小売市場事件と経済的自由権

甲斐素直

問題

被告人X1は市場経営を業とする法人であり、X2はその代表であるが、Xは、小売商業調整特別措置法3条1項に反して大阪府知事Yの許可を受けずに平屋建て一棟(店舗数49)を建設し、小売市場とするために野菜商4店舗、生鮮魚介類商3店舗を含む49店舗を小売商人に貸し付けたためX1およびX2が同法違反として起訴された。その訴訟において、Xは、本法3条1項の小売市場の許可規制は、小売市場業者の自由な経済活動を不当に制限し、既存業者の保護に偏するものであるとして、憲法の保障する営業の自由を侵害したと主張した。Xの主張の憲法上の当否について論ぜよ

参照条文

 小売商業調整特別措置法

第三条  政令で指定する市(特別区を含む。以下同じ。)の区域(以下「指定地域」という。)内の建物については、都道府県知事の許可を受けた者でなければ、小売市場(一の建物であつて、その建物内の店舗面積(小売業を営むための店舗の用に供される床面積をいう。以下同じ。)の大部分が五十平方メートル未満の店舗面積に区分され、かつ、十以上の小売商(その全部又は一部が政令で定める物品を販売する場合に限る。)の店舗の用に供されるものをいう。以下同じ。)とするため、その建物の全部又は一部をその店舗の用に供する小売商に貸し付け、又は譲り渡してはならない。

 以下略

第二十二条  次の各号の一に該当する者は、三百万円以下の罰金に処する。

 第三条第一項の規定に違反した者

 

小売商業調整特別措置法施行令

第一条  小売商業調整特別措置法 (以下「法」という。)第三条第一項 の政令で指定する市は、別表第一のとおりとする。

第二条  法第三条第一項 の政令で定める物品は、別表第二のとおりとする。

 

別表第一 

北海道

札幌市 旭川市

神奈川県

横浜市

石川県

金沢市

愛知県

名古屋市

京都府

京都市

大阪府

 

 

 

 

大阪市 堺市 岸和田市 豊中市 池田市 吹田市 泉大津市 高槻市 貝塚市 守口市 枚方市 茨木市 八尾市 泉佐野市 富田林市 寝屋川市 河内長野市 松原市 大東市 和泉市 箕面市 柏原市 羽曳野市 門真市 摂津市 高石市 藤井寺市 東大阪市

兵庫県

神戸市 尼崎市 西宮市 芦屋市 伊丹市 宝塚市 川西市

和歌山県

和歌山市

福岡県

福岡市 北九州市

熊本県

熊本市


別表第二 
一 野菜
二 生鮮魚介類

 

[はじめに]

 今回は、出題者からしか論文が出てこず、他の諸君の論文がないため、諸君がどこが判らないでいるのか、さっぱり判らない。このような状態では、ゼミの意味がない。今後、判らないなりに論文を書く努力をしてほしい。そうすれば、諸君がわからないところ、誤解しているところに対して、的確に説明することができる。今回は、もっぱら出題者に対する個人指導と言うことになる。

 営業の自由に関しては、昭和40年代に巻き起こった営業の自由論争を挟んで、学説が激変している。諸君の多くが依拠しているであろう芦部信喜説は、その論争の嵐を傍観しながら通り過ぎてしまった。しかも著者は故人となっているため、補訂者がその点の修正を勝手にするわけにも行かないため、今日では、営業の自由に関しては全く使い物にならない教科書となっている。自分の使っている基本書の、このような致命的な弱点は明確に意識して、自分で補う努力をしないと、明日はやってこない。

 

一 営業の自由論争

 営業論争を理解していないと、今日ではきちんとした論文を書くのは無理なので、最初にその点を簡単に説明してみたい。

 諸君の先輩達はかなり勉強している人でもほとんど理由も示さないままに、営業の自由の根拠を憲法22条に求める傾向があった。しかし、ある概念を論じる場合には、先ず定義を述べ、その定義の根拠を述べることは、必然の要求である。営業とは、専ら商法が対象とする概念である。法学辞典は次のような定義を与えている。

「利益を得る目的で同種の行為を継続的反復的になすことである。営利目的がある限り現実に利益を得たことは必要ではなく、また継続・反復の意思がある限り実際に反復することを要しない。しかし営利を目的とするすべての職業が営業となるわけではなく、医師・弁護士・画家などの職業は営利を目的としても一般に営業とは見られない。」(日本評論社『新法学辞典』より)

 憲法学においても、同様の理解と解して良いであろう。このように、営利追求性が定義自身の中に明確に含まれている点に、営業の自由を経済的自由の一環として把握できる根拠が存在している。また、定義があれば、比較的容易に根拠条文に議論をつなげられる。例えば渋谷秀樹は「営業とは利潤追求の為に自己の計算に基づき行われる職業」と定義する(渋谷『憲法』有斐閣274頁)。そこから、職業の自由の一環として営業を論じることが比較的スムーズに可能になることは容易に理解できるであろう。

 しかし、諸君に読むように求めた共有林分割制限違憲判決において、最高裁判所が営業の自由に属する事案を29条の問題として解決したことに端的に示されるように、今日の通説・判例は2229条説であり、22条説のみに求める説が少数説に転落していることは間違いない。それなのに、全く理由すら示さずに22条説を述べるのは自殺行為以外の何者でもない。このような変化が生じたのは、次に述べる公序性が認識されたためである。

(一) 営業の自由の公序性

 営業の自由は、現在社会におけるきわめて根幹的な自由であるにもかかわらず、わが国憲法ばかりでなく、欧米主要国憲法のいずれにおいても直接的保障規定がない、と言う不思議な権利である。

 この不思議に対して、端的な説明、すなわち営業の自由が憲法に自由権として保障されていないのは、それが権利ではなく、公序(Public policy)だからだと説明したのは、憲法学から見れば門外漢である経済史学者の岡田与好で、昭和44年に書いた「『営業の自由』と『独占』及び『団結』」と題する論文でそのことを明らかにした(東京大学社会科学研究所編『基本的人権の研究』第5巻129頁以下参照)。

 それまでの憲法学の理解では、営業の自由は、職業選択の自由の一亜形としての基本的人権であり、また法人企業にも適用されるべきものと考えられていた。しかし、歴史的にみて、それは正しくない、と岡田は考えた。たとえばフランス革命期をみると、職業選択の自由が実現される一方で、労働者の団結や経営者の独占という営業の自由が否定された。すなわち、営業の自由を国家からの自由と捉えると、営業の自由に対する国家的規制、すなわち独占禁止は違憲と捉えられなければいけない。しかし、労働者の団結や大企業の独占という営業の自由は、個人の職業選択の自由を侵害する。その意味で、営業の自由は、職業選択の自由の一部であるどころか、むしろ職業選択の自由と対立する存在なのである。そして、擁護されるべき基本的人権は「個人」の自由である以上、それを侵害する営業の自由は法的に規制されうるのである。つまり、営業の自由とは、国家からの自由ではなく、独占からの自由を意味する。この営業の自由の法的規制という任務を担うのが独占禁止法・行政である。それは、社会のあり方によって修正されうる、また修正されるべき、一つの公共秩序にすぎない。

 この批判は全く正しいものだったから、憲法学者は無視することはできなかった。成立史と解釈は別であるという反論はその一つの現れである。いつも強調するように、国家試験レベルの論文では、他説に対する批判を記述する必要はないが、どのような反論があるかを知っていることは、自説のどこを強調して書くべきかを知るために大切である。そこで、判りやすい反論例を一つ紹介しておきたい。

「確かに歴史的に見た場合、営業の自由は、独占からの自由を意味したと解するのが正しい。ところが、独占は、1617世紀のイギリスに見られたごとく、徒弟条例、同業組合法、定住法といった国家の法制によって保護されてきたのであり、国家の強制力と大いに関連している。営業の自由は、この種の法制を排除する要求であり、したがって、営業の自由を国家からの自由ととらえるのが正当である。」

(阪本昌成『憲法理論』V225頁)

 また、学説のもう一つの転機になったのが、伊藤正己が同じ22条で保障している居住・移転の自由に精神的自由権としての側面があることを論証したことである。それをきっかけに、従来、経済的自由として疑われることのなかった職業選択の自由に対して、精神的自由権としての側面が承認されるようになった。

 この時点以降、新たな学説が、岡田説の衝撃による自己批判の中から誕生してきた。

 今日の通説は、営業の自由を「営業する自由」と「営業活動の自由」に分けることができ、前者の自由は22条の自由であるが、営業活動の自由は29条の財産権の保障の中で読むべきであるとする説である(今村成和「『営業の自由』の公権的規制」ジュリスト46041頁以下参照)。

「憲法22条は『開業の自由、営業の維持・存続の自由、廃業の自由』を内容とする狭義の『営業することの自由』のみを保障し、『なにをいくらでだれに売るか、あるいはだれから仕入れるか』といった広義の営業活動の自由は財産権行使の自由として憲法29条から導かれる自由である」(野中俊彦他著『憲法T』第4版、有斐閣452頁=高見勝利執筆部分)

 この分類を本問の場合に当てはめて説明すると、小売市場を作ることは「営業する自由」にはいるが、その個々の店を誰に貸すか、魚屋や八百屋に貸すのか、それ以外の商店に貸すのかは「営業活動の自由」に入ることになる。

 この説は、雇用されて労働する者の営業活動を考えた時、もっとも妥当性を発揮する。浦部法穂は次のように説明する。

「職業は、営業だけでなく、自分が雇われてする職業もある。こういう職業のばあいには、職業選択の自由はむしろ労働権(27条)と密接にかかわるものとなり、営業の自由とは全然無縁のものとなる。無縁であるだけでなく、場合によっては職業選択の自由と営業の自由とが対立することとさえなる(たとえば営業主体の廃業の自由は、そこで働く労働者の働く権利=その職業を行う自由を奪うことになる)のである。つまり、職業選択の自由は営業の自由を含むが、しかし、営業の自由とは無縁の、場合によってはそれと対立する側面をもつものであり、『職業選択の自由=営業の自由』という図式は必ずしも正確ではない、ということである。

 一方、営業の自由というものは、営業することの自由だけでなく、個々の営業活動の自由をも含むものであるはずである。営業活動の自由というのは、たとえば、何をいくらでだれに売るか、あるいは誰から仕入れるか、とか、営業時間を何時から何時までにするか、とかの自由であるが、これらのことは、職業選択の自由から当然に出てくる自由であるとはいえない。それは要するに、財産権行使の自由であって、29条の財産権の保障から導かれる自由である。」(浦部『憲法学教室』日本評論社、全訂第2220頁)

 さらにいうと、22条の権利は、本来職業選択の自由の延長線上に考えられるものであり、職業選択の自由は「人間がその能力発揮の場の選択を保障する」というところに本質があるから、自然人にしか考えることができない。したがって、本問のX1のように、法人の営業の自由は、その意味からも22条で説明することはできない。したがって、法人X1が問題になる限り、営業の自由は29条によってしか説明できないのである。

 この説の基本的な理由付けとしては、次のものが簡明で判り易いであろう。

「この見解は、職業選択の自由が、人間がその能力発揮の場の選択を保障するものとして、いかなる社会体制にも通用する普遍的原理であるのに対して、営業の自由は資本主義社会に固有の原理であるという基本的認識が根底にあり、また、権利の制約の範囲について、前者は、それが、人間の能力の発揮の場であるのに鑑み、その自由は、十分に尊重されなくてはならないのであるが、精神的自由とは異なり、他人の生活に密接な関連を有するものであるのに対して、後者については、資本財としての財産権行使の自由には、自由主義経済の法的支柱としての役割があるために、高度の統制を必要とするというのである。このような見解は、同じく経済的自由といっても、憲法22条と29条の間に性質上の際があることに着目し、職業選択の自由と営業の自由との関係を明確にしたものとして支持できるのである。」

(樋口陽一他著『憲法U』注解法律学全集2、青林書院91頁=中村睦男執筆分)

 これに対して、長谷部恭男は、今日においても基本的には22条説をとる(正確に言うと、22条か29条かは重要性を持たないと主張する=長谷部『憲法』新世社[第5版]228頁)。そして、営業の自由論争に関しては、次のように述べる。

「いわゆる『営業の自由』論争を提起した岡田与好教授の議論の核心には、憲法上保障された経済的自由は、基本的人権としての個人の自由の不可欠の如何をなす部分と、公共の福祉の観点からすると政策的選択の結果として保障され、ときには社会の構成員に強制される部分とからなる、との主張があった。

 本章の枠組みでいえば、前者は『切り札』としての人権であり、後者は公共財としての憲法上の権利である。このような複合的な性格は、本文で見た通り経済的自由のみではなく、表現の自由のような、典型的な精神的自由権についても見ることができる。」(長谷部『憲法』新世社[第5版]112頁)

 長谷部は、個人の自律的な決定権を切り札としての人権と呼び、公共の福祉に基づく人権を公共財としての人権と呼んで、人権はこうした二重構造をもつと主張しているのだが、その複合構造と言う把握の原点が、岡田の指摘にあることを、この文章は示している。林君が今後も22条説でがんばりたいのであれば、このような長谷部説をしっかり勉強して自家薬籠中のものとする努力が必要である。

 

(二) 営業の自由と精神的自由権としての側面

 前に述べたとおり、今日においては、営業の自由を単純に経済的自由として扱うことは許されず、精神的自由権としての側面の存在を考えなければならない。もっとも、一般には、表現の自由に代表される精神的自由権との混同を嫌って、人格的価値という言い方をする。

 すなわち、確かに職業は「人が自己の生計を維持するために行う継続的な活動」であるから、その選択の自由は、封建制との決別という歴史的意義はともかく、今日における法的機能としていうならば、人の経済的生活の基盤を提供するものとして意義を無視できないから、二者択一を強制するならば、経済的自由の一環に属するとして判断することが許されるであろう。しかし、単なる経済的自由権として評価することは許されない。なぜなら、人の職業は、「各人が自己の持つ個性を全うすべき場として、個人の人格的価値とも不可分の関連を有する」からである(「」内は、昭和50430日最高裁薬事法判決から引用)。

 すなわち、人は単に営利の目的で職業を選択するのではない。各人の人格の社会的表現の形態として、人は職業を選択するのである。だからこそ、職業に貴賤はないという建前にもかかわらず、あまり経済的には報われない職業が社会的尊敬の対象となり、一方、経済的には非常に有利な職業があまり重要視されないという、単に営利目的の活動であれば矛盾ともいえる現象が起こるのである。こうして職業の自由ないし営業の自由は、本質的には経済的自由に属するとはいうものの、精神的自由としての側面をもつ、いわば複合的な自由であることを看過してはならない。

 純粋の精神的自由、例えば内心の自由は基本的に社会との関わりが小さい。表現の自由でさえも、それが社会に対して明白かつ現在の危険をもたらすような場合でない限り、対社会的影響を、その解釈に当たって考慮する必要は原則的としてない。ところが、職業ないしその経済的表現としての営業活動は、上記のような意味で各人の人格の社会的表現であり、しかもそれが持続的に行われるところに特徴がある。そのため、表現の自由で想定しているような一過性のものではないから、それだけに広く社会的関係が発生するところに特徴がある。この対社会性の大きさが、純粋の精神的自由権と切り離した議論が必要な理由であるが、そのことは決して、単なる経済的自由として全面的に制約を認めて良いということを意味するものではない。

 この精神的自由権としての側面を、国家試験で許されるわずかな紙面と、限られた時間の中でどこまで書き込むかは難しい問題である。一段の加点を期待する場合には、この論点を避けて通ることはできない。それに対して、確実に合格点をとれば十分という守りの姿勢で書く論文の場合には、例えば定義の段階で、例えば、営業の自由とは経済的自由のことを言い、精神的側面は職業の自由で読む、と断って、その論点の存在は知っているが本問の論点からは理由があって外すのだ、ということを明確にした上で、避けてとおる、というような工夫をすることも可能と考える。

 

二 営業の自由の限界

(一) 「公共の福祉」文言の意義

 林君は人権について「絶対かつ無制限の自由を享有することができる」と述べていた。これは、ホッブス(Thomas Hobbes, 1588 - 1679年)のように、自然法思想をとり、かつ天賦人権論に立たない限り、絶対に導かれない結論である。今日我々は、法は社会規範と考える。社会、即ち他者との関わり合いの中で権利を考えるのだから、それが絶対かつ無制限ということは論理的にあり得ない。人権の場合、それを制約するのは他者の人権であり、この人権と人権の調整を行う原理を、憲法13条は「公共の福祉」と呼んでいると考える(宮沢俊義が説いたもので、「内在的一元説」と呼ばれる)。この場合、それに基づく現実の規制は、「現実の社会生活における公共の安全・秩序維持の見地からする消極的な内在的制約」(後述する高見勝俊の言葉)という形態をとると考えられる。

 行政法学上、警察は一般に次のように定義される。

「公共の安全と秩序を維持するために、一般統治権に基づき、人民に命令し強制し、その自然の自由を制限する作用」

(田中二郎『新版行政法下U』全訂第1版弘文堂253頁)

 この定義からすると、上述した消極規制は、行政においては警察活動という形態を通してなされることになる。そこで消極規制のことを、警察規制とも呼ぶ。

 ここで問題になるのが、憲法22条及び29条という、営業の自由の根拠規定と目される条文は、いずれも13条とは別に、わざわざ「公共の福祉」による制約文言を有していることである。これについて、どう考えるのか。これが本問における大きな論点となる。

 通説は、表現の自由などに比べて、より強い制約を受けることを肯定している趣旨であると説明する。例えば、高見勝利は次のように言う。

「憲法221項が、職業選択の自由について、『公共の福祉に反しない限り』という留保を加えているのは、この自由が、()現実の社会生活における公共の安全・秩序維持の見地からする消極的な内在的制約、および()福祉国家的理念の実現という憲法の目標からする積極的な政策的制約に服しうることを示すものである。」

 つまり、消極規制(警察規制)とは別の、積極規制(政策規制)も、これらの権利については許されると考えるわけである。これは、基本的に薬局距離制限違憲判決で最高裁判所が次のように述べたところから、通説化している。

「本質的に社会的な、しかも主として経済的な活動であつて、その性質上、社会的相互関連性が大きいものであるから、職業の自由は、それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつよく、憲法221項が『公共の福祉に反しない限り』という留保のもとに職業選択の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる。」

 このように、消極、積極2種類の規制が、職業の規制に当たっては許容されていると考えるのが通説・判例である。

(二) 営業の自由の多様性の根拠について

 薬局距離制限違憲判決の場合、先に引用した箇所の後に、薬事法の距離制限については、消極的規制に属すると判断し、その判断基準として明確に厳格な合理性基準を採用する。これに対して、昭和47年の小売り市場判決においては、積極規制に対して、これも明確に狭義の合理性基準を採用して判断を下す。このことから、判例は、規制の形態に応じて判断基準を2重にする、という解釈が一般に採られるようになった。しかし、なぜ同じ営業の自由の規制でありながら、2種類の基準が現れるのかについては、はっきりしない。

 なぜなら、経済的自由権の場合には、二重の基準理論によると、裁判所としては、国政への正常な意見反映のメカニズムが破壊されているような場合を除いて、原則として立法府の裁量を尊重し、その裁量の結果が、きわめて明白に違憲と認められるような場合を除いて、憲法判断を自制するのが適切と考えられる。この結果、営業の自由を経済的自由権の一環として理解する限り、消極規制、積極規制の別なく、広く狭義の合理性基準に従って判断すれば足りることとなるはずだからである。実際、松井茂記は、その様な視点から、二分説を批判している(『日本国憲法』第3版、有斐閣、576頁参照)。

 さらに、その後、共有林分割制限という形で林業経営の自由を制限していた森林法の規定(明らかに積極規制である)の判断にあたり、厳格な合理性基準により、最高裁判所は違憲判断を下した。したがって、少なくとも今日において、二分説は通説ということも、判例ともいうことが出来ない。

 では、どう考えるのが妥当か。以下においては、基本的に私見により、説明したい。

  1 自由権と消極規制

  (1) 精神的自由権的側面の規制における審査基準

 職業等の自由の制限にあたって、問題が複雑になるのは、それに精神的自由権としての側面も存在していることである。精神的側面の規制に関しては、原則として、一般の精神的自由権に関する理論に従うべきである。すなわち、その面に関する限り、厳格な審査基準を使用すべきことになりそうである。

 しかし、ここで、職業の自由の持つ大きな特徴のために、異なった解釈が導入されることになる。すなわち、通常の表現の自由権の対社会的行使は、個々単発的なものである。そのため、その表現が「言論の自由市場」に到達するか否かは重要な問題となる。そこで、事前抑制禁止の原則が導かれる。これに対して、職業ないし営業の形式による対社会的な表現活動は、反復継続して実施される点に大きな特徴を示す。このことは、一方において、過去の経験の分析から、過度に広汎にならない範囲での営業の制限を行うことが可能であることを意味する。他方において、反復継続性の結果、不適切な営業活動により、多くの人々に害悪を及ぼす可能性が明白に認められる場合が、類型的に存在している。このため、営業の自由の抑制手段として、事前抑制が一般的に承認されることになる。

 このように、類型的に制限可能性が認められる場合には、類型的に制限可能性が否定されている場合に使用される厳格な審査基準が不適切なことはいうまでもない。この結果、一段緩和された厳格な合理性基準が判断基準として使用される妥当性が導かれる。

 ただし、現実の判例の中では、この点が正面から説かれて、審査基準選択の根拠となった例はなく、せいぜい次に述べる経済的自由権としての側面において厳格な合理性基準を採用する際の傍証程度に扱われている。

  (2) 経済的自由権的側面の規制における審査基準

 経済的自由権としての側面に関する規制についてはどのように考えるべきであろうか。

 消極規制は先に述べたとおり、別名、警察規制とも呼ばれる。警察権という強大な国家権力は、人民の権利・自由の侵害を保障しようという観点から、その行使をその目的に照らし、必要最小限度にとどめなければならない。そのために、様々な原則の存在が指摘されるが、規制との関係では、行政法上「警察消極目的の原則」と呼ばれるものが重要である。すなわち、警察は、直接に公共の安全と秩序を維持し、これに対する障害を未然に防止し、除去することを目的とする作用であるから、警察はこの消極的な目的のためにのみ活動することができる。最高裁は、このことを確認して、次のように言う。

「個人の経済活動に対する法的規制は、個人の自由な経済活動からもたらされる諸々の弊害が社会公共の安全と秩序の維持の見地から看過することができないような場合に、消極的に、かような弊害を除去ないし緩和するために必要かつ合理的な規制である限りにおいて許されるべき」であるとする(薬事法判決)。

 この結果、警察規制の場合には、最小限度規制原則に基づき厳格な合理性基準が要請されることになる。その結果、LRA基準を使用することが求められることになる。

「自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的、警察的措置である場合には、許可制に比べて職業の自由に対するよりゆるやかな制限である職業活動の内容及び態様に対する規制によつては右の目的を十分に達成することができないと認められることを要するもの、というべきである。そして、この要件は、許可制そのものについてのみならず、その内容についても要求されるのであつて、許可制の採用自体が是認される場合であつても、個々の許可条件については、更に個別的に右の要件に照らしてその適否を判断しなければならないのである(薬事法判決)」

 つまり、同じ厳格な合理性基準を採用する場合であっても、それが精神的自由権的側面を制約している場合と、警察規制の場合という、二つの異なるメカニズムが働いている、ということができる。

  2 社会権と積極規制

  (1) 積極規制の受益者

 営業の自由では、それが対社会的な継続的表現としての機能を有するために、自由権と衝突する可能性だけではなく、他者の有する社会権と衝突する場合が発生する。社会権では、国家が私人間に積極的に介入して新たな措置をとり、それに伴い、関連する経済的自由権が制約されるという形が発生する。その場合、社会権の保障は、営業の自由に対する制約を最も小さくすればよいというものではなく、むしろ、社会権を最も効率的、経済的に保障できるものがよいということになる。その結果、制約される自由権の側から見ると、単純な最小限度規制に止まらない制約を肯定すべき場合が発生するのである。

 例えば、特定の業者の経営の安定を目的として規制を行う(つまり独占を認める)のは、その業者の営業の自由を保護しようとしているのではなく、その業者の営業に依存して、自らの「健康で文化的な最低限度の生活」を維持しようしてい近隣国民の保護目的である。

 例えば公衆浴場の距離制限に関して、平成元年1月20日最高裁判所第二小法廷判決は、公衆浴場相互間に距離制限が認められる理由として次のように述べている

「公衆浴場が住民の日常生活において欠くことのできない公共的施設であり、これに依存している住民の需要に応えるため、その維持確保を図る必要のあることは、立法当時も今日も変わりはない。むしろ、公衆浴場の経営が困難な状況にある今日においては、一層その重要性が増している。そうすると、公衆浴場業者が経営の困難から廃業や転業をすることを防止し、健全で安定した経営を行えるように種々の立法上の手段をとり、国民の保健福祉を維持することは、まさに公共の福祉に適合するところ」である。

 つまり、公衆浴場を保護するのは、その浴場を利用する近隣国民が浴場に入る権利を保護する目的なのである。そこで、警察規制ではなく積極規制が採られることになる。

 本問で問題となっている小売り市場の場合も、事情は変わらない。そのあたりを最高裁判所は次のように格調高く述べる。

「憲法は、全体として、福祉国家的理想のもとに、社会経済の均衡のとれた調和的発展を企図しており、その見地から、すべての国民にいわゆる生存権を保障し、その一環として、国民の勤労権を保障する等、経済的劣位に立つ者に対する適切な保護政策を要請していることは明らかである。このような点を総合的に考察すると、憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なつて、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、もともと、憲法が予定し、かつ、許容するところと解するのが相当であり、国は、積極的に国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し、もつて社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図るために、立法により、個人の経済活動に対し、一定の規制措置を講ずることも、それが右目的達成のために必要かつ合理的な範囲にとどまる限り、許されるべきであつて、決して、憲法の禁ずるところではないと解すべきである。もつとも、個人の経済活動に対する法的規制は、決して無制限に許されるべきものではなく、その規制の対象、手段、態様等においても、自ら一定の限界が存するものと解するのが相当である。」

 諸君は、これまで憲法訴訟論というものをきちんと学んでいない。ここで、ごく簡単にわが国における憲法訴訟論における考え方を説明したい。

 わが国裁判所は、裁判機関としては大きな二つのハンディを持っている。第一に、民主的基盤を持たない。裁判官は決して一般国民から直接の信託を受けたものではなく、単に司法試験に合格し、最高裁判所に採用されたものであるに過ぎない。第二に、裁判官は法律に関しては専門家であるが、立法活動や行政活動に関しては素人である。素人が専門家の判断を軽々しく批判するのは妥当ではない。

 ここから司法消極主義原則が導かれる。本問に関して言えば、立法に関して専門家であるのは、立法府としての国会である。しかも、立法府は、権力分立制において、司法府と同位に立つ上に、直接に国民を代表する者として、遙かに強力な民主主義的正当性を有する。このような場合に、裁判所として、国会が立法という形で示した判断を軽々しく批判することが許されるであろうか。

 君たちが持つべきは、このような問題意識である。このことを、最高裁判所は、次のように、きわめて綿密に説明している。

「社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない。というのは、法的規制措置の必要の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するにあたつては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。」

 ここまでの説明が、私がしたラフな説明と本質的に同じ内容であることは判ると思う。その結果、軽々な批判が許されないと言うことになると、裁判所として、立法の目的や内容がよく理解できない法律については、それが素人が考えたって絶対におかしいと断言できるような場合でなければ、裁判所と同位の機関であり、同じく国民に対して責任を負っている機関の判断を信用するのが正しいということになる。したがって、原則として違憲と言うべきではない、という結論が導かれる。それを最高裁判所は次のように述べる。

「右に述べたような個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」

 すなわち、この場合には、二重の基準論の根拠の中でも、特に、裁判所の判断能力の限界と、同等の国家機関の専門的判断に対する謙譲ということが大きな理由となって、狭義の合理性基準(明白性基準)が使用されることになると最高裁判所は言っているのである。

 この結果、社会権実現のために立法裁量の幅を広く肯定しなければならないから、単純にLRAテストを行うことはできない。それでも「重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置である」かないかの審査は行わなければならない、とする。したがって、通常の合理性基準でいうように、明白性基準だけで合憲とすることはできない。小売市場最高裁判決は、薬事法最高裁判決より3年早く下されているので、この点は文言上明確ではないが、審査内容を見ると、「過当競争による弊害が特に顕著と認められる場合についてのみ、これを規制する趣旨である」ことなどを決め手として合憲としており、既にこの重要な公共の利益という判断が下されていることが判る。その意味で、許可制には一般に厳格な合理性の基準が適用になるといえよう。

 

[補足]

 本来の事件は、小売市場間の距離制限が論点であるが、そんな要素を取り込まなくとも、十分に憲法問題となり得ることからここでは問題を簡略化してある。

 本問の場合、魚屋や八百屋というものは、その本来の性格から、主婦が毎日のように気楽に買いに行ける範囲内になければならないから、そのような営業を保護する必要があるということは、基本的に理解できる。しかし、高知入り場の場合に限って、しかも10店舗以上の商店が入っている場合に限って、しかも現実問題としては大阪に限って、その規制を行う必要があるのか、ということはよく判らない。しかし、よく判らないのは、我々にそれを判断するのに必要な立法上、行政上の専門知識を有していないからである。関東地方であっても、そのような規制の必要があると内閣が認めれば、いくらでも規制対象地域を拡大することは可能であることは、立法形式から見て明らかである。したがって、このようによく判らない場合には、同位の国家機関を信頼しようという判決と理解できるのである。