生存権と併給禁止原則

甲斐素直
問題
 Xは、国民年金法施行令別表の11号(両眼の視力の和が0.04以下のもの)に該当する視力障害者で、同法に基づく障害基礎年金を受給している。Xは内縁の夫Aとの間に男子Bがある。XAと離別後独力でBを養育してきた。しかし、児童扶養手当法に基づく児童扶養手当制度を知ったことから、居住するC県知事Yに、その受給資格について認定の請求をしたところ、Yは、請求を却下する旨の処分をした。さらに、XYに異議申し立てをしたのに対し、Yは右異議申立てを棄却する旨の決定をした。その決定の理由は、Xが障害基礎年金を受給しているので、児童扶養手当法43項二号に該当し受給資格を欠くというものであつた。
 そこで、Xは処分の取り消しを求めて、Yを相手に訴えを提起した。
 この訴訟における憲法上の論点を指摘し、論ぜよ。
参照条文:児童扶養手当法
4  都道府県知事、市長(特別区の区長を含む。以下同じ。)及び福祉事務所(社会福祉法 (昭和二十六年法律第四十五号)に定める福祉に関する事務所をいう。以下同じ。)を管理する町村長(以下「都道府県知事等」という。)は、次の各号のいずれかに該当する児童の母がその児童を監護するとき、又は母がないか若しくは母が監護をしない場合において、当該児童の母以外の者がその児童を養育する(その児童と同居して、これを監護し、かつ、その生計を維持することをいう。以下同じ。)ときは、その母又はその養育者に対し、児童扶養手当(以下「手当」という。)を支給する。
 父母が婚姻を解消した児童
 父が死亡した児童
 父が政令で定める程度の障害の状態にある児童
 父の生死が明らかでない児童
 その他前各号に準ずる状態にある児童で政令で定めるもの
2 略
3 第1項の規定にかかわらず、手当は、母に対する手当にあつては当該母が、養育者に対する手当にあつては当該養育者が、次の各号のいずれかに該当するときは、支給しない。
 日本国内に住所を有しないとき。
 国民年金法等の一部を改正する法律(昭和六十年法律第三十四号)附則第32条第1項の規定によりなお従前の例によるものとされた同法第1 による改正前の国民年金法に基づく老齢福祉年金以外の公的年金給付を受けることができるとき。ただし、その全額につきその支給が停止されているときを除く。
 
[はじめに]
(一) 問題について
 本問は、堀木訴訟(最大昭和5777日=百選第5300頁参照)を問題化したものである。ただし、現時点における法律文言に修正してある。その結果、参照条文は、事件当時は433号であったが、本問では432号になっている。同号は非常に複雑な規定の仕方をしているが、それは、当初の規定が、堀木訴訟第1審で、原告側が勝訴したのに伴い、昭和48年の通常国会で本問の併給禁止規定がいったん削除された後、最終的に最高裁判所で立法裁量権の範囲ということが認められたことに伴い、同旨規定が復活した、という経緯を反映している。
(二) 14条について
 本問の論点の一つに14条があると主張した答案が出てきたので、簡単に14条の性格について説明する。
 どれか個別の人権条項が論点になる場合には、14条は、少なくとも同一の問題に対して論点となる事は無い、と理解しておいてほしい。これを講学上は14条の「補充性」と呼ぶ。14条は、実は個別具体的権利を保障したものでは無く、平等原則を保障したものと一般に理解されている。法学で、形式的正義の一環として配分的正義という概念を習ったはずである。14条は、その配分的正義がむき出して規定されているものと理解するのが一番簡単である。普通の14条の問題ではここまで書く必要は無いが、アファーマティブ・アクションが問題になる場合にはそこから説き起こす必要がある。
 憲法の規定しているあらゆる人権は配分的正義の具体化である。したがって、何か基本権(13条から導かれる無名基本権であっても)が考えられる限り、その問題に対して14条を論じるのは間違いなのである。すべての基本権は、配分的正義の具体化だからである。例えば信教の自由というものを考えてみよう。国が信仰を侵害すると言う場合、全国民の信仰の自由を同時に侵害することはあり得ない。そして、侵害された人とされなかった人がいる場合、その間では、14条違反になっているはずである。だから20条違反を論じると言うことは、その内容として14条違反を自動的に論じていることになる。したがって、その具体化された基本権だけを論ずれば十分で、それとは別に14条を論じる必要は無い。他のどんな基本権とも同じことを言うことができる。つまり、何か基本権違反が成立する場合には(あるいは成立しない場合には)、もはや14条を別に考える必要は無い。その結果、14条は、何ら特別の基本権を考えることはできないが、法的正義に反していると考えられる場合にのみ論じるのが正解である。
 形式的正義であるから、それを何らかの実質的正義で内容を補填してやらない限り、実質的正義として、憲法判断の基準に使用することはできない。平等主義は、簡単に言えば、国家は国民を平等に取り扱わなければならない、ということである。つまり、国家と国民の関係だから、実質的正義概念のうち、国家と国民の関係を規律する原理である自由主義及び福祉主義が補填する実質的正義として使用できる。
 自由主義により補完されて導かれた平等概念を自由国家的平等ないし形式的平等と、そして福祉主義によって補完されて導かれた平等概念を社会国家的平等ないし実質的平等という。つまり、我が憲法下では、二つの相異なる平等概念が存在しているのである。
 本問の場合は、問題になっているのが25条である。この場合に14条が問題になることは絶対にあり得ない。なぜなら、平等権は、社会国家的な実質的平等については、25条で読むべきだからである。
 確かに、現実の事件においては、弁護士は基本権侵害の主張とは別に、14条違反を主張する場合が多い。しかし、それは単にその弁護士の無能を示しているだけで、答案として正しいわけではない。
 なお、14条が論点になる問題の場合には、上記の平等原則という点から始まり、14条後段列挙事項特別意味説と絡んで、その使用するべき審査基準に関して、学説は激しく分かれている。これも、平等権というものの極めて基本的性格から、論者の価値観がむき出しに表れる点に由来している。その結果、およそ通説というものは存在しない世界なので、自説を厳密な議論を展開しないと落第答案になる。自分の基本書を徹底的に読み込んで、慎重に、そして正確に書こう。
 
一 権利の性質
 本問の場合、第一の論点は、社会権(生存権的基本権)とは、そもそもどのような権利なのか、という点である。ごく掻い摘んで説明する。
 1 プログラム規定説:最初期の成文憲法、例えばアメリカ独立宣言とか、フランス人権宣言というものは、単なる理念の表明ないし政治的なプロパガンダであった。その起草者には、憲法自体から裁判規範となるような具体的な法的権利を引き出すという発想は存在しなかったことは確かである。憲法は法規範であり、法規範の文言は裁判規範足り得るのだ、という考えをはじめて明確に打ち出したのは、ドイツワイマール憲法時代のドイツ国家裁判所である。しかし、ワイマール憲法は、その制定された経緯から、その中には単なる理念表明に過ぎず、どう解釈しても裁判規範足り得ないというものも多数含んでいたから、裁判所は、両者の識別を必要とした。そこで、裁判上の規範として現実に効力のある規定を「直接適用される規定」と呼ぶのに対し、理念の表明して立法府に対して政策の指針、目標を設定したに止まる規定のことを「プログラム規定」と呼ぶ。そして、これについては法的効力を認めないという解釈技術を採用した。したがって、プログラム規定という用語を使用可能な場合には、その規定をいつまでも国会が現実化しなくとも違憲の問題は起こらないし、現実化するための法律が国会に依って作られた後においても、それは裁判規範性を持たないから、その文言が司法審査にあたって問題になるることもあり得ない。だから、仮にこの説を諸君が採用すれば、そのことをしっかり論じることだけが、論文の内容となる。
 2 法的権利説:これに対し、生存権等を単なる政策指針等ではなく、法的権利と考えるのが、先に述べた社会権という説である。
(1) 抽象的権利説:社会権を、立法府及び行政府を拘束するが、裁判規範性はない、と考える説のことである。この説では、現実の立法が行われるまでは、プログラム規定説と同様に裁判規範性を持たない。しかし、現実に立法が行われた後においては、その法律により具体的権利が生まれているから、裁判所としては、その具体的権利の憲法適合性を審査することが可能になる点で、プログラム規定説と異なる。
(2) 具体的権利説:社会権を具体的事件における裁判規範性を肯定できる権利と考える説のことである。すなわち、そうした立法が存在しない場合にも、現実の行政の違憲性を裁判所で争いうる。
 しかし、諸君は、このような説の対立がある、ということを論文に書く必要はない。必要なことは、自分の使っている基本書は、その点についてどう述べているのかを、教科書を開いてきちんと確認した上で、それにしたがって議論すれば十分である。
 ある教科書を、自分の基本書と決める、ということは、どんな問題が出てきても、必ずその教科書に述べられていることにしたがって論文を書くということである。大学院生のレベルまで到達すれば、自分独自の説を展開しなければいけないが、君たち学部生の場合には、基本書に忠実に論文を書くのがむしろ責務と考えてほしい!
 例えば、基本書として芦部信喜を使っているなら、『憲法』(岩波書店)第5260頁を開いてみよう。すると、自分は抽象的権利説を採るとした上で「25条は、立法府に対して生存権を具体化する立法を行うべき法的義務を課していると解される」と明言している。なぜそう解するのか、という点は、その前のパラグラフに漠然と述べられているところから、諸君なりに工夫して要約してくれればよい。この要約が上手くできるかどうかで得点に差が開くわけである。解される根拠を全く書いてくれなければ、添削の際、私に「なぜ?」と書き込まれることになり、本番試験であれば大幅減点をされることとなる。
 また、例えば、基本書として長谷部恭男を使っているなら、『憲法』(新世社)第5267頁を開いてほしい。この前の段階で、プログラム規定説や抽象的権利説が説明されているが、この頁では、「『ことばどおり』の具体的権利説」というが説明され、「『健康で文化的な最低限度の生活』は、『わいせつ』概念など他の不確定概念と比べてとくに抽象的であるわけではなく、少なくとも特定の時点における大まかな線を引くことは可能である」とする。可能だと言うことは、事案によっては具体的権利性を肯定できることを意味する。そこで結論として、「抽象的権利説に基づいて司法の介入を求める手がかりとなる具体的な制度が存在しない場合には、この『ことばどおりの意味』における具体的権利説がその役割を発揮する余地がある」と述べている。だから、長谷部の場合には基本的に具体的権利説と考えて良い。ここでは、少なくとも「なぜ?」という点については、上記のように明確に書いてくれているから、それを引用すればよいことになる。
 これ以上、諸君が基本書として使用している可能性のある教科書を一々引用して説明することはしないが、どんな問題であれ、論文を書く作業は、まず自分の基本書が採用している説を確定するところから始まるということは、判って貰えたと思う。全く理由も書かないままに、最高裁判所判決を丸写しにしても、それは論文では無い。

 

二 立法の不作為
 ここから、立法の不作為という概念が問題になる。芦部信喜の教科書の場合には上記紹介箇所に明確に、わざわざ傍点まで付けて「裁判所に対して不作為の違憲確認を求める訴えを提起できるか」が論点になると書かれており、立法の不作為に関する頁を具体的に示した上で参照するように書き込んであるから、まず間違える人はいないだろう。
 他の基本書でも程度の差こそあれ、必ず立法の不作為とつながることは、きちんと通読していれば、判るはずである。
(一) 年金の併給禁止原則
 そもそも本問で、何のために児童福祉法4条に関する条文が、参照条文として付いているのだろうか? 前にも強調したとおり、六法を見れば判ることを、わざわざ参照条文として付けてあるのは、その条文に関する情報が、本問を解くのに必要不可欠と出題者側が判断しているからに他ならない。それは、ここまで条文を示さないと、本問が立法の不作為の問題であることが判りにくいからである。
 本問で、問題となっている年金の併給禁止という立法原則は、432号が明言している。この背景にある法思想は、一人一年金支給の原則といい、ある人が、支給根拠が異なる二つ以上の年金の受給権を有する場合、本人が選択する一年金のみを支給し、他の年金は支給停止することをいう。たまたま複数の年金の受給権を得たからといって、同等の立場にある他の者よりも優遇されるのは不合理という発想からの制度である。
 当然のことであるが、これは同一目的の二種類の年金について述べている。しかし、本問で問題となっている障害者であるが故に支給される年金と、児童を扶養しているが故に支給される手当は、異なる目的の為の制度である。だから、この併給禁止原則の例外となってよい。しかし、支給しないという一般的規定が参照条文のとおり置かれており、その例外としては、「ただし、その全額につきその支給が停止されているときを除く」というような例外規定があるだけで、障害年金と児童扶養手当の間の場合には、併給禁止規定の例外として支給を認めるという規定がどこにも無い。この結果、この当然にあるべき例外規定の不存在が、訴えを提起した根拠となったのである。
 このように、本問では、支給を許容する法律の不存在が問題になった事案である。だから、本問は立法の不作為の問題である。その場合に裁判で争うことが認められるかどうかが、本問の中心論点である。
(二) 社会国家と立法の不作為
 現実の立法の内容が、憲法の要求する内容になっていないとして争うことを、立法の不作為という。直感的な説明で良ければ、憲法上、立法府として当然に行うべき立法を行わないことである、といえる。あるべき法が存在しないこと、と理解してほしい。
 かつては「立法の不作為の問題は、その性質上、政治過程の中で処理されていくべきもので、原則として裁判過程に馴染むものではない」と一般に考えられていた(佐藤幸治『憲法』初版246頁)。なぜなら、憲法41条は、国会を国の唯一の立法機関といっているからである。憲法に基づいて、あるべき法律の内容を裁判所が決定することは、積極的な立法活動であり、それは41条に違反していると考えると、こういう結論が導かれる。
 しかし、今、我々は社会国家に生きている。それなのに、41条に関する形式的な解釈から、立法の不作為について全面的に司法救済を否定してしまっては、社会権の法的権利性を確保することはできない。そこで、今日では、立法の不作為を裁判で争うことは可能だ、と一般に考えられるようになり、例えば本問のベースとなった堀木訴訟でも、それが認められている。
 しかし、社会国家であるからといって、憲法上、権力分立制度が明白に採用されている以上は、実質的に国会が唯一の立法機関であることを侵害するような司法審査をすることは許されない。国会が立法権を独占していることを肯定した上で、なおかつ、どのような場合に、裁判所は、立法の不作為を審査できるだろうか。
 第一に、争われているのが、具体的権利である必要がある。抽象的権利とは、裁判では争えない権利という意味だから、抽象的権利説を採る場合には、裁判に訴えることは難しい。但し、何らかの立法があれば、プログラム規定説と違って、それにより具体的権利性が生じた、として争う方法は当然にあり得る。本問の場合における参照条文をそれと見ると論じれば、例えば抽象的権利説を採る芦部説においても、立法の不作為を争うことが可能になる。最高裁判所は堀木訴訟で、門前払いではなく、本案判決を下している。これは、最高裁判所がこの事件においては具体的権利性を肯定したことを示している。プログラム規定説を採った場合には、法律上の争訟がないとして門前払いをするはずだからである。この判例を、生存権そのものが具体的権利性を有するものとしたのか、それとも抽象的権利だが、立法に基づく具体的権利性がこの場合にあると解するかは、諸君は、その使用している基本書にしたがって、説明していけばよい。
 第二に、どんな訴訟類型で争いうるだろうか。立法の不作為を裁判の場において争う方法は、理論的には、次の三つがある。
@ 通常訴訟の枠内で争点となったときに争う方法、
A 不作為により損害を受けたとして国家賠償法により争う方法、
B 立法義務存在確認の訴えを起こすか、立法の不存在違憲確認訴訟を起こす方法
 何かの法律に、それを訴訟として争うことができるとされている場合に、その訴訟の論点の一つとして立法の不作為の違憲性を争うという方法である。本問の場合には(そして、そのベースになった堀木訴訟では)、処分取り消しの訴えという行政事件訴訟で、つまり@に述べた通常訴訟の中でこのことを争っている。衆議院議員定数違憲訴訟では、公職選挙法の定める選挙訴訟という訴訟の中で争われた。これが可能であることについては、例示した事件に明らかなとおり、既に判例は確立しており、学説的にも異論はない。だから、論点ではないので、諸君の論文に、くどい説明を書く必要はない。書かねばならないことは確かだが、出来るだけさらっと通り過ぎて欲しい。
 本問とは切り離して、以下、簡単に説明しておくと、立法の不作為により損害を受けたとして、国家賠償法に基づき、国に損害賠償を求めるというのが、Aの類型である。この類型が認められれば、実際上、そのような訴訟を起こす手段を提供する立法がないあらゆる場合に、立法の不作為を訴訟で争いうることになる。最高裁判所は、当初、在宅投票制度廃止国家賠償訴訟(最判昭和601121日=百選第5438頁)で厳しい要件を示し、その後の判例でこれを踏襲することにより、事実上否定していた。しかし、ハンセン病事件国家賠償訴訟において、熊本地裁が積極説を打ち出し(平成13511日判決=百選第5440頁)、政府が上訴をせずにこれを受け入れたことをきっかけに判例が変化し、今日では最高裁判所も認めるに至っている(例えば在外邦人の選挙権訴訟=最大平成17914日=百選第5334頁)。
 残るBの類型は、国家賠償法というような迂路を使用せず、直ちに裁判で立法の不作為を争うことを認めるという方法である。これは要するに抽象的事件訴訟を認めるというのに等しいから、司法権概念を根本的に転換すればともかく、付随的憲法訴訟性を肯定している限り、受け入れ困難である。その結果、学説・判例共に否定している。
 生存権に関する1行問題であれば、ここで述べたことはかなり詳しく論じる必要がある。しかし、本問においては、通常訴訟を提起していることが問題文上明白であるので、これは論点とはならない。事例問題は、1行問題よりも易しいといつも強調しているが、それはこういう所に現れてくる。だから、問題文を無視して、本問でAやBを論じるのは、積極的な減点対象である。
(三) 憲法上の立法義務の存在
 繰り返し強調するが、裁判所が、本来国会が行うべき立法を判決の形で下すことは、憲法41条に違反する。では、どんな場合なら、法律がないのに、あるべき法律の内容を、判決が述べても憲法違反にならないのだろうか。
 第一に、憲法の要求が、明白である場合である。憲法の要求が明白であるとして、では、裁判所として、国会の立法裁量権の行使をどの範囲で尊重するべきかが問題となる*[1]
 講学上、三つの類型が存在すると言われる。
 @ 立法裁量権のゼロへの収束
 A 狭い立法裁量
 B 広い立法裁量
である。
 @は、単に明白であるだけでなく、一義的内容である場合には、国会が立法裁量権を行使する余地がない場合である。例えば、憲法293項は、国が個人の財産権を侵害する場合には、損失を補償しなければならない、と定めている。だから、国が個人の財産権を侵害することを認める法律に補償する旨の規定がない場合には、憲法293項を直接に適用することで、その立法の不作為を裁判所は補うことが出来る(河川附近地制限令事件=最大昭和431127日=百選第5228頁)。
 Aは、憲法の要求が解釈上明白であるところまでは一緒だが、一義的でなく、憲法を受けてどのような制度にするかについては、国会の立法裁量を裁判所としてある程度尊重する余地がある場合である。
 最高裁判所は、衆議院議員定数違憲判決において、少なくとも狭い立法裁量に該当する場合には、立法の不作為を裁判で争いうることを明らかにした。
「衆議院議員の選挙における選挙区割と議員定数の配分の決定には、極めて多種多様で、複雑微妙な政策的及び技術的考慮要素が含まれており、それらの諸要素のそれぞれをどの程度考慮し、これを具体的決定にどこまで反映させることができるかについては、もとより厳密に一定された客観的基準が存在するわけのものではないから、結局は国会の具体的に決定したところがその裁量権の合理的な行使として是認されるかどうかによつて決するほかはなく、しかも事の性質上、その判断にあたつては特に慎重であることを要し、限られた資料に基づき、限られた観点からたやすくその決定の適否を判断すべきものでないことは、いうまでもない。しかしながら、このような見地に立つて考えても、具体的に決定された選挙区割と議員定数の配分の下における選挙人の投票価値の不平等が国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしてもなお、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を超えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り、憲法違反と判断するほかはないというべきである。」  (最高裁判所大法廷昭和51414日判決)
 すなわち、議員定数の場合には、国会の裁量権は無条件で尊重されるのではなく、「国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやく」して、違憲と判断することも可能だとしているのである。そして、実際、1票の格差が、そうした斟酌の限度を超えており、違憲と判決したわけである。
 Bは、尊重すべき裁量の幅が極めて広い場合である。小売市場事件が、この広い立法裁量を採用しているものとして有名である。
「社会経済の分野において、法的規制措置を講ずる必要があるかどうか、その必要があるとしても、どのような対象について、どのような手段・態様の規制措置が適切妥当であるかは、主として立法政策の問題として、立法府の裁量的判断にまつほかない。というのは、法的規制措置の必要の有無や法的規制措置の対象・手段・態様などを判断するにあたつては、その対象となる社会経済の実態についての正確な基礎資料が必要であり、具体的な法的規制措置が現実の社会経済にどのような影響を及ぼすか、その利害得失を洞察するとともに、広く社会経済政策全体との調和を考慮する等、相互に関連する諸条件についての適正な評価と判断が必要であつて、このような評価と判断の機能は、まさに立法府の使命とするところであり、立法府こそがその機能を果たす適格を具えた国家機関であるというべきであるからである。したがつて、右に述べたような個人の経済活動に対する法的規制措置については、立法府の政策的技術的な裁量に委ねるほかはなく、裁判所は、立法府の右裁量的判断を尊重するのを建前とし、ただ、立法府がその裁量権を逸脱し、当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限つて、これを違憲としてその効力を否定することができるものと解するのが相当である。」
 そこで、以上三つの立法裁量のうち、本問では、どれを採用するべきか、またその理由は何かが最大の論点となる。
 もちろん、諸君として判例がこうだから、と書くわけにはいかない。上記のことを自らの説として、基本書と相談しつつ、理由を挙げて論じなければならない。
(四) 相当の猶予期間
 第二の要件は、国会が憲法に即した立法を行うための相当の猶予期間の存在である。最大衆議院議員定数違憲訴訟に関する最高裁大法廷昭和60717日判決(百選第5338頁)は、そのことを明言した。
 相当の猶予期間が必要なのは、立法は、機械的な作業ではなく、あるべき状態を作り出すために必要な一定の範囲内に存在する選択肢から、何が最善かを検討、審議するために一定の時間が必要であるためである。特に、例えば先に挙げた情報公開請求権のように、その問題について各方面の意見が分かれている場合には、それにかなりの長期間を要するのにも無理のないところがあるからである。これに対して、立法の不作為により侵害されている国民の利益が一義的に決定できる場合には、立法の猶予期間は必要ではない。例えば河川附近地制限令事件の場合には、損失補償内容は、その国の活動によって個人が被った財産的全損害であって、そこに立法裁量の余地はないから、猶予期間を論ずることはないのである。
 相当の猶予期間があった、というためには、それに先行して国会が、違憲状態の発生を認識していなければならない。上記衆議院議員定数の場合には、それに先行して51年の違憲判決などがあったので、国会が違憲状態の発生を認識することが容易であった。少なくともどのような要件に該当すれば違憲となるかは、明らかだったのである。
 これに対して、参議院議員定数不均衡の場合には、むしろ最高裁は衆議院において違憲と認定した状態をはるかに上回っていた場合にも合憲という判決を出し続けた。この結果、平成4年の選挙において、1票の価値に16.5の格差が生じていたことをもって最高裁は違憲状態の発生を初めて認定した時、国会にそのことを認識する契機が存在していなかったことを理由に、立法裁量権の限界を超えるという認定をすることができなかった。それが最大どの程度の期間となりうるかについては、51年最高裁判決から、一般に最大5年間といわれている。
 本問の場合には、これについては要件が何年くらいかは確定できない。だから論文としては、この要件にを満たしているかどうかは判らない、と論じるしかない。堀木訴訟の場合には、本レジュメの冒頭に述べたとおり、訴訟の継続中に改正しているから、改正に必要な期間を経過していたことは確かであり、その結果、何も述べていない。
(五) 審査基準
 立法の不作為について、どういう審査基準を採用しているかが最後の論点である。
 実は、先に述べた立法裁量論と、審査基準論がどのような関係に立つのかは、学説が激しく対立している点である。
 戸松秀典によれば、立法裁量論と審査基準論は、1対1の対応関係に立つという。すなわち立法裁量のゼロへの収束の場合には厳格な審査基準、狭い立法裁量の場合には厳格な合理性基準、そして広い立法裁量の場合には狭義の合理性基準(明白性基準)だという。
 これに対して、戸波江二等は、立法裁量という概念を排斥し、審査基準論だけで議論をする。どちらの路線をとって論文を書くかは、これも自分の基本書と相談して決めて欲しい。どっちつかずの文章、あるいはそもそも問題意識さえ示していない文章は、論文としては論外である。
 
三 本問の場合
 堀木訴訟において最高裁判所は次のように述べた。
「憲法25条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう『健康で文化的な最低限度の生活』なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法25条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄である」
 この文章を順次分析していこう
 
(一) 権利の性格
 この判決では、立法裁量の逸脱・濫用と見られる場合には司法審査の対象となるということを明言している。したがって、プログラム規定説を採用していないことだけは断言できる。この事件の場合には、具体的事件性を認めているという点では、具体的権利説と言える。ただ、権利を具体化する立法が現に存在するので、抽象的権利説でも具体的権利性は肯定できるから、抽象的権利説なのか、それとも「ことばどおりの具体的権利説」なのかはよく判らない。
 しかし、判例がこう述べているのだから、諸君としては気楽に基本書に従って、具体的権利説なり、抽象的権利説なりをとることができる。大事なのはそれに対する理由である。その辺りは基本書と相談して確立しておいて欲しい。
(二) 立法裁量and/or審査基準論
 引用した文章を見ると、論理の展開がほとんど小売市場事件と同一であることが判る。すなわち広い立法裁量説を採用している。戸波江二のように立法裁量論を採用しない場合には狭義の合理性基準と読むことができる。
 この判例を肯定的に読む場合には、少なくとも本問のような国からの金銭的給付というような経済的問題に関する社会権については、二重の基準における経済的自由権に準ずると理解する立場にあると読むことが出来よう。それに対し、同じ社会権でも、例えば教育を受ける権利の場合には、学問の自由とも共通する性格を有し、精神的自由権に近い性格があるから、結論が分かれる可能性がある。
 諸君の採るべき説としては、一般論として言えば、抽象的権利説を採る場合には、広い立法裁量を肯定する方向で議論するのが自然である。それに対して、具体的権利説を採る場合には、その具体的権利性の程度に応じて立法裁量が狭まることになると思われる。しかし、ゼロに収束するとまでは言えないであろう。どのように論じるかについては基本書と相談して欲しいところである。
 提出された回答を見る限り、堀木訴訟の特殊性をあまり考慮していない傾向が見られたので、その点を若干補足する。
 普通の国民年金や子ども手当であれば、それをどのような条件で支給するべきかについては、裁判所として国会の広い立法裁量を尊重すべきことは、あまり疑問がない。しかし、本問の場合を、それと同視しているような議論は明らかに誤っている。
 第一に、Xは問題文に明記されているとおり、障害者年金の受給者である。普通の国民年金の場合には受給者が年金保険料を一定期間納付していることが受給の条件であるが、障害者年金の場合には保険料が免除されていても良い。また、受給資格は老齢者に限定されるわけではなく、障害者でありさえすれば若くとも受給できる。その意味で、その実質は社会保険ではなく、公的扶助である。生活保護との違いは、支給に当たって一定の要件を充足すれば足り、ミーンズテスト*[2]を要しないという点に尽きる。
 生活保護の場合には、「現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができ」ないなどという議論はあり得ないであろう。つまり、目の前に現に餓死しかかっている人がいる場合に、当該年度予算を使い切ったことを理由に、給付を拒否できるはずはない。あるいは、その様な場合には給付しなくとも良い、という立法の自由はない(つまり立法裁量権はゼロに収束している)。
 障害者年金が、実質においてその生活保護に非常に近い制度であることを考えると、その給付の決定に当たり、果たして、最高裁判所が言うように、広い立法裁量が本当に存在しているのか否かについては、相当程度疑問が残る。しかも、Xは障害者の中でももっとも障害の度合いの高いものであることを考えると、この疑問はさらに大きなものとなる。
 第2に、児童扶養手当も、同様の公的扶助制度である。しかも、その支給条件は参照条文として付した41項を見れば判るとおり、何らかの理由で父親からの不要が全く期待できない母子家庭に限って給付の対象となっており、その意味で、やはり生活保護に大変近い制度である。したがって、ここでも最高裁判所の言うような広い立法裁量の対象になる事案とは思えない。
 このように個々の制度が、広い立法裁量の対象とはならないのではないかという強い疑問がある点を考慮すると、その併給禁止の場合に付いてだけ、突然広い立法裁量の対象となり、財政事情等が考慮要素になるという最高裁判所の判断には、かなり疑問が残ると言わざるを得ないのである。
 諸君の答案にこうした点を細かく書き込む必要は無い。しかし、通常の年金や子ども手当と無条件に同視しているとしか思えないような記述は、少なくとも事例問題の答としては、好ましくはないのである。


*[1]ここは諸君が非常に間違えやすいところなので、この本文の表現をきちんと覚えて欲しい。どんな場合にも、国会が立法裁量権を有するのは当然である。だから、国会に立法裁量権があるかどうかは問題では無い。問題になっているのは、その立法裁量権を裁判所がどの限度で尊重するべきか、なのである。すなわち、立法裁量論という議論は、自制説、すなわち裁判所が可及的に憲法判断を自制するという説の一環として説かれる問題である。

*[2] ミーンズテスト(means test)とは、国民が政府に対し、社会保障制度による給付を申請した際に、申請者が要件を満たすかどうか判断するため行政側が行う資力調査のことである。調査は申請者の収入、資産、またはその両方を対象にして行われ、通常は収入・資産が一定水準を下回ることが受給の要件となる。ミーンズテストを要しない場合には、簡易・迅速に給付が可能になるため、受給者が救済されやすく、またミーンズテストのための行政コストが節減できるという長所がある。他方、生活保護の対象にはならないような富裕者が給付対象となる可能性がある点が欠点となる。