身体障害者の教育を受ける権利

甲斐素直

問題

Z県の県立A高校は新入生の選抜方式として、学力検査のための試験の成績と、それらの他に受験生本人の心身の状態も重視し、その記録と併せて総合的に合否判定を決定する方式をとっていた。このA高校を進行性のデュシェンヌ型筋ジストロフィー症を持ったXが受験した。Xの結果は学力試験の成績は、合格基準を大きく上回る好成績であった。しかし、Xは小学校5年生に進級するころから常に車椅子を必要とする状況になり、中学校3年間でさらに病状が進行して、受験時には腕を挙げることができなくなり、背柱の弯曲が顕著になり、同一姿勢の保持が困難になったほか、少し筆圧が弱くなったが、頁をめくる、読む、書く等の動作には全く支障がなく、書いた文字も全て判読できる状況であった。現在のわが国のデュシェンヌ型筋ジストロフィーの死亡平均年齢は20歳と考えられていること、Xの症状が現在よりさらに悪化することは確実であるが、その場合、A高校には適切な介護ができる施設、職員がいないこと等諸般の事情から、A高校の全過程を無事履修する見通しがないと判断し、A高校校長YXに対し入学不許可処分を下した。

 

Xは、この処分は身体的障害を唯一の理由とするもので、憲法26条1項、14条及び教育基本法3条に違反するとして、Yにその取消しを求めると共に、国家賠償法1条1項に基づいて、Z県に対し、入学不許可処分を受けたことによりXが被った精神的損害に対する慰謝料の支払いを求めた。

 上記訴訟における憲法上の問題点について論ぜよ。


[問題の所在]

 本問は、百選(第5版)312頁(ないしは平成4年度重要判例解説31頁以下)の事件に題材をとって出題されたものであることは、きわめて明白で、その点では論文構成の手がかりを得やすい問題といえる。しかも教育を受ける権利については、68日に国歌斉唱事件を取り上げたばかりであるので、今回は合格答案ばかりであろうと甘い期待を持っていたのだが、完全に裏切られた。しかも、その裏切りの内容が、諸君に全く応用力が無い、という点から発しているという意味で、どう教えたら良いのか、途方に暮れている。

 簡単に問題点を述べよう。

 教育権に限らず、あらゆる人権の主体は本人である。しかし、国歌斉唱事件の場合には、小学校教員が問題となっていた。小学生の場合、本人の意欲とか判断能力はおよそ問題とできるレベルでは無い。だから、本人の権利をサポートして、その教育内容を決定する者は誰か、という点に力点がかかり、旭川学テ判決の示すところに従って親、教師、国のいずれが教育内容を決定する権利があるか、を論じると良いと説明した。

 それに対し、本問の場合には、本人は高校生である。しかも、問題になっているのはその本人が、人生最後の願いとして教育を受ける権利を主張しているのであるから、親の教育内容決定権などというものは、全く問題にならない。同様に、現に就学中の者に対する教育内容決定権が問題になっているわけではないから、教師の教育内容決定権も問題にはならない。少なくとも問題文には一言も「親」という言葉も「教師」という言葉も出てきていない。だから、仮にそれが論点だと判断した場合には、それが論点になる理由から書かねば答案にはならない。それなのに、そうした説明もないままに(確かにそんな理由があるとは思えないが)、親の教育内容決定権等を延々と書かれても-記述内容自体はいくら正しいものであっても-評価対象外の答案だといわざるを得ないのである。

 今ひとつ、意識して欲しい点がある。問題になっている事実は「A高校校長YXに対し入学不許可処分を下した」という事である。このように学校長が生徒に対して下した処分が、人権侵害として問題になるという事件としては、エホバの証人剣道必修事件が直ちに頭に浮かぶと思う(浮かばないようでは困る)。

 あの事件の場合、学校側は行政庁としての裁量権に関する議論を展開し、退学処分はが学校長としての自由裁量行為であると主張した。それが肯定されると、だいたい問題はその段階で解消し、学校側の勝訴で話は終わる。剣道必修事件最高裁判所判決の意義は、校長の有する裁量権の限界を明確にし、校長の有する裁量権が羈束裁量であることを明らかにしたことである。本問においても理屈は一緒で、生徒の入学に当たり、学校側の裁量権はどの限度で認められるか、という点にある。そして、問題文には「学力検査のための試験の成績と、それらの他に受験生本人の心身の状態も重視し、その記録と併せて総合的に合否判定を決定する方式をとっていた」と明記されている。つまり、学力検査だけでは入学試験の合否は決まらないのである。総合的判断という場合、そこに一定の裁量権が存在することは当然と言える。

 ゼミでの教育は、その種の事例に対する一般的な対応を示すことと考え、憲法演習ゼミナール読本では、幅広く留萌事件等まで取り上げている。そこから、本問解決に必要な部分だけを抽出して論じることは当然に可能と期待していたのだが、そういう一般論と、本問の個別論の間に意外に深い谷があったということを痛感している次第である。


一 教育内容決定権

 本問の事件を、少し細かく分析すると、すべての問題の出発点は、校長Yが、「A高校には適切な介護ができる施設、職員がいないこと等諸般の事情から、A高校の全過程を無事履修する見通しがないと判断し」たことにあることが判るであろう。これを、憲法学的にいうと、教育内容の決定権は誰にあるか、という議論である。この論点については、国歌斉唱事件において、教育内容決定権の所在と指導要領の法規範性という議論については、大変詳しく説明した。だから、ここでは論文の要点のみを説明する。

 そこで説明したように、教育権が問題になる場合には、常に、

1 教育の私事性を説明する。

2 その限界として、公教育概念を説明する。

3 公教育概念の中で、教育内容決定権が誰にあるかを説明する。旭川学力テスト最高裁判決に依存して答案校正をすれば、それが基本的には本人にあり、それを補完する形で、親、国、教師等がその具体的内容決定権の所在として導かれる。

という答案構成になる。

 しかし、先に説明したとおり、本問では親も教師も論点にならないから、1や2の段階においてそれらとの関係を書くのは間違いで、もっぱら国と本人の対立の中で論じるべきことになるし、3においては国の教育内容決定権の内容は何か、という事だけが主たる論点になる。そして、この点については国歌斉唱事件では基本の部分から始めて、かなりくどい説明をしたが、結論として言えば、国=学校側には教育大綱決定権がある(教育基本法16条)と考えることになる。

 県立高校が、どのような受験生を入学させ、または不合格とするかは、この大綱決定権に基づいて有している裁量権の行使と理解することができる。上述の剣道必修事件で最高裁判所は次の様に述べた。

「校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである」

 この意味で、校長の有する裁量権は、一般的には自由裁量行為に属する。しかし、退学の場合には別だと最高裁判所はいった。

「退学処分は学生の身分をはく奪する重大な措置であり、学校教育法施行規則133項も4個の退学事由を限定的に定めていることからすると、当該学生を学外に排除することが教育上やむを得ないと認められる場合に限って退学処分を選択すべきであり、その要件の認定につき他の処分の選択に比較して特に慎重な配慮を要するものである」

 こうして、退学処分に関しては羈束裁量と考えるべきことになる。

Xが退学処分になったのは、Xが一般的に学則に定める退学事由である「学力劣等で成業の見込みがないと認められる者」に該当するというわけではなく、保健体育の成績だけが問題なのであり、これが問題になったのは、実技に代替措置を認めなかったためである。

 上記文章の「退学」という言葉と、本問における「入学」という言葉は十分に置き換え可能であることが判ると思う。志望校に入学できるかどうかも、やはりその生徒の一生に関わる重大な措置であるからである。

 学校教育法施行規則901項は入学について、次の様に定めている。

「高等学校の入学は、第78条の規定により送付された調査書その他必要な書類、選抜のための学力検査(以下この条において「学力検査」という。)の成績等を資料として行う入学者の選抜に基づいて、校長が許可する。」

 この条文においても、明らかに羈束裁量と読むことができよう。したがって、学力検査等において十分なレベルに達し、素行等においても問題の無い者を入学不許可として排除するには、特に慎重な配慮を擁するものであることは明らかである。


二 教育の機会均等

 本問の場合に、先に説明した教育権における第2段階目の公教育概念の説明において問題になるのは、障害者教育だという点である。そこで、その点に特化した形で第2段階を説明し直してみよう。

 公教育は、国家として、国民の有する教育を受ける権利に対応して負担している教育義務であるが故に、私教育にない様々な制約に服する。障害者教育において問題になるのは、そのうち、「教育の機会均等」という理念である。

 これが本問の中心論点になる事は判っていたので、前回の問題に対するレジュメでは、平等権については、その問題の論点ではないにも関わらず、詳しく説明しておいた。しかし、つながりが理解されなかったらしく、今回提出された答案に全く反映されていなかったので、改めて、その説明をまず簡略化して再録する。

(一) 25条と実質的意味の平等

 平等権は、法学における正義論で言うと、形式的正義の一環としての配分的正義の理念がむき出しに規定されたものと理解できる。つまり、平等権とはいうが、それは権利ではなく、平等原則を規定したものである(この辺りは、それ自体理由を挙げて論じなければ、諸君の答案では不合格判定となるが、ここでは説明を割愛する)。

 形式的正義であるから、それを何らかの実質的正義で内容を補填してやらない限り、憲法判断の基準に使用することはできない。平等主義は、簡単に言えば、国家は国民を平等に取り扱わなければならない、ということである。つまり、国家と国民の関係だから、実質的正義概念のうち、国家と国民の関係を規律する原理である自由主義及び福祉主義が補填する実質的正義として使用できる。

 自由主義により内容を補完されて導かれた平等概念を自由国家的平等ないし形式的平等と、そして福祉主義によって補完されて導かれた平等概念を社会国家的平等ないし実質的平等という。つまり、我が憲法下では、二つの相異なる平等概念が存在しているのである。

 その観点からすると、社会国家的平等原則は14条ではなく、25条で読むべきである。すなわち、「健康で文化的な最低限度の生活」の保障とは、すべての国民に実質的平等を求めていることと考えることができる。

(二) 教育の機会均等

 この実質的意味の平等を、教育を受ける権利において明確に宣言しているのが、261項の「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」という文言である。

 この結果、心身に障害を負っている者も、「その能力に応じ」た教育を受ける権利を有するから、公教育としては、それに対応する憲法上の義務を負っている。つまり、先に述べた入学試験における校長の有する裁量権に発生する制約は、この点に淵源しているということができる。

 ここで考えねばならないことは、例え、その人の能力に応じた教育であっても、他から隔離した教育は平等な教育ではない、という事である。アメリカ連邦最高裁判所1954517日判決は、次のように述べた(第1次ブラウン判決=347 U.S. 483 (1954))。

「人種だけを理由に彼ら(黒人)を年齢も資格も同じ他の者から隔離することは、社会における彼らの地位について劣等感を与え、彼らの心にいやしがたい影響を及ぼすかもしれない。」「公教育の分野において『分離すれども平等』の立場は存在し得ず、分離された教育施設は本来不平等である。」

 この判決は1896年に下されたプレッシー対ファーガソン判決を半世紀ぶりで覆した歴史的判決なのである。

 少し脱線する。そのプレッシー対ファーガソン判決で、『分離すれども平等』であれば合憲と判断した大きな根拠は、女子校の存在であった。すなわち、男女別学もまた、この理念の下において違憲と評価されなければならないのである。

 障害者教育にあっても、盲学校、聾学校あるいは特殊学級のように、障害者を他の非障害者から隔離した形で行われる教育は、不平等な教育と評価されなければならない。


三 障害者の教育を受ける権利

 今日の時点において、障害者教育を論じる時、「障害者の権利に関する条約」(障害者権利条約)を避けて通ることはできない。同条約は、平成1812月に国連総会で採択され、205月に発効した。日本政府は、199月に署名を行ったが、現時点ではまだ批准には至っていない。

 参考のため、同条約のうち、教育に関わる条文を次に紹介する(外務省の仮訳)。

「第24条 教育

1 締約国は、教育についての障害者の権利を認める。締約国は、この権利を差別なしに、かつ、機会の均等を基礎として実現するため、次のことを目的とするあらゆる段階における障害者を包容する教育制度及び生涯学習を確保する。

 (a) 人間の潜在能力並びに尊厳及び自己の価値についての意識を十分に発達させ、並びに人権、基本的自由及び人間の多様性の尊重を強化すること。

 (b) 障害者が、その人格、才能及び創造力並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。

 (c) 障害者が自由な社会に効果的に参加することを可能とすること。

2 締約国は、1の権利の実現に当たり、次のことを確保する。

 (a) 障害者が障害を理由として教育制度一般から排除されないこと及び障害のある児童が障害を理由として無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと。

 (b) 障害者が、他の者と平等に、自己の生活する地域社会において、包容され、質が高く、かつ、無償の初等教育の機会及び中等教育の機会を与えられること。

 (c) 個人に必要とされる合理的配慮が提供されること。

 (d) 障害者が、その効果的な教育を容易にするために必要な支援を教育制度一般の下で受けること。

 (e) 学問的及び社会的な発達を最大にする環境において、完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置がとられることを確保すること。

3 締約国は、障害者が地域社会の構成員として教育に完全かつ平等に参加することを容易にするため、障害者が生活する上での技能及び社会的な発達のための技能を習得することを可能とする。このため、締約国は、次のことを含む適当な措置をとる。

 (a) 点字、代替的な文字、意思疎通の補助的及び代替的な形態、手段及び様式並びに適応及び移動のための技能の習得並びに障害者相互による支援及び助言を容易にすること。

 (b) 手話の習得及び聴覚障害者の社会の言語的な同一性の促進を容易にすること。

 (c) 視覚障害若しくは聴覚障害又はこれらの重複障害のある者(特に児童)の教育が、その個人にとって最も適当な言語並びに意思疎通の形態及び手段で、かつ、学問的及び社会的な発達を最大にする環境において行われることを確保すること。

4 締約国は、1の権利の実現の確保を助長することを目的として、手話又は点字について能力を有する教員(障害のある教員を含む。)を雇用し、並びに教育のすべての段階に従事する専門家及び職員に対する研修を行うための適当な措置をとる。この研修には、障害についての意識の向上を組み入れ、また、適当な意思疎通の補助的及び代替的な形態、手段及び様式の使用並びに障害者を支援するための教育技法及び教材の使用を組み入れるものとする。

5 締約国は、障害者が、差別なしに、かつ、他の者と平等に高等教育一般、職業訓練、成人教育及び生涯学習の機会を与えられることを確保する。このため、締約国は、合理的配慮が障害者に提供されることを確保する。」

 

Yの処分がこの条約の多くの条項に違反していることは、特に説明を要しないであろう。条約を憲法の論文において、どのような形取り込んだら良いかについては悩むことも多いと思う。いろいろなアプローチがあり得るが、一番簡単な取り込み方は、このような国連人権条約は憲法の保障内容を、より具体化して定めているのだ、と理解することである。本問の場合であれば、憲法26条の能力に応じた教育という概念を、障害者に特化して詳細に定めたのが障害者権利条約24条と考えれば良い。したがって、障害者権利条約24条に抵触していれば、それは同時に憲法26条に違反していると考えることになる。障害者権利条約は、まだ上述のとおり批准されていないが、このように憲法解釈の一助としてその規定内容を活用する場合には、批准の前後を問わず、それに基づく解釈が可能となる。

 政府としては、同条約の可能な限り早期の批准を目指して活動しているが、その一環として、平成22629日の閣議決定においては、各個別分野については関係府省において検討することとされ、教育については次のように決定した。

「障害のある子どもが障害のない子どもと共に教育を受けるという障害者権利条約のインクルーシブ教育システム構築の理念を踏まえ、体制面、財政面も含めた教育制度の在り方について、平成22年度内に障害者基本法の改正にもかかわる制度改革の基本的方向性についての結論を得るべく検討を行う」

 インクルーシブ(inclusive)とは、あまり聞き慣れない言葉だが、「含んだ、いっさいを入れた、包括的な」という意味で、障害者だからといって排除されたり、単なる保護の対象として扱われたりするだけでなく、健常者と同じ権利を持った主体として、社会の一員に含まれるような「共生社会」を目指そうということを意味する。これは障害者権利条約で、障害者の「自ら選択する自由」が強調されていることに対応したものである。

 これを実現するために、平成2112月に設置された政府の「障がい者制度改革推進会議」では、平成2267 に「障害者制度改革の推進のための基本的な方向(第一次意見)」を公表し、インクルーシブ教育を「障害者が差別を受けることなく、障害のない人と共に生活し、共に学ぶ教育」だとして、次の諸項を提言している。

▽ 障害の有無にかかわらず、すべての子どもは地域の小・中学校の、通常の学級に在籍することを原則とする
▽ 本人や保護者が望む場合や、適切な環境が必要な場合には、特別支援学校や、通常の学校の特別支援学級に在籍することができるようにする
▽ 就学先を特別支援学校や特別支援学級に決定する場合には、本人・保護者、学校、学校設置者(市町村など)の三者の合意を義務付ける
▽ 障害者が通常の学級に就学した場合には、合理的配慮として支援を受ける


 したがって、障害児に対する第1の教育手段は通常学級に在籍させることである。

 ここから新たに発生する問題が、では、普通学校で学ぶか、特殊教育施設で学ぶかを決定する権限を誰が持つか、という点である。それこそが、本問の論点に他ならない。そして、ここでの論争は、普通学校における教育内容決定権に関する論争と、きわめて類似した構造をとる。すなわち、児童及び父兄側では、それを決定する権限を有するのは本人ないしその利益を代表する親であると主張するのに対して、教育機関側では、それは国であると主張することになる。諸君としては、旭川学力テスト最高裁判決にあてはめて議論を展開すればよい。

 この点に関しては、本問は、第一に筋ジストロフィーという特殊な病気である点、及び義務教育ではない高校の入学拒否である点に特殊性があり、少し難しい問題になる。

 憲法演習ゼミナール読本では、そうした特殊性のない易しい問題というつもりで、留萌事件判決を紹介したのだが、どうやらそうした情報を提供すると、提出された論文を見る限り、諸君は混乱するらしいことが判ったので、今回はそれは割愛し、直接に本問の結論に関する議論を行う。


四 本問における特殊性

 本問は、典型的な障害児教育の問題に比べて、二つの点で特殊性がある。

 第一は、Aの罹患しているのが筋ジストロフィーである、という点である。これは、症状面で言うと次のような病気である(http://www.saigata-nh.go.jp/nanbyo/pmd/pmdindex.htmより引用)。

「小学校入学時頃から歩行が目に見えてぎこちなくなります。階段の昇降時には片方の手で手すりにつかまることが必要となり、やがては両手で手すりにつかまるようになります。次には階段昇降ができなくなり、床からの起立が不能となります。次には椅子からも、立てなくなります。平均9歳で歩行が不可能となり、車椅子上生活となってしまいます。車椅子生活に移行すると、肥満が出現したり、脊柱側弯症(背骨が曲がること)が急速に進行する症例が多く認められるようになります。車椅子に乗車直後は四這いやいざりは可能ですが、これもやがて不可能となり、進行すれば座ることや車椅子の操作も不能となります。やがては、後述する左心不全や、呼吸不全でほとんどの患者が死亡してゆきます。現在のわが国のデュシェンヌ型筋ジストロフィーの死亡平均年齢は20歳と考えられています。」

 実際、本件のAの障害はかなり進んでいて、判決が認定しているところによると、次のような状態であった、という。

「 原告は、昭和55年にデュシェンヌ型筋ジストロフィー症との診断を受け、昭和61年に小学校5年生に進級するころから常に車椅子を必要とする状況になった。
 原告の機能障害の程度は、中学校3年間で進行し、腕を挙げることができなくなり、背柱の弯曲が顕著になり、同一姿勢の保持が困難になったほか、少し筆圧が弱くなった。しかし、頁をめくる、読む、書く等の動作には全く支障がなく、書いた文字も全て判読できる状況であった。」

 学校側が「その身体的状況により、高校における全課程を履修することは困難である」という認定を下した理由は、このようにAが20歳までに死亡してしまう可能性が大きいことを意味している。単に、車椅子を使用しなければならない重度の身体障害者である、という理由ではない点に注意してほしい。

 現実の事件においては、判決は、Aが卒業可能であるという判定を下し、高校に在籍し続けることが不可能と判断したことを事実誤認とした。このことは、逆から言えば障害の程度が重く、在籍がきわめて危ぶまれるような障害者であれば、排除することが認められるのであろうか。あきらかに不当であろう。それでは中退したものには何の価値も認められなくなってしまう。教育を受ける権利が保障するのは、日々に自己を研鑽する権利であり、決して卒業その他、社会的に認証できる資格を取得する権利ではない。そもそも、どれほど健康なものであっても、入学時点で必ず卒業可能である、という判定を下すことは不可能であることを考えれば、入学の目的が卒業にあるとすることは、誤りであることは明らかと言える。

 この点、例えば、大橋洋一(現在、学習院大学教授)は、本判決の評釈で次のように述べている。

「ここでの争点は、高校教育の目的が卒業にあるのか、それともそこに至る過程自体に価値が認められるのか、という点である。例えば、筋ジストロフィーの進行が進み、本判決の要請しているような専門医の診断で3年間の履修の見込みが立たないが、それでも健常者と一緒に大学受験を想定したような程度の高い授業に参加し、自らの能力を高めたいと考える志願者をどのように扱うのか、という問題である。本判決によれば、入学は否定されることになろう。しかし、高校教育の目的を卒業認定に限定せず、日々の研鑽の中にも認める立場からすれば、入学時に履修可能であれば、後は志願者の意思に任せるのも一つの考え方であるように解される。」(大橋・判例時報=判例評釈40419頁より引用)

 大橋教授は行政法学者なので、憲法上の権利という点に関しては少々腰が引けている表現をしているが、基本的趣旨は同じであることが判ると思う。

 ここで問題となるのは、本件のような意欲を持つAにとっては、養護学校が代替施設とはならない、という点である。大学に進学するためには、普通高校が事実上唯一の選択肢だからである。したがって、本件事例では、小中学校レベルのように、特殊学級か普通学級かという選択の問題ではなく、高校進学を認めるか、否定するか、という一点が問題になっているのである。このように高校進学の自由そのものが問題になる場合に、学業成績その他の客観的基準をどのように設定するかについて国側に裁量権が存在することは明らかであるが、それが充足されている状況下で、ことさらに障害の存在を理由にする拒絶権に関しては、国側の裁量権はゼロに収束している、というべきである。

 もう一つ、本判決で注目するべき点は、学校の施設面の負担について論じている点である。障害者のための十分な施設を整えるための設備負担は養護学校などでだけ充足すれば良いのかという問題である。これに対して、本判決では、裁判所は次のように述べた。

「障害を有する個々の児童、生徒につき、具体的にどのように教育を受ける権利が実現されるべきであるかについては議論があるところであり、当裁判所も、障害を有する児童、生徒を全て普通学校で教育すべきであるという立場に立つものではない。しかし、本件に関していえば、学校教育法施行令22条の2は、その上位規範である学校教育法71条、71条の2からも明らかなように、少なくとも高等学校入学の学齢に達した障害者につき養護学校等へ就学させる義務を規定したのではなく、障害者の普通高等学校への入学を否定する法令も存しない。そして、たとえ施設、設備の面で、原告にとって養護学校が望ましかったとしても、少なくとも、普通高等学校に入学できる学力を有し、かつ、普通高等学校において教育を受けることを望んでいる原告について、普通高等学校への入学の途が閉ざされることは許されるものではない。健常者で能力を有するものがその能力の発達を求めて高等普通教育を受けることが教育を受ける権利から導き出されるのと同様に、障害者がその能力の全面的発達を追求することもまた教育の機会均等を定めている憲法その他の法令によって認められる当然の権利であるからである。」

 すなわち、本判決では、進学が障害者の側の権利である以上、障害者を受け入れた高校で個別に障害者受け入れ施設の整備を図らなければならない、としたのである。確かに、養護学校のような充実はそこでは期待できないが、障害者が学業を図るに必要な最低限度の施設整備の義務を肯定した、といってもよい。

 本件事例の場合、たまたま、Aとは種類が異なるが、同校にやはり筋ジストロフィー患者が在籍していたことがあり、そのおかげで設備がある程度充実しているという特殊事情がある。しかし、Aが最初の入学者であった場合にも、当然、そうした設備工事を国は義務づけられているものと考えるべきである。実際、Aに先行する生徒の時にはそうした工事を実施したのであった。一般的に、普通学校で学ぶ障害者は、学校側にそうした設備を要求する権利がある、といえる。わが法学部の建物にも、車椅子を利用する障害者のためのスロープ等が設置されていることは諸君の知るとおりである。これは今日のバリアフリー社会においては、国(私立大学のように多数人が参集する施設の管理者も含めて)が当然に負担するべき責務なのである。