ、あるいは宗教を信じない者に対する寛容の態度を教えていく必要がある。しかし、学校活動そのものが、宗教活動と認められるような危険性ある行為は禁じられる。
二 教育内容決定権の所在
繰り返し強調するが、教育を受ける権利そのものは、本人に属している。しかし、高校以下の未成年者の段階では、通常、自分自身では、何が自分にとって最善の教育かを決定する能力を有してはいない。そこで、本人以外の者が教育内容を決定する権限を行使する必要がある。これが教育内容決定権の問題である。
その場合、決定権者となり得るのは、国(これは本問の公立学校の場合、都道府県教育委員会及びその現場代表者である校長を意味する。)、担任教師及び父母の三者である。順次見てみよう。
(一) 国家教育権説
家永教科書訴訟において、文部省(当時)が主張したのがこれである。それをそのまま是認した高津判決(昭和49年7月16日東京地裁判決=家永第2次訴訟第1審判決)から紹介すれば、次のとおりである。
「議会制民主主義体制の下における今日の公教育は、教育の私事性を捨象し、かっての家庭における私的教育にかわって、組織的、機能的に実施運営されるのであり、国は国民の付託にもとづき福祉国家として教育内容にも及び得るのである。教科書検定制度も右教育行政の一環として、教育の機会均等、教育水準の維持向上などの教育目的から実施されるもので」ある。
この説は、教育の機会均等を本条の中心的要求と把握していた当時における憲法学界の通説的理解をベースに国の教育権の根拠は「国民の付託」であるとしつつ、その付託とは国会の多数決原理を通じて現れるのだ、と結論することにより、多数党の基盤となっている特定の政治思想による教育行政の支配を肯定するというものである。戦前の軍国主義的国家教育権説と区別する意味では、「議院制民主主義的国家教育権説」とでも呼ぶべきであろう。この説は、教育基本法14条の定める教育の政治的中立性と正面から衝突する結論を導いているものであり、現行憲法の下においては、とうてい支持することはできない。
参考=教育基本法14条
1 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
(二) 国民教育権説
担任教師に教育内容決定権があるという共通の性格をもつ学説の総称を「国民教育権」説という。決して、そういう名称の単一の学説が存在するわけではない。その代表的なものを紹介すれば、教育主権論、教育人権論、教育本質論、23条論、教育基本法10条論などがある。
国民教育権説を採用した判例の代表的な存在である有名な杉本判決(昭和45年7月17日東京地裁判決=家永第1次訴訟第1審判決)は、前提として教育人権論を唱えつつ、そこから教師の教育権を引き出す。すなわち
「教育の外的な事項については、一般の政治と同様に代議制を通じて実現されてしかるべきものであるが、教育の内的事項については、その特質からすると、一般の政治と別個の側面をもち政党政治を背景とした多数決によって決せられることに本質的に親しまず、教師が児童、生徒との人間的なふれあいを通じて、自らの研鑽と努力とにより国民全体の合理的な教育意思を実現すべきものであり、また、このような教師自らの教育活動を通じて直接に国民全体に責任を負い、その信託にこたえるべきものと解せられる。」
そこで語られていること、特にその前半の、代議制とその限界は、文部省流の政治思想の教育の場への全面的導入肯定論の問題点を正しく指摘している。また、後半も建前としてみる限り、文科省でさえも異論のないところであろう。
問題は、このことから直ちに「国民教育権」の名の下に、担任教師の教育権を、事実上まったく無限定に肯定してしまう点にある。これは明らかに論理の飛躍と評せざるを得ない。この飛躍に対する、最高裁判所の批判を、先に紹介した旭川学テ判決から見てみよう。
「子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続きによつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。」
確かに、教師に教育の内容を決定する権利があることは明らかである。すなわち
「教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的な要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定」できる。
しかし、公教育の要請としての中立性の要求は、国の干渉を排除すれば直ちに実現できるというものではない。テレビ局の不偏不党性が、適切な監視手段なしに実現できないのと問題は一緒である。まして、法律の定めるところにより、登校を強制されている、いわば囚われの聴衆である児童が、しかも是非弁別能力の低いものが、教師の独裁的権力の下に学習しているのである。その教育活動の内容に対する監督手段が通常存在しないことを考えれば、不偏不党性からの逸脱があった場合に、直ちに問題の発生が社会に知られる可能性は非常に低く、しかも子供の可塑性が高いことを考えると、そこに発生する害悪は非常に大きなものとなり得る。その点に、通常の知る権利の場合以上の強力な、中立性保障策が必要なことは明きらかである。
杉本判決が示した「下級教育機関における公教育内容の組織化は法的拘束力のある画一的、権力的な方法としては国家としての公教育を維持していく上で必要最小限度の大綱的事項に限られ」るとしただけで十分な保障とはとうてい思えない。教師の教育権を制限する何らかのメカニズムが必要である。
(三) 父母の教育内容決定権説
これを正面から主張しているのは、留萌事件と呼ばれる、重度の心身障害児童を、父母が普通学級で教育を受ける権利を主張した事件における父母の主張である(旭川地方裁判所平成5年10月26日判決=横田守弘・ジュリスト1048号75頁以下参照)。
「憲法26条は、子どもの親に対し、自己の子女に施す教育について、公権力から干渉されない自由を保障しているところ、この自由の内容として、親は、子どもに対して施す教育内容を決定する権利及び公権力や学校に対し子どもに前記教基法1条所定の目的達成を目指す教育を施すよう要求する権利を有する。このような親の自由・権利は、子どもの権利を制約したり、その尊厳を侵すような場合を除き、公権力の介入を許さないもので、最低限子どもに与える教育の目的を設定し、その教育目的に沿った具体的内容を選択、実行する権利を含み、更にこの権利の内容として、親は、学校において、心身障害を有する子どもを普通学級と特殊学級とのいずれに所属させるかを選択する権利を有する。いずれを選択するかは、子供の成長にとって重大な影響があり、実質的にも子供の教育を受ける権利を第一義的に充足させるべき責務を負い、かつ、子供の最善の利益を決し得る親がその任務をよく果たし得るのである。」
しかし、この主張は、公教育と私教育を完全に混同しており、この主張には根本的な無理があるというべきである。
(四) 折衷説(旭川学力テスト最高裁判所判決)
そうした意味で、旭川学力テスト判決で最高裁が示した、現場行政における両極端を排除し、中庸を求めようとした見解はまさに正しいものと言うべきである。少し長いが、いくら言っても、諸君が判例を読んでくれないので、この機会に読んでほしい。
「思うに、子どもはその成長の過程において他からの影響によつて大きく左右されるいわば可塑性をもつ存在であるから、子どもにどのような教育を施すかは、その子どもが将来どのような大人に育つかに対して決定的な役割をはたすものである。それ故、子どもの教育の結果に利害と関心をもつ関係者が、それぞれその教育の内容及び方法につき深甚な関心を抱き、それぞれの立場からその決定、実施に対する支配権ないしは発言権を主張するのは、極めて自然な成行きということができる。子どもの教育は、前述のように、専ら子どもの利益のために行われるべきものであり、本来的には右の関係者らがその目的の下に一致協力して行うべきものであるけれども、何が子どもの利益であり、また、そのために何が必要であるかについては、意見の対立が当然に生じうるのであつて、そのために教育内容の決定につき矛盾、対立する主張の衝突が起こるのを免れることができない。憲法がこのような矛盾対立を一義的に解決すべき一定の基準を明示的に示していないことは上に述べたとおりである。そうであるとすれば、憲法の次元におけるこの問題の解釈としては、右の関係者らのそれぞれの主張によつて立つ憲法上の根拠に照らして各主張の妥当すべき範囲を画するのが、最も合理的な解釈というべきである。
そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切や教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。」
こうして、公教育の内容は、国と教師と父兄の3者で責任を分担しつつ構成していくという考え方は、筋道としては十分に支持できるものである。
三 校長の裁量権(神戸高専事件を参考に)
それでは、国(本問においては校長)の権限は、本問に即して具体的に見た場合にはどのようなものなのだろうか。
教育基本法16条は次のように定めている。
「1 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。」
この規定は、森内閣による教育基本法改正後のものなので、少々中央政府としての国が正面に出過ぎているが、ここで見てほしいのは下線部である。
高校教育は基本的にはそれぞれの学校ごとに校長の責任で実現していく。文化祭をやるかやらないか、やるとしてどのような内容で行うのか、ということは、教育に関する施策であり、したがって基本的には校長の権限に属する問題だという事が判るであろう。
その場合において校長が持つ裁量権について、神戸高専事件最高裁判所判決は次のように言う。
「校長が学生に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較してその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(引用判例略)」
行政法の用語を使って説明すれば、裁量権には自由裁量と羈束裁量の二種類がある。そして、校内における判断は一般的には自由裁量行為に属する、と言うのが確立した判例だと最高裁は言っているのである。確かに、教育基本法の条項には、何ら制限文言はないし、関連する他の法規も同様であるから、自由裁量ではない、と考えるのは無理である。
しかし、退学にまで問題が発展した場合には別だと最高裁判所はいう。
「退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則13条3項も4個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである」
つまり、退学は校長の権限で自由になし得るのではなく、学校教育法施行規則に定める条件を満たした場合においてのみなし得るのであり、しかもきわめて重大な結果を招くから、退学処分に関しては羈束裁量と考えるべきことになる。神戸高専で原告が退学処分になったのは、一般的に学則に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するというわけではなく、保健体育の成績だけが問題なのであり、これが問題になったのは、実技に代替措置を認めなかったためである。
ここまで話が進むと、本問においても、結論は諸君の目にもはっきりと見えて来たと思う。一般論としていえば、高校の内部において、事実認定は基本的に学校長の権限であり、問題が当・不当のレベルにとどまる限りは、裁判所として介入する余地はない。そして、その校長が、発表内容を見て、公教育の中立性原則に照らして問題があると認定したのであるから、特段の事情がない限り、司法審査の対象となる違法性を帯びた問題にはならない。
特段の事情とは、例えば、この問題をきっかけに、YがXらの信仰そのものに干渉したとか、XらがYの禁止を無視して発表を強行したために退学処分に付された、とかいう場合である。そこまで行くと、Xの信教の自由に対する侵害問題となるから、合法・違法の問題となり、司法審査を肯定するべきである。しかし、本問ではそうしたことはなにも書かれていないから、Yの行為は教育内容決定権の当然の範囲内と考えて良い。したがって、それが濫用であったと考える特段の理由が問題文に書かれていない以上は、当・不当のレベルにとどまっていると言うべきである。