人事院の合憲性

甲斐素直

[問題]

 国家公務員法(以下「法」という)32項は、人事院の権限として「給与その他の勤務条件の改善及び人事行政の改善に関する勧告、採用試験及び任免(標準職務遂行能力及び採用昇任等基本方針に関する事項を除く。)、給与、研修、分限、懲戒、苦情の処理、職務に係る倫理の保持その他職員に関する人事行政の公正の確保及び職員の利益の保護等に関する事務をつかさどる」と定めている。これは、普通、人事行政と呼ばれる。

 憲法65条は、「行政権は、内閣に属する」と定める。したがって、憲法上は人事行政も内閣に属すると考えられる。そこで、法31項は「内閣の所轄の下に人事院を置く」と定めている。

 人事院は、独任制の官庁ではなく、3名の人事官によってされる合議制の官庁である(法41項)。しかし、内閣は、人事官の任免権限を持たない。すなわち、任命に当たっては、「人事官は、人格が高潔で、民主的な統治組織と成績本位の原則による能率的な事務の処理に理解があり、且つ、人事行政に関し識見を有する年齢三十五年以上の者の中から両議院の同意を経て、内閣が、これを任命する。」(51)とされていて、国会の同意が要件となっている。さらに罷免に関しては、次のように定められている。

第八条  人事官は、左の各号の一に該当する場合を除く外、その意に反して罷免されることがない。

 第五条第三項各号の一に該当するに至つた場合

 国会の訴追に基き、公開の弾劾手続により罷免を可とすると決定された場合

 任期が満了して、再任されず又は人事官として引き続き十二年在任するに至つた場合

 前項第二号の規定による弾劾の事由は、左に掲げるものとする。

 心身の故障のため、職務の遂行に堪えないこと

 職務上の義務に違反し、その他人事官たるに適しない非行があること

 人事官の中、二人以上が同一の政党に属することとなつた場合においては、これらの者の中の一人以外の者は、内閣が両議院の同意を経て、これを罷免するものとする。

 前項の規定は、政党所属関係について異動のなかつた人事官の地位に、影響を及ぼすものではない。

 そして、弾劾に関しては、次のように定められている。

第九条  人事官の弾劾の裁判は、最高裁判所においてこれを行う。

 国会は、人事官の弾劾の訴追をしようとするときは、訴追の事由を記載した書面を最高裁判所に提出しなければならない。

 国会は、前項の場合においては、同項に規定する書面の写を訴追に係る人事官に送付しなければならない。

 最高裁判所は、第二項の書面を受理した日から三十日以上九十日以内の間において裁判開始の日を定め、その日の三十日以前までに、国会及び訴追に係る人事官に、これを通知しなければならない。

 最高裁判所は、裁判開始の日から百日以内に判決を行わなければならない。

 人事官の弾劾の裁判の手続は、裁判所規則でこれを定める。

 裁判に要する費用は、国庫の負担とする。

この結果、人事院は、実質的にみて内閣の指揮監督に服しない。このような規定は憲法65条に違反するのではないか、論じなさい。

 

[はじめに]

 本問は、いわゆる独立行政委員会のうち、人事院に限定して、その合憲性を問う問題である。したがって、諸君として第一に考えねばならないのは、「いわゆる独立行政委員会の合憲性について論ぜよ」という問題と、この問題は、答案構成としてどこ迄は一緒で、どこからがちがうべきかということをまず悩まねばならない。今回提出された答案は、残念ながら、この点について全く悩まなかったり、ある程度悩んでも、きわめて不徹底なものであった。

 答えは一般論的には簡単で、広い問題については、全体を包摂しうる程度に浅く答えるべきで有り、狭い問題には、その分だけ深く答えるべきである。本問は人事院だけに限定しての出題なのだから、人事院を除く独立行政委員会を説明するような議論は不要である。そして、その分、なぜ人事院が内閣から独立していることが許されるか、という点を深く論じる必要がある。

 憲法734号は、内閣の権限の一つとして、明確に官吏に関する事務を掌理することをあげている。すなわち、「官吏」と呼ばれる種類の公務員に関しては、その人事行政権は内閣に属する、というのが憲法の大前提なのである。国家公務員法3条が「」と定めている理由はそこにある。それなのに、なぜ人事院は実際の活動において内閣から独立していることが許されるのか。本問のもっとも難しい点はそこにある。

 それをきちんと論じることまでは期待していないが、どこまで問題意識を示せるかが、合格答案か否かの分かれ目となる。

 以下の説明においては、まず「独立行政委員会について論ぜよ」と出題された場合には何を論じるべきかを述べ、それとの差別化を図りつつ、本問そのものの回答はどうあるべきかを検討してみたい。

 

一 独立行政委員会の概念

 論文に書く必要の無い基本的な概念の説明をまず行っておく。

 国の行政機関は大きく3種類に分類することが可能である。

 第一の種類は、多数合議体であって、内閣がそれである。その特徴は、多数の意見を採り入れて慎重な審議を行うことが可能な点にある。その反面、迅速な判断・活動を求めにくいという欠陥がある。

 第二の種類は、独任制機関であって、主任の国務大臣(あるいは行政各部)がそれである。例えば財務省という省には多数の職員がいるが、すべての権限は財務大臣一人に集中している。すなわち、財務省としての活動は、財務大臣の名で行われているか、その代理人、代行者としての資格で行われている。したがって、最終的には財務大臣一人の決断ですべての活動を行うことが可能である。この結果、極めて迅速に活動しうる反面、多面的な見解をその活動に反映させることは困難となる。

 第三の種類が、行政委員会といわれるものである。現行の国の行政組織に関する法律では二種類の行政委員会が予定されている。

 第一の種類の行政委員会は、3条委員会と通称されることが多い。これは、その多くが国家行政組織法3条を根拠法としているからである。数名の行政委員によって構成される合議制機関で、事務局が付設される。委員に強力な身分保障が与えられ、国会及び内閣から独立した地位を有する点に特徴があり、独立行政委員会と呼ばれる。

 この種行政委員会は、政治的独立性の必要な業務を行う場合に、独任制の行政庁にない慎重さと、国会のような超多数合議体にない迅速さを兼ね備えた行政組織として米国で発達し、第2次大戦後わが国でも多数設けられた。しかし、違憲の疑いなどから徐々に整理統合された。次の表を見てほしい。これは国家行政組織法の別表1である。 

委員会

総務省

公害等調整委員会

消防庁

法務省

公安審査委員会

公安調査庁

外務省

 

 

財務省

 

国税庁

文部科学省

 

文化庁

厚生労働省

中央労働委員会

 

農林水産省

 

 

 

林野庁

水産庁

経済産業省

 

 

 

 

 

資源エネルギー庁

特許庁

中小企業庁

国土交通省

 

 

運輸安全委員会

 

 

観光庁

気象庁

海上保安庁

環境省

 

 

防衛省

 

 

 この表の真ん中にある、単に「委員会」とある欄に書かれている4つの委員会が行政委員会であり、庁とある欄に載っている外局としての庁と、法的には同格の機関である。以前は、この表でほぼ網羅されていたが、2007年の中央省庁改編後は、これに内閣府設置法64条に定める次の表の組織を加える必要が生じた。 

公正取引委員会

私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律

国家公安委員会

警察法

金融庁

金融庁設置法

消費者庁

消費者庁及び消費者委員会設置法

 したがって、先の4委員会に、この表に載っている公正取引委員会及び国家公安委員会が加わって6委員会となり、さらに会計検査院と人事院を加えた計8と考えるのが一般である。従来は、このほかに「司法試験管理委員会」が3条委員会であったため、合計9であったが、近時の司法改革の一環として「司法試験委員会」に改組され、現在は、次に説明する8条委員会に降格されている。

 8条委員会という通称は、その大半が国家行政組織法8条を根拠として設置される合議制機関であることに由来している。その中には、消費者庁に設置されている消費者委員会や、内閣府に設置されている原子力委員会あるいは上述した司法試験委員会のように委員会という名称をもつものがある。そこで、3条に基づく委員会とこれを特に区別する場合には、前者を3条委員会、後者を8条委員会と呼ぶ訳である。ただし実際には、委員会のほか、選挙制度審議会、地方制度調査会、情報公開・個人情報保護審査会、中央障害者施策推進協議会など、委員会という名が使われていない8条委員会も数多く存在する。一般に政治的独立性の必要な業務について設立され、行政からある程度独立して権限を行使する点に特徴を持つが、組織上の独立性は3条委員会ほどは強くない。

 3条委員会であれ、8条委員会であれ、通常省庁に比べて慎重かつ多元的な検討を実現するという委員会型を採用した制度目的から必然的に、その母胎となる省庁からある程度の独立性を有している。全く独立性を否定するのであれば、委員会型を採用せず、下部行政機構としておけば十分だからである。

 しかし、8条委員会の場合には、その決定を上級行政庁は尊重する必要はあるが、法的拘束力を持つものではないのが通例である。これに対して、3条委員会は、内閣の指揮監督権から職権行使の上で独立し、独自に国家意思を表明できる権限を有することが、その設置法等で明らかにされており、さらにその独立した意思表明権を保護するため、委員会の構成員には裁判官の身分保障に類似した強力な身分保障が与えられている。このような特徴は、各省の外局ではなく、独立した官庁としての地位を認められる人事院、さらに憲法上、内閣から独立した地位を認められる会計検査院にも共通に認められるので、独立行政委員会という用語は、これらを含めて使用されるのが通常である。

 

二 基本的問題点

 最初に簡単に学説の概況を紹介しよう。念のために述べておくが、諸君は、短答式対策とっしては、学説の状況を知っている必要がある。しかし、論文式答案で学説の紹介を行うのは、自殺行為以外の何者でもない。どの国家試験でも論文式試験は、短答式試験合格者に対して行われるのであるから、受験者が学説の概況を理解して居るのは当然のことである。従って、これに対しては全く配点されないのである。悪いことに、諸君は学説の紹介を行うと、それである程度紙面が埋まるものだから、十分に論文を展開したような錯覚を起こし、本来行うべき検討を行わない。さらに悪いことに、紹介した学説のどれかを批判し、それで自説の理由付けに換えるという傾向を顕著に示す。しかし、他説の批判は、通常は自説の根拠たり得ない(ごくまれに例外がある)。その結果、論文の命である理由付けを全く書いている論文を提出する、という現象につながるのである。

(一) 人事院及び3条委員会の違憲説

 憲法の基本原則の一つである権力分立制を重視すれば、これら独立行政委員会を違憲とすることは必然的な結論である。かって米軍占領下において数十も設置された独立行政委員会が、占領集結とともに大幅に整理された背景にも、その合憲性に対する疑問が存在していた。

 現時点におけるその主張を簡単に整理すると、@内閣の指揮監督権を排除することは、憲法65条及び72条に違反すること、及びA設置の根拠とされる所掌事務の特殊性(専門性、公正性、政治的中立性)は基準として不明確であることである。

 このうち、第二の点は非常に厳しい指摘で、的確な反論ができない。例えば、公正取引委員会や公害等調整委員会の特殊性として審判権を持つことが指摘される。しかし、同様の権能は一般行政庁に過ぎない海難審判庁、特許庁、郵政省(電波行政)にも存在しているのであるから、それらの中で、公正取引委員会等だけ特に強力な独立性が保障されねばならないのかを説明することは困難なのである。これは、独立委員会の設置に当たっての定見の無さを反映したもので、理論的には説明できないといわざるを得ない。

 しかし、統一的な説明はできないまでも、ある行政委員会に、なぜ独立性が与えられねばならないのかに付いての説明は必要である。したがって、本問の論点は、独立行政委員会を肯定する説を採る場合にも、この二つの点ということになる。以下、この二つの点を巡る学説の概況を検討することとする。

(二) 非独立説

 独立性批判に対するもっとも素朴な反論は、国会及び内閣に委員の任命権及び予算権が留保されていることを根拠に、これら委員会が独立性を有していない、と主張するものである。しかし、国会や内閣は、裁判所に対しても任命権や予算権を有しているから、この主張は、そもそもわが国に権力分立制は存在していないと主張するがごとき、強弁といわざるを得ず、とうてい採用できない。

(三) 独立性肯定説

1 65条の文言に求める説

 65条が、41条や76条と違って行政権について唯一ともすべてともいっていない点に目を付けて、憲法は内閣に行政権の独占を求めてはいないとする説である。

 しかし、もともと内閣は、憲法上、行政権を行使する機関とはされていない。行政権は「行政各部」が実施するのであり、内閣は内閣総理大臣を通じてそれを指揮監督するに過ぎない(72条)。すなわち、議院内閣制の下で、内閣の指揮監督に服さない行政機関をなぜ肯定できるのか、という問いには依然としてまったく答えていないのである。したがって、少なくとも、この説は単独では成立し得ず、他の何らかの説の補強を受ける必要があることは明らかである。

2 国会による統制説

 行政について内閣の指揮監督が必要な理由は、議院内閣制を通じて国民の代表者たる国会のコントロール下に行政をおくことにあることは異論がない。そこで、内閣の指揮監督下にない場合でも、国会の直接的指揮監督下にあれば、違憲ではない、という議論が出る。

 この説は、現に国会の下にある行政機関、具体的には国会図書館の合憲性を説明する論理としては有効である。しかし、独立行政委員会の場合、いずれも、内閣の指揮監督下にないのと同様に、国会の指揮監督下にもないのであるから、全く説明力を持たない。

3 執行二元論

 この問題は、日本ばかりでなく、日本に独立行政委員会制度を導入した米国でも、同様に問題になる。その米国では、行政を二元的に理解すべきであるとする説が強力に主張されており、わが国でも近時支持するものが増えてきている。

 それに依れば、内閣が保持すべき行政権とは政治的作用としての執政(exective Power)であるから、非政治作用としての行政(administrative Power)は必ずしも内閣の統制下にある必要はない、という。フランス行政裁判所における行政行為と統治行為の二分論に通じたところのある説で、これまでに紹介した説と違い、確かにかなりの説得力がある。

 この説の問題は執政と行政を何を基準に区分するかが、必ずしも明確ではない点にある。

4 立法裁量論

 この説は、3で指摘した説の、区分基準の不明確という点に答えたもので、行政権の存在は、必ずしも憲法上必然的に導かれるものではなく、行政法の制定によって初めて考えることができるとする。したがって、その行政権をどこに帰属させるかは基本的に立法裁量にかかって来るという。

 しかし、問題は内閣の専管的行政と、そうでないものを憲法論的に振り分ける点にあり、それをすべて国会の専断にゆだねるというのは、かっての純粋代表時代の憲法論としてはともかく、今日の半直接代表制下の憲法論としては説得力に乏しい。

5 抑制設定説

 行政委員会の設置は、当該行政を行政部の恣意から分離しようとするものであるから、権力分立制の趣旨である政府に対する抑制を設定することになるので合憲とする。

 これは権力分立制の意義そのものを直視しているという意味で、非常に説得力がある。しかし、なぜある場合に、そのような抑制を行政委員会という形で設置する必要があるのか、という第二の論点と直結するので、そちらで効果的な論理を展開できない限り、説としての説得力を失うこととなる。

(四) 行政委員会設置の合理的理由

 憲法論上、行政委員会の設置が肯定されるとして、ではどのような場合に、内閣の指揮監督を排除することが許容されるのか、ということを第二の論点として論ずる必要がある。

1 特殊性説

 通常の行政部では達成困難な特殊性がある場合に、行政委員会の設置が許容されると説く。その特殊性とは、政治的中立性、高度の専門性、高度の公正性等である。

 始めに、でも触れたように、政治的中立性は一般職公務員の通有性と今日論じられており、したがって単純にこれだけを主張するならば、そもそも行政はすべて行政委員会によって行われねばならないことになる。また、それ以外の二つの基準は、いずれも「高度の」という形容詞が付いていることに明らかなように、相対概念であり、具体的にどの程度の条件が生じたときに肯定されるのか、という基準が明確でない点に問題がある。

2 準司法作用説

 行政委員会の職務が裁判類似作用を伴う場合、司法の独立に倣い、政治部門からの独立が要請されるとする説である。これについては、先に違憲論で触れたとおり、同じ条件にありながら、独立性が肯定されていない場合がかなりあり、本当に分離の根拠足りうるのか、という疑問が呈されている。

 また、そうした準司法作用を有しているのは、独立行政委員会のうち、公正取引委員会、公害等調整委員会、公安審査会、船員労働委員会及び中央労働委員会の5つの委員会だけである。それ以外の委員会の独立性の根拠については説明されていない。

3 機械的業務説

 機械的業務はビジネスライクに行われればよいから、内閣の指揮監督がなくとも構わない、とする説である。しかし、同じように、指揮監督があっても構わないといえるはずで、独立性を付与する必要性という問いには全く答えていない。また、現在存在する独立行政委員会で、そのような機械的業務に尽きるものは一つもないから、これは実質的に違憲説に等しい。

4 抑制必要説

 ある行政作用を分離し、政府に対する抑制を設定する必要があるほどの恣意が行政部に見られること。すなわち前述した抑制設定説の実質的根拠である。しかし、これはほとんど循環論法であって、何を持ってそうした必要性を判断する基準とするのか、という問いに答えたものとはいえない。

5 誠実執行義務破綻説

 憲法731号により内閣は法律を誠実に執行する義務を負っている。しかし、業務の内容によっては誠実に執行することが不可能なものがある。そのような誠実執行が不可能なもの(政府の失敗)に対しては、内閣の指揮監督から排除し、独立機関が実施することが妥当だとする説である。この説は米国で展開されているものを継受したものであるが、現時点では理論分析が不十分で、現行の行政委員会をどこまでこの論理で説明できるかがはっきりしない。しかし非常に魅力的なものであることは事実である。

                                           

 以上に紹介したとおり、現在存在する説の中には、とうてい承認できないものも多いが、説得力ある論理を展開しているものも多い。諸君としては、基本書と相談して、好きな説を選び、書いてくれれば合格答案となる。

 

三 私見

 以上見てきたように、この問題に関しては様々な説が入り乱れており、およそ通説というものが存在していない。以下、私自身はどのように考えているのかを説明したい。

 憲法ゼミナールで、以下の点についてポイントについてだけ簡略に説明したところ、今回出てきた答案はいずれもその簡略版をそのまま踏襲していたため、落第答案になってしまっていた。諸君としては、それを自分自身の言葉で基礎から説明していかなければ、合格答案にはならないのである。

 そこで、ここでは少し基礎から、少なくとも論理の流れについては手を抜かない説明をしてみよう。

 この議論は、権力分立制の意義そのものから導かなければいけないと考えている。諸君も知るとおり、我が憲法の根本原理は個人主義であり、この個人主義を国家と国民の関係に投影すると自由主義が導ける。自由主義を国家の統治機構に投影すると、権力分立制という重要な原理が導ける。

 我が国は、憲法41条で立法権を、65条で行政権を、そして76条で司法権について述べているから、三権分立制を、少なくとも中央政府における統治機構では採用していると理解できる(地方自治との関係をどうとらえるかは別の大きな論点であるが、本問でそこまで言及すると、論点ぼけになってしまう)

 そして、独立行政委員会の合憲性は、憲法65条との関係で発生する。したがって、本問における第一の論点は、憲法65条が内閣の独占と定めている「行政」概念をどのように把握するか、という点にある。

 憲法65条の定める行政概念については、消極的定義(行政控除説)が通説となっている…と、私はここではアウトラインの説明しかしていないから述べることができる。しかし、諸君が、これを諸君の答案に丸写しにすると、その瞬間に落第答案となる。「通説」という名の説は存在しないし、繰り返し強調するが、論文は理由が命だからである。

 ついでに述べれば、近時、佐藤幸治は積極説に転換し「国のとるべき適切な方向・総合的な政策のあり方を追求しつつ、法律の誠実な執行を図る作用」と定義している(佐藤『日本国憲法』成文堂479頁)。

 したがって、諸君は、行政権の概念について消極説が正しいと主張したければ、こうした積極説を跳ね返して、自説が正しいとする理由を必ず論文中に書き込まねば、合格答案たり得ないのである。ありがたいことに通説だから、深く論じる必要はなく、積極説の困難性、消極説の歴史的妥当性などという点を、基本書と相談して、手際よく述べてくれればそれで足りる。

 消極説を分類すると、現在、大きく二つの類型が存在している。第一の定義は、国の活動から、立法と司法を除外したものが、行政であるとする(例えば芦部信喜『憲法』第5判岩波書店刊312頁参照)。第二の定義は、対国民的な国の活動から、実質的意味の立法と司法を除外したものが、行政であるとする(例えば佐藤幸治『憲法』第3版青林書院刊210頁参照)。

 この二つの説の違いは、実は憲法41条における立法権の定義の違いから出てきている。芦部信喜の場合、通説が「対国民的な一般性ある法規範の定立」と定義するのを批判して、単に「一般性ある法規範」と定義するだけで十分とした。したがって、行政権の定義で対国民性という用件を復活するわけにはいかないのである。だから、これから説明する私の説は、芦部説を採る人は基本的に採用できない。

 私は、後説を支持する。先に述べたとおり、権力分立制は自由主義の統治機構における現れと理解する(これ自体はまず異論がない)から、権力分立制に言う権力とは、対国民的関係でだけ把握すればよいと考えるからである。したがって、立法権、行政権、司法権のいずれの概念も、対国民的な活動に限定して把握するべきだと考える。

 そして、権力分立制を守るためには、それぞれの権力府は、それぞれの領域内では自主立法権、自主行政権、自主司法権を持つべきであると考える。

 自主立法権のうち、議院規則、裁判所規則については憲法が明文で保証しているところである。それと同様に、行政規則については、法律の委任等を要せず、行政庁は制定できると考えている。

 自主司法権に関しては、立法府における資格争訟の裁判権及び議院の懲罰権については憲法の保障するところである。行政府における内閣総理大臣の閣僚罷免権、司法府における裁判官の身分保障における裁判の保障規定なども憲法上に明文が存在している。

 自主行政権に関しては、憲法上の保障規定は特にないが、立法府における院内行政権、司法府における司法行政権が、内閣の所轄の下にないことは、全く異説のないところである(と、私は理由付けの手を抜いているが、もちろん、諸君がこう書くと落第答案となる。)。

 このように考えた場合、内閣に属する行政権には、実は二種類あることになる。対国民的な行政権と、対内部的行政権である。65条が保障しているのは、対国民的行政権が内閣に属することまでだから、対内部的行政権については保障対象外である。現に、国家内部活動である財政に関し、会計検査院という内閣に属さない機関の存在を憲法が酩酊していることは、その形式的根拠の一つといえる。

 この範疇で説明できる行政委員会は、先に挙げた8機関のうち、会計検査院、人事院、国家公安委員会の3者である。これらの場合、政府から独立して意思を表明する自由は肯定されるが、その意思は政府を拘束しない。例えば、会計検査院により問題と指摘されても、政府はこれを改善する義務はない。人事院から勧告が出ても、政府はこれを完全実施する必要はない。

 これに対して、対国民的行政の場合には、原則的に独立行政委員会は禁じられる。しかし、準司法的作用を有する場合には、権力分立制の原理から、政府の干渉が排除されるべきであるから、肯定できる。残り5つの独立行政委員会は、いずれも司法権そのものではないが、司法権に準ずる活動を行っており、その意味で、内閣の権限から逸脱するものと考える。

 

 猟官制と能力制

 ここまでの説明は、人事院が直接的に65条違反にはならないという説明である。しかし、司法府が、司法権の独立を守るためには司法行政権が必要であるのと同様に、内閣が対国民的な行政権を、自らの責任で執行するためには、内閣として人事行政権を持っていなければならない。冒頭に触れた憲法734号はまさにそのことを述べていると考えられる。すなわち、人事行政権を内閣から排除することは、その意味で憲法65条違反となる可能性がある。

 この問題は、実は公務員制度に関する根本的な思想の対立に根ざしている。すなわち猟官制(spoils system)と能力制(merit system)がある。現在の国家公務員法では徹底して能力性がとられているが、むしろこれは現行制度の一つの歪みであり、むしろ憲法自体は猟官制を前提にしていたと考えられる。そして、政府は現在、部分的に猟官制を導入する方向で、法改正を検討している。そうした社会的背景を考えるならば、憲法レベルにおいて、どちらかが正しく、どちらかは間違いとする解釈方法は、そもそも間違っていると言うべきである。以下、簡単に両概念について説明してみよう。

(一) 猟官制

 これは次のような考え方である。行政の民主的コントロールという観点から見る場合には、一般職公務員といえども「これを選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である(151項)」から、個々の一般職公務員の任免にあたっても、国民が直接関与するのが妥当である。国民主権原理の下において、これは、一般職公務員の任用が国民を直接代表する国会の権能であることを意味する。そして、議院内閣制の下においては、その権限は内閣を通じて行使されることになる(734号)。すなわち、内閣は、すべての公務員を自由に任免することができる。その結果、猟官制を採用している場合には、選挙の都度、全国の公務員の相当数が、与党系の職員に交代させられる、という形を採ることになる。選挙で勝利を得た政党が官職という獲物(spoils)を得るところから、猟官制と呼ばれるのである。この方式は、わが国では大正デモクラシー以降の政党内閣の時代に採用されており、米国においても、以前に比べると相当縮減されはしたが、今日でも高級官僚の任免において採用されている方式である。

 このような猟官制による場合には、その官職に適した能力を持たない者が就任する危険は避けられないこと、行政内容が大きく政治によって左右されること、その結果、行政の連続性が阻害されることなどの弊害が発生する。

(二) 能力制

 この弊害を重要視する場合には、一般職公務員については政治から絶縁させて、能力本位に任用、昇進させるべきであるという考え方が発生する。これが能力制である。能力制を実現するためには、行政の政治的中立性を確保する必要がある。このためには、憲法734号にもかかわらず、内閣による一般職公務員のコントロール権を否定する必要がある。そのために設けられたのが、内閣から独立した行政委員会の一つである人事院である。また、政治の行政組織への不干渉を確保するためには、同時に行政組織側から政治への不干渉もまた確保されなければならない。

 こうして、一般職公務員に関して、政治的基本権の制限という問題が発生することになる。すなわち、政治的基本権の制限という問題は、一般職公務員という「特別の法律関係の存在」と、その法律関係内部を国会や内閣からの干渉から守る目的で「自律性」を確保するための代償ということができる。

 但し、この説明は、一般職公務員の能力制人事及びその必然の要求である行政の政治的中立の持つ実質的妥当性は明らかにしているが、それはいわば社会学的な説明であって、憲法学的な根拠とはならない。憲法学的には、憲法的価値基準に基づく説明が必要である。

(三) 立法経緯

 わが国国家公務員法が、現在のような形に制定されたについては、アメリカにおける公務員任用の歴史と深い関わりがある。

 アメリカにおいては、当初は徹底した民主主義理念の下に、猟官制が幅広く実施されていた。リンカーン大統領が南北戦争に勝利できた最大の要因は、猟官制の下に、戦争に反対する公務員を容易に排除できたことだと言われる。しかし、1881年に、当時のガーフィールド大統領が、ギトーという猟官者によって暗殺されるという事件が発生したことから、急激に能力性へと大きくカーブを切った。現在では、公務員のトップ人事(つまり本省の局長から課長程度)は猟官制で運用されているが、ほとんどの公務員については能力性となっている。

 わが国では、明治憲法下に政党内閣が誕生した明治311898)年当時は、基本的に猟官制が採用されていたといって良い。その後、官僚の勢力を確立しようとする有司勢力と政党勢力の対抗の間にあって、猟官制と能力制のいずれを主とするかについては、一進一退を繰り返した。大正デモクラシー以降の政党内閣時代には、完全に猟官制が確立し、下級官吏に至るまで政権党の交代により、人事が異動するのが一般的となった。昭和に入って全体主義が強まるとともに、官僚の力も強まり、昭和71932)年に犬飼政友会内閣が首相の暗殺により崩壊したことから、わが国における猟官制の歴史は終わることになる。すなわち同年に実施された文官分限令改正により、文官分限委員会が設けられ、管理の身分保障が強力になった結果、内閣の交代により官僚が罷免されることはなくなったからである。

 戦後、現行憲法が制定されたが、一般職公務員の管理について定めているその734号は、前に述べたとおり、文言及び米国法制からの継承という点から、あきらかに猟官制を予定していた、と見るべきであろう。

 問題は、ブレイン・フーバー(Blaine Hoover)を団長とする合衆国人事顧問団(United States Personal Advisory Mission to Japan)の来日にある。その中心人物であるフーバーは、能力制擁護主義者で反組合的な性格を有していたから、5ヶ月に及ぶ調査活動の結果、19476月に片山内閣に提出した報告は、単なる勧告に止まらず、具体的な法律案を作成して、その完全実施を迫る、という、第二次大戦後に米国からわが国に来た顧問団としては、かなり異色の活動となった。この法案は、フーバーに法律知識が欠けていたため、すでに成立していた憲法と整合性を欠く、独立性の強い中央人事機関(人事院)の設立や、公務員の争議禁止条項を盛り込むこととなった。そして、その完全実施を迫るため、GHQ民政局に新たに公務員課を設け、フーバー自身が初代の課長に収まって睨みを利かせるということになった。

 しかし、日本政府によって国会に提出された法案では、その中心というべき、人事院の独立的地位を保障する諸規定が削除されており、内閣に完全に従属するものと変化していたから、猟官制を可能とするものということができる。この間の経緯についてははっきりしないが、法案提出時にフーバーが日本を離れていたことを奇貨として、マッカーサー草案を作成したGHQ民政局の中心人物であるケーディスの意向により、このような変更が行われたと見られる。国会は、この法案を、さらに人事院の名称を人事委員会と替えるなど、人事院の内閣に対する独立性を弱める方向に修正したので、猟官制的傾向はさらに強まった。

 しかし、帰国したフーバーは激怒し、マッカーサーの後押しを得て、自分の作成した邦文通りに全面改正を実施させた。これが現在の国家公務員法である。

 要するに、現行の国家公務員法は憲法理念を受けて制定されたと言うよりも、憲法制定後におけるGHQからの、いわば超憲法的圧力の下で制定(改正)されたというべきであり、そのことを憲法的にストレートに説明することは不可能なのである。人事院及び人事院規則の存在は、先に述べたとおり、憲法15条及び734号に違反しているから、憲法の変遷として説明するしかない法現象と考えている。

(四) 判例の論理

 この点については、判例は次のように合憲論を説明する。

「公務のうちでも行政の分野におけるそれは、憲法の定める統治組織の構造に照らし、議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期し、もっぱら国民全体に対する奉仕を旨とし、政治的偏向を排して運営されなければならないものと解されるのであつて、そのためには、個々の公務員が、政治的に、一党一派に偏することなく、厳に中立の立場を堅持して、その職務の遂行にあたることが必要となるのである。

 すなわち、行政の中立的運営が確保され、これに対する国民の信頼が維持されることは、憲法の要請にかなうものであり、公務員の政治的中立性が維持されることは、国民全体の重要な利益にほかならないというべきである。」

(猿払事件=最大昭和4911月6日=より引用)

 この説明では、二つの論理が使用されている。前半は、行政の政治的中立性に関するわかりやすい説明である。いままでの説明を理解していれば、ここで述べられていることは、「能力制を採用しる場合には」という但書を補うべきものであることが判るであろう。すなわち、猟官制を採用している場合には、政治的中立性を要求することなく当然に「議会制民主主義に基づく政治過程を経て決定された政策の忠実な遂行を期」すことが可能だからである。それに対し、能力制を採用している場合には、公務員の地位にいる者が政権党の支持者とは限らないので、政治的中立性が要求されることになるわけである。