国家補償の本質と限界

甲斐素直

問題

 用地の取得が著しく困難な大都市において、公園及び公営住宅の建設を促進する為に、当該都市に所在する私有の遊休土地を市場価格より低い価格で収用することを可能とする法律が制定されたと仮定する。この法律に含まれる憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。

平成6年度司法試験問題

[はじめに]

 本問自体は、上述のとおり平成6年度の出題であるが、本問のメインテーマである正当補償を「相当補償」と解せるか否かに関しては、平成14611日最高裁判所判決が問題としており、したがって近い将来に出題可能性の非常に大きな問題と言う事ができる(平成14年度重要判例解説17頁参照=以下14年最高裁判決という)。この14年最高裁判決そのものは、土地収用法の細かい議論が絡んで少し難しいと思われるので、それよりは易しいこの平成6年司法試験問題を叩き台にして出題してみたのである。

 

 本論に入る前に、相変わらず論文の書き方そのものがさっぱり判っていない感じなので、その点から若干のコメントを付する。

(一) 論文式試験答案の書き方

1 答案の形式について

 論文を書くに当たっては、適宜番号を振り、改行をしよう。そうすることで、発生する効果で特に重要なのが次の二つである。

 (1) 答案の紙面を一見して、整然として読み易いという印象を与える。

 試験委員は、膨大な数の答案を見るのだから、全文を緻密に読まなければ何が書いてあるかが判らない、というような答案は印象を悪くする。同じ内容であっても、印象の良い方が点が良くなるのは当然である。

 (2) 自分の考えを整理できる

 答案構成を行う際に、何をどのように番号を振るかを考えるだけで、自ずと論文の骨格ができあがる。番号を振る事を考えない場合には、なかなか論点整理ができない。

2 答案の内容について

 論文式試験は、解答者が相当の知識を有することは当然の前提となっている。なぜなら論文式試験で採点対象になる者は、必ず短答式試験を突破した少数者である。十分知識があるものだけが、論文式を受験する。だから、短答式的な知識は、採点基準には含まれない。つまり、いくら正確な知識があると誇示して見せても、それは点数としては評価されない。かわって、ここで評価対象になるの、論理的思考能力である

 すなわち、提起されている問題点に対する自分の意見とその根拠を述べていることが、合格答案の必要にして十分な条件である。ところがなぜか、自説はそっちのけにして、『通説』は何かなどという、まったく加点評価の対象にならない余計なことを書きたがる。その結果、それに時間と紙幅をとられて、肝心の自分が考えていることについては、書かずじまいになる。合格答案を掻くための手っ取り早い対策として、次の標語を覚えておこう。

 結論を1行書いたら、その根拠を1行は必ず書く

 論文は、結論を知っているかどうかではなく、自分の議論にきちんと説得力ある理由を付する能力があるかどうかを調べる試験なのだということを肝に銘じておこう。 

(二) 審査基準論について

 人権論では基本的に審査基準論に行数を注ぎ込む。これは原則としては正しいが、本問では間違いである。「憲法訴訟論」という言葉に明らかなとおり、審査基準論は、裁判所が、立法の合憲性をどの限度で審査可能かという議論である。だから、問題が裁判上の論点を訊いているのでない限り、審査基準論に言及してはいけないということである。

 本問は、たとえば、諸君が国家公務員に採用されて、このような法案を作成する立場になり、あるいは内閣(衆議院・参議院)法制局に勤務して、このような法案の合憲性を訊かれたときに、どのような意見書を書くか、という状況だと考えれば、イメージがわくだろうか。裁判所が判断できない問題であっても、公務員として憲法忠誠義務(憲法99条)を負っている諸君としては、その合憲性を判断しなければいけないのである。

 それに対して、たとえば、「甲がこの法律により市場価格の半値で強制収用されたので、その裁判でその違憲性を争った」という問題であれば、審査基準論が中心的な論点となるのである。

(三) 財産権の制約について

 本問は、土地の公用収用、すなわち財産権の剥奪に関する議論であるから、財産権の制限に関する議論を展開する必要はない。29条に関する重要な論点という事で、機械的にその点に論及するのは間違いである。しかも、そこで書いている理由がかなり古い学説を無批判に採るので、今日的な論文としては間違いになる。

 一般の人権について、「公共の福祉」という議論を展開する場合、この公共の福祉の意味として、内在的制約と理解する。これは正しい。そこで、この論理を財産権の場合についても機械的に延長して、292項の公共の福祉についても、これを内在的制約と論じてしまうのである。この点に関する学説を古い順から並べると次のようになる。

(1) 消極(警察)規制説

 公共の安全秩序という消極的な目的のために課される財産権の制限(警察制限)に対しては補償は不要であり、他方、公共の福祉の増進のためという積極的な目的のための財産権の制限(公用制限)に対しては補償が必要とする。この説による代表的な判例が、奈良県ため池条例判決で、「その財産権の行使を殆ど全面的に禁止」する場合でも堤防の決壊防止のためであれば無補償でよいとしていた。しかし、河川附近地制限令判決は「その財産上の犠牲は、公共のために必要な制限によるものとはいえ、単に一般的に当然に受けるべきものとされる制限の範囲を超え、特別の犠牲を課したものと見る余地が全くない訳ではな」いとして、この判例を変更した。また、公用制限でも美観地区や風致地区、市街化調整地区のための利用制限には補償は要しないとされる。こうしたことから、今日ではこうした説明は一般に取られなくなってきた。だから、それにもかかわらず、その様に論じたければ、今日的な新たな理由付けを自分なりに工夫する必要がある。

(2) 内在的制約(社会的制約)説

 内在的制約に属する場合には、補償は無用であるという説である。かつては上記警察制限と同趣旨であったのだが、近時は積極目的の場合でもこの語に含ませるのが普通である。その結果、補償を要しない場合というのを単に言い換えているのに過ぎなくなり、具体的な基準としての機能が無いのが、この説の欠点である。要するに、抽象的な表現としてみる限り、この説は誤りではない。しかし、このように表現したからと言って、それにより具体的事案に関して補償の要否を判定する事ができないのである。

 そこで、今日の学説は、この説の内容をより具体化するための努力を重ねている。後に詳述する「特別犠牲+偶発的損失」説がその意味で通説といえるであろう。前回、電波メディアの制約と国家補償の問題に関して、簡単に説明した。しかしこの点については、本問のような具体的内容を持つ事案の場合には、内在的制約と言うだけでは解決にならない事を記憶しておこう。

 

一 論点と答案構成(本問に沿って)

 前回の電波メディアの問題で、国家補償の問題は易しいと説明した。答案構成は、どの問題であっても途中までは同一だから、其れを覚えておいて機械的に適用すればよいからである。そこでの説明の中心の所を抜き取って再掲すると次のとおりである。

「 今日、我々は、自由国家ではなく、社会国家、すなわち社会的弱者に対して国家として救済の手をさしのべる国家として理解する。その中心になるのは、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法25条)」である。国家がダムを建設する事で、この権利を侵害した場合に、損失補償の必要が発生するのである。

 以上のような事を前提とした上で、本問の答案構成を考えた場合には、

@ 291項の財産権の意義を述べ、

A 292項が制度的保障であり、その制度の中核としての生活権を述べ、

B これを前提に、293項の補償の範囲を論ずる。

というのが基本的な構造として現れてくる事になる。報道の自由は常に知る権利の議論から始まる、というのと同じ程度の意味において、憲法29条に関する答案は、常にこの形の答案構成を行わねばならない。その上で、2項が中心論点なのか、3項が中心論点なのかにより、具体的な差異が生じてくる事になる。」

 私としては十分に簡明で、これだけしっかり説明しておけば、今回は論文提出者全員が合格答案と期待したのだが、誰も前回の講義を理解していなかった惨憺たるものであった。

 改めて、答案構成というものの考え方を説明する。

 本問のポイントが、293項の「正当な補償」の語について、「相当補償」でよいとするか、「完全補償」を必要とするか、という対立にある事は、問題を一読すれば明らかと思う。相当補償でよいとする点については、最高裁判所昭和281223日の判例がある。従来、この判例は、農地改革という特殊事情の下での特殊な判決なので、通常は『完全な補償』が必要だと解されてきた。しかし、学説的には古くから相当補償で足りるとする説があり、また、近時のバブル経済やその破綻という状況の中で、特殊な状況下では、やはり『相当な補償』でよいとする説が登場してきた。これらのどれをとる場合にも、財産権制度の本質との関連で、きちんと理由を挙げて論ずる必要がある。完全保障説で頑張る場合も、なぜ相当補償では駄目か、という点に関するしっかりした議論が必要である。

 この基本的な問題意識について掘り下げる前に、諸君の多くが持っていた今ひとつの誤解を解く事にしたい。それは完全補償という言葉の意味である。

 「完全補償とは市場価格の事だ」という学説・判例的には遙か前にほろびた説を無批判に信じ、そう断定する形で論文を書いていた。しかし、この二つは、少なくとも今日の実務及び通説によれば、別の概念である。ただ、市場価格を補填すれば、完全補償されたと考えても許される場合がある、という程度の関係しかない。

 例えば、山間の僻地にダムを建設する事とし、そこにある村が水没するので、補償する場合を考えてみよう。過疎の村の建物や農地は、耕す人もないままに荒廃している事も珍しくない。つまり、現在のわが国で、そうした僻地の農地や宅地について売却したくともまず買い手はいないのである。したがって、売買実例はまず無い。つまり市場価格としては、ゼロ円である。だから、完全補償=市場価格と考えている場合には、市場価格に応じた補償、すなわち無補償で水没させて良い、という理屈になる。

 しかし、実際には、土地収用に当たっては、原則として再取得価格を補償する。例えば、最高裁昭和481018日判決は「金銭をもつて補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要する」という。つまり、この例で言えば、水没して失う資産と同じ価値を有するものを、移転先で入手できるだけの費用を補償するのである。移転先は、普通は、従来住んでいた過疎の村よりも便利なところだから、宅地や農地の価格は、仮に過疎の村で実際の取引があったとしても、それとは比較にならないほどに高額となる。なぜこのような高額の補償が必要とされるのかを、真剣に考えてみて欲しい。

 それに対して、同じ面積の宅地や農地を失った場合にも、ダム建設を聞きつけて、補償金目当てで住み着いた人に対しては、社会常識的にいって、このような高額の補償は行うべきではない。せいぜい、実際にその土地等を取得するのに要した費用(つまり市場価格)を補償すればよい。このような差別的な取り扱いは、どのように理論づける事ができるのだろうか。

 違う例を考えてみよう。東京のような大都市の近郊で、市街化調整区域の線引きを行ったとしよう。その結果、市街化区域においては、1坪あたりの市場価格が100万円であったのに対して、市街化調整区域では1万円であったとする。この場合、境界線ぎりぎりに土地を持っていたが、運悪く市街化調整区域に入った人は、資産価値の99%という莫大な損失を被る事になる。では、このような立法に対して損失補償を請求できるだろうか。そのような損失補償を認めては、都市計画法は意味を失うから、社会常識的にいえば、請求は認められない。これはどのように理論づけられるのだろうか。

 答えは、29条の損失補償を、基本的に生活権保障と理解する、ということである。山間の村で農業を営んで生計を立てていた人の場合には、ダム建設により、その生計の手段を奪われる。つまり、ここで補償されているのは、失われた財産の市場的な価値ではなく、それまでの生活の場から逐われた人が、新たな場所で、元と同様の生活を再建するための費用なのである。したがって、補償されるのは、単に宅地や農地の再取得価格にとどまらない。これに加えるに付随的損失、例えば建物等の移転料補償、農業等の作業が阻害されることに伴う補償、仮住居費補償などが、完全補償額に含まれることに、学説・判例ともに異論はない。それに対して、補償金目当ての新たな転入者は、再建すべき生活がないから、生活権に関する補償は要らないという事になる。

 また、市街化調整区域の場合には、それによって財産価値的には莫大な損失を被る事になるが、その土地で現に生活している人にとって、生活を継続する上では、それは何の違いももたらさない。だから、生活権に関する損失は発生しないので、補償を要しないということになる。そこに住み続けるという観点から言えば、資産評価額の下落による損失よりも、むしろ固定資産税が著しく低下することによって得られるメリットの方が大きいから、市街化調整区域に位置づけられることは歓迎すべきことであるとさえ言える。

 すなわち、29条の損失補償の本質は、決して財産権の失われた客観的価値の補填ではなく、その財産権に依って支えられている当該国民の生活権保障と考えなければならないことになるのである。

 この議論の意味が判るだろうか。29条は、1項の財産権の限りでは経済的自由の保障規定であるが、292項で、侵す事のできない制度の中核としては、社会権である健康で文化的な生活を送る権利の補償規定である、という事になる。

 これが、本問で、292項の解釈として制度的保障論を展開しなければならない理由である。同項が、制度的保障論を採用しているのだと論じる場合において、侵す事が許されない制度の中核と、ここで言っている、損失補償の本質とは基本的に同じことである。

 ここで、同項が単純に資本主義を保障している等と書いている人がいたが、そのような理解では、上記の場合に生活再建費用を補償する事は説明できない事は判ると思う。

 今日、我々は、自由国家ではなく、社会国家、すなわち社会的弱者に対して国家として救済の手をさしのべる国家として理解する。その中心になるのは、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利(憲法25条)」である。国家がダムを建設する事で、この権利を侵害した場合に、損失補償の必要が発生するのである。

 しかし、このような理解だけに徹底した場合には、国が公用収用した場合に、一々、その財産は、どの程度まで、権利を侵害された国民の生活権がどの限度で侵害されたか、というきわめて煩雑な行政問題が発生してしまう。しかし、公用収用が都市部で行われるような場合には、市場価格は明確に存在し、また、それを補償すれば、生活再建も容易に可能な場合がほとんどである。あるいは本問で問題となっている遊休地の場合には、生活権について考える必要はない。だから、市場価格を基準に補償を考えれば完全補償といってよい事になる。このように、単純に市場価格をベースに補償を考えれば足りる場合には、生活権補償等というややこしい事を言う代わりに、客観的価値の補填という議論をすれば足りる事になる。そこでは、291項が財産権を、基本的人権として保障していることを重視する事になる。

 しかし、その場合でも、財産的価値以外の生活被害が発生した場合には、やはり補償を考えねばならない。先に述べた工事中の休業補償等に加え、例えば、公共事業期間中に発生する騒音や振動等による被害の補償は、現に居住している人に立ち退きを迫る場合には、常に問題となる。

 そこで、今日、学説は、一般に、財産権補償+生活権補償として、293項を把握することになるわけである。

 以上のような事を前提とした上で、本問の答案構成を考えた場合に、再度、前回講義と同じことを述べることになる。すなわち、29条に関する論文は、

@ 291項の財産権の意義を述べ、

A 292項が制度的保障であり、その制度の中核としての生活権を述べ、

B これを前提に、293項の補償の範囲を論ずる。

というのが基本的な構造として現れてくる事になる。電波メディアの制限問題の場合には権利制限に留まっていたから、力点は@及びAにかかっていた。だから、それをしっかり述べる必要があった。しかし、今回は権利の剥奪の事例で、それらを論ずるのは、あくまでもBにおける議論の根拠を提供する狙いだから、@やAで、一般的には重要な論点であっても、本問のBと関係がない論点は切り捨てて良い。例えば、財産権の制限について、どのような場合に補償が必要か、という議論は本問では論じる必要はない。先に例として上げた市街化調整区域による制限などに関する議論は、諸君の財産権に関する理解を確実にする狙いで挙げただけであって、本問で論及する必要は全くない。

 

二 特別犠牲について

 293項の解釈として、「特別犠牲」を述べて呉れねば、本問としては話にならない。しかし、論文は理由が命である。このように重要な論点について、理由を付けない事は許されない。もちろん、293項の文言に、特別犠牲という言葉が入っていれば、話は別である。しかし、同項は、「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」といっているにすぎない。条文の限りで言えば、私有財産を公共のために用いれば、常に補償がいるように読める。だから、特別犠牲という要件が必要だという説は、憲法の文言にない制限を理論で課しているものなのである。それがどのような理論なのか、という事を明確に書かない限り、論文として評価の対象にならない。

 相変わらずわかって貰えないようなのだが、前回も述べた税金の例を再度示そう。税金は、我々の私有財産を公共のために用いるために強制的に徴収する行為であるから、293項の文言には間違いなく適合する。しかし、税金の徴収に対してその都度正当補償をしていたのでは、国民国家の財政は成り立たない。だから、同項の文言を何らかのメルクマールで制限することが許されるのは、憲法秩序的に明らかと言える。

 問題は、補償のいる場合と、要らない場合とを、どのような理論で区別するか、という事である。ここで登場するのが、平等権の理論である。平等負担説は次のように説明する。

「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」。(柳瀬『公用負担法』新版、256頁)

 通説的には、この平等負担説を、292項の法的性格から、先に述べた財産権+生活権保障の限度で採る説といえる。

 この全国民が平等に負担するべき損失を、特定人だけが負担する状態の事を、「特別犠牲」というのである。しかし、実をいうと、特別犠牲と言うだけでは十分ではない。先に例として上げた、ダム建設の場合を考えてみよう。元からの村人の場合には、市場価格を度外視した生活再建補償が必要であるとしたのに対して、ダム建設を聞きつけて補償金目当てで村に移り住んできたものに対しては、生活再建補償は要らないと述べた。どちらも等しく財産権に対する特別犠牲を受けているのに、なぜ違いが生ずるのだろうか。

 この点を、学説は、これは「偶発的損害」ではないから、と説明する。たまたま運悪く自分の住む村にダムが造られて被害を受けた元々の住民と違って、ダムが造られる事を知って移り住んだ者は、その予期される被害を受忍すべきである、と考えるのである。

 同じような事は、例えば、刑法19条の没収についても言える。例えば高価な日本刀で他人を死傷させた場合には、その日本刀は没収される。これは国家による適法な財産権の侵害であるから、形式的には293項に該当するが、損失補償の要はない。被告人は、犯罪の用に供した財物の没収を受忍するべきだからである。

 こうした事から、正確に言うと、補償が必要とされるのは、特別かつ偶発的損失を被ったという事になる(特別犠牲+偶発的損失説)。ここでいわれていることを別の言葉で表現すれば、社会的な受忍限度を超えた犠牲ということである。

 もちろん、これは憲法理論上、補償を拒絶できる範囲であるから、国会は、そうした場合にも、補償を行うとする立法を行う自由(立法裁量権)を有する。例えば、法定伝染病に罹患した場合に、他人に伝染させないために、本人の意に反する場合であっても強制入院させられるのは、社会人として当然に受忍すべき事である。しかし、感染症予防法(正式には「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」=従来の伝染病予防法やエイズ予防法等を統廃合して平成10年に制定された)37条は、「都道府県は、〈中略〉入院の措置を実施した場合において、当該入院に係る患者又はその保護者から申請があったときは、当該患者が感染症指定医療機関において受ける次に掲げる医療に要する費用を負担する」として、入院費用等を都道府県が負担する事を定めているのは、そうした立法裁量の例である。

 

三 相当補償について

(一) 現行最高裁判決について

 冒頭に、平成14年度に、「相当補償」を正当とする最高裁判例がでたと述べた。これは、土地収用法に関する事件である。

 土地収用法は、憲法で保障された個人の財産権と公共の利益との調整を図り、国土の適正で合理的な利用に寄与することを目的として、公共事業に必要な土地を収用(又は使用)するための要件、手続き、効果、損失の補償などについて定めている。

 すなわち、道路、河川、下水道などの公共事業のために土地が必要になった場合、通常は、国や地方公共団体など事業の施行者(起業者)が土地所有者や関係人と話し合い、合意の上で契約を結んで必要な土地を取得する。

  しかし、補償金の額について合意ができなかったり、土地の所有権について争いがあるなどの理由で、話し合いにより土地を取得できない場合がある。このような場合は、起業者が土地収用法の手続をとることにより、土地所有者や関係人に適正な補償をしたうえで、土地を取得することが可能となる。これが土地収用制度である。

 土地収用制度により、起業者が公共事業のために必要な土地を取得する際には、まず起業者が土地収用法に基づき国土交通大臣又は都道府県知事の事業認定を受ける。

 その後に起業者は、収用委員会に収用の裁決を申請する。収用委員会では、起業者、土地所有者、関係人の意見を聴くための審理や調査などを行い、補償金の額などを決める。これを裁決という。この裁決に従って補償金の支払いなどを行うことによって、起業者は土地を取得できる。

 その場合、支払うべき補償額の決定時点として、三つのものが考えられる。第一に事業認定の時点である。第二に裁決の時点である。第三に実際に土地を収用した時点である。いずれを基準時点とするかは、土地価格に著しい上昇傾向がある場合などには、大きな問題となる。

 しかも、それに関して、我が国の判例実務は大きく揺れ動いた。すなわち、大審院時代の我が国判例は、三番目の収用時主義を採用していた。それに対して、現行土地収用法71条は、当初は二番目の裁決時主義を採用した。その後、昭和42年に一番目の事業認定時主義に改正されて今日に至っている。

 このように、基準時点を過去に遡らせた理由はきわめて明白であろう。すなわち、ゴネ得の防止である。土地価格が右肩上がりの傾向を顕著に示している場合には、基準時点を、実際の収用時点に近づけるほど、用地買収に応じず、長期にわたって粘り続けるものが有利になり、用地買収に協力的なものほど馬鹿を見るという結果が生じるのである。そこで、事業認定の時点を地価判定の基準時点とし、その後、実際に収用するまでの間に生じた価格変動は、一般物価の変動率だけを考慮する、という手法が考案されたわけである。それにあたり、修正率という数字を使う。これは 総務省統計局が作成する「全国総合消費者物価指数」及び日本銀行が作成する「投資財指数」を用いて算定した率である。だから、土地価格の上昇傾向が、一般物価に比べて著しかった時代には、収用時における近隣地価に比べると、かなり低いものとならざるを得ないのである

 このような立法は、公共用地の買収の実務的な見地から見ればきわめて妥当なものであるが、憲法293項に整合するかは問題であった。

 最高裁判所は、上記のうち、第二の時点である裁決時主義を法律上採用している時代において、次のように述べた。

「土地収用法における損失の補償は、特定の公益上必要な事業のために土地が収用される場合、その収用によつて当該土地の所有者等が被る特別な犠牲の回復をはかることを目的とするものであるから、完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭をもつて補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要するものというべく、土地収用法72条(昭和42年法律第74号による改正前のもの。)は右のような趣旨を明らかにした規定と解すべきである。」(最判昭和481018日=憲法百選[第5版]226頁参照)

 この判決中で、「収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめる補償」と述べている箇所は、時点として第三の収用時主義を是としているように読める。少なくとも、判決の対象となった42年改正前の土地収用法を問題としているから、それが採用していた裁決時主義を合憲としているように見える。その観点からすると、昭和42年改正後の土地収用法が採用する事業認定時主義は、違憲という見解を最高裁判例は採用していることになる。

 この問題に対して、最高裁判所平成14611日判決は、現行土地収用法71条を合憲とした。その判決中で、次のように述べた。

「憲法293項にいう『正当な補償』とは,その当時の経済状態において成立すると考えられる価格に基づき合理的に算出された相当な額をいうのであって,必ずしも常に上記の価格と完全に一致することを要するものではないことは,当裁判所の判例(最高裁昭和25年(オ)第98号同281223日大法廷判決・民集7131523頁)とするところである。土地収用法71条の規定が憲法293項に違反するかどうかも,この判例の趣旨に従って判断すべきものである。」

 この中で引用されている昭和281223日判決とは、農地改革に関する有名な判決である。同判決は次のように述べていた。

「憲法293項にいうところの財産権を公共の用に供する場合の正当な補償とは、その当時の経済状態において成立することを考えられる価格に基き、合理的に算出された相当な額をいうのであつて、必しも常にかかる価格と完全に一致することを要するものでないと解するを相当とする。けだし財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定められるのを本質とするから(憲法292項)、公共の福祉を増進し又は維持するため必要ある場合は、財産権の使用収益又は処分の権利にある制限を受けることがあり、また財産権の価格についても特定の制限を受けることがあつて、その自由な取引による価格の成立を認められないこともあるからである。」

 つまり、14年最高裁判決に従う限り、現行土地収用法に基づく土地の公用収用は、常に相当補償となるのであって、完全補償ではない事になる。このような考え方が妥当かどうか、つまり収用時主義というのは完全補償たり得ないのか、ということは重大な問題である。

 

(二) 相当補償に関する学説

 この判決が出ている事で、諸君が明確に認識しなければならないのは、仮に完全補償説で押し切る(上記最高裁判決は誤りとする立場をとる)にしても、その完全保障説について、かなりしっかりした根拠が必要だ、という事である。市場価格が常に完全補償だというような素朴な議論では、話にならない。もちろん、相当保障説をとる場合には、それに対する根拠が必要という事になる。

 そこで、以下、代表的な学説を紹介する。

 学説は、古くは、完全補償とは「収用財産が一般的市場において客観的に持つ経済価値」の補償とする者もあった(結城光太郎「『正当な補償』の意味」公法研究11号(1954年)84頁)。しかし、冒頭に説明したように、それでは現実の社会的問題の解決機能が無く、今日では、学説・判例ともに採る者はいない。

 次に、先に平等負担説の論者として紹介した柳瀬良幹は完全補償説を主張したが、同時にそれは損害賠償あるいは売買代金ではない事も強調し、完全補償であるための二つの要件を挙げる。すなわち、@生じた損失はすべて補償せられる事、A各損失に対する補償の額がその損失の全部を覆うに足りる事、である(柳瀬・前掲書259頁)。

 問題は、ここでいう「損失」が何かであるが、「所有権に伴う義務乃至限界は、所有権が社会的の制度である以上、固より当然にそれに内在する制約であるから、それに基づく損失は固より一切の所有権について認められる平等のもので、損失の補償が認められる根拠乃至目的からみて当然に補償の対象になるものではな」いとする(同266頁)。

 このような説をとれば、14年最高裁判決と違い、土地収用法の規定を、完全補償説の枠内で説明する事も可能になる。すなわち、土地所有者としては、公共事業について、事業認定が下されれば、その時以降、それに協力する義務を負うと考えれば、完全補償の認定時を、48年判決と違って、事業認定時と解する事が許される。しかし、本問のように、相当補償と明言する立法は、この考えにたつ限り、常に許されない事になる。

 これに対して、原則的に相当保障説を主張する代表者は、宮沢俊義である。宮沢俊義は、正当な補償概念は、自由国家と社会国家では違うと主張する。自由国家では、先に結城光太郎の見解として示したものが正しいが、社会国家においては、「その財産権侵害行為の公共的重要性において、いわば社会国家的基準できめられる『妥当な』または『相当な』補償を意味するとされよう。」とする(『全訂日本国憲法』芦部信喜補訂版、289頁)。

 このように、原則として相当補償と考える以上、本問の法律は、その相当性が何らかのメルクマールで確保されている限り、合憲と判断される事になる。この立場からは、14年判決も、本問も、ともに許されると解されるはずである。

 最近では、完全補償か相当補償かを、二者択一的に考えず、原則として完全補償としつつ、特定のメルクマールで除外される場合は相当補償を許容すると考える説が、増加している。代表的な説をみてみよう。

 1 社会評価変化説

 ある立法が、農地改革に比すべき既存の財産権に対する社会評価の根本的な変化を反映していると解することができる場合に相当する、と考えられる場合には、相当補償で足りると解する説がある(今村成和・損失補償制度の研究74頁参照。)。

 この説は、通常の収用の場合には完全な補償を必要とし、例外的に農地改革のような社会変革としてなされた財産権の侵害の場合には相当補償を必要とすると説くので、区分の基準はかなり明確である。しかし、本問がそれに相当するかどうかは、かなり難しい問題である。バブル経済による実体を伴わない急激な地価の上昇を、社会評価の変化と判断できるかどうかが、分岐点になるであろう。これに対して、14年最高裁判決のように、土地収用法に基づく公用収用を常に相当保障と考える事はできない。

 2 大きな財産・小さな財産説

 前回も紹介したので、簡単に述べると、社会国家で制限可能な財産権は大きな財産だけだとする。つまり、我々の日々の生活の基盤となる小さな財産は制限できないと考える(高原賢治「社会国家における財産権」有斐閣『日本国憲法体系』7249頁)。

 佐藤幸治もこれを妥当とする(佐藤『憲法』第3版、566頁)。この説を使用する場合には、本問の事例は比較的説明しやすい。大都市において、長期にわたって土地を遊休させる事のできる財力がある者の保有する財産は、あきらかに小さな財産とは言えないからである。

 ただ、この立場からでも、14年最高裁判決を説明する事はできない。

 3 生存財産・独占財産説

 基本的には上記大きな財産・小さな財産と同様の考え方である。前回は長谷部恭男の議論を紹介した。ここでは目先を変えて他の人の議論を紹介しておく。すなわち「人間らしい生存に必要不可欠な財産」については完全補償が求められるが、「人間らしい生存にとって、もはや対立物に転化した独占の企業活動とその財産」については、相当補償で足りるとする(宮本栄三「私有財産の公用収用の要件と正当補償」『法学教室』第27111頁)。浦部法穂『全訂憲法学教室』等も同様の見解を示す。

 14年度判例に関して言えば、例えば浦部法穂は公用収用に際しては完全補償が必要であると明言しており、その判例の論理は採用できない事になる。それに対し、本問の遊休不動産は典型的な独占財産といいうるであろう。

                           

 こうした学説の対立については、諸君の基本書は必ずしも詳しくない。しかし、それは知らなくて良いという事ではない。これらの学説を簡単に早く知る方法としては、何らかの憲法コンメンタールや演習書を参照する事である。論文練習の手段として、普段からそうした本の利用を心がけて欲しい。

 念のため強調するが、諸君の論文に、こうした学説の対立をだらだらと紹介する必要はない。諸君の基本書と相談して、どれか特定の学説を自説として採用し、それをしっかりと展開すればよい。なお、このレジュメに、各説の要点を抜き書きした。そこで、それだけを自分の論文に転記して事足れりとする人がよくある。しかし、特定の箇所の理論は、その論者の29条全体にまたがる理論体系によって支えられている。どれかの説をとろうと決心した場合には、必ず紹介した原典を読んで、その理論体系全体を論文上に再現する努力をしなければならない。そうでないと、つぎはぎ細工の論文となり、一つの論文自体の中で理論矛盾を起こして、評価を下げる事になってしまう。