内閣総理大臣の地位と権限

甲斐素直

問題

 内閣法は、「内閣は、国民主権の理念にのっとり、日本国憲法第73条その他日本国憲法に定める職権を行う。」(第1条第1項)、「内閣は、国会の指名に基づいて任命された首長たる内閣総理大臣及び内閣総理大臣により任命された国務大臣をもって、これを組織する。」(第2条第1項)、「閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的方針その他の案件を発議することができる。」(第4条第2項)、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する。」(第6条)等々と定めている。

 内閣法のこれらの規定は、日本国憲法についてのどのような理解に基づくものと解すべきかについて、論述せよ。

平成13年度国家公務員T種法律職憲法問題

[問題の所在]

 内閣法について聞かれているので、何でこれが憲法の問題なのか、と言うことがぴんとこない人も多いと思う。しかし、この内閣法の規定を憲法学的にどう理解するか、ということこそが、ロッキード事件において、首相に職務権限を認められるか否かをめぐって、最高裁内部で激しく対立した点である。

 すなわち、現行憲法上、内閣の地位と権限に関してはある程度はっきりした規定がある。これに対して、内閣総理大臣に関しては、72条に「内閣を代表して・・行政各部を指揮監督する」という規定があるくらいで、その地位及び権限の内容がはっきりしない。さらに主任の国務大臣に関しては、連署に関してその名称が出てくるくらいで、規定はないに等しい。このため、内閣法で定めているところが、憲法の規定とどう整合するのかは大きな問題である。

 本問で最大の問題になるのが6条である。この規定、憲法72条とよく似ているが、微妙に違っている。ここから、特に内閣の決定がない場合や、不明確な場合における内閣総理大臣と主任の国務大臣相互の関係、特に職務権限の範囲が問題となるのである。ここで特に問題となるのが、内閣総理大臣は主任の国務大臣に対して優越的な地位を有しているか否か、そしてその優越的な地位の効果として、指揮命令権を有しているか否かである。

 それが内閣法の解釈という形で表面化したのがロッキード事件なのである。だから、論文の成否は、内閣総理大臣の地位の優越性の議論と、指揮監督権を、ロッキード事件最高裁判所判決と、どう有機的につなげて論ずるかにかかっている。

 今回は、全く論文が出てこなかったので、少し基本的なところから説明していくことにしたい。

 

一 行政権の帰属

 憲法65条は、行政権は内閣に属する、とのみ述べて、立法権(41条)や司法権(76条)と違って、「唯一の」とか「すべて」という文言をともなっていない。これは、わが国憲法上、内閣が有するのは、72条の明言するとおり、行政各部を指揮監督する権限に止まり、実際に行政権を行使するのは、72条の表現では行政各部だからである。

 行政組織は一般に独任制をとる。すなわち、ある行政機関の全権限は、その長に集中し、その機関に所属する職員による行政権は、すべてその長の命令、委任、もしくは代理という形式を通して行使されることになる。この行政権を行使する行政機関の長のことを、74条は主任の国務大臣と呼んでいる。すなわち、72条にいう行政各部と74条にいう主任の国務大臣は、同じことの別の表現であるに過ぎない。

 661項は、内閣は内閣総理大臣及び国務大臣で組織されるとしている。この国務大臣が、主任の国務大臣と単なる国務大臣とに分かれることになる。現行内閣法2条によると、国務大臣の数は原則として14名以内(必要あれば17名以内)とされている。また、現行国家行政組織法によると総務省以下11省とされている。したがって、実定法上、主任の国務大臣は11名で、その他の国務大臣は原則として3名以下(必要ある場合は6名以下)とされていることになる。なお、これとは別に、内閣府設置法により内閣府が置かれ、その主任の国務大臣は、内閣総理大臣とされている。したがって、このことを数に含めるならば、主任の国務大臣は計12名といってもよい。

 主任の国務大臣ではない国務大臣のことを、「無任所大臣」と呼ぶ。現在、準省とでも言うべき規模を持つ組織である全国の警察を管轄している国家公安委員会委員長職には、国務大臣が任命されている。しかし、この外局としての地位を有する委員会の長職は、主任の国務大臣ではないため、やはり無任所大臣である。現在の首相官邸ホームページを見ると、無任所大臣については一律「内閣府特命担当大臣」と書かれている。例えば蓮舫の肩書きは「内閣府特命担当大臣(行政刷新担当、「新しい公共*[1]」担当、少子化対策担当、男女共同参画担当、公務員制度改革担当)」となっている。

 

二 首長の意義

 憲法661項は、内閣総理大臣を内閣の「首長」と呼ぶ。この言葉の意味ははっきりしない。現行憲法は、内閣総理大臣を、一方で合議体である内閣の一員に過ぎないとしながら、他方で国務大臣の任免権(特に罷免権)を与えている。このような相互に矛盾する性格の権限をもつ地位のことを、この特殊な用語で呼んだと理解される。

 芦部信喜は、『演習憲法[新版]』272頁で、憲法調査会における次のような発言を紹介することで、端的に問題意識を示されている。

「内閣制度で最も重要なことは内閣の国会(国民)に対する責任である。総理大臣が意見の違う大臣をやめさせることができる、という制度のもとでは、内閣の統一性は保たれるが、連帯性は保たれず、連帯責任の原則が守られない。その点では、明治憲法時代の内閣官制のもとの内閣の責任の方が強かったといえる。現行憲法の下で責任政治が行われない理由は、内閣制度がちぐはぐになっている点にある」

 これを受けて、宮沢俊義は、内閣が合議体である以上、総理大臣は明治憲法下の総理大臣と同じく「同輩者中の主席」であるのがむしろ自然であり、「その矛盾は、実際の運営において、関係者の実践的英知によって、解決されていくほかしかたがない」と述べていた(と芦部が、上記箇所に続けて紹介している。ただし、その出典とされている箇所にその様な文はなく、どこから引用したのかは不明である)。

 結論的に、首長という用語を、明治憲法下の総理大臣と同様に単に「内閣の首班」というだけの意味と理解するか(宮沢俊義著=芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』505頁)、それとも国務大臣の上位に位置すると解する(例えば伊藤正己)かは、個人の好みの問題であって、どちらを採ろうと構わない。その場合に大事なことは、そうした結論に至るまでに、こうした問題意識がどこまできちんと示されているか、そして、その結果、その用語理解の射程距離がどこまでか、を十分に論じているかどうかがである。なぜなら、どちらの理解をしたところで、現行憲法には相矛盾する規定があるのだから、特定の理解ですべての場合を押し切ることはできないからである。たいていの教科書が、例えば「日本国憲法は、内閣総理大臣に首長としての地位を与え、国務大臣の任免権、行政各部の指揮監督権を与えている(戸波江二『憲法』新版403頁より引用)」という調子で、首長という言葉そのものについては明確な定義せずに逃げているのは、こうした複雑さの反映である。

 すなわち、本問の中心論点は、内閣と内閣総理大臣の関係である。現行憲法上、内閣総理大臣には、大別して、内閣という合議体の一員としての地位と、内閣を対外的に代表する地位という二重の地位が存在していることをきちんと押さえていることが、ここでの議論の中心となる。

 なお、内閣総理大臣は、法律のレベルにおいて第3の地位を有している。それは前にちょっと触れた主任の国務大臣としての地位である。現行法上は、内閣府の長としての地位となる。が、これについては、本問では問題が明確に論点から除外しているので、述べる必要はない。

 

三 内閣=行政の意思決定機関=の一員としての地位

 憲法65条によれば、行政権は内閣に属する。すなわち、内閣という合議体が、行政における最高の意思決定権を保有している。内閣が意思を決定するための会議を「閣議」と呼ぶ(内閣法41項)。

(一) 同等者中の第一人者

 閣議において、内閣を構成している国務大臣は、すべて対等の権限を有している。すなわち、各大臣は、案件の如何を問わず、閣議を求めることができ(3項)、発言し、表決することができる。

 こうした閣議において、問題文にあるとおり、内閣総理大臣が有する権限は、従来は「閣議を主宰すること(2項)」に尽きていた。要するに、閣議を召集し、議長として活動するだけであって、それ以上、何ら特別の権限を有しなかった。内閣法の2001年改正で、これに加えて「内閣の重要政策に関する基本的な方針」の発議権が認められた。しかし、これも発議権であるにとどまり、それ以上の積極的権限を予定していない。さらに、閣議においては、全会一致制が、明治憲法時代以来、憲法慣行として採用されてきている。この全会一致制は、責任本質説に立つならば、内閣の本質的要素である連帯責任制度(663項)の反映と考えられる。この結果、全閣僚が拒否権を持つ。すなわち、一人でも閣僚が反対すれば、どれほど首相として推進したい案件であっても、葬られることになる。

 したがって、この閣議の中の関係を見るならば、内閣総理大臣は、明治憲法時代と同様に、同等者中の第一人者に過ぎない。このことを重視するならば、首長という言葉は、宮沢俊義のように「内閣の首班」を意味すると理解するのが妥当ということになる。

 これに対して、例えば米国の大統領制の場合には、大統領は、文字どおり首長であり、閣議においても他の国務大臣の上位者として優越的地位に立つ。というより、そもそも閣議という概念そのものが厳密にいうと存在しない。あるのは、大統領が、自らの意思を決定するために関係閣僚ないし大統領特別補佐官を集めて行うミーティングである。そこでは、閣僚達の意見はあくまでも参考意見であって、決定は大統領個人の権限である。その場にいる全員が反対しようとも、大統領はその好むところにしたがって意思決定をすることができる。これに対して、閣僚は黙ってその決定に従うか、辞職するかという選択の自由はあるが、決定を拒否する権利はないのである。

 閣議においてリーダーシップをとるべきだから、と論ずる者がある。しかし、合議制機関においてどこまでリーダーシップがとれるかは基本的に個人の資質に依存するものであって、米国大統領のように憲法制度的に保障されたものではない。したがって、憲法論としてそのことを言うのはやはり誤りである。

(二) 内閣存立の要としての内閣総理大臣

 内閣総理大臣は、内閣を存在させるという一点に関しては、しかし、疑う余地無く、他の大臣に優越する地位を有している。すなわち、国会は内閣総理大臣だけを選出し、他の閣僚としてどのようなものを選ぶかは、その裁量に委ねている。憲法は、裁量権の行使に対しては、わずかに文民であること(662)及び大臣の過半数が国会議員であること(681項但書)というたった二つの制約を課しているにすぎない。

 そしていったん成立した内閣において、国務大臣の誰かが欠けても内閣は総辞職する必要がないのに対して、内閣総理大臣が欠けた場合には、内閣は必ず総辞職しなければならない(70条)と定めて、その存続の要としての重要性を明らかにしている。

 しかし、上記の点は、憲法が確認的に定めたのであって、戦前の政党内閣においても当然のこととして認められていた。これに対して、現行憲法の最大の特徴というべきものは、内閣総理大臣に、意見の合わない閣僚を任意に罷免する権利が認められたことである(682項)。

 これは、議院内閣制の根幹と言うべき責任内閣制の観点からする限り、かなり奇妙な規定といわざるを得ない。行政は一体的に執行されるべきであるから、内閣のような均質の小集団の中にあって、行政に関する意思決定に克服しがたい意見の対立が発生したような場合には、閣内不統一の責任をとり、内閣は総辞職をして、いずれの判断が正しいかの裁定を任命権者である国会に求めるのが本来の姿というべきである。しかるに、この規定があるがために、深刻な意見対立が生じた場合にも、内閣を改造して延命を図ることが可能となっている。換言すれば、連帯責任の原則を破っていることになるからである。

 先に述べたとおり、わが国の内閣制では、戦前から一貫して閣議の全会一致制を採用しているために、一部閣僚の拒否権の発動により、閣内不統一ということで、内閣がしばしば崩壊する原因になった。このため、政府が弱体で変わり易く、政治状況の不安定性から、軍部のファッショに道を開く結果となった。このような脆弱性をカバーするために、閣僚の拒否権に対して罷免権で応戦し得る力を内閣総理大臣に与え、閣僚が拒否権を濫用する事態を抑止する方策を導入した、と理解することができる。

 内閣の本質論として、均衡本質説が存在する。すなわち、議会の内閣不信任権の濫用に応戦する武器として、現行憲法は衆議院解散権を内閣に与えている(69条)が、これにより権力分立制の要請する立法府と行政府の均衡を確保することに、議院内閣制の本質があるという考え方である。内閣総理大臣の閣僚罷免権もまた、それと同様の配慮から、政権の安定性確保のために導入されたものと理解するのが妥当である。

 このような点に関して言うならば、内閣総理大臣は明らかに、他の国務大臣に比べて上位の地位にあるということができる。

 しかし、罷免権が存在している、ということと、それを実際に行使することの間には、相当の隔たりがある。内閣総理大臣が罷免権を行使しなければならないほどに閣内不統一をさらけ出した内閣は、政治的求心力を失い、そのまま存続を続けることは政治的に困難だからである。実際、戦後においても、深刻な閣内不統一に見舞われた内閣は、いずれも総辞職に追い込まれている。例えば、ワンマンといわれた吉田茂も、第5次吉田内閣の際、195412月の第20臨時国会で内閣不信任案を突きつけられたとき、解散しようとしたが、副総理緒方竹虎の署名拒否にあい、彼を罷免しようとして果たせず、総辞職に追い込まれている。ちなみに、この内閣を最後に、吉田茂は事実上政界から引退することになる。その後、海部俊樹が、やはり第2次海部内閣の際、199111月に衆議院を解散しようとして閣僚多数の反対にあい、やはり罷免権を発動できずに総辞職に追い込まれている。

 確かに、閣僚を罷免した例は、戦後、数例存在する。しかし、例えば、現行憲法下における最初の閣僚罷免権の発動は、片山内閣における平野農林相の罷免であるが、これはGHQから追放を示唆された事を受けてのことであった。閣内における政策上の意見の対立があった場合に、内閣総理大臣が閣僚の罷免に成功した結果、内閣そのものが延命に成功した例はほとんどないのである。郵政解散時の小泉内閣は、その希有の例外である*[2]。その意味で、69条の定める内閣の衆議院解散権と同じく、これは伝家の宝刀であって、抜くことは本質的に予定されていないといえる。

                                              

 要するに、単なる同等者中の第一人者と見る説も、他に優越する地位を有するとする説も、その一面の真実を捉えたものであって、あらゆる場合に通用する説ではない、ということを、論文を書く場合には、しっかりと押さえていなければならないのである。

(三) 内閣の権限

 参考までに、憲法上、内閣の権限とされるものを以下に示す。しかし、これらを個別に悉皆的に挙げる必要は、この論文ではない。力点は地位という方にあるから、地位を確定するために必要な限度で論及すれば十分である。

    @ 憲法73条列挙事項

    A 天皇に対する助言と承認

    B 国会に関する権限

          国会の臨時会の召集並びに参議院の緊急集会の請求

          衆議院の解散の決定

    C 裁判所に関する権限

     最高裁長官任命権

          最高裁判事任命権

          下級裁判所判事任命権

    D 法律上の権限

     権限疑義裁定権(内閣法7条)

 

四 行政の執行機関としての主任の国務大臣

 現行憲法は、意思決定機関としての内閣についてもっぱら規定し、その決定された意思をどのような形で実施しうるかについてはほとんど規定していない。わずかに74条に「主任の国務大臣」という言葉が登場することが、その執行に関する唯一の規定となっている。

 ここに主任の国務大臣とは、「別に法律の定めるところにより、行政事務を分担管理」する国務大臣のことである(内閣法31)。別の法律とは、国家行政組織法および国家行政組織法のことである。この行政事務を分担管理するためにおかれている行政機関を、府(内閣府設置法2条)又は省(国家行政組織法33項)という。すなわち府又は省というのは、独任制の国家機関である。

 国務大臣は、一方において内閣という合議体の一員として意思決定に参画するとともに、その決定された意思について、内閣を代表して特定行政領域に関して執行するものとしての地位を有するのである。この点、内閣総理大臣も同様である。ただ、内閣総理大臣は、これに加えて、行政各部の指揮監督権というものも予定されているところに特殊性がある。

(一) 内閣の対外的代表者としての地位

 憲法72条は、内閣総理大臣の権限として、内閣を代表して行政各部を指揮監督する権限を有することを予定している。この言葉はそれ自体では意味を確定できない。が、上述のように、74条に主任の国務大臣という言葉が登場することにより、この行政各部とは、具体的には、行政各部の主任の国務大臣の意味であることがはっきりする。また、執行機関としては、主任の国務大臣と考える場合には、法律の執行責任を明らかにするには主任の国務大臣の署名だけで十分なはずである。しかし、74条は、それに重ねて内閣総理大臣の連署も要求していることから、行政各部に関する指揮監督権とは、個別の執行にあたっての指揮監督権を意味していることが明らかである。

 なお、以下の点に注意する必要がある。

  1 この対外的代表権は、首長としての地位からでてくる、と通説は述べている。

 しかし、この通説は誤っている、と考える。なぜなら、第一に、661項は明らかに意思決定機関としての内閣に関する規定だからである。仮に、66条が執行機関としての個々の国務大臣に関する規定と読めるならば、個々の省庁の執行に関して問題が発生した場合にも、663項により連帯責任とならなければおかしい。要するに、個々の閣僚の辞任という形での内閣の延命策は、それ自体、憲法違反と評価すべきであろう。また、74条も連帯責任という考えからは説明できない。連帯責任ならば、主任の国務大臣ばかりでなく、全閣僚が署名しなければならないはずだからである。第二に、対外的代表権は、すべての主任の国務大臣がその担当領域に関して有しているからである。我々国民に対する国の行政活動が、主任の国務大臣名で行われ、我々国民が国を訴えるとき、主任の国務大臣を被告として訴えを提起するのはそのためである。また、条約の締結に当たり、内閣総理大臣ばかりでなく、外務大臣の場合にも、全権委任状が不要とされる(条約法条約72項)が、これも、外交のいう領域に関して、主任の国務大臣が当然に内閣を対外的に代表する権限を有しているところから生じている。

  2 この執行機関としての活動は、閣議による意思決定を受けて行われなければならない。このことから、閣議による決定がない場合には、どうしたらよいか、ということが問題となる。

 ここからが本問の中心論点となる。

 ロッキード事件最高裁判決は、この点について、肯定的に理解している。すなわち次のように述べる。

「内閣総理大臣は、少なくとも内閣の明示の意志に反しない限り、行政各部に対し、随時その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有するものと解するのが相当である。」

 問題は、何を根拠にこのように述べることが可能か、という点にある。それについては、判決に参加した判事の意見は大きくずれている。すなわち、この部分については、実に4つの補足意見が付されているのである。これは同時にわが国で現在一般に存在している学説対立の縮図と見ることができるであろう。順に見ていくことにしよう。

  (1) 園部逸夫、大野正男、千種秀夫、河合伸一各判事の補足意見(以下「園部等意見」という。)はかなり長いので、適宜ダイジェストする。それによれば、

「内閣総理大臣は、憲法72条に基づき、行政各部を指揮監督する権限を有するところこの権限の行使方法は、内閣法6条の定めるところに限定されるものではない」

 換言すれば、指揮監督権は、閣議による意思決定がなくとも行使可能と主張する。その根拠は、指揮監督権が

「行政権の主体たる内閣を代表して、内閣の統一を保持するため、行使されるものであり、その権限の範囲は行政の全般に及ぶのである。そして、行政の対象が、極めて多様、複雑、大量であり、かつ常に流動するものであることからすると、右指揮監督権限は、内閣総理大臣の自由な裁量により臨機に行使することができるものとされなければならない。したがって、その一般的な行使の態様は、主任の国務大臣に対する助言、依頼、指導、説得等、事案に即応した各種の働き掛けによって、臨機に行われるのが通常と考えられ、多数意見が『指示を与える権限』というのは、右指揮監督権限がこのような態様によって行使される場合を総称するものと理解することができる。」

 この場合、内閣法6条が定める場合とそうでない場合とでどのような違いが生ずるかが問題となる。その点については次のように述べる。

「内閣総理大臣の指揮監督権限が右のような通常の態様で行使される場合、それは、強制的な法的効果を伴わず、国務大臣の任意の同意、協力を期待するものである。これに対し、内閣総理大臣が、内閣法6条の定めるところにより、閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部の長たる主任大臣を指揮監督する場合には、主任大臣はその指揮監督に従う法的義務を負い、もしこれに従わない場合には、閣議決定に違反するものとして、行政上の責任を生ずることとなる。このように、内閣法6条は、内閣総理大臣が憲法72条に基づく指揮監督権限の行使について右のような法的効果を伴わせる場合の方法を定めるものであって、本来前項で述べたような性質を有する憲法上の指揮監督権限を制限するものではなく、もとより制限できるものでもない。」

  (2) 尾崎行信判事の補足意見(以下「尾崎意見」という。)も長いものなので、適宜ダイジェストする。これが、内閣の意思とは別に、内閣総理大臣の意思の自由が認められ、それに基づいて主任の国務大臣を指揮監督する自由がある、と主張している点においては、園部等意見と変わらない。異なるのは、指揮監督権は、内閣総理大臣の本来的権限であり、内閣法6条は、その憲法の付与した権限に対する制約と理解している点である。

「この指揮監督権限は憲法72条によって付与されたものであって、内閣総理大臣からこの権限自体を奪うことは憲法に違反して許されない。しかし、その権限行使の方法について合理的条件を付することは許される。この権限は内閣を代表して行使されるものであるから、内閣法6条のように内閣の統一された意思に沿って行使されるよう内閣総理大臣が自己の賛成を含む合意である閣議決定に従って行使することとするのは合理的であり、しかも、罷免権によって最終的には内閣総理大臣の意見を優先させる方途があるのであるから、かかる条件は憲法72条に反するものではない。内閣法6条は、指揮監督権限の行使方法を定めたにすぎず、権限そのものの範囲を消長させるものではない。この権限は、憲法に由来するのであって、閣議決定がある場合に初めて発生するものではない。」

 この見解によれば、わが国行政権は内閣ではなく、内閣総理大臣に帰属していることになる。したがって通常の場合には、行政の進め方を閣議にかける必要はなく、随時、内閣総理大臣が主任の国務大臣に指揮監督すればよいことになる。すなわち、

「当初から内閣法6条に定める手続に従ってこれを行使し、権力的に強制するのではなく、それに先立つ代替的先行措置あるいは前置手続として、指導、要望、勧告等、これを『指示権(能)』というかどうかはともかく、これらによって内閣総理大臣の所期する方針を主任大臣に伝達し、任意の履行を求めるのが通例と認められる。そして、この指導等は、内閣総理大臣の指揮監督権限の行使の一態様であるが、内閣法6条に基づく場合とは異なり強制力を有しない。したがって、内閣総理大臣は、その指導等に主任大臣が従わない場合には、内閣法6条に従って閣議決定を求めることになる。その結果、閣議において、内閣総理大臣の所期する方針が合意されれば、これによって強制的な指揮監督権限を行使するし、期待する閣議決定が得られない場合(閣議決定は全員一致によるのが慣行とされている。)に内閣総理大臣があくまで自らの方針を貫こうとすれば、罷免権(憲法682項)を行使してでも強行することとなる。このように、指導等は、右権限の強制的行使に至る道程として採られる先行的措置であり、この権限の内容の一部をなすものとみるべきで、憲法72条に定める指揮監督権限に包摂され、内閣総理大臣の職務権限に属するのである。」

  (3) 草場良八、中島敏次郎、三好達、高橋久子各判事の少数意見(以下「草場等意見」という)における72条関連部分は比較的短いため、以下に全文を紹介する。

「内閣総理大臣は、憲法72条に基づいて、主任大臣を指揮監督する権限(内閣法6条)を有するとともに、これと並んで、主任大臣に対し指示を与えるという権能を有している。すなわち、内閣総理大臣は、行政権を行使する内閣の首長として、内閣を統率し、内閣を代表して行政各部を統轄調整する地位にあるものであり、閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部を指揮監督する職務権限を有するほか、国務大臣の任免権(憲法68条)や行政各部の処分の中止権(憲法72条、内閣法8条)を有している。憲法上このような地位にある内閣総理大臣は、内閣の方針を決定し、閣内の意思の統一を図り、流動的で多様な行政需要に対応して、具体的な施策を遅滞なく実施に移すため、内閣の明示の意思に反しない限り、主任大臣に対し、その所掌事務につき指導、勧告、助言等の働き掛けをする、すなわち指示を与える権能を有するというべきである。」

  (4) 可部恒雄、大西勝也、小野幹雄各判事の補足意見(以下、「可部等意見」という。)の72条関連部分も比較的短いので、全文を紹介する。

「内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権限の行使は、『閣議にかけて決定した方針に基づいて』しなければならないが、その場合に必要とされる閣議決定は、指揮監督権限の行使の対象となる事項につき、逐一、個別的、具体的に決定されていることを要せず一般的、基本的な大枠が決定されていれば足り、内閣総理大臣は、その大枠の方針を逸脱しない限り、右権限を行使することができるものと解するのが相当である。けだし、内閣総理大臣の指揮監督権限は、行政の統轄調整を図る手段として、内閣の首長である内閣総理大臣にのみ付与された憲法上の権限であって、それが機能するためには、内閣の意思として閣議決定された方針を逸脱しない限り、いかなる場合に、どのような事項について右権限を行使するかは、内閣総理大臣の自由裁量に委ねられていると解すべきであるからである。そして、このことは、『閣議決定に基づいて』と規定することなく、『閣議にかけて決定した方針に基づいて』と規定する内閣法6条の文理にも合致する。

 したがって、内閣総理大臣は、閣議決定が一般的、基本的大枠を定めるものであるときは、それを具体的施策として策定し、実現する過程で生じる様々な方策、方途の選択等に関しても、閣議決定の方針を逸脱しない限り、適宜、所管の大臣に対し、指揮監督権限を行使することができるというべきであり、行使の対象となる具体的事項が閣議決定の内容として明示されているか否かは問うところではない。」

 可部等意見は、判決文の掲載順序では、二番目であったが、最後に紹介した。理由は簡単で、私はこれが、少なくとも書かれている限りでは正しい意見だと考えているからである。

 意思決定がない場合には、好きなように指揮監督できる、という解釈をロッキード事件最高裁判所判決はとっている。しかし、この見解は、立法論としては成り立ち得るかもしれないが、現行内閣法の解釈論としては明らかに誤っていると考える。なぜなら、内閣法8条は、内閣総理大臣の権限として中止権を定めているからである。

 すなわち、内閣総理大臣は、第一に、明示・黙示を問わず、内閣の意思に反する行動はできないというべきである。第二に、ロッキード事件で問題になったのは、内閣が決定すべき事項というよりも、運輸大臣に内閣から包括的に委任されている事項に関する内閣総理大臣の指揮監督権の有無である。したがって、この指揮権行使が内閣の意思に反していないことは明らかといえる。

*     *     *

 このように、職務権限としての指揮監督権を承認する場合にも、大きな説の対立があるのであるから、このあたりをどの程度しっかり書くかが本問の論文としてのよしあしを決めることになる。この各意見は判例集にも紹介されているので、問題はないと思う。

【まとめ】

 少し長い説明になったので、理解の便宜のため、逆方向からの整理をしておきたい。ロッキード事件において、内閣総理大臣の責任を認めるという立場をとろうと考えた場合、内閣法6条がネックとなる。それを文字通り文言解釈すると、閣議決定がない限り、内閣総理大臣に行政各部への指揮監督権はない、と読めるからである。そこで、内閣総理大臣の責任を認めるための第一の方法は、内閣法6条をバイパスして、他のルートから内閣総理大臣の責任を認める論理を導くことである。上記最高裁判所意見のうち、園部等意見、尾崎意見及び草場等意見はいずれもその方法を採用している。その場合、論理の違いはあるが、661項の首長という性格を重視するとともに、72条の解釈に工夫するということになる。第二の方法は、6条がいう閣議決定という概念を緩やかなものとする方法で、最後の可部等意見の採用している方法である。この場合には、その背景として663項の連帯責任を重視することになる。こうして、内閣法6条をどう処理して内閣総理大臣の責任を認めるにせよ、66条及び72条の解釈論が中心論点ということになるのである。学生諸君の中には、内閣法6条の解釈に、いきなりロッキード事件多数意見をつなげて論文ができたつもりになっている人がいるが、憲法解釈が入らない限り、憲法の論文足りえないことを心に銘記しておこう。

 


 

*[1] 新しい公共(New Public)とは公共サービスを市民自身やNPOが主体となり提供する社会現象、または考え方。独立行政法人という制度を導入したのも、このNew Public Managementという考えに基づく。政府では、現在「新しい公共」推進会議等をもうけて、これに取り組んでいる。

*[2] 200588日、参議院本会議で郵政民営化関連法案が否決された。それ以前から郵政法案が否決された場合は衆議院を解散することを明言していた小泉純一郎内閣総理大臣は臨時閣議を開催した。臨時閣議で、島村宜伸農水相は解散詔書に関する閣議決定文書への署名を拒否した。そこで、小泉内閣総理大臣は、閣議を中断して天皇の認証を得て島村農水相を罷免し、首相自身が農水相を兼務して解散詔書を閣議決定した。そして午後7時に開かれた衆議院本会議において、日本国憲法第7条に基づき衆議院を解散した。