参政権と知る権利

マスメディアへのアクセス権

甲斐素直

[問題]
 選挙公報は、選挙に際して立候補した候補者の氏名、経歴、政見などを掲載した文書であり、選挙管理委員会によって発行され、公費で有権者に配布される。選挙公報に掲載される各候補者の掲載文は、候補者の責任において作成され、選挙管理委員会に提出される。選挙管理委員会は、掲載文を「原文のまま選挙公報に掲載しなければならない」(公職選挙法1602項)とされている。
 A県知事選挙において、候補者Xは、選挙公報の自己の掲載文のなかで、「今回の知事選に出馬した前知事のBは、これまで公共工事の発注に際して建設業者から多額の金員を隠れて受領して私腹を肥やし、A県の政治を腐敗させた。」と記述していた。このXの掲載文を受け取ったA県選挙管理委員会(Y)は、この記述が事実無根の誹謗中傷であり、Bの名誉を毀損するものであって、選挙の公正を害すると判断し、そこで、この記述部分を削除した上でXの掲載文を選挙公報に掲載した。
 以上の事例において生じる憲法上の論点について説明し、Yによる削除の当否について論ぜよ。
[参照]公職選挙法
(この法律の目的)
第一条  この法律は、日本国憲法 の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。
(選挙公報の発行)
第百六十七条  衆議院(小選挙区選出)議員、参議院(選挙区選出)議員又は都道府県知事の選挙においては、都道府県の選挙管理委員会は、公職の候補者の氏名、経歴、政見等を掲載した選挙公報を、選挙(選挙の一部無効による再選挙を除く。)ごとに、一回発行しなければならない。この場合において、衆議院(小選挙区選出)議員又は参議院(選挙区選出)議員の選挙については、公職の候補者の写真を掲載しなければならない。
2項以下略]
(掲載文の申請)
第百六十八条  衆議院(小選挙区選出)議員、参議院(選挙区選出)議員又は都道府県知事の選挙において公職の候補者が選挙公報に氏名、経歴、政見等の掲載を受けようとするときは、その掲載文(衆議院小選挙区選出議員又は参議院選挙区選出議員の選挙にあつては、併せて写真を添付するものとする。)を具し、当該選挙の期日の公示又は告示があつた日から二日間(衆議院小選挙区選出議員の選挙にあつては、当該選挙の期日の公示又は告示があつた日)に、当該選挙に関する事務を管理する選挙管理委員会に、文書で申請しなければならない。
2項以下略」
(選挙公報の発行手続)
第百六十九条  衆議院(比例代表選出)議員又は参議院(比例代表選出)議員の選挙について前条第二項又は第三項の申請があつたときは、中央選挙管理会は、その掲載文の写し二通を衆議院(比例代表選出)議員の選挙にあつてはその選挙の期日前九日までに、参議院(比例代表選出)議員の選挙にあつてはその選挙の期日前十一日までに、都道府県の選挙管理委員会に送付しなければならない。
 都道府県の選挙管理委員会は、前条第一項の申請又は前項の掲載文の写しの送付があつたときは、掲載文又はその写しを、原文のまま選挙公報に掲載しなければならない。この場合において、衆議院(比例代表選出)議員の選挙にあつては当該選挙区における当該衆議院名簿届出政党等の衆議院名簿登載者の数、参議院(比例代表選出)議員の選挙にあつては参議院名簿登載者の数に応じて総務省令で定める寸法により掲載するものとする。
3項以下略]

早稲田大学法科大学院2012年入試問題

[はじめに]
 本問では、提出された論文は、本問をいずれも行政権による検閲ないし事前抑制の問題として捉えてしまっていた。そのように捉えた人は、本問が参照条文として、選挙公報の発行にかかる公職選挙法167条以下の条文だけでなく、わざわざ親切にも同法1条までも紹介してくれている意味をまったく考えていない、といわざるを得ない。
 同条が言っていることは、要するに、公職選挙法は選挙人(普通の表現なら「有権者」)の利益のための法律だ、という事である。この目的は、同法の定めるすべての活動について共通しているから、その冒頭に掲げられているわけである。すなわち、選挙公報の発行もまた、選挙人の利益、この場合には、選挙人が被選挙人(立候補者)の政見を知る権利を保障する媒体として理解されなければならない。つまり、本問は、憲法21条のレベルで言うなら、立候補者の対外的表現の自由ではなく、有権者の知る権利の問題なのである。したがって、本問を被選挙人の表現の自由の問題として捉えたその瞬間に、1字も書き出す以前に落第答案になっているのである。
 このことは、実を言うと、参照条文を見なくとも、判例が頭に入っていれば判ることである。すなわち、本問は、舞台を電波媒体から紙媒体に移している、という点を除けば、基本的にNHKの政見放送削除事件と同じものだからである。
 憲法判例百選では、政見放送削除事件は参政権のところに収録されている(百選第5358頁参照)。最高裁判所は、三井美唄事件(百選第5326頁)では、立候補権はそれ自体が人権だと述べている。しかし、これを唯一の例外として、他の判決では、すべて選挙権だけを人権と捉え、被選挙権については権利性を認めていない*[1]。実を言えば、これは参政権に関する通説である二元説の必然的結論である(二元説は判っているよね?)。つまり参政権とは、選挙人の権利のことであって被選挙人の権利では無い。だから、政見放送削除事件が参政権の問題だと言うことは、政見放送とは、立候補者が自らの政見を自由に表現する自由を問題にしているのではなく〈そうであれば、精神的自由権の箇所に収録するのが正しい〉、選挙人の権利に関する判例だということを示している。
 ただし、本問で、参政権それ自体は本問の直接の論点ではない。本問で問題となっている選挙公報は、選挙人の「知る権利に奉仕する」ために発行される。こう表現すれば、ピンときてもらえるだろうか。知る権利に奉仕する権利と言えば、報道の自由である。そして、その報道の自由の限界に関する議論として、マスメディアへのアクセス権という議論が存在する。つまり、選挙公報という通常のマスコミとはまったく異質の媒体なので判りにくいが、選挙公報も又、全選挙人にもれなく配布されねばならないという意味において、まさにマス(大衆)のためのメディア(媒体)である。したがって、選挙公報に被選挙人が政見を掲載する権利は、マスメディアへのアクセス権を法定したものと理解できるのである。
 一般に、マスメディアへのアクセス権が存在する場合には、それに対応する形で、マスメディア側の表現の自由は縮減され、免責される。簡単にまとめてしまえば、それだけが本問の論点である。もちろん、その背景に、なぜこのようなアクセス権を認めたのか、という問題があり、その理由が、参政権を実質的に保障する知る権利の確保、ということになる。
 本問の類題として、司法試験平成7年における次の問題がある。
 放送法は、放送番組の編集にあたって「政治的に公平であること」「意見の対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を要求している。新聞と対比しつつ、視聴者及び放送事業者のそれぞれの視点から、その憲法上の問題点を論ぜよ。
 すなわち、この問題でも、その論点として、マスメディアに対するアクセス権が現れる。問題の表現はまったく違うが、本問は、この問題と本質的に同一の議論を書けば良い、という事を見抜く力を養って欲しい。
 本問と政見放送削除事件を比べれば、政見放送削除事件の方が、NHKという一般的なメデイアが絡んでいる分だけ、問題としては少し難しい(その事は、同事件の最高裁判決に於ける論理の迷走ぶりによく現れている。)。そこで、以下においては、まずNHK政見放送削除事件について説明し、ついで、本問の選挙公報削除について説明することとする。

 

一 政見放送削除事件
(一) 報道の自由の特殊性
 本問から離れて、マスメディアへのアクセス権という議論はどういうものか、という事を一般的に説明しよう。
 マスメディアは、報道機関として報道の自由を有している。しかし、この報道の自由は、国民の知る権利に奉仕する権利であるところから、一般国民の持つ表現の自由と異なり、その行使に当たり、大きな制約が存在している。すなわち、国民の知る権利に奉仕するということは、国民が主体的に適切な判断を行うのに必要な客観的な情報を供給することを意味するのであるから、その中に自らの思想・信条を混入させて、国民の判断を歪ませることは、許されないからである。取材の自由に関連して、報道の自由を、「考えの伝達と区別することは困難だから」と説明するのは、今日における報道の自由概念の説明としては積極的に誤りといえるが、その理由はここにある。
 この報道の自由の意義ないし特殊性を理解するには、現代社会の持つ二つの大きな特徴に論及する必要がある。第一に、かつての夜警国家と異なり、今日の福祉国家においては、国家は膨大な量の情報を独占するようになったという点である。第二に、今日の複雑化から、誰もが情報の発信者であることは困難になってきたため、報道機関がその情報発信者としての地位を独占し、一般国民はもっぱら受け手としての立場に留まるようになってきた、ということである。この結果、主権者たる国民に対して、国政を決定するにあたって必要は情報を供給するのはもっぱら報道機関の役割となってきたのである。本問では、この知る権利の第二の根拠である発信の独占が重要である。
 この情報の発信者としての地位を独占しているものを一般にマスメディアと呼ぶ。すなわち、報道の自由というものは、一般私人が保有することがあり得ない、特殊な人権である。したがって、報道の自由の享有主体として、法人の人権享有主体性に関する議論はする必要がない。報道機関という組織体(多数人の集合体)だけが、報道の自由の主体足りうるものだからである。その場合に、その報道機関が実定法上法人化しているか、個人事業の形態をとっているかは問うところではない。
(二) 編集の自由とその限界
 報道機関は、報道に客観的事実だけを報道する義務を負い、自らの思想・信条等を伝える自由を有しないという限界が存在することは十分に承知しているので、報道内容を通じて自らの思想、信条の表明を行うことは許されない(印刷メディア=日刊新聞における社説欄は、その意味で憲法的に問題なのだが、ここでは論じない。)。
 マスメディアは、取材の自由の理念の下、社会の様々な情報を収集する。しかし、収集したあらゆる情報を、限られた紙面あるいは時間枠の中ですべて報道することは不可能なので、報道すべき情報を取捨選択し、又、報道すると取り上げた情報をどのような配置で、どのようなウェイトをそれぞれに置いて報道するかを決定する行為が必要である。これを編集という。
  編集は、それ自体として表現行為である。著作権法12条は「編集物(データベースに該当するものを除く。以下同じ。)でその素材の選択又は配列によつて創作性を有するものは、著作物として保護する。」と述べて、このことを明確に承認している。
 編集の自由が侵害される場合には、報道の自由は実質的に失われるので、編集の自由は、取材の自由と並び、報道の自由の重要な下位概念として強力に保障されなければならない。
 しかし、編集が完全に報道機関の恣意で行われるときには、自らの思想・信条を交えて表現した場合と同じように、客観的真実の報道とは言えなくなる。このことが大きな問題となった事件として、テレビ朝日椿報道部長放言事件*[2]が有名である。
 この結果、個々の情報それ自体が客観的真実でなければならないのと同じように、編集の自由もまた、知る権利を有する一般人に、客観的中立性ある情報になるよう編集する義務を、マスメディアは有している。
 この編集の自由に対する制約は、電波を媒体としたマスメディアでは、法律上明記されている。なぜなら、電波というのは極めて限られた周波数しか使用可能ではない、という意味で、貴重な公共の財産であり、その本質から電波媒体を利用したメディアは必然的にマスメディアになるからである。このような貴重な公共材の私物化は到底許容できない、という事情から、これに対する中立性の要求は容易である。どこの国でも似たりよったりだが、わが国放送法第1条は次のように規定する。
「この法律は、左に掲げる原則に従って、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達をはかることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによって、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」
 これを受けて、放送法414号は「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」としている。例えば原子力発電所の問題であれば、廃止論者の意見だけを報道したのでは駄目で、促進論者の意見も合わせ報道するように編集しなければならないのである。
 もちろん、分かれている意見の一方が、唾棄すべきものである場合には、話は違う。放送法13号は、健全な民主主義の発達に資することを求めている。「差別、敵意、又は暴力の扇動となる、国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道」(国際人権B規約20条)とあんるような意見は、明らかに民主主義の健全な発達に妨げになるというべきであろう。したがって、そのような意見については、積極的に削除する義務を負う。
 NHK政見放送削除事件で、裁判所が確定した事実に依れば、立候補者の東郷健は、昭和58626日実施の参議院(比例代表選出)議員選挙の際、NHKの放送設備によりその属する雑民党の政見の録画を行ったが、その際、東郷健は「めかんち、ちんばの切符なんか、だれも買うかいな」という発言を行った、というものである。
 これらの発言は、いずれも身体障害者に対する卑俗的・差別的意図を示す用語として使用されるものであるから、仮に、NHKがその自由な取材活動によってこのような発言を録画したような場合、当然これを放映するにあたっては、上記放送法の趣旨にしたがえば、このような差別を助長するような発言を放映する自由はなく、そのような発言を録画・録音したものは、放映のための編集作業にあたっては削除する責任があるというべきである。
 もっとも、言葉というものは、その語られる状況全体の中で理解するべきである。例えば「ちんばというのは身障者に対する差別的言葉であるから、使用するべきではない」という主張を、その中で「ちんば」という差別的言辞を使用しているから、といって禁圧するのは明らかな誤りというべきであろう。
 本事件の場合、身体障害者に対する卑俗的かつ侮蔑的表現は、原審の確定するところに依れば、「他人の言葉として引用したものであって、差別のためにもちいたものではないことが認められ」るのであるから、一般的な差別表現と同視して削除すること自体が大きな問題である。言葉の意味は全体の状況の中で理解すべきであるから、発言者に差別的意図がない場合にまで機械的に削除を求めるのは適切ではない。
(三) 編集権の限界
 どれほど極端な主張であったとしても、マスメディアとして取り上げて報道しなければならない場合がある。
 例えば、2011722日、ノルウェーの首都オスロ政府庁舎爆破事件が起こり8人が、同じくウトヤ島銃乱射事件が起こり、69人がそれぞれ死亡するという惨事が発生した。この事件で、犯人は「イスラムによる乗っ取りから西欧を守るため」に「反多文化主義革命」に火をつけることを動機とし、「非道ではあるが必要なことだった」と主張しているという。
 このような主張は、先に紹介した国際人権B規約20条に抵触する反社会的なものであり、この主張が言論のレベルで行われたならば、その様な表現の自由は抑圧されるべきであるから、報道機関は、編集作業において削除しなければならない義務を負う。しかし、このように社会的関心を呼ぶ事件においては、それを報道しなかったら、国民の知る権利に応えられないから、逆に報道する義務を負い、削除は許されなくなる。
 このように、マスメディアの編集権は、基本的に国民の知る権利を基準にして、拡大したり縮小したりするのである。
(四) マスメディアへのアクセス権
 情報の発信を、マスメディアが独占している今日の社会においては、我々は自分の持つ考えや情報を他の人々に知ってもらうには、伝統的な表現の自由を行使するだけでは十分とはいえない。何らかの方法で、それをマスメディアに採り上げてもらう必要がある。
 そのための手段は極めて単純で、上述した編集権の限界を突けば良い。
 価値中立的な表現の自由に対する規制の一環として論じられるいくつかの類型、すなわち象徴的行為(例えば、ベトナム戦争反対の意思を象徴する行為として、徴兵令状を公衆の面前で焼き捨てる行為)やスピーチ・プラス(例えば、単なるスピーチに加えて、路上で多数人がデモ行進を行う)は、まさに自らの持つ考えや情報をマスメディアに取り上げさせる手段、すなわちマスメディアへのアクセス手段として工夫されたものである。
 すなわち、マスメディアが何をニュースとして取り上げるかは、基本的にはその編集の自由に属する。しかし、多くの人の関心を引くような形態をとって行われた活動は、上述のように、国民の知る自由に奉仕する立場にあるマスメディアとしては黙殺することは許されない。したがって、そのような行動と自らの主張を結びつけることにより、編集の自由の限界を超えて、確実に報道させることができるのである。
 この結果、そうした行動は、ややもすれば過激化する傾向がある。例えば、徴兵令状を焼き捨てるよりは焼身自殺の方が確実に報道されるし、平穏なデモよりはジグザグデモのような交通秩序をより破壊するデモの方が大きく報道される可能性が高いから、マスメディアへのアクセスを望むものは、過激な行動をとる傾向が見られる。
 このように、国民の知る権利という観点から見て、マスメディアとして当然に報道の義務を負うと考えられるような種類の情報は、その情報の発信者の側から見ると、マスメディアに対する権利として構成することが可能になる。広義のマスメディアへのアクセス権である。その下に、様々な類型を考えることができる。
 その第一の類型が、反論権と呼ばれるものである。
 現在、わが国では、反論権は、一般的な権利としては認められていないが、電波メディアの報道内容が誤っていた場合には権利性が認められている。すなわち放送法41項は次のように定める。

「放送事業者が真実でない事項の放送をしたという理由によって、その放送により権利の侵害を受けた本人またはその直接関係者から、放送のあった日から2週間以内に請求があったときは、放送事業者は遅滞なく、その放送をした事項が真実でないかどうかを調査して、その真実でないことが判明したときは、判明した日から2日以内に、その放送をした放送設備と同等の放送設備により、相当の方法で、訂正または取消の放送をしなければならない。」

 したがって、例えば上記放送法12号の定める不偏不党の原則に反し、特定の政党に偏った報道が行われた場合には、不当に報道されなかった政党は、本条に基づいて、その誤りを是正するよう求めることができることになる。
 また、メディアの報道内容が、名誉毀損を構成するような場合にも、謝罪広告に代えて反論権を認める余地があるとされていることは、サンケイ新聞事件最高裁判例においても肯定されているところであることは、諸君も承知していることと思う(参照=百選第5170頁)。
 NHK政見放送削除事件に現れたマスメディアへのアクセス権は、第二の類型である。すなわち、国民の知る権利が非常に強い事項に関して、情報を保有する者は、その保有する情報の発信手段として、マスメディアを無料で利用できるというものである。もっとも、上記サンケイ新聞事件においても、最高裁判所は立法政策の問題として、反論文掲載請求権を創設することを肯定していたから、仮にその様な立法が行われれば、類型的には同一のものとなる。
(五) 政見放送と選挙人の知る権利
 公職の選挙にあたっては、立候補者の政見が広く有権者に知られることが必要である。すなわち、国は、有権者の知る権利を充足させるために適切な措置をとらなければならない。かつては、その役割は立会演説会が担っていた。しかし、それは、多数の有権者に、立候補者の政見を知らせる手段としては効率的な手段ではない。それに対して、NHKや民間放送は多数の国民が常に聴取しているため、ここに立候補者がアクセスし、放送を通じて国民にその政見を知らせることが行われるようになった。したがって、これもまた、法律の明確に承認するマスメディアへのアクセス権と見ることができる。
 政見放送であることはきわめて重要である。候補者の政見がいかに偏ったものであったとしても、報道媒体は、その偏りを是正してはならないのである。例えば、発言者がその政見の一環として、身障者などに対する差別をより助長することが正しいと主張するのであれば、有権者はその事実を知った上で、その候補者に投票するか否かの決定を行うべきである。そのような投票行動を決定する上で極めて重要な情報を削除することを認めることは、国民の知る権利の侵害というべきであって許されない。
 例えば、アドルフ・ヒットラーが、その政見の一環として「ユダヤ人が劣等民族であり、それを絶滅することは正義である」という主張を述べていたにもかかわらず、その部分が差別的言辞であるからといって削除され、無難な政見だけが彼の政見として放送され、有権者がそれに基づいて彼に投票し、ナチス党が政権を掌握する場合を考えてみれば、削除行為の危険性は明らかといえるであろう。
 このように、表現者側にアクセス権が存在する場合、マスメディアは報道の義務を負うから、その限度で、マスメディア側の編集権は縮減する。
 園部逸夫判事は、次のような補足意見を本件で述べている。

「私は、法1501項後段の『この場合において、日本放送協会及び一般放送事業者は、その政見を録音し又は録画し、これをそのまま放送しなければならない。』という規定は、公職の候補者(以下「候補者」という。)自身による唯一の放送(放送法21号)が法1501項前段の定める政見放送であることからしても(法151条の53照)、選挙運動における表現の自由及び候補者による放送の利用(いわゆるアクセス)という面において、極めて重要な意味を持つ規定であると考える。法は、一方において、候補者に対し、政見放送をするに当たっては、『その責任を自覚し』『他人若しくは他の政党その他の政治団体の名誉を傷つけ若しくは善良な風俗を害し又は特定の商品の広告その他営業に関する宣伝をする等いやしくも政見放送としての品位を損なう声動をしてはならない。』と定め(法150条の2)、政見放送としての品位の保持を候補者自身の良識に基づく自律に任せ、他方において、候補者の政見放送の内容については、日本放送協会及び一般放送事業者(以下「日本放送協会等」という。)の介入を禁止しているのである。したがって、この限りにおいて、日本放送協会等は、事前に放送の内容に介入して番組を編集する責任から解放されているものと解さざるを得ない。〈中略〉

 これを要するに、候補者の政見については、それがいかなる内容のものであれ、政見である限りにおいて、日本放送協会等によりその録音又は録画を放送前に削除し又は修正することは、法1501項後段の規定に違反する行為と見ざるを得ないのである。」*[3]

 また、この事件当時、自治省が発行していた『逐条解説公職選挙法』に依れば、政見放送の場合、「放送事業者が作為的に政見放送を改編することはもちろん、放送事業者が内容を審査検討して放送の諾否を決することは、政見放送の自由を侵害し又は侵害するおそれがあり」したがって「万一その放送が結果的に刑罰法規に触れることになる場合においても、原則として刑法35条にいわゆる『法令による行為』として違法性を阻却するものと解すべきである」としている。妥当な見解というべきであろう。
 
二 選挙公報削除について
 本問は、上述した政見放送削除事件に比べるとかなり易しい問題である。すなわち、第一に選挙管理委員会はNHKのような一般的なマスメディア、すなわち偏向した報道などを編集で削除する義務を負う機関ではない。逆に、法律上明確に、編集の自由をもたず、どのような内容の主張であれ、そのまま報道する義務を負っている。
 したがって、有してもいない編集権を行使しての削除行為は、ただちに法1条の定める選挙人の知る権利に対する侵害となる。それにあたり、上述した選挙人の知る権利をきちんと論じてくれれば、それで十分である。
 仮に、本問が立候補者の表現の自由の問題であるならば、本問における選挙管理委員会の行為は、確かに、検閲ないし事前抑制行為に該当する。
 しかし、検閲とか、事前抑制が問題になるためには、基本的にそのような抑制行為が許されるが、一定の場合にそれが禁圧されるという条件が存在していなければならない。例えば、検閲がどのような概念であるかは、判例と学説が厳しく対立しているが、その概念に該当しない場合には表現の抑制が許されることが予定されていることに変わりはない。どのような定義を採用しようとも、検閲の主体が行政機関であるという点には対立がない。それでは、行政機関以外の国家機関、例えば裁判所であれば、検閲を行って本件選挙公報を削除することが許されるのだろうか。もちろんそんなことはない。その意味で、本問で、検閲は、そもそも問題にならない。
 同じように事前抑制も問題にならない。事前抑制禁止原則は、その名の通り、原則であって、例外を認めるところに特徴がある。しかし、本問のような場合に、事前抑制の例外を認めることは、民主主義を危険にさらすことになるので、絶対に許されないのである。
 例えば、先に引用した園部意見は、事前抑制については次の様に述べている。

「候補者の政見放送に対する事前抑制を認める根拠として、遠くは電波法1061項、107条、108条、近くは法235条の3を挙げる見解があるが、これらの規定は、いずれも事後的な刑罰規定であって、これをもって事前抑制の根拠規定とすることは困難である。いうまでもなく、表現の自由とりわけ政治上の表現の自由は民主政治の根幹をなすものであるから、いかなる機関によるものであれ、一般的に政見放送の事前抑制を認めるべきではない。法1501項後段は、民主政治にとって自明の原理を明確に規定したものというべきである。」

 このように、本問では検閲ばかりでなく、事前抑制も絶対禁止と考えるべきなのであるから、北方ジャーナル事件にしたがって、例外の認められる要件を論じたりしたら、それ自体、大きな減点要素となる種の問題なのである。
 本問におけるXの発言内容は、謝罪広告事件(百選第576頁参照)における被告人側が選挙公報に掲載した主張をなぞったものであるが、あの事件が事後に謝罪広告を求めるに留まり、事前抑制に訴えなかった理由もここにある。


*[1] 例えば、現職側が投票日を操作することにより対立候補者の立候補の機会を奪ったことが問題となった事件で、最高裁判所は「Aの上記行為は、単に特定の立候補予定者の立候補を阻止したにとどまらず、自らが無投票により当選人となることによって、選挙人全般がその自由な判断により投票をする機会を完全に奪ったものというべきである。」と述べて選挙人の自由侵害を根拠にしている(最高裁平成14730日第一小法廷判決)。

*[2] 平成5921日に行われた第六回放送番組調査委員会では、「政治とテレビ」をテーマとして取り上げたが、その席上、テレビ朝日の椿貞良報道部長が、衆議院選挙の報道に当たり政権側に不利な編集を行った結果、政権交代が実現した旨の発言を行った事件。発言はオフレコという約束で行われたが、一般に知られるところとなり、同部長は衆院政治改革調査特別委員会に喚問されて証人尋問され、テレビ朝日そのものの報道免許取り消しも検討された。

*[3]  この部分だけを紹介すると、園部意見は違憲としたのかと思われるといけないので、結論部分も紹介しておく。

「本件削除部分は、多くの視聴者が注目するテレビジョン放送において、その使用が社会的に許容されないことが広く認識されていた身体障害者に対する卑俗かつ侮蔑的表現であるいわゆる差別用語を使用した点で、他人の名誉を傷つけ善良な風俗を害する等政見放送としての品位を損なう言動を禁止した公職選挙法150条の2の規定に違反するものである。そして、右規定は、テレビジョン放送による政見放送が直接かつ即時に全国の視聴者に到達して強い影響力を有していることにかんがみ、そのような言動が放送されることによる弊害を防止する目的で政見放送の品位を損なう言動を禁止したものであるから、右規定に違反する言動がそのまま放送される利益は、法的に保護された利益とはいえず、したがって、右言動がそのまま放送されなかったとしても、不法行為法上、法的利益の侵害があったとはいえないと解すべきである。」

 私は、園部先生を大いに尊敬するものであるが、この議論は、本文引用部分の論理と整合性をもたない、破綻した議論と考える。