取材物提出拒否権

甲斐素直

問題

 テレビ局Xでは、暴力団がかつての賭博などの活動から、債権取り立てを請け負うなどの業務で、一般社会へ進出してきていることの危険性を国民に知らせるべく、ドキュメンタリー番組を企画し、その中で、暴力団による違法な債権取り立ての様子を放送するという企画をたてた。

 Xは暴力団からの過酷な取り立てを受けている債務者Aに協力を依頼した。暴力団からの仕返しを恐れて難色を示すAから、映像や音声に処理をして誰か判らなくした上で、放送目的のためだけに使うことを条件に承諾を得て、Aの事務室に隠しカメラを設置した。その結果、債権取り立てに当たって暴力団員某がAに暴力を振るう生々しい映像を得ることが出来たので、特別番組の中で、その映像を約束通り編集した上で放映した。

 警察Yでは、放映された映像をビデオ録画して暴力団員の特定を試みたが、成功しなかったため、犯人を逮捕する目的で、Xに対し、取材フィルムの提出を要請した。しかし、Xは提出を拒否した。そこで、Yは、簡易裁判所裁判官Zの発した差押許可状に基づき、X本社内において、未放送のものを含むこの事件関連のすべての取材フィルムを押収した。

 そこで、Xは、こうした取材フィルムの押収は、取材相手との信頼関係を損なうものであり、それがひいては報道および取材の自由に重大な支障をきたすとして、押収処分の取り消しを求めて準抗告の申立てを行った。

 Xの準抗告理由における憲法上の問題点を論ぜよ。

 

[問題の所在]
 取材の自由は、報道の自由の従たる権利であり、今日における報道の自由は、知る権利との関わりを通じて理解されなければならない。したがって、その主たる論点もまた、知る権利の展開に合わせた形で把握されていく必要がある。すなわち、知る権利に奉仕する権利として、報道の自由は積極的に肯定される。他方、知る権利に奉仕する必要性から、報道の自由には一定の限界が発生する。このように、積極、消極両面ともに、知る権利に対する奉仕性から生ずる点を把握することが大切である。
 要するに、報道の自由は、なぜ一般の表現の自由とは別個に論じられるのか、換言すれば、一般の表現の自由との異質性をきちんと押さえられるか否かが、論文の出来を決定する分岐点である。このことは、表現の自由と関わりのあるあらゆる権利、例えば信教の自由や学問の自由でも同じことである。
 同時に本問の中心論点が、報道の自由ではなく、取材の自由にある点を押さえた文章となっている必要がある。さらに、本問は、取材の自由そのものでは無く、表題に掲げたとおり、取材源秘匿の権利及びその結果としての取材物提出拒否権が中心論点である。諸君の今後の学習の便宜を考え、以下の記述では、報道の自由及び取材の自由についてもかなり詳しく説明しているが、単純にそれらを転記したのでは、本問では不要の論点であったり、メインの論点が手薄なものになってしまう。その辺り、論文作成に当たって注意して欲しい。
 本問はTBSビデオテープ押収事件として知られる事件の、重要な点を改定して作ってある。すなわち、同事件の場合には、テレビ局側が暴力団と結託して作成した、いわゆるやらせ番組である。その様な手法で作成した番組において、そもそも取材の自由が主張できるのか、という根本的な問題がある。事実、この事件における最高裁判所判決の多数意見は、その点を重視して、取材の自由を否定している。そこで、そのような否定的な要素を削るべく、被害者側の協力を得て作成した、という点が大きな変更点である。その事を無視して、最高裁判所判決の理由を単純に転記すれば、やはり落第答案となってしまうので、その点も注意しよう。
 そこで問題となるのは、この事件が、これに先行する博多駅フィルム提出命令事件や日本テレビ事件*[1]とどこが違うのか、また、これらの場合の審査基準としてどのようなものを設定するか、である。当然これが大きな論点となる。
 なお、せっかくの機会であるので、この「やらせ」という問題点についても、若干紹介してみた。

 

一 報道の自由の意義
 報道の自由とは、報道機関が国民に対して客観的事実の伝達をする自由を意味する。すなわち、一般の表現の自由に比べて、伝達内容が、思想・信条ではなく、単なる事実である点に第一の特徴があり、その主体が、不特定の国民ではなく、報道機関という特定の私人である点に第二の特徴がある。
 いつも強調しているように、定義は真空中から生まれるものではない。定義を下したら、必ず、何故その様に定義を下すことができるのか、ないし下すべきであるのか、の理由を述べなければいけない。
(一) 事実の伝達
 この事実の伝達という点を押さえることは、取材の自由を中心論点とする本問では特に重要である。事実の伝達を使命とするものであるから、その事実の収集活動である取材を特に保護する必要が生ずるからである。
 かつては、表現の自由は、憲法19条の思想信条の自由を受けて、これを外部的に表白する自由を意味すると解されていた。その前提の下においては、純然たる事実の伝達は、そのままでは表現の自由の保護客体とならない。そのため、かつての通説的学説は「事実を報道することと、思想を表明することを区別することは、きわめて難しい」*[2]というような詭弁を弄して、無理に表現の自由の保護対象に取り入れていた。このような説明の下においては、報道の自由は、自民党の「自由新報」や共産党の「赤旗」のように、特定の主義主張の下に、必要とあらば真実をねじ曲げる編集をするような報道姿勢の場合には保護対象となりやすいが、報道の自由の理念に忠実に、純粋に客観的真実の報道に徹すれば徹するほど、保護から遠のくという奇妙な結論が導かれる。また、石井記者事件最高裁判決に端的に現れているように、取材の自由までは保障しないという結論が容易に導かれることになる。
 これらの見解は、報道の自由の本質を捉えて、それを真っ正面から保護しようという姿勢に立つ理論とは言い難い。その様な説明は、無益どころか、有害なものと評価すべきであろう。このような骨董品的な見解を未だに諸君が書くのは異常という他はない。
 なお、どのように論ずるにせよ、報道の自由について論ずるためには、その前提として表現の自由概念そのものを論じなければならない。表現の自由をどのような概念か、まったく述べずに、いきなり上記の「事実と思想の区別は難しい」というような議論を始めるのは、基本的に間違っている。
 今日、我々は、従来の狭い、文字通りの表現行為の自由に代わって、今日的な表現の自由として、知る権利を包含する形の表現の自由という概念を知っている。ドイツ基本法5条が表現の自由の内容として「一般に近づくことができる情報源から妨げられることなく知る権利」を保障したのは、憲法レベルにおいて、かつての表現の自由概念から訣別し、知る権利を正面から肯定した最初の例である。こうした発展を受けて、国際人権B規約(昭和41年制定、わが国の批准は昭和54年)192項は表現の自由の概念そのものが、「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」と定義する。すなわち、人権規約のいう表現の自由は、わが国の伝統的な理解に比べると、第一に、思想・信条、すなわち「考え」に限定されるわけではなく、「情報」にまで拡大されている点、第二に、「求め、受ける自由」も含む総合概念となっている点に大きな相違がある。
 もちろん、これは人権規約で定める表現の自由であって、憲法21条の表現の自由は依然としてかつての狭い概念のままである、という立場を貫くことは可能である。しかし、法律レベル以下の法規範を対象とした解釈法学では、憲法そのものの定める表現の自由か、条約が定める表現の自由かは問題にならない。法段階説的にいって、どちらの場合にも、それに違反する法律や命令は無効だからである。したがってそうした旧弊な立場を維持することは、無用に論理を複雑にする以上の何ものでもない。こうしたことから、今日の憲法学では、憲法21条の自由そのものが、あらゆる考え及び情報を求め、受け、伝える自由と理解するのが普通である。したがって、我が国が世界人権規約を批准した昭和54年以降においては、それ以前の狭い表現の自由概念を述べた学説は、解釈法学としてはその妥当性を失い、それに依拠した判例は、もはやその先例性を失っているというべきである。
 この段階で、知る権利を意義づけるに当たり、後に紹介する博多駅フィルム提出命令事件を引用して、民主主義を報道の自由の基礎とのみ説明する者がある。しかし、国民の知る権利は、単に主権者としての地位から発しているのではない。その様な説明をした場合には、知る権利の対象として保護されるのは、主権者として必要な情報に限定されることになってしまうことを、看過している。
 知る権利の本質そのものに遡った、より幅広い説明がここでは必要である。例えば、人権の本質を人格的利益説に求める立場では、各人は自らの人格を自由に発展させる権利を持つのであり、そのためには、自己を成長させるために必要なあらゆる種類の情報を、求め、または受ける権利を必然的に保有する、と説明することができるであろう。これを一言に表現すれば、「自己実現と自己統治の権利確保のために」知る権利が認められるといっても良い。こういう簡潔な表現も是非覚えてほしい。
 このように知る権利概念を使用する場合には、その権利の内容として事実の伝達が含まれることは当然のことであって、先に論及した事実と思想の区別困難というような有害無益な説明をする必要は完全に失われているのである。
(二) 報道機関による活動
 表現の自由の享有主体は、あらゆる人である。そして、表現の自由が情報の伝達を含む概念である以上、一般人が、その表現の自由権行使の一形態として客観的真実の伝達を行うことも多い。しかし、その様な活動のことを報道の自由の行使という必要はない。わざわざ、事実の伝達活動を、通常の表現の自由とはことさらに分けて、「報道の自由」というとき、それは、報道機関という特別な機関による事実の伝達活動をいうものと理解すべきである。それは、報道機関が行う事実の伝達活動は、一般人が行う事実の伝達活動に比べて、憲法上、特別の保護と、制約が課せられるからである。
 その相違は、一般人が行う事実の伝達活動は、上述したところから明らかなように、純然たる表現の自由そのものであるのに対して、報道機関の行う事実の伝達は、知る権利に奉仕する権利という点に由来する。
 この報道機関の自由を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。
 第一に、かっての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。しかも、そうした情報の多くは、国家機関に課せられている守秘義務の壁に妨げられて、一般国民が知ることが困難になっている。
 第二に、近代の複雑化した社会においては、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである*[3]。この結果、例えば、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。
 このことを、例えば博多駅事件における取材フィルムの提出に関する最高裁判所決定(昭和441126日、百選第5162頁参照)は次のように述べている。
「報道機関の報道は、民主主義社会において国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、国民の『知る権利』に奉仕するものである。」
 すなわち、民主主義云々という表現は、こうした現代社会の特徴から発生する、報道機関の持つ自由の特殊性を説明するための論理として登場するのであって、知る権利そのものの内容ではない点をきちんと押さえておかねばならない。
 この報道機関の持つ、特別の地位から、報道の自由は、一方において特別の保護が与えられる。なぜなら、上述のようにマスメディアが今日では情報の発信を独占しているが故に、その持つ報道の自由を特別に保護することによってしか、我々国民の知る権利を実効的に保障することはできないからである。
 その報道機関に対する特別の保障の結果、例えば、通常人が行えば犯罪となる場合にも、報道機関により報道の自由の一環として行われているが故に、正当業務行為とされる場合がある。その中心にあるのが、本問取材の自由という概念の下に、特に論ぜられる様々な特権である。
 他方、この知る権利への奉仕者としての地位から、報道機関の、思想・信条の表現の自由は大幅に制限される。例えば、原則的に不偏・不党が要求され、さらに一定の偏りがあった場合には、国民からのアクセス権が肯定される場合がある。このことは電波メディアには法律上明定されており、印刷メディアの場合にも、基本的に同様に考えられている。ただ、それが抽象的権利に留まるのか、具体的権利として把握することが可能なのかについて、説が分かれているに過ぎないのである。が、この点は本問では論点とはならない。

 

二 取材の自由
 知る権利に奉仕する権利としての報道の自由は、さらに三つの派生原則に分けて理解することができる。取材の自由、編集の自由及び発表の自由である。その中でも、取材の自由は、正確な事実を収集するための活動として、特に強力な保護の対象となる。
(一) 取材の自由の意義
 事実を伝達するためには、まず伝達すべき事実を収集しなければならない。報道機関が行う事実収集のための活動を取材という。取材の自由が報道の自由の一環に属するものであることは、今日においては疑う余地がない。
 しかし、最初からそうだった訳ではない。先に報道の自由に関し、初期の支配的学説は「事実の報道と思想の発表の区別は困難である」という論理を通じて肯定するという姿勢をとっていた、と述べた。このように報道の自由を表現の自由の一環として把握する立場からは、必然的に「報道が正確な内容をもつためには、その前提としてひろく取材の自由が確立していることがのぞましいが、本来の報道の自由は、取材された事実を報道する自由を意味し、当然には取材の権利をも含むと見るべきではない。」*[4]と見るべきではない」とする見解が導かれることになる。その結果、「取材源の秘密を守ることは、新聞記者の職業倫理として一般に承認されている。この倫理を法律上どのように保護するかどうかは、立法政策上の問題である。」*[5]として、取材の自由や取材源秘匿の自由は、報道の自由の一環としては保護されないとしている。このような結論も、報道の自由を表現の自由の一環として保護するとしたことから導かれているのである。
 最高裁判所判例もこれを受けて、次のように述べて、報道機関の取材活動における特権的な地位を否定していた。
「憲法の保障は、公共の福祉に反しない限り、いいたいことはいわせねばならないということである。未だいいたいことの内容も定まらず、これからその内容を作り出すための取材に関し、〈中略〉証言拒否の権利までも保障したものとはとうてい認められない」(石井記者事件=最大昭和2786日=百選第5156頁参照)
 同じ判決は、憲法21条は「一般人に対し平等に表現の自由を認めたものであって、新聞記者に特ダネの保障を与えたものではない」とも述べているが、これは逆説的にではあるが、一般の表現の自由に比べた場合の報道の自由の異質性を鋭く指摘したものと言える。
 このような判決の流れを大きく変更したのが、先に引用した博多駅フィルム提出命令事件最高裁判決である。同判決は、先の引用部分に続けて次のように述べる。
「思想の表明の自由とならんで、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあることはいうまでもない。また、このような報道機関の報道が正しい内容をもつためには、報道の自由と共に、報道のための取材の自由も、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値いするものといわなければならない。」
 この文章は、報道の自由は21条の保障の下にあるが、取材の自由は、21条の精神に照らして保障される権利という表現をとっている。先に述べたとおり、取材の自由は報道の自由を支える従たる権利であり、その意味で21条からでは読み切れないという趣旨が示されているものと思われる。つまり、厳格にいえば、取材の自由は13条の無名基本権として読むべきであろうが、その意義が21条、すなわち知る権利に照らし、極めて重要であるところから、問題なく権利性が認められるとしたのであろう。
 この博多駅事件判決では、取材の自由が法的権利であることは示されているが、抽象的権利のレベルに留まるのか、それとも具体的権利であるのかははっきりしなかった。この権利が具体的権利であることが最も端的に現れてくるのは、公務員の守秘義務を取材活動を通じて突破しようとする場合である。沖縄機密電報漏洩事件*[6]で最高裁は次のように述べた。
「報道機関の国政に関する報道は、民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、重要な判断の資料を提供し、いわゆる国民の知る権利に奉仕するものであるから、報道の自由は、憲法21条が保障する表現の自由のうちでも特に重要なものでありまた、このような報道が正しい内容をもつためには、報道のための取材の自由もまた、憲法21条の精神に照らし、十分尊重に値するものといわなければならない。そして、報道機関の国政に関する取材行為は、国家秘密の探知という点で公務員の守秘義務と対立拮抗するものであり、時としては誘導・唆誘的性質を伴うものであるから、報道機関が取材の目的で公務員に対し秘密を漏示するようにそそのかしたからといつて、そのことだけで、直ちに当該行為の違法性が推定されるものと解するのは相当ではなく、報道機関が公務員に対し根気強く執拗に説得ないし要請を続けることは、それが真に報道の目的からでたものであり、その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである限りは、実質的に違法性を欠き正当な業務行為というべきである。」
(最判昭和53531日=百選第5166頁参照)
 要するに、普通人が行えば、違法と評価される行為と客観的には完全に同一の行為が、報道機関によって行われる場合にだけ、正当業務行為と評価されることになるのである。
 ここで問題は、「その手段・方法が法秩序全体の精神に照らし相当なものとして社会観念上是認されるものである」場合にのみ、取材の自由が認められると論じている点である。冒頭に述べたとおり、TBS事件の場合、暴力団側の協力によるものである点で、はたして社会観念上妥当な取材といえるのかどうかが問題となる。妥当性を否定されれば、そもそも取材の自由の行使とはいえないからである。
(二) 取材源秘匿の自由
 取材の自由という概念が、現行憲法上認められるかどうかについて、前記の通り争いがあった以上、当然に、それから派生する権利である、取材源秘匿の自由というものが認められるかについても、学説上の争いがあった。すなわち、先に紹介した石井記者事件では、憲法21条は新聞記者に特別の保障を与えたものではない、として、これを否定した。しかし、上述の通り、報道の自由は一般の表現の自由と異なる特別な保障であり、その主体たる報道機関には特別の権利が認められると考えるときには、これは当然異なる結論となる。
 取材源の秘匿が要請されるのは、しばしば、取材源と記者の間に、取材源を明らかにしない、という信頼があって始めて正確な情報が得られることがあるためである。この結果、この内々の信頼関係が保護されることによって、正確な情報が国民に伝達されるという結果が生ずるからである。
 名誉毀損事件において、証人として証言を求められた新聞記者が証言を拒否したいわゆる島田記者事件*[7]において、札幌高等裁判所は次のように述べた(札幌高裁昭和54831日判決=昭和54年度重要判例解説参照)。
「民事訴訟法28113号において『職業ノ秘密』につき証言拒絶が認められているゆえんは、これを公表すべきものとすると、社会的に正当な職業の維持遂行が不可能又は著しく困難になるおそれがある場合にこれを保護することにあると解されるところ、これを本件について考えてみると、新聞記者の側と情報を提供する側との間において、取材源を絶対に公表しないという信頼関係があつて、はじめて正確な情報が提供されるものであり、従つて取材源の秘匿は正確な報道の必要条件であるというべきところ、自由な言論が維持されるべき新聞において、もし記者が取材源を公表しなければならないとすると、情報提供者を信頼させ安んじて正確な情報を提供させることが不可能ないし著るしく困難になることは当然推測されるところであるから、新聞記者の取材源は右『職業ノ秘密』に該ると解するのが相当である。」
 このように、取材の自由からさらに進んで取材源秘匿の権利まで導いたのである。ここに述べられた論理は、近時、日本フォーエバー・リビング・プロダクツ社をめぐって、米国裁判所より、NHK、読売新聞等の記者に対し、嘱託尋問がなされた事件*[8]において、最高裁判所も確認したところである(平成18103日最高裁判所第三小法廷決定)。すなわち、
「報道関係者の取材源は,一般に,それがみだりに開示されると,報道関係者と取材源となる者との間の信頼関係が損なわれ,将来にわたる自由で円滑な取材活動が妨げられることとなり,報道機関の業務に深刻な影響を与え以後その遂行が困難になると解されるので,取材源の秘密は職業の秘密に当たるというべきである。」
 同時に、札幌高裁は、そして、上記嘱託尋問事件における最高裁判所も、これを絶対的な保障とはしなかった。最高裁判所は次のように述べた。
「当該取材源の秘密が保護に値する秘密であるかどうかは,当該報道の内容,性質,その持つ社会的な意義・価値,当該取材の態様,将来における同種の取材活動が妨げられることによって生ずる不利益の内容,程度等と,当該民事事件の内容,性質,その持つ社会的な意義・価値,当該民事事件において当該証言を必要とする程度,代替証拠の有無等の諸事情を比較衡量して決すべきことになる。」
 しかも、ここでの比較衡量は、博多駅フィルム提出命令事件のようなアド・ホックなものではない。比較衡量に当たり、次のように、取材の自由に力点を置く比較衡量を行うことを要求するのである。
「比較衡量にあたっては,次のような点が考慮されなければならない。すなわち,報道機関の報道は,民主主義社会において,国民が国政に関与するにつき,重要な判断の資料を提供し,国民の知る権利に奉仕するものである。したがって,思想の表明の自由と並んで,事実報道の自由は,表現の自由を規定した憲法21条の保障の下にあることはいうまでもない。また,このような報道機関の報道が正しい内容を持つためには,報道の自由とともに,報道のための取材の自由も,憲法21条の精神に照らし,十分尊重に値するものといわなければならない(最高裁昭和44年(し)第68号同年1126日大法廷決定・刑集23111490頁参照)。取材の自由の持つ上記のような意義に照らして考えれば,取材源の秘密は,取材の自由を確保するために必要なものとして,重要な社会的価値を有するというべきである。そうすると,当該報道が公共の利益に関するものであって,その取材の手段,方法が一般の刑罰法令に触れるとか,取材源となった者が取材源の秘密の開示を承諾しているなどの事情がなく,しかも,当該民事事件が社会的意義や影響のある重大な民事事件であるため,当該取材源の秘密の社会的価値を考慮してもなお公正な裁判を実現すべき必要性が高く,そのために当該証言を得ることが必要不可欠であるといった事情が認められない場合には,当該取材源の秘密は保護に値すると解すべきであり,証人は,原則として,当該取材源に係る証言を拒絶することができると解するのが相当である。」
 すなわち、ここでの比較衡量は、「当該証言を得ることが必要不可欠である」ため、他の証拠方法では実現不可能な場合に限って認められる、という特別の重み付けが行われているのである。
 問題は、この判決の論理をどこまで一般化しうるかである。例えば、重みづけ比較衡量が行われた代表的な判例である泉佐野市民会館事件では、市民会館というものが、準パブリックフォーラムであった点が決め手であった。それに対し、大分県屋外広告物条例事件の場合には、その様な条件が存在していなかったために、定義づけ比較衡量に留まった。したがって、諸君として、この方向に議論していく場合には、重み付け比較衡量が可能な条件があるか否かについて論じる必要がある。
(三) 取材物提出拒否権
 取材源秘匿権というものが、取材の自由の一環として認められるということになると、そこからさらに進んで、報道目的で撮影されたテレビフィルム等、取材の成果物に対する裁判所からの提出命令や、捜査当局による差し押さえが問題となる。
 再三引用している博多駅フィルム提出命令事件最高裁判所判決は、この点について次のように述べた。
「本件において、提出命令の対象とされたのは、すでに放映されたフイルムを含む放映のために準備された取材フイルムである。それは報道機関の取材活動の結果すでに得られたものであるから、その提出を命ずることは、右フイルムの取材活動そのものとは直接関係がない。もつとも、報道機関がその取材活動によつて得たフイルムは、報道機関が報道の目的に役立たせるためのものであつて、このような目的をもつて取材されたフイルムが、他の目的、すなわち、本件におけるように刑事裁判の証拠のために使用されるような場合には、報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれがないわけではない。」
 要するに、明言はされていないが、取材源秘匿と同様に、取材物を官憲に提出することにより、信頼関係を破壊し、将来の取材の自由を制約する可能性を肯定し、これを根拠に提出拒否権を認めていると理解することができる。
 その上で、裁判の公正という利益との間に比較衡量を行うことになる。すなわち、
「しかし、取材の自由といつても、もとより何らの制約を受けないものではなく、たとえば公正な裁判の実現というような憲法上の要請があるときは、ある程度の制約を受けることのあることも否定することができない。」 
 この事件において、裁判の公正という言葉はかなり重い。なぜなら、ここで問題になっているのは、特別公務員暴行陵虐罪(刑法195条)という、国民の国家に対する信頼の根底を揺るがす重大犯罪であり、その重要性に鑑みて特に設けられている準起訴手続という、裁判の信頼を確保するための最後の手段と言うべき特別手続実施のために認められていることだからである。
 しかも最高裁は、この裁判の公正と取材の自由の比較衡量の到達点として、放送のために準備されたフィルムに限って提出を命令したのである。放映のために準備されたフィルムだということは、報道機関自身により、将来の取材に障害をもたらさないという第一次的判断が既に行われているものに限定している、ということを意味する。
 昭和63年に起きた日本テレビのビデオフィルムを検察事務官が差押事件で最高裁判所は、博多駅フィルム提出命令事件との異同を次のように述べた。
「同決定は、付審判請求事件を審理する裁判所の提出命令に関する事案であるのに対し、本件は、検察官の請求によつて発付された裁判官の差押許可状に基づき検察事務官が行つた差押処分に関する事案であるが、国家の基本的要請である公正な刑事裁判を実現するためには、適正迅速な捜査が不可欠の前提であり、報道の自由ないし取材の自由に対する制約の許否に関しては両者の間に本質的な差異がないことは多言を要しないところである。」
最判平成元年130日=平成2年度重要判例解説参照
 付審判請求と通常の刑事事件を、このように単純に同視できるかについては疑問がある。しかも、この決定が、はかりの一方に乗るものが、このように若干軽いものになっているにも関わらず、利益衡量の段階でも、博多駅フィルム提出命令事件のようなぎりぎりの衡量を行ったかは疑問のあるところである。同判決に対する反対意見で、島谷判事は次のように述べる。
「報道機関の取材結果を押収することによる弊害は、個々的な事案の特殊性を超えたところに生ずるものであり、本件ビデオテープの押収がもたらす弊害を取材経緯の特殊性のゆえに軽視することも、適当ではないように思われるのである。更に、本件ビデオテープには未放映部分が含まれているが、右部分は、記者の取材メモに近い性格を帯びており、その押収が前記弊害をいつそう増幅する傾向を有することにも十分留意する必要がある。」
 要するに、博多駅事件との相違点としては、編集済みフィルムか、生フィルムかという違いが存在しているのである。
 このように、博多駅フィルム提出命令事件の厳しい比較衡量要件を緩和する傾向の延長線上に、捜査機関による押収が問題となった本件TBSビデオフィルム押収事件が存在している。すなわち、本事件では、博多駅フィルム提出命令事件に見られた裁判の主体である裁判所、あるいは日本テレビビデオフィルム差押え事件に見られた裁判の直接の当事者である検察と違い、その一段階前の捜査機関による押収である。
 したがって、本事件では、その前例と同様に、比較衡量の一方の基準として、裁判の公正を根拠に説明することはできない。実際、この判決ではその点への論及はない。ここで最高裁判所判決の表面に出ているのは、犯罪を助長する形で行われた取材方法の異常さの指摘なのである。
「本件の撮影は、暴力団組長を始め組員の協力を得て行われたものであって、右取材協力者は、本件ビデオテープが放映されることを了承していたのであるから、報道機関たる申立人が右取材協力者のためその身元を秘匿するなど擁護しなければならない利益は、ほとんど存在しない。さらに本件は、撮影開始後複数の組員により暴行が繰り返し行われていることを現認しながら、その撮影を続けたものであって、犯罪者の協力により犯行現場を撮影収録したものといえるが、そのような取材を報道のための取材の自由の一態様として保護しなければならない必要性は疑わしいといわざるを得ない。」
 すなわち、日本テレビ事件とは異なり、本件が取材の自由の保護対象となっていること自体が疑問視されている点に大きな特徴がある。
 ここで問題となっているのは、いわゆるやらせという番組制作手法である。日本で「やらせ」という問題が、最初に大きく表面化したのは、1985108日の放送テレビ朝日番組「アフタヌーンショー」からである。これは、ディレクターが「何か面白いものをとりたい」と知り合いの暴走族に依頼して人を集め、仲間内でリンチをさせ、後日その模様を「激写! 中学生女番長! セックスリンチ全告白!」という企画で放送したものである。これがやらせであることが明らかになった結果、同番組は打ち切りとなり、テレビ朝日(当時の全国朝日放送)は放送免許の更新を拒絶されるのではという未曾有の危機に瀕する事となった(結局、「条件付き」という事で免許剥奪は免れた)。当然ながら、上記事件の場合にも、TBS事件と同様に、リンチの被害者にとっては、これは真実の暴行事件であったのである。
 博多事件最高裁判所が指摘しているように、取材源秘匿の自由が報道機関に認められる大きな自由は、既に行われた取材活動ではなく、「報道機関の将来における取材活動の自由を妨げることになるおそれ」が存在するためである。これを本事件に当てはめると、テレビ局が暴力団を使って、一般市民に対し、暴力を振るうシーンを撮影する自由を将来ともに保障する必要があるか、という点にあることになる。
 これをどのように評価するかは、議論の分かれるところであろう。
 例えば、奥野判事は、その反対意見で次のように述べる。
「日本テレビ事件と本件とを対比しながら、適正迅速な捜査を遂げるための必要性と、報道機関の報道の自由が妨げられる程度及び将来の取材の自由が受ける影響等を比較衡量すると、日本テレビ事件の犯罪は、国民が広く関心を寄せる重大な贈賄事犯であったが、本件の犯罪は、軽視できない悪質な事犯とはいえ、日本テレビ事件ほど重大とはいえない。また、日本テレビ事件の場合には、ビデオテープは、犯罪立証のためにほとんど不可欠であったのに対し、本件の場合には、暴力団員が不十分ながら犯行を認め、目撃者もおり、ただそれらの供述と被害者の供述とに一致しないところがあるため、ビデオテープが必要となったのであるから、ビデオテープの証拠としての必要性は、日本テレビ事件よりも弱い。そうすると、本件の差押によって得られる利益は、日本テレビ事件のそれと比較すると、相当に小さいというべきである。他方、日本テレビ事件の場合には、賄賂の申込を受けた者が贈賄事件を告発するための証拠を保全することを目的として報道機関に対しビデオテープの採録を依頼し、報道機関がこの依頼に応じてビデオテープを採録したのであるから、報道機関はいわば捜査を代行したともいえるのに対し、本件の場合は、報道機関は、もっぱら暴力団の実態を国民に知らせるという報道目的でビデオテープを採録したものであるから、本件の報道機関の立場を保護すべき利益は、日本テレビ事件のそれに比して、格段に大きいというべきである。
 以上のとおりであるから、所論の本件ビデオテープの差押は、違法なものであるといわなければならない。」
 すなわち、報道機関側の意図の真摯さによる救済の必要性が、やらせを上回っているという判断である。
 これに対し、このような場合にテレビ局側が、上記テレビ朝日のように「何か面白いものをとりたい」という程度の意図なのか、あるいは真剣なものなのかは問題にならないとする見解も強い。例えば、NHKスペシャルにて放送された「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」では、ヒマラヤの気候の厳しさを過剰に表現した点、スタッフに高山病にかかった演技をさせた点、少年僧の馬が死んだ事にした点、流砂や落石を人為的におこした点が、やらせとして社会的批判を浴びた。
 諸君として、奥野判事的な考え方をとってもよいし、批判説的な考えをとっても構わない。大事なことは、それが論点だと言うことを認識し、きちんと理由を挙げて論じることである。
 
 三 取材源秘匿における比較衡量基準
 本問では、こうしたやらせ問題を議論するのを避けるため、冒頭に述べたとおり、被害者の協力を得ているという設定にしてある。したがって、取材の自由が肯定される事例である。その場合に、取材源秘匿の権利を考えるためには、どのような比較考量を必要とするであろうか。
 芦部信喜は、取材源秘匿の権利を否定するためには、国は厳格な審査基準によるべきだとする。そして、先にも強調したとおり、報道の自由は表現の自由そのものではなく、その一環である知る権利に奉仕する権利だから、厳格な審査基準も、その表現形式が異なることになる。すなわち、
「秘匿権を否定するためには、国は、@被疑事件に明らかに適切な情報を記者が保有していると信じるにたる相当の理由(probable cause)があることを証明し、かつ、A右情報は、表現の自由に対してより制限的でない他の選びうる手段によっては獲得できないこと、および、やむにやまれぬ必要不可欠(compelling)な、他のいかなる利益にも優る利益が右情報に存すること、を明示しなければならない」
(『憲法学V 人権各論(1) 増補版』299頁より引用)
 芦部説を基本書に使っている諸君は、当然にこれに基づいて論文を書かねばいけない。ちなみに、これは米国でおきた、本問類似の事件(Branzburg v. Hayes, 408 U.S. 665 (1972)*[9]で、連邦最高裁の少数意見が示した基準である。
 芦部信喜は、単に厳格な審査基準という。しかし、この基準をよく見ると、第2の要件は比較考量基準の一種を要求していることが判る。
 確かに、現実に発生している博多駅事件フィルム提出命令事件や日本テレビ取材フィルム差し押さえ事件など、一連の取材物提出拒否権からみの事件で問題となっているのは、裁判の公正ないし捜査の適正という利益と取材の自由という異質の利益との比較考量論である。したがって、そうした場合に、どのような比較考量手段を使用するべきかが問題となる。
 上記各事件で、判例により採用された比較衡量手法は、各事件限りの比較衡量(アドホック衡量)である。前述の通り、そのアドホック性が、後に続く事件に対する判決論理としての拘束力を弱め、結論的に、徐々に取材の自由に対する保障の度合いを下げて、いずれの場合にも国側の利益を優越させるという結論を導いているのである。
 このように定型化しつつある事件においては、アドホック衡量を排し、より定型的な比較衡量手段を導入しなければならない。すなわち、定義付け衡量、あるいは厳格な比較衡量等の手段の導入を考えるべきなのである。ここで注目するべきは、取材の自由は、報道の自由の一環として、精神的自由権に属する、という点である。
 諸君も知るとおり、最高裁判所は、泉佐野市会館使用不許可事件判決で、「厳格な比較衡量論」というべき、あたらしい比較衡量論を開発した(裁判平成737日)。
 本件で問題になっている取材の自由も、また、知る権利に奉仕する権利として、精神的自由権の一環に位置づけることが可能である。だから、厳格な比較考量論を使うための要件を、半ばは満たしている。泉佐野市会館事件の場合には、厳格な比較衡量論を適用するのが妥当とされた決め手は、それは準パブリック・フォーラムである点にあった。ちなみに純粋パブリックフォーラムが問題となった大分県屋外広告物条例事件では、定義づけ比較考量が使用されていた。
 本件事例では、どちらの基準を使用すべきだろうか。そのメルクマールは何に求めることができるであろうか。
 本事案の場合、次の事実を諸君は念頭に置くべきである。すなわち、裁判手続においては証人は民事・刑事を問わず、証言を強制され、報道関係者に限って、本問で論じている取材の自由により証言拒否が認められるに過ぎない。
 これに対して、捜査段階においては、何人も捜査当局に対する陳述を強制されることはない。その分だけ、捜査当局のもっている適正な捜査を行う利益というものは弱いものである。したがって、取材物提出拒否権もまた、裁判段階よりも幅広く認められねばならず、この点から、芦部信喜のいうところの、「右情報は、表現の自由に対してより制限的でない他の選びうる手段によっては獲得できないこと、および、やむにやまれぬ必要不可欠(compelling)な、他のいかなる利益にも優る利益が右情報に存すること、を明示しなければならない」という基準が導きうるのではないだろうか。
 なお、上記の通り、裁判手続きにおいては、報道関係者には証言拒否権が認められるのであるから、その点からも、この厳格な比較考量基準を導くことが可能になると考える。


*[1] 日本テレビ事件:最高裁判所第二小法廷平成元年1月30日判決(平成元年度重要判例解説179頁参照)=いわゆるリクルート疑惑に関する国政調査権の行使にあたり、野党議員Aに対し、Bが手心を加えてもらいたいなどの趣旨で、三回にわたり多額の現金供与の申込をしたのを、Aの協力で日本テレビが録画、放映した。しかし、逮捕されたBが現金提供の趣旨を含む重要な諸事実につき、種々弁解して賄賂の申込を否定しているため、事件の全貌とりわけBの真意とするところを適確に判断するには、相互に交わした言葉の内容だけでなく、両名の所作やその場の雰囲気等を参酌することが必要であるとして、東京地方検察庁検察事務官が日本テレビのマザーテープを押収したというものである。

*[2] 宮沢俊義『憲法U[新版]』有斐閣法律学全集4 昭和46年刊363頁より引用。

*[3] 今日では、インターネットの発達により、誰でもが情報の発信者となる事が可能な時代がやってきている。そのため、この本文に述べた記述をどの程度に強く主張するところは難しい問題である。論文を書く際、心の隅にこの点をとどめておいて欲しい。

*[4] 宮沢俊義注2紹介書363頁より引用。

*[5] 宮沢俊義注2紹介書365頁より引用。

*[6] 沖縄機密電報事件=西山記者事件とも言う。毎日新聞の西山記者が、昭和四六年五月二八日に愛知外務大臣とマイヤー駐日米国大使との間でなされた、いわゆる沖繩返還協定に関する会談の概要が記載された機密電報を、外務事務官を説得して漏洩させたため、国家公務員法111条、10912号、1001項の「そそのかし」にあたるとされた事件。

*[7] 島田記者事件:保育園での紛争に関する民事訴訟に当たり、事件を報道した島田記者が証人として証言したが、取材対象者の氏名・住所・担当職務を明らかにするよう求められたのに対し、取材源を明らかにすることは職業の秘密に関する事項に該当するとの理由でその証言を拒絶した、という事件

*[8] フォーエバー・リビング・プロダクツ社事件:米国・アリゾナ州に本社を置くForever Living Products社及び同社が100%株式を保有する日本法人日本フォーエバー・リビング・プロダクツ社が、平成9(1997)1010日、日米両国の税務当局による同時税務調査を受けた結果、約77億円の法人所得を隠していたとして、東京国税局が約35億円を追徴課税した。NHKや読売新聞社、共同通信社などがこの事実を報道した。

 そこで米国・食品会社は「米国政府が日本の国税当局に提供した税務情報が報道機関に伝わって報道され、損害を被った」として米国アリゾナ州で米国政府を提訴した。

 そして、アリゾナ地区連邦地方裁判所は、日米司法共助協定に基づき、本件訴訟に関して国税庁職員の外、我が国の報道機関関係者等合計53人の証人に対する証人尋問の実施を求めた。

 そこで、東京地方裁判所が、その嘱託に基づいて、NHKや読売新聞の記者に対し証人尋問を行ったところ、証人は、それらの質問が本件記事の取材源を尋ねるものであり、新聞記者である証人に対し職業の秘密に関する事項について尋ねるものであるとして、これに対する証言を拒絶したという事件。

*[9]  Branzburg v. Hayes:米国では、検察官が被疑者を起訴するためには、一般市民からなる大陪審(grand jury)と呼ばれる機関による議決を必要とする。通常の陪審(jury)が12名で構成されるのに対し、23名で構成されるところからこの名がある。

 新聞記者ブランズバーグが、麻薬常習者に取材した記事を執筆したところ、大陪審は彼を召喚し、取材源である麻薬常習者の氏名を明かすように求めたが、彼は証言を拒否した。それに対し、連邦最高裁判所は、証言拒否の根拠として合衆国憲法第1修正を主張できないとした。決定は54という僅差で下された。芦部信喜が引用したのは、証言拒否権を許容した少数意見側の提示した判断基準である。

 この決定以降、米国では新聞記者が連邦裁判所で取材源秘匿のため証言を拒否すると、法廷侮辱罪に問われるのが通例となった。2002年、フリー・ランスのバネッサ・レゲット記者は187日にわたって収監された。2005年、ニューヨークタイムズのジュディス・ミラー記者は、証言拒否のため4ヶ月投獄された。同年、タイムズ誌マシュー・クーバー記者はいったんは証言を拒否して収監されかかったが、取材源が証言を許容したため、大陪審で証言し、収監は免れた。