裁判員制度の違憲性
甲斐素直
問題
@ Xは「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」に基づいて裁判員に選任された。しかし、Xが信ずる宗教では、人を裁くのは神のみであるとして裁判員につくことを禁じていた。そこで、Xは、Xに裁判員になることを強制することは、憲法20条に違反し、違憲・無効である旨主張した。
A Yは「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」に基づいて、裁判員に選任された。しかし、Yは、同法が予定する重大犯罪について、被告人の有罪・無罪および死刑を含む決定を行うには、自分はあまりに意思力が弱いため、その責務の重大性に耐えられないと考えた。そこで、Yに裁判員になることを強制することは、憲法18条後段にいう「意に反する苦役」に該当し、違憲・無効である旨主張した。
X、Yそれぞれの主張の当否について論ぜよ。
[はじめに]
平成13年6月12日に内閣に提出された「司法制度改革審議会意見−21世紀の日本を支える司法制度−」(以下「審議会意見」という。)によって予定された裁判員制度は、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下「裁判員法」と略称する。)によって、その具体化され、すでにかなりの件数が処理されてきている。
そして、平成23年11月16日には、その合憲性に関する最高裁判所大法廷判決が下された(以下「23年判決」という。)。したがって、近い将来、この問題は国家試験レベルにも出題可能性のあるものとなったのでとりあげることとした。
新しいゼミ生もいることなので、改めて、小問形式の問題に対する答え方を説明したい。論文解答技術の基本として、絶対に覚えて欲しいのが、小問形式の問題に対して、いきなり小問の解答から開始してはいけないということである。本問のように、問題そのものが小問から始まっている場合でも、まず考えて欲しいのは、各小問に共通する統一テーマはないか、という事である。本問の場合、それは裁判員制度であることは明らかである。だから、まず論文の総論部分としてそれを書き、各論として、その具体的展開として各小問に、その総論における議論を適用するという形で書いていくべきなのである。
採点者側として、当然にそうした総論的議論が来ることを期待しているので、冒頭に、「小問(1)について」と書いてあると、それだけで、心の中で想定点数をぐっと引き下げて読み始める。実際には内容がかなり濃い場合でも、その先入観を跳ね返して高得点を獲るのは困難である。
さて、以下においては、本問に限定せず、広く裁判員制度の問題点を説明したい。
一 裁判員制度そのものの合憲性
英米流の陪審員制度をわが国に導入することは、陪審団の決定に裁判官が拘束されて判決を下すことを意味するから、わが国憲法76条にいう「裁判官の良心」に照らし、疑問が強かった*[1]。そこで、審議会意見は、それに代わって大陸流の参審員制度に類する裁判員制度を導入することとした。
裁判員は、裁判官と対等の権限で評決に参加する。その場合、裁判員と裁判官はそれぞれ独自に見解を持つことが予定されているわけである。したがって、裁判官の見解を市民参加者の意見が拘束するわけではないから、これ自体は直接には76条3項に抵触するわけではない。
ここで問題となるのは、裁判所というものは、裁判官だけで構成されなくとも違憲ではないのか、という問題である。
当然、この点に関する司法制度改革審議会の公式見解が知りたいところだが、驚いたことに、審議会では終始一貫この点についての議論を避けている。唯一ある程度踏み込んだ発言が次に紹介する竹下守夫*[2]による発言である。これをフォローする発言も否定する発言も審議会では全くないが、一応これを審議会見解と考えることにしよう。
「問題は日本国憲法では、一方で裁判所の構成員としては身分保障のある裁判官に関する規定だけを置いておって、他方、国民に裁判所の裁判を受ける権利を保障しているわけです。そのことから出てくることは、刑事訴訟について言えば、被告人は、身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪とされることはないということを保障しているのではないか。このことの重みは十分受け止める必要があると私は考えています。つまり、身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪にされることはないということですから、そこは誤解のないようにお願いしたいと思います。
他方、憲法は下級審の裁判所について言えば、最高裁の場合のように、その構成を直接に決めているわけではありません。したがって、身分保障のある裁判官以外の者が裁判所構成員になるということをすべて排除しているということは言えないのではないかと思います。
したがって、その制度が憲法の基本原則に反することなく、かつ、先ほど言ったように身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪とされることはないという保障の趣旨を損うものでなければ、合憲と考える余地があると思われるわけです。
例えば、仮に裁判員に評決権を認めても裁判体の構成とか、評決の方法とか、上訴審の在り方等いかんによっては、裁判を受ける権利の保障と抵触しない制度を構築することも可能であろうと思われるわけです。」
(平成13年1月30日第45回審議会議事録より引用)
この発言は、まったく条文を引用せずに行われているので、後半部分に関して補充すると次のようになる。最高裁については、79条1項で「その長たる裁判官及び法律に定めるその他の裁判官でこれを構成し」とあるから、裁判官、すなわち憲法78条で身分保障が与えられている者以外はその構成員となることはできない。それに対して、下級審には裁判官のみで構成するという規定が憲法のどこにもない。したがって、裁判官以外の者が裁判所の構成員になっても違憲ではない、ということである。説得力のある見解ということができよう。
23年判決も、次のように述べて、この見解を承継した。
「憲法80条1項が,裁判所は裁判官のみによって構成されることを要求しているか否かは,結局のところ,憲法が国民の司法参加を許容しているか否かに帰着する問題である。既に述べたとおり,憲法は,最高裁判所と異なり,下級裁判所については,国民の司法参加を禁じているとは解されない。したがって,裁判官と国民とで構成する裁判体が,それゆえ直ちに憲法上の『「裁判所』に当たらないということはできない。」
以下、23年判決は、裁判員法の詳細な説明を行い、それを受けて次のように結論する。
「このような裁判員制度の仕組みを考慮すれば,公平な『裁判所』における法と証拠に基づく適正な裁判が行われること(憲法31条,32条,37条1項)は制度的に十分保障されている上,裁判官は刑事裁判の基本的な担い手とされているものと認められ,憲法が定める刑事裁判の諸原則を確保する上での支障はないということができる。
したがって,憲法31条,32条,37条1項,76条1項,80条1項違反をいう所論は理由がない。」
これ自体は妥当な見解と言えるであろう。学説的に特に異論は見当たらない。しかし、そのことと、本問で問題にしている諸点の合憲性はまた別の問題である。
二 被告人の拒否権否定について
現行裁判員法の問題の第一は、裁判員の参画を被告人として拒否できる制度になっていないことである。この点は、本問では論点ではないし、23年判決においてもなぜか上告人が全く主張しなかったが、本問で取り上げている裁判員の拒否権と並んで、大変問題のあるところなので、簡単に見てみよう。
かつて、学説は、陪審制度を例え認めるとしても、それを被告人に強制することは許されないとしていた*[3]。これは、陪審制度を導入する論理的基盤をどこに求めるか、という議論と直結する。
それが自由主義に基づく制度であると理解する場合には、それを選ぶか否かは被告人の自由にまかされるべきである。現実にも、イギリスにおいては、陪審制度は自由主義に基づく制度と理解されているため、そのような選択権が認められており、その結果、現実問題として陪審は滅多に使用されることはなくなっている*[4]。
先に、裁判員法全体の合憲性で論じたように、現行憲法は、確かに旧憲法と異なり、裁判官による裁判を保障しているわけではない。しかし、同時に裁判官による裁判を原則としていることは明らかである。したがって、その原則を覆せるだけの立法理由があって、はじめて拒否権の剥奪が可能となる。
審議会意見は、拒否権を認めない根拠として、次のように述べる。
「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである以上、訴訟の一方当事者である被告人が、裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して裁判官のみによる裁判を選択することは、認めないこととすべきである。」
民主主義的契機を重視する場合には、審議会意見の指摘するように拒否権を認めるべきではないのかも知れない。しかし、報告のいう民主主義的契機とは、次のような概念であるに過ぎない。
「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・支持が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる。」
これを受けて、裁判員法第1条は「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」ことが立法目的だと述べる。
この理由付けから見る限り、裁判員制度そのものが民主主義的な性格を持っているのではなく、単に国民の司法に対する理解・支持を深める契機になるというだけの意味に過ぎない。この点は、23年判決も全く同じ理解を示す*[5]。
この程度の理由が、刑事基本権が保障されている被告人の拒否権を覆すだけの理由となるかは疑問のあるところである。裁判員による刑事裁判が、死刑判決があり得る重大事件に限定されていることを考えると、被告人に、自らの裁判の形態を選ぶ権利を全く否定できるとは思えないのである。現実に、これまでの裁判員裁判の判決は、裁判官による判決よりも厳罰傾向を示していると言われる。それなのに、拒否権を認めないことは被告人の権利という観点からはゆゆしき問題である。
しかし、これは今回の問題とは関係がないので、ここでは、これ以上は論じない。将来、出題可能性は十分にあるので、各自で研究しておいて欲しい。
三 裁判員候補者の拒否権
今一つの大きな問題が、本問の中心問題である、裁判員候補者の定め方である。23年判決は、明確にわが国裁判員制度が大陸諸国の参審員制度の影響を受けていることを認めている*[6]。しかし、それら欧州各国の制度では、いずれの国においても、一般に本人が参審員になることを希望した者の中から選任する方式を採用する。しかし、審議会意見は、先に述べた民主主義的契機を重視するためとして、希望者から抽出するのではなく、無作為抽出方式をとることとした。すなわち、
「新たな参加制度においては、原則として国民すべてが等しく、司法に参加する機会を与えられ、かつその責任を負うべきであるから、裁判員の選任については、広く国民一般の間から公平に選任が行われるよう、選挙人名簿から無作為抽出した者を母体とすべきである。」
しかし、このような方式をとる場合にも、希望しない者に対しては、当然に拒否権が考えられるべきである。ところが、これについても、審議会意見は、次のようにきわめて限定的な姿勢をとった。
「裁判員選任の実効性を確保するためには、裁判所から召喚を受けた裁判員候補者は出頭義務を負うこととすべきである。ただし、健康上の理由などやむを得ないと認められる事情により出頭できない場合や、過去の一定期間内に裁判員に選任された場合など一定の場合には、その義務を免除されるものとすべきである。」
こうした意見に基づいて制定された裁判員法は、大略次のように定めている。
裁判員候補者とされた者は、裁判所の呼び出しに対して出頭する義務を有し(29条)、裁判員になることを辞退する権利は、同法16条に限定的に列挙された事由に該当する場合に限られている。そして、出頭義務に違反した場合には、10万円以下の過料に処せられる(同83条)。
そこで、問題は、辞退理由が憲法上想定されるものを網羅したものとなっているか否かである。16条にあげられている者のほとんどは、年齢70年以上の者とか、地方公共団体の議会の議員であって、会期中の者といった形式的なものである。唯一、実質的な内容を定めている8号は、次のように述べている。
「次に掲げる事由その他政令で定めるやむを得ない事由があり、裁判員の職務を行うこと又は裁判員候補者として第27条第1項に規定する裁判員等選任手続の期日に出頭することが困難な者
イ 重い疾病又は傷害により裁判所に出頭することが困難であること。
ロ 介護又は養育が行われなければ日常生活を営むのに支障がある同居の親族の介護又は養育を行う必要があること。
ハ その従事する事業における重要な用務であって自らがこれを処理しなければ当該事業に著しい損害が生じるおそれがあるものがあること。
ニ 父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務であって他の期日に行うことができないものがあること。」
簡単に要約すればここでは、精神的自由権に基づく拒否権が定められていない。そして、「その他政令*[7]で定めるやむを得ない事由」としても、ほとんどは形式的な理由である。その最後の6号に次のものが定められているにとどまる。
六 前各号に掲げるもののほか、裁判員の職務を行い、又は裁判員候補者として法第27条第1項に規定する裁判員等選任手続の期日に出頭することにより、自己又は第三者に身体上、精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由があること。
すなわち、政令まで降りてきても、依然として精神的自由権に基づく拒否権が予定されておらず、本問が問題としている信教の自由や意に反する苦役からの自由は、この最後の6号まで来て、ようやく個々の裁判官の裁量に委ねられる形で認められる可能性が匂わされているだけであり、明文による保障がなされていない。このことは、それ自体として違憲の疑いが濃厚である。
米国の陪審制度の場合であれば、憲法そのものに「弾劾の場合を除き、すべての犯罪の審理は陪審によって行われなければならない」(3条2節3項)とされているから、いわばこの反面として、市民に陪審員になる義務を課することが憲法上認められていると考えることが可能である。
それに対して、わが憲法の場合には、先に23年判決の抜粋の形で示したとおり、司法への国民参加を明確に予定した規定はまったく存在しない。憲法上、国民に対して義務を課することができるのは、12条の憲法が保障した自由の保持義務、26条2項の教育義務、27条の勤労の義務、30条の納税義務程度しか存在していない。陪審制度を、イギリス法のように自由主義に基づいて説明する場合には、12条から義務を引き出す可能性は存在するであろう。しかし、民主主義的意義から、それも間接的意義しか持たないものから説明する場合には、それも無理といえる。
大陸法系の参審制の場合、参審員になるにあたっては本人の同意が要件となっていることを考え合わせると、この法律における義務性を、人権を制限しても認められるべきだと説明することの困難性はより明確であろう。
ここまでが、本文で言えば総論の議論である。これを受けて、以下、各小問に対して、節を分けて具体的に検討しよう。
四 宗教的理由に基づく拒否権
裁判員制度と宗教は、きわめて重要な問題であって、例えば、宗教法学会では、2010年に開催された第61回宗教法学会において、創立30周年記念シンポジウムを開催し、そのテーマとして「裁判員制度と信教の自由」を掲げているほどである。したがって、諸君としても、持てる憲法知識をフルに動員して慎重に検討しなければいけない。
「はじめに」で述べたとおり、信教の自由は精神的自由権の代表的存在であり、二重の基準論に照らせば、それを保障していない立法の合憲性を司法審査するに当たっては、一般の場合よりも、より厳格度を増した基準を採用するべきである(この点、個々では手を抜いているが、諸君の論文では簡単で良いから理由を書くこと)。そこで、厳格な審査基準が妥当すると考えられる、と一般に考えられている(と諸君は書いてはいけない。諸君の論文では常に理由が必要)。厳格な審査基準は、司法積極主義の下、立法を違憲と推定し、国に反証を求める(つまり、信教の自由等に配慮した条文が無いことにより、自動的に裁判員法は違憲と推定され、合憲性を主張する国の側が挙証責任を負う。)。反証は次の二点に要求される。
@ 立法目的が正当であること、
A 立法目的を達成するために採用された手段が、立法目的の持っている「やむにやまれぬ利益(compelling interest)」を促進するのに必要不可欠であること、
もちろん、二重の基準の要求する、より厳格度を増した基準という要求は、厳格な合理性基準によって満たすこともできる(どちらを妥当とするかについても、諸君の論文では理由を書くこと。)。それが妥当と考える場合には次の二点である。
ア 立法目的が重要な国家利益 important government interest に仕えるものであり、
イ 目的と手段の間に「事実上の実質的関連性 substantial relationship in facts」が存在することを要求
立法目的の正当性については、先に論じたとおり、「一般の国民が、裁判の過程に参加〈中略〉によって〈中略〉司法はより強固な国民的基盤を得ることができる」ということである。厳格な審査基準が必要と考える人の場合、少々微妙な点はあるが、一応「正当であること」と言えそうである。厳格な合理性基準で十分と考えている人の場合には「重要な国家利益に仕えている」ということは問題なく肯定できる。
問題は目的と手段の関係である。信教の自由を憲法が保障するとは、公権力が信教の自由を制限することはなく、また、特定の信仰を持ち、あるいは持たないことを理由として、どのような不利益も与えられることがないことを意味している。日曜参観日欠席処分取消請求事件において、東京地方裁判所は、次のように述べている(昭和61年3月20日判決)
「信仰に基づいて、国法上義務づけられた行為その他の行為を行うことを拒否した場合にも(その法義務が実質的にみて是非遵守されなければならないほど重大な公共的利益に仕えるものでなかつたり、あるいは、それによつて他人の人権を侵害する結果を招来するものでないかぎり)、これに対し何らかの不利益を課することは信教の自由の侵害そのものであり、そのような法義務を課すること自体が違憲となるというべきである。そして、人が一方でその信仰に従うならば一定の不利益を受けざるをえなくなり、他方で法義務を容認するならば自己の信教の自由の行使を放棄せざるをえなくなるというような選択を余儀なくされることは、それ自体憲法上の信教の自由を危殆に陥れるものである。」
非常に正しい指摘というべきである。特に括弧書きに注目しよう。この判例は、厳格な合理性基準を使用していることが判る。これに従えば、裁判員制度というものが、「実質的にみて是非遵守されなければならないほど重大な公共的利益に仕えるもの」かどうかが、ここでの判断のポイントになるのである。
その場合、先に述べたとおり、裁判員制度は、自由主義や民主主義の直接の要請ではなく、裁判員という経験を多くの国民が積むことにより、一般国民の裁判に対する理解が深まるであろうことを期待し、それを通じて司法の国民的基盤を強化したいという、極めて間接的な狙いによって導入されたものである。そうであれば、これは到底是非遵守されなければならないほどの重大な公共的利益に仕えるものということはできない。
他方、実際にも、裁判員制度への参加の強制は、信仰と抵触する可能性が高い。
なぜなら、裁判員の関与する事件数を、予算の関係からできるだけ減少させるという狙いから、裁判員法2条は次の場合に限定しているからである。
一 死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件
二 裁判所法第26条第2項第2号に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るもの(前号に該当するものを除く。)
ここに引かれている裁判所法26条2項2号とは、要するに強盗、事後強盗等である。
このため、裁判員は常に死刑を選択の一貫して迫られることになる。これは生命の尊重を基本理念とする多くの宗教と衝突することになる。
その結果、すでに様々な宗教団体が、宗教的理由に基づく拒否を想定している。例えばカトリック教会の裁判員制度に対する拒否姿勢は明確である*[8]。あるいは、真宗大谷派(東本願寺)も、裁判員制度に対する見直しを求める声明を発表している*[9]。
裁判員法16条は、「父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務」に基づく拒絶を認めている。この場合の葬儀というのは、通常は宗教上の儀式であり、それが拒絶理由になるということは、法そのものが、宗教的理由による拒絶を、部分的にではあれ、予定しているということを示している。そうであるのに、より根源的な信仰に抵触することを理由として拒絶する自由を法律レベルはおろか、政令レベルでさえも認めず、現場裁判官の裁量に委ねていることは、立法の不作為であって、違憲の可能性がきわめて高いといわざるを得ない。
五 意に反する苦役
信教の自由と異なり、意に反する苦役という言葉については、わが国憲法学では従来ほとんど議論されておらず、わかりにくい。裁判員制度については、しかし、平成23年11月16日に最高裁判所大法廷判決が出たことは先に触れたとおりである。
同判決は、意に反する苦役について次のように述べている。
「裁判員としての職務に従事し,又は裁判員候補者として裁判所に出頭すること(以下,併せて「裁判員の職務等」という。)により,国民に一定の負担が生ずることは否定できない。しかし,裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。このように,裁判員の職務等は,司法権の行使に対する国民の参加という点で参政権と同様の権限を国民に付与するものであり,これを『苦役』ということは必ずしも適切ではない。また,裁判員法16条は,国民の負担を過重にしないという観点から,裁判員となることを辞退できる者を類型的に規定し,さらに同条8号及び同号に基づく政令においては,個々人の事情を踏まえて,裁判員の職務等を行うことにより自己又は第三者に身体上,精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由がある場合には辞退を認めるなど,辞退に関し柔軟な制度を設けている。加えて,出頭した裁判員又は裁判員候補者に対する旅費,日当等の支給により負担を軽減するための経済的措置が講じられている(11条,29条2項)。
これらの事情を考慮すれば,裁判員の職務等は,憲法18条後段が禁ずる『苦役』に当たらないことは明らかであり,また,裁判員又は裁判員候補者のその他の基本的人権を侵害するところも見当たらないというべきである。」
この判決にはかなり疑問が多い。分析してみよう。
この判決は「苦役」という概念が、「意に反する」という概念を離れて客観的に確定できるものという想定を行っている。しかし、ある作業が苦役かどうかは実は主観的なものである。憲法18条は「意に反する苦役」の代表的なものとして「刑罰」をあげている。しかし現実に懲役刑で課されている労役は、家具の生産その他、一般の社会人が、その職業として行っているものと同一であって、それ自体は特に苦痛と感じるものではない。それを意に反して強いられる点に懲役刑が苦役となる理由がある。また、政府の公式見解が、徴兵制の導入をこれに該当するものとしている*[10]。この場合も、軍務そのものは自衛隊員が職業として行っている活動であって、ことさらに苦痛を与えることを目的としたものではない。意に反して軍務に就かされる場合に、18条との抵触が考えられるのである。
このように見てくると、本人が欲しない行為を公権力が強制する場合が基本的にそれに当たると考えることができる。すなわち、これは「意に反する」に力点があるのであって、「苦役」という客観的概念が存在するわけではない事は明らかである。
なお、この判決は、裁判員に対する参加が苦役に該当しない論拠として、それを参政権になぞらえている。しかし、現行の参政権制度には、参加を、刑罰を以て強制するという制度は存在していない。若しそれが存在していれば、参政権についても意に反する苦役として違憲となる可能性は高い。例えば、「エホバの証人」の信者は、地上の政治体制に協力してはならないという教義を持っており、その為、選挙に立候補することはもちろん、投票に行くことも禁じられる。したがって当然、選挙で選ばれる職には就くことができない。学校生活においても例外ではなく、信者を親に持つ子供は学級委員の選挙等に参加することができないのである。
このように、「意に反する」という点に重点があることを重視すれば、18条は精神的自由権に属する。通説は身体的自由権と考えているが、その場合においても、二重の基準においては、精神的自由に準じて考えるべきことは明らかであるので、それが精神的自由に近い存在であるといえる。したがって、厳格な審査を行うべき点で、信教の自由と違いはない。その場合、先に信教の自由で論じたのと同様に、裁判員法において採用している方法が、それをクリアできるとは考えられない。
今、「意に反する苦役」という言葉自体は、必ずしも一般的に苦痛をもたらすものである必要はない、と述べた。しかし、現実に苦痛をもたらすものであれば、なお、確実に意に反する苦役ということができる。そこで、ここで裁判という活動の、人々の心に与える負担について簡単に紹介しよう。結論的にいうと、それはかなりの精神的苦痛を伴う作業なのである。
諸君は法曹一元という言葉を知っていると思う。現状としては、その入り口である司法試験及び司法修習の段階だけがそれであって、特に裁判官と弁護士の間の人的交流は極めて低調である。その結果、裁判官は官僚化する傾向を示し、裁判が市民の日常感覚から遊離することの問題性は、審議会意見でも次のように指摘されているところである。
「裁判所法は、判事補のみではなく、弁護士や検察官など判事の給源の多元性を予定しているが、運用の実際においては、判事補のほとんどがそのまま判事になって判事補が判事の主要な給源となり、しかも、従来、弁護士からの任官が進まないなど、これを是正する有効な方策を見いだすことも困難であった。こうした制度運用の経緯、現状を踏まえ、国民が求める裁判官を安定的に確保していくことを目指し、判事となる者一人ひとりが、それぞれ法律家として多様で豊かな知識、経験等を備えることを制度的に担保する仕組みを整備するほか、弁護士任官の推進、裁判所調査官制度の拡充等の施策を講じるべきである。」
ここで、問題は、なぜ弁護士からの任官が進まないか、である。そこに裁判というものの持つ精神的負担という問題がある。現実に弁護士から判事に任官された経験を持つ獨協大学教授高木新二郎は、これまでに弁護士から任官した人々が、判決を書くということに困難を感じることが多いからだと指摘している。
「ベテラン弁護士と思われていたのに、裁判官になってから心身の健康を損ねて長期病欠中の人もいる。通常単独事件を担当しているものの、事件を溜めてしまうために、配分を半分またはそれ以下に軽減せざるを得ない人、あるいは調停等を含む判決を書かなくとも済む仕事、つまり、英米では地裁以上の裁判官(Judge)ではなく、簡裁判事に相当する者または補助職(Magistrate等)が担当する仕事についている人も少なくない。やむを得ず簡裁に移ってもらった人もいる。」*[11]
すなわち、一般市民ではなく、司法試験に合格して長年弁護士活動をし、日弁連から特に委嘱されて裁判官に任官したという、いわばエリートでさえも、そして、民事紛争の判決を下すというだけのことで、それほどのストレスを感じるのである。
裁判員が直面する問題は、その比ではない。先に述べたとおり、裁判員法2条は死刑が選択計としてある犯罪だけに裁判員の関与を限定しているからである。したがって、裁判員は、死刑にするか否かという深刻な決断に迫られる可能性は極めて高い。しかも、その判断に当たっては、裁判員や補充裁判員は、検察側の冒頭陳述などで残酷な犯行状況を聞いたり証拠として示された悲惨な遺体の写真を見たりしなければならない。
この結果、裁判員らが精神的なショックを受けるという事は、すでに大きな問題となっている。実際、最高裁は、PTSDに掛かった裁判員の心のケア対策を導入している*[12]。
本問のようにそれを恐れて拒否した場合に、現場裁判官の裁量によりそれが認められなければ、刑罰による威嚇を以て強制する制度は、違憲と考えるのが妥当であろう。
*[1] 英米流の陪審制度を導入することを肯定する論者も、その主張内容は、陪審員団の評決を参考にできるというにとどまり、拘束力を持たせることができると主張する学者は皆無であった。その点は、大正12年に制定され,昭和3年から480件余りの刑事事件について陪審裁判が実施され,戦時下の昭和18年に停止された陪審法も同様であった。
*[2] 竹下守男は、この当時は一橋大学教授であった。専門は民事手続法であって、憲法学者ではない。1990年から1992年まで日本民事訴訟法学会理事長。一橋大学を退職後、駿河台大学第4代学長、学校法人駿河台大学第2代総長を歴任。現在は日本学士院会員。
*[3] 例えば、宮沢俊義著・芦部補訂『日本国憲法』601頁参照
*[4] ショーン・エンライト他著『陪審裁判の将来ー90年代のイギリスの刑事裁判』成文堂1991年刊参照
*[5] 23年判決は例えば次のように述べている。
「裁判員法1条は,制度導入の趣旨について,国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することを挙げており,これは,この制度が国民主権の理念に沿って司法の国民的基盤の強化を図るものであることを示していると解される。」
*[6] 23年判決は、陪審制度の違憲性と、現行制度の欧州における参審制度との関わりについて次のように述べる。
「憲法の制定に際しては,我が国において停止中とはいえ現に陪審制が存在していたことや,刑事裁判に関する諸規定が主に米国の刑事司法を念頭において検討されたこと等から,議論が陪審制を中心として行われているが,以上のような憲法制定過程を見ても,ヨーロッパの国々で行われていた参審制を排除する趣旨は認められない。」
*[7] 裁判員の参加する刑事裁判に関する法律第十六条第八号に規定するやむを得ない事由を定める政令(平成二十年一月十七日政令第三号)
*[8] 日本カトリック教会は、次のような見解を公にしている。
「日本カトリック司教協議会は、すでに開始された裁判員制度には一定の意義があるとしても、制度そのものの是非を含め、さまざまな議論があることを認識しています。信徒の中には、すでに裁判員の候補者として選出された人もいて、多様な受け止め方があると聞いています。日本カトリック司教協議会は、信徒が裁判員候補者として選ばれた場合、カトリック信者であるからという理由で特定の対応をすべきだとは考えません。各自がそれぞれの良心に従って対応すべきであると考えます。市民としてキリスト者として積極的に引き受ける方も、不安を抱きながら参加する方もいるでしょう。さらに死刑判決に関与するかもしれないなどの理由から良心的に拒否したい、という方もいるかもしれません。わたしたちはこのような良心的拒否をしようとする方の立場をも尊重します。
2009年6月17日、日本カトリック司教協議会
〈中略〉
なお、聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員に対しては、教会法第285条第3項「聖職者は、国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる」の規定に従い、次の指示をいたしました。(修道者については第672条、使徒的生活の会の会員については第739条参照)
1 聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員の候補者として通知された場合は、原則として調査票・質問票に辞退することを明記して提出するように勧める。
2 聖職者、修道者、使徒的生活の会の会員が裁判員候補を辞退したにもかかわらず選任された場合は、過料を支払い不参加とすることを勧める。」
出典= http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/090618.htm
*[9]毎日新聞 2010年11月23日 地方版より
「裁判員制度:見直しを求め、真宗大谷派が声明
真宗大谷派(東本願寺、京都市下京区)は22日、横浜地裁の裁判員裁判で死刑判決が言い渡されたことを受け、裁判員制度の見直しを求める声明を発表した。
同派はこれまでも死刑廃止を求め提言している。今回は、安原晃・宗務総長名で『死刑で人の命を奪うことに苦悩する人(裁判員)を新たに生み出している』と指摘、同制度について『裁判員の辞退を容易に認めず、罰則によって義務づけ、国民に物心両面にわたる負担を強いている」としている。」
*[10] 第61回衆議院内閣委員会(昭和44年6月24日)において、内閣法制局長官高辻政府委員は「徴兵・兵役は日本国憲法(第18条)で禁じる“意に反する苦役”であり、違憲である」との見解を示している。
*[11] 高木新二郎『弁護士任官裁判官』社団法人商事法務研究会刊、17頁より引用
*[12] 読売新聞(2009年6月14日)の報道するところに依れば、付けの裁判員裁判で悲惨な事件の審理に参加し、精神的なショックを受けた裁判員らの心のケアを充実させるため、最高裁は、臨床心理士らによるカウンセリングを5回まで無料で受けられるようにする方針を決めた、という。