条例と罰則と平等

甲斐素直

問題
2006年、千代田区は全国初の路上喫煙を禁止する条例を制定した。当初は水道橋・神保町地区など、一部地域を指定して路上喫煙を禁止していたが、その後、逐次指定地域が拡大し、
20104月に霞ヶ関地区が追加されたことにより、皇居を除く千代田区の全域が指定地域となった。
Xは条例の存在は知っていたが、霞ヶ関地区にまで指定地域が拡大されたのを知らずに、霞ヶ関でタバコを吸いながら歩いていたのを警官に見つかり、命ぜられるままに
2000円の過料を支払った。しかし後々腹が立ったXが憲法について調べてみたところ、憲法第14条に法の下の平等に関しての規定が有るので、全国一律ではない地方の条例で罰則規定があるのは、憲法に違反しているのではないかと考えた。
Xの考えの当否とその理由を述べよ。
参考条文 安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例
21 条 区長は、特に必要があると認める地区を、路上禁煙地区として指定することができる。
前項の指定は、終日又は時間帯を限って行うことができる。
路上禁煙地区においては、道路上で喫煙する行為及び道路上(沿道植栽を含む。)に吸い殻を捨てる行為を禁止する。(以下略)24 条 次の各号のいずれかに該当する者は、2万円以下の過料に処する。
(2)第21 条第3項の規定に違反して路上禁煙地区内で喫煙し、又は吸い殻を捨てた者



[問題の所在]

 本問に名の出ている条例は、いわゆる歩行喫煙禁止条例として社会的に大きな関心を集めた条例である。

 地方自治に関する論文は、一度コツをつかんでしまえば書くのが易しい。なぜなら、どんな問題が出た場合にも、その論文の書き出しから半分位までは、どの論文でも総て同一のもので間に合うからである。そして、後半も、それまでに書いたことを、その個別問題に当てはめるという形で展開するだけである。

 すなわち、地方自治に関する問題は、根本的に地方自治に対する理解が問われているのである。その結果、あらゆる問題は、92条をどのように理解するのか、という点からスタートしなければならない。

 

一 地方自治の本旨の意義

(一) 地方自治のフレームに関する考え方

 憲法が地方自治を保障するとはいかなる意味か、という点に関しては、憲法の条文がはっきりせず、憲法制定以来深刻な対立がある。

 地方自治に関しては、基本的には固有権と伝来説の対立が考えられる。しかし、「主権」という概念は、ボーダン以来、一貫して「唯一、絶対、不可分」という性格を持つものと考えられてきた。もし、地方自治権に関して、それを地方自治体の固有の権利と構成するときは、分有主権を肯定したことになり、主権概念の根本的な変革を考えることなる。それを避ける場合には、国家主権が伝来したものと考えるほかはない。その結果、現実問題として固有権説を採る学者は一貫して存在しておらず、総ての学説は伝来説をベースにしている。

 伝来説を採る場合、大きく分けて狭義の伝来説、制度的保障説及び新固有権説という三つの学説が対立している。

 狭義の伝来説というのは、憲法制定初期の学説・判例、そして立法(つまり地方自治法)を支配していた考え方で、ごく簡単に図式化すると、中央政府と地方政府の関係を図1のように理解している説である。

  図1 狭義の伝来説における国と地方の関係

   中央政府立法権 ―――――→   地方自治体立法権
 国家主権  中央政府行政権  ―――――→  地方自治体行政権
   中央政府財政権  ―――――→  地方自治体財政権

 すなわち、自治権は、法律によって成立するものであり、地方自治体の持つ権限は、いずれも中央政府のもつ権限の延長線上に理解される。例えば、自治体の立法権は憲法

41条の枠内で理解される。だから、それは基本的に執行立法ないし委任立法であり、その意味で内閣の政令制定権と同様のものであるから、地方自治法に根拠規定がなければならないと解する。ただ、自治体には、それ独自の民主的基盤があるところから、政令だと白紙委任と言えるような定め方でも地方自治法では許容される場合があると論じられる(どの範囲まで許容されるかについては、説の対立がある)。本問に出てきたような罰則を定めるには、当然憲法736号に従い、委任規定が必要であるが、それについても同様の議論になる。

 しかし、平成

11年の地方自治法大改正により、委任の根拠として活用されていた地方自治法23項が全面改正され、多数の権限例示がすべて削除された結果、今日では、狭義の伝来説を採ることは実定法上不可能になった(正確にいえば、採るためには地方自治法が違憲という必要が生じた)。

 それに代わって、今日の通説・実務となった制度的保障説は、同様に簡単に図式化すると、国と地方の関係を図

2のように理解していると言える。

  図2 制度的保障説における国と地方の関係

     立法権
    ⇒    中央政府  行政権
     財政権
国家主権     
     立法権
    ⇒   地方政府  行政権
     財政権
                                                     

国と地方を分け、国による地方自治体に対する干渉を禁止していると考える(団体自治)。そして、団体の自主権限として自主的な立法、行政、財政の各権限が、憲法

92条によって地方団体に与えられると考える。言葉を換えていれば、憲法92条にいう中央政府の立法権は、こうした自治権を侵害しないように制定されなければならないと考える。

 新固有権説は、伝来説の枠内で、可能な限り自治権を固有権に近づけて理解しようとする説の総称で、特定の説の名称ではない。諸君が混乱するのを避けるため、ここでは、それについての説明は割愛する。

(二) 法律と条例

 本問は、基本的には憲法92条と94条の関係が最大の論点となる。すなわち、①92条で狭義の伝来説を採り、したがって地方公共団体の条例制定権は94条に基づいて生ずると考える場合と、②92条で制度的保障説を採り、したがって条例制定権は92条で既に生じており、94条は単にそれを確認し制限しているだけだと考える場合とでは、法律と条例の関係がまったく別のものと理解されることになるからである。本問の第一の論点が必ず92条の「地方自治の本旨」だ、というのはそれが理由である。

 このことが諸君にわかりにくい理由は、狭義の伝来説=94条説をとったときにはどのような結論になるのかを諸君がよく理解していないためであろう。そこで、以下では、教科書に書かれている92条説に先行して、94条説の展開を見た上で、それとの対比において92条説を説明する。もちろん、諸君の実際の論文は、これから行う総花式の書き方ではなく、自分の基本書のとる地方自治の本旨に対応して書かれなければならない。

二 狭義の伝来説における条例制定権とその限界

 狭義の伝来説を前提として考えると、地方自治体は、その性質上当然に条例制定権を有するわけではない。憲法41条は実質的意味の立法を国会が独占すると宣言し、同じく憲法94条は、条例制定権は法律の範囲内でしか認められないと宣言しているから、地方公共団体がどの限度の条例制定権を有するかは、国会の採用する立法政策によって決まるからである。その典型的な主張を次に見てみよう。

「法律が一定の団体に対して自治権を付与すれば、当該団体は、その自治権の範囲内で存立を維持し活動をするために必要な組織・運営に関する内部的な規律を一般的な規範の形式で定めることは出来るであろうが、その構成員である一般人民に新たな義務を課し、その権利・自由を制限する実質的な意味での法規を定立するには、そのための特別の授権を必要とするものと解すべきであろう]

(成田頼明「法律と条例」『憲法講座4』有斐閣1963年刊199頁)

 これは、決して突飛な考え方ではなく、住民自治理念の母国である英国では学説・実務を支配する考え方であって、越権法理(the principle of ultra vires)と呼ばれている。また、米国ではこの法理を判決で明言した判事の名を取ってディロン・ルール(Dillon's rule)と呼ばれ、一部の州では今もこれを固守している(多くの州では固有権憲章(Home rule charter)と呼ばれるものに変わっている)。

 この考え方をとれば、条例制定権は、憲法が94条という形で特に地方自治体に付与された権能であって、92条で地方自治が認められたということ自体から、直接引き出せるものではないことになる。

 わが国初期の最高裁判所判例は、この様な考え方の下に、94条は単に条例制定権を認めているのであって、それ以上の意味を持つものではない、とした。憲法736号は内閣に政令制定権を認めているが、それは決して内閣の政令制定権が41条の国会中心立法主義の例外となるという意味を持つものではない。したがって、政令の制定は、法律の委任又は執行目的がある場合に限定されている。それとまったく同じように、憲法が地方自治体に条例制定権を認めているといっても、それは決して41条の例外を定めたものではないと理解する結果、地方自治体は、条例を制定するにあたり、根拠となる法律に個別に委任規定があるか、ないしは法律執行の目的を有する必要がある、という結論が導かれる。94条の「法律」とはそのことをはっきりさせた意味を持つと理解する。

 その主張内容を具体的に理解してもらうため、少々長くなるが、最高裁判所大阪売春取締条例判決の関係する箇所を次に引用しよう。

「(上告)論旨は、右地方自治法141項、5項が法令に特別の定があるものを除く外、その条例中に条例違反者に対し前示の如き刑を科する旨の規定を設けることができるとしたのはその授権の範囲が不特定かつ抽象的で具体的に特定されていない結果一般に条例でいかなる事項についても罰則を付することが可能となり罪刑法定主義を定めた憲法31条に違反する、と主張する。
 しかし、憲法31条はかならずしも刑罰がすべて法律そのもので定められなければならないとするものでなく、法律の授権によつてそれ以下の法令によつて定めることもできると解すべきで、このことは憲法736号但書によつても明らかである。ただ、法律の授権が不特定な一般的の白紙委任的なものであつてはならないことは、いうまでもない。ところで、地方自治法2条に規定された事項のうちで、本件に関係のあるのは37号及び1号に挙げられた事項であるが、これらの事項は相当に具体的な内容のものであるし、同法145項による罰則の範囲も限定されている。しかも、条例は、法律以下の法令といつても、上述のように、公選の議員をもつて組織する地方公共団体の議会の議決を経て制定される自治立法であつて、行政府の制定する命令等とは性質を異にし、むしろ国民の公選した議員をもつて組織する国会の議決を経て制定される法律に類するものであるから、条例によつて刑罰を定める場合には、法律の授権が相当な程度に具体的であり、限定されておればたりると解するのが正当である。そうしてみれば、地方自治法237号及び1号のように相当に具体的な内容の事項につき、同法145項のように限定された刑罰の範囲内において、条例をもつて罰則を定めることができるとしたのは、憲法31条の意味において法律の定める手続によつて刑罰を科するものということができるのであつて、所論のように同条に違反するとはいえない。従つて地方自治法145項に基づく本件条例の右条項も憲法同条に違反するものということができない。」

最高裁大法廷判決昭和37530日=百選第5488頁参照

 補足して説明すると、ここで言っている地方自治法23項というのは、現行のものではなく、平成11年の大改正以前のものである。当時は、22項に地方公共団体の事務の概念的な規定があり、それを受けてこの3項では「前項の事務を例示すると概ね次の通りである。」とあって、22号まで、かなり詳細に自治体事務が列挙されていたのである。ここで言っている37号及とは次のような文言であった。

7号 清掃、消毒、美化、公害の防止、風俗または清潔を汚す行為の制限その他の環境の整備保全、保健衛生及び風俗のじゅん化に関する事項を処理すること」

 しかし、これで売春取締を言い切るのは少々ためらいがあるので、1号で補完する。

1号 地方公共の秩序を維持し、住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持すること」

 確かにこれを合わせれば、売春取締が地方公共団体の権限に入っていることが一応言えそうであるが、この各号が政令に対するのと同じ程度の個別委任規定である、と言い切るには、なお、それらの規定が少々漠然としていることは認めざるを得ないので、そこを補うために条例の自主法であることを述べているのである。いわば合わせ技である。

 しかし、平成11年改正により、現行地方自治法では、地方公共団体の権限としては地域事務と法定受託事務という表現が採られ、上述の詳細な列挙は全文削除された。したがって、この説を現行の地方自治法に適用するときは、個別的委任が存在しない白紙委任であるから、罰則を設けることは白紙委任であって違憲であるという結論が必然的に導かれるはずである。要するに、狭義の伝来説は、今日では実定法上の基礎を失ってしまった、ということができる。

 諸君や諸君の先輩達の論文では、基本的に制度的保障説を採用していながら、条例制定権の説明になると、この判決の文章の一部を無造作に引用し、あるいは「判例同旨」として、結論を下している人がよくいるが、この判決は、このような基調のものなので、今日では引用しない方が無難であるし、引用するにあたっては慎重である必要がある。

三 制度的保障説と条例制定権の限界

 今日の通説は、先に述べたとおり、92条の地方自治を制度的保障として把握する。

 以下では、制度的保障の概念をよく理解していない人を対象に、(一)では基礎概念から説明しているが、論文を書く場合に、このような段階の説明が不要なのは当然である。

(一) 制度的保障の基本概念

 旧憲法の人権規定を見ると、そのほとんどに「法律の定めるところに従い」とか「法律の範囲内において」という限定文句がついていた。そこでこれを文字どおりに理解すると、人権の内容は、法律によっていかようにも制限できると考えられるし、事実そうした解釈が行われていた。

 しかしそれでは、その人権は、事実上法律によって保障されているのと変わらないことになってしまい、憲法によってそれが原則的に保障された意味が失われてしまう。そこで、ドイツのシュミット(Carl Schmitt)が考え出したのが「制度的保障(institutionelle Garantie)」の概念である。この理論によれば、議会は憲法の定める制度を創設、維持すべき義務を課され、その制度の本質的な内容については法律によって侵害することも許されない、とされる。

 したがって、制度的保障の対象になっているのは制度自体であって、個人の人権そのものではない。現行憲法の下においてにおいては、そのほとんどは法律の留保が付されていないから、もはやこの概念を維持する必要は失われているが、それでも憲法上、個々人の人権そのものではなく、特定の制度が保障の対象となっていると考えられる場合、例えば学問の自由の制度的側面としての「大学の自治」とか、経済権的自由権の制度的側面としての「私有財産制度」等に関しては、今日においてもなお制度的保障の概念を維持して考える必要がある。

(二) 制度的保障論の地方自治への適用

 人権の場合と同様に、地方自治においても「法律の範囲内」という限定が付されているので、その法律内容を、国会が完全に自由に定められるとした場合には、やはり地方自治を憲法で保障した意味が失われてしまうという問題が発生する。

 そこで、その点を直視して、人権の場合について考えられた「制度的保障」の概念をこれにも妥当させることにより、伝来説からは当然の結論となる、地方自治の形式や実質を法律で自由に制定しうるという考えを排除し、より強力な憲法上の保障を与えようという制度的保障説が登場した(成田頼明「地方自治の保障」『日本国憲法体系』第5巻、有斐閣1964年刊参照)。

 この考えを採用する場合には、憲法第8章におかれている4つの条文はいずれも、法律を以てしても変改することのできない制度の中核を表明したものと理解されることになる。ただしこれは憲法施行当時の地方行政制度をそのまま保障したのではなく、あくまでもその中核となる部分のみである。この、法律を以てしても侵害することのできない制度的保障の中核部分を、第92条の文言を借りて「地方自治の本旨」と呼ぶ。換言すれば、昭和39年に制度的保障論が登場するまでは、この言葉に、以下に説明するような特定の意味はなかったのである。学生諸君の論文では、ややもすると、何の根拠もあげないままに、地方自治の本旨という言葉に、以下の概念が当然に読める、といわんばかりの記述がなされる。しかし、これはあくまでも制度的保障論の下において、学説として展開されるものであり、したがって当然に根拠が必要だ、ということを理解しておいてほしい。

 制度的保障説は、憲法が保障しているのは地方自治権そのものではなく、それが保障されるような制度が保障されていると考える。その不可侵の中核(これを92条が「地方自治の本旨」と呼んでいると理解する)として、次のものが考えられる。

 以下、各概念について、少し詳しく説明したい。

  1 団体自治ー地方分権の現れ

 憲法編入した中心的な理由は、中央集権体制が本質的に有している全体主義に対する脆弱性である。すなわち、地方自治が法律で保障されているにとどまる場合には、全体主義者が中央政府を乗っ取ることに成功すれば、地方自治法を改廃することにより自動的に国土全体を支配できる。しかし、地方自治が憲法で保障されている場合には、そのような改廃は違憲・無効となる。したがって、地方分権に対する中央政府からの干渉の禁止あるいは制限が、地方自治の中核概念を構成するはずである。

 今述べたことを、地方の側から表現すると、地域団体は、中央政府の干渉を受けることなく、自らの意思を決定し、活動できることを意味する。これを「団体自治」という。

 古来、一定の地域の住民は、その区域を中心に地縁的な社会生活を営むものであり、そうした社会生活の結果として共同体意識を有するようになり、その共同体意識に基づいて地域的な社会共同体を形作るのが常である。地方的な事務を任せるに相応しい団体としては、このような社会的実体の存在する地域を基礎たる区域とし、その区域に在住する人を構成員としているような団体であることは言うまでもない。

 伝統的に生じてきたそうした地域団体は、それぞれの地域の慣習により、意思決定権者は様々であった。その指導者の独裁制のものもあったであろうし、貴族制的な共同運営もあったであろうし、地域住民全員の寄り合いによって決するという民主主義的な運営もあったであろう。しかし、基本的共通性として、その地域の問題は、そうした団体が担い手になるべきであると考えられてきたのである。

 地方分権が、こうした地域団体を担い手とするとき、地方の事務処理は、法律上国家から一応独立したものと認められる団体を通じて、その団体自身の機関により、その団体の名と責任の下に行われることを意味する。

  2 住民自治ー民主主義の現れ

 団体内部の意思決定にあたっては、わが国憲法の採用する民主主義原理に従い、団体構成員(これを憲法は「住民」と呼んでいる)の意思によって決せられるべきである。この点について平成

7228日最高裁判所第三小法廷判決は次のように述べた(百選第512頁参照)。

「国民主権の原理及びこれに基づく憲法151項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法932項にいう『住民』とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であ」る

 ここではきちんとした表現がされていないが、地方自治の淵源として伝来説をとるからこそ、このような表現が出てくる。仮に固有権説をとれば、住民概念について、

15条の国民概念と違う把握が当然に可能になるのである。

 現代民主主義国家にあっては、国民主権、すなわち自己統治をその基本原理とするので、地方自治における意思決定の場合にも、そのことは貫かれなければならない。憲法932項が地方公共団体の長及び議員に対する住民の直接選挙権を保障しているのは、このことを確認したものに他ならない。このように民主主義と結びついた形での地方自治は、上記地方団体が、その分担する地域の住民の自治により統治されることを意味する。これを「住民自治」という。

  3 補完性原理-自治体権限の限界

 従来の憲法学では、地方自治制度の中核は、上記団体自治と住民自治という二つの要素を結合させたものと理解されてきた。すなわち、地方住民が、その属する団体を通じて、その地方の事務を処理させることを要請しているものと解していた。

 しかし、近時、第3の中核概念が必要なのではないか、と考えられるようになっている。それは補完性原理(Subsidiaritätsprinzip=補充性と訳すこともある)という概念である。

 なぜなら、団体自治と住民自治の二つでは、実は、各地方自治体が、どのような権限を有しているべきかが、憲法論のレベルでははっきりしないのである。団体自治は、地方分権の理念から、国が地方自治体の内部自律に干渉してはいけないことだけを要請しているだけだし、住民自治はその内部決定は最終的には住民によってなされるべき事を要請しているだけである。だから、国と地方自治他がそれぞれどのような事務を行うべきか、ということまでは、団体自治と住民自治だけからでは決まらないのである。さらに大事なことは、多層制地方自治をこの二つの自治原理だけでは説明できないのである。この二つだけが基本原理と考える限り、現行の都道府県=市町村という二層制地方自治は、単に明治憲法下でその様な制度が地方にとられていたことから来る偶発的な結果であるに過ぎないと考える外はないことになる。これを、憲法編入の求めている地方自治の本旨として、理論として説明するための武器が、この補完性原理なのである。

 先に、平成11年の地方自治法大改正について論及したが、同改正では、明確に補完性原理が取り入れられたことから、憲法レベルにおいても、改めて注目されるに至ったのである。

 話の順序は逆転するが、まず地方自治法の規定から説明してみよう。

 現行地方自治法を見ると、現行地方自治法では、普通地方公共団体を、市町村と都道府県の二層構造を持つものとしてしている。両者の関係については次のように定めている。

 市町村は、「基礎的な地方公共団体」なので、自ら処理するのが適当なものは、原則として、何でも行うことができる(地方自治法23項)。これに対して、都道府県は「市町村を包括する広域的な地方公共団体」なので、その権限は、「広域にわたるもの」とか、「市町村の連絡調整にあたるもの」に代表される、規模や性質から市町村が処理するのに適当ではないものだけが権限内容となる。このように、都道府県の活動は、市町村を補う性格を持っている。このようなやり方で重層的な地方制度を作る考え方を、補完性原理という。補完性原理を採用している限り、都道府県が条例で定めた事項は、同じ都道府県の中で、統一的に取り扱う方が妥当な事項、換言すれば各市町村がバラバラに条例で定めるのには適さない事項に限られる。したがって、都道府県の条例と、市町村の条例が抵触すれば、都道府県の条例の方が優越し、その限度で市町村の条例は無効になる(地方自治法216項なお書き参照)。

 国と地方公共団体の関係について補完性原理の存在を認める場合には、同じことが言えるはずである。国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている。したがって、国の法律と地方自治他の条例が抵触するような場合には、法律を優越させる方が、国民の利益になるのである。

 こうして補完性原理を地方自治の本旨に含めることにより、徳島市公安条例事件判決(最判昭和50910日=百選第5484頁)の確立した基準に対して、憲法学的な根拠を示すことが、はじめて可能になったのである。

 冒頭に、地方自治の論文は簡単だ、という事を述べた。それは、基本的にはこの第三節に述べたことを、どんな論文でも最初は書けば良いからである(書かねばならないからである)。

 もちろん、その問題に応じて、三つの中核概念のどれが問題になるかは異なってくる。だから、それに応じて記述には強弱を付けなければならない。例えば、本問の場合、以下に説明するように、団体自治と補完性原理をどう理解するかが大きな問題となるが、住民自治は関わらない。だから、諸君の本問に対する論文で、住民自治に大きな行数をさくことは妥当では無い。

四 法律と条例の関係

92条から、議会及び長の自主立法権を肯定しうると考えるときは、94条が「法律の範囲内」でしか条例制定権を認めない、と宣言している点は、むしろ条例制定権に92条からは引き出せない新たな制限を課していると読むべき事になる。

(一) 枠立法

 憲法92条は、地方自治制度を法律で制定することを予定している。これを受けて、地方自治体の権限の外延を決定しているのが地方自治法である。すなわち、地方自治体は、地方自治法という「枠立法」の範囲内で、自主的にその権限を行使しうる。これが法律と条例の第一の関係である。

 このように考えた場合、地方自治法143項は、その枠法として理解されることになる。すなわち、条例は自由にどんな罰則も定めることが可能であるが、143項が存在することにより、そこに定められた範囲内の罰則しか科せられなくなっていると考えるわけである。

 ただし、今、条例はその本来的性格として罰則を設けることができる、と述べたが、この点は、本問の中心論点である31条の解釈が絡み、詳細な議論が必要になるところである。したがって、92条と94条の議論の流れから、ここで説明したが、実際の論文では、31条の議論の後に、この枠立法問題を記述した方が書きやすいであろう。

(二) 罪刑法定主義

 現行憲法上、憲法が特に法律に定めることを要求しているものがある。そのうち、地方公共団体条例との関係で問題になるのは、財産権の保障(第29条)、罪刑法定主義(第31条)、租税法律主義(第84条)がある。

 これら三つの場合をどの程度論ずるかは、何が論文のテーマになっているかにより、答え方が変わる。

 大きく「法律と条例の関係について論ぜよ」式に聞かれている場合には、三つをひっくるめて、民主的基盤のある条例においては、地方住民から見た場合、国会における代表者に依る法律と同様に理解すればよい、という感じに簡単に答えればよい。

 それに対して、本問のように、これらのうちの一つに限定して、個別に聞かれた場合には、どれについて聞かれたかに応じて、答え方が変わらなければならない。なぜなら、この三つの条文で、法律で制定することを要求している根拠はそれぞれ別の理由だからである。本問の場合には、憲法31条の罪刑法定主義では、なぜ法定が求められるのか、ということが論じられる必要がある。

 無造作に罪刑法定主義、という言い方をするが、かつての理解とこれほど大きく解釈が変動した法領域も少ない。美濃部達吉が現行憲法の通説であった時代には、文字通り、刑と罰を法律で定めることを要求すると解釈されていた。これに対して、今日においては、この規定は英米法で言うところの適正手続き(due process of law)の理念のわが憲法における現れと解する点で、ほとんど異論を見ない。すなわち、ここでいう法(Law)とは、形式的な意味の法律ではなく、実質的正義の意味である。手続及び実体要件の双方について法定されなければならないのみならず、内容も共に憲法秩序に合致した適正なものでなければならない。

 逆から言えば、手続き及び内容が正義にかなっていることを要求しているだけで、それが形式的な意味の法律であることを要求しているわけではない。それが慣習法であれ、条例であれ、問題ではないのである。確かに罪刑法定主義は一般に慣習刑法の排除を要求するが、わが国現行刑法にも、慣習法を基礎とする規定が明確に存在する。例えば刑法123条は水利妨害罪を定めるが、ここにいう水利権は慣習法上の権利であるので、結局、その地方の慣習により、水利妨害罪の成否が決まることになる(大審院昭和7411日判決参照)。

 大事なことは、そのような正義にかなった法を制定する権限がどこから淵源してくるか、という点である。制度的保障説にたつ限り、憲法直接92条授権説をとるのが妥当であろう。すなわち、自主立法権の存在は、その実効性を担保するための刑罰権を当然に含むので、刑罰権を法律で授権する必要はない、と論ずることになる。これが、31条を、罪刑条例主義と読み替えることが許される第一の根拠である。要するに、自主法ということから引き出すのである。

 しかし、これだけでは、前に述べた民主的基盤云々という話とつながらない。それが第二の根拠となる。すなわち、刑罰に代表される国家が国民の自由を侵害する立法は、それによって権利を侵害される者の代表者の同意がなければならない。例えば、アメリカ独立戦争で、「代表なければ課税なし」と叫ばれたのは、この意味である。国民全体の権利を侵害する法であれば、全国民を代表する者、すなわち国会の同意が必要で、その同意形式が法律であると考えることができる。そうであれば、特定地域住民の権利だけを侵害する法であれば、その特定地域の住民を代表する者、すなわち地方議会の同意があればよい、ということになる。これが、その地域住民から見れば、国会と同様に民主的基盤があるという議論の意味である。

(三) 平等原則と条例制定権

 ここまで論じることで、ようやく本問の主人公X君の感じた素朴な疑問に対する答えに取りかかることが可能になる。

 憲法141項が定める法の下の平等を定める。ここでの「法」について、法律に限定して解する古い説があるが、これは今日では触れる必要はない(受験予備校の模範解答なるものでは必ず言及しているが無用である。)。しかし、地方自治体の条例により人権の制約を認めるときは、各地方ごとに人権の享有範囲が区々となる結果、平等原則が破綻してしまった場合には、当然平等原則違反といわさるを得ない。すなわち、どのような場合には法律で定めるべきであり、どのような場合には条例で定めることも許容されるのかが論点になるのである。これについて、最高裁判所は先に紹介した大阪売春取締条例事件において、次のように述べた。

「社会生活の法的規律は通常、全国にわたり画一的な効力をもつ法律によってなされているけれども、中には各地方の特殊性に応じその実情に即して規律するために、これを各地方の自治に委ねる方がいっそう合目的的なものもあり、またときにはいずれの方法によって規律しても差し支えないものもある。これすなわち憲法第94条が地方公共団体は『法律の範囲内で条例を制定できる』と定めている所以である。」

 前に述べたとおり、31条との関係部分では、この判決は平成11年地方自治法改正により完全にその先例性を失ったが、14条との関連部分は、今日もなおその意義を失わない。

 もっとも、この判決は古い、狭義の伝来説しかなかった時代のものなので、国の側を中心に見ている。今日のような地方の時代においては、同じことを説明する場合にも、視点を地方自治体の方において説明し直す必要がある。

 ここでは、先に地方自治の本旨の第3の概念として紹介した補完性原理に基づいて考えていくのが理解しやすい。この補完性原理を、単に市町村と都道府県相互間だけでなく、地方自治の本旨における第3の中核概念として、国と地方公共団体の関係について認める場合には、国が法律で定める事項は、都道府県以上に広域的な事項や都道府県や市町村の連絡調整など、規模や性質が全国統一的に定めるのに適している事項に限られている、という結論を引き出すことができる。

 以上のことを前提としてX君の疑問を言い直すと、罰則のあるような規定は、全国一律に法律で定めるべきだというものである。

 しかし、歩行喫煙は、普通の町では危険性は無い。それに対して、歩行者の数が多い地域で歩行喫煙を行われると、他の歩行者に火の付いたたばこを押しつけたりする危険が高い。そこで、そのような特定地域に限定して歩行喫煙を禁止することには合理的な理由がある。そして、それはまさに地域に関する事務であるから、地方自治体の条例制定権に含まれることになる。

 これに対して、全国どこでも共通に発生する問題については補完性原理から言って、国が立法すべきで有り、地域により異なる処遇をすることは14条違反と評価されることになる。