駅構内におけるビラ配りとパブリックフォーラム

甲斐素直

問題

  JR吉祥寺駅は、その南口改札口をでると、駅ビル2階に駅前広場に相当するスペースがあり、吉祥寺ロンロンという駅ビル内の商店街、京王井の頭線との連絡通路や、井の頭公園に通じる出口であるため公園口と呼ばれる階段等と接続し、多くの人々の通行するところとなっている。公園口を出たところには駅前広場はなく、直接に道路に接している。この道路は、かなり車の通行量が多いが、歩道はないため、そこでビラ配りや演説を行うことは不可能である。

 

 Xは、吉祥寺駅南口から公園口にでる1階階段付近において、同駅係員の承諾を受けずに、自らの所属する政治団体の集会への参加などを呼びかける目的で、ビラを配り、また携帯型の拡声器を用いて演説を行っていた。演説を聞いて来た駅係員及びその依頼により駆けつけた警察官によって、同駅構内からの退去要求が繰り返しなされたが、それを無視して同駅構内の階段附近に1時間以上にわたって滞留し続けたため、Xは、鉄道法35条違反の罪および刑法135条後段の不退去罪により逮捕され、起訴された。公判において、Xは、自らの行為に鉄道営業法等を適用するのは、憲法21条が保障する政治活動の自由に対する侵害であり、無罪であると主張した。

 本問における憲法上の問題を指摘し、論ぜよ。

http://www.jreast.co.jp/estation/stations/596.htmlよりダウンロード

[はじめに]

(一) 憲法訴訟論の概略

 本問は、憲法訴訟論の一環をなす問題である。人権実体法を連続して勉強している最中に、このように純粋に憲法訴訟論に属する問題を挟むことが妥当かどうか自体に私としては疑問を感じたのだが、出題者のたっての希望から取り上げることとした。しかし、危惧したとおりの結果となった。その原因は、やはり憲法訴訟論の体系が頭に入っていない段階で、この問題に取り組んだことにあるのだと思われる。そこで、最初に簡単に、本問を解くのに必要な限度で、簡単に憲法訴訟の体系を説明する。

 憲法訴訟論とは、民事訴訟法に代表される通常の訴訟法に対する憲法が論点となる訴訟に関する特別法をいう。すなわち、通常訴訟法の原則が、憲法訴訟の場合には、どの限度で修正されるかを論じる学問分野である。わが国に憲法訴訟法という実定法が存在すれば、その解釈論という形で展開することが可能なのだが、全くそうした法が存在していないため、凡て理論で構築しなければならないところに難しさがある。

 通常訴訟は、当事者主義〔弁論主義〕の下、原則としてある主張を行う者がその主張内容に関する挙証責任を負い、判決には既判力と呼ばれる一定の限界があり、対社会一般に対する効力は有しない。

 憲法訴訟の根本的な問題は、国民主権原理の下、国民の直接の代表者によって構成される国会が制定した立法を、裁判所はどの限度で審査することが妥当か、という点にある。それに対する一つの答えが司法消極主義に基づく自制説である。すなわち、国権の最高機関たる国会に敬譲を示し、違憲立法審査権の行使はできるだけ自制するのが正しいとする。理論的根拠としては、裁判所の①非政治性、②非権力性(裁判所は判決を強制する権力を持たず、判決の効力は人びとが自らそれに従う点から発生する)、③非専門性(裁判所は立法事実を適切に判断するための専門的能力を有していない)という3点に求めることができる。

 ここから導かれる審査基準が合理性基準である。すなわち、裁判所としては原則として国会の立法の合憲性を推定すること(つまり、違憲性を主張する側が違憲の立証に成功しなければ、裁判所は立法を合憲と取り扱う=この点について上記通常訴訟の原則が貫かれている)、及び立証に基づいて裁判所が審査できるのは、その立法の正しさでは無く、立法を制定する合理性があったか否かだという基準である。また、司法審査は、付随的違憲審査制という性格から、その個別・具体的な事件を解決するのに必要な限度において行われる必要がある。すなわち、その法律の適用審査を行い、結論としては、原則としてその法律の適用違憲という結論が導かれるにとどまる(これも上記通常訴訟の原則が引き栂貫かれている)。

 ここで、この理論を若干修正する形で登場するのが二重の審査基準である。すなわち、通常の立法であれば、裁判所が上記にように司法審査を自粛していても、それに問題がある場合には、民主主義の下においては、遅かれ早かれ投票箱によってそれが是正されるはずであるから、裁判所として自制していても特に問題はない。しかし、精神的自由権の規制があった場合には、投票箱が適切な民意を反映すること自体に障害が生じるから、唯一の非政治的機関である裁判所が積極的に司法審査を行わなければならない。そして、その場合には、裁判所は立法の合憲性を推定せず、むしろ国の側に立法の合憲性を立証する責任を負わせる(つまり、原則に比べると挙証責任の転換が起きている)。審査に当たっては、厳格な審査基準(目的においてやむにやまれぬ利益、目的と手段の関連において正当性を求める基準)を使用する。しかも、このように民主過程に影響が生じている場合には国民に萎縮効果が発生する可能性があるから、審査に当たっては具体的な事件における適用でだけを問題にしたのでは不十分として、事実審査に先立って、その立法の文言(文面)そのものを審査する。したがって文面違憲という結論が導かれることになる。

 検閲や事前抑制禁止法理は、このような憲法訴訟論的理解の上に立って展開される人権実体法の理論である。

(二) 本問の論点

 諸君の先輩達に本問を出題すると、多くは、表現の自由の規制の問題という観点から基本的に上記のようなアプローチをしたがる。ちゃんと勉強していれば、ごく自然の反応である。修習生や受験予備校のレベルでさえも、そうした者が多い。

 しかし、本問ではそれは適切ではない。なぜなら、表現の自由の問題としてアプローチした場合には、必然的に、当該立法に対してはまず文面審査の問題が発生してしまうからである。そして、時・所及び方法の規制立法は、本質的に表現の自由に配慮した規制とはなっていないために、普通、この段階で文面違憲の結論が出て、それ以上、議論を必要としないという結論になってしまうのである。例えば、泉佐野市市民会館事件の場合だと、市側が市民会館条例7条を根拠に不許可処分をしたのであるが、そこには、「公の秩序をみだすおそれがある場合」というごく一般的な文言があるだけである。これは、税関検査事件における「公安又は風俗を害すべき書籍、図画、彫刻物その他の物品」という表現に匹敵する曖昧な表現といわざるを得ない。したがって、表現の自由規制立法として問題に取り組むと、文面違憲という結論が出てしまい、それ以上の検討を必要としなくなってしまうのである。それでは、本問が中心論点として予定している、時・所及び方法の規制に関する議論がすべて消えてしまうことになる。

 本問のような問題では、常に、表現の自由には関係のない法令、したがってその限りでは、審査基準は狭義の合理性基準で足りる種類の法令について、それが適用のレベルにおいて、結果として表現の自由を抑制した場合に、どのような審査基準を使用するのが妥当か、という形の問題として理解しなければならない。

一 時・所・方法の規制の概念

 この説で説明していることは、諸君の理解の確実を区するためのものであるので、諸君のレベルの論文に記述する必要は無い。あくまでも上記[はじめに]に述べたような、誤ったアプローチを行わないための注意書きである。

(一) 内容中立規制

 時・所及び方法の規制は、表現内容中立規制、すなわち、「表現をその伝達するメッセージの内容もしくは伝達効果(communicative effect or impact)に直接関係なく制限する規制」の一種である(芦部信喜「憲法学Ⅲ」431頁以下参照)。

 本問では関係がないが、今後のため、内容中立規制には、時・所及び方法の規制以外に、どんな概念が存在しているか、簡単に説明しておく。

  1 象徴的表現(Symbolic expression):言葉によらないコミュニケーション行為をいう。例えばベトナム戦争に反対する自己の信念を伝えるために、公衆の面前で徴兵カードを焼却する行為である。

 この類型において、アメリカ最高裁判所が開発した審査基準は、オブライエンテストと呼ばれる。それによれば、非言論の要素を規制する公共の利益が十分に重要なものであれば、修正1条の自由に対する付随的な制約は正当化される。正当化されるための要件は、

① 当該規制が政府の憲法上の権限以内のものであること

② 当該規制がある重要なもしくは実質的な公共の利益を促進するものであること

③ その公共の利益が自由な表現の抑圧とは関係のないものであること

④ 修正1条の自由に対する付随的な制約が右公共の利益の促進に必須のもの以上に大きくないこと

である。

  2 スピーチ・プラス(speech plus):それ自体はコミュニケーションとはみなされない行動を伴う表現行為をいう。例えばデモ行進やビラ貼りのように、特定の行為を伴う表現行為である。これについては、上記オブライエンテストを準用したり、時・所及び方法の規制の審査基準を準用したりしているようである。デモ行進の規制は、スピーチ・プラスの類型に属するtということは、是非記憶に刻みつけておいてほしい。ややもすると、表現の自由の規制と捉えて、内容規制という論文を書く人が多いからである。

(二) 時・所及び方法(time, place and manner)の規制

 本問で論じるべきは、これである。これは、その名のとおり、本来は表現の自由とはまったく関係のない法律が、結果として表現の自由を規制してしまう場合の処理方法を開発することを狙った理論である。

 諸君に基本的に認識しておいて欲しいのは、この種規制立法においては、表現の自由に関する文面審査は基本的に必要ではない、ということである。時・所及び方法の規制についての議論は、常に適用審査の問題になるのである。

 時・所及び方法規制が問題になる典型的な法律が、道路交通法や軽犯罪法であることを考えれば、そのことは明らかであろう。道路交通法は、路上での交通秩序の維持という表現の自由とはまったく関係のない法的目的実現のための法律である。したがって、道交法の場合に、表現の自由との関係において厳格な構成要件を要求し、それに厳密に該当しない限り自由に交通秩序を破壊しうるというような立法は、法の目的に照らし、明らかに好ましくない。同様に、軽犯罪法の場合、日常発生する様々な可罰的違法性を有する軽微な犯罪行為を包括的に規制することを目指しているから、ここでも表現の自由との関連で厳格な構成要件を要求するような理論は妥当ではない。

 誤解を避けるために強調するが、時・所及び方法の規制を行っている法令について、文面審査の問題が発生しないと言っているわけではない。ここに例示した2法は、いずれも刑罰法令であるから、憲法31条との関連においては明確性を有するものでなければならない。例えば、徳島市公安条例事件で、条例の「交通秩序を維持すること」という文言の明確性が問題になったのは、その典型である。そして、一般人を標準として31条の限りでは明確性があるとしたものであった。公安条例であるから、当然、その運用によっては表現の自由に対する抑制となる。しかし、21条との関連における明確性は論じられていないことは、承知していると思う。要するに、このように、表現の自由の規制を目指すのではない立法では、一般に表現内容そのものの萎縮効果を考える余地はないから、表現の自由との関係では、文面違憲理論を適用する余地はないのである。

 しかし、そのような法令であっても、それが表現行為に適用され、表現の自由を規制するような結果をもたらした場合に、そのことをまったく度外視して、精神的自由権の規制ではない場合における本則に則って、狭義の合理性基準で処理するのは妥当とは言えない。例えば、道路交通法の適用に当たり、暴走族が道路を占拠する場合と、デモ行進が道路を占拠するのを同じ基準で規制するのは不当であろう。

 そこで、これらの立法が、結果として表現の自由を規制するような場合に、一般の場合と分けて異なる審査基準を導入して、適用違憲とする余地を見いだそうという理論的努力が展開されることになる。この理論的努力を総称して「時・所及び方法の規制」という。

注:時・所・方法の規制とされる重要な法規範として、公安条例が存在している。公安条例は、デモ行進の規制を主たる目的としているという点において、表現の自由と深い関係があるが、表現内容とは無関係に、そのデモ行進の行われる時・所・方法を規制しているので、やはりこの類型に属する問題となる。


二 二重の基準

 概念を説明したら、次に必要になるのが、結果として精神的自由権の原則に該当する場合の審査基準の議論である。君たちの論文は、実質的にはここからスタートする。

 なぜ、結果として表現の自由を抑制する場合について、他の自由を抑制する場合と異なる扱いが必要なのか、という説明として必要になるのである。

 これについては、単純に二重の基準論を展開すれば十分である。ここから、時・所及び方法の規制立法を、表現の自由に適用する場合に、通常の場合よりも、厳格度を増した審査を要求する根拠として記述することになる。

 それをどのように記述すれば良いか、という点に関しては、多くの諸君が自家薬籠中のものとしていると思われるので、ここでは触れない。

 但し、二つの点を注意しておきたい。

 第一に、この二重の基準から、厳格度を増した審査基準を導くという段階を飛ばす傾向を示す人があることである。しかし、それでは合格答案にはならない。論文は基本書のダイジェストでなければならない。確かに本の中で、時・所・方法の規制について書いてある箇所を読むと、いきなり緩和した基準を使うべきか否かについて議論されるが、それは本では別の箇所で二重の基準論が論じられているからである。関係箇所参照と書くことのできない諸君の論文としては、そこをきちんと述べないと議論の飛躍と批判されることになるのである。

 第二に、これは本問の主要論点ではないから、どこまで切りつめて書くかが勝敗の分かれ目になるということである。10行以上もこの点につぎ込んだりするのは論外である。そんなことをすると、肝心のパブリック・フォーラム論に投入できる時間や紙幅が足りなくなり、議論が手薄になってしまうからである。

三 時・所・方法の規制の審査基準=パブリック・フォーラム論

 ここまで準備の議論を重ねて、ようやく本論である、本当の審査基準論に入ることができる。この場合に、どのような審査基準を使用するのが妥当か、という問題である。ここで話のポイントは、時・所・方法の規制に対しては、一律に取り扱うのは妥当ではない、という点である。

 常識的に考えて、表現の自由に内容中立規制立法を適用する場合にも、一律に審査基準を高めるのは妥当ではなく、相対的に緩やかな審査をするのが妥当な場合と、厳しい審査をするのが妥当な場合とに分かれる可能性があることは、直感的に理解できると思う。

 例えば、演説という形式の表現の自由を考えてみよう。深夜の住宅街や病院・学校のすぐ脇で、拡声器を使ってがなり立てるような行為を規制する立法は、そこでなされる言論の内容を論ずるまでもなく、妥当である、と考えられるであろう。だから、緩やかな審査基準で十分である。他方、駅前広場というものは、選挙時でなくとも、いろいろな人がやってきては自分の意見を人々に伝えようとする場所である。そして、少々大きな声で演説をしても、いつもある程度の騒音のある場所だから、特に近隣の人々に迷惑をかけることにはならない。だから、そういう誰もが表現活動を行う場所での演説の禁止や拡声器使用の禁止は、明らかに民主制の過程に大きな影響を与えるもので不当といえる。

 今度は、ビラを貼るという形式による表現の自由を考えてみよう。その場合には、深夜の住宅街であっても、自らの意見を書いたビラを貼る行為は、騒音を伴うものではないから、少なくとも時間を理由として規制する必要はない。これに対し、例えば女性の裸体写真などを背景に使って、性風俗に関する意見を述べるビラを作成した場合に、それを小中学校の近隣など思春期の児童の目に触れる可能性の高い場所に貼る行為は、規制しても良いのではないだろうか。

 時・所・方法の規制とは、このように、同じ内容の表現であっても、その行われる時間帯、その行われる場所、あるいは方法により、規制立法の同一の法文に対して、異なる審査基準を適用しようという考え方である。

 このことも、この種法令を、表現の自由の規制立法として捉えることが許されない根拠である。表現の自由から論文を書き始めた場合には、どんなに例外的な場合でも、狭義の合理性基準を許容できる場合は発生しないであろう。

 問題は、その使い分けの基準論である。いくつかの説が存在するが、我が国で区分の基準として強力に論じられるようになったのが、伊藤正己判事が現JR吉祥寺駅構内でのビラ配布が鉄道営業法違反とされた、本問のベースとなった事件に関して、補足意見で展開したパブリック・フォーラム(Public forum)論である(最判昭和591218日=百選第5130頁参照)。

「ある主張や意見を社会に伝達する自由を保障する場合に、その表現の場を確保することが重要な意味をもつている。特に表現の自由の行使が行動を伴うときには表現のための物理的な場所が必要となつてくる。この場所が提供されないときには、多くの意見は受け手に伝達することができないといつてもよい。一般公衆が自由に出入りできる場所は、それぞれその本来の利用目的を備えているが、それは同時に、表現のための場として役立つことが少なくない。道路、公園、広場などは、その例である。これを『パブリック・フォーラム』と呼ぶことができよう。このパブリック・フォーラムが表現の場所として用いられるときには、所有権や、本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要があると考えられる。道路における集団行進についての道路交通法による規制について、警察署長は、集団行進が行われることにより一般交通の用に供せられるべき道路の機能を著しく害するものと認められ、また、条件を付することによつてもかかる事態の発生を阻止することができないと予測される場合に限つて、許可を拒むことができるとされるのも、道路のもつパブリック・フォーラムたる性質を重視するものと考えられる。」

 こうしてわが国で広く認知されるようになったパブリック・フォーラム論であるが、かなり複雑な内容を持つ。ここでそれを簡単に要約すると、空間を3種類に分けている点に特徴がある。第一の類型が、純粋パブリック・フォーラムである。

「街路(street)および公園(park)のような、伝統的に表現活動と結びついている公共用物は、「もっとも純粋な(quintessential)」公共の広場(public forum)として、〈中略〉そこで行われる表現活動の規制の合憲性をより厳格に検討することを求める」(芦部信喜『憲法学Ⅲ』443頁より引用)。

 上記判例で争点となった駅構内は、この意味で問題となるのである。伊藤判事はいう。

「一般公衆が自由に出入りすることのできる場所においてビラを配布することによつて自己の主張や意見を他人に伝達することは、表現の自由の行使のための手段の一つとして決して軽視することのできない意味をもつている。特に、社会における少数者のもつ意見は、マス・メデイアなどを通じてそれが受け手に広く知られるのを期待することは必ずしも容易ではなく、それを他人に伝える最も簡便で有効な手段の一つが、ビラ配布であるといつてよい。いかに情報伝達の方法が発達しても、ビラ配布という手段のもつ意義は否定しえないのである。この手段を規制することが、ある意見にとつて社会に伝達される機会を実質上奪う結果になることも少なくない。」

 ここで留意する必要があるのは、この純粋パブリックフォーラムと呼ばれる空間は、本来の用途は表現の自由に奉仕するものではない、ということである。すなわち、道路であれば車両や人々の通行が本来の目的であり、公園であれば人々が憩いあるいは運動することが本来の目的である。したがって、そうした本来の目的との比較衡量という要素が入ってくる分だけ、厳格度は下がることになる。厳格な合理性をもって十分とする理由である。このことを、伊藤判事は次のように述べる。

「ビラ配布という手段は重要な機能をもつているが、他方において、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所であつても、他人の所有又は管理する区域内でそれを行うときには、その者の利益に基づく制約を受けざるをえないし、またそれ以外の利益(例えば、一般公衆が妨害なくその場所を通行できることや、紙くずなどによつてその場所が汚されることを防止すること)との調整も考慮しなければならない。ビラ配布が言論出版という純粋の表現形態でなく、一定の行動を伴うものであるだけに、他の利益との較量の必要性は高いといえる。したがつて、所論のように、本件のような規制は、社会に対する明白かつ現在の危険がなければ許されないとすることは相当でないと考えられる。」

 これらに該当する場合に求められる、より厳格度を増した審査とは、アメリカ連邦最高裁の判例(Perry Education Association v. Perry Local Educator's Association, 460 U.S. 37(1983))によれば、一般的には次の内容を持つ。すなわち、時・所・方法の規制を行うことは許されるが、許されるためには、

 「その規制は、

(1) 重要な公共的利益に役立つべく厳格に定められており(narrowly tailored)、

(2) 他の選びうる十分なコミュニケーションの経路を残すものでなければならない。」(同上より引用の上翻訳。ただし原文は改行せずに全体が一文となっている)

 今回、提出された論文で、何の理由もしめされず、いきなりこの基準だけが書かれているものが目立った。論文は、常に理由が命であるから、そのような神のお告げ式の記述は落第答案である。しかし、他の様々な審査基準と同じく、この基準も理論的に導けるものでは無い。だからこそ、専門家の論文でも、例えば「プライバシーに関し、宴のあと判決が定立した3要件」というように、出典を示し、それに賛成するという形で基準を使っていくことになる。君たちの論文のレベルでは、Perry Education Association v. Perry Local Educator's Association, 460 U.S. 37(1983)なんていうレベルで出典を示す必要は無いが、せめて、「この問題に対して、合衆国連邦最高裁判所は次の様な審査基準を示した」位の書き方はして欲しいものである。この書き方は、議論しているのが二重の基準であれ、レモンテストであれ、一応通用するので覚えておこう。

 この(1)の基準は、厳格な合理性基準に相当するものである。表現の自由に対する直接的な規制立法であれば、厳格な審査基準を採用するはずだから、それに比べると、一段階低い審査を実施していると言うことになる。しかし、表現の自由からアプローチした場合には、なぜ審査基準を通常よりも軽減するのか、という説明に窮することになる。時・所及び方法の規制の場合には、通常よりも、厳格度を増した審査という方向で理解する、という点にポイントがある。

 後の(2)の基準がいわゆるLRA基準であることがわかると思う。ただし、この場合には典型的なLRA基準とは逆に、他の代替手段の存在することが規正を合憲化する方向に働くことを看過してはいけない。なぜ、この場合のLRA基準をこう考えるべきかは容易に判ると思う。本問のケースであれば、北口広場で演説し、あるいはビラをまいても、Xの目的は達せられるという状況であれば、退去処分の問題性は低減するであろう。それに対して、Xとして、どうしても南口でこれらの活動をしなければならない、という事情がある場合には、退去処分は、事実上、演説等の禁止を意味することになってしまうのである。

 せっかくLRAまで論じながら、機械的に普通のLRA論を展開してしまっている人が目立つ。しかし、時・所及び方法の規制を論ずる場合には、それでは点にならないどころか、マイナス要素になりかねない。

 ここで特に判断を要するのが、JR吉祥寺駅南口の構造の特殊性である。普通であれば、駅前広場は、公的所有に属するものである。ところが、同駅の場合には、その地理的特殊性から、JRという私企業の所有し、看取する空間だという点である。伊藤判事はいう。

「道路のような公共用物と、一般公衆が自由に出入りすることのできる場所とはいえ、私的な所有権、管理権に服するところとは、性質に差異があり、同一に論ずることはできない。しかし、後者にあつても、パブリツク・フオーラムたる性質を帯有するときには、表現の自由の保障を無視することができないのであり、その場合には、それぞれの具体的状況に応じて、表現の自由と所有権、管理権とをどのように調整するかを判断すべきこととなり、前述の較量の結果、表現行為を規制することが表現の自由の保障に照らして是認できないとされる場合がありうるのである。本件に関連する「鉄道地」(鉄道営業法三五条)についていえば、それは、法廷意見のいうように、鉄道の営業主体が所有又は管理する用地・地域のうち、駅のフオームやホール、線路のような直接鉄道運送業務に使用されるもの及び駅前広場のようなこれと密接不可分の利用関係にあるものを指すと解される。しかし、これらのうち、例えば駅前広場のごときは、その具体的状況によつてはパブリツク・フオーラムたる性質を強くもつことがありうるのであり、このような場合に、そこでのビラ配布を同条違反として処罰することは、憲法に反する疑いが強い。」

 諸君の論文のレベルでは、書くべきはこのレベルまでである。結論的に伊藤判事はいう。

「本件においては、原判決及びその是認する第一審判決の認定するところによれば、被告人らの所為が行われたのは、駅舎の一部であり、パブリツク・フオーラムたる性質は必ずしも強くなく、むしろ鉄道利用者など一般公衆の通行が支障なく行われるために駅長のもつ管理権が広く認められるべき場所であるといわざるをえず、その場所が単に『鉄道地』にあたるというだけで処罰が是認されているわけではない。したがつて、前述のような考慮を払つたとしても、原判断は正当というほかはない。」

 しかし、このような事実認定論は、このようにわずかな事実しかしめされていない本問のような場合に書くのは常に誤りである。要求されているのは、あくまでも憲法論のレベルに留まることを忘れてはならない。

[おわりに]

 本稿では、説明の便宜から、純粋パブリック・フォーラムとか準パブリック・フォーラムという用語を使用しているが、諸君としては、ここで問題になっている種類のパブリック・フォーラムについてだけ論ずれば良く、他の種類のパブリック・フォーラムとの区別などを論じる必要は全くない。

 なお、本問で取り上げている純粋なパブリック・フォーラムは、パブリック・フォーラム論の中でももっとも難しいものである。なぜなら、本文中にも述べたとおり、その様な公共空間には本来は別の用途があり、しかも、そこでの表現の自由にも、種々雑多な類型が存在しているので、それらの組み合わせは膨大な数に上り、一律の結論を下すのが極めて困難だからである。

 これに対し、準パブリック・フォーラムの場合には、問題は易しい。例えば、市民会館のような施設は、市民の集会の自由に奉仕するために設置されている。つまり、そこでの議論は表現の自由の様々な類型のうち、集会の自由だけを考えれば良い。しかも、施設には、本来の別の目的が存在しているわけではない。だから、その本来の目的との比較考量という問題も存在しないからである。

 だからどうしてもパブリック・フォーラム論をやりたければ、そちらから入った方が簡単だったのだが、これも出題者の希望から、こういう形になった。