衆議院の解散と国民主権及び議院内閣制

甲斐素直

問題

  次のものはA君のサブノートの一部である。

「我が憲法は、国会議員を『全国民を代表する』と定め(43)、『全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない』とし(15)、その結果、命令的委任を禁じている(51)。したがって、どれほど重大な問題であったとしても、特定の問題について、国民(有権者)の意見を問うために衆議院を解散することは、自由委任の原則に反し、違憲である。ただし、憲法は権力分立制を採用しているから、国会と内閣は対等である。それなのに、国会に内閣不信任権を認めているので、その濫用を防ぐため、内閣側に衆議院解散を認めることが、両者の均衡を保つ上で必要である。したがって、憲法69条に基づく解散だけは許される。」

 諸君としては、これに対し、7条解散も許されると論じたい。どのように論じたらよいか、述べなさい。

 

[問題の所在]

 A君のサブノートと称する問題文の前半は、衆議院の解散と国民主権原理との関係を述べている。これが第1の論点である。

 問題文後半は、議院内閣制の本質に関して、きわめて明白に均衡本質説を採っている。要するに、均衡本質説を採用した場合に、解散権の所在をどのように考えるべきか、という問題である。これが第2の論点である。

 このように、論点が非常に見えやすい問題だから、答案構成を行うに当たっては迷いがなかったと思う。

 この問題は、上記説明で明らかなように、憲法41条さえきちんと理解して居れば、書くのに何の苦労もないものである。これが手に負えなかったということは、入室試験において何を書くべきかを、近い将来に後輩を迎えようとする今になってもきちんと理解して居なかったということを意味することになり、誠に深刻な問題である。この機会に、改めて41条の国権の最高機関という言葉の意味を正確に把握しておこう。

 議論の順序として、まずA君の主張をもう少し正確に把握しよう。そうすればどの辺を工夫することにより、7条解散を許容する論理を引き出せるかが判るはずだからである。

 

一 国民主権と衆議院の解散

(一) 狭義の国民主権

 国民主権は現行憲法の基本理念であること、及びここにいう国民が、集合概念(民法学における表現を借りるならば実在的総合人)であって、個々の国民を意味するものでない(主権の唯一・不可分性)、という点では学説の対立はない。

 しかしどのような集合概念であるかについては、大きな説の対立がある。すなわち人民主権と狭義の国民主権の対立である。A君はこのうち、狭義の国民主権説を採用しているのは、その論理から明らかである。同説は次のようなものである。

 これは実証法思想に基づく個人主義を背景にしている説であって、歴史的にはシェイエスなどが説いた。それによれば、主権者たる国民とは、「老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、『いっさいの自然人たる国民の総体』を言う」(芦部信喜『憲法学T』240)。この考え方では、統治者たる国民と被治者たる国民とは、同一の存在である(治者と被治者の自同性)

 このように「主権が全国民に存すると考えると、このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、全国民主体説にいう国民主権は、天皇をのぞく国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということ、を意味することになる。したがって、国民に主権が存するとは、国家権力が『現実に国民の意思から発するという事実を言っているのではなく、国民から発すべきものだ』という建前を言っているに過ぎないことになる。」(芦部信喜・同上・241)

 これが「正当性の契機としての国民」という概念である。

 この場合、国民とは観念上の存在であって、実在しないから、国民そのものが国家機関として活動することはあり得ない。したがって、間接民主制を必然的に要求する。すなわち、国民は議会における代表者を通じて行動することになる(国民代表)。この結果、国家機関とされるものの中で、最高の地位を占める機関(国権の最高機関)は、明らかに国民代表、すなわち議会となる。これを実際面から見ると、議会が主権を行使していると言っても過言ではない(議会主権Prliment's sovereignty)

 この説の下では、誰が国民代表となり、また、誰が国民代表を選ぶことができるかは、国権の最高機関たる議会が決定する。したがって、個々の有権者は、自らの権利として参政権を行使するのではなく、国民全体の利益を考えて参政権を行使することように、議会から義務づけられた者であるに過ぎない(参政権=公務説)。議会は、誰に参政権を与えるかを決定する最高機関である。したがって有権者の範囲を国民のどの一部に制限することも自由に決定できる(制限選挙)

 選出された議員は、自分を選出した有権者の代表者ではなく、全国民の代表者である。すなわち国民全体の奉仕者であって、その一部に過ぎない有権者への奉仕者ではない。したがって、有権者は議員に対して、議会においてどのように行動するべきか、命令をすることはできない(自由委任・命令的委任の禁止)。もちろん、命令に反したことを理由として解任する権利はない(リコールの禁止)

 国民投票は、有権者に国民代表たる議会を上回る権限を授与することになるから禁止される。

 国民投票の禁止には、このような法理論的理由に加え、歴史的な理由もある。すなわち欧米の場合、国民投票が、その制度を独裁者が悪用することにより、世界を再三戦争の惨禍に引きずり込んだという苦い歴史が繰り返されているのである。例えば、フランスにおいてナポレオン一世及びナポレオン三世はいずれも国民投票により皇帝位につき、また、ドイツにおいてヒットラーが同じく国民投票により独裁権を掌握して、全欧州を戦乱に巻き込んだのである。このことも、間接民主制を基盤とする議会制民主主義を擁護することが正しいとする実質的な根拠となっている。

 ここまで述べてくると、本問でA君が言っていることの意味が判ると思う。事実上国民投票と同じ効果を持つ議会の解散=総選挙も、同じ理由から禁止されるのである。

(二) わが国憲法の解釈

 わが国憲法にいう国民主権とは、狭義の国民主権と考えるのがわが国の通説である。簡単にその根拠をあげる。

 解釈論は常に形式的根拠と実質的根拠の二本立てで考えなければならない。そのうち、形式的根拠についてはA君のサブノートに主要な点は上げられている。あと、付け加えるならば、憲法前文が国民は「国会における代表者を通じて行動する」と述べて、明確に間接民主制を採用している事を明らかにしていることがあげられる。

 実質的根拠をあげると、次の点がある。

@ 人民主権説を採ると、全国民が人民と呼ばれる主権を有する国民と、人民に属さない主権を有しない国民とに二分されることになるが、主権を有しない国民の部分を認めることは民主主義の基本理念に背く。

A 憲法は、選挙人の資格を法律で定めることとしている(憲法44)。そして国会は、技術的その他の理由に基づいて、年齢、住所要件、欠格事項等を法律で定めることにより、その資格を制限している。人民主権説だと、有権者集団が人民とされるが、主権を有する国民の範囲を、法律が決定するのは論理矛盾である。

 

二 議院内閣制の諸類型と議会解散権

 今度は、議院内閣制の本質論と衆議院の解散という、A君のサブノートの後半を検討しよう。これについては、単にA君の採る均衡本質説だけを説明してもわかりにくいのではないかと思われるので、議院内閣制と言う概念それ自体から説明したい。

 議院内閣制は、大別して、二元型と一元型に分かれる。本問の答案では二元型に触れる必要はまったくないのだが、一元型を正確に理解してもらうための方法として、二元型の説明から入ってみたい。

(一) 二元型議院内閣制

 二元型とは、典型的には王制の下において、王権と議会の二つの権力の、両者の信任を得ていることを内閣の存続要件としている議院内閣制のことである。もっとも、西欧では王が消滅した後においては、それと同様の権力を持つ大統領を選任するようになった国がほとんどである。その場合には、王を大統領と読み替えれば、全く同じことである。

 二元型議院内閣制の下では、内閣は、王か議会のいずれか一方の信任を失えば、崩壊することになる。かつてのイギリスではこの型の議院内閣制が存在した。現在の代表的存在としてはフランスやロシアをあげることができる。

 この型においては、王は議会の解散権を有するのが通例であり、その解散権の行使には制限がない。内閣の補弼の下に王は解散権を行使するのが通例であるから、実質的に内閣が議会解散権を有しているといえる。イギリスにおいては、一元型に移行した今日においても、理念的には王権が残存している結果、同国内閣が実質的に有している議会解散権は極めて強力で、解散を行うのに特段の理由は必要ない。

 同様に、フランス現行憲法(第5共和制憲法)の下では、共和国大統領が、首相及び両院議長への諮問が要件になっているとはいえ、やはり自由に解散権を行使できる(同憲法12条参照)。

 1 一元型議院内閣制

 王権が完全に、もしくは事実上消滅し、内閣の存続が議会の信任のみにかかる状態になったのが、一元型議院内閣制である。

 この制度の下において、議院内閣制の本質をめぐり、大きく二つの説の対立がある。制度の本質を、内閣が議会に対して連帯して責任を負う点に求めるのを責任本質説という。これに対して、権力分立制の下において、議会と内閣が相互に均衡を保って牽制しあい、抑制する点に本質があるとするのが均衡本質説である。すなわち、均衡本質説では、議会側の持つ内閣不信任権の対抗手段として議会の解散権を内閣に認めるとする。

 (1) 責任本質説

 責任本質説とは、民主主義を制度の中心と考える説である。憲法が、狭義の国民主権制度を採用すると考える場合、そこにいう国民とは、正当性の契機としての国民であって、それ自体は機関性を持たない。国民の意思を具現しているのは、全国民の直接の代表者たる議会である(議会主権)。したがって、内閣は、その議会の信任の下にあることが、内閣としての正当性の根拠である。換言すれば、内閣は、議会に対して連帯して責任を負っている(憲法663項)ことこそが、議院内閣制の本質と考えることになる。

 責任本質説の原型においては、内閣側には議会解散権は否定される。なぜなら、内閣による議会の解散は、第一に自分の存在基盤の否定である。議会が信任を与えたからこそ、内閣が存在しているのに、その議会を解散するというのは、植木屋が自分の跨っている枝を切るような馬鹿げた行為というほかはない。

 第二に、それは、議会と内閣の間に発生した問題の解決を、上位の国家機関である国民に求めることに他ならない。それは実質的に国民投票と同じ効果を持つこととなり、それは議会が国権の最高機関であることを否定することに他ならないからである。この結果、この、解散権を伴わない議院内閣制は、議会が何時でも何らの制限なく内閣の責任を追及しうる、という点にその特徴がある。したがって、責任本質説に立つ場合には、解散権は議院内閣制の要素とは考えない。

 (2) 均衡本質説

 フランス第3共和制期に確立した責任本質説に基づく、責任無限追求型の議院内閣制は、第3共和制末期にかなりの病理的現象をしめすようになった。なぜなら、議会が内閣不信任案を可決すれば内閣は崩壊するが、議会側がいかに内閣不信任権を濫用しても、議会そのものには何ら被害が生じない。そこで、例えば自らが大臣になりたいという欲求があるだけで内閣不信任案が可決されるなど、不信任権の濫用が目立つようになったのである。その結果、内閣が猫の目のように交代するばかりでなく、後任の内閣総理大臣がなかなか決まらず、責任を持って国政を運営できる内閣が長期にわたって不存在のため、国政が停滞し、国民等に現実の被害が生ずるようになった。

 そこで、議会によるこのような内閣不信任権の濫用を抑止するために、内閣側に議会解散権という対抗手段が承認されるべきである、ということが主張されるようになった。仮に、不信任権を行使するに当たり、それを濫用すれば、議会も解散されて、議員自らもその議席を失うという危険を冒すことになれば、自分の地位を賭する覚悟がある場合にしか、不信任権を行使できないことになる。したがって、解散権の存在が、不信任権の濫用を抑止する機能を有するわけである。

 この場合、同じように議会解散権といっても、二元型の下のそれとは本質に差があることに注意しよう。すなわち、二元型の下においては、文字通りの解散権で、解散理由は問われない。したがって、比較的頻繁に行使され、解散権の濫用が問題になった。これに対して、責任抑制追求型においては、解散権は不信任案の濫用に対する抑止目的としてのみ承認される。それはいわば伝家の宝刀であって、実際に行使されることは予定されていない。行使されると、有権者が最高機関として登場してしまうからである。

 今現在、もっともこの説の典型に近い議院内閣制は、ドイツで見ることができる。ドイツでは、国家元首としての大統領がおり、これが議会解散権を有しているという意味において、形式的には二元型であるが、実際には名目的な存在で、実質は一元型となっている(フランス第3共和制憲法において大統領が解散権を行使しなくなった状態と同じである。)。そして、ドイツ基本法67条は、議会に対して「建設的不信任案」のみを許容する。すなわち、連邦議会は、後任の総理大臣を選出しない限り、不信任案を可決できない。したがって、内閣総理大臣の存在しない、政治の空白を生じさせるような不信任案の可決は無効なのである。また68条は、内閣側から信任を求める権利を認めている。その場合、信任決議が否決された場合には内閣側は21日以内に議会を解散できる(正確には、大統領に解散させることができる)。ただし、議会は、後任の内閣総理大臣を選出することで、その解散を阻止できる。

 すなわち、内閣に議会解散権を承認するが、その行使にはきわめて厳しい法的規制を課しているのである。国民主権原理の下において、議会主権を承認しつつ、内閣と議会の抑制と均衡を要請するなら、この程度で十分といえる。

 

三 7条解散の理論的可能性

 わが国の場合、戦前において二元型の議院内閣制が採用され、その時代においては、天皇の名の下に、実質的に内閣が自由な議会解散権が存在していた。現行憲法下においても、この憲法慣行はそのまま存続し、いわゆる7条解散の名の下に、内閣が法的な制約なく、自由に解散権を行使しうる状態が発生している。

 それを一元型の議院内閣制の下で、どのように理論化するかは難しい問題である。その点について、以下、検討してみよう。

 大きく分けて、二つの考え方が取り得ることは、ここまでの説明であきらかであろう。

(一) 人民主権説

 これは自然法思想に基づいている社会契約説を背景にしている説であって、歴史的にはホッブス、ロック及びジャン・ジャック・ルソーなどが説いた。すなわち主権者たる人民とは、社会契約に参加する行為能力を持つ個人の集合体をいう。封建体制下において君主主権の源泉が被支配者の同意にあったのとの同様に、この主権者たる人民が社会契約において国の支配を受けることに同意を与えている点に国家権力の源泉があると考える(被治者の同意)

 ここにいう人民は、行為能力を持つものの集合体であるから、全体として行為能力を持つ。したがって、直接民主制を要求する。しかし、通常は、人民が常に直接政治に関与することは非効率ないし不可能であるから、原則的に代表者を通じて政治を行う(人民代表)

 この場合、行為能力を持つ人民は、人民代表に対して命令的委任を与える。人民代表が委任に反する行動を執った場合には、解任する権利を有する(リコール権)。

 また、人民は、必要に応じて自ら政治に関与することができる。すなわち、人民代表が適切な法案を議会に提案しないときは、自ら提案することができる(人民発案)。議会が不適切な法案を制定したときは、それを法律とすることを拒否できる(人民拒否)。また、議会にゆだねることが不適切な問題については自ら決定することができる(人民投票)

 このような考え方をとる限り、国権の最高機関が、人民であることを疑う余地はない。したがって、何か問題が起これば、国民投票を行う事は当然に許されるし、国民投票の代わりに議会の解散を行う事も許容されることになる。

 わが国現行憲法の下で、人民主権説を採用する実質的根拠としては、主権論とは「国内における国家権力自体の帰属を指示する法原理である。国家意思の最終または最高の決定権、国家権力の究極の淵源、憲法制定権力などの帰属を指示する原理ではない」とする(杉原泰雄『憲法T』有斐閣法学叢書195)。その形式的根拠を紹介しておくと、次のとおりである。

@ 憲法96条でいう国民は、明らかに有権者集団の意味である。

A 151項の公務員選定・罷免権、同3項及び44条但書の定める普通選挙は、人民主権的に理解できる。

B 憲法95条の地方自治特別法では、有権者集団に法律の拒否権を認めている。

C 憲法7条解散が憲法慣行として確立しており、国民投票の制度は実質的には存在している。

D 51条は命令的委任の禁止を定めていることは確かだが、次の選挙で落選することをおそれる議員は、実質的には命令的委任の下にある。

 

(二) 権力性の契機としての国民

 今度は、狭義の国民主権および責任本質説を維持したままで、7条解散を認める解釈論がないのか、について検討してみよう。

 諸君も知るとおり、わが憲法の下においては、国会は国権の最高機関と、文字通りの意味において理解することはできない。例えば、96条の憲法改正に現れる「権力性の契機としての国民」は、明らかに国会より上位の機関として存在しているので、これが国権の最高機関と考えざるを得ないからである。

 そこで、衆議院の解散により、この権力性の契機としての国民に対して、国政の重要問題について問うという方法が考えられることになる。そこで考えなければならないのは、我が憲法の採用している半直接代表制である。

 1 半直接代表制間接民主制の直接民主制による補完

 人民主権説が指摘するとおり、我が現行憲法には、明らかに直接民主制に基づくと認められる制度が明確に存在している。通説のように、現行憲法にいう国民主権とは狭義の国民主権を意味すると解する場合、それら直接民主制的制度をどのように理解すべきであろうか。それがここで取り上げる問題である。

 前述のとおり、純粋に狭義の国民主権原理を貫く場合、そこで採られる選挙制度は、選挙人及び被選挙人のいずれも、国全体の利益を考えることができるような人物に制限する、制限選挙を要請することになる(純粋代表)。この制度の下においては、各議員はすべて自分の信念にしたがって国全体の利益を追求するのであって、そこに党派的行動はあり得ない。すなわちこの制度下においては政党は敵視されることになる。

 しかし、各国で普通選挙運動が展開された結果、今日ではいずれの国においても普通選挙が採用されるに至った。普通選挙においては、国全体の利益を考える人に有権者を限定しているわけではないから、選挙においては、各人はその個人的利益を追求することを優先して投票行動をとるものが多数を占める。したがって議会においても、そうした選挙人の利益を代表した人々が、国全体の利益ではなく、その選出母胎の利益の追求を目指して激突することになる(半代表)。そこで、そうした人々は結集して政党を作り、議会は党利党略の場と化することになる。そのむき出しの党利の実現を目指して党略を巡らし、衝突と妥協を繰り返す中から、自ずと国全体にとって最善のものが選択されるであろうというのが、普通選挙制度の理念ということになる。

 しかし、これはあくまでも理念であり、長期的には正しいかもしれないが、短期的にも常に実現するとは限らない。すなわち普通選挙制度の下においては、主権者たる国民が、その代表者に過ぎない議会によって害される可能性を否定することはできないのである。そこで、直接代表制を導入することにより、この半代表制の持つ欠陥を補正しようとすることになる(半直接代表制)。これがわが国現行憲法の採用している制度である。

 96条において、憲法は無造作に有権者集団を国民と呼んでいるが、厳密に狭義の国民主権原理に立つ場合には、むしろ国民にもっとも近い代替物と考えるのが妥当であろう。すなわち、例外的に有権者集団を国民の代用品にしたのであって、決して人民主権説のいうように、有権者集団を即国民と考えたわけではないからである。このように有権者集団を国民と呼ぶ場合、この国民は国家機関として活動する。芦部信喜のいう権力性の契機としての国民とはこれである。

 衆議院の解散に関して、69条ではなく、7条解散を認める見解をとる場合、ここでも有権者集団が国民の代用品として、国家機関として活動することを肯定することになる。

 79条の定めている国民審査もまたユニークな制度である。議会が政党政治によって支配されることになると、司法を政治によって左右させるわけには行かないから、司法権の独立は強化される必要がある。その結果、司法権に対する民主的コントロールが欠落する。それを直接民主制により補完しようとしたのが、この国民審査制である。したがって、その本質はリコールと考えて差し支えない。

 このように、わが憲法が半直接代表制を採用している(換言すれば、国民概念に、正当性の契機に加えて権力性の契機も存在する)と考えると、議会解散権については、自由主義的な観点からの意義と、民主主義的な観点からの意義の二重の意義を考えることができる。

 1 解散の民主主義的意義

 国会は国政の最高機関と規定されている理由は、それが選挙を通じて国民の意思を反映している点にある。したがって何らかの理由で国会の意思が国民の意思と一致していないと考えられる事態が発生した場合、若しくは国政上の重要な問題であって新たに国民の意思を確認する必要が発生した場合には、速やかに直接国民の意思を問うことが妥当である。

 現行憲法においては、そのための手段としては、憲法改正の際の国民投票が存在している。これに対して、憲法改正までの必要はないが、それに匹敵する重要性を持つ問題に関して、ここにいう民意を問う手段として考えられる解散である。

 ここで第1に問題となるのが、条文上、69条解散に限定されると解する必要はないか、という点である。しかし、一般的な国民投票制度の存在していないわが国憲法の下において、解散の民主的機能を否定するときは、衆議院の場合、4年という比較的長期の任期と相まって、国会意思が有権者のそれと大幅に乖離するおそれがある。

 また、現行憲法は、国会の解散権が行使された場合には、総選挙を40日以内に行うこと、及びその後40日以内に国会を召集する事、そして、その新国会の冒頭で、内閣が総辞職をすることを要求している。すなわち、超然内閣制ないし大統領制において認められる解散権のように、行政府側が解散権を濫用して立法府を麻痺状態に陥れ、内閣が合法的にその地位に居座ることを許さない。したがって、この観点から考えても、解散権の行使を69条の場合に限る必要は存在していないと認められる。

 そこで、民主主義的要求に基づく解散権が認められるとして、第2の問題として、論理的には、衆議院自身による自律的解散の方法が考えられる。何といっても、国会は、直接民意を反映する存在だからである。しかし、自律的解散は適切とは認められない。

 (1) 自律解散権が否定される実質的理由は、現時点での議会の構成が国民の意思を

反映していないことが予想されることが、民主主義に基づく解散権を承認する理由である点にある。自律的解散は、議会の多数派が議会の決定権を握ることを意味する点で、制度趣旨に背馳し、適切とは認められない。

 (2) 形式的理由としては、わが国旧憲法にも、そして現行憲法の母法と認められる

欧米のいずれの憲法においても、自律解散の制度はないことである。したがって、現行憲法がそうした新しい制度の導入を目指していた場合には、当然その旨が明定されているべきである。しかし、憲法は、第7条、第45条、第54条及び第69条で解散について言及しているが、そのいずれにおいても自律的解散を予定していない。そればかりか、衆議院はむしろ受け身の形で使用されていることから、他律的解散のみを予定していると解することが適切である。

 わが憲法は、国家権力を、3つに区分する制度を採用していると認められる。衆議院の自律解散権が否定された以上、政治的に中立であるべき司法府が解散権の主体となると考えることは不可能であるから、議会解散権は、残る権力である内閣が保有していると解するほかはない。このことは、同時に内閣が広く解散権を有していた、という歴史的沿革とも合致し、妥当と認められる。

 注1:自律解散権説をとる学者は今日においてはいない。それにも関わらず、論及する

必要があるのは、このように、内閣の解散権は消去法から導かれるためである。単に論及するだけでは点にならないことに注意する必要がある。

 注27条が実質的文言を定めている、と解する説に立つ場合にも、それは単に条文上の

根拠にすぎないから、実質的根拠としては、ここに述べたような点をやはり論ずる必要があることを忘れてはならない。

 以上のように、解散権を説明した場合、これが責任本質説と整合させやすいことはあきらかだろう。なぜなら、責任本質説は、その根拠を、間接民主制の下における民主主義の実現に求めているからである。内閣が、単に国会に対してのみならず、権力性の契機としての国民にもまた連帯して責任を負っていると考えれば、国民の意思を問う必要がある、と内閣が認めた場合には、法的な制限なく、解散権を承認することができるのである。

 

 2 均衡本質説と解散

 均衡本質説は、権力分立制に依拠しており、権力分立制は、国民の自由を国家が侵害することを可及的に抑制する事を要求することから生まれた制度なので、自由主義に基づいているということができる。

 権力分立制は、その本質から、立法部と行政部の権力の均衡を保つことを要求している。したがって、立法部が余りに強大になり、専断又は行き過ぎに陥る等により、その権力が濫用された場合に、行政部の権力により、国民の自由を実質的に保障するための制度が必要であり、それが解散であると理解することができる。すなわち、わが国では、内閣の存立の基礎を国会の信任に置く議院内閣制を採用しているため、解散制度がない場合には、内閣は一方的に国会の不信任決議により揺さぶられることになるからである。それに対応する手段として、内閣側に、議会解散権の存在が必要なのである。すなわち69条の解散権の理論的根拠はこれである。

 このような制度意義に照らして考えれば、自由主義的要求に基づく解散権については、これが内閣に所属することは明らかである。しかし、同時に、議会と内閣の均衡の要求から出てくる以上、その解散権が法的抑制を免れると考えるのは困難である。すなわち、69条の解釈上許容される範囲内においてのみ、行使しうると考えるべきである。

 したがって、本問後段の記述は、前段との整合性に欠けるという点で、妥当性を持たないと考える。

(三) 解散権の限界

 1 自由主義的意義の解散は、不信任権限の濫用の抑止手段として認められる。衆議院が内閣不信任案を可決し、あるいは内閣信任案を否決した場合以外であっても、予算ないし内閣の政策の根幹となる重要法案を否決したような場合には、やはり、衆議院による内閣不信任権限の行使と認めることができ、69条の要件に合致すると考えられる。しかし、それらの場合でも、解散権は議会権限の濫用防止のために例外的に認められたのであるから、内閣は原則として総辞職をすべきであって、安易に解散の手段に訴えるべきではない。69条も、明白に総辞職を原則と定めている。さらに、解散に訴えた場合であっても、総選挙後の特別国会での総辞職を義務づけているから、内閣は、時期の前後はあっても、不信任案が可決された場合には、必ず総辞職しなければならないのである。

 2 民主主義的意義における解散は、民意を問う客観的必要性が生じた場合には、実施するべきこととなる。そこで、問題は、「民意を問う客観的必要性」は、どのような場合に認定できるかである。その答は国民主権原理をどの程度に強く理解するかにより、換言すれば、人民主権原理をどの程度に抑制する方向で考えるのかにより、異なる。

 基本として国民主権原理があることを強調すれば、解散権の行使は、有権者の投票行動に影響のあるような重大な変更が国会ないし内閣に生じた場合に限られると解すべきであろう。例えば、@政界再編成により国会の勢力分野が大幅に変わった場合、A前の総選挙の争点にならなかった新しい重大な政治的課題が生じた場合、B政府・与党が基本政策を根本的に変更する場合、等である。なお、責任本質説を採る場合には、この民主的意義の枠内で、69条該当の諸場合までも含めて説明すべきことになる。

 しかも、これらに該当する場合ですら、有権者は決して国民そのものではないから、政府は、「解散できる」というに止まり、解散して民意を問う義務があるわけではない。

 これに対して、人民主権的見解を強調し、衆議院の解散制度は国民投票の代用品である、と考える場合には、政府が必要と判断した場合には、随時ことの大小を問わず、解散に訴えることが許される。仮に、その解散権が濫用された場合には、主権者たる国民が、審判の内容としてそのことを表明するはずであるから、問題は起こらない、と考えるのである。また、上記のような重大な局面の場合には、政府は衆議院を放置することは許されず、解散する義務を負う、と考えるべきであろう

 いずれをとるかは、基本的には価値観の分かれるところであるが、通説は圧倒的に前者である。これを採る場合、その前の段階で、あまり民主的契機を強調しないよう、書き方を工夫しないと、論理的に破綻することに注意しよう。