時・所・方法論と定義づけ比較考量
甲斐素直
問題
 Yは、Z政党の立会演説会開催の告知宣伝を内容とするプラカード式ポスター(縦50cm、横75cm)合計100枚を、X県の県庁所在地A市中央駅の駅前広場及びここから伸びる繁華街の街路樹に、それぞれ針金で括り付けて設置した。これにより、X県屋外広告物条例に違反するとして起訴され、罰金1万円を求刑された。
 これに対し、Yは、本件条例は憲法21条1項に違反する違憲・無効なものであるから無罪であると主張した。
 本問における憲法上の問題点を論ぜよ。
 参照条文
屋外広告物法(昭和24年法律第189号)
 第1 この法律は、良好な景観を形成し、若しくは風致を維持し、又は公衆に対する危害を防止するために、屋外広告物の表示及び屋外広告物を掲出する物件の設置並びにこれらの維持並びに屋外広告業について、必要な規制の基準を定めることを目的とする。
 第32 都道府県は、条例で定めるところにより、良好な景観又は風致を維持するために必要があると認めるときは、次に掲げる物件に広告物を表示し、又は掲出物件を設置することを禁止することができる。
  二 街路樹及び路傍樹
X県屋外広告物条例
 第1条 この条例は、屋外広告物法(昭和24年法律第189号)の規定に基づき、屋外広告物(以下「広告物」という。)について必要な規制を行ない、もつて美観風致を維持し、及び公衆に対する危害を防止することを目的とする。4条 次の各号に掲げる物件に広告物を表示し、又は広告物を掲出する物件を設置してはならない。 三 街路樹、路傍樹33条 次の各号の一に該当する者は、30万円以下の罰金に処する。
一 第3条から第5条までの規定に違反して広告物又は広告物を掲出する物件を表示し、又は設置した者

[はじめに]
 かつて、旧司法試験で次の問題が出たことがある。
「市の繁華街に国政に関する講演会の立て看板を掲示した行為が、屋外広告物法及びそれに基づく条例に違反するとして有罪とされても、表現内容に関わらないこの種の規制は、立法目的が正当で立法目的と規制手段の間に合理的な関連性があれば違憲ではないからやむを得ない。」との見解について論評せよ。
 なお、「小中学校の周辺では扇情的な広告物の掲示は出来ない。」との規制の当否についても論ぜよ。(平成3年 司法試験 第1問)
 君たちの実力では、そもそもこの司法試験問題文では、具体的にどのような状況下でそのようなことが問題になるのか、ということ自体がぴんと来ないのではないかと考えた。一般に、初学者には具体的事例の中で考えた方が理解が容易である。そこで、少しでも易しいものにしようと言う意図から、この様な参照条文付きの事例問題に変えてみた。
 ところが、提出された論文を見ると、Yの主張を単純に真に受けて、本条例の21条違反を論じるというスタイルで議論しているものばかりであった。つまりYの主張の当否そのものを問題にするという視点が、完全に欠けていたのである。これは、憲法訴訟における合憲性審査基準論のスキームそれ自体を君たちが全く理解していないためであると思われるので、本論に入る前に、その点の説明から行いたい。
 裁判所が、立法や行政の活動の合憲性を審査するに当たり、どのような視点から審査を行うべきかという問題が憲法訴訟の根本にある。これについては、基本的に司法積極主義と司法消極主義の対立がある。今日のわが国憲法訴訟論は、自制説と呼ばれる説に基づいて、基本的に司法消極主義が正しいと考えている《なぜそのように考えるのか、という事は大事な問題で有り、その事を正面から聞く問題もあるので、しっかり勉強しておいて欲しい。ここでは理由の説明は時間と紙幅の関係から割愛する。以下についても同様で、説明をここで省略した部分についても、君たちは理解して、聞かれたら説明できるように、勉強しなければならない》
 司法消極主義を取る場合、裁判所は原則として、立法の合憲性を判断すべきでは無い。その結果、司法審査は原則として立法の文言そのものの合憲性を審査する(これを「文面審査」という)のではなく、その立法の具体的場合における適用を審査する(これを「適用審査」という)。適用審査を行った場合に、違憲という結論が出た場合には、裁判所は、その立法の、その問題に対する適用が違憲であるという判決を下す(これを「適用違憲」という)。その適用の違憲性が、立法の文言そのものに原因があるという結論が導かれた場合には、適用審査の結果として、立法そのものの違憲が宣言される場合もある(これを「文面違憲」という)。例えば、最高裁は刑法200条の尊属殺人罪の具体的事件への適用を審査した結果、刑法200条そのものが違憲であると判決した(最高裁判所大法廷昭和4844日大法廷判決=百選第562頁参照)。
 ここで、二重の基準論という説が存在する。一般的な人権と異なり、精神的自由権については、他よりも厳格度を上げた審査基準を使用すべきであるという考え方である。これらの人権の場合、上記原則に従って、最初から適用審査という審査方法を採るときには、その具体的事件での妥当性は確保できるが、それでは、その立法が曖昧な表現をとっていたり、過度に広汎な表現を採っている場合には、裁判所の判決が出るまで、国民には、自分の文言解釈をとる限り違法となる行為を避けるという効果(萎縮効果)が生ずることを避けることができない。そこで、精神的自由権の規制立法で、立法の文言にそうした表現がとられていた場合には、具体的事件に対する適用審査に入る前に、まず文言審査を行い、その文言に問題がある場合には、曖昧性故に無効の法理とか過度の広汎性故に無効の法理を使用して、直ちに文言違憲の判決を下すのが正しい。
 ここまで説明すると、本問でYが何を主張したのかが理解できると思う。Yの主張を憲法訴訟論的に換言すると、本件条例が表現の自由という精神的自由権を侵害する立法であるが故に、Yがどのような看板を立てたか、とか、それが駅前通の景観にどのような影響を与えたかを審理することなく、当初から文面審査を行うように主張したのである。
 いま、仮にYの主張が正しいと考えよう。その視点に立って本件条例を見ると、規制対象は「次の各号に掲げる物件に広告物を表示し、又は広告物を掲出する物件を設置してはならない。三 街路樹、路傍樹」となっていて、経済的広告物か政治的広告物かを分けること無く、一律に規制している、という点において、明らかに過度に広汎である。したがって、具体的な適用審査を行うまでも無く、文面違憲の結論が下る。
 しかしながら、Yの主張はあきらかに誤っている。普通、広告と言えば、営業的利益を追求する者が、その営業に顧客を誘引する手段として行うものである。したがって、本件条例は、あきらかに精神的自由権の規制を目指したものではなく、もっぱら経済的自由の規制をめざしたりっぽうなのである。
 その結果、本件条例に対しては、原則に戻って、Yに対しての適用審査を行い、それが適用違憲というべき状態であるか否かを検討すれば十分な事例なのである。その場合、二重の基準論に従えば、狭義の合理性基準を使用して判断すれば十分である。しかし、本問のように、本来精神的自由の規制を目指していない立法が、個別の適用においては、精神的自由の規制という結果をもたらした場合に、その原則通りの審査基準で判断すればよいのだろうか。それが本問における真の論点である。

一 時・所・方法の規制の概念
 時・所・方法の規制は、表現内容中立規制、すなわち、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」(芦部信喜「憲法学Ⅲ」431頁より引用)の一種である。
 諸君に認識して置いて欲しい基本的な問題把握として、時・所及び方法の規制の理論とは、本件条例のように、本来は表現の自由とはまったく関係のない法律が、結果として表現の自由を規制してしまう場合の処理方法を開発することを狙ったものだということである。
 時・所及び方法規制が問題になる典型的な法律として、よく知られたものとしては、例えば道路交通法や軽犯罪法がある。
 道路交通法は、路上での交通秩序の維持という表現の自由とはまったく関係のない法的目的実現のための法律である。したがって、道交法の場合に、表現の自由との関係において厳格な構成要件を要求し、それに厳密に該当しない限り自由に交通秩序を破壊しうるというような立法は、法の目的に照らし、明らかに好ましくない。同様に、軽犯罪法の場合、日常発生する様々な可罰的違法性を有する軽微な犯罪行為を包括的に規制することを目指しているから、ここでも表現の自由との関連で厳格な構成要件を要求するような理論は妥当ではない。誤解を避けるために強調するが、ここに例示した2法は、いずれも刑罰法令であるから、憲法31条との関連においては明確性を有するものでなければならない。例えば徳島市公安条例事件(最高裁判所昭和50910日大法廷判決=百選第5182ページ以下参照)。ただ21条との関連における明確性は要求されない、ということである。
 要するに、このように、表現の自由の規制を目指すのではない立法では、一般に精神的自由としての表現活動の萎縮効果を考える余地はないから、表現の自由との関係では、文面違憲理論を適用する余地はない。しかし、そのような法律であっても、それが結果として表現の自由を規制するような結果をもたらした場合に、そのことをまったく度外視して表現の自由の本則に則って狭義の合理性基準で処理するのは妥当とは言えない。何らかの基準で、通常より厳格度を高めるのが妥当であろう。
 他方、常に、厳格度を高めるのが妥当とも言えない。例えば、暴走族が道路を占拠する場合もについて、デモ行進が道路を占拠するのと同視して、どちらも集会の自由として精神的自由権に属すると判断して、厳格度を上げた基準で判断するのは不当であろう。
 そこで、これらの立法が、結果として表現の自由を規制するような場合に、一般の場合と分けて、より厳格度を上げた審査基準を導入すべき場合は何か、その場合に厳格度を上げた審査基準とは具体的にはどのようなものかということが問題となる。
 この問題を解明するための理論的努力を総称して「時・所及び方法の規制」という。このような問題でも、表現の自由の規制と言うことを理由に構わず文面違憲という議論を各人がいるが、時・所及び方法の規制の問題だと判ったら、その段階で、文面違憲等という結論が出るわけがない、ということを理解して置いて欲しい。
 ただし、以上の説明は、あくまでも表現の自由との関連の議論である、ということは忘れないでほしい。本問の場合には、刑罰法令ということから、21条ではなく、31条の要請として、文言審査の問題は生じてくるのである。

二 二重の基準論と審査基準論
 概念を説明したら、次に必要になるのが精神的自由権の原則に該当する場合の審査基準の議論である。単純に二重の基準論を展開すれば十分である。[はじめに]で述べたとおり、司法権の持つ憲法審査権について、原則として司法消極主義=自制説を採用した上で、精神的自由権の問題に関しては、例外としてより厳格度を増した審査を必要とすると論ずる。
 常識的に考えて、相対的に厳しい審査をするのが妥当な場合と、緩やかな審査をするのが妥当な場合とがあることは判ると思う。すなわち、深夜の住宅街や病院のすぐ脇で、拡声器を使ってがなり立てるような行為を規制する立法は、そこでなされる言論の内容を論ずることなく、妥当である、と考えられるであろう。
 他方、選挙になれば、どの候補者も駅前広場にやってきて政見を発表するものであって、そういう場所での演説の禁止や拡声器使用の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。したがって、時・所・方法の規制という類型を肯定するからと行って、あらゆる場合に同一の審査基準を適用しようと考えるのは、明らかに不当なのである。
 そこで我が国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、伊藤正巳判事がJR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた事件に関して補足意見で展開したパブリック・フォーラム(
Public forum)論である。
「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリック・フォーラム』と呼ぶことができよう。このパブリック・フォーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも(最高裁昭和56年(あ)第561号同571116日第3小法廷判決・刑集3611908頁参照)、道路のもつパブリック・フォーラムたる性質を重視するものと考えられる。
 もとより、道路のような公共用物と、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所とはいえ、私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。しかし、後者にあつても、パブリック・フォーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、その場合には、それぞれの具体的状況に応じて、表現の自由と所有権、管理権とをどのように調整するかを判断すべきこととなり、前述の較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうるのである。本件に関連する「鉄道地」(鉄道営業法35条)についていえば、それは、法廷意見のいうように、鉄道の営業主体が所有又は管理する用地・地域のうち、駅のフオームやホール、線路のような直接鉄道運送業務に使用されるもの及び駅前広場のようなこれと密接不可分の利用関係にあるものを指すと解される。しかし、これらのうち、例えば駅前広場のごときは、その具体的状況によつてはパブリック・フォーラムたる性質を強くもつことがありうるのであり、このような場合に、そこでのビラ配布を同条違反として処罰することは、憲法に反する疑いが強い。このような場合には、公共用物に類似した考え方に立つて処罰できるかどうかを判断しなければならない。」
 これを要約すると、次のようにいえる。
① 街路streetおよび公園parkのような、伝統的に表現活動と結びついている公共用物は、「もっとも純粋なquintesssential」公共の広場public forumである。そこで行われる表現活動の規制については、合憲性を厳格に検討することが求められる。
上記駅構内は、この意味で問題となるのである。また、
② 公会堂、公立劇場、公立学校講堂等のように、国ないし地方公共団体が自発的に公衆の表現活動の場として利用に供してきた公共の場所は、「指定されたdesignated」もしくは「限定されたlimited」広場として考えられなければならない。その場合、その場所の管理者は公開性を維持しなければならない、という義務を負担するものではないが、公開原則を維持する限り、上記と同様に、規制の合憲性を厳格に検討することが求められる。
 この②の場合に関して出たのが、泉佐野市市民会館事件(最判平成737日=百選第5178頁)等である。
③ 上記のようなパブリック・フォーラムに該当しない場所では、このような厳格な合憲性の審査は要しない。例えば住宅地の私人の塀に勝手にビラを貼る行為を禁ずる法は合憲性が推定されることになる。
と論ずることになる。
 これを本問に当てはめると、「X県の県庁所在地A市中央駅の駅前広場及びここから伸びる繁華街の街路樹」というものが、①にいうパブリックフォーラム性を有するか、③にいうノン・パブリック・フォーラムに該当するが問題となる。
 いま、仮に③ということになれば、適用審査に当たっては、狭義の合理性基準を使用すればよい。その場合「プラカード式ポスター(縦50cm、横75cm)」という非常に目につきやすい大きさのものを「合計100枚」も掲示する行為は、あきらかに条例違反として処罰の対象になるであろう。
三 街路樹のパブリック・フォーラム性
 先に例示した事例は、授業時間中という「時」に、拡声器という「方法」で行う場合、小中学校周辺という「所」には、パブリック・フォーラム性はない、というものであった。しかし、それはあくまでも騒音規制という次元の問題である。
 これに対し、同じ小中学校周辺のビラ貼りの承認された場所という「所」で、授業時間中という「時」であっても、拡声器の代わりにビラ貼りという「方法」であれば、小中学校周辺というものにパブリック・フォーラム性を肯定することができるであろう。しかし、同じビラであっても、冒頭に例示した司法試験問題の後半のように、扇情的なビラという「方法」になると、児童の情操という保護法益を考えると、パブリック・フォーラム性を否定し、ノン・パブリック・フォーラムというべき事になる。したがって、例えば、精神的自由の一貫して性的表現の自由を訴えるビラに、その例として扇情的な裸体画像があったりした場合には、規制されるのは当然である。
 このように、ある時・所・方法がパブリック・フォーラム性を有するか否かは、それぞれの媒体に応じて異なってくる。このあたりのデリケートさを、大分県屋外広告物条例事件における、伊藤正巳判事の補足意見を通じて検討してみよう。
 判事は、まずビラ、すなわち屋外広告物の重要性について、次のように述べる。
「本条例の規制の対象となる屋外広告物には、政治的な意見や情報を伝えるビラ、ポスター等が含まれることは明らかであるが、これらのものを公衆の眼にふれやすい場所、物件に掲出することは、極めて容易に意見や情報を他人に伝達する効果をあげうる方法であり、さらに街頭等におけるビラ配布のような方法に比して、永続的に広範囲の人に伝えることのできる点では有効性にまさり、かつそのための費用が低廉であって、とくに経済的に恵まれない者にとって簡便で効果的な表現伝達方法であるといわなければならない。このことは、商業広告のような営利的な情報の伝達についてもいえることであるが、とくに思想や意見の表示のような表現の自由の核心をなす表現についてそういえる。」
 すなわち、精神的自由としての手段としてはもちろん、経済的自由の手段としても、屋外広告物はきわめて有用な手段なのである。その場合に、それに対立する利益は何か、ということが問題となる。小中学校周辺の扇情的ビラであれば、児童生徒の情操というものであった。この場合には、町並みの美観・風致である。
「簡便で有効なだけに、これらを放置するときには、美観風致を害する情況を生じやすいことはたしかである。しかし、このようなビラやポスターを貼付するに適当な場所や物件は、道路、公園等とは性格を異にするものではあるが、私のいうパブリック・フオーラム(昭和59年(あ)第206号同年1218日第三小法廷判決・刑集38123026頁における私の補足意見参照)たる性質を帯びるものともいうことができる。」
 ここで「ビラやポスターを貼付するに適当な場所や物件」という抽象的表現で呼ばれているものの代表が、本件条例で言う「三 街路樹、路傍樹」であることは、容易に理解できると思う。すなわち、伊藤判事に言わせると街路樹等は、それがどこに生えているものであれ、屋外広告物という方法で、違憲を伝達しようとする場合には、すべてパブリック・フォーラム性を有しているのである。
 本問の場合、政党の立会演説会という真摯な目的で看板が制作されており、これが営利的な表現ではなく、まさに精神的な自由権の行使手段として行われていることになる。すなわち、パブリック・フォーラムにおける精神的自由権の規制であるから、通常の審査基準よりも、より厳格度を上げた審査基準を使用して判断するべき事例となる。

四 定義づけ比較考量論
 ここで、本問がややこしいのが、保護法益が町並みの美観という概念であることである。
 一般に、繁華街では、各商店ができるだけ自分の店が目立ち、顧客を誘引することができるように、派手な装飾を施し、店舗の正面には各種屋外広告物が展示されていることが多い。そのような場合には、「縦50cm、横75cm」というかなり大型の「プラカード式ポスター」が「合計100枚」と大量に掲示しても、町並みの美観に与える悪影響は小さいはずである。
 これに対し、同じ繁華街でも歴史的建造物が多く建ち並び、「町並み保存地区」に指定されているような整然とした景観のある地域で、それとは異質の大型ポスターを大量に張り並べれば、町並みの美観を大きく損なうことはあきらかである。
 つまり、屋外広告物設置の規制にあたっては、単純に厳格度を増した基準による審査は不可能で、比較考量、すなわち規制することによって得られる利益と、規制しないことで得られる利益を比較し、どちらが大きいかによって判断する必要があると言うことである。
 そこで、今度はどのような比較考量基準を使用するべきかが問題となる。一般に、比較考量基準には次の3種があると言われる。
 ① 単純比較考量(アド・ホック比較考量)
 ② 定義づけ比較考量
 ③ 重み付け比較考量
 これらのうち、①については、博多駅ビデオフィルム提出命令事件の判例が代表的存在である(最高裁判所昭和441126日大法廷判決=百選第562頁参照)。二つの比較対象について、どちらも同等の比重で判断をする方法である。③については、泉佐野市民会館事件が代表的存在である(最高裁判所平成737日第三章法廷判決=百選第5178頁参照)。この場合、準パブリック・フォーラムであるが故に、表現の自由に特に重みをつけて比較考量を行うという方法である。
 本問は、その中間の定義づけ比較考量を採用するのが適切な事例である。その代表的な判例が、大分県屋外広告物規制条例事件における伊藤正己判事の補足意見である。百選第5124頁に中心となる部分は引用されているが、かなり無理をして切りつめられているので、諸君に理解しにくい。本問出題に当たって、諸君にこの補足意見の原文を読むことを求めた理由はそこにある。パブリックフォーラムにおける議論の仕方の参考にもなると思うので、少し長いが、以下にその前後を含めた形で紹介する。
「本条例の目的とするところは、美観風致の維持と公衆への危害の防止であって、表現の内容はその関知するところではなく、広告物が政治的表現であると、営利的表現であると、その他いかなる表現であるとを問わず、その目的からみて規制を必要とする場合に、一定の抑制を加えるものである。もし本条例が思想や政治的な意見情報の伝達にかかる表現の内容を主たる規制対象とするものであれば、憲法上厳格な基準によって審査され、すでにあげた疑問を解消することができないが、本条例は、表現の内容と全くかかわりなしに、美観風致の維持等の目的から屋外広告物の掲出の場所や方法について一般的に規制しているものである。この場合に右と同じ厳格な基準を適用することは必ずしも相当ではない。そしてわが国の実情、とくに都市において著しく乱雑な広告物の掲出のおそれのあることからみて、表現の内容を顧慮することなく、美観風致の維持という観点から一定限度の規制を行うことは、これを容認せざるをえないと思われる。もとより、表現の内容と無関係に一律に表現の場所、方法、態様などを規制することが、たとえ思想や意見の表現の抑制を目的としなくても、実際上主としてそれらの表現の抑制の効果をもつこともありうる。そこで、これらの法令は思想や政治的意見の表示に適用されるときには違憲となるという部分違憲の考え方や、もともとそれはこのような表示を含む広告物には適用されないと解釈した上でそれを合憲と判断する限定解釈の考え方も主張されえよう。しかし、美観風致の維持を目的とする本条例について、右のような広告物の内容によって区別をして合憲性を判断することは必ずしも適切ではないし、具体的にその区別が困難であることも少なくない。以上のように考えると、本条例は、その規制の範囲がやや広きに失するうらみはあるが、違憲を理由にそれを無効の法令と断定することは相当ではないと思われる。
 しかしながら、すでにのべたいくつかの疑問点のあることは、当然に、本条例の適用にあたつては憲法の趣旨に即して慎重な態度をとるべきことを要求するものであり、場合によっては適用違憲の事態を生ずることをみのがしてはならない。本条例36条(屋外広告物法15条も同じである。)は、「この条例の適用にあたっては、国民の政治活動の自由その他国民の基本的人権を不当に侵害しないように留意しなければならない。」と規定している。この規定は、運用面における注意規定であって、論旨のように、この規定にもとづいて公訴棄却又は免訴を主張することは失当であるが、本条例も適用違憲とされる場合のあることを示唆しているものといってよい。したがって、それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れないというべきである。
 原判決は、その認定した事実関係の下においては、本条例331号、413号を本件に適用することが違憲であると解することができないと判示するが、いかなる利益較量を行ってその結論を得たかを明確に示しておらず、むしろ、原審の認定した事実関係をみると、すでにのべたような観点に立った較量が行われたあとをうかがうことはできず、本条例は法令として違憲無効ではないことから、直ちにその構成要件に該当する行為にそれを適用しても違憲の問題を生ずることなく、その行為の可罰性は否定されないとしているように解される。このように適用違憲の点に十分の考慮が払われていない原判決には、その結論に至る論証の過程において理由不備があるといわざるをえない。
 しかしながら、本件において、被告人は、政党の演説会開催の告知宣伝を内容とするポスター2枚を掲出したものであるが、記録によると、本件ポスターの掲出された場所は、大分市東津留商店街の中心にある街路樹(その支柱も街路樹に付随するものとしてこれと同視してよいであろう。)であり、街の景観の一部を構成していて、美観風致の維持の観点から要保護性の強い物件であること、本件ポスターは、縦約60cm、横約42cmのポスターをベニヤ板に貼付して角材に釘付けしたいわゆるプラカード式ポスターであって、それが掲出された街路樹に比べて不釣合いに大きくて人目につきやすく、周囲の環境と調和し難いものであること、本件現場付近の街路樹には同一のポスターが数多く掲出されているが、被告人の本件所為はその一環としてなされたものであることが認められ、以上の事実関係の下においては、前述のような考慮を払ったとしても、被告人の本件所為の可罰性を認めた原判決の結論は是認できないものではない。したがって、本件の上告棄却の結論はやむをえないものと思われる。」
 ここで、私が下線を付した箇所に述べられているのが、定義付け比較衡量という手法である。つまり、比較の基準のうち、一方は「表現の価値の有する利益」ということで、明確に定義できる概念である。こちらを固定した上で、秤の他方の皿に、美観風致の価値の有する利益を載せて、両者を比較する、という方法である。
 実際の大分県屋外広告物条例事件の場合には、貼ったビラは26枚にとどまり、かつビラの大きさは縦約60cm、横約42cmの大きさであった。ただ、引用箇所の最後のパラグラフにあるとおり、周辺に大量の同種広告物が存在しているため、全体として町の美観を破壊していると認められたことが比較考量において、被告側に不利に働いた訳である。
 しかし、それでは少々難しいので、単純に諸君の価値観に響くように、ビラの大きさを皿に大きく設定し、かつ100枚と数量を多くしてある。他方、駅前広場、繁華街という条件で、相対性が強いことも明確に作問した。
 このような事実関係の下においては、他にどのような広告物があるのか、というような点も含めて情報が提供されないと、最終的にYの行為が処罰対象になるかならないかは判らない、ということが判ると思う。つまり、本問のような問題で、確定的に、Yの行為を本件条例で処罰可能かどうかは、不明であると言うことを理解しておいてほしい。Yが本件条例違反である、と書いたりした場合には、それは誤答である。書くべきは、このような事例では、定義づけ比較考量基準を使用するのが妥当である、というところまでなのである。