在外邦人の参政権
甲斐素直
問題
海外で暮らす日本国民(以下、「在外邦人」という)に対して衆議院の小選挙区及び参議院の選挙区について在外投票を認める制度が、いまだ存在していないという前提の下で、以下の問に答えよ。
平成○年衆議院議員総選挙が行われようとしていたが、その時点において、XはA国に居住しており、日本国内の市町村の区域内に住所を有していなかった。そのため、公職選挙法の規定により、選挙権が与えられていなかった結果、当該選挙で、投票することが認められなかった。
在外邦人に選挙権を与える必要があることは、政府としては以前から認識しており、昭和59年には、衆議院議員選挙及び参議院議員選挙全般についての在外選挙制度の創設を内容とする「公職選挙法の一部を改正する法律案」を国会に提出していた。しかし、同法律案の実質的な審議は行われず、昭和61年に衆議院が解散されたことにより廃案となった。その後も本件選挙が実施された平成○年までに、在外国民の選挙権の行使を可能にするための法律改正はされなかった。
国会は、ようやく平成10年に在外邦人に選挙権を認める方向に公職選挙法を改正したが、当該改正では、投票日前に選挙公報を在外国民に届けるのは実際上困難であり、在外国民に候補者個人に関する情報を適正に伝達するのが困難である等の諸々の理由により、衆議院比例代表選出議員選挙及び参議院比例代表選出議員選挙の選挙権を認めるにとどまった。
そこでXらは、「当該選挙時に、在外国民に対して選挙権を全く与えていなかったこと及び改正後においても情報手段の著しい発達がみられたにも関わらず、両議院の比例代表選出議員選挙の選挙権しか与えず、これといった措置をとらずに放置したことは、国家賠償法上違法な立法の不作為がある」として、国に対し損害の賠償を請求して出訴した。
この場合、裁判所としてはどのような判断をなすべきかについて論ぜよ。
[はじめに]
(一) 作問の内容について
これは、平成17年9月14日最高裁判所大法廷判決を、比較的忠実に問題化したものである。したがって、回答もまた、その判決を忠実になぞれば能く、その意味で平易な問題である。ただし、1点だけ大きく変えた点がある。
本来の請求は、国会賠償事件ではなく、立法の不作為の違法確認の訴えなのである。すなわち、主位的に、〔1〕本件改正前の公職選挙法が、衆・参両院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において、違法(憲法の規定及び国際人権規約違反)であることの確認、並びに〔2〕本件改正後の公職選挙法は、衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において、違法(同上)であることの確認を求めるとともに、予備的に、〔3〕同上告人らが衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙において選挙権を行使する権利を有することの確認を請求していたのである。これに対して、原審はこれらの各確認請求に係る訴えはいずれも法律上の争訟に当たらず不適法であるとして却下すべきものとして退けた。
これは非常に大きな論点であるが、本問でこれを切り落とし、国家賠償請求に限定したのは、問題の単純化という観点から行ったものである。ただし、切り落とした部分もまた重要な問題なので、諸君自身としては、これについても答える準備をしておくことは大切である。これについては、本講の最後に簡単に説明をしている。
(二) 問題の所在について
公職選挙法は、選挙権自体については、第9条で「日本国民で年齢満20年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する。」と定めるだけなので、一見、居住地が国の内外を問わず、選挙権を有するように見える。しかし、その実、従前の公職選挙法では、その42条で、選挙人名簿に登録されていない者及び選挙人名簿に登録されることができない者は投票をすることができないものと定めていた。そして、選挙人名簿への登録は、当該市町村の区域内に住所を有する年齢満20年以上の日本国民で、その者に係る当該市町村の住民票が作成された日から引き続き3か月以上当該市町村の住民基本台帳に記録されている者について行うこととされているところ(同法21条1項、住民基本台帳法15条1項)、在外国民は、我が国のいずれの市町村においても住民基本台帳に記録されないため、選挙人名簿には登録されなかった。その結果、在外国民は、衆議院議員の選挙又は参議院議員の選挙において投票をすることができなかった。すなわち、参政権そのものは在外居住者といえどもこれを否定していないが、選挙人名簿の作成という技術的な要素を理由に、実際上、参政権行使が不可能とされていたのである。
本問は、これを争ったものである。以下、順次問題点を検討しよう。
一 参政権
参政権の本質をどう考えるかは、国民主権か人民主権の対立と結びついた難しい問題である。この主権概念については、入室試験のテーマとして諸君には既に説明してあるところなので、時間の関係もあり、割愛する予定でいたのであるが、提出された論文を見ると無造作に公務員を選定し、罷免することは国民固有の権利である、と憲法15条が述べていることに依存して論述し、主権論との関係を全く理解していないと思われたので、改めて説明することにした。
(一) 人民主権
これは社会契約説を背景にしている説であって、主権者たる人民とは、社会契約に参加する行為能力を持つ個人の集合体をいう。封建体制下において君主主権の源泉が被支配者の同意にあったのとの同様に、この主権者たる人民が社会契約において国の支配を受けることに同意を与えている点に国家権力の源泉があると考える(被治者の同意)。
ここにいう人民は、民法の用語で説明すれば、行為能力を持つ者の集合体であるから、全体として行為能力を持つ。したがって、原則として直接民主制を要求する。しかし、国家規模の団体になった場合には、人民が常に直接政治に関与することは非効率ないし不可能であるから、原則的に代表者を通じて政治を行う(人民代表)。
この場合、行為能力を持つ人民は、人民代表に対して命令的委任を与える。人民代表が委任に反する行動を執った場合には、解任する権利を有する(リコール権)。
また、人民は、必要に応じて自ら政治に関与することができる。すなわち、人民代表が適切な法案を議会に提案しないときは、自ら提案することができる(人民発案)。議会が不適切な法案を制定したときは、それを法律とすることを拒否できる(人民拒否)。また、議会にゆだねることが不適切な問題については自ら決定することができる(人民投票)。
これを参政権との関連で言えば、人民を構成する個々の国民は、当然に上記の権利を行使することができる。すなわち、人民主権においては、参政権は権利である。
(二) 狭義の国民主権
これは個人主義を背景にしている説であって、主権者たる国民とは、「老若男女の区別や選挙権の有無を問わず、『いっさいの自然人たる国民の総体』を言う」(芦部『憲法学Ⅰ』240頁)。すなわち、統治者たる国民と被治者たる国民とは、同一の存在である(治者と被治者の自同性)。このように「主権が全国民に存すると考えると、このような国民の総体は、現実に国家機関として活動することは不可能であるから、全国民主体説にいう国民主権は、天皇をのぞく国民全体が国家権力の源泉であり、国家権力の正当性を基礎づける究極の根拠だということ、を意味することになる。したがって、国民に主権が存するとは、国家権力が『現実に国民の意思から発するという事実を言っているのではなく、国民から発すべきものだ』という建前を言っているに過ぎないことになる。」(同上・241頁)
この場合、国民そのものが行動することはできないから、間接民主制を必然的に要求する。すなわち、国民は議会における代表者を通じて行動することになる(国民代表)。議会こそが、国家で現実に行動する能力を持つ最高の地位を占める機関となる(国権の最高機関)。実際面から見ると議会が主権を行使していると言っても過言ではない(議会主権)。
参政権、すなわち誰が国民代表となり、また、誰が国民代表を選ぶことができるかは、国権の最高機関たる議会が決定する。したがって、個々の有権者は、自らの権利として参政権を行使するのではなく、国民全体の利益を考えて参政権を行使することように、議会から義務づけられた者であるに過ぎない(参政権=公務説)。議会は、誰に参政権を与えるかを決定する最高機関である。したがって有権者の範囲を国民の一部に制限する自由を有する(制限選挙)。普通選挙も、国民の一部たる成人に有権者を限定した制限選挙である。
選出された議員は、自分を選出した有権者の代表者ではなく、全国民の代表者である。すなわち国民全体の奉仕者であって、その一部に過ぎない有権者への奉仕者ではない。したがって、有権者は議員に対して命令をすることはできない(命令的委任の禁止)。もちろん、命令に反したことを理由として解任する権利はない(リコールの禁止)。国民投票は、有権者に国民代表たる議会を上回る権限を授与することになるから禁止される。また、事実上国民投票と同じ効果を持つ議会の解散=総選挙も、同じ理由から禁止される。三権分立制の本質を相互の均衡と抑制に求める場合、その均衡の確保のために内閣に議会の解散権を与える場合にも、その解散権は極端に制限された場合にしか行使し得ないものとすることになる。例えば、アメリカでは議会の解散制度はなく、またドイツでは議会が内閣不信任を可決し、かつ、後任の首相を選任しないという例外的な場合に限定されている。
欧米の場合、国民投票が、その制度を悪用することにより、フランスにおいてナポレオン一世、同三世が皇帝位につき、また、ドイツにおいてヒットラーが独裁権を掌握し、全欧州を戦乱に巻き込んだことから、否定的に見られている。このことも、議会主権を擁護することが正しいとする実質的な根拠となっている。
(三) わが国憲法の解釈
諸君は全員、わが国憲法にいう国民主権とは、狭義の国民主権と考える本を基本書としているので、この説の根拠だけを以下説明する。論文においては、このように見解を示した場合、常に、その根拠を書かねばならない。根拠は、必ず実質的根拠と形式的根拠の両面から示さなければならない。
その実質的根拠としては次の点を上げることができる。なお、ここでは虱潰しに挙げているが、諸君は適当にどこに力点を置くのが妥当かを考えて絞り込むべきである。
a 人民主権説を採ると、全国民が主権を有する国民と主権を有しない国民とに二分されることになるが、主権を有しない国民の部分を認めることは民主主義の基本理念に背く。
b 憲法は、選挙人の資格を法律で定めることとしている(憲法44条)。そして国会は、技術的その他の理由に基づいて、年齢、住所要件、欠格事項等を法律で定めることにより、その資格を制限している。人民主権説だと、有権者集団が人民とされるが、主権を有する国民の範囲を、法律が決定するのは論理矛盾である。
形式的根拠としては、次の点を上げることができる。
a 憲法前文は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するとし、また「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使する」と
定めているが、これは間接民主制を採用することを示している。
b 憲法11条及び97条は、基本的人権の主体として「現在及び将来の国民」という表現を使用している。
c 15条2項、43条1項はいずれも全国民の代表という概念を使用している。
d 44条、47条は、議員及び選挙人の資格、選挙に関する事項を法律で定めるとしており、41条及び59条1項により、国会単独立法の原則がとられている。
e 51条が命令的委任の禁止を明記している。
f 我が憲法は二院制を採用しているが、人民主権説で二院制を説明することは不可能である。
(四) 本問における論述について
問題は、これらの論点をどの程度まで論ずるかである。国家試験本番における論文は、ゼロサムゲームである。限られた時間の中では、あらゆる論点に等しくきちんと論じていくことはできない。そこで、何を書いて、何を切るかの選択に迫られることになる。何時も強調するとおり、論文は三角形に書かねばならない。つまり、大きく配点されているものを書き、配点の低いものを切るのである。一般に、原点に近いものほど配点が低く、中心論点に近いほど配点が大きい。
したがって、本節で取り上げた論点については、減点覚悟で単にその結論だけを述べ、理由を省略する、という戦略があり得る。つまり、単に「国民主権説を支持しているので、二元説を妥当と考える」とだけ書いて、理由を省いてしまうのである。いうまでもないが、このように理由を省けば、その分だけ減点される。だから、それ以上の点数をメインの論点で稼げる自信がなければ、やってはいけない。
ついで、できるだけ簡略に理由を述べるという無難な戦略がある。その場合、第一に主権論について、なぜそれを採用するかの理由が必要であり、第二に参政権論での理由が必要である。
人民主権論を採用した場合に、権利説を導くのは簡単である。それに対して、国民主権論から二元説に至る記述の場合には失敗する例が多い。諸君の先輩達の記述からすると、主権論について理由を書きながら、二元説についての理由を省いている傾向を示すのである。しかし、上記のゼロサムゲームの理屈からすれば、どうしても、どちらかの理由を省かないと紙幅が足りなくなるというのなら、主権論の方を省いて、二元説ではきちんと書く、というのが正しい戦略である。なぜなら、国民主権論を採用した場合に導かれる説は決して一つではないからである。以下、代表的な説を紹介する。
1 参政権=公務説
人民主権論であれ、国民主権論であれ、ここにいう国民(人民)とは集合体としての国民であって、個々の国民ではない。現実にも、個々の国民の権利としてみれば、公務員の選定権は、国政レベルでは国会議員をのぞいては認められておらず、また、罷免権は最高裁判所裁判官(79条2項)に関する例外的権限をのぞいてはいっさい認められていない(最高裁昭和24年4月20日判決=百選第5版408頁参照)。
この見地から見る限り、参政権は、実は権利ではない。選挙は本来国家という団体の行為であり、個人が有する参政権とは、個人が国家のために必要な公的職務を遂行するに過ぎない。したがって、それは議会という国家機関の構成手続に関する憲法規定の反射であるに過ぎないと結論づけられる。だから、この説に立つ場合には、在外邦人に選挙権を与えるか否かは、純然たる国会の立法裁量の問題になり、合憲・違憲の問題たり得ない。
2 参政権=権限説
参政権を保障する15条が人権の章に定められており、人権はすべて個人として保障されること(13条)、15条3項及び44条但書の採用する普通選挙制度が憲法上明確に導入されたことに伴い、参政権の主体を決定する国会の裁量権が大幅に制約され、普遍化されたこと、15条4項が保障する秘密選挙は、個人の自由な選択の保障を意味することは明らかであること、などから見ると、現行憲法下では、参政権を権利として考えることが要求されると考えられる。かつては、人権は自然権として理解されていた(天賦人権)。しかし、参政権は国家という概念を抜きにして考えることはできないから、自然権としての参政権はあり得ない。そこで参政権そのものは法の反射的効果に過ぎないとしても、法が選挙の管理執行や投票などについて個人の利益に保護を与える限りにおいて、この法的に保護された個人の利益は単なる反射的利益ではなく、個人が選挙人として請求しうる権限である、と考えるのが、この説である。権限説では、単に個人が選挙に参画することが許されるというにとどまり、権利とは理解しない。
3 参政権=二元説
権限説は憲法15条等の文言と整合性があるとは言い難いとして、登場したのが、現在の国民主権説を採る場合における通説である二元説である。これは、「選挙人は一面において、選挙を通じて、国政についての自己の意思を主張する機会が与えられると同時に、他面において、選挙人団という機関を構成して、公務員の選定という公務に参加するものであり、前者の意味では参政の権利をもち、後者の意味では公務執行の義務を持つ」という二重の性格を有すると説くものである(清宮四郎『全訂憲法要論』法文社152頁)
。
この二元説の考え方は、一面で権利性を強調して国会の裁量権を制限する。例えば国会議員の議員定数不均衡を違憲と判断しうるのは、それが国民の権利の不当な制約となるからである。しかし、他面において、公務性を強調して、参政権の制約を肯定する。議員定数についての国会の裁量権の存在を肯定する結果、衆議院については3対1、参議院については6対1を越えなければ違憲とはならないという最高裁の判断は、そこに由来する。また、例えば公職選挙法が定める選挙犯罪者等に対する公民権停止処分が許されるのも、選挙権の公務性に基づく最小限度の制限として許容されるからである。
4 参政権=権利説
国民主権説を採る限りは、参政権を単純に権利と捉えることは絶対に無理である。これに対し、人民主権説を採用する場合には、参政権を文字通り権利と捉える立場が可能となる(一元説)。
狭義の国民主権説を採りながら、何の理由も書くことなく、一元説を採る者があるが、これは国民主権説が本質的には公務説を要求することを無視しており、その点について何らかの独自の説明を用意していない限り、完全に論理矛盾である。
この立場は、権利主体を、人民主権説にいう主権者である人民を構成する者として把握する(決して、すべての国民に権利主体性を承認するものではない点に注意)。ここから、例えば、選挙権は原則として1対1でなければならず、したがって最大でも2対1を越えてはならない、と説く。また、公民権停止処分については、選挙権の内在的制約を超える不当な制限であって違憲とすることになる(もっとも選挙の公正確保のため、必要最小限にとどまる限り許されるというような論理で、実際には許容する)。そのほか、小選挙区制を採用することは、死票率が不当に高まるが故に、これもまた違憲と評価されることになる等、様々な場面でかなりの相違を示すことになる。
二 平等権
参政権に何らかの意味での権利性があることを受けて、さらに平等権論が展開される。念のため、注記しておくと、仮に参政権が人権であると解釈した場合(即ち人民主権論を採った場合)には平等権論を展開するのは誤りである。これまでも繰り返し説明したとおり、平等権には補充性がある。つまり、何らかの人権が存在している場合には、それを論じるべきであって(本問の場合であれば参政権の侵害を論じるべきであって)、平等権を論じるのは間違いである。平等権を論じるということは、二元説の主張は、決して参政権に人権性を認めたわけではないということを意味している。
ここでは、44条但書と14条の関係をどのように読むかが大きな論点となる。
各条文を見れば判るとおり、44条但書は、14条の列挙事項と基本的に同一のものを列挙しているため、参政権に関しては14条は適用を排除していると読むのが自然である。このように読んだ場合には、44条但書の定める限度においてのみ平等原則が適用され、それを超える領域に関しては、全面的に国会の立法裁量権に服すると解される。例えば、年齢は、この列挙事項に上がっていない。そこで、国会はその立法裁量の結果、選挙権について20歳以上とし、また被選挙権について25歳以上(例えば衆議院)、30歳以上(例えば参議院)などと、年齢に基づく差別的取り扱いを行っている。近時、選挙権を18歳に引き下げようという議論が行われているが、これもそれが何歳になるかについては、国会に立法裁量権があると考えるから出てくる議論である。
しかし、判例は、衆議院議員定数違憲判決(最高裁判所昭和51年4月14日判決)以来、44条但書にも拘わらず、選挙権にも14条の適用があるものとしている。
本件判決も、この点について、従来の判例を踏襲する。
「憲法44条ただし書の規定は、それまで多く見られた制限や差別を例示的に列挙したにすぎないものであり、これ以外の差別も認められるべきではない。なぜならば、前記の憲法の規定は、選挙における投票という国民の国政参加の最も基本的な場面においては、国民は原則として完全に同等視されるべく、各自の身体的、精神的又は社会的条件に基づく属性の相違はすべて捨象されるべきであるとする理念を表したものであり、憲法14条1項に定める法の下の平等は、選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきであるとする徹底した平等化を志向するものであって、同条が規定する平等原理は選挙権の平等において最も徹底されなければならないからである。」
何故この様に解釈するのかについては、判例の起点となった51年判決に詳しい。諸君としては、必ずその原文をしっかりと参照して知識を正確なものとしておいて欲しい。簡単に説明してしまえば、選挙制度は、先に国民主権論の説明で述べたとおり、制限選挙から出発しており、参政権の歴史は、その制限の撤廃を求め、平等を求めるための努力の歴史だからである。その結果、44条但書は14条を排除したものでは無く、14条を特に確認したものにすぎないと理解する。
このように、14条1項が参政権についても適用になるとした結果、本判決は、次のように結論を下している。
「憲法は、国民主権の原理に基づき、両議院の議員の選挙において投票をすることによって国の政治に参加することができる権利を国民に対して固有の権利として保障しており、その趣旨を確たるものとするため、国民に対して投票をする機会を平等に保障しているものと解するのが相当である」
この文章は、最高裁判所が書いているからと言って、諸君として無条件に引用してはいけない。先に述べたとおり、公務員に関する選定・罷免の権利は、現行法制としては、国会議員の選挙権を除いては、国政レベルでは全く認められていないのである。例えば行政官僚や司法官僚を選挙する権利は日本国民にはなく、罷免、すなわちリコールする権利は国会議員についてすら認められていない。だから、15条は個々の国民の具体的権利を保障した規定ではなく、単に抽象的な理念を述べたものにすぎないと考えないと、現行法制は、ほとんど根こそぎ違憲と判断するべきことになる。
最高裁判所もそのことは承知していて、だからこそ下線部のような曖昧な表現を挟んで、その後の文章につなげているのである。しかし、諸君がこの様な横着な表現をそのまま借用すれば、自動的に落第答案と評価されることになる。きちんと平等権に基づく議論を展開して貰う必要がある。
ここから論文の書き方が大きく二つに分かれる。一つはこのまま平等権に関する審査基準論に入っていく方法で、今ひとつは判例のように立法裁量論に入っていく方法である。どちらの道を選んでくれても合格答案となる。諸君の基本書の考え方に応じて、決めてくれて良い。
平等権については、別途説明したところなので簡単に説明すると、まず平等原則論から合理的差別を引き出す。ついで通説的な単純例示説と、国家試験レベルの学者の間における通説とも言うべき特別意味説のどちらを採るかを選択したうえで、その選択理由を述べねばならない。単純例示説の場合、本問の場合には、三重の審査基準のうち、精神的自由権に準じる平等問題として、容易に厳格な審査基準を導けるであろう。これに対し、特別意味説の場合、列挙事項のどれに該当するのかはかなり難しい議論になる。個々でも基本書と相談の上、明確な理由を述べて欲しい。
三 立法裁量論
この節では、立法裁量論を採用した場合の論法を解説する。
(一) 狭い立法裁量かゼロへの収束か?
選挙権というものは、公職選挙法44条本文が述べているとおり、国会が法律という法形式で具体化して、始めて具体的権利性を有する。
そこで、次の段階の問題として、裁判所として、国会の有する立法裁量権をどの限度で尊重するべきか、という問題が生じる。これについては、諸君も知るとおり、広い立法裁量、狭い立法裁量、立法裁量のゼロへの収束という三通りの判例理論が存在している。
上記衆議院議員定数違憲判決において、最高裁判所は、次のとおり、いわゆる狭い立法裁量を適用した。
「具体的に決定された選挙区割と議員定数の配分の下における選挙人の投票価値の不平等が国会において通常考慮しうる諸般の要素をしんしやくしてもなお、一般的に合理性を有するものとはとうてい考えられない程度に達しているときは、もはや国会の合理的裁量の限界を超えているものと推定されるべきものであり、このような不平等を正当化すべき特段の理由が示されない限り、憲法違反と判断するほかはないというべきである。」
本判決でも、基本的にはその法理を継承しているようにみえる。すなわち、
「憲法の以上の趣旨にかんがみれば、〈中略〉国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず、国民の選挙権又はその行使を制限するためには、そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして、そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り、上記のやむを得ない事由があるとはいえず、このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは、憲法15条1項及び3項、43条1項並びに44条ただし書に違反するといわざるを得ない。また、このことは、国が国民の選挙権の行使を可能にするための所要の措置を執らないという不作為によって国民が選挙権を行使することができない場合についても、同様である。」
昭和51年判決と読み比べると、こちらの方が若干厳しいスタンスを採用しているが、基本的には同一であると思われる。最高裁判所は特に理由を示すことなく、このような結論を下しているが、諸君の答案では、理由が無ければ減点されること、常のとおりである。最高裁判所という神からのお告げがあった、というのは理由にならない。
ここでの最大の問題は、次の節で詳しくは説明するが、狭い立法裁量と考えた場合には、国家賠償は認められない、という点にある。国家賠償との関係を考えると、ここでは裁量権がゼロに収束していないと困るのである。そのあたりが、最高裁判所のこの書き方ではあまりはっきりしていない。ここをどう論述するかが、この点を論じる際の最大の論点である。工夫して欲しい。
(二) 事実認定論
問題となるのは、従来、そのような「選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難」という状況が、在外邦人について存在していたか否かである。この点については、本件判例は、「在外国民が実際に投票をすることを可能にするためには、我が国の在外公館の人的、物的態勢を整えるなどの所要の措置を執る必要があったが、その実現には克服しなければならない障害が少なくなかったためであると考えられる。」と簡単に承認している。このままだと、裁判所は立法裁量を尊重して終わりになる。
しかし、問題文にあるとおり、内閣は、昭和59年4月27日、「我が国の国際関係の緊密化に伴い、国外に居住する国民が増加しつつあることにかんがみ、これらの者について選挙権行使の機会を保障する必要がある」として、衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙全般についての在外選挙制度の創設を内容とする「公職選挙法の一部を改正する法律案」を第101回国会に提出した。私は、この内容を確認することができていないが、最高裁判決の表現からみて、おそらく平成10年の改正法よりも広範な内容であったと思われる。このような法案を行政の最高責任者である内閣が国会に提出したという事実は、上記問題点がその時点では消滅していたことを意味する。
しかし、同法律案は、その後第105回国会まで継続審査とされていたものの実質的な審議は行われず、同61年6月2日に衆議院が解散されたことにより廃案となった。その後、本件選挙が実施された平成8年10月20日までに、在外国民の選挙権の行使を可能にするための法律改正はされなかった。
このことから、最高裁判所は次のように述べる。
「世界各地に散在する多数の在外国民に選挙権の行使を認めるに当たり、公正な選挙の実施や候補者に関する情報の適正な伝達等に関して解決されるべき問題があったとしても、既に昭和59年の時点で、選挙の執行について責任を負う内閣がその解決が可能であることを前提に上記の法律案を国会に提出していることを考慮すると、同法律案が廃案となった後、国会が、10年以上の長きにわたって在外選挙制度を何ら創設しないまま放置し、本件選挙において在外国民が投票をすることを認めなかったことについては、やむを得ない事由があったとは到底いうことができない。そうすると、本件改正前の公職選挙法が、本件選挙当時、在外国民であった上告人らの投票を全く認めていなかったことは、憲法15条1項及び3項、43条1項並びに44条ただし書に違反するものであったというべきである。」
何時も言うとおり、諸君の答案では基本的に事実認定論は書く必要が無い。というより、正確な事実を把握していないのだから、書きようがない。しかし、本問の場合、問題文に紹介されている事実から、最高裁判所がここに認定したことまでは言うことが可能である。それが問題文に、この点の記述をくどくどと書き込んだ理由である。
四 国家賠償請求について
(一) 立法の不作為と国家賠償
国会議員の立法行為又は立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法となるかどうかについては、従来、在宅投票事件において、最高裁判所は次のように判決していた。
「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合でない限り、国家賠償法1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」
(最高裁昭和60年11月21日判決=百選第5版438頁参照)
したがって、本問で次に問題になるのは、これをどの限度で変更するべきだと論じるか、或いはこの厳しい条件をクリアして、同判決にいう「容易に想定し難いような例外的な場合」に該当していると考えられるか、という点である。いずれかが言えない限り、国家賠償請求を肯定することはできない。
本件判決は、先に述べた法改正に必要な期間を10年以上も徒過していたことを根拠に、在宅投票判例を基本的に維持しつつ、次のように述べる。
「在外国民であった上告人らも国政選挙において投票をする機会を与えられることを憲法上保障されていたのであり、この権利行使の機会を確保するためには、在外選挙制度を設けるなどの立法措置を執ることが必要不可欠であったにもかかわらず、前記事実関係によれば、昭和59年に在外国民の投票を可能にするための法律案が閣議決定されて国会に提出されたものの、同法律案が廃案となった後本件選挙の実施に至るまで10年以上の長きにわたって何らの立法措置も執られなかったのであるから、このような著しい不作為は上記の例外的な場合に当たり、このような場合においては、過失の存在を否定することはできない。このような立法不作為の結果、上告人らは本件選挙において投票をすることができず、これによる精神的苦痛を被ったものというべきである。したがって、本件においては、上記の違法な立法不作為を理由とする国家賠償請求はこれを認容すべきである。」
この判決は、少々言葉足らずで、判例変更をしたのか、あるいは「容易に想定し難いような例外的な場合に該当する、といったのか、よく判らないものになっている。
この点については、地方裁判所判決ではあるが、熊本ハンセン病事件熊本地裁平成13年5月11日判決が存在している。同判決は、在宅投票事件判決を基本的に維持しつつ、その容易に想定し難いような例外的な場合がどのようなメカニズムから肯定されるかについて、きちんとした説明をした。それが次の文章である。
「ある法律が違憲であっても、直ちに、これを制定した国会議員の立法行為ないしこれを改廃しなかった国会議員の立法不作為が国家賠償法上違法となるものではない。〈中略〉しかしながら、右の最高裁昭和60年11月21日判決は、もともと立法裁量にゆだねられているところの国会議員の選挙の投票方法に関するものであり、患者の隔離という他に比類のないような極めて重大な自由の制限を課する新法の隔離規定に関する本件とは、全く事案を異にする。右判決は、その論拠として、議会制民主主義や多数決原理を挙げるが、新法の隔離規定は、少数者であるハンセン病患者の犠牲の下に、多数者である一般国民の利益を擁護しようとするものであり、その適否を多数決原理にゆだねることには、もともと少数者の人権保障を脅かしかねない危険性が内在されているのであって、右論拠は、本件に全く同じように妥当するとはいえない。」(紙幅の関係から大きく略している。是非原文を読むようにしてほしい。)
すなわち、ここでは、国会の立法裁量権を、憲法学的にみて、裁判所として尊重する必要があるか否かが、原則となるか、例外となるかの分岐点にあたると述べているのである。
広狭はともかく、裁判所として国会の裁量権を尊重しなければならない場合には、裁判所として確定的な違憲判決を出すことはできない。そこで、昭和51年衆議院議員定数不均衡事件のように事情判決という手法が採られることになる。仮に、そのような類型の訴訟が、通常訴訟の形態ではなく、国家賠償請求という形で提起された場合には、賠償判決をする訳にはいかない。
それに対し、裁量権がゼロに収束している場合には、確定判決を下すことができる。それが国家賠償請求という形態で行われていれば、賠償を命ずる判決が可能となる。これが、ハンセン病事件熊本地裁判決の論理である。
それを本問について当てはめるならば、在外邦人の場合には、選挙権を全面的に奪われているのであって、決して単なる投票方法に関する裁量の問題ではない、という点において、裁量権がゼロに収束しており、裁判所として損害賠償を許容しうる例外的な場合に該当すると理解することができる。
(二) 国家賠償の可否
違憲として確定的に認容するのが妥当であるという議論から、直ちに精神的慰謝料の支給を行うべきであるという議論は直ちにはつながらない。本件判決の少数意見で、泉徳治判事は次のように指摘する。
「一般論としては、憲法で保障された基本的権利の行使が立法作用によって妨げられている場合に、国家賠償請求訴訟によって、間接的に立法作用の適憲的な是正を図るという途も、より適切な権利回復のための方法が他にない場合に備えて残しておくべきであると考える。また、当該権利の性質及び当該権利侵害の態様により、特定の範囲の国民に特別の損害が生じているというような場合には、国家賠償請求訴訟が権利回復の方法としてより適切であるといえよう。
しかしながら、本件で問題とされている選挙権の行使に関していえば、選挙権が基本的人権の一つである参政権の行使という意味において個人的権利であることは疑いないものの、両議院の議員という国家の機関を選定する公務に集団的に参加するという公務的性格も有しており、純粋な個人的権利とは異なった側面を持っている。しかも、立法の不備により本件選挙で投票をすることができなかった上告人らの精神的苦痛は、数十万人に及ぶ在外国民に共通のものであり、個別性の薄いものである。したがって、上告人らの精神的苦痛は、金銭で評価することが困難であり、金銭賠償になじまないものといわざるを得ない。英米には、憲法で保障された権利が侵害された場合に、実際の損害がなくても名目的損害(nominal damages)の賠償を認める制度があるが、我が国の国家賠償法は名目的損害賠償の制度を採用していないから、上告人らに生じた実際の損害を認定する必要があるところ、それが困難なのである。
そして、上告人らの上記精神的苦痛に対し金銭賠償をすべきものとすれば、議員定数の配分の不均衡により投票価値において差別を受けている過小代表区の選挙人にもなにがしかの金銭賠償をすべきことになるが、その精神的苦痛を金銭で評価するのが困難である上に、賠償の対象となる選挙人が膨大な数に上り、賠償の対象となる選挙人と、賠償の財源である税の負担者とが、かなりの部分で重なり合うことに照らすと、上記のような精神的苦痛はそもそも金銭賠償になじまず、国家賠償法が賠償の対象として想定するところではないといわざるを得ない。金銭賠償による救済は、国民に違和感を与え、その支持を得ることができないであろう。
当裁判所は、投票価値の不平等是正については、つとに、公職選挙法204条の選挙の効力に関する訴訟で救済するという途を開き、本件で求められている在外国民に対する選挙権行使の保障についても、今回、上告人らの提起した予備的確認請求訴訟で取り上げることになった。このような裁判による救済の途が開かれている限り、あえて金銭賠償を認容する必要もない。」
これに対しては、福田博判事が補足意見で次のように反論している。
「第1は、在外国民の選挙権の剥奪又は制限が憲法に違反するという判決で被益するのは、現在も国外に居住し、又は滞在する人々であり、選挙後帰国してしまった人々に対しては、心情的満足感を除けば、金銭賠償しか救済の途がないという事実である。上告人の中には、このような人が現に存在するのであり、やはりそのような人々のことも考えて金銭賠償による救済を行わざるを得ない。
第2は、-この点は第1の点と等しく、又はより重要であるが-国会又は国会議員が作為又は不作為により国民の選挙権の行使を妨げたことについて支払われる賠償金は、結局のところ、国民の税金から支払われるという事実である。代表民主制の根幹を成す選挙権の行使が国会又は国会議員の行為によって妨げられると、その償いに国民の税金が使われるということを国民に広く知らしめる点で、賠償金の支払は、額の多寡にかかわらず、大きな意味を持つというべきである。」
泉判事の指摘を妥当と評価するか、それとも福田判事の反論を適切と評価するかは、諸君の価値観で決まることで、理論的に決定できることではないと思われる。好きな方を採用してくれて構わない。しかし、この点に触れずに通り過ぎることは許されない。
とにかく、最高裁判所判事の多数は、福田判事の議論を是としたことから、本判決で最高裁判所は、損害賠償として各人に対し慰謝料5000円の支払を命ずるのが相当であるとしたのである。
五 違法確認の訴えについて
本問で、あえて設問から切り落とした違法確認の訴えについて出題された場合に備えて、以下、簡単に説明しておく。
立法の不作為に関して争う方法は、先にも簡単に述べたが、大きく分けて三つ存在する。
第一は、通常訴訟の一環としてそれを争う方法で、例えば選挙訴訟の一環として、立法の不作為を争った衆議院議員定数違憲訴訟は、その典型である。
第二は、本問に現れた国家賠償訴訟の形でそれを争うことで、ハンセン病事件熊本地裁判決は、その典型であり、本件訴訟もまたその一つとなった。
第三は、直接にその不作為の違憲・無効の確認を求める事である。これは結局、抽象的に立法の違憲の確認を裁判所に求めることを意味するので、一般に、訴訟の要件として具体的事件性を求める限り不可能とされてきた。
本事件で、本問から切り落とした部分は、まさにこの第3の類型にチャレンジしたものである。そして、本件判決においても、そのような訴訟は不可能という判断は基本的に維持された。
第一に問題になったのが、過去の違法確認の訴えである。
「本件改正前の公職選挙法が上告人らに衆議院議員の選挙及び参議院議員の選挙における選挙権の行使を認めていない点において違法であることの確認を求める訴えは、過去の法律関係の確認を求めるものであり、この確認を求めることが現に存する法律上の紛争の直接かつ抜本的な解決のために適切かつ必要な場合であるとはいえないから、確認の利益が認められず、不適法である。」
第二に、しかし、本件の予備的確認請求に係る訴えについては、異なる判断を下した点に、本件判決の非常に大きな特徴がある。従来の考え方を踏襲する限り、これについても結論は代わらないはずなのである。実際、第1審判決は次のように述べて退けている。
「原告らが主張する違法状態を解消するには立法措置によるほかないと考えられるところ、仮に、本件訴えを認容する判決がされたとしても、行政事件訴訟法41条1項が準用する同法33条1項は、右のような立法上の措置をとることを関係行政庁又は立法府に義務付けるものではないから、右判決は、関係行政庁及び立法府に対し何ら法律上の義務を負わせる効力を有しない。[改行]したがって、本件各違法確認請求に係る訴えは確認の利益を欠くものというべきである。」
しかし、この点に関して、最高裁判所は全く新しい判断を示した。すなわち、
「選挙権は、これを行使することができなければ意味がないものといわざるを得ず、侵害を受けた後に争うことによっては権利行使の実質を回復することができない性質のものであるから、その権利の重要性にかんがみると、具体的な選挙につき選挙権を行使する権利の有無につき争いがある場合にこれを有することの確認を求める訴えについては、それが有効適切な手段であると認められる限り、確認の利益を肯定すべきものである。そして、本件の予備的確認請求に係る訴えは、公法上の法律関係に関する確認の訴えとして、上記の内容に照らし、確認の利益を肯定することができるものに当たるというべきである。なお、この訴えが法律上の争訟に当たることは論をまたない。
そうすると、本件の予備的確認請求に係る訴えについては、引き続き在外国民である同上告人らが、次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において、在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあることの確認を請求する趣旨のものとして適法な訴えということができる。
そこで、本件の予備的確認請求の当否について検討するに、前記のとおり、公職選挙法附則8項の規定のうち、在外選挙制度の対象となる選挙を当分の間両議院の比例代表選出議員の選挙に限定する部分は、憲法15条1項及び3項、43条1項並びに44条ただし書に違反するもので無効であって、上告人らは、次回の衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙及び参議院議員の通常選挙における選挙区選出議員の選挙において、在外選挙人名簿に登録されていることに基づいて投票をすることができる地位にあるというべきであるから、本件の予備的確認請求は理由があり、更に弁論をするまでもなく、これを認容すべきものである。」
これは、新しい一つの方向付けであり、今後、慎重にその射程を検討する必要があると考えられる。これは、一種の絶対的将来効判決でもある。