電波メディアの規制と国家補償の本質

甲斐素直

問題

 国会は,主に午後6時から同11時までの時間帯における広告放送時間の拡大が,多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセスを阻害する効果を及ぼしているとの理由から,この時間帯における広告放送を1時間ごとに5分以内に制限するとともに,この制限に違反して広告放送を行った場合には当該放送事業者の放送免許を取り消す旨の法律を制定した。この結果,放送事業者としては,東京キー局の場合,1社平均で数十億円の減収が見込まれている。この法律に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。

平成18年度司法試験問題

[はじめに]

 近時、司法試験は出題趣旨が公表される。本問について、出題者は、その出題趣旨について次のようにコメントしている。

「本問は,放送事業者の広告放送の自由を制約する法律が制定されたという仮定の事案について,営利的表現の自由の保障根拠や放送という媒体の特性を踏まえて,その合憲性審査基準を検討し,当該事案に適用するとともに,放送事業者に生じうる損害に対する賠償ないし補償の可能性をも検討し,これらを論理的に記述できるかどうかを問うものである。」

 このコメントを前提に、以下、考えていこう

 本問で、本件法律を営業の自由の規制立法ととらえて、その点から論文をスタートさせると考えるのは正しくない。なぜなら、電波は希少な国民共有の資源を、特定の個人が、自らの利益追求の手段として利用することは本来許されない。そこで、一般に、この領域の営業の自由は否定され、特に許された者に対して、厳しい規制の下でのみ、放送事業は許されているのである。始めから営業の自由が認められていない領域で、新たな規制が行われたからといって、それを営業の自由の規制と見る必要はないのである。

 本問は、2つの論文が融合した形をとる。第一は報道の自由であり、第二は損失補償(あるいは国家賠償)の問題である。

 電波メディアに対する厳しい規制法が放送法であり、規制内容が、いわゆる報道の自由の名で知られている問題である。すなわち、本問では、報道の自由から議論は始まらなくてはならないのである。

 第2の問題は、憲法29条である。その中でも2項が中心論点となる。すなわち、立法による財産権の制限はどの範囲で認められるのか、という問題である。これに対して、78日に行う予定の旧司法試験平成6年の問題の場合には、3項が中心論点となる。

 

一 電波メディアにおける報道の自由

 本問の議論の中心は、出題時に諸君にアナウンスしたとおり、憲法29条にある。だから、本節で論じる報道の自由については、簡略に、しかし、ポイントを落とさずに論ずることができるか否かが、合否を分けることになる。フルに論じたのでは、それだけで一つ論文を書くだけの時間と紙幅を要求し、後半の論文まで書けなくなってしまうからである。

この部分は、527日及び63日にやったばかりのものの復習に過ぎないので、私としては何も書かずに済むと思っていたのだが、残念ながら、提出された論文は、それがきちんと書けたものはなかったので、以下では、ある程度詳しく説明する。

(一) 答案構成

 報道の自由の論文は、常に知る権利に関する議論から始まる。そして、その知る権利への奉仕する自由として、報道の自由を説明する。知る権利を書き落としてしまうと、この論文の決め手となるところで、理由が不足してしまう。報道の自由は「知る権利」の議論から始まる、という事を、しっかりと頭の中に刷り込んでおこう。 

 報道の自由とは、「報道機関が国民に対して事実の伝達をする自由」を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人である点に第二の特徴がある。普通だと、第一の特徴からじっくりと論ずるところだが、本問では、この第二の特徴が重要でなので、そちらに絞って議論する。

(二) 報道機関による活動

 報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。

 この報道機関の自由を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。第一に、かつての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。第二に、今日の複雑化から、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである。この結果、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和441126日)は次のように述べている。

「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」

 すなわち、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない点は、記憶にとどめておかねばならない。

 この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。なぜなら、上述のようにマスメディアが今日では情報の発信を独占しているが故に、その持つ報道の自由を特別に保護することによってしか、我々国民の知る権利を実効的に保障することはできないからである。

 その報道機関に対する特別の保障の結果、例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道機関により報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。その中心にあるのが、本問取材の自由という概念の下に、特に論ぜられる様々な特権で、5月に詳しく議論した。

 他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求され、さらに一定の偏りがあった場合には、国民からのアクセス権が肯定される場合がある。このことは電波メディアには法律上明定されており、印刷メディアの場合にも、基本的に同様に考えられている。

(三) 編集の自由

 編集権は、それ自体、著作権が認められる権利である。訂正請求事件において、最高裁判所は、編集権について次のように述べている。

 「[放送]法3条は,…表現の自由及び放送の自律性の保障の理念を具体化し,『放送番組は,法律に定める権限に基く場合でなければ,何人からも干渉され,又は規律されることがない』として,放送番組編集の自由を規定している。すなわち,別に法律で定める権限に基づく場合でなければ,他からの放送番組編集への関与は許されないのである。法4条1項も,これらの規定を受けたものであって,上記の放送の自律性の保障の理念を踏まえた上で,上記の真実性の保障の理念を具体化するための規定であると解される。」(訂正放送等請求事件20041125日最判=平成16年度重要判例解説22頁参照)

 このように、放送に関する編集権は強力な保障の対象となっている。

 しかし、同時に、冒頭に強調したとおり、この強力な編集権もまた、国民の知る権利に奉仕するために「事実の伝達をする自由」として認められていることを忘れてはならない。

 ここまで検討してくると、本問がいう「主に午後6時から同11時までの時間帯における広告放送時間の拡大が,多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセスを阻害する効果を及ぼしているとの理由から,この時間帯における広告放送を1時間ごとに5分以内に制限するとともに,この制限に違反して広告放送を行った場合には当該放送事業者の放送免許を取り消す」という立法の意味がわかる。

 すなわち、この立法は、広告放送をどの程度入れるかということも番組編集権の一環であるという意味において、編集権に対する制限立法である。すなわち、最高裁がいうところの「別に法律で定める」場合にまさに該当する。

 そして、編集権は、国民の知る権利に報道機関がよりよく奉仕するために認められている。本法律は、「多様で質の高い放送番組への視聴者のアクセス」を確保するために制定されたのである。このような趣旨による一般的な規制は許される可能性が高い(そこから先は、そのような立法の合理性を支えるだけの立法事実が存在するか否かという、事実認定の問題になり、本問では回答不可能である。)。

 ここで、もう一つ考えなければならないのが、マスメディアへのアクセス権である。今日、我々はマスメディアを通じなければ、一般国民に情報を発信する事ができない。そして、サンケイ新聞事件で問題になったのは、意見広告を行う自由であったが、営利的広告についても、その発信者にとり、同様の問題が存在している。

(四) 審査基準論

 出題の趣旨によると、ここで審査基準論が期待されている。

 実をいうと、私には、本問で合憲性審査基準が論点になるとは思えない。「憲法訴訟論」という言葉に明らかなとおり、審査基準論は、裁判所が、立法の合憲性をどの限度で審査可能かという議論である。だから、問題が裁判上どうするかということを訊いているのでない限り、審査基準論に言及してはいけないと考えるからである。本問のように「この法律に含まれる憲法上の問題点」と訊かれている場合には、たとえば、諸君が国家公務員に採用されて、このような法案を作成する立場になり、あるいは内閣(衆議院・参議院)法制局に勤務して、このような法案の合憲性を訊かれたときに、どのような意見書を書くか、という状況だと考えれば、イメージがわくだろうか。裁判所が判断できない問題であっても、公務員として憲法忠誠義務(憲法99条)を負っている諸君としては、その合憲性を判断しなければいけないのである。

 それに対して、同じ18年度の新司法試験の問題の場合には、「あなたがたばこ会社であるT社から依頼を受けた訴訟代理人であった場合、損害を回復するためにどのような訴えを起こしますか」という問なので、審査基準論が中心的な論点となるのである。

 しかし、試験において、出題者に文句を言っても、勝ち目のない話で、本問では、出題者が審査基準論が論点にあるといっているのであるから、以下でその点を検討する。

                           

 常識的にいえば、報道の自由の問題は、広義の表現の自由の一環として、厳格な審査基準を使用するべきである。しかし、それはあくまでも、国民の知る権利を制限する方向への規制の場合である。本問のように、知る権利をより拡大する方向への規制にそれは妥当しないのではないか、と思われる。そのことから、厳格度を下げることが許容されるとすれば、厳格な合理性基準が妥当すると考えることができる。

 さらに、規制内容が、広告放送をどれだけ行うかという、民間放送の営業活動に属する問題であることを考えると、狭義の合理性基準で十分ではないか、という判断も可能である。出題趣旨に出てきた経済的表現の自由というのは、このことをいっているのだと思われる。純然たる経済的表現の自由の場合であれば、二重基準の根拠である民主主義への影響という点を考えても、このように結論すれば十分であろう。

 しかし、私は、広告放送イコール経済的表現の自由と考えるのには反対である。なぜなら、産経新聞事件で問題になったように、意見広告というものも存在しているからである。あるいは選挙広告などもある。すなわち、有料広告であるからといって、常に経済的表現の自由だけを伝えているとは限らないのである。

 そして、本件法律は、そのような広告放送の内容を検討することなく、一律に、一定の時間を制限して、広告という方法による放映の規制を行っているのであるから、いわゆる時・所及び方法の規制に該当する。そうであれば、通常の経済的自由の規制に対する場合よりも、一段厳格度を上げ、厳格な合理性基準を採用する方が妥当であろう。

                           

 現実に、このような規制は存在しておらず、その結果、この点については学説は存在していないので、諸君として、説得力ある論理さえ展開してくれれば、自由に考えてよい。

 大事なことは、いずれにしても、この規制に合理性があるか否かを判断するための十分な資料は提供されていないという点である。憲法訴訟論で学んだとおり、合憲・違憲の判断には、十分な立法事実が提供されないと、立法の合理性を判断できない。だから、諸君として一義的に結論が下せる問題ではない。したがって、後半の問題は「仮に合憲と判断された場合には」という留保付きで展開することになる。

 もちろん、違憲とした上で、既にこのような法律が実施された場合について、憲法17条を論ずるという答案構成もあり得る。[出題の趣旨]で、「放送事業者に生じうる損害に対する賠償ないし補償の可能性をも検討し」と述べて国家賠償になる可能性をも予定しているのは、その意味である。ここではそれについての説明は割愛する。

 

二 国家補償について

[問題の所在と考え方]

 合憲な法律によって、広告収入を得ることが制限されたのであるから、これは、適法な財産権の侵害と構成することができる。この場合には、憲法29条の損失補償としてとらえることになる。それに対して、諸君がこのような立法は違憲の可能性が高いと第1段階で判断した場合には、違憲であると仮定し、違法な侵害であるとして、17条の国家賠償の問題となる。どちらの方で答案を書いても構わない。本講では、前者の仮定を取って以下説明する。

 ここで、大事なのは、本問に必要な論点をしっかりと把握し、それを論理的な展開の順序に従って配置する作業(これを「答案構成」という)である。そうした論理的な展開ということを考えずに、機械的に論点をならべていくと、その論理の流れからすれば、全く不要の論点にたくさんの行数を注ぎ込み、肝心の中心論点が手薄になるというような弊害を起こしたりしやすいので注意しよう。

 そこで、今回は、諸君の書く論文をどのように構成するか、という点を離れて、基本的な理解をして貰うための説明という観点で、このレジュメを書いてみる事にした。流れとしては、最後の結論から始まって、最初にさかのぼるというちょっと変わった説明なので、このレジュメを参考に論文を書く場合には、その点に注意して欲しい。

 

(一) 逆転の説明

 法律による侵害があったにもかかわらず、補償をしないというのの典型例として、次のような例がある。

 東京のような大都市の近郊で、市街化調整区域の線引きを行ったとしよう。その結果、市街化区域においては、1坪あたりの市場価格が100万円であったのに対して、市街化調整区域では1万円であったとする。この場合、境界線ぎりぎりに土地を持っていたが、運悪く市街化調整区域に入った人は、資産価値の99%という莫大な損失を被る事になる。では、このような立法に対して損失補償を請求できるだろうか。そのような損失補償を認めては、都市計画法は意味を失うから、社会常識的にいえば、請求は認められない。これはどのように理論づけられるのだろうか。

 これは、財産権が生活権補償だと考えることで、基本的には説明できる。先に説明したとおり、市街化調整区域の場合には、それによって財産価値的には莫大な損失を被る事になるが、その土地で現に生活している人にとって、生活を継続する上では、それは何の違いももたらさない。そこに住み続けるという観点から言えば、資産評価額の下落は、むしろ固定資産税が著しく低下することによるメリットの方が大きいとさえ言える。だから、生活権に関する損失は発生しないので、補償を要しないということになる。

 すなわち、29条の損失補償の本質は、決して財産権の失われた客観的価値の補填ではなく、その財産権に依って支えられている当該国民の生活権保障と考えなければならないことになるのである。

 この議論の意味が判るだろうか。29条は、1項の財産権の限りでは経済的自由の保障規定であるが、292項で、侵す事のできない制度の中核としては、社会権の補償規定である、という事なのである。

 これが、本問で、292項の解釈として制度的保障論を展開しなければならない理由である。同項が、制度的保障論を採用しているのだと論じる場合において、侵す事が許されない制度の中核と、ここで言っている、損失補償の本質とは基本的に同じことである。

 ここで、同項が単純に資本主義を保障している等と考えている人がいるが、そのような理解では、上記の場合に補償を要しない事は説明できない事は判ると思う。

 今日、我々は、自由国家ではなく、社会国家、すなわち社会的弱者に対して国家として救済の手をさしのべる国家として理解する。その中心になるのは、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法25条)」である。国家がダムを建設する事で、この権利を侵害した場合に、損失補償の必要が発生するのである。

 以上のような事を前提とした上で、本問の答案構成を考えた場合には、

@ 291項の財産権の意義を述べ、

A 292項が制度的保障であり、その制度の中核としての生活権を述べ、

B これを前提に、293項の補償の範囲を論ずる。

というのが基本的な構造として現れてくる事になる。報道の自由は常に知る権利の議論から始まる、というのと同じ程度の意味において、憲法29条に関する答案は、常にこの形の答案構成を行わねばならない。その上で、2項が中心論点なのか、3項が中心論点なのかにより、具体的な差異が生じてくる事になる。

 

 (二) 私有財産制の意義

 通説は、第1項に二通りの意義を認める。第1は、個人が現に有する財産権を保障することであり、第2は、私有財産制という制度の保障というのである。これは一つの矛盾である。個別具体的な人権を承認できる場面で、それよりも保障力の低い制度的保障概念を導入する必要はないはずだからである。

 そこでの問題は第2項の存在である。財産権の内容を法律で定めるということは、財産権は法律の存在する限りにおいてのみ存在することが出来るという意味である。現に存在している財産権そのものを、法律によって廃止するということは決して不可能ではない。例えば、永小作権は、その歴史的使命を既に終えていると考えて、廃止されても良いかもしれない。したがって、個人の現有財産に対する保障というのは、第1義的には行政や司法に対する保障の意味であって、立法に対する保障とは考えられない。

 その結果、立法に対する保障は、制度的保障概念に頼らなければならないことになる。その制度的保障が、財産権の個人所有、すなわち私有財産制を内容としているという点では異論はない。制度的保障概念は、その周辺の法律による制限を認めつつ、中核概念を立法によっても不可侵なものとして保障する理論だった。私有財産制の場合に、その不可侵の中核はどのような概念になるのか、ということが、第一の問題点である。

 私有財産制は社会主義の下においても是認されている。なお、佐藤幸治は営業の自由を根拠に、資本主義を採用していると主張するが、営業の自由は社会主義経済の下でも肯定されているから、根拠にはならない。わが国が資本主義を採用しているという前提の下に、生産手段の私有までが制度的保障の対象となっていると主張する。しかしこの点でも、社会主義では、すべての生産手段の私有を禁ずるわけではない。

参考までに1977年ソヴィエト憲法を見ると、次の通りとなっている。

11条(市民の所有)

 @ソ連邦市民の所有はその個人の資産であり、物的及び精神的欲求を充足させ、経済的及び法律で禁止されていないその他の活動を自主的に行うために使用される。

 A 市民の所有には、市民の所有として取得することが許されていない種類の財産を除き、労働による取得もしくは合法的に取得した消費及び生産を目的とする任意の財産が含まれる。

 B 市民は、農業経営及び個人副業経営を行うため、ならびに法律で定められているその他の目的を実現するため、終身かつ相続しうる土地を占有する権利を有する。

 C 市民の財産の相続権は、法律によって認められかつ保障される。

17条(個人営業) ソ連邦では法律に従って市民本人及びその家族の構成員のみの労働に基づく手工業、農業、及び住民に対する生活サービス領域での個人的勤労活動並びにその他の種類の活動が容認される。国家は、この活動が社会の利益のために利用されることを保障するために、個人的勤労活動を規制する。

 これに対し、資本主義の下でも、議会によって一定の産業について民間で行うことが禁じられていたり、企業の国有化が行われたりすることを考えれば、この点での資本主義との差は、程度の差に過ぎない。

 むしろ、生産手段の私有を絶対的に保障していると解するべきなんらの法的根拠も存在しないこと、財産権の社会性から見た場合、個人の生存に直結する財産権の保障までで、制度としては必要にして十分であること、という二つの根拠から、人間が、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有までが保障の対象となると考えるのが妥当である。換言すれば、個人の能力によって獲得し、その生活利益の用に供せられるべき財産を、使用、収益、処分する権利と解される。

 この点について、どう議論するかは、諸君がどのような教科書を基本書にしているか応じて決まる。そこで、もう少し細かく学説をみてみよう。

 1 大きな財産・小さな財産説

 少しややこしい説なので、文字通り引用する。

「社会国家の使命が、なによりも先に、社会の下積みになった多くを占める国民に、人たるに価する生活を保障することだとしたならば、そこにおいて制限されるべき財産権とは、国民がその生活を営むための日常必需財産を支配する財産権を直接の対象とするのではなくそういう『小さな財産』の財産権を意味するのではなく、もっと『大きな財産』の財産権貧乏や失業の原因を作った資本主義経済発展の原動力となった財産を支配する財産権をその主要な対象とすべきはずである。なぜならば、この『小さな財産』のもつ社会性は比較的弱いのに対して、『大きな財産』のもつ社会性は極めて強いからである。」

高原賢治「社会国家における財産権」有斐閣『日本国憲法体系』7249

 佐藤幸治もこれを妥当とする(佐藤『憲法』第3版、566頁)。

 この考え方をとる場合には、キー局の収入は、大きな財産に属することになるから、それに対する規制は、制度の中核には属さないことになる。

 2 生存財産・独占財産説

 たとえば、長谷部恭男は次のようにいう。

「個人の固有のものとしての財産は、社会公共の利益を理由としても侵害しえない、最低限の生活保障のため、あるいは個人の自由な私的生活領域を保護するために不可欠な財産と考えることができる。このような財産は憲法291項による保障の中核にあり、法律によっても侵害しえないものである。

 これに対して、現在の高度に複雑化した経済社会を規制する財産法制の大部分は、当該社会のメンバーがそれに従うことに共通の利益を見いだすからこそ存在するものであろう。このような財産法制は、292項の定めるように、社会全体の利益つまり公共の福祉という観点から立法府によってその内容を定められ、変更されうる。」

長谷部『憲法〔第5版〕』新世社233頁より引用

 基本的には上記大きな財産・小さな財産と同様の考え方であるが、表現の明確性から最近はこちらをとる者が増えている。たとえば、野中他『憲法T〔第4版〕』444頁(高見勝利執筆部分)、辻村みよ子『憲法〔第2版〕』284頁、小林孝輔他『基本法コンメンタール憲法〔第5版〕』212頁(中島茂樹執筆部分)も同様の見解を示す。保障される財産権だけを考えて、「人間に値する生活財保障説」(今村『損失補償制度の研究』676頁)と呼ばれることもある。

                           

 上記に示したところに対しては、様々な批判も存在している。そもそも制度的保障と考えるのは妥当ではない、とする者も少なくない。たとえば浦部法穂『憲法学教室〔全訂第2版〕』212頁は次のように批難する。

「これはすなわち、社会権の実現が財産権保障という観点から限界づけられるということを意味する。これでは、社会権を保障し、そのためには経済的自由権が制限されることを当然の前提とした憲法の趣旨が完全に没却されることになってしまう。要するに、291項の解釈論として制度的保障の概念を持ち込むことは、日本国憲法の基本的な立場と相容れないのである。291項の解釈として、制度的保障論は、とるべきではないと思う。」

 こうした学説の対立については、諸君の基本書は必ずしも詳しくない。しかし、それは知らなくて良いという事ではない。これらの学説を簡単に早く知る方法としては、何らかの憲法コンメンタールや演習書を参照する事である。論文練習の手段として、普段からそうした本の利用を心がけて欲しい。

 

三 特別犠牲について

 上記の議論は、あくまでも292項により財産権制限の立法が可能だという議論までである。

 従来享受できていた財産権が、ある日、法律の新設・改正により失われた場合に、その損失に対する補償が不要なのか、ということは、これとは別に考えなければならない。

 293項の解釈として、天から声があったかのように、何の理由も付けずに「特別犠牲」とする人がよくいる。しかし、論文は理由が命である。このように重要な論点について、理由を付けない事は許されない。もちろん、293項の文言に、特別犠牲という言葉が入っていれば、話は別である。しかし、同項は、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」といっているにすぎない。条文の限りで言えば、私有財産を公共のために用いれば、常に補償がいるように読める。だから、特別犠牲という要件が必要だという説は、憲法の文言にない制限を理論で課しているものなのである。それがどのような理論なのか、という事を明確に書かない限り、論文として評価の対象にならない。

 直感的に理解して貰うための例を挙げてみよう。税金は、我々の私有財産を公共のために用いるために強制的に徴収する行為であるから、293項の文言には間違いなく適合する。しかし、税金の徴収に対してその都度正当補償をしていたのでは、国民国家の財政は成り立たない。だから、同項の文言を何らかのメルクマールで制限することが許されるのは、憲法秩序的に明らかと言える。

 問題は、補償のいる場合と、要らない場合とを、どのような理論で区別するか、という事である。ここで登場するのが、平等権の理論である。平等負担説は次のように説明する。

「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」。(柳瀬『公用負担法』新版、256頁)

 通説的には、この平等負担説を、292項の法的性格から、先に述べた財産権+生活権保障の限度で採る説といえる。

 この全国民が平等に負担するべき損失を、特定人だけが負担する状態の事を、「特別犠牲」というのである。

 しかし、実をいうと、特別犠牲と言うだけでは十分ではない。ダム建設の場合を考えてみよう。元からの村人の場合には、市場価格を度外視した生活再建補償が必要であるとしたのに対して、ダム建設を聞きつけて補償金目当てで村に移り住んできたものに対しては、生活再建補償は要らないと考えるのが妥当だろう。どちらも等しく財産権に対する特別犠牲を受けているのに、なぜ違いが生ずるのだろうか。この点を、学説は、これは「偶発的損害」ではないから、と説明する。たまたま運悪く自分の住む村にダムが造られて被害を受けた元々の住民と違って、ダムが造られる事を知って移り住んだ者は、その予期される被害を受忍すべきである、と考えるのである。

 こうした事から、正確に言うと、補償が必要とされるのは、特別かつ偶発的損失を被ったという事になる(特別犠牲+偶発的損失説)。ここでいわれていることを別の言葉で表現すれば、社会的な受忍限度を超えた犠牲ということである。

 本問の場合、放送メディアの損失は、特別犠牲ではない。放送メディア全てに対して共通の規制だからである。

 また、偶発的な損失ではない。元々、知る権利の奉仕するという限界内で、特に与えられた活動であって、様々な規制があり、それに伴う経済的負担もまた発生することを覚悟の上で、行っている事業だからである。

 いま、地上波デジタル化が最終段階に入っている。それにより、各放送局は、あらたなデジタル放送のための莫大な設備投資を負担しなければならず、しかも、完全にデジタル化が実現するまでの間は、従来のアナログ放送設備も完全な状態で維持しなければならないという二重負担も強いられている。しかし、この莫大な経済負担に対し、国は、損失補償は行っていない。必要経費の補助は電波利用料から支出された。電波利用料とは、電波法第103 条の2 2 項では、「無線局全体の受益を直接の目的として行う事務の処理に要する費用(…)の財源に充てるために免許人が負担すべき金銭」と規定されている。無線局には様々な種類があるが、無線局を運用するには、コードレス電話、PHS、無線LAN のような例外を除き、免許が必要である。携帯電話端末の免許は、携帯電話事業者が、個別の無線局ごとに免許を受ける必要のない包括免許制度を利用して取得している。

 しかし、予想外に費用が大きいこと、電波利用料の主たる負担者は携帯電話利用者であり、それに地上波デジタルの費用を負担させる合理性があるか、ということも問題となったが、結局総務省は電波利用料によってすべての変更工事を行い20073月に完了した。

 この例で判るとおり、デジタル化によって放送局に多大の負担をかけたにも関わらず、憲法293項に基づく補償という議論になっていない。同様に、デジタル化の場合には、視聴者にも古いテレビの買い換えその他、多大の負担が発生しているが、これも特に切り替えが困難な場所に関する助成措置という形で対応されている。

 これもまた、テレビ局や個人の負担が特別かつ偶発負担ではない、ということに基本的には基づいている。