財産権の本質と補償時点
甲斐 素直
問題
 わが国経済がデフレを脱却して顕著なインフレ傾向を示し、さらに土地の価格は、物価の上昇率を上回る勢いで上昇しているという客観的状況があると仮定して、以下の問に答えよ。
 鉄道会社Yは、新しい鉄道の建設事業を計画し、平成×1年6月、事業の告示を行った。そして、その鉄道敷地の一部、AB市a町b番cの地番の土地所有者Xに、その土地の買収を申し入れ、粘り強く交渉を行ったが、Xが拒んだため、土地収用法に従い収用することとし、必要な手続きをとった。A県土地収用委員会は平成×56月、土地収用の裁決を行った。
 これに対し、XYに対し土地収用の補償金の増額を求めて訴えを提起した。
 土地収用法71条によれば、土地等の収用による損失補償金額の基準となる時点は、事業認定の告示の時であって、土地収用の裁決時ではないが、Xは、その訴えにおいて、平成×1年から同×5年にかけて、土地価格は顕著な上昇傾向を示しており、その傾向は継続的であるから、本件収用における本件土地の損失補償金額は収用裁決時を基準として算定すべきであり、事業認定時とするのは、憲法293項に違反する旨主張した。
 Xの主張の憲法上の問題点について論ぜよ。
 
参照条文 土地収用法
 第71  収用する土地又はその土地に関する所有権以外の権利に対する補償金の額は、近傍類地の取引価格等を考慮して算定した事業の認定の告示の時における相当な価格に、権利取得裁決の時までの物価の変動に応ずる修正率を乗じて得た額とする。
 
[はじめに]
(一) 土地収用法における補償基準時点
 土地収用法は、憲法で保障された個人の財産権と公共の利益との調整を図り、国土の適正で合理的な利用に寄与することを目的として、公共事業に必要な土地を収用(又は使用)するための要件、手続き、効果、損失の補償などについて定めている。
 すなわち、道路、河川、下水道などの公共事業のために土地が必要になった場合、通常は、国や地方公共団体など事業の施行者(起業者)が土地所有者や関係人と話し合い、合意の上で契約を結んで必要な土地を取得する。
  しかし、補償金の額について合意ができなかったり、土地の所有権について争いがあるなどの理由で、話し合いにより土地を取得できない場合がある。このような場合は、起業者が土地収用法の手続をとることにより、土地所有者や関係人に適正な補償をしたうえで、土地を取得することが可能となる。これが土地収用制度である。
 土地収用制度により、起業者が公共事業のために必要な土地を取得する際には、まず起業者が土地収用法に基づき国土交通大臣又は都道府県知事の事業認定を受ける。
 その後に起業者は、収用委員会に収用の裁決を申請する。収用委員会では、起業者、土地所有者、関係人の意見を聴くための審理や調査などを行い、補償金の額などを決める。これを裁決という。この裁決に従って補償金の支払いなどを行うことによって、起業者は土地を取得できる。
 その場合、支払うべき補償額の決定時点として、三つのものが考えられる。第一に事業認定の時点である。第二に裁決の時点である。第三に実際に土地を収用した時点である。いずれを基準時点とするかは、本問で仮定したように、土地価格に著しい上昇傾向がある場合などには、大きな問題となる。
 しかも、それに関して、我が国の判例実務は大きく揺れ動いた。すなわち、大審院時代の我が国判例は、三番目の収用時主義を採用していた。それに対して、現行土地収用法71条は、当初は二番目の裁決時主義を採用した。その後、昭和42年に一番目の事業認定時主義に改正されて今日に至っている。
 このように、基準時点を過去に遡らせた理由はきわめて明白であろう。すなわち、ごね得の防止である。土地価格が右肩上がりの傾向を顕著に示している場合には、基準時点を、実際の収用時点に近づけるほど、用地買収に応じず、長期にわたって粘り続けるものが有利になり、用地買収に協力的なものほど馬鹿を見るという結果が生じるのである。そこで、事業認定の時点を地価判定の基準時点とし、その後、実際に収用するまでの間に生じた価格変動は、一般物価の変動率だけを考慮する、という手法が考案されたわけである。すなわち、実際の補償額は、総務省統計局が作成する「全国総合消費者物価指数」及び日本銀行が作成する「投資財指数」を用いて算定した修正率を乗じて得られた額である。問題文で、土地価格の上昇傾向が、一般物価に比べて著しいという事を断ってある理由はそこにある。土地価格上昇率がインフレ率と同じであれば、その様なインフレ分は補正するので、収用時における近隣地価と同額になるが、土地価格上昇率がそれを上回っていると近隣時価より低いものとなるのである
 このような立法は、公共用地の買収の実務的な見地から見ればきわめて妥当なものであるが、憲法293項に整合するかは一つの問題である。
 すなわち、最高裁判所は、上記のうち、第二の時点である裁決時主義を法律上採用している時代において、次のように述べた。
「土地収用法における損失の補償は、特定の公益上必要な事業のために土地が収用される場合、その収用によつて当該土地の所有者等が被る特別な犠牲の回復をはかることを目的とするものであるから、完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭をもつて補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要するものというべく、土地収用法72条(昭和42年法律第74号による改正前のもの。以下同じ。)は右のような趣旨を明らかにした規定と解すべきである。」(最判昭和481018日)憲法百選[第5版]226頁、行政百選[第5版]508頁参照)
 この判決中で、「収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめる補償」と述べている箇所は、時点として第三の収用時主義を正しいとしているように読める。少なくとも、判決の対象となった42年改正前の土地収用法を問題としているから、それが採用していた裁決時主義を合憲としているように見える。その観点からすると、昭和42年改正後の土地収用法が採用する事業認定時主義は、違憲という見解を最高裁判例は採用していることになる。
 この問題に対して、最高裁判所平成14611日判決は、現行土地収用法71条を合憲とした。こうした最高裁判所判決の変遷そのものが、本問の基本的論点である。
 ところで、問題文で、Xが鉄道会社Yを相手取って訴えを提起した、と書かれた点に違和感を感じた人はいなかっただろうか。Xが争ったのはA県土地収用委員会の採決の内容である。だから、常識的に言えば、XA県を相手取って採決取り消しの訴えを起こすべきである。それなのに、XYを相手に訴えを起こしたのは、土地収用法に次の様な規定があるためである。
133  収用委員会の裁決に関する訴え(次項及び第三項に規定する損失の補償に関する訴えを除く。)は、裁決書の正本の送達を受けた日から三月の不変期間内に提起しなければならない。
 収用委員会の裁決のうち損失の補償に関する訴えは、裁決書の正本の送達を受けた日から六月以内に提起しなければならない。
 前項の規定による訴えは、これを提起した者が起業者であるときは土地所有者又は関係人を、土地所有者又は関係人であるときは起業者を、それぞれ被告としなければならない。
 このような訴訟を行政法上、形式的当事者訴訟という。これに対し、公務員の給与の支払いを求める訴訟、日本国籍を有することの確認などは実質的当事者訴訟であると言われる。
 
(二) 問題の所在
 本問をちょっと見ると、憲法293項だけの問題であるように見える。しかし、293項にいう正当補償とは何かということは、基本的に財産権はいかなる権利か、という問題に対する解答によって決まる。そのことは2項が述べている。
 問題は、2項は一体何を述べているのか、という事である。そこが述べている財産権概念により、3項で保障するべき内容は全く変わってきてしまうのである。
 したがって、実際に議論の中心になるのは292項にいう財産権概念そのものということになる。平成6年度の司法試験問題に次のようなものがあるが、本問の類題と言うことができる。
 用地の取得が著しく困難な大都市において、公園及び公営住宅の建設を促進するために、当該都市に所在する私有の遊休土地を市場価格より低い価格で収用することを可能とする法律が制定されたと仮定する。この法律に含まれる憲法上の問題点をあげて論ぜよ。
 そして、292項をどのように理解するかは、基本的に291項をどう理解して居るかに左右される。
 このような論理構造の結果、29条の関する問題は、どんな問題でも途中までは同じことを書けば良い。すなわち、
  1 291項をどのように理解するかを論じる。
  2 それとの関係において、2項をどう理解するかを論じる。
  3 それとの関係において、3項をどう理解するかを論じる。
 そこから先は、その問題におけるメインの論点に応じて変わってくることになる。しかし、書き出しで、上記パターンから外れていたら、どうあがいても、基本的には、それは落第答案と評価されることになるはずである。同時に、1項や2項で精力を使い果たし、3の記述がなおざりになっては話にならない。本問の中心論点が3項であることは疑う余地がないから、答案全体の半分程度は3に投入するという意識で答案構成を行う必要がある。しかし、提出された論文を見る限り、1項や2項の理解のレベルからかなり問題があると思われるので、それらについても以下詳しく説明する。
 
一 私有財産制の意義
 29条の理解に関しては、大きな学説の対立が存在する。制度的保障説に立つ説と社会権と理解する説の対立である*[1]。諸君の中には社会権説に立つ人はいないと思われるので、以下においては制度的保障説に依りつつ説明を行う。
 その立場による場合、一般に、1項は個別の財産権を保障すると同時に私有財産制をも保障したものであると理解する。財産権の内容を法律で定めるということは、財産権は法律の存在する限りにおいてのみ存在することができるという意味である。例えば、本問で問題になっている土地所有権という概念は、民法の不動産法制の枠組みの上に立っているのである。民法を抜きにしては、土地所有権という概念を考えることすら不可能なのである*[2]
 最高裁は、共有林分割禁止違憲判決で憲法29条について次のように説く。
「私有財産制度を保障しているのみでなく、社会的経済的活動の基礎をなす国民の個々の財産権につきこれを基本的人権として保障するとともに、社会全体の利益を考慮して財産権に対し制約を加える必要性が増大するに至つたため、立法府は公共の福祉に適合する限り財産権について規制を加えることができる、としているのである。」
 これを単純に読むと、最高裁判所は、このように規制を加えることだけを2項の機能のように言っているように思える。しかし、新しい財産権を法律で創設することができるということは、現に存在している財産権そのものを、法律によって廃止するということもまた可能だということである。2項を「制限」と読むのは間違いである。
 わが憲法29条を解釈するに当たっては、財産権に関する二つの大きな変革を前提にする必要がある。第1項と第3項だけを読む限り、所有権という言葉を財産権と置き換えている点を除けば、フランス人権宣言から少しも変わっていないように見える。しかし、その間の2項に「財産権の内容は‥法律でこれを定める」というワイマール憲法*[3]とも呼応する表現が飛び込んで来ていることによって、全体の意味が変わる。1項や3項は、2項との関連において意味を理解する必要がある。すなわち、今日の社会国家においては、「私有財産制」は、憲法27条・28条の保障する「労働」とともに、すべての国民に生存を保障する手段として認められる。「財産」と「労働」とが、互いに補足しあって、人々の安定的生活を保障していると考えるべきなのである。
 このような、財産権の持つ社会性は旧憲法時代から一貫して存在しているものであった。
 例えば、上記平成14年判決は、現行土地収用法を合憲とする根拠の一つとした、昭和281223日判決の、農地改革に関する有名な判決を引用している。
 農地改革とは、大土地所有者から強制的に農地を低廉な価格で買収し、貧農に分配することにより貧農を救済するという政策である。高校の日本史だと、農地改革は第2次大戦後にGHQの主導で行われた改革のように教えるが、誤りである。その原案は実は第2次世界大戦前の1930年代に既に作られていた(1938年制定の農地調整法がそれである)。しかし、地主勢力の抵抗で実現していなかった。そこで農林省では日本の敗戦というチャンスを捉えて上記改革を復活させることを目論み、194510月に事務局案を作成し、11月には要綱案を閣議にかけ、124日に議会に提出した。この案もまた地主勢力の抵抗に合い難渋するが、米国占領軍GHQ 129日に「農地改革に関する覚書」を発表し、支援したため、実現した。これほど大規模な所有権に関する改革が、憲法改正を行うことなく可能であると考えられていた点に、旧憲法における所有権概念の大きな特徴が現れている。
 現行憲法も財産権概念を承継しているのである。上記農地改革判決は、この点について次のように述べている。

「憲法293項にいうところの財産権を公共の用に供する場合の正当な補償とは、その当時の経済状態において成立することを考えられる価格に基き、合理的に算出された相当な額をいうのであつて、必しも常にかかる価格と完全に一致することを要するものでないと解するを相当とする。けだし財産権の内容は、公共の福祉に適合するように法律で定められるのを本質とするから(憲法292項)、公共の福祉を増進し又は維持するため必要ある場合は、財産権の使用収益又は処分の権利にある制限を受けることがあり、また財産権の価格についても特定の制限を受けることがあつて、その自由な取引による価格の成立を認められないこともあるからである。」

 このような理解の下では、財産権は自然権ではあり得ず、あくまでも憲法の保障する権利として、社会権の一種として把握されることになる。ただし、2項が法律によることを求めているから、その権利の性質は抽象的権利に留まり、立法を待たずして具体的権利性を語ることはできない。また、そのことは財産権が経済的自由権としての性格を有することを否定するものではない。社会権一般について共通のことだが、財産権もまた基本において私事(自由権)であり、それが社会的要請を受けて、社会権へと変化するのである。ここでの最大の問題は、私事(自由権)としての権利は、憲法上どこまで保障されているか、という点にある。換言すると、国会が立法の形式で財産権の社会性に基づき規制できるのは、どの限度であり、立法をもってしても侵害できない財産権の自由はどの範囲に認められるか、ということが問題になる。
 これが、財産権に関する制度的保障という理解の内容である。
 292項を制度的保障と理解する立場では、その制度の侵すべからざる中核が、財産権の個人所有、すなわち私有財産制を内容としているという点では異論はない。しかし、制度的保障概念は、その周辺の法律による制限を認めつつ、中核概念を立法によっても不可侵なものとして保障する理論である。したがって、私有財産制の場合に、その不可侵の中核はどのような概念になるのか、ということが、本問における第一の問題点である。
 かつての通説は、わが国現行憲法が資本主義を保障していると把握し、そこから制度の核心を生産手段の私有制であると考え、社会主義へ移行するためには憲法改正が必要であるとしていた*[4]。例えば佐藤幸治は次のように説いていた。

「通説は、資本主義体制を念頭に置き、社会主義ないし共産主義体制を実現することは法的に不可能と解している。日本国憲法が個人の生活に不可欠な物的手段のみを保障するのであれば、社会主義国家の憲法のようにその点を明示したはずであろうし、また、上述のように221項で営業の自由が保障されていることも考慮するならば、通説のように解すべきであろう。」

佐藤幸治『憲法』第3566頁より引用
 しかし、この主張は、社会主義に対する無理解ないし共産主義との混同から生じている。すなわち、営業の自由は、社会主義憲法の下でも認められているし、すべての生産手段の私有を禁ずるわけではない。*[5]
 これに対し、資本主義の下でも、議会によって一定の産業について民間で行うことが禁じられていたりする(塩の専売や郵便事業を考えればよい)ことを考えれば、この点での資本主義との差は、程度の差に過ぎない。要するに、現代資本主義は、修正資本主義という名で知られるとおり、社会主義の長所を導入する体制となっているのである。同様に、社会主義もまた、資本主義の長所を導入することにより、その欠点の是正を図っているのである。したがって、かつてのステレオタイプのイデオロギー対立を現実の制度の中に見出すことはできないのである。
 むしろ、第一に生産手段の私有を絶対的に保障していると解するべきなんらの法的根拠も存在しないこと、第二に前述した財産権の社会性から見た場合、個人の生存に直結する財産権の保障までで、制度としては必要にして十分であること、という二つの根拠から、人間が、人間としての価値ある生活を営む上に必要な物的手段の享有までが保障の対象となると考えるのが穏当であろう。
 すなわち、人間に値する生活をおくるのに必要な財産、換言すれば「健康で文化的な最低限度の生活を送る」(憲法25)のに必要な、あるいは個人の自由な私的生活領域を保護するために不可欠な財産は、憲法291項による保障の中核にあり、法律によっても侵害しえない、と考えることになる。これに対して、

「現在の高度に複雑化した経済社会を規制する財産法制の大部分は、当該社会のメンバーがそれに従うことに共通の利益を見いだすからこそ存在するものであろう。このような財産法制は、292項の定めるように、社会全体の利益つまり公共の福祉という観点から立法府によってその内容を定められ、変更されうる。」*[6]

 このように、個人の能力によって獲得し、その生活利益の用に供せられるべき財産を、使用、収益、処分する権利と解される。このように生活財の保障を制度の中核と考えるのが、今日の多数説と見ることができるであろう(例えば戸波江二『憲法』〈新版〉291頁、辻村みよ子『憲法』282頁、浦部法穂『全訂憲法学教室』209頁、野中外『憲法Ⅰ』434頁(高見勝利執筆)、高橋正俊『憲法の争点』132頁等)。
 実をいうと、かつての通説の立場でも、修正資本主義的制約の発生を認めざるを得ないから、限界線の弾き方はこの現在の多数説と一致せざるを得ない。例えば、佐藤幸治は大きな財産と小さな財産に分類する説を妥当としている。これは次のような説である。
「社会国家の使命が、なによりも先に、社会の下積みになった多くを占める国民に、人たるに価する生活を保障することだとしたならば、そこにおいて制限されるべき財産権とは、国民がその生活を営むための日常必需財産を支配する財産権を直接の対象とするのではなくそういう『小さな財産』の財産権を意味するのではなく、もっと『大きな財産』の財産権貧乏や失業の原因を作った資本主義経済発展の原動力となった財産を支配する財産権をその主要な対象とすべきはずである。なぜならば、この『小さな財産』のもつ社会性は比較的弱いのに対して、『大きな財産』のもつ社会性は極めて強いからである。」
高原賢治「社会国家における財産権」有斐閣『日本国憲法体系』7249
 
二 財産権の補償
(一) 補償請求権の根拠
 国が私有財産を侵害する場合でも、例えば租税のように広く、平等に課される場合には補償の必要はない。したがって、侵害行為の特定の種類だけが補償の対象になることは明らかである。そのように侵害を二種類に分ける根拠として、代表的な学説を紹介すると、次のものがある。
①平等負担説(柳瀬『公用負担法』新版、256頁)、
②平等負担・財産権保障説(今村『国家保障法』32頁)、
③平等負担・財産権保障及び生活権保障(遠藤博也、不動産法大系第7174頁)
等がある。
 平等負担説は次のように説明する。

「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」。

 私自身は、この理解が基本的には正しい、と考えている。すなわち、財産権以外の権利、具体的には人格権に対する国家の適法侵害に対しても、この平等原則の破綻がある場合には当然損失補償が行われるべきである。例えば、国による予防接種の強制により重度の障害や死亡の事故が発生した場合、暴走自動車がパトカーに追われて民家に飛び込んだ場合などは当然に損失補償が行われるべきである(これらについては293項によることはできないから、根拠規定は25条になる)。なお、前者については予防接種法16条という形で立法的な解決が与えられている。
 しかし、293項に限定した解釈としては、第2説、すなわちその論理の適用範囲を財産権の保障に限定する形で理解するのがかつての通説であった。
 これに対して、財産権以外にも、生活権の保障としても損失保障制度を理解するべきだというのが、第3説で、これが現時点での通説と考えて良いであろう。すなわち、前節に述べたように、私有財産制度の中核を生活財の保障と把握する場合には、293項の解釈にあたり、必然的にこの説が要求されるのである。
 これ以外にも様々な変形があるが、基本として平等権を置き、その結果、その平等が破れたような「特別の犠牲」の場合のみが保障の対象だとする理解はどの説も同様である。又、その場合に、特別の犠牲を負担することを承知の上で土地を購入した者に対して補償の必要が無い、という事を考慮すると、損害の発生は偶発的なもので無ければならない。すなわち「特別かつ偶発的の犠牲」(特別・偶発損害)が発生した場合にのみ補償の問題が発生する。以下、少し詳しく説明するが、単に特別と書くのでは無く、偶発という後を付け加えなければならないということは記憶しておいて欲しい。
(二) 損失補償要否の基準
 先に述べたとおり、特別の犠牲がある場合に補償の要があるのだが、何をもって一般と特別を区別するかは非常に難しい問題である。本問は財産権の剥奪に該当するから、それが特別犠牲であることは問題なく、したがって、この節で以下に説明することを、諸君の本問における論文に書いてはならない。しかし、それがメインの論点となる問題がむしろ通例なので、諸君の知識の整理のため、以下に概説する。
  1 財産権が剥奪される場合
 これは、普通は特別犠牲に入る。ただし、受忍するべき理由のある場合、例えば国家刑罰権の行使による没収や違反建築物の除却の場合に、相手が受忍するべきなのは当然である。しかし、例えば消火のため、まだ燃えていない家を破壊する場合に、どの限度までは受忍するべきであり(消防法292項)、どこからは補償の対象となる(同第3項)かは、非常に微妙である(最高裁昭和47530日判決参照)。さらにややこしいのは、理論的には憲法上受忍限度内にとどまる場合でも、国会の立法裁量により設けられた特別規定により、補償される場合もあることである*[7]
 
  2 財産権の制限にとどまる場合
  (1) 消極規制説
 この場合には、従来は公共の安全秩序という消極的な目的のために課される財産権の制限(警察制限)に対しては補償は不要であり、他方、公共の福祉の増進のためという積極的な目的のための財産権の制限(公用制限)に対しては補償が必要と言われていた。例えば、奈良県ため池条例判決は、「その財産権の行使を殆ど全面的に禁止」する場合でも堤防の決壊防止のためであれば無補償でよいとしていた。しかし、河川付近地制限令判決は「その財産上の犠牲は、公共のために必要な制限によるものとはいえ、単に一般的に当然に受けるべきものとされる制限の範囲を超え、特別の犠牲を課したものと見る余地が全くない訳ではな」いとして、この判例を変更した。また、公用制限でも美観地区や風致地区、市街化調整地区のための利用制限には補償は要しないとされる。こうしたことから、今日ではこうした説明は一般に取られなくなってきた。
  (2) 内在的制約(社会的制約)説
 内在的制約に属するには、補償は無用であるという説は従来から有力に主張されてきている。基本的には上記警察制限と同趣旨であったのだが、近時は積極目的の場合でもこの語に含ませるのが普通である。その結果、補償を要しない場合というのを単に言い換えているのに過ぎなくなり、具体的な基準としての機能はほとんど無くなっているのが、この説の欠点である。
  (3) 受忍限度論+偶発的損失説
 結局、今の所、ある程度実用性のある一般基準としては次のようになる。
イ 財産権の剥奪または当該財産権の本来の効用の発揮を妨げることとなるような侵害については、権利者の側にこれを受忍すべき理由がある場合でない限り、当然に補償を要する。
ロ この程度に至らない財産権行使の制限については、
a 当該財産権の存在が、社会的共同生活との調和を保っていくために必要とされるものである場合には、財産権に内在する社会的拘束の表れとして補償を要しないものと言うべく(例えば建築基準法)、
b 他の特定の公益目的のために、当該財産権の本来の社会的効用とは無関係に、偶然に課せられた制限であるときは補償を要する(例えば文化財保護)
今村「財産権の補償」有斐閣『憲法講座』第2199頁より紹介)
 
三 損失補償の内容
(一) 相当補償説
 「正当な補償」というのが、具体的にどの範囲までを指すかについては完全補償説と相当補償説の2説の対立がある。これは農地改革という歴史的特殊性のあるケースに絡んで出てきた説であり、それを除外して見るならば、完全補償が必要なことについて、昔の通説、すなわち資本主義が制度の中核を占めていると考える限りでは異論はでようがないから、わざわざ論ずる価値はなかった。
 しかし、近時のように制度の中核を生活財と把握する場合には、中核に該当しない財産権については、必ずしも完全保障が必要とは考えられないことになる。しかし、先に一言したとおり、具体的場合における生活財と生産財の境界線の決定は難しいので、その点をめぐって学説の対立が発生することになる。
  1 社会評価変化説
 ある立法が、農地改革に比すべき既存の財産権に対する社会評価の根本的な変化を反映していると解することができる場合に相当する、と考えられる場合には、相当補償で足りると解する説がある(今村成和・損失補償制度の研究74頁参照。同旨戸波江二・新版・298頁参照)。
 この説は、通常の収用の場合には完全な補償を必要とし、例外的に農地改革のような社会変革としてなされた財産権の侵害の場合には相当補償を必要とすると説くので、区分の基準はかなり明確である。それだけに、本問がそれに相当するかどうかは逆にかなり難しい問題である。
  2 大きな財産・小さな財産説
 これは先に紹介した。
  3 生存財産・独占財産説
 先に長谷部泰男を紹介した。浦部法穂は次のように説く。
「直接公共の用に供する公共事業などのための財産権の収用・使用の場合には、いわゆる完全な補償を要すると解すべきである。たとえば、道路等の用地としてたまたま特定の者の土地が収用されたとき、その土地の客観的価値よりも低い補償でよいとする合理的根拠は、なにもないはずだからである。この点、最高裁の判例も、土地収用法における補償につき『完全な補償、すなわち、収用の前後を通じて被収用者の財産価値を等しくならしめるような補償をなすべきであり、金銭をもって補償する場合には、被収用者が近傍において被収用地と同等の代替地等を取得することをうるに足りる金額の補償を要する』としている(最判1973.10.18民集2791210頁=百選220頁参照)。
 つぎに、政策的制約(積極目的の制限)で特定の者の財産権を奪うような強度の制限が加えられる場合には、必ずしも完全な補償を要すると考える要はなく、いわゆる相当な補償で足りるものと解される。憲法が、社会権の実現のための政策を積極的に行うべきものとし、そのために財産権が制限されるのは当然であるとの立場に立つものである以上、この場合に完全な補償を要するとしたのでは、その政策目的の実現(社会権の実現)が困難になることも考えられ、憲法の趣旨に反する結果となるからである。つまり、この場合には、社会権の実現ないし経済的・社会的弱者の保護という政策の実現を妨げることのない程度の相当な補償で足りる、ということである。なお、内在的制約(消極目的の制限)の場合には、前に述べたように、基本的に補償を要しないものと解される。」
全訂憲法学教室214頁より引用
(二) 判例の見解
 現時点における判例である平成14年の最高裁判決は、何が293項に言う正当な補償なのか、という点について次のように述べている。
「憲法293項にいう『正当な補償』とは,その当時の経済状態において成立すると考えられる価格に基づき合理的に算出された相当な額をいうのであって,必ずしも常に上記の価格と完全に一致することを要するものではないことは,当裁判所の判例(最高裁昭和25年(オ)第98号同281223日大法廷判決・民集7131523頁)とするところである。土地収用法71条の規定が憲法293項に違反するかどうかも,この判例の趣旨に従って判断すべきものである。」
 ここで括弧内で引用されているのが、冒頭に紹介した農地改革時の相当補償を述べた判決である。すなわち、ここで相当補償の原則を述べている。
 他方、これも冒頭に述べたとおり、昭和48年の最高裁判決は、裁決時主義を採用した改正前の土地収用法に対して合憲判決を下している。したがって、その点を問題にしてしまうと、判例変更と言うことで、大法廷を開かねばならなくなる。そこで、本件判決は昭和48年判決の基本線は正しいとする。すなわち、
「土地の収用に伴う補償は,収用によって土地所有者等が受ける損失に対してされるものである(土地収用法68条)ところ,収用されることが最終的に決定されるのは権利取得裁決によるのであり,その時に補償金の額が具体的に決定される(同法481項)のであるから,補償金の額は,同裁決の時を基準にして算定されるべきである。」
 その限りでは、訴えを提起したものの主張を認めたことになる。しかし、その方法に関しては、次のように述べている。
「その具体的方法として,同法71条は,事業の認定の告示の時における相当な価格を近傍類地の取引価格等を考慮して算定した上で,権利取得裁決の時までの物価の変動に応ずる修正率を乗じて,権利取得裁決の時における補償金の額を決定することとしている。」
 しかし、それでは、物価上昇率よりも土地価格上昇率が高い時代には、ごね得の問題が発生する。そこで、そのずれについては、二つの理由を挙げて説明する。
 第一に次のように述べる。
「近傍類地の取引価格の変動は,一般的に当該事業による影響を受けたものであると考えられるところ,事業により近傍類地に付加されることとなった価値と同等の価値を収用地の所有者等が当然に享受し得る理由はないし,事業の影響により生ずる収用地そのものの価値の変動は,起業者に帰属し,又は起業者が負担すべきものである。」
 確かに、道路整備等の公共事業の影響による近傍の土地価格の上昇について、補償する必要はないはずである。
 第二に、次の理由を挙げる。
「土地が収用されることが最終的に決定されるのは権利取得裁決によるのであるが,事業認定が告示されることにより,当該土地については,任意買収に応じない限り,起業者の申立てにより権利取得裁決がされて収用されることが確定するのであり,その後は,これが一般の取引の対象となることはないから,その取引価格が一般の土地と同様に変動するものとはいえない。そして,任意買収においては,近傍類地の取引価格等を考慮して算定した事業認定の告示の時における相当な価格を基準として契約が締結されることが予定されているということができる。」
 これは、要するに、公共事業に協力的であったものが馬鹿を見てはいけない、ということである。
 こうして、判例のあげた理由は、293項そのものの理論的な根拠と言うよりも、実務的な根拠の確認というにとどまると言えそうである。そこで、以下では、学説を検討することにしよう。
 先に紹介したどの説も、本件場合について、ストレートに適用できないことは明らかであろう。本判決のような形で相当補償説を使われることを予定していなかったからである。この点については、今後のそれぞれの学説主張者からの、自らの学説の見解の発表あるいは修正を待つほかはない、といえる。
 私自身は、これについては、原点に立ち戻って議論を展開すればよいと考える。すなわち、先に述べたとおり、国家補償の基礎は、実質的平等の確保である。そうであれば、任意買収と強制収用とで、買収価格に差違が生ずることはそもそも許されない、というべきである。
 国が公共事業のための土地を任意買収するに当たっては、昭和37629日に閣議決定された「公共用地の取得に伴う損失補償基準要綱」というものにしたがって行うこととされている。買収価格の決定に関しては、同要綱3条が次のように述べている。
3条 土地等の取得又は土地等の使用に係る補償額は、契約締結の時の価格によつて算定するものとし、その後の価格の変動による差額については、追加払いしないものとする。
 このように、追加払いが否定されているのであるから、これとの平等の確保が、293項そのものの基礎にあるというべきなのである。すなわち、土地収用における買収価格の決定時点としては、このような任意買収の時点が正しいと言うことになる。しかし、任意買収では時点として明確にならないから、土地収用法71条はそのことを述べたのである。
 すなわち、土地収用における完全補償とは、事業認定時の土地価格を基準とするというべきであり、本判決のように、それを相当補償という必要そのものがない、と考える。その意味では、そもそも収用の前後における価値の平等をいった昭和48年判決自体に問題があったということが出来る。それを否定することが出来れば問題は単純に解決するのに、最高裁判所の過去の判例の修正をすることが困難であるところから、昭和28年農地改革判決を引っ張り出す必要に迫られてしまったのである。
(三) 補説=完全補償と市場価格
 提出された論文に、完全補償とは市場価格を補償することだ、と何の理由も示さずに断じている者があった。これは、おそらく多くの諸君が共有する誤解と思うので、その点を補説しておく。
 今、山中の過疎の村がダムにより水没することを想定してみよう。過疎の村であるから、家や田畑を捨てて他に移住していく人はいても、わざわざ家を買って転入してくる人はいない。この場合、家や田畑について、市場価格、すなわち実際の取引価格が存在しないことはきわめて明白であろう。もし、完全補償とは市場価格の補填の事だと考えた場合には、この村を水没させても全く補償は不要という結論が導かれるはずである。しかし、それが明らかに不合理な結論である事は明らかだろう。この例で明らかなとおり、完全補償と市場価格は本来は関係が無い。
 財産権の本質が生存に必要な財産である事を考えれば、補償するべき費用とは、他の土地で生活を再建するのに必要な費用である。すなわち、過疎の村で住んでいたのと同じ広さの家と田畑を、そのダムの近隣の水没しない地域で購入し、そこに移転するのに必要な全損害が補償対象になると考えるべきなのである。
 ただ、多数、土地取引が行われているような市街地の土地が収用された場合には、その土地と同等の土地を購入するのに必要な費用とは、その土地の市場価格そのものなので、実務的には、完全補償とは市場価格の補償のことだと考えて間違いは無い。しかし、理論として市場価格のことだと書けば、それは誤りなのである。
 冒頭に紹介した平成6年司法試験問題の場合、収用対象が遊休土地と限定されていることが、キーとなる点である。つまり、その土地は生活財産では無い。その結果、制度的保障の中核には属さず、その結果、完全補償の必要は理論的には無い、ということになる。
 それに対し、本問の場合にはXにとって、本件土地がどのような性格の土地であるかは述べられていないので、一応生活財産と仮定して答えていく必要がある。


*[1] 29条は基本的に社会権として理解すべきだとする説の代表は、松井茂記(『日本国憲法』有斐閣2007年刊559頁)や浦部法穂(『憲法学教室〔全訂第2版〕』2006年刊、212頁)である。例えば浦部は、次のように制度的保障説を批判する。

「これはすなわち、社会権の実現が財産権保障という観点から限界づけられるということを意味する。これでは、社会権を保障し、そのためには経済的自由権が制限されることを当然の前提とした憲法の趣旨が完全に没却されることになってしまう。要するに、291項の解釈論として制度的保障の概念を持ち込むことは、日本国憲法の基本的な立場と相容れないのである。291項の解釈として、制度的保障論は、とるべきではないと思う。」

 このように有力な異説が存在する以上、諸君として、通説であることに甘えて、制度的保障説の根拠説明の手を抜くことは致命的な減点につながることをわきまえていなければならない。

*[2] 本問とは関係の無い話だが、そもそもわが国は江戸時代には土地所有権という概念そのものが存在していなかった。土地に所有権が認められ、その売買が法的に許容されたのは、1872(明治5)年のことである(1872(明治5)年214日太政官第50号布告)。大審院1918(大正7)年524日判決は、次の様に述べて、このことを明言している。

「明治5214日太政官第50号布告を以て地所の永代売買の禁を解き、其の売買所持を許したるは、是より以前、土地は国の所有にして人民は土地の所有権を有せず、唯其の使用収益権を有するに過ぎざりしを改め、人民に土地の所有権を付与し、従来有したるの使用収益権を以て所有権と為したる趣旨なりとす。」

 このように財産権というものは、法制度に支えられて始めて存在するものなのである。

*[3] ワイマール憲法とは、1919年に制定されたドイツ憲法である。その153条は、「所有権は義務を伴う(Eigentum verpflichtet)ものであり、その行使は公共の利益に役立つべき(Sein Gebrauch soll zugleich Dienst sein für das Gemeine Beste.)ものである」ことを宣言した。

*[4] このように、資本主義それ自体が制度的保障の中核にあるという考え方は、かつては通説的地位を占めていた。例えば、法学協会『註解日本国憲法』有斐閣1953年刊561頁、橋本 公亘『憲法』青林書院新社1972年間301頁等。しかし近時は支持者を減らし、例えば、佐藤幸治『憲法』第3版、青林書院1995年刊566頁、渋谷秀樹『憲法』有斐閣2008年刊288頁が目立つ程度である。また、芦部信喜『憲法』第5226頁は、両説を併記し、自説を述べていない。

*[5] 参考までに1977年ソヴィエト憲法を見ると、次の通りとなっている。

11条(市民の所有)

① ソ連邦市民の所有はその個人の資産であり、物的及び精神的欲求を充足させ、経済的及び法律で禁止されていないその他の活動を自主的に行うために使用される。

② 市民の所有には、市民の所有として取得することが許されていない種類の財産を除き、労働による取得もしくは合法的に取得した消費及び生産を目的とする任意の財産が含まれる。

③ 市民は、農業経営及び個人副業経営を行うため、ならびに法律で定められているその他の目的を実現するため、終身かつ相続しうる土地を占有する権利を有する。

④ 市民の財産の相続権は、法律によって認められかつ保障される。

17条(個人営業) ソ連邦では法律に従って市民本人及びその家族の構成員のみの労働に基づく手工業、農業、及び住民に対する生活サービス領域での個人的勤労活動並びにその他の種類の活動が容認される。国家は、この活動が社会の利益のために利用されることを保障するために、個人的勤労活動を規制する。

*[6] 長谷部恭男『憲法〔第4版〕』新世社2008年刊、243頁より引用

*[7] 例えば、鳥インフルエンザが発生して、保有する鶏を、感染していると否とを問わず、徒殺処分する場合、家畜伝染病予防法はその第58条で、当該家畜の所有者に対し、発病が疑われる前の評価額の五分の四を補償することとしている。