予算と法律

甲斐素直

問題

 法律と予算の不一致がどのような場合に生ずるか。その原因を説明し、不一致が生じた場合の国会と内閣の責務について論ぜよ。 (平成2年憲法第2問)

[論文作成のポイント]

 教科書のレベルでは、予算と法律という項があっても、それはいきなり予算の説明から入っている。そこで、教科書を通読せず、つまみ食い的に読んでいる諸君の場合、それをそっくり真似して、予算についてだけ説明して終わりにしてしまう。そういう答案構成をした段階で、その内容を問わず、それは落第答案である。

 あらゆる論文は、基本書のダイジェストでなければいけない。諸君の基本書が、法律と予算というテーマに対して予算の説明だけを行い、法律についての説明の手を抜いているのは、法律については、その100頁以上も前で、実質的意味の立法という概念を通じて十分に詳しく説明しているからに他ならない。したがって、法律について、諸君としては説明しないことには、本問に対する正しい答にはならないのである。

 すなわち、本問では、第1に、法律の概念をまず論じ、第2に、予算の概念を論じ、それを受けた形で、第3に両者の相違点を指摘し、それを受けて第4に、両者の関係、すなわち本問の場合でいえば、予算と法律の不一致の問題が論じられる、というのが、必然的な答案構成である。これ以外の答案構成は、すべて考慮に値しない。もっとも、1と2を融合させて、記述を簡略化するという工夫は当然許される。以下段階を追って説明する。

一 総説

 なぜ私のゼミでは、入室試験の問題として「41条について論ぜよ」という問題を毎年出しているのか。その答は単純で、この問題で何を書くべきかを理解して居さえすれば、少なくとも統治機構の領域で出る問題は総て解答可能だからである。いつも強調するように、憲法では理由は上から来る。だから、統治機構の問題で、何を書いたらよいか判らなかったら、この問題に立ち返って考えればよい。

 すなわち、統治機構を支配している原理は、自由主義と民主主義である。それぞれの法領域で、両者のいずれが、どの範囲で優越するかが常に統治機構論の争点となる。

 本問に関して、入室問題の解説で述べたことを適用すると次の様に説明できる。

 自由主義から権力分立が導かれる。その権力分立制の一環として、国会は立法権を有する。そこにいう立法権とは、実質的意味の立法、すなわち対国民的な一般性ある法規範の定立をいう。これについては、入室問題の解説で説明したので、ここでは説明を省略する。

 それに対して、民主主義は権力の統合を求める。憲法前文は次の様に述べる。

「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」

 つまり、国民という一点において、権威も権力も福利も統合されているのである。

 近代国家は、財源がない限り活動することはできない。国家の主権者=所有者が国民である以上、その資金を国家に供給するのは当然に主権者たる国民の責務である。それと同時に、主権者はその供給した資金について決定する最終的な権限を有する。すなわち、国民主権原理は、必然的に国民中心財政主義を要求する。

 そして、我が憲法が狭義の国民主権原理にしたがっていると考えた場合、その理解の下においては国民には機関性がないから、民主主義原理の下において現実に国権の最高機関として活動するのは国会ということになる(憲法41条)。これを財政に適用すると、国会中心財政主義(憲法83条)が導かれる。

 自由主義に基づく立法権は、法律という名称の法規範の定立という手段により行使される。法律は、一般的・抽象的規範を先行的に示し、法治主義の下、行政権及び司法権がこれを個別・具体的に個々の国民に対して適用していく。したがって、立法に遡及的効力を認めることは原則として許されない。

 これに対し、財政は上述の通り民主主義という統合的原理に従っているから、区分的に現れることはない。一般的・抽象的に行使することもできるし、個別的・具体的に行使することもできる。また、過去に対しても(つまり遡及的)、現時点においても、そして将来に向かっても行使することができる。過去に向かって行使される場合を決算審査と呼ぶ(憲法90条)。現時点での国会の財政コントロールは常に国会における論戦の中で行われている(憲法91条)。それに対して、未来に向けて行われる個別・具体的財政コントロール手段を予算という。

二 法律という概念について

 この問題については、入室試験の解説で指導したところなので、ここでは内容の詳しい説明はしない。本問では、法律に対比するのは予算だから、法律に関するあらゆる論点を虱潰しに論じる必要はない。予算との相違点となるところを集中的に簡略に紹介すればよい。ここで注意する必要があるのは、予算の法的性格をどのようにとらえるかで、41条についての書き方が変わることである。すなわち予算を法律とは異なる特殊な法規範と考えるか、あるいは法律の一種と考えるかの違いである。諸君の中には予算法律説をとる人はいないと思われるので、ここでは予算法規範説だけを念頭に説明する。

 第一に二重立法概念を論じる。

 第二に実質的意味の立法概念内容としての一般性が論点となる。予算で個別・具体性が論点となるためである。

 第三に提案権者を論ずる。これも憲法86条が予算の提案権者を内閣としていることとの対比で問題となる。国会単独立法主義を基礎に、議員が提案者になるのが原則である点を強調する。

 第四に法律の場合には両院対等の原則から、法案はどちらに提出しても良いこと、ただし衆議院に一定の優越が認められていることを論ずる。これも、予算については衆議院先議と定められていることとの対比で必要となる。

 以上が最低限の論点といえる。以上説明したように、絞り込んでもかなり論点が多いのだが、本番を想定すれば、時間と紙幅の限界から、入室試験並みに書けば時間切れとなる。数多い論点をどのようにダイジェストするかが、ここでの勝負の分かれ目となる。

三 予算の概念

(一) 予算概念の厳密な決定の必要性について

 現行憲法において、予算という名称の付される法規範には、様々な特殊な取扱いが認められている。特に重要なのは、予算が通常の法律と異なり、憲法60条の定めるところにより、衆議院に圧倒的な優越が認められている点である。一方の院に圧倒的な優越を認めるということは、二院制の前提である両院対等の原則に対する大きな例外である。このような例外的な取扱いの許容は、そうすることが必要な内容だけに限定されなければならないのは当然であろう。すなわち、実質的意味の予算に本来属さない事項であって、国会の議決を必要とする事項については、例え、財政に関する問題であろうとも、原則に戻って、両院対等の議決権を認めなければならない。また、それが法規範としての性格を有するものであるならば、衆議院に憲法592項の認める優越を認めるにとどめるべきである。

 フランスにおいて、第三共和制時代(1870年~1940年)に、予算における特別の取扱いを利用する意図から、非常に広い範囲の法規範を、予算の一部として盛り込み、成立させるという、いわゆる「抱き合わせ」という手法が横行した。今、日本でこれが可能であれば、ねじれ国会など何の問題にもならない。あらゆる立法は程度の差こそあれ財政と関わりがあるに決まっているから、政府は問題となる可能性のある法律は、総て予算の一部として制定すれば足りることになるのである。

 その防止のため、その後のフランス憲法では「厳密に財務に関係する事項に限る」とするような限定が加えられたにもかかわらず、この抱き合わせを根絶することができなかった。このために、現行の第五共和制憲法の下においては、予算組織法により、予算に計上しうるものを限定列挙することで対応するまでに至っている。

 わが国の場合にも、何が実質的意味の予算かを論ずる目的は、まさにこの点にあるといわなければならない。実質的意味の予算に属さない事項を、予算としての法形式を利用して、衆議院の優越の下に議決する行為は、両院対等の原則を潜脱している、という意味において、まさに違憲の行為と評価しなければならないはずである。その意味で、今日の学者の予算の定義が一般に非常に漠然としたものであることは、問題である。

 一方、明確な定義を下している場合もないではない。その妥当性については、項を改めて検討したい。しかし、それらの定義の問題点を予め指摘すれば、一般に狭きに失し、現行の予算の相当部分を、実質的意味の予算に該当しないものとしている点にある。その場合には、先に述べた予算概念の意義からすれば、現行予算は両院対等原則違反として違憲と非難しなければならないはずなのに、自らの定義からはみ出した予算内容についての、そうした問題意識は示されていない状況にある。

(二) 従来の学説とその問題点

  1 明治憲法時代の学説

 美濃部達吉は、予算について論じて「国家の歳入及歳出の見積表」と述べて、歳入歳出予算のみを予算とし、かつ、その内容は見積表であって法規範性を持たないとした。宮沢俊義に至っては「すべて国庫金の支出は必ず予め定められた正文の準則によって為されるを要する。そうした準則を実質的意味の予算または予算法という」と述べて、歳出予算だけは予算だが、その他の予算は実質的には予算ではないという姿勢を示した。

 こうした発想は、自由国家、夜警国家の理念を前提として、財政を静的モデルで捉えるところから来たものと考えられる。すなわち、夜警国家理念の下においては、国の財政は国家経済に対して極力中立的であるをもって最善とした。したがって、国の予算を考えるに当たって、予算の全体規模というものを考える必要はなかった。こうした夜警国家観に基づく理念を忠実に受け継げば、歳出予算だけが予算だという発想に至るのは当然である。佐藤丑次郎は「国の歳入はその歳出によって定まり、その歳出は政府のなすべき施設によりて定まる」とのべている。すなわち「出るを図って入るを制する(中国の古典『禮記』の一節)」という思想は、夜警国家的財政論理を端的に示したものと言うことができる。

  2 現行憲法下の学説

 憲法83条により国会中心財政主義が定められ、また明治憲法623項に相当する条文がなくなり、代わって85条により、国家機関に支出する権限の授与(以下、「支出授権」という)と債務を負担する権限の授与(以下、「契約授権」という。)の二つを明確に国会の権限と定めたことにより、予算の内容は大きく変化した。

 しかし、それにも関わらず、こうした予算に関する学界の見方は基本的に変わることはなかった。すなわち先に言及した曖昧な定義を除くと、依然として戦前に、美濃部、宮沢等のたてた定義の延長、すなわち「予算とは一会計年度の歳入歳出の見積もりを内容とする財政行為の準則」とする定義が行われている、といえるであろう。

 こうした定義は、今日の福祉国家における動的な財政活動の準則としての機能を正確に把握したものではない、と考える。

 この定義が問題なのは、特に次の二点である。

 第一に、「主として」という言葉をはずした結果、実質的意味の予算とは、歳入歳出予算に限るとし、予算総則、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為という、現在、予算の重要な内容となっているものは、単に形式的予算にすぎないとしている点である。この定義が正しければ、これらを予算に計上して簡易迅速な手続で成立させるのは誤りであって、戦前のように、法律で可決すべきことになるのである。が、そこまでの問題意識を持って主張されているのではないようである。

 第二に、歳入歳出予算についても、それを単に一年間の収入支出の見積もりにすぎないとしている点である。見積もりという言葉は、通常の法律用語ではなく、また、法律上に定義の存在している言葉でもないので、これで何を含意しているのかは判然としない。広辞苑によれば、見積もりとは「あらかじめ大体の計算をすること」となっており、要するに概算を意味する。これは戦前において佐藤丑次郎の示した見解と同一のものではないかと思われるが、そうした単なる概算という発想による限り、福祉国家における予算の法規範性を正確に把握できないのは当然であって、やはり正しいものと言うことはできない。

(三) 予算の定義

 以下に現行憲法下における予算概念について、私見を示し、その根拠を論じたい。

「予算とは、一会計年度にかかる、国の支出及び債務負担に関する権限を行政庁に授与することを目的とする具体性ある法規範を、悉皆的にとりまとめたもの」

をいう、と考える。これを分説すると、次のとおりである。

  1 財政準則という表現を排した点について

 憲法83条は、国会中心財政主義を明記し、単に国会自身のみならず、行政や司法も含む国の財政処理のすべてを国会の議決にかからしめることを定めた。予算は、この国会の有する財政権の基本的な表現形態である。その意味で、従来の定義が指摘しているとおり、予算が財政に関する準則(準拠すべき法規範)であることは間違いない。

 しかし、財政に関する準則は、予算以外にも様々なものが存在している。狭く解して毎年度作成するものに限っても、予算編成作業の際には、狭義の予算のほかに、俗に第二の予算と言われる、財政投融資計画および租税特別措置法案の編成作業も同時並行で行われている。こうした財政に関する様々な法規範の存在を考えるとき、単に財政準則という表現で、予算を、他の法規範から識別できると考えることはできない。予算の内容により密着した識別のメルクマールが必要となると考えるべきである。

  2 一会計年度

 予算の特徴の第一は、一会計年度単位で作成される点にある。これは、財政権に関しては、権力分立制の採用が不可能という点に起因している。

 権力分立制は、主権者たる国民が、それに代わって権力を行使する者から害される事態を防ぐために、人類が重ねた多年の努力の結果、認識された手法であり、軽々に排除することは許されない。そして、国家機関は、基本的に財政的基盤なくして活動できない。その観点から見た場合には、財政権は、自律権の基本的要素と考えられなければならない。事実、個人レベルにおける財政権、すなわち俸給受領権に関しては、憲法は、議員及び裁判官に関して明文でこれを保障している。これに対して、組織体に対しては、三権のいずれの財政自律権をも排除し、すべての権限を国会に統合した点に、憲法83条の、そして財政の、最大の特徴がある。

 これは、現代福祉国家における財政は、国として、国民経済に影響を与える手段として総合的に運用されなければならないため、一元的に管理される必要が存在するからである。このため、各権力府に、自らの財政的基盤に関して自律決定を行う権限を認めることは許されない。そこで、それに代って権力を制限する方法として、人類の知るいま一つの方法、すなわち時間的に、その限界を設ける手法がここに導入される。すなわち、年度単位に制定されるということになる。その意味で、予算について定義を与える際、この年度性は欠くことのできない要素となる。

 ただし、これは時系列において権力を区分するという財政一般の特徴であって、予算特有の特徴ではないことにも留意する必要がある。すなわち、国の特定年度の財政活動を規制する目的で制定される法律、例えば租税特別措置法や特例公債の根拠法は、通常、予算と同様に、年度単位の時限立法となる。また、事後的規制というべき決算もまた、年度を単位として制定される。決算にどの範囲で法規範性を認めるか、という問題は、決算を通じての財政統制をどの限度で行うか、という点の判断を巡って流動的な要素が強く、一律には言い難い。しかし、どのような説を採用する場合にも、そこに何らかの法規範性は存在していること自体は疑う余地のない事実である。したがって、この年度単位の制定という点だけを、予算を他の法規範と識別する絶対的な特徴として把握する見解、例えば「一会計年度における国の財政準則」というような単純な定義は、そうした意味から、誤りと見るべきである。

 なお、現実問題として、財政に関する収入や支出の見積もりは、会計年度を単位とせず、より長期的展望をもって行われるようになってきている。しかし、それらは依然として単なる収入、支出の予定表にすぎず、いまだ法規範性をもつとはいえない。

  3 二重立法概念と具体性

  (1) プロイセンの憲法争議

 なぜ二重立法概念という考えが構築されたのだろうか。そこにはプロイセンの憲法争議と呼ばれる歴史的大事件が存在している。本問の論点では無いが、知っているのと知らないのとでは理解度が違ってくると思われるので、以下に簡単に説明する。

 ドイツは神聖ローマ帝国の崩壊後、プロイセン、バイエルン、ザクセンなど多数の国家の集合体状態にあった。そこで多くのドイツ人はドイツ統一を希求した。1848年に開催されたフランクフルト制憲議会では、ドイツの統一を宣言し、プロイセン王は統一ドイツの国王に推戴された。しかしプロイセン王はこれを拒否する。それというのも、ドイツの統一のためには、国内の反対が問題なのではなく、国外の妨害勢力が問題だったからである。すなわち、デンマーク、オーストリアそしてフランスを軍事的に撃破しない限り、ドイツ人がいかに統一を希求しようとも不可能だったのである。

 そこでプロイセン王は宰相ビスマルクを1862年に起用する。ビスマルクは、ドイツの統一を成し遂げるのは鉄と血のみであるという有名な鉄血演説を議会でぶちあげて、軍拡路線に乗り出す。そのためには多額の軍事費が必要で有り、ビスマルクはその線に沿った予算を作成して議会に提出した。

プロイセン1850年憲法では、国の収入支出を掲げた予算表は、法律として確定される必要があった。しかし、ビスマルクの軍備拡充予算に反対した議会は、1863年から1866年までの間、毎年度予算の議決を拒否し、内閣を総辞職に追い込もうとした。これに対してビスマルクは、憲法は予算の否決という事態を予定しておらず、予定していない事態が発生した場合には制憲以前の憲法慣行に従い勅令で予算を制定しうると主張し、毎年度、予算を勅令で確定して執行するという異常事態が発生した。この憲法紛争は、1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争と相次いでプロイセンが圧倒的な勝利をおさめたため、ドイツ統一に大きく前進したことにより、ビスマルクに対する国民の人気が高まったことに伴い、議会が予算法不存在の間の予算執行を事後承認する法律を議決するという形で、政府側の勝利に終わった。

これを憲法学的にどのように説明するか、という点に関してラバント(Paul Labant)の出した答えが、現行憲法41条の解釈論で出てくる二重立法概念ある。

 すなわち、法規命令(対国民的な効力を持つ法規範)だけが、議会が立法権を独占している法規範であり、これについては、議会が法規範を定立しない限り効力を持たない。これに対して、その他の法規範は形式的意味の立法であって、議会が制定すれば効力を有するが、議会が制定しない場合には、他の国家機関が制定することもできる、としたのである。つまり、予算の法的性格が法律と異なることを説明するために考案されたのが二重立法概念なのである。

  (2) 明治憲法の制定とその下での解釈

 わが国では、明治憲法を制定する際、予算は法律であると憲法で定めると、このような憲法争議を誘発するおそれがあるとの勧告を、伊藤博文が関係各国から受けて、意識的に、法律とは異なるものとした。

 すなわち、前述のとおりプロイセン憲法では明確に予算「法律」であったものを、それに相当する規定を意識的に排除し、単に「国家の歳出歳入は毎年予算をもって帝国議会の協賛を経べし(旧憲法64条1項)」と定めるにとどめた。憲法争議の主要論点を回避し、政府側に有利になるように意図して、明確に法律ではないものとして導入したのである。

 このような経緯があったから、旧憲法時にはわが国予算の法的性質としては、それを法律の一種とするものは全くなく、天皇を訓令権者とする予算訓令説が当初通説であった。しかし、後に、宮沢俊義が、予算法形式説を唱えるに至る。すなわち、欧州各国において予算は形式的意味の法律によって制定されていることを指摘した後、

「我が憲法も予算法は議会の協賛を経て定立せらるべきものとするが、それをもって法律事項とせず、法律のほかにやはり議会の協賛を経て成立する予算という特殊な法形式をみとめ、予算法の定立をもってその専属的所管に属せしめている。けだし、予算法の定立は、その性質が通常の法規の定立と異なるところが多いから、それを所管とする法形式としては法律のほかに予算という特殊なものをもうけることが便宜と考えられたのである。

 法形式としての予算を形式的意味の予算という。この意味の予算は議会の協賛を経て大権によって制定せられる点において形式意味の法律と同じであるが、多少の点においてこれと異なっている。」(宮沢『憲法略説』岩波書店、昭和17年刊、256頁)

として、発案権が政府にのみ属すること、衆議院に先議権があること、予算を審議、議決する権限に、増額修正の禁止その他、法律とは異なる制限があることを指摘する。

 この考え方が、後の解釈に受け継がれ、通説となったのである。

 要するに、旧憲法において、その母法とあえて異なって「予算を法律ではない」としたのは、財政に対する議会のコントロール能力を低下させるという目的からであったことは厳然たる事実である。

 ただ、それが客観的真実と合致しているか否かは別問題といわなければならない。その、法律と予算とを識別する決定的要素こそが具体性と考える。

  (3) 予算の具体性

 ここに具体性とは「一般性」の反対概念である。先に触れたとおり、憲法41条によれば、国会は国の唯一の立法機関とされる。これに基づき国会が独占する立法は二重立法概念により説明される。すなわち、対国民的な法規範(実質的な意味の立法)を国会が独占する。実質的意味の立法には、一般性が要件とされる。これは、権力分立の要請に基づく。具体性ある法規範を国会に制定することを許容する場合には、国会は立法の形式で、実質的に行政行為や司法行為を行うことが可能となるからである。

 形式的意味の立法は、国の制定する法規範であって、実質的意味の立法以外のものをいうから、それは国の内部法を意味する。財政の領域では、法律の形式以外に、憲法上明確に、予算と呼ばれる法形式が予定されている。

 予算は行政庁に対する具体的な授権行為であって、同一会計年度中にそこに規定されている要件に該当する事態が繰り返し発生したとしても、その都度繰り返し適用される(一般性)ことはなく、その特定の要件に該当する事態の総額についてを規制するという性格を有する。例えば、A省の予算に「国際会議費」という項がある場合、その年度中に国際会議を開催する都度、そこに掲記されている金額を使用することが許されるのではなく、その年度に開催されるすべての国際会議を、そこに掲記されている金額で賄うことが要求されている。要するに個別具体的な金額の合計額がそこにはある。

 このように、個別の行政活動に関する具体性ある規範であるという点に、予算の最大の特徴が存在している。この点も後に詳述するが、これに対して、法律という形式を採用している限り、例え年度単位の時限立法であっても、それは一般性ある規範に限定される。具体性ある財政規範は予算が独占している。

 通説は、予算と法律の相違点として、計数によって示される、という点を指摘する。ここで論じた具体性を述べているものと理解することが許されよう。

  4 法規範

 通説のいう法規範性は、その内容がはっきりしない。私見によれば、予算の法規範性は、ミクロ、マクロの二つの面で認めることができる。

  (1) ミクロの法規範性

 ミクロにおけるそれは、憲法85条の規定する二つの権限の授与から構成される。すなわち第一に、国費を支出することに関する権限の授与(以下「支出授権」という。)であり、第二に、国が債務を負担することに関する権限の授与(以下「契約授権」という。)である。予算による具体的授権がない限り、行政庁は支出を行い、あるいは契約等を締結することが許されない、という意味で、これが通常認識される予算の法規範性となる。

 支出授権は歳出予算の独占するところである。換言すれば、支出は、毎年度、歳出予算による具体的授権を受けなければ行うことはできない。すなわち、国家と国民の関係を規律する法規範は、実質的意味の立法に属する(憲法41条)。したがって、財政に関する法規範であっても、内容的に実質的意味の立法に属する場合には、その支出授権は法律によってなされなければならない(法律の留保)。ただし、実質手意味の立法は、一般性をその要件とすると解されるから、法律による支出授権は、抽象的授権にとどまらなければならない。これに対する具体的授権を行うのが歳出予算である。

 なお、予算には具体的支出授権の外に、抽象的支出授権を行う機能も存在していることに留意する必要がある。すなわち、給付行政の領域においては、法律の留保が原則的に働かない結果、特別の授権法がない場合でも、予算に計上されていれば、それに基づいて国は予算の執行を行うことが可能である。国が私人としての立場で行う契約の実施に関しては、一般に抽象的支出授権規定は存在せず、予算のみを根拠として実施される。それ以外でも、予算に依って抽象的授権が行われる場合もないわけではない。いわゆる予算補助がその代表的なものである。

 契約授権は、予算のきわめて一般的な機能である。すなわち、予算総則のほとんどの規定に加え、歳入歳出予算、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為のすべては、いずれも契約授権を定めたものである。これを大別すると、わが国予算の場合、契約授権には三種類の方法が存在している。第一のそれは、支出授権と同様、一年度を限りとして行われるもので、歳入歳出予算がそれである。第二のそれは、二年あるいはそれ以上の長期にわたって国を拘束する契約等を締結する権限を授与するもので、その授権の内容の相違により、継続費、繰越明許費、国庫債務負担行為の三通りの方法が認められている。第三のそれは、債務保証、損失補償など、何の事故も発生しなければ、将来も国が支出義務を負担することのない契約の実施に関するものである。その場合には、一般的な契約授権は法律で行い、ただ、当該年度限りの具体性ある規範的命令部分、すなわち限度額についてだけ、予算で定めるもので、予算総則の規定の多くはこれに向けられている。

  (2) マクロの法規範性

 マクロにおけるそれは、フィスカルポリシーと呼ばれ、国会として、国民経済に対する財政の影響力を利用するという目的で設定される。財政の国民経済に対する影響は、第一に財政規模そのものの大小により発生するので、その規模の決定という形で行われる。第二に、歳入を狭義の租税によるか、それとも公債その他の手段によるかという選択により、行われる。一般に、同一の歳入規模であっても、それを租税で賄うときは国民経済を沈静化させ、公債等の手段で行うときは活性化させる機能を持つ。第三に、歳出の規模及びその投入分野の決定という形で行われる。一般に、歳出の規模が拡大すれば国民経済を活性化させ、規模を縮小すれば沈静化させる機能を持つ。財政活動は波及的効果を持ち、投入金額の数倍に達する規模の影響をもつことが知られている。波及効果がどの程度発生するかは、どのような経済分野に投入するかによって異なり、また、それはその時々の経済情勢によって異なるので、国会は投入資金が最大の効率性をもつように予算を決定する。

 かって、夜警国家時代においては、予算は特定年度の歳入・歳出の見積もりであった。その見積もりは、個々の事業に対する歳出額の見積もりを積み上げて行われた。しかし、今日では、このマクロの規範性から、予算はまずその全体規模が決定される。個々の事業に関する歳入や歳出は、むしろそれに併せて調整されるというのが正しい。

 予算は、このような政策の実施手段としての規範的命令である。したがって、命令の名宛人たる各行政庁(立法府、司法府を含む。以下同じ。)は、その予算の執行に当たり、予算で命じられた収入、支出の総額とそれぞれの行政庁における財政活動が一致するように努力しなければならない。このことは、現実の毎年度の予算総則の上で、歳入歳出予算は確定的な金額で規定されていることに端的に現れている。これに対して、公債の発行等は、その上限額で規定されているのである。

 歳入歳出予算までも、その収入や支出の上限を定めたものにすぎず、下回る分にはいくら下回ってもよいと解するのが通説であるが、これは、したがって、明白に文言に反した解釈である。そのような解釈による場合には、行政庁が、独自に国会の制定した予算を審査し、不要と認める場合には、まったく執行しない(執行留保)という自由を認めることが可能となるが、そうした解釈は、国会中心財政主義に違反するといわなければならない。執行留保は、かって米国で、ニクソン大統領の下で大々的に実施された例があることに明らかなとおり、わが国においても、国会の予算修正権の限界と絡んで、十分に可能性のある問題なのである。

  (3) 予算の強制力について

 今日においても、歳入予算の法規範性を否定し、あるいは非常に弱く解釈する見解が存在する。これは、予算にマクロの法規範性のあることに気づいていないことが第一の原因であり、ミクロの法規範性としての契約授権機能に気がついていないことが第二の原因である。しかし、より根本的には、法規範性があるという以上、それに違反する行為には無効その他の強制力が伴っているはずだという錯覚が存在していることが原因になっていると思われる。

 しかし、財政領域の法規範の場合、予算であると、法律であるとを問わず、一般に強制力を伴わない。例えば、歳出予算の配賦を受けなかったにもかかわらず、ある行政庁が勝手に契約を締結した場合、相手方に過失があればともかく、通常は、その契約は有効である。国としてそのことに気がついた場合には支払いをするか、将来に向かって契約の解除を行い、相手方に与えた損害の賠償を行うかのいずれかが必要となる。

  5 悉皆性

 予算の形式面における最大の特徴は、「悉皆性」という要素にある。すなわち、すべての具体性ある財政に関する法規範を予算という単一の法典に集約することにより、国家の当該年度の財政活動の全貌を単純明瞭に示すことを目的としている。

 この性格は、前述の法規範の第二の要素である「マクロの法規範性」から導かれる。すなわち、通常の法規範は、その個々の要素の積み上げであって、個々の条項ないしその一部だけを制定することでも十分に意味がある。予算の場合にも、その法的性格がミクロの法規範性にとどまるのであれば、予算は単一のものである必要はない。たとえば省庁別に予算案を編成し、それぞれを別個の委員会で審議する方が、個々の内容の詳細に至るまで国会の目が十分に届くという意味で、遙かに合理的な方法といえるかもしれない。しかし予算は、前述の通り、国会の、国の財政管理の主たる道具である。予算は、その全体額及び個々の要素の全体に対する割合が一つの法的機能を果たすのである。すなわち、多数の単一予算が単に集められたものではない点に、予算の予算たる意義があるのである。したがって、この悉皆性という要素が欠落した場合には、予算はその本来の機能を果たすことが不可能になる、という意味で、きわめて重要である。

(四) 予算提出と修正権

  1 内閣による予算提出の意義

 明治憲法では、内閣のみが予算提出を行うことは必ずしも明言されていなかった。しかし、その文章上の主語として、その点が疑われたことはなかった。現行憲法86条は、内閣が、予算を作成し、提出する義務を有することを明確に定めた。このことは、国会中心財政主義を定めた83条との関係で疑問が生じうる、との考えからと思われる。

 ここで問題となるのが、この内閣の提出行為は、その義務に属するのか、権利に属するのか、という点である。例えば宮沢俊義は、「予算は毎年の行政計画の財政的な表現である。したがって、行政権の担当者たる内閣が、総合的に行政計画を考えて、予算を作成・提出するのが妥当であるとされる」として、権利とする見解を示す。しかし、次の理由から、義務と解するのが妥当である。

 形式的には、第186条が「…なければならない」として、義務として規定していることである。第2に、83条が国会中心財政主義を定めていることである。第3に、予算の内容が、内閣の権限に属する行政庁ばかりでなく、国会、裁判所及び会計検査院に及んでいることである。本来、内閣の支配に属さない機関の予算作成権が内閣に与えられる理由は見あたらない。

 実質的には次の点が指摘できる。すなわち、予算の作成は複雑な作業であり、個々の議員の能力を超えている。したがって、予算を議会自らが提出すると定めるには、その前提として、議会に予算編成作業に当たる十分な人的物的能力を持つ機関を付属させる必要がある。しかし、米国のように大統領制をとっている場合と異なり、わが国の場合には、議院内閣制を採用しているので、議会に内閣とは別にそうした機関を設置するのは無駄が大きい。そこで、予算の大半を占める行政庁を管轄する内閣に、内閣所管以外の予算も含めて、編成する義務を負わせたのが本条の意義と解するのが妥当である。

 なお、仮に、内閣が、提出義務ではなく、提出権を有すると解する場合には、いわゆる二重予算制度を定めた財政法19条は、法律によって内閣の権限を制限するものであるから、違憲と解せざるを得ないであろう。

 このように義務と考えた場合、内閣に提出が限定されることは、予算と法律の基本的な差異を示すものでは、決してない、ということになる。

  2 予算の修正権

 先に宮沢の見解を紹介した際に触れたとおり、わが国では伝統的に国会に増額修正権がない、という解釈が採られていた。そして、この点も、予算と法律の差異を示す一つの点といわれることが多い。

 しかし、これは、欧米流の夜警国家的財政観に起因する錯覚であるということをここに強調しておきたい。すなわち、わが国戦前における憲法学説は、いわゆる「出ずるを量って入るを為す」という考え方をもとに、「国の歳入はその歳出によって定まり、その歳出は政府のなすべき施設によりて定まる」という非常に単純な発想で予算を考えていた。しかし、実際には、わが国は明治維新以来、一貫して、租税収入は大幅に歳出額よりも不足し、公債発行その他の手段で厳しくやりくりする、という状況が続いていた。したがって、議会としては、責任ある国家機関として単純な増額修正の実施は、不可能であった。つまり、増税等は実施不可能であれば、総額を現状どおりに押さえ込まなければならない。その状態下で特定の予算科目で増額修正がしたければ、あちこちの科目の中からその財源を探してやりくりするという非常に複雑な予算操作を行わなければならない。専任の予算編成機関を持たない議会に、それはできないので、内閣にその作業を依頼せざるを得ない。そこで、議会は増額修正をせず、内閣に提出予算の組み替えを命ずる、という慣行が生まれたのである。ところが、戦前の憲法学者は、夜警国家観からこれを見るので、議会に増額修正権がないので、このように対応する、と理解したのである。

 国会中心立法主義を採る現行憲法の下においても、実際問題として、単純な増額修正は不可能であり、したがって、内閣に組み替えを命ずる、という形がとられている。このため、一部憲法学者はいまだに増額修正が不可というような解釈を採るが、もちろん誤りといえる。

 なお、仮に増額修正が不可、という解釈をとっても、これが法律との本質的な差異を示すことにはならない。現実に、予算を明確に法律の一種と位置づけている英、仏、独の各国で、議会の増額修正は禁じられていることを見れば、そのことは明らかである。

 また、内閣に予算提出「権」があるという考え方の下では、予算提出権を侵害するような修正は不可能という形で、減額修正に対しても限界が生ずる。ちなみに、地方自治法972項は「議会は予算について、増額してこれを議決することを妨げない。但し、普通地方公共団体の長の予算の提出の権限を侵すことはできない」として、このことを明定している。しかし、上述のように、予算提出は権利ではなく、義務と考える立場に置いては、このような限界は存在しないと解することになる。

四 予算と法律の不一致

(一) 予算と法律の不一致の憲法的意義

 予算と法律が、消極的同位関係に立つ異なる法規範である以上、両者の不一致が発生することは当然にあり得る。しかし、それを一般に悪と考える必要はない。むしろそれは、憲法が導入している財政における慎重審議のための、貴重な第二のチャンスと考えるべきである。

 そもそも、予算と法律は、その審議に当たって、国会としての発想が異なる。法律の審議に当たっては、その法律によって実現しようとしている個別の政策の妥当性が、その成否を決するであろう。そこから発生する財政負担は、特定の年度における妥当性というよりは、法律の存続するであろう期間に対応した長期的視野に立って、当否が決定されるはずである。一方、予算は先に述べたとおり、特定年度における国民経済全体のあり方を考え、それに対して国家財政としてどのような影響を与えるのが妥当かを考えて全体規模を決定し、また、その中で、どのような分野に重点配分するのが妥当かを考えて個々の項目が決定されるのである。決して、単純に、個々の必要経費の積み上げたものが予算総額となるのではない(戦前の憲法においては、個々の積み上げと考えるのが通説であったし、今日でも依然としてそのような古典的な発想を採っている学者もいないではないが、完全な誤りである。)。

 その結果、特定の政策実現のための費用も、全体のバランスの中で、優先順位に応じて、金額が調整されることになる。この結果、法律で予定している歳出額よりも歳出予算額が少なくなる場合もあるであろうが、そのような場合に、予算が優越し、法律の執行がその限りでできなくなるのは当然である。

 逆に、歳出予算額が法律の予定する歳出額を上回ることもある。その場合、従来の学説は、単純に、その限りで予算の執行はできないと考えていた。しかし、前述のとおり、法律による抽象的な契約授権がない場合にも、予算限りで抽象的契約授権を行うことが可能な場合が存在する。したがって、ここで必要なことは、その過大な予算配分がどのような行政領域で行われたかによって判断することである。それが実質的意味の立法に属する場合には、法律による抽象的な契約授権規定が存在しない限り、予算を執行することは許されない。

 これに対して、予算に抽象的契約授権機能があることを利用して予算計上されたものである場合がある。その場合には、その分については、予算の配賦を受けた行政庁において、適切な執務指針を作成して使用することが可能となる。通常、私経済活動は、これに属する。微妙なのは、私経済活動の形式でありながら、内容的には国の権力作用としての要素も有している場合である。補助事業においてこの種のものがよく見られ、予算補助と呼ばれる。これに対して、法律の抽象的授権の下に執行されるものを、法律補助という。

 法治主義の思想から、できる限り法律補助が好ましいといえるであろう。しかし、特に資金助成行政の分野においては、どのような形の資金助成が最も有効かつ効率的であるかは、机上の計画によってはなかなか判然としない。そこで試験的に事業を実施し、その結果分析に基づいて毎年のように制度を改善する、ということがよく行われる。そのような場合、当初から法律補助にしておくことは、その改廃の困難性から問題があるため、予算補助の手法が最善ということになる。こうしたことから、例年、補助総額の二割弱が予算補助である。

(二) 予算と法律の不一致における内閣の責務

 これまでに述べてきたとおり、予算決定権は国会の専権事項である。また、憲法41条の定めるところにより、法律の制定も同様に国会の専権事項である。したがって、両者の不一致が発生した場合には、国会がその不一致を解消する責務を負うのであり、内閣は必要な限度での協力義務を負うに止まる。その内容を分説すると次のようになる。

  1 予算が成立しない場合、すなわち国会が混乱し、予算全体がそもそも不成立の場合には、内閣としては、暫定予算を編成する義務を負う。暫定機関は国会の空転期間に応じて適宜予想することになる。暫定予算は、最低必要限度の国の機能を維持するための規模にとどめ、係争点を盛り込むことは許されない。

  2 内閣は、法律の誠実な執行義務を負っているから、内閣の作成した予算には、必ず法律に対応した費用等が計上されていると考えて良い。仮に内閣の提出した予算が不完全なものであった、という容易に想定しがたい事態が発生した場合に、国会もまた、それを看過してそのまま成立させる、という事態が起きたとしよう。その場合には、内閣は速やかに補正予算を提出しなければならない。それは予見しがたい予算の不足には該当しないから、予備費の支出で対応することは許されない。ただし、予算は項のレベルまでしか国会の議決を経ていないから、目以下のレベルでそうした過誤があった場合には経費の流用で対応することは可能であろう。

  3 法律に対応する予算の不存在という事態は、上記異常事態を除外すれば、国会が意識的に減額修正を行った場合以外には考えられない。その場合、そのような形で明白な形で示された国会の意思に反して、法律の執行に必要な経費を、他の予算から流用したり、予備費から支出したり、補正予算に組んだりすることは、議院内閣制の理念に反し、許されないものと言うべきである。国会の意思が、その法律そのものを不当としているのであり、それが政府提案の法律であった場合には、内閣は速やかに当該法律を改廃する法案を作成、提出するべきである。議員提案の法案であれば、最高裁が違憲判決を下した法律と同様に、その執行を自制すれば足り、それ以上の行動に出る必要はない。

  4 最もしばしば生ずるのが、予算が、予算と同時並行で審議されている歳入の増減をもたらす法案(租税法案、赤字公債法案等)の成立を予定した形で編成されているにもかかわらず、当該法案が不成立になった場合である。この場合にも、国会の意思はきわめて明確であるので、内閣としては、速やかに不成立になった状況に整合した補正予算を提出して対応する外はなく、この場合にも、予備費その他の方法で対応することは許されないというべきである。