パブリシティの権利

甲斐素直

問題

 出版社Yは、世間で今、最も注目されているアイドルグループXの「おっかけマップ」を作れば大きな売り上げが期待できると考え、Xの承諾を得ること無しに同書を作成し、11万円で出版した。

 その本には、Xに属するそれぞれのタレントの写真と共に、その自宅や通学する学校等の所在地が市・区以下の町名まで特定して示され、その場所を示す地図と、自宅等の写真が掲載されている。地図には最寄り駅や付近の目印となる施設、商店などが記載されており、この地図を持って最寄り駅に出向きさえすれば、これらの情報によって自宅等を容易に捜し出すことのできる内容になっている。

 この本が発売されることをYの広告で知ったXは、X所属タレントの氏名権、肖像権等の侵害であるとして、その出版差し止めと損害賠償を求める訴えを提起した。

 口頭弁論において、Yは次の様に主張した。

「一般人であれば、濫りにその氏名を第三者に使用されたり、又はその肖像を他人の眼にさらされたりすることは、その人に嫌悪、羞恥、不快等の精神的苦痛を与える場合があり、プライバシーの権利が成立する場合があることは認める。しかし、俳優等の職業にあっては、自己の氏名や肖像が広く一般大衆に公開されることを希望若しくは意欲しているのが通常であって、それが公開されたからといって、一般人のように精神的苦痛を感じないから、その使用の方法、態様、目的等からみて、その俳優等としての評価、名声、印象等を毀損若しくは低下させるような場合はともかく、その人気を向上させる本書によるプライバシー権侵害はあり得ない。しかも、本書の内容は公知の事実を編集したものであるので、本質的にプライバシー権侵害は成立しない。したがってYの出版の自由を侵害することは許されない。」

 このYの主張に対し、Xは次の様に反論した。

Xのように、固有の名声、社会的評価、知名度等を獲得した俳優等の氏名・肖像を商品に付した場合には、当該商品の販売促進に効果があることは公知のところであり、Yによる本書の出版はまさにそれを狙ってなされている。そして、俳優等の氏名・肖像がもつかかる顧客吸引力は、当該俳優等の獲得した名声、社会的評価、知名度等から生ずる独立した経済的な利益ないし価値であるから、Xはかかる顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価値を排他的に支配する財産的権利を有する。したがって、この権利に基づき、Xはその侵害行為に対してはその差止めと、それにより受けた経済的利益の侵害に対する賠償を求めることができる。」

 X及びYの主張について憲法上の問題を述べよ。

[はじめに]

(一) 出題者は、肖像権の勉強をしたい、という希望で本問を作問した。本稿にはパブリシティの権利と表題を付けたが、これは、近時主張されるようになった新しい権利である。そもそもそのような権利が認められるのか、というところから議論は分かれ、認めるとする場合にも、パブリシティ権の一環として肖像権や氏名権があるのか、それともパブリシティ権とは別の権利として肖像権等があるのか、という点についても学説、判例が分かれているという発展途上の権利である。その意味では、今の時点でこの様な問題が国家試験で出るとは思えず、少々難しすぎるのでは無いかと思ったのだが、出題者のたっての希望で取り上げることとした。先週に続いて、今週もこういう難しい問題で、ゼミ生諸君の向学心に水が差されるのではないかと少々気にしている。この問題は、できなくとも良い問題と肩から力を抜いて、論文のとしての骨格などがきちんと書けているか、という事を気にして書いて欲しい。

(二) 肖像権という概念は、大きく二つに分けることができる。第一は、人格権の一環としてのプライバシーの権利の枠内で考えられる権利である。第二は、財産権の一環としてのパブリシティの一環として考えられるものである。

 出題者の当初の作問では、訴えの提起で問題が終わっていた。その場合には、プライバシー権とパブリシティ権の双方を論じる必要があり、回答が複雑になる。そこで、問題を簡易化する狙いから、Yの主張とXの反論を問題文に追加した。すなわち、Yは、Xにはプライバシー権が成立するための要件が存在しないことを主張している。これに対して、XYの主張そのものは争わず、パブリシティ権を主張したのである。民事訴訟法で習ったとおり、当事者が争わない点については裁判所は判断してはならない。その結果、本問ではプライバシーの成否については、論じる必要は無いことになる。

 しかし、両概念はある程度の範囲までは共通の部分もあり、また諸君の答案を見る限り、有名人のプライバシーをどう考えるべきか、判っていないと思われたので、本稿ではまずプライバシーの権利の一環としての肖像権をまず説明し、それとの対比でパブリシティの一環としての肖像権を説明することとする。

一 プライバシーの権利の一環としての肖像権

(一) プライバシーの権利

 プライバシーの権利は、その誕生した時点がきわめて明確に判っているという珍しい権利である。すなわち、1890年に、ウォ-レン(Samuel D. Warren)とブランダイス(Louis D.Brandeis)という二人の若い法律家の連名で発表された“The Right to Privacy”という論文がハーバード大学ロースクールの紀要である『ハーバード・ロー・レビュー』45号に上梓されたときが、その誕生の瞬間である。ちなみに、二人の筆者のうち、後者は後年ブランダイス・ルールで有名になる名判事の若き日の姿である。この二人がこの論文を執筆した動機は、ウォーレンの妻がストーカーに悩まされていたが、そうした被害に対して、従来の名誉毀損では対応できないため、それに対応できる新しい権利を必要と考えたためであった。

(二) プライバシーの権利の一環としての肖像権

 このような新しい人権の必要は、この当時既に多くの人が認識していたため、その時点では無名の若者達の論文であったにも拘わらず、この論文は大きな社会的反響を呼んだ。

 プライバシー権が米国の判例で最初に認められたのは1905年のジョージア州最高裁判所の“Pavesich v. New England Life Insurance Co. ”事件判決(122 Ga.190,50 S.E.68(1905)=以下「ペイブジック事件」という。)である。この事件は、まさに肖像権が問題になったという意味において、本稿とも重要な関係がある。

 事件は、被告となった保険会社が、原告ペイブジックを勝手に撮影し、本人に無断でその写真を新聞広告に使用したというものである。その広告では、彼の写真を粗末な服装の男性の写真と並べて掲載し、それぞれに保険に加入した人と加入する機会を逃した人という言葉を添えている。つまり、この広告でペイブジックは社会的成功者として掲載されているから、名誉毀損としては訴えることができない。

 ジョ-ジア州最高裁判所は、ウォ-レン及びブランダイスの説に基づき、プライバシ-の権利を一つの法的権利として存在を承認し、原告のプライバシ-は真に侵害されていたという理由で、原告に有利な判決を下し、損害賠償を認めたのである。この判決はリ-ディング・ケ-スとなった。こうして米国ではプライバシ-権は肖像権という形で最初に認知されたのである。

(三) わが国における受容

 諸君に非常にしばしば見られる問題に、私法上のプライバシーと公法上のプライバシーの区別がついていない、という点がある。簡単に説明する。

 私法上のプライバシーは、上記説明で判るとおり、他の私人から私生活を秘匿する権利のことで、専ら私人間紛争の形態をとる。これに対し、公法上のプライバシーは、専ら対国家的関係で考えられる権利である*1。この種プライバシーを、人格的自律説から説明する場合には、自己情報コントロール権という概念の展開という形で論じられる*2。この二つは、意義・要件・効果の総てに渡って全く別の権利で、そのため、例えば、憲法判例百選においても、前者の判例は精神的自由権の章に掲載されているのに対して、後者の判例は人権総論の章に掲載されている。

 わが国において、肖像権を承認した最初の判決は京都府学連事件最高裁判所判決だとよく言われる。これは、本稿との関係では正しくない。なぜなら、その事件は国家と国民の関係における肖像権、すなわち公法上のプライバシー権に関するものであって、本稿が問題としているブランダイス達が考え出した私法上のプライバシーの一環としての肖像権に関するものでは無いからである。

 しかし、重要な判決なので、その述べていることを引用しておく。

「憲法13条は、『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』と規定しているのであつて、これは、国民の私生活上の自由が、警察権等の国家権力の行使に対しても保護されるべきことを規定しているものということができる。そして、個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態(以下「容ぼう等」という。)を撮影されない自由を有するものというべきである。これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、憲法13条の趣旨に反し、許されないものといわなければならない。」

 この判決により、肖像権と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも警察に代表される国家権力によってみだりに容貌等を撮影されない権利というものが、憲法のレベルで考えられるということは判例的に確立したと言える。以後、多数の判決がこの判例に依拠する形で論じているからである。代表的なものとして、自動車速度監視装置による撮影(昭和61214日最高裁判所判決)がある。

 これに対し、私人間においても肖像権という概念を認めることができるとした判例は、現在までのところ、最高裁判所レベルには存在しないが、すでに多くの下級審判例の認めるところとなっていて、判例的には確立していると言える。最初の下級審判例は、動労帯広運転区事件札幌高等裁判所判決(昭和52223日)である。事件は、動労組合員が列車の運行を妨害する活動を行っているところを国鉄社員が8mmカメラで撮影したのに対し、組合員がそのカメラを奪い取ったという事が問題なったものである。その行為について、組合員が自らの肖像権を守るためと主張したのに対し、裁判所は次の様に述べた。

「個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有することはもちろんである。このことは、その写真撮影行為が、警察権等の国家権力の行使として行なわれる場合だけでなく、一般私人によつて行なわれる場合であつても同様である。しかしながら、個人の有する右自由も、いかなる場合にも無制限に保護されるものではなく、他の法益を保護するため必要のある場合には、合理的な範囲で相当の制限を受けることがあるといわねばならない。そして、一般私人が、被撮影者の承諾なしにその容ぼう・姿態を撮影することは、次のような場合には右自由の侵害として違法かつ不当とはいえず、許容されるものと解すべきである。すなわち、その写真撮影の目的が、正当な報道のための取材、正当な労務対策のための証拠保全、訴訟等により法律上の権利を行使するための証拠保全など、社会通念上是認される正当なものであつて、写真撮影の必要性及び緊急性があり、かつその撮影が一般的に許容される限度をこえない相当な方法をもつて行なわれるときである。」


二 パブリシティの権利の一環としての肖像権

(一) パブリシティの権利とは?

 パブリシティの権利(right of publicity)とは、有名人の名前、イメージ、肖像またはその他、その人の個性(Identity)の明確な側面の商用利用を制御することを内容とする個人の権利である。これは、一般的に財産権に属する個人権として、人格権であるプライバシー権に対置される。財産権であるが故に、権利は、個々人の死を超えて存在することができる。もちろん、どの限度で生き残るかは、司法判断に依存することになる。

 米国では、この権利は判例では無く、法律レベルで承認されることで発達した。但し連邦法ではなく、州法の定めるところなので、どの限度でパブリシティの権利が認められるかは州により異なる*3。

 例えば、ニューヨーク州の場合、プライバシーの権利と題しているが、内容は次のとおり、広告目的の肖像権侵害だけを問題としており、明確にパブリシティの権利を含むものとなっている。

CIVIL RIGHTS LAW ARTICLE 5. RIGHT OF PRIVACY

§ 50. Right of privacy

A person, firm or corporation that uses for advertising purposes, or for the purposes of trade, the name, portrait or picture of any living person without having first obtained the written consent of such person, or if a minor of his or her parent or guardian, is guilty of a misdemeanor.

広告目的で、人、会社、法人の名前ないし生きている人の肖像または写真を、事前にその人の文書による同意を得ずに、ないし未成年の場合にはその親または後見人の同意を得ずに、使用した場合は軽罪として有罪である。

 肖像権のうち、このパブリシティ権に属するタイプは、個人のイメージないし肖像を商業的に利用するに当たり、本人の許可または契約に基づく補償なしでは使用されないという権利で、これは商標(トレードマーク)の利用と類似している。その結果、コモンローにおいては、パブリシティ権は、パッシングオフ(passing off)の不法行為に分類される。

 パッシングオフというのはあまり聞き慣れないと思うが、無理に日本語に直すと「詐称通用」となる。すなわち、登録しているかどうかはともかく、既に他者が使用している商標と類似した商標を許可無く使用するという形態で行う知的財産権に対する侵害をいう。米国判例は、実質的にこの権利を拡張して、ひろくパブリシティ権を認めるようになったのである。

 米国の場合、この権利概念を是認するために引用される一般的根拠は、自然権に基づき、あらゆる人は、自らの「ペルソナ“persona”」(仮面=表に現れる仮の人格)が第三者によって商業利用することを制御する権利を持つべきだという考えである。

 もう少し砕いて言うと、有名人が社会に見せている顔は、その真実のものでは無く、その人が伝えたいと考えて、努力して作り出したものである。例えば、美川憲一という歌手がいる。彼はデビュー当時はごく普通の男性として振る舞っていたが、ヒットに恵まれなかった。そこで服装を女性的にし、おねえ言葉を使うなどの努力により、特異のキャラクターを作り出してスターになったのである。このように、有名人が社会に見せている顔は、大なり小なり、その人物の知的生産物である。だから、それを他人が許可無く使うことは許されない。この結果、パブリシティの権利は、人格権ではなく、財産権であると考えられるのである。

(二) 有名人のプライバシー権とパブリシティ権

 私法上のプライバシーの権利の一環としての肖像権の場合、この点に関する最高裁の判断はまだ示されていないが、有名人に関しては、当然に縮減されることが想定される。それを端的に述べたのが、本問におけるYの主張に明らかである。

 例1 マーク・レスター事件

 実は、このYの主張は、有名人のプライバシー成立を否定したマーク・レスター事件東京地方裁判所判決の一部を、本問に合わせて修正しつつ引用したものである。この事件は、映画の主演者であるマーク・レスターが、映画の上映権・宣伝権を有する会社が、映画の宣伝手段として、彼に無断でその映画中の「肖像」を「テレビコマーシャル」に提供したに対して、主演者の肖像・氏名についての利益を侵害したとして、損害賠償請求をしたというものである*。東京地裁昭和51629日判決は、第一に、プライバシーの権利の一環としての肖像権については次の様に述べた。

「人気を重視するこれらの職業にあっては、自己の氏名や肖像が広く一般大衆に公開されることを希望若しくは意欲しているのが通常であって、それが公開されたからといって、一般市井人のように精神的苦痛を感じない場合が多いとも考えられる。以上のことから、俳優等が自己の氏名や肖像の権限なき使用により精神的苦痛を被ったことを理由として損害賠償を求め得るのは、その使用の方法、態様、目的等からみて、彼の俳優等としての評価、名声、印象等を毀損若しくは低下させるような場合、その他特段の事情が存する場合(例えば、自己の氏名や肖像を商品宣伝に利用させないことを信念としているような場合)に限定されるものというべきである。」

 他方、パブリシティの権利からくる肖像権については次の様に述べた。

「俳優等は、右のように人格的利益の保護が減縮される一方で、一般市井人がその氏名及び肖像について通常有していない利益を保護しているといいうる。すなわち、俳優等の氏名や肖像を商品等の宣伝に利用することにより、俳優等の社会的評価、名声、印象等が、その商品等の宣伝、販売促進に望ましい効果を収め得る場合があるのであって、これを俳優等の側からみれば、俳優等は、自らかち得た名声の故に、自己の氏名や肖像を対価を得て第三者に専属的に利用させうる利益を有しているのである。ここでは、氏名や肖像が、(一)で述べたような人格的利益とは異質の、独立した経済的利益を有することになり(右利益は、当然に不法行為法によって保護されるべき利益である。)、俳優等は、その氏名や肖像の権限なき使用によって精神的苦痛を被らない場合でも、右経済的利益の侵害を理由として法的救済を受けられる場合が多いといわなければならない。」

 ただ、上記のように、映画の上映権・宣伝権を有する会社が、映画の宣伝手段として映画中の「肖像」を使用したに過ぎないものであったために、パブリシティの権利も否定されたのである。

 
例2 中田英寿事件

 有名人において、プライバシーの権利は、完全に消滅してしまうのだろうか。それとも一定の範囲では認められるのだろうか。

 この点については、サッカー選手中田英寿に関する東京地方裁判所平成12年2月29日判決が興味深い。

 この事件は、プロサッカー選手中田の生立ちを著述した書籍について、中田が、パブリシティ権、プライバシー権並びに著作権(複製権)及び著作者人格権(公表権)に基づいて出版の差止め及び損害賠償を求めたのに対し、プライバシー権及び著作権の侵害のみを認めた事案である。

 諸君もよく知るとおり、私法上のプライバシー侵害が成立するには、「宴のあと」事件東京地方裁判所判決が確立した、

(1) 私生活上の事実又はそれらしく受け取られる事柄であること、
(2) 一般人の感受性を基準として他人への公開を欲しない事柄であること、
(3) 一般に未だ知られていない事柄であること、

という一連の要件が必要であることが、一般に認められている。この事件の判決は、これにさらに有名人としての特殊性から

(4) 公表によって被害者が不快、不安の念を覚えるものであること、

という基準も必要とした上で、結論として次の様に述べている。

「原告の出生時の状況、身体的特徴、家族構成、性格、学業成績、教諭の評価等、サッカー競技に直接関係しない記述は、原告に関する私生活上の事実であり、一般人の感性を基準として公開を欲しない事柄であって、かつ、これが一般の人々に未だ知られていないものであるということができる。そして、これが公表されたことによって原告は重大な不快感をおぼえていると認められる。さらに、幼少時代に出席した結婚披露宴でのものなど、サッカーという競技に直接関係しない写真や、本件詩についても、右と同様に解することができる。
 したがって、本件書籍にこれらを掲載した行為は、原告のプライバシー権を侵害するものというべきである。

 このように、プライバシーの権利の一環としての肖像権は、その人格の属性の公開を、本人の許可無しには、許可しない権利である。上記ペルソナという言葉を使って説明すれば、有名人が自ら作り出したペルソナの陰に隠れている真実の人格は、有名人の場合と雖も、当然プライバシーの権利によって守られなければならないのである。

 それに対して、パブリシティの権利が成立するためには、それに先行して、その人物のペルソナが社会的に確立している必要がある。この事件で、氏名・肖像等の使用に関するパブリシティの権利の成立については、裁判所は次のように述べた。

「その使用目的・方法及び態様を全体的かつ客観的に考察すると、その氏名・肖像等の持つ顧客吸引力に着目して専らこれを利用しようとするものであるとは認められないから、法的保護の対象としてパブリシティ権を認める見解をとったとしても、前記書籍出版行為が同サッカー選手のパブリシティ権を侵害するということはできない。」

 つまり、パブリシティ権が成立するには、第一に、芸能人、プロスポーツ選手等の有名人に、その氏名、肖像等から生ずる顧客吸引力の持つ経済的な利益ないし価値が存在していなければならないとしたのである。

 
例3 「おニャン子クラブ」事件

 この事件判決(東京高判平成3年9月26日)は、パブリシティ権に基づく請求をはじめて認容したものとして有名である。本問のX側の主張は、この事件判決を一部修正したものである。

 この事件で原告となったのは、フジテレビが昭和六〇年四月一日から放映したテレビ番組「夕やけニャンニャン」の中での募集に応じたテレビタレントで結成された「おニャン子クラブ」と命名された集団に属するタレント、新田恵利、國生さゆり、渡辺満里奈、渡辺美奈代の氏名及び肖像写真が表示してあるカレンダーを、被告が勝手に製作し、販売したというものであった。

 東京高裁は次の様に述べた。

「固有の名声、社会的評価、知名度等を獲得した芸能人の氏名・肖像を商品に付した場合には、当該商品の販売促進に効果をもたらすことがあることは、公知のところである。そして、芸能人の氏名・肖像がもつかかる顧客吸引力は、当該芸能人の獲得した名声、社会的評価、知名度等から生ずる独立した経済的な利益ないし価値として把握することが可能であるから、これが当該芸能人に固有のものとして帰属することは当然のことというべきであり、当該芸能人は、かかる顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価値を排他的に支配する財産的権利を有するものと認めるのが相当である。したがって、右権利に基づきその侵害行為に対しては差止め及び侵害の防止を実効あらしめるために侵害物件の廃棄を求めることができるものと解するのが相当である。」


三 本問のアウトライン

 ここまで、駆け足的に私法上のプライバシーの権利及びパブリシティの権利の概要を紹介してきた。ここまで見てきたように、これらの権利は、それ自体としては、いずれも純然たる私法上の権利であって、憲法上の権利では無い。それにも関わらず、これを憲法学で検討する必要があるのは、これらの権利の成立が認められると、憲法の認める重要な人権である表現の自由が、その限度で縮減してしまうためである。

 憲法13条の定める「公共の福祉」の概念として、今日、通説・判例ということができる一元的内在説に依る限り、人権を制約できるのは、他者の人権である(これ以外に、今日では自己加害の禁止という人権制約要素を認めるが、その点については本稿では論じない)。したがって、表現の自由を制約しうるものである以上、プライバシーの権利もパブリシティの権利も、人権としての性格を有していると考えなければならない。

 その論理を簡単に紹介しよう。

 第一に、13条の無名基本権の法的性格を論じる。この過程で、人格的利益説に立つのか、一般的行為自由説に立つのかを明らかにし、何故そう考えるのかを説明する(紙幅的に無理があるときには、結論だけを述べて理由は手抜きする戦略もあり得る)。

 第二に、プライバシー権またはパブリシティ権がどのような権利なのかを説明する。次いで、13条に基づいて具体的権利性を有するための要件は何かを論じる。そして、具体的事件において、どのような要件が存在する場合に、法律を待たずして権利の成立を認めうるかを論じる。

 プライバシー権については、先に触れたとおり、宴のあと事件東京地裁判決が挙げた3要件テストが有名である。

 それに対し、パブリシティの権利の場合には、むしろ知って欲しいという努力をしている点に特徴がある。顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価値を排他的に支配する財産的権利をきちんと論証することが必要となる。

 第三に、その限界を論じる必要がある。

 この三つの段階のうち、第二の段階は既に説明したところなので、以下では、第一と第三を説明する。

四 幸福追求権

 プライバシーの権利もパブリシティの権利も、憲法13条の幸福追求権の一環として肯定される。したがって、本問を論ずるにはまず幸福追求権に関する若干の説明が必要になる。これは難しい問題なので、以下では、諸君の知識を整理する狙いから、少し詳しく説明したい。

(一) 包括的基本権の必要性

 人権を分類する場合、以前はイェリネックの積極的関係(受益権)、消極的関係(自由権)、能動的関係(参政権)、受動的関係(義務)の4分類が基本であった。その後、権利のカタログには生存権的基本権というニューフェイスが加わったが、これは理念的には積極的関係と言うことで比較的容易にこの分類に組み入れることができる。この結果、いまでも多くの学者の行う権利の分類は、何らかの意味でこの分類法の影響下にある。しかし、完全にこの分類に従う例はまず無い。それは、これらのいずれにも属さないものとして、包括的権利という概念を多かれ少なかれ認める必要が生じてきたからである。

 それは、特に憲法13条が規定する幸福追求権をめぐって発生する問題である。これについては、かって公共の福祉否定説が説いたように、単なる訓示規定だとして、法規範としては無視する方法もある。しかし、近時、社会・経済情勢の変動に伴って、現行憲法のカタログには載っていない新しいタイプの人権を、学説は承認する必要に迫られている。また、例えば名誉権や生命権のように、すでに確立している権利でありながら、人権カタログに掲載されていない権利も決して少なくない。

 したがって、人権カタログに搭載されているものだけが、この憲法で人権として保障されるものである、というような硬直的な姿勢は明らかに誤っている。その場合、解釈法学としては、いきなり慣習法に根拠を求めるよりも、なんらかの憲法の明文の規定に根拠を求める方が、体系的に見て、より好ましい行き方といえる。米国憲法の場合には、第5修正及び第14修正が定める適正手続き条項の解釈から、強引に新しい人権を認めている。 それに対してわが国の場合、総則的な位置にあり、抽象的な言葉が使用されている「幸福追求権」は、まさにそれにふさわしい規定であり、米国の解釈よりもあきらかに無理が無い。

 こうして、いま、仮に人権カタログに掲記されている人権を有名基本権を呼ぶならば、幸福追求権は、人権カタログに明記されていない「無名基本権」を包括的に保障するための根拠規定と理解することが出来る。

(二) 幸福追求権の性質

  1 法的権利性について

 13条が、その根底としているのは、現行憲法がその最高の基本原則としているところの個人主義である。そのことは、第1文が「すべて国民は個人として尊重される」と述べている点に端的に現れている。この規定が、すべての基本的人権の基礎となる条文である、と言うことは、人権そのものが個人権であることを端的に示している。

 わが憲法13条は、その由来的にはアメリカ独立宣言と非常に密接な関係にある規定である。すなわち、その第2節第2文は「すべての人は平等に作られ、造物主によって一定の奪うことの出来ない権利を与えられ、その中には生命、自由及び幸福の追求が含まれる。」と述べている。独立宣言は、いわゆる人権宣言ではない。彼らはこれにより、イギリスに対する抵抗権の存在と、自らの統治機構を制定する権利とを確認したのである。したがって、わが13条についても、ここから我々は、さまざまの公的制度の創設権を読みとることができる。その意味で、これは基本的に政治的プロパガンダではあっても、かっての通説が説いた訓示規定では元々あり得ないものだったのである。

  2 具体的権利性について

 本条が無名基本権に関する法的権利性を承認するものとして、では、抽象的権利を保障するにとどまるのか、それとも裁判において特定の個人の権利として救済を求めることができるような具体的権利を保障するものであるのか、という点が次に問題となる。なお、ここに、抽象的権利にとどまるとは、裁判で権利主張を憲法自身に基づいてすることは許されず、それは国会によって憲法を具体化する法律の制定を待って始めて可能になる、という意味である。

 これについては、例えば「具体的権利となるためには権利の主体とくにそれを裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法などが明らかにされねばならず、これらは13条のみから引き出すことはむずかしい(伊藤正己『憲法』新版、229頁)」として、これは抽象的権利を保障したに過ぎず、新しい人権は立法の根拠を必要とするという考え方もある。

 しかし、社会の変遷に伴って、人権カタログに掲載されていない新しい種類の人権が生まれ、その権利の主体や射程範囲に至るまで詳細に、社会の人々の法的確信によって支持されるような状態になった結果、具体的権利性を認められる人権について、13条を根拠に直接肯定することが許されないか、という方向から考えるべきである。

 ここまでは、人格的利益説を採っても、一般的行為自由説を採っても議論の流れは同じである。ここからは説による対立が生ずることになる。諸君の中には一般的行為自由説をとる人はいないと想定し、ここでは人格的利益説だけについて説明する。

(三) 人格的利益説による権利の限界

 人格的利益説を採る場合、

「確かに幸福追求権という観念自体は包括的で外延も明確でないだけに、その具体的権利性をもしルーズに考えると人権のインフレ化を招いたり、それがなくても、裁判官の主観的価値判断によって権利が創設されるおそれもある。
 しかし、幸福追求権の内容として認められるために必要な要件を厳格に絞れば、立法措置がとられていない場合に一定の法的利益に憲法上の保護を与えても、右のおそれを極小化することは可能であり、またそれと対比すれば、人権の固有性の原則を生かす利益の方が、はるかに大きいのではあるまいか。この限度で裁判官に、憲法に内在する人権価値を実現するため一定の法創造的機能を認めても、それによって裁判の民主主義的正当性は決して失われるものではないと考えられる。こう考えると、幸福追求権の内容をいかに限定して構成するか、ということが重要な課題となる。」

(芦部信喜『憲法学Ⅱ』341頁より引用)

 そして、その絞り込みの手段として、「人格的利益」という概念を使用する。その意味として佐藤幸治は、近時「前段の『個人の尊厳』原理と結びついて、人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(佐藤『憲法』第三版445頁)とした。さらに人格的自律を敷衍して「それは、人間の一人ひとりが”自らの生の作者である”ことに本質的価値を認めて、それに必要不可欠な権利・自由の保障を一般的に宣言したもの」(同448頁)と説明する。こう論ずることによって、人格的自律権とはいわゆる自己決定権と同義であり(同459頁参照)、私法上で論じられるところの「人格権」とは全く無縁の概念であることがようやく明らかになったのである。注意するべきは、幸福追求権を人格自律権そのものと主張しているのではない点である。すなわち、それを中核としつつも、それから派生する一連の権利も含めた総合的な権利と把握している。

 この人格的自律性は、社会道徳によって支えられた自律である。つまり、幸福追求とは、人は「道徳的自律の存在として、自ら善であると判断する目的を追求」(同453頁)することをいうのである。この結果、人権の意義・要件・効果は、基本的には、社会道徳を通じて形成される。

 佐藤幸治は、「確かに人格的生存に不可欠といった要件は明確性を欠くとは言えようが、それは歴史的経験の中で検証確定されていくことが想定されている。法的権利として『基本的人権』という以上そこには一定の内実が措定されているものというべく、憲法が各種権利・自由を例示していることの意味も考えなければならない」(同上447頁)とする。

 すなわち、「歴史的経験」を通じて、伊藤正巳が指摘した憲法に規定されていない新しい人権を「裁判で主張できる当事者適格、権利の射程範囲、侵害に対する救済方法など」が、具体的権利と呼びうる状態にまで到達している場合には、我々は、そこに具体的権利性を承認することができる。

 本問に関して言えば、パブリシティの権利という人権に具体的権利性を承認するには、それを主張できる当事者としての「有名人」という概念や、権利の効果として、本問でXが主張したように、氏名権、肖像権等の侵害である限度において、その出版差し止めと損害賠償請求が認められること等の要件が、明確に社会の中の人びとの法的確信に支えられるレベルに到達していれば、具体的権利と言うに足りると言えるのである。

五 プライバシー権及びパブリシティ権の限界

 かつて、宮沢俊義は、憲法13条の公共の福祉という語の理解にあたり、内在的一元論を説いた。そこでは、公共の福祉という人権の外部にある確定的な概念により人権が制限されることを否定した。それに代わって、人権を制約するものは人権であると説明する。二つの人権が衝突し、比較考量して、その調和点として特定の人権が、その場合ごとの限界に服して承認されることになるのだ、と考えるのである。たとえば、人を殺す権利や人の物を盗む権利もあるが、それはそれぞれ他者の生命権や財産権に衝突する限度で否定されると説明するのである。

 このような考え方をする場合には、あらゆる場面において、人権は比較考量に基づいて承認されることになる。本問の場合であれば、プライバシー権ないしパブリシティ権と表現の自由が衝突し、両者の比較考量に基づいて、どの限度でプライバシーが認められるかが論文の組み立てとなる。

 しかし、その後、学説は大きく変化した。人権の存在を、人間の尊厳に基づいて当然に認められるという、宮沢流の素朴な理解に換えて、より掘り下げた根拠に基づいて説明するようになったのである。その代表が、人格的利益説と一般的行為自由説である。

 人格的利益説は、その前提に社会道徳を置く。道徳的に見た場合、それが善であると判断されることはあり得ない行動は、人権に昇華することはあり得ない。例えば、殺人は、人を殺す人権が、人の生命権の比較考量によって、抑制されるのでは無く、本来人権では無いのである。

 このことを表現の自由に投影して考えてみよう。人の名誉を傷つけるような表現行為は、社会道徳的に見て、そもそも許されるのであろうか。それは、あきらかに表現行為の乱用と言うべきで、認められないというべきであろう。だからこそ、旧憲法時代から、刑法230条は、名誉毀損を当然に処罰対象と定め、また、民法723条も名誉権の侵害を709条とは別に構成要件を定めてまで、損害賠償の対象と認めてきたのである。

 同じことは、プライバシーの権利についても言える。人の陰口をたたく権利などというものは社会道徳的にゆるされない。したがって当然、プライバシーの侵害となる表現行為は原則的に許されない。その意味で、私人間では、プライバシー権は、表現の自由に優越する権利である。この結果、プライバシーと表現の自由の比較衡量という考えは生ずる余地が原則としてない。他者の権利を侵害するような権利行使が許されない(民法709条)のは私法上当然のことといえる。

 しかし、プライバシーが成立する場合にも、人によっては、それを侵害するような表現行為を忍受しなければならない。その忍受義務が生ずる場合に限り、比較衡量的な議論が必要となる。

 第一に、公的地位を有する者であれば、その公的地位の程度に応じてプライバシーが認められても、忍受すべき場合が生ずる。例えば、名誉毀損罪に関する事件であるが、最高裁は、次のように述べた。

「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法230条の21項にいう『公共の利害に関する事実』にあたる場合があると解すべきである。」

雑誌『月刊ペン』事件(最判昭和56416日=百選5144頁)

 すなわち、名誉毀損でさえも許容されるのであるから、それよりも権利侵害の程度が低い、と一般的に考えることのできるプライバシーに属する場合に、その主体の公的地位によっては、その公的活動に対する批判ないし評価の一資料として表現行為が許容される場合が考えられることになる。この場合、表現それ自体よりも、それが奉仕する対象である国民の知る権利が対立する利益として登場してきている、と考えるべきであろう。

 第二に、ノンフィクション「逆転」事件において、最高裁は、次のように述べて、そのさらなる限界を明らかにした。

「ある者の前科等にかかわる事実は、他面、それが刑事事件ないし刑事裁判という社会一般の関心あるいは批判の対象となるべき事項にかかわるものであるから、事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合には、事件の当事者についても、その実名を明らかにすることが許されないとはいえない。また、その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判あるいは評価の一資料として、右の前科等にかかわる事実が公表されることを受忍しなければならない場合もあるといわなければならない(最高裁昭和五五年(あ)第二七三号同五六年四月一六日第一小法廷判決・刑集三五巻三号八四頁参照)。さらにまた、その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合には、その者が公職にあることの適否などの判断の一資料として右の前科等にかかわる事実が公表されたときは、これを違法というべきものではない(最高裁昭和三七年(オ)第八一五号同四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁参照)。」

 本問の場合、Xは、その有名人であるが故に、一般人よりもプライバシーの範囲は縮減するのは、このような論理を通じてである。しかし、本問では、ここに述べたような特段の事情が述べられていない。すなわち、YはひたすらXの持つ顧客誘引力という経済的利益を獲得する目的で、本問の図書を作成しているのである。したがって、ノンフィクション逆転判決的なな意味における侵害受忍はXにはない。したがって、Yがペルソナの陰の真の姿を露呈させるものである場合には、先に紹介した中田英寿事件のような論理で、Yの行為はプライバシー侵害と評価される可能性が出てくる。

 しかし、Yが主張したように、Yの本がすべて公知の事実によって構成されている場合には、宴のあと判決の定立した3要件の一つ、「(3) 一般に未だ知られていない事柄であること」という要件が欠落することになるから、プライバシー侵害は発生しないことになる。

 それに対して、パブリシティ権の場合には、Xの持つ、顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価値を排他的に支配する財産的権利という経済的利益と、Yの持つ本件図書を刊行することによって得られる経済的利益という、経済的利益同士がここでは衝突している。したがって、基本的には両者の利益を考量して、どちらの主張が正しいかを判断することになる。

 Yが主張したように、Xは本来「自己の氏名や肖像が広く一般大衆に公開されることを希望若しくは意欲している」職業に従事しているから、記事の一部に氏名や写真が掲記される程度であれば、パブリシティ権の侵害を受忍するべき範囲と言えるであろう。しかし、本問のように本全体がXの顧客吸引力に依存している場合には、侵害と評価される可能性が高い。

 なお、本問の出題者はおそらく「ジャニーズおっかけマップ・スペシャル事件」(東京地方裁判所平成101130日判決)をベースに作問したものと思われる。この事件は中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾等ジャニーズ事務所所属タレントが、プライバシーの権利に基づいて、その自宅や実家の所在地に関する情報を掲載した書籍の出版・販売等の差止めを請求した事案である。この場合には肖像権や氏名権についてはまったく争って居らず、自宅・実家の所在情報の秘匿性だけを争った点が、本問と相違している。

 裁判所はこれを受けて、宴のあと判決の3要件のいずれも満たしているとした。

「一般に、個人の自宅等の住居の所在地に関する情報をみだりに公表されない利益は、プライバシーの利益として法的に保護されるべき利益というべきであり、右のような情報を正当な理由もないのに一般に公表する行為は、プライバシーの利益を侵害する違法な行為というべきである。」

そして、芸能人としての特殊性については次の様に述べた。

「芸能人であるが故に、その職業柄、一般の人より彼らのプライバシーの範囲が狭く解される場合があるとしても、普段から喧噪状態の中に身を置くことが多い芸能人において、その自宅等の住居情報が一般に知られることを欲するはずはないのであるから、一般に芸能人がその公表を推定的にも承諾しているとはいえるはずもないし、また、芸能人であるからといってその私生活上の事実が全て公的なものになるということもできない。芸能人にとっても自宅等の住居が極めて私事性の高い空間であることは一般の人の場合と変わりがない」