指導要領良心自由

甲斐素直

【問題】

 学校教育法33条及び学校教育法施行規則52条の委任に基づき、文部科学大臣は小学校指導要領を作成しており、その中で、入学式や卒業式においては、国歌の斉唱、国旗の掲揚を行うよう指導している。

 これを受けて、AB市の教育委員会(以下、Yという)では、平成XX年、市内の全私立小学校長宛に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」と題する通達を発し、国旗斉唱と国旗掲揚の徹底を図った。

 B市立C小学校長Dは、同校の音楽専科の教師Xに対し、入学式において「君が代」のピアノ伴奏をするよう職務命令を発した。

 これに対し、Xは、「君が代」は過去の日本のアジア侵略と結び付いており、これを公然と歌ったり、伴奏したりすることはできず、また、子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず、子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできないなどの思想及び良心を有すると主張して伴奏を拒否した。

 そのため、YXに対し、本件職務命令に従わなかったことは地方公務員法32条及び33条に違反するとして、地方公務員法2911号ないし3号に基づき、戒告処分をした。

 そこで、XYを相手取り、処分の取り消しを求めて訴えを提起した。 

 Xに対する処分について、憲法上の問題点を論ぜよ。

 

参照条文

学校教育法

 第29  小学校は、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする。

 第30  小学校における教育は、前条に規定する目的を実現するために必要な程度において第21条各号に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 前項の場合においては、生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

 第33  小学校の教育課程に関する事項は、第29条及び第30条の規定に従い、文部科学大臣が定める。

学校教育法施行規則

 第52  小学校の教育課程については、この節に定めるもののほか、教育課程の基準として文部科学大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする。


小学校学習指導要領

1章~第5章 略

6章 特別活動

1 目標

 望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,自己の生き方についての考えを深め,自己を生かす能力を養う。

2 各活動・学校行事の目標及び内容

1 目標

 学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる。

2 内容

 全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。

1) 儀式的行事

 学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。

 (2)以下略

3 指導計画の作成と内容の取扱い

1. 指導計画の作成に当たっては,次の事項に配慮するものとする。事項略

2. 第2の内容の取扱いについては,次の事項に配慮するものとする。事項略

3. 入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。


A
B 通達 「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」

1 学習指導要領に基づき、入学式、卒業式等を適正に実施すること。

2 入学式、卒業式等の実施に当たっては、別紙「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針」のとおり行うものとすること。

3 国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること。

別紙

入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱に関する実施指針

1 国旗の掲揚について

入学式、卒業式等における国旗の取扱いは、次のとおりとする。

(1) 国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。

(2) 国旗とともに都旗を併せて掲揚する。この場合、国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、都旗にあっては右に掲揚する。

(3) 屋外における国旗の掲揚については、掲揚塔、校門、玄関等、国旗の掲揚状況が児童・生徒、保護者その他来校者が十分認知できる場所に掲揚する。

(4) 国旗を掲揚する時間は、式典当日の児童・生徒の始業時刻から終業時刻とする。

2 国歌の斉唱について

入学式、卒業式等における国歌の取扱いは、次のとおりとする。

(1) 式次第には、「国歌斉唱」と記載する。

(2) 国歌斉唱に当たっては、式典の司会者が、「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。

(3) 式典会場において、教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。

(4) 国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う。

3 会場設営等について

入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。

(1) 卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。

(2) 卒業式をその他の会場で行う場合には、会場の正面に演台を置き、卒業証書を授与する。

(3) 入学式、卒業式等における式典会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するように設営する。

(4) 入学式、卒業式等における教職員の服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとする。


地方公務員法


29
条 職員が次の各号の一に該当する場合においては、これに対し懲戒処分として戒告、減給、停職又は免職の処分をすることができる。

 この法律若しくは第五十七条に規定する特例を定めた法律又はこれに基く条例、地方公共団体の規則若しくは地方公共団体の機関の定める規程に違反した場合

 職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合

 全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあつた場合

30  すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。

31  職員は、条例の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。

32  職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。

33  職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない。

[はじめに]

(一) 本問の論点について

 本問は、具体的事例では無く、指導要領の法的根拠の説明から入っている。そして、その点に関し、かなり大量の参照条文を付けてある。また、公務員の含む関係についても、問題文中にくどいほど正確に記述し、かつ参照条文として付してある。

 この親切すぎる問題構造を見れば、誰にでも本問では二つの大きな論点がある問題だという事が容易に読み取れるはずだと信じていた。すなわち、第一に「国による教育内容統制の限界」であり、第二に「公務員の国家忠誠義務」という論点である。

 ところが提出された論文は、どれもこの大量の参照条文を完全に無視し、一言半句もそれに触れていなかった。そのように問題文を無視していては、どんな問題であれ、合格答案を書くことが不可能である事は常識と思う。

 なるほど、最高裁判所判決は、表面的に見れば、憲法19条だけを議論していて、私が上記に指摘した論点は取り上げていない。しかし、それは第一に上告人が憲法19条を上告理由として挙げているためにそれに答える義務があるからであり、第二に最高裁判所には上記二つの論点に関する判例の蓄積があるからである。それに対し、君たちは、その前提になる点については、過去の判例を読め、といえる立場では無い。過去の判例で取り上げられた論点について、克明に議論を重ねて、はじめて19条にたどり着けるのである。

 本問の舞台となっているのが教育の場では無く、またXが公務員では無く単なる私人であるならば、そもそもピアノ演奏を強制した段階で違憲という答えが出るのは当たり前の話である。そのような強制について、合憲という余地は、いかなる説を採っても絶対に無い。最高裁判所が、ピアノ伴奏の強制に対して合憲と判断したのは、繰り返し強調するが、本問のXが、地方公務員としての身分を有するものであり、しかも強制の根拠に問題文冒頭に示したとおり、文科省の制定する指導要領が存在したからである。だから、その点を無視した答案が、合格答案となる可能性は、本質的にない。

(二) 本問の答案構成について

 どんなにややこしい事例問題でも、答案構成は常に1行問題に還元するところから出発する、ということを心に銘記しておこう。本問の場合には、教育統制権の問題だと気がつけば、その瞬間に合格答案が約束されている。

 教育権は、その特殊性から、基本的な点を確定していかないと、どんな問題であれ、答えが決まらない。その結果、教育権に関する論文は、書き方のパターンさえ知っていれば、基本的には大変易しい。どんな問題であっても、途中までは答案構成に相違がないからである。だから、そのパターンに当てはめて書きさえすれば、誰にでも、最低限度の得点は保障されている。その絶対に間違いようのない答案構成を簡単に紹介すると、次のようになる。

1 教育の私事性を説明する。
2 その限界として、公教育概念を説明する。
3 公教育概念の中で、教育内容決定権が誰にあるかを説明する。旭川学力テスト最高裁判決に依存して答案校正をすれば、それが基本的には本人にあり、それを補完する形で、親、国、教師等がその具体的内容決定権の所在として導かれる。

 すなわち、この流れの中で、ごく自然に国による教育内容統制権が論じられることが判るはずである。したがって、本問を論ずるのに、特別の答案構成はいらない。せいぜい、最後に来て、少し普通より国家統制権に論及すればたりることである。

 本問の場合には、それを受けて、本問に特化した論点として、次の点が登場する。

4 国が有する教育内容決定権の内容として、指導要領にはどの限度で法規範が認められるかを論じる。

 以下においては、諸君の理解の確実を期するため、各論点について詳しく説明しているが、それに引きずられてはいけない。いつも言うとおり、答案構成は三角形をなしている必要がある。すなわち、本問の場合にも

1はごくわずかに、23はそれより多く、そして、記述の半分程度は4に投入されるというのが合格答案の基本的な構造になる。

一 教育を受ける自由と教育を受ける権利の関係

(一) 基本的概念の整理

 憲法26条の保障する教育権は、生存権的基本権ないし社会権と呼ばれる権利の一種と理解されている。すなわち、健康で文化的な最低限度の生活を現代社会においておくるには、社会の中にあふれている情報を適時適切に理解し、それに基づいて行動する能力を有していなければならないことは当然のことである。そのための能力を身につける権利が教育権である。

 教育権を生存権的基本権と見た場合、それには自由権的側面と請求権的側面という2面性があることになる。あるいは、社会権という概念を国に対する積極的な作為請求権と定義した場合(芦部説)、社会権たる教育を受ける権利が存在するための論理的前提として、それとは別に、自由権としての教育を受ける自由を考えることができる。その場合、教育を受ける自由の根拠規定は、形式的には憲法13条に求められることになるであろう。

 以下、この自由権的側面ないし自由権を「教育を受ける自由」と呼び、これに対して請求権的側面ないし社会権を「教育を受ける権利」と便宜上呼び分けることにする。また、両者を総合した場合には、「教育権」と呼ぶこととする。

(二) 教育を受ける自由と「私教育」

 教育権の主体は、本人である。本人が自分の受けるべき教育内容を決定する権利を持つ。すなわち、人はその全生涯にわたって、自らを教育する自由を有する。

 ただし、本人が幼児その他の若年者であるため、自分がどのような教育を受けるのが適当かについて十分な判断能力を持たない場合には、親または親権者がその教育内容を決定する権限を持つ(民法

820条)。これは家族を基本とする身分権を、人格権の拡張としての人格的共同体と把握した場合に、その必然的結果として導かれるものである。なお、世界人権宣言263項は「親は子に与える教育を選択する優先的権利を有する」としている(なお、児童の権利に関する条約5条はより包括的な表現を採用しているが、同趣旨と理解して良いであろう)。憲法262項は、逆に親の教育の義務の側から定めているが、これも、その権利性を肯定した上での規定と理解することができる。

 本来、教育は私人がその教育の自由の行使として、私人としての立場から行うものであった。これを「教育の私事性」と言い、こうした教育の原点としての教育理念を「私教育」という。家庭内において、親が子に行う躾その他の教育は、その典型である。

(三) 教育を受ける権利と「公教育」

 教育を受ける自由を個人の力で実現できる範囲には、しかし限界があるところから、社会権ないし生存権的基本権の請求権的側面が現れる。この結果、国として、各人の能力に応じた教育を受ける権利を保障する義務を負うことになる。このように、福祉国家理念の下に、児童生徒の教育を受ける権利を保障するものを「公教育」という。教育基本法

6条は「法律に定める学校は、公の性質をもつ」と定めて、国公立の教育機関ばかりでなく、私立の学校法人によって行われる教育も含めて、すべての学校教育は、この公教育に属することを宣言している。

 公教育の種類としては、初等中等教育機関における教育のほか、それ以前の幼稚園や保育園における教育、それ以後の大学等の高等教育機関における専門的研究や社会人に対するいわゆる生涯教育も当然に数えられなければならない。例えば、国が図書館、美術館、博物館、公民館、公会堂等様々な文化施設を設けなければならないのは、このような、教育を受ける権利の一般的な要求に応えたものと言える。

 ただ、本人に教育内容を決定する能力の存在する高等教育以降については、知る権利等を背景とする自由権的性格が強い。これに対して、初等中等教育においては義務教育が本条

2項で定められていることもあって、国に対する請求権としての面がより強い。それらの理由により、初等中等教育分野に社会権としての特殊性が集中的に現れてくる。本問で問題になっている小学校はもちろん、高校における教育も、初等中等教育に属する。


二 義務教育の歴史

 ここに説明していることは、君たちの論文には書く必要はない。しかし、そこで展開するべき論理の欠くべからざる背景をなしているので、説明している。

(一) 富国強兵政策の一環としての義務教育

 明治憲法の模範となったプロイセン憲法には既に教育の自由に関する詳細な規定があった。しかし、明治政府はその時点において既にわが国が富国強兵を実現していくためには国家の手による強力な教育統制の必要性を認識していたため、あえて当該条文を継承しなかった。その代わりに、明治憲法制定の翌年には早くも「教育勅語」を発布し、これを頂点として、憲法の保障の外に国家の手による統一的な教育システムを築いた。従って、教育は純然たる行政活動と理解された。例えば美濃部達吉は次のように論じていた。

「校舎の管理というような作用は純然たる経済的な作用で民法の適用を受けるけれども、児童の教育及び懲戒ということは、むしろ権力的作用たる性質を有するもので、たとえそれが違法に行われたとしても、国または市町村がその事業主として民法による賠償責任を負うものではないことは、なお警察官が暴行を為し、刑吏が囚徒を凌虐しても、国が賠償責任を負うのでないのと同様である(日本行政法上巻137頁)」

 このように、良き兵士を育てるための義務教育であって見れば、教育権を国家が有するのは論理的に必然の結果である。それと同時にこのような意味の国家教育権論が、今日の個人主義を根本原理とする憲法の下で維持できないのもまた当然である。

(二) 教育を受ける権利と地方分権

 こうした戦前の国家の権力行使としての教育を否定するところから、戦後の公教育は出発した。すなわち、憲法の個人主義理念の下「教師各自が画一化されることなく、適当な指導のもとに、それぞれの職務を自由に発展させるためには、教育の地方分権化が必要である」との判断から、「文部省は各種の学校に対し技術的援助及び専門的な助言を与えるという、重要な任務を負うことになる。」「市町村及び都道府県の住民を広く教育行政に参加させ、学校に対する内務省地方官吏の管理行政を排除するために、市町村と都道府県に、一般投票により選出される教育行政機関の創設を提案する(米国教育使節団報告書)」とされたのが、今日の、助言・指導機関としての文部省と地方教育委員会制度の出発点である。

 地方自治法が教育行政権の全面的な地方帰属を前提に、180条の8でその具体的行使機関としての教育委員会を規定しているのは、こうした経緯によるものである。

 憲法932項は、地方自治体の長及びその議会の議員と並んで、法律で定める吏員の直接公選制を定めている。そこで予定されていた吏員の代表的なものが、この教育委員会委員であった。しかし、教育委員会の公選制度は、その制定後、わずか8年を経過した時点で、委員の直接公選に伴う政治的対立の教育行政への介入を避け、教育の政治的中立と教育行政の安定を図るという理由の下に廃止になった。現在、東京都中野区など一部の地方自治体で、教育委員の準公選制が採られているが、これは、法律で公選制の撮要が禁じられていることから来る苦肉の策である。

三 私教育と公教育

(一) 私教育と公教育の接点

 憲法262項は義務教育を定めている。この規定は、子に対する教育内容の決定権という親の権利が、初等・中等教育という一定の限度で公法上の義務に転換していることを示している。ここに教育の私事性、すなわち私教育と公教育の接点を端的に見ることができる。今日の教育問題を考えるに当たり、教育の私事性と公教育という、教育の基本的な、しかし、互いに相矛盾する概念をどのように調和させるかが、最大の問題となる。

 旭川学力テスト事件で、最高裁判所(昭和51521日大法廷判決)は、この点について次のように述べる。

「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然関係に基づいて子に対して行う教育、監護の作用の一環としてあらわれるのであるが、しかしこのような私事としての親の教育及びその延長としての私的施設による教育をもつてしては、近代社会における経済的、技術的、文化的発展と社会の複雑化に伴う教育要求の質的拡大及び量的増大に対応しきれなくなるに及んで、子どもの教育が社会における重要な共通の関心事となり、子どもの教育をいわば社会の公的課題として公共の施設を通じて組織的かつ計画的に行ういわゆる公教育制度の発展をみるに至り、現代国家においては子どもの教育は、主としてこのような公共施設としての国公立の学校を中心として営まれる」

(二) 公教育の特殊性

 公教育は、私教育にない様々な制約に服する。

  1 教育の機会均等

 教育は、個人が健康で文化的な最低限度の生活を営む手段としてあらゆる国民に保障される。この点で特に重要なのが、男女共学及び心身障害児童に対する特殊教育である。

  (1) 男女共学

 これは、憲法14条の保障する性的差別の禁止が、この教育の機会均等に加味されて、必然的に導かれたものである(基本法第5条)。この観点からはお茶の水女子大等、国公立の女子校の憲法適合性が問題となる。今日においてその合憲性を肯定するのはきわめて困難と言えよう。県立女子高校についても同様のことがいえる。

  (2) 障害児童に対する教育

 障害を持つ児童の教育を受ける権利の保障は、現行憲法における教育を受ける権利の人権性を端的に象徴するものである。いうまでもなく、戦前の良き兵士を育てるための義務教育概念の下においては、そうした障害児童は単純に切り捨てられるだけであった。この原則は、教育を受ける能力の劣る者に対しては、その能力に応じて、特殊学級や盲学校、聾学校その他、特別の教育施設を設けることを要求する、と従来考えられていた。しかし、障害者と非障害者は、互いに交流すること自体を学ぶ必要がある。そのためには、障害者を、非障害者から隔離して教育するそうした特殊施設の教育ではなく、同じ学級でともに学ぶ統合学級が適切であると考えられるようになってきた。ただし、その場合、当然障害の程度に応じて介護者を配置する等の措置が必要である。障害の程度が重く、そうした介護者等の措置ではとうてい教育を受ける権利を保障できないレベルの場合にのみ、特殊学級等の特殊施設への収容が許容されるのである。

  2 義務教育の無償

 教育の機会均等の実質的保障としての、義務教育の無償は重要である。国際人権A規約132項は、初等教育(わが国では小学校)の義務化及び無償を要求し、また、中等教育(わが国では中学校及び高校等)における無償の漸次的導入を要求している。こうした要求は、以前からあり、例えばワイマール憲法は授業料及び教材は無償とすると定めていた。

 授業料を公的施設使用の対価と把握するとき、少なくともそれが、法律を待つまでもなく、憲法が具体的権利として個々の国民に保障しているものであることは明きらかである。

 プログラム的権利としては、国は財政負担能力を改善して、教材費をはじめとするすべての義務教育費の無償を本条は要求しているものと解するべきである。実際、そのための様々な努力を国は行っている。上記のとおり、教育は地方公共団体が実施することとなっている。義務教育費国庫負担法等により小中学校の教職員の給与の実支出額の原則として2分の1については国が負担し、また義務教育諸学校施設費国庫負担法等により学校等の新増築の場合には原則として2分の1を国が補助するなどの方策が講じられている。

 私立学校における教育も、前述のとおり公的性質を持つとされているにもかかわらず、その授業料を公費負担しないのは本条違反かという問題がある。しかし、私立学校は元来私人の拠出金を基盤に自主的管理を行うことを目的として設立された学校だから、それに対して授業料を支払うことは、その趣旨に賛同し、公的無償教育を放棄した保護者が負うべき責務と解する。しかし、この場合でも理想的には国が相当部分を負担するべきであり、私学振興財団を通じた補助の形で多額の援助が行われている。

  3 教育の中立性

 教育を受ける自由は、知る権利の一形態である。国民の知る権利を実質的に保障するには、独占性の強い情報機関については、その公共性を理由として編集権を否定し、不偏不党の立場から多角的な情報の供給に努める義務が発生する。公教育は、刑罰の威嚇を背景にしたとらわれの聴衆を対象にしているという点で、いわば究極の独占性をもつ情報機関である。したがって、その中立性に対する要求は、どのような情報機関よりも強いものとなる。その中立要求の中心は、政治的中立及び宗教的中立である。また、この政治的中立性を実質的に確保するための派生原則として、教育行政の中立性が必要となる。

 本問の中心論点である指導要領の問題は、この教育の中立性確保の重要な手段として登場する。以下、詳述する。

四 教育権の所在

文部省が、上記教科書検定等における理論的支柱として国家教育権を主張したことから、教育権の所在をめぐる論争は、今日、教育をめぐる最も重要な論点となっている。ここで、明確に注意しておきたいのは、そのいずれの学説も、教育権が本人ないし親に基本的に所属している事自体には、全く異論を唱えていない、という点である。

(一) 国家教育権説

 文部省の主張を、それをそのまま是認した高津判決(昭和49716日東京地裁判決=第1次家永訴訟)から紹介すれば、次のとおりである。

「議会制民主主義体制の下における今日の公教育は、教育の私事性を捨象し、かっての家庭における私的教育にかわって、組織的、機能的に実施運営されるのであり、国は国民の付託にもとづき福祉国家として教育内容にも及び得るのである。教科書検定制度も右教育行政の一環として、教育の機会均等、教育水準の維持向上などの教育目的から実施されるもので」ある。

 この説は、教育の機会均等を本条の中心的要求と把握していた当時における憲法学界の通説的理解をベースに国の教育権の根拠は「国民の付託」であるとしつつ、その付託とは国会の多数決原理を通じて現れるのだ、と結論することにより、多数党の基盤となっている特定の政治思想による教育行政の支配を肯定するというものである。戦前の軍国主義的国家教育権説と区別する意味では、「議院制民主主義的国家教育権説」とでも呼ぶべきであろう。この説は、教育の政治的中立性と正面から衝突する結論を導いているものであり、現行憲法の下においては、とうてい支持することはできない。

(二) 国民教育権説

 これに対立する「国民の教育権」論は、文部省のこうした主張に反対する立場の理論的支柱にする目的から理論化されたという共通の性格をもつ学説の総称であり、そういう名称の単一の学説が存在するわけではない。その代表的なものを紹介すれば、教育主権論、教育人権論、教育本質論、

23条論、教育基本法10条論(現在の16条に相当)などがある。

 国民教育権説を採用した判例の代表的な存在である有名な杉本判決(昭和45717日東京地裁判決=第2次家永訴訟)は、前提として教育人権論を唱えつつ、そこから教師の教育権を引き出す。すなわち

「教育の外的な事項については、一般の政治と同様に代議制を通じて実現されてしかるべきものであるが、教育の内的事項については、その特質からすると、一般の政治と別個の側面をもち政党政治を背景とした多数決によって決せられることに本質的に親しまず、教師が児童、生徒との人間的なふれあいを通じて、自らの研鑽と努力とにより国民全体の合理的な教育意思を実現すべきものであり、また、このような教師自らの教育活動を通じて直接に国民全体に責任を負い、その信託にこたえるべきものと解せられる。」

 そこで語られていること、特にその前半の、代議制とその限界は、文部省流の政治思想の教育の場への全面的導入肯定論の問題点を正しく指摘している。また、後半も建前としてみる限り、文部省でさえも異論のないところであろう。

 問題は、このことから「国民の教育権」の名の下に教師の教育権を、事実上まったく無限定に肯定してしまう点にある。これは明らかに論理の飛躍と評せざるを得ない。この飛躍に対する、最高裁判所の批判を見てみよう。

「子どもの教育が、専ら子どもの利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきものであるということからは、このような教育の内容及び方法を、誰がいかにして決定すべく、また、決定することができるかという問題に対する一定の結論は、当然には導き出されない。すなわち、同条が、子どもに与えるべき教育の内容は、国の一般的な政治的意思決定手続きによつて決定されるべきか、それともこのような政治的意思の支配、介入から全く自由な社会的、文化的領域内の問題として決定、処理されるべきかを直接一義的に決定していると解すべき根拠は、どこにもみあたらないのである。」

 確かに、教師に教育の内容を決定する権利があることは明らかである。すなわち

「教師が公権力によつて特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行わなければならないという本質的な要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定」できる(引用は、いずれも旭川学テ判決)。

 しかし、公教育の要請としての中立性の要求は、国の干渉を排除すれば直ちに実現できるというものではない。テレビ局の不偏不党性が、適切な監視手段なしに実現できないのと問題は一緒である。まして、法律の定めるところにより、登校を強制されている、いわば囚われの聴衆である児童が、しかも是非弁別能力の低いものが、教師の独裁的権力の下に学習しているのだ。その教育活動の内容に対する監督手段が通常存在しないことを考えれば、不偏不党性からの逸脱があった場合に、直ちに問題の発生が知られる可能性は非常に低く、しかも子供の可塑性が高いことを考えるとそこに発生する害悪は非常に大きなものとなり得る。その点に、通常の知る権利の場合以上の強力な、中立性保障策が必要なことは明きらかである。杉本判決が示した「下級教育機関における公教育内容の組織化は法的拘束力のある画一的、権力的な方法としては国家としての公教育を維持していく上で必要最小限度の大綱的事項に限られ」るとしただけで十分な保障とはとうてい思えない。教師の教育権を制限する何らかのメカニズムが必要である。

(三) 折衷説(旭川学力テスト最高裁判所判決)

 そうした意味で、旭川学力テスト判決で最高裁が示した、現場行政における両極端を排除し、中庸を求めようとした見解はまさに正しいものと言うべきである。すなわち、教育を受ける権利は「教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子供の学習する権利に対応」するものであり、「もっぱら子供の利益のために、教育を与える者の責務として行われるべきもの」であって子供が「自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば誤った知識や一方的観念を子供に植え付けるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」と言う認識は、杉本判決と同一のものと言えよう。

 他方、児童や親にとって、公教育においては学校や教師を選択する余地のきわめて乏しいこと、児童生徒の批判能力の低いこと、等の要素から、教師の自由を全面的に認めることはできないとしたのも、現実に密着した正しい事実認識ということができるだろう。こうした点から、公教育の内容は、国と教師と父兄の3者で責任を分担しつつ構成していくというのも考え方の筋道としては十分に支持できるものである。

(四) 教育の地方分権

 ここで改めて強調しておきたいのは、教育の地方分権である。すなわち、この判決で最高裁のいっている「国」というのは、具体的には地方教育委員会のことだということである。旭川学テ判決において、最高裁判所は次のように述べる。

「教育に関する地方自治の原則が採用されているが、これは戦前におけるような国の強い統制の下における全国的な画一的教育を排して、それぞれ地方の住民に直結した形で、各地方により実情に適応した教育を行わせるのが教育の目的及び本質に適合するとの観念に基づくものであつて、このような地方自治の原則が現行教育法制における導要な基本原理の一つをなすものであることは、疑いをいれない。」「文部大臣は、地教委に対し本件学力調査の実施をその義務として要求することができないことは、さきに述べたとおりであり、このような要求をすることが教育に関する地方自治の原則に反することは、これを否定するとができない。」。

 このままでは、学力テストは許されない、という結論が出てきそうである。最高裁は学力テストの合法性を、次のような形で際どく肯定する。

「地教委が文部大臣の要求に応じてその要求にかかる事項を実施した場合には、それは、地教委がその独自の判断に基づきこれに応ずべきものと決定して実行に踏み切つたことに帰着し、したがつて、たとえ右要求が法律上の根拠をもたず、当該地教委においてこれに従う義務がない場合であつたとしても、地教委が当該地方公共団体の内部において批判を受けることは格別、窮極的にはみずからの判断と意見に基づき、その有する権限の行使としてした実施行為がそのために実質上違法となるべき理はないというべきである。それ故、本件学力調査における調査の実施には、教育における地方自治の原則に反する違法があるとすることはできない。」

 非常に疑問の多い認定といえよう。

五 指導要領の法規範性について

 本問冒頭に明記したとおり、指導要領制定権は、法律上、文科大臣に付与されたものではあるが、決して明確に読み取れる権限では無い。そこから学説の対立が生じる。

 先に紹介した各学説のうち、国民教育権説に属する各説のどれかを諸君が採用する場合には、指導要領それ自体が違憲ないしその効力についてきわめて限定的に考えるべきことになる。したがって、本問については、その根拠そのものが無いのだから、それ以上検討するまでも無く、職務命令は違憲、ないしそこまで行かないまでも違法であり、したがって無効と判断されることになる。

 それに対し、国家教育権説からすれば、それが国家権限に属するのは当然であり、強行性を有すると考えるべきことになるので、それが合法で友好なものであることは疑う余地が無い。

 では、最高裁判所が旭川学テ判決で提唱し、通説ともなっている折衷説の立場ではどうなるだろうか。この教科書及び指導要領に関する文科省の権限が問題となって争われたのが、伝習館訴訟である。伝習館訴訟とは、県立の伝習館高校の社会科担当教諭3名が、担当教科の授業で所定の教科書を使用せず、学習指導要領を逸脱した指導を行い、生徒の成績評価に関して所定の考査を実施せず一律の評定を行ったこと等から、県教育委員会が、地方公務員法291項に該当するとして、彼らを懲戒免職処分にしたため、その処分の取消を求めた事案である。第1審の福岡地方裁判所昭和53728日判決は 、原告らのうち2名に対する懲戒処分につき、重要な点において事実を誤認し、学習指導要領違反又は評定についての違反のみをもって右処分を行うことは社会観念上著しく妥当性を欠き懲戒権者に任された裁量権の範囲を超えるとして、取り消した。これに対し、福岡高等裁判所昭和581224日判決は、高等学校学習指導要領は法規としの性質を有し、そのように解することは憲法23条、26条に違反せず、学校教育法21条が高等学校における教科書使用義務を定めたものであり、そのように解することは憲法26条、教育基本法10条(現在の16条)に違反しないとして、教育委員会の処分を認め、最高裁判所もこの判断を支持した(最判平成2118日=百選第5310頁)。

 最高裁判所の判決は、単に原審判断を正しいと述べただけで中身がないので、実際の論理を知るためには、福岡高裁の判決を見なければならない。また、上記要約中、憲法

23条及び教育基本法10条に言及した点は、それぞれ国民教育権説中の23条説及び教育基本法10条説を否定したに過ぎないので、ここでは言及しない。

 指導要領の拘束力について、福岡高裁は次のように述べている。

「高等学校の教育は、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とするものではあるが、中学校の教育の基礎の上に立って、所定の修業年限の間にその目的を達成しなければならず、また、高等学校においても、教師が依然生徒に対し相当な影響力、支配力を有しており、生徒の側には、いまだ教師の教育内容を批判する十分な能力は備わっておらず、教師を選択する余地も大きくないのである。これらの点からして、国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。」

 これは折衷説に基づく忠実な考え方というべきであろう。初等・中等教育は、事実上密室状態にある教室において、十分な判断能力を有しない生徒に対し、教師が独裁的に教育活動を実施するという手法を採らざるを得ないため、この段階における適切な統制手段は見あたらない。高校でそうなら、本問で問題になっている小学校教育では、さらに強くその事が言えるであろう。したがって、教育内容の中立性を確保するには、教育の基礎として内容が中立的なものとなっていることが確認されている教科書を使用することを強制し、その上で指導要領で、教科書に準拠した教育を行うように強制するという手法以外に適当な代替施策が見あたらない。

 同時に、誤解を避けるために強調したいが、これは文科省が指導要領として定めた内容がすべて法規範としての拘束力を持つという意味ではない。それはあくまでも、親・教師・国という3者の協力関係の中での国の権限だからである。

 旭川学テ事件当時の指導要領は、かなり問題の多いものであった。最高裁はその性格を次のように認定する。

「ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、また、必ずしも法的拘束をもつて地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうかの疑わしいものが幾分含まれている」

 したがって、そのように教師を強制するのに不適切な部分は、法的拘束力はないと考えるべきことになる。旭川学テ判決は、次のような認定の下に、その当時の指導要領の拘束力を認めた。

「右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱基準としての性格をもつものと認められるし、また、その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていない」

 伝習館訴訟最高裁判所判決は無造作に「高等学校学習指導要領は法規としての性質を有する」という言い回しをしているが、これはあくまでも、このような旭川学テ判決の枠内での表現であることは、伝習館判決が明示的に学テ判決を引用していることに明らかである。決して全面的に法規範性を承認したのではないことに注意する必要がある。

 教育法学の分野における学説では、何が法規範性を持つ部分かという点については争いがある。しかし、指導要領中に、何らかの意味で法規範性を持つ部分があること自体は否定するものはいない。

六 国歌斉唱の憲法問題

 最後に検討しなければならないのが、指導要領中の、国旗掲揚及び国歌斉唱を求める部分が法規範性を有するか、という点である。先に説明したように、公教育は政治的中立性が求められている。そして、残念ながら、わが国の現在の国旗・国歌は、右翼の街宣車などが乱用している結果、右翼のシンボル的な印象がある。そこから、国旗・国家の指導要領による強制は、公教育理念に反するのではないか、という疑いが生じるからである。

 一般に、この指導要領を正当化する論理としては、漠然と公共の福祉という言葉を使用されている(例えば、都立高校教員が国歌斉唱を拒んだために、戒告処分を受けた事件に関する東京地方裁判所平成18921日判決参照)。しかし、国旗・国歌を式典において掲揚・斉唱するべき公共の福祉とはいったい何だろうか。その点を以下において検討してみよう。

 宮沢俊義の内在的一元説以来、人権の制約根拠となる「公共の福祉」という概念の正体は、統一的な「公共の福祉」ではなく、その問題と関わりのある他者の人権であるということが、一般に承認されてきた。さらにいえば、人権に加えて憲法上の義務でも良い。例えば、租税は、我々の財産権の自由に対する国家権力による侵害であるが、納税の義務を憲法が明定している(30条)が故に、合憲である。

 国旗・国歌に関しては、現行憲法典中の根拠は、憲法忠誠の理念であろう。すなわち、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」(憲法99条)ので、そこから公立学校教員であるXの憲法忠誠義務を考えなければならない。憲法忠誠とは、要するに、現行憲法によって、他から区別されうる国家という存在に対する忠誠と言い換えることができる。そして、国家に対する忠誠は、その国家を対外的に象徴するものに対する敬意という形式をとおして表現される。だから、わが国の場合であれば、天皇、国旗、国歌、国花、国鳥などに対する敬意の表現ということになる。

 これは世界各国で共通の理解といって良い。例えば、アメリカ合衆国の場合、改まった式典においてばかりでなく、毎日、児童生徒は次のような国旗に対する忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)を強制されている。

" I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all." 
「私はアメリカ合衆国の国旗に、そしてその国旗が象徴する共和国に、神の下で一国として分かたれずに存立し、全ての人に自由と正義が約束されたこの国に忠誠を誓います。」

 少し脱線する。

 これを紹介すると、おそらく諸君は、サンフランシスコにある連邦控訴裁判所が、この行なわれている忠誠の誓いを、合衆国憲法に違反するという判決を下したという報道を思い出すであろう。しかし、その訴訟にしても、忠誠の誓いそのものを違憲と争ったりしたものではなく、神という言葉が入っていることを政教分離(Separation of Church and State)に違反するとして争ったのである。すなわち、ここで言う「God」とは、言うまでもなく大文字で始まるGodであり、一般的にユダヤ・キリスト教の神を指しているからである。しかし、無神論者はもとより、イスラム教徒や仏教徒やヒンズー教徒など、ありとあらゆる異なった伝統を有する移民から構成された多民族国家であるアメリカ合衆国にとって、「特定の宗教的祈祷を国家に対する忠誠の言葉に入れること自体、違憲ではないか」という点が争われたのである。閑話休題。

 日本の場合、このような一般的な憲法忠誠を要求する規定はどこにもないし、法律レベルで制定されてもいない。しかし、本問で問題となっている公務員の場合には、きちんと定められている。本問で、参照条文として地方公務員法の規定を紹介したのは、その事を容易に認識してもらうためである。改めて31条を紹介すると次のように定めている。

「職員は、条例の定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。」

 これを受けて、具体的にどのような宣誓が行われているかは当然、各地方公共団体の条例によって異なる。ネットで、いくつかの地方公共団体の規定を見つけることができた。大同小異であるので代表例として東京都台東区のものを紹介する。教育公務員であれば、次に決められている。

「 私は、ここに、主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、かつ、擁護することを固く誓います。
 私は、地方自治及び教育の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として、誠実かつ公正に職務を執行することを固く誓います。」

 こうしたことから考えれば、少なくとも公務員の場合には、単に憲法レベルにおいてのみではなく、法律レベル、さらに個人の服務関係の定立というレベルにおいても、憲法忠誠が課せられているということができる。

 その場合、国旗や国歌が一国の象徴とされている以上、憲法という抽象的な存在への忠誠は、国旗や国歌という象徴に対する行為として表現されることになるのは、米国の例を見ても明らかである。したがって、憲法忠誠義務を明確に課せられている公務員としては、国旗を掲揚し、国歌を斉唱する義務があるという他はない。

 その国旗として日の丸というデザインが、あるいは国歌として君が代という歌詞が、それぞれ適切か否かを論ずる自由が、公務員を含む全国民に保障されていることはいうまでもない。特に不適切であるとした場合に、それに換えて、どのようなものにするべきかを論ずる自由は、間違いなくある。しかし、そうした議論の結果として、新しいものが決まるまでの間は、少なくとも公務員である限り、現行の法令に従って国旗掲揚・国歌斉唱の義務が生ずるというべきである。我が憲法が保障するのは、議会制民主主義であるから、基本的には多数決原理が支配する。多数決原理とは、少数者も、決議には従う義務があるということを意味する。

 まして、そうした議論をすることもなく、漠然と、それが現実問題としては、日の丸であり、君が代であり、それを嫌悪しているという理由に基づいて、公務員が、国と憲法を象徴する現行の国旗・国歌に対し敬意を表さない事は許されないというべきである。先に論じたとおり、教師は、国(地方公共団体教育委員会)及び親と並んで、教育内容決定権を有する。しかし、少なくとも大綱的な内容決定権が国にあることは明らかである。したがって、その大綱としての内容を有する指導要領に反して、それに抵触する教育活動をする自由はない。

 最後に、地方教育委員会が、問題文に掲げた詳細な式次第を定める権限を持っているのか、ということが問題となる。しかし、これは直接には教育基本法

16条の解釈論となり、行政法レベルの問題となって、憲法レベルではない。問題は、「憲法上の問題を述べよ」といっているから、本問の場合はこれは論じなくて良い、ということになる。

*                 *                 *

 以上に述べたことを、簡単に要約しよう。憲法26条の定める公教育には、教育の中立性という絶対的な要求がある。その結果、公教育の場においては、それに携わる個人は、自らの思想・信条を表現する自由を有していない点に特徴がある。そして、特に公務員たる教員は、憲法忠誠を自ら誓っているのであるから、19条を根拠に、消極的にであれ、教育の場においては思想・信条を表現する自由はもたないと言わざるを得ないのである。

七 憲法19条について

 本問の限りにおいては、以上のような論理の流れになるから、特に憲法19条を論じる必要は無い。本問のベースとなった平成19227日最高裁判所第三小法廷判決以下の一連の判例が、過去の最高裁判所における憲法19条判決を羅列するだけで、実質的にそれに触れることなく、合憲判決を下しているのは、そこに理由がある。

 しかし、その事と切り離して、君たちの19条理解は大変問題のある状況なので、以下、簡単に説明する。

(一) 沈黙の自由としての意義 

19条にいう「思想」という概念と「良心」という概念は、一般条理としては異なる概念である。たとえば共産主義を信奉することは、常識的に言って思想の問題であり、信念として殺人や闘争を拒否するが故に兵役を拒否することは、良心の自由の問題である。これについて、用語を入れ替えることはまずできない。

 教科書では、普通、単に、同一の条文で保障されているから、二つの概念を区別する実益はない、と説明する。しかし、これは簡略に過ぎる説明である。例えば、憲法21条で集会や結社が同一の条文で説明されている。しかし、だからといって、集会と結社について区別する実益がない、とは言わない。むしろ、集会の概念や、結社の概念について、精緻に論じ、その区別に応じて、様々な限界的な事例を解決していくのである。 

 19条で、区分する実益がない、といわれるのは、同条の特殊性から来ている。すなわち、思想や良心を外部に対して積極的に表明する自由については、信教の自由について憲法20条、学問的表現の自由について23条、そして、そのいずれにも属さない一般的な表現の自由について、21条がいずれも保障しているところである。したがって、19条で積極的に内心の思想や良心を外部に表明する自由を考えても、20条以下の条文に現れない特別の意義を発見できず、実益がない。その結果、19条で読むことができるのは、消極的な沈黙の自由だけである。

 このように消極的に表現しない自由だけを読む場合、思想と良心を厳密に区別しても、同一条文に同格に上げられているので実益がない。特にわが国の場合、良心という言葉の中心的な意味として他国では一般に認められている信教の自由が、20条という形で独立に保障されている結果、それを除外した良心という概念を考える余地に乏しい。したがって、この二つの概念を併記することによって表現されるところの統一概念を保護の客体と考えるのが妥当である。これを普通、内心の自由と称する。

 しかしながら、このように、消極的権利に限定して考えた場合にも、なお問題が存在する。すなわち、上述した20条以下の各条は、いずれも積極的な表明の自由だけでなく、消極的な沈黙の自由も保障していると考えられるからである。特に問題となるのが、21条の一般的な表現の自由の保障から導かれる一般的な沈黙の自由である。19条の沈黙の自由は、完全に21条によって保障されている一般的な沈黙の自由に含まれているはずである。したがって、両者の間に何らかの質的差違がない限り、内心の自由は、沈黙についてさえ、特に考える必要が無くなってしまうことになる。

 この点については、一般的に、19条の沈黙の自由は絶対的な保障であり、21条の沈黙の自由は相対的な保障として理解する。つまり、検閲と事前抑制禁止の法理の関係のように理解することになる。21条の沈黙の自由が相対的な保障であるとは、公共の福祉の制約に服し、国家が表現を強制することも可能であるということの別の表現である。現実に憲法38条は、自己に不利益な供述を強要されない、として、自己の利益に直接関わりのない供述の強要を予定している。これを受けての訴訟法では、単なる事実に関しての供述を強制する制度を設けている。裁判における証人の出頭義務(民訴192条~193条、刑訴150条~153条の2)及び証人の宣誓・証言義務(民訴201条、刑訴160条~161条)がそれである。ただし、供述の強制に関して、法律は自己の利益以外のばあいにも次の場合について、沈黙の自由を許容している。すなわち公務上の秘密(民訴191条、刑訴144145条)、自己及び近親者等の不利益(民訴196条、刑訴146条~148条)、業務上秘密(民訴197条、刑訴149条)である。

 ところで、上述したのは、絶対的保障と考えるに当たっての、いわば形式的根拠である。いつも強調するとおり、理由は、常に、形式と実質の二つがなければならない。実質的根拠についてはいくつかの説がある。代表的なものとして、次のものがある。

1.内心の本質的不可侵性を理由とするもの(例えば久保田きぬ子「思想・良心・学問の自由」『憲法講座2』109
2.民主主義の精神的基盤であり、その絶対的自由なくして個人の尊厳はあり得ないとして、その根元的価値を強調するもの(例えば橋本公亘『日本国憲法』224頁)
3.他者との関わり合いのない個人の内面領域であることを理由とするもの(例えば宮沢俊義『憲法II』346頁)

 どの説を採るかは基本書と相談して決めてほしい。ただ、私自身は、3番目の個人の内面領域だから、というのは理由付けになっていないと考えている。なぜなら、そもそも法学は社会規範であり、行為規範だからである。内面領域の問題は、それが内面に留まって、具体的行為の形態をとらない限り、そもそも法学的検討の対象とはならない。そして、それが具体的行為の形態をとった場合には、本問に明らかなように、現実として他者との関わりが発生する。だから、この理由付けは、そもそも論理矛盾となっているのである。

 このように、絶対的な保障と理解する場合には、内心の自由がどのような概念であるかは、厳密に決定する必要がある。すなわち、何をもって、相対的保障に留まる21条の沈黙の自由と区別されるのかが、大きな問題となる。

 なお、上述したのはあくまでも19条と21条の沈黙の自由の関係である。例えば20条の信教に関する沈黙の自由は、良心という言葉が歴史的にはもっぱら信教との関係で使われてきたことを考えると、内心の自由との間に、質的差違を認めるのは適切ではない。したがって、例えば、踏み絵のような信教の有無を表明することを強制することの禁止は、20条の保障内容ということができるが、これについてもまた絶対的保障と考えるのが適切である。

(二) 沈黙の自由の概念

 内心の自由の意義をどう理解するかについては、大きく二つの考え方が対立している。 一つは、信仰に準ずる世界観、主義、主張等を全人格的にとらえ、これに限定するという考え方である(以下「世界観説」という。)。ここで、「信仰に準ずる」という形容詞が付いているのは、先に述べたように、良心という言葉は、本来は、宗教的良心に限定した意味なので、思想・良心という概念を統一的に解釈する場合にも、その程度の体系性のあるものでなければならないということである。

 いま一つは、内心において独自の考えを展開する自由ないしそのようにして形成した観念を保持する自由一般をいうものと考える立場である(以下「一般観念説」という。)。

 下級審判例には明確に世界観説の見解を採用しているものがある(長野勤評事件長野地裁昭和39年6月2日判決)が、最高裁の見解ははっきりしない(謝罪広告判例の多数説はむしろ一般観念説に読める。同様に解するものとして佐藤幸治)。

 一般に、教科書では、単にいずれかの説を採ることのみが書いてあって、何を根拠にその説を採っているのかについては、あまりはっきりと述べていないものが多い。しかし、だからといって、諸君が論文で、同様に根拠を抜きにして、単に結論を述べたのでは、合格答案と評価されることは難しい。論文試験でポイントを獲得するには、あくまでも、自分の書いた結論に、どこまできちんと首肯させるだけの理由を付することができるかどうか、が評価の対象となるからである。

 いつも強調するとおり、論文は基本書のダイジェストでなければならない。基本書の該当箇所に理由が書いてないのは、それ以前にきちんと理由が書かれているため、著者が改めて理由を述べる必要を認めていないからである。

 ここで問題となっている内心の自由は、上述したところに明らかなとおり、公共福祉による制約を認めない、根元的な沈黙の自由である。このように根元的な性格を持つ人権の概念内容を決定する論理は、人権の本質論以外にあり得ない。

 ここまで説明すると判ると思うが、内心の自由の本質が世界観説なのか、あるいは一般観念説なのか、を決定するメルクマールは、基本的には人権の本質に関して、諸君が(というより諸君の基本書が)人格的利益説を採用しているのか、あるいは一般的行為自由説を採用しているのか、に掛かっていると理解して良い。

 例えば、人格的利益説の代表的な論者である芦部信喜は次のように述べる。

「世界観・人生観・主義・主張など人格形成に関わる(ないし必要な)内面的精神作用だと考える。ただし世界観説に属する見解の多くが、それを『信仰に準ずるような』という限定でしぼるのは、思想の自由の世俗制を弱め、信条として内面化される必要があるというニュアンスをもちその結果一般的観念説との違いを大きくする可能性があるので、『信仰に準ずる』という要件は付さない方が妥当と考える。また、『人格形成に役立つ』とか『人格形成の核心をなす』という限定も、人の内心におけるものの見方ないし考え方をしぼる概念としてより、その内容を明らかにする概念として捉え、人格形成云々によって、人の内心の活動の自由を機械的に狭隘化することのないように解することが必要だと思う。」    芦部信喜『憲法学III』104頁より引用

 これは、直接には、芦部信喜が、できるだけ広げた解釈をしようとしていることを知っておいてほしいといっている文章である。しかし、引用した狙いは、ここで『内面的精神作用』という結論の言葉に『人格形成に掛かる』という言葉が付されて、これが世界観説の決め手になっている点を、十分に理解しておいてほしいということである。このことから、世界観説が人格的利益説とワンセットのものであることが判ると思う。

 これに対して一般的行為自由説を採る戸波江二や阪本昌成は、一般的観念説を採る。

 したがって、今日のこのレジュメでは、説明の手を抜くが、諸君の論文では、まず、人権の本質に関していずれの説を採るかを述べ、ついでそれについての理由を述べるものでなければならない。すなわち、諸君が世界観説をとる場合には、人権論の本質として人格的利益説から説き起こすのが一番論理的な文章を書く方法である。

 これに対して、さらに積極的に理由を追加しようとする者もある。例えば佐藤幸治は、世界観説が信教や学問の自由との関係で立体的に捉え、一般的観念説がそれらを無視した形で平面的に捉えていると把握した上で、次のように述べる。

「『思想及び良心』は『信教』や『学問』と内的関連性をもつはずのものであって、『思想及び良心』を内心領域一般とすることは広汎に失すると解される」

佐藤幸治『憲法』第3版 485

 逆に、辻村みよ子は、人権の本質論では、人格的利益説を採りつつ、ここではわが憲法に信教の自由に関する特別規定があることを決め手に、一般的観念説になる(辻村みよ子『憲法』第三版198頁)。

 このように、この点に関する説の対立は、人権の本質論に関する対立をベースにしつつ、かなり複雑なので、慎重に基本書を読んで、しっかりした理由付けを発見しておいてほしい。

 学説的には、この二つはほぼ互角の勢力を持っている。そして、この問題を巡る歴史的な事件である謝罪広告判決の評価は、一般にこの点に関する説によって決している。たとえば芦部信喜は次のようにいう。

「思想・良心とは、世界観、人生観など個人の人格形成に必要な、もしくはそれに関連ある内面的な精神作用であり、謝罪の意思表示の基礎にある道徳的な反省とか誠実さというような事物の是非、善悪の判断などは含まないと解し、謝罪の強制は思想・良心の自由を必ずしも侵害するものではない」      (芦部・新版140頁)

 すなわち、世界観説を採る者は、合憲説を採る傾向がある。これに対して、一般観念説を採る者は、謝罪や陳謝という行為には一定の倫理的意味があることを重視して、違憲とする見解を採る傾向がある。

(三) 本件判決の検討 

 実は、最高裁判所と異なり、このベースとなった事件の第1審東京地方裁判所平成18921日判決は、19条の沈黙の自由に関してもある程度述べている。

「国民は,憲法19条により,思想・良心の自由を有するところ,宗教上の信仰に準ずる世界観,主義,主張等を全人格的にもつことは,それが内心の領域にとどまる限りはこれを制約することは許されず,外部に対して積極的又は消極的な形で表されることにより,他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反する場合に限り,必要かつ最小限度の制約に服すると解するのが相当である。」

 これは、かなり奇妙な説といって良い。公共の福祉による制約を認めているので、19条を相対的保障と理解していることになる。そうである以上、21条との間に質的差異はないことになる。しかし、相対的保障と考えた以上は、そもそも19条について、このように狭く限定を加える理由はない。19条を、このような狭い概念に限定して理解するのは、あくまでも相対保障である21条との限界を明確にするためだからである。

 とにかく、このような19条に対する奇妙な理解を前提として次のように説く。

「我が国において,日の丸,君が代は,明治時代以降,第二次世界大戦終了までの間,皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定し難い歴史的事実であり,国旗・国歌法により,日の丸,君が代が国旗,国歌と規定された現在においても,なお国民の間で宗教的,政治的にみて日の丸,君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない状況にあることが認められる(弁論の全趣旨)。このため,国民の間には,公立学校の入学式,卒業式等の式典において,国旗掲揚,国歌斉唱をすることに反対する者も少なからずおり,このような世界観,主義,主張を持つ者の思想・良心の自由も,他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り,憲法上,保護に値する権利というべきである。」

 ここでは、二つの異なる論点が混同されている。民主主義国家日本の国旗として日の丸が、国歌として君が代が、それぞれ適切かどうかという論点と、学校の入学式,卒業式等の式典において,国旗掲揚,国歌斉唱をする事が適切かという問題は、先に論じたとおり、別の論点である。仮に、日の丸や君が代とは別のものが定められてもなお、そもそも公立学校の式典において国旗掲揚,国歌斉唱をする事には反対するという主張は、当然に考えられるからである。さらにいえば、国旗や国歌は、どうしても過去の何らかの思想や理念を反映して制定されるから、どこの国でも、現時点でのデザインや歌詞に全く反対者がいないという(判決の表現では「価値中立的」)ものは、まずありえない。しかし、どこの国でも、現時点での国旗・国歌のデザインや歌詞が適切なものかという議論と、国旗・国歌を式典で使うことの当否は切り離して論じられている。その点、粗雑な議論といわざるを得ない。

 同判決は、結論的に次のように述べる。

「宗教上の信仰に準ずる世界観,主義,主張に基づいて,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを拒否する者,ピアノ伴奏をすることを拒否する者が少なからずいるのであって,このような世界観,主義,主張を持つ者を含む教職員らに対して,処分をもって上記行為を強制することは,結局,内心の思想に基づいてこのような思想を持っている者に対し不利益を課すに等しいということができる。したがって,教職員に対し,一律に,入学式,卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し,国歌を斉唱すること,ピアノ伴奏をすることについて義務を課すことは,思想・良心の自由に対する制約になるものと解するのが相当である。」

 先に述べた通り、本件判決は、基本的に19条の保障する沈黙の自由と、21条の保障する沈黙の自由の区別が付いていない。そのため、表現的には19条の沈黙の自由を保障しているように見えるが、実質的に論じているのは、21条の沈黙の自由と考えるべきであろう。すなわち、ここで問題となっているのは、正式に法律で国旗・国歌と定められているにも拘わらず、日の丸・君が代に対して、それが昭和10年代に象徴していた軍国主義の記憶とだぶらせて、国旗として敬意を示したり、国歌として斉唱したりするのを嫌がるという漠然とした心情だからである。決して日の丸・君が代が国旗・国歌であることを否定したり、別のものに換えようという運動を起こしたりするほどの積極的な主義・主張ではないのである。だから、一般的観念説に照らしても、これが19条の保障する沈黙の自由に属するといえるほどの問題ではないのである。

 つまり、本問で問題になっているのは、実は19条の権利ではなく、21条の権利であることを、この判決は露呈していると評することができる。そして21条の権利は相対的保障なので、合憲と解することが可能な法的根拠があれば、制約可能である。