事前抑制禁止の原則

甲斐素直

問題

 Xは、A県にあるB市の市長を務めていたが、ある年の4月に行われるA県知事選挙に出馬する決意を固めていた。これに対して、Yは、Xは県知事としてふさわしくない人物と考えたので、自らが発行する月刊雑誌の同年2月号に、Xの出馬に反対する特集を組むこととした。その記事の中で、Yは、Xが市長在任中に収賄するなどの違法行為を行ったとか、Xが人格的に下劣な人物であるという記述を、具体的事実を摘示する形で行った。その雑誌が発行される前に、その記事の内容を知ったXは、雑誌の発行の差し止めを求める仮処分を裁判所に請求した。

 この事件で、裁判所が仮処分請求を認めるべきか否かを決定するに当たり、憲法上問題となる点を指摘し、論ぜよ。

(2004年日本大学法科大学院入試問題)

[はじめに]

 問題を読めば判るとおり、北方ジャーナル事件(最高裁判所大法廷昭和61611日判決)の事実関係を単純に問題化したものである。一部変更した点もあるが、それは、事案を平易化し、答えやすくするためであって、それ以上の狙いはない。したがって、書くべき内容は基本的には北方ジャーナル事件の判決で言われていることだから、かなり易しい問題のはずである。その上、既に憲法ゼミナール読本にレジュメを収録してあるので、解説も既に手元にあるはずである。その意味では、ふだんより良い答案を期待していた。出てきた限りではポイントを完全に外している、という人はいなかったが、残念ながらそのレベルに止まり、合格答案には、今ひとつ届いていなかった。

 その最大の原因は、本問を表現の自由の問題と考えてしまった点にある。憲法ゼミナール読本を見れば、この問題が精神的自由権ではなく、憲法訴訟論の中の合憲性判定基準論に収録してあることが判ったはずである。

 憲法訴訟論、すなわち手続法の問題の難しさは、実体的真実とは違うレベルで議論しなければならない、という点にある。特に本問の場合、仮処分事件である。つまり、裁判所は、最後まで実体的真実は何かということは把握しないままに、決定を下すという事案なのである。だから、実体的真実が判っているような書き方をすれば、それだけで誤った答案となる。

 また、本問は合憲性判定基準論である。その難しさは、判定基準そのものは、理論的に導かれるのではなく、裁判所が定立した基準に過ぎないという点にある。それを完全に理論的に導かれるかのように書いては誤った答案と評価されるし、逆に単に判例を紹介しただけで終わりにし、何の理論的根拠も与えなければ、そもそも論文にはならない。裁判所の定立した基準にどの限度で理論的根拠を与えるか。その点の書き方に難しさがある。

 第二の原因は、問題の要求をきちんと把握していない点にある。問題を見たら、まず、それはいったい何を論ずることを求めているのか、ということをしっかりと読み取る努力をして欲しい。問題文は「裁判所が仮処分請求を認めるべきか否かを決定するに当たり、憲法上問題となる点を指摘し、論ぜよ」と述べている。普通であれば、事例問題に付く問題文は「この事例に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ」という表現である。どこが違うか判るだろうか。つまり、本問では、事例に含まれるあらゆる憲法上の問題ではなく、裁判所が仮処分を下すべきか否か決定するに当たり問題となる点だけに論点を限定しているのである。それ以外の事項は、事案自体から論点が出てきても、書く必要はない。

 繰り返すが、本問は、憲法訴訟論の問題である。憲法の実体法上の論点は、それが憲法訴訟論に関わりがある限度で論じれば足りる、ということが、この設問の立て方で判るのである。

 第三に、より重要なのが、「仮処分」を行うに当たって裁判所が配慮すべきことを尋ねている、ということである。ここからは、単に事前抑制ということさえ読み取ればよい、というものではない。この言葉について、補足して説明する。

 仮処分に代表される保全命令は、直接には「民事保全法」という法律の定めるところであり、現実の事件ではきわめて多用されるので、実務法曹を目指す諸君としては是非とも知っていなければならない法律である。その手続きの重要な原則を上げると、その裁判では、口頭弁論を行うかどうかは裁判所の任意である(同法3条)。また、仮処分の必要性は原則として証明ではなく、「疎明」で足りる(同法132項)。つまり、仮処分を決定するに当たって、裁判所が考慮しなければならないポイントは、原則に従って口頭弁論を行うことなく、当事者一方の疎明だけで決定を下して良いか、それとも例外的に、口頭弁論を行い、かつ(または)必要性の証明を求めるべき事案なのかという点なのである。

 なお、事前抑制には主体が裁判所になる場合と行政庁になる場合がある。両者では全く理論構造が違ってくる。例えば、検閲の問題も、行政庁が主体の場合には一つの独立した論点として論じなければならない。しかし、本問の場合、事前抑制の主体は裁判所である。したがって、検閲の主体を公権力一般と考える芦部説のような見解を採ればともかく、通説判例に従って検閲の主体を行政権に限定して考える場合には、検閲に本格的に論及する必要はない。つまり、それを独立した論点として大きな紙幅を割いて論じるのは間違いである。しかし、こう述べたからといって、検閲のことを度外視して書いて良いと理解してはならない。例えば「表現の自由は、絶対的な保障を受けるというものではない」などと無神経に書いてしまうと、その段階で落第評価になりかねない。検閲は絶対保障という税関検査事件最高裁判所判決とこれを支持する通説を無視した議論だからである。そして、検閲も、事前抑制の一類型である。つまり、検閲を除外した狭義の事前抑制に関しては、検閲との対比で、相対保障にとどまるから、例外的に事前抑制が肯定される場合がある、と論じることが合格答案のための絶対的なポイントなのである。

一 表現の自由

 冒頭に述べたように、本問は基本的に憲法訴訟論がテーマであるから、表現の自由に論及しなければならないが、それはあくまでも憲法訴訟論、特に二重の基準論を引き出すための導入部という意義があるだけであるから、あまり詳しく書く必要はない。

 表現の自由という理念の重要性は、次の二つの価値であるとするのが通説的な理解である。すなわち、第1に個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるとする個人的な価値(自己確立)であり、第2に言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという社会的価値(自己統治)である。何らかの形でこの二つに論及してくれれば、本問の場合にはそれで十分である。これを導くために、人格的自律説から説き起こす必要はない。もちろん書けば評価するが、落としたからといって減点するような論点ではない。



二 二重の基準

 憲法訴訟論として表現の自由を云々する最大の理由は、二重の基準論を引き出すためである。本問で、二重の基準に論及しないのは、その意味で、相当大きな減点要素と理解して欲しい。二重の基準は、典型的には次のように説明される。

「二重の基準の理論は、元々アメリカ合衆国の1938年の判例で確立した理論ですが、その内容、中身を簡単に言えば、
①精神活動の自由の規制:厳しい基準によって合憲性を審査する。
②経済活動の自由の規制:立法府の裁量を尊重し緩やかな基準で合憲性を審査する。
こういう考え方であります。」

(芦部『憲法判例を読む』岩波セミナーブックス98頁)

 換言すれば、自由権のうち、精神的自由権については司法積極主義を認め、経済的自由権については司法消極主義を妥当とする考え方のことである。

 その根拠は、司法と民主政の関わりの中で、司法審査の外延を決定するべきだという考え方に求めることができる。すなわち、

「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」

(芦部信喜『憲法学Ⅱ』有斐閣、218頁)

 本問で問題になっているのは、精神的自由権としての表現の自由だけだから、経済的自由権に関する言及はしなくて良い。言及しても減点するということはないが、加点要素とならない以上、書かないことで、紙幅と時間を節約するのが、国家試験に当たっての正しい答案構成といえるであろう。

 なお、受験予備校などの模範答案だと、上述した投票箱の論理ではなく、単純に精神的自由権がより尊重されるべき権利だから、という式の理由付けをする例が多い。実体法レベルにおいて、精神的自由権が経済的自由権に優越する高次の権利であると考える学説があることは事実であるが、しかし、憲法訴訟の問題では、それは根拠にならないことだけは理解しておいて欲しい。なぜなら、ここで要求されているのは、裁判所が、民主主義的正当性ではより高い地位を持つ国会や内閣を押しのけて、司法積極主義を採る理由だからである。実体法的に精神的自由権の方が民主主義的に高次の権利であることを主張することは、その論理の限りでは、国会等の意見をより尊重するべき根拠にはなっても(例えば統治行為論参照)、その逆の根拠には絶対にならないのである。

 なお、今ひとつ気をつけて書くべきことがある。先に引用した芦部信喜の見解は、あくまでも違憲立法審査にあたっての基準である。ところが、本問は名誉毀損という事実行為が問題になっている。その場合になぜ立法審査の基準が使用できるのか。これはかなり難しい問題なので、諸君の答案レベルでは、上記芦部信喜の引用文から立法という言葉を外した形で議論をしておくのが無難である。とにかく、ここまでは、論文としては導入部であるから、この段階までは、触れないわけにはいかない、というレベルであって、くどい議論をするのは間違いである。次のところからが議論の中心となる。



三 事前抑制禁止の原則

 二重の基準論は、裁判所に対して、精神的自由権に関して、司法積極主義を採り、より厳格度を増した審査を要求しているだけで、特定の基準を求めているわけではない。一般的には、ここから、より厳格度を増した審査の基準として、「厳格な審査基準」を導く方向に議論を走らせるのである。しかし、本問の場合には、表現の自由の問題であるために、より厳格度を増した審査の一形態として、事前抑制禁止の原則を導く点が特徴になる。

 表現の自由を国家が抑制する場合、それが事後的に行われるか事前に行われるかにより、制限の度合いが違い、事前抑制(prior restraint,or previous restraint)の場合には、厳しい制限が必要との理論が米国の憲法訴訟に関する判例法の上で発達している。同じ表現の自由の不当な行使であるにも関わらず、なぜ事後抑制に比べて、事前抑制についてはより厳しい制約が課せられるのであろうか。これが本問の第一の論点である。憲法判例百選(第5150頁)は、この肝心の理由を、北方ジャーナル事件(から引用していない。そのために、原判決を読む手間を掛けていない人にとっては、この理由付けは難問になった。同判決において、最高裁は次のようにこの点を説明する。

「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑止してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合よりも広汎にわたり易く、濫用の虞があるうえ、実際上の抑止的効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであつて、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない。」

 ここで上げられている三つの理由は、いずれも事前抑制が禁止される重要な理由であり、論文を書く場合に漏らしてはいけない。こうして、211項から事前抑制禁止の原則が導かれるのである。

 この、表現の自由に関して、なぜ事前と事後を分けるのか、という論点を全く気にしなかった場合には、当然積極的な減点要素となる。この問題を日大ロースクールの入学試験で出題した際には、そこでなんと書こうという努力が見られた人が結構いた。そういう姿勢を示しただけでも、評価は高くなる。

 その中で、一番多かったのが、事前抑制の場合には萎縮効果がある、という説明をした例である。しかし、萎縮効果は事後抑制の場合にもある。事後に名誉毀損として訴えられる可能性があるだけで、たいていの人には大きな負担となり、萎縮する。ところが、事前抑制禁止の原則は、事前と事後では、問題の性質が質的に違うといっているのである。したがって、その萎縮効果がその根拠となるというためには、事後抑制の場合とは質的に違う遙かに大きな萎縮効果が事前抑制の場合には生ずる、という議論までを展開できない限り、この原則の根拠とはならないのである。その意味で、萎縮効果という記述は、理由を付そうとしたという姿勢の評価はともかく、それ以上の積極的な加点をできるような理由とはならないのである。



四 検閲について

 冒頭に述べたとおり、本問の場合には、通説・判例の立場を取るときには、検閲について論及する必要はない。しかし、もし触れる場合には、答案構成的には、事前抑制禁止について説明した直後のこの位置以外にはあり得ない。なぜなら、検閲は、それをどう概念把握するかにもよるが、基本的に事前抑制の一形態だからであり、したがって検閲の議論に入る前に、211項の解釈として、事前抑制禁止の原則が存在しているということを述べておく必要があるからである。

 通説・判例がとる、行政権に主体を限定する、という説の場合には、普通、次の三つの根拠をあげる。

 第一に、形式的根拠として、事前抑制禁止の原則であれば、上述のとおり1項で読めるのに、あえて2項が定められている以上、事前抑制禁止の原則とは異なる概念と考えるのが妥当なことである。

 第二に、事前抑制禁止の原則は米国判例法が発達させた概念で、司法権も含む公権力を主体としているのに対して、検閲は欧州法に由来するもので行政権を主体とするものをもっぱら意味していたというように、継受法に違いがある、という点である。

 第三に、戦前のわが国で、歴史的に欧州法的に、行政権を主体にする場合に限定して検閲の語が使用されていた、という点である。

 本問の場合には、検閲に触れるにしても、司法権との関係だけを論じればよいから、原則的には、この段階で議論を打ち切って良い。

これに対して、芦部説を基本書にしている人の場合には、検閲の主体を、司法権を含めた公権力一般と理解する。なぜなのか、基本書をよく読み込んで論文中に書き込まねば、その段階で落第答案となる。しっかりと検閲に関する議論を行う必要があり、しかも2項を、1項の事前抑制禁止の原則の注意規定ないし確認規定と説明する必要までが生ずる。この場合には、行政権に対しては絶対禁止、司法権に対しては相対的禁止というところまで、きちんと根拠を上げて議論する必要があるから、論文を書く上でかなり負担が大きい。試験技術的には、判例・通説でも論文を書けるように用意する方が、賢い対策といえそうである。

 また、定義というものは常にその根拠が必要であることを覚えておいて欲しい。全く根拠を示さず、自分勝手な定義を示している人が多かったが、それは減点の対象である。検閲を、行政権が主体の場合に限る、という説を採った場合には、細部についてどんな定義を採ろうと関係ない。そういう時に、定義をどうしても示したいと思ったら、判例の定義を引用する、という形式を採るのが、一番定義の根拠説明が単純でよい。参考までに、税関検査事件で最高裁判所が示した定義を紹介しておく。

「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部または一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき、網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すものと解すべきである。」

(最高裁昭和50910日判決=百選〔第5版〕152頁参照)

 しかし、どういうスタンスでこの定義を引用しているのかは、必ず書き込まねばならない。そうでないと、単純にこれを自説としていると評価されてしまうからである。



五 名誉権と公共の福祉

(一) 問題の所在

 最高裁判所は、北方ジャーナル事件で、事前抑制禁止の原則の第一の要件である実体的要件について次のように述べた。

「その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であつて、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかであるうえ、有効適切な救済方法としての差止めの必要性も肯定されるから、かかる実体的要件を具備するときに限つて、例外的に事前差止めが許される」。

 この引用部分は、このとおり正確に引用してくれる必要がある。問題は、全問の中心というべきこの重要な論点に、最高裁判所は全く理由を付してくれていないことである。だから、この点について、自分で理由を付さないと、本質的に論文にはならない。

 では、上述の最高裁判所の要件は、どのような過程を経て導かれてくるのだろうか。実はここで、人権の本質論を論じなければならない。名誉権に関して論じるに当たっては、人権の本質論が必要である。すなわち、13条の解釈論として、おそらく諸君は人格的自律説をとるはずである。その議論を、単に名誉権の人権性を論ずるにとどめず、人権抑制の原理としての「公共の福祉」の本質論につながることが、合格答案のポイントとなる。以下、簡単に、上記要件にいたる論理の流れを説明しよう。


(二) 公共の福祉
 
 13条は、公共の福祉が人権を抑制しうることを予定しているが、公共の福祉がどのような概念なのかについては定義を与えていない。それについては、当初、例えば美濃部達吉の外在的一元論、法学協会の内外二元論などが登場したが、やがて通説の地位を確立したのが、宮沢俊義の内在的一元論である。それによれば、公共の福祉とは、人権と人権の衝突の場面における調整原理である、と考える(宮沢『憲法Ⅱ』224頁以下参照)。例えば、我々が他人を殺すことが許されないのは、殺される人の人権を侵害するので、その限度で我々の行動の自由が抑制されるからと説明する。宮沢俊義がこのように考えたのは、彼が人権の本質を、人が人たるが故に当然認められるものと考えたからである。

 しかし、その後の学説は、こうした宮沢流の素朴な人権観を排除し、人権の本質を人格的自律に求めることになる。人格的自律に役立つものだけが人権として尊重される以上、例えば、殺人の自由や窃盗の自由のような、犯罪を行う自由は、そもそも人権と考える余地がないはずである。このように考えるのが、近時の通説と理解できる。

 このことを表現の自由に適用すれば、人はそもそも他人の名誉やプライバシーを侵害する表現の自由を持たない。すなわち人の悪口を言う自由や人の他人に知られたくない事柄について噂話をする自由は、道徳のレベルにおいて考えることができない以上、法的権利のレベルにおいて考えることももちろんできないのである。名誉毀損やプライバシーに関する判例も同じ見解で、例えばノンフィクション「逆転」事件や「石に泳ぐ魚」事件における判決では、名誉毀損やプライバシーが成立するという認定を行えば、それ以上、表現の自由一般についての比較考量を行うことなく、直ちに損害賠償を命じており、芸術的価値さえも比較考量の対象からは度外視されている。

 要するに、事後的規制の場合には、名誉権等と表現の自由は、等価的比較考量の対象にはならず、原則として名誉権等が優越することが判る。この場合、例外的に、表現の自由が認められる場合がいくつかある。本問と密接な関係があるのは、月刊ペン事件における次の判決である。

「私人の私生活上の行状であっても、その携わる社会的活動の性質及びこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会活動に対する批判ないし評価の一資料として、刑法230条の21項にいう『公共の利害に関する事実』にあたる場合があると解すべきである。」

雑誌『月刊ペン』事件(最判昭和56416日=百選〔第5版〕144頁参照)

 つまり、本問において示した事件は、Yの摘示した具体的な事実が真実であれば、Xが市長という公的地位を持ち、近い将来に県知事選に出馬しようとしているだけに、例外として、表現の自由の優越が認められる可能性が高いのである(北方ジャーナル事件では、Xは元市長であったが、公共の利害への関連性をより明確にするために、本問では現職に変えている)。

 そして、事後抑制、つまり名誉毀損があったと裁判所に訴えて損害賠償等を求める裁判の場合には、裁判所は事実関係を調べ、その事件でプライバシー権や名誉権が成立しているか否かの事実を明確に確認し、成立していれば、表現の自由については考慮すること無く、名誉権等の侵害という判断を下す。

 ところが、事前抑制、すなわち本問であれば、仮処分の場合には、そもそもその様な事実調べそのものを裁判所は行っていない。したがって、表現の自由が認められる問題なのか、認められない問題なのかは、仮処分を下す時点では正確には判っていないのである。そうなると、二重の基準論から導かれる表現の自由に対する抑制への違憲性推定から、原則的に事前抑制は禁止するという結論が導かれるのである。

 これを逆に言うと、事前抑制禁止原則の例外として、事前抑制が認められるには、第一に、ここであげた例外要件が存在していないことが明白であることが必要である。先に引用した判例の最初の要件である「その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であ」る必要は、こうして導かれることになる。簡単に言えば、事後的には、名誉毀損が成立し、事後抑制が肯定されることが確実なことが、事前にかなりの確率で推定できることが、事前抑制を肯定するための第一の条件なのである。その理由を、判決は「当該表現行為はその価値が被害者の名誉に劣後することが明らかである」という簡潔な表現で述べている。

 しかし、先に引用した事前抑制禁止原則の根拠からすれば、このような名誉毀損的な表現行為であっても、いったんは言論の自由市場に到達させ、公の批判の機会を確保することが要請される。したがって、名誉毀損が成立することが確実な場合であっても、事後的に抑制するだけで被害を回復することが可能であれば、事前抑制は依然として禁止されることになる。それが、判決が求めた第二の要件である「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるとき」が導かれる根拠である。

 なお、先に述べたとおり、事前抑制禁止の原則は、米国の判例法が開発した法理であるが、そこでは、この緊急性の要件は次のように定式化されている。

ア 事前に公表されたならば害悪が生ずることが異例なほど明白(unusual clarity)である場合、あるいは 
イ 事前抑制によって阻止しようとする損害が回復不可能(irreparable)なものである場合

 これと、本件最高裁判所判決を比較してみると、このアとイを「かつ」すなわちandで結んだ形になっていて、or、すなわちどちらか一方だけを充足させれば足りるとする米国判例法に比べて要件が厳しくなっている。しかし、これは北方ジャーナル事件がもっている次に述べる特殊性からきた特別の要件であって、一般的には米国法と同じく、どちらか一方だけでも十分と考えて良いであろう。

 なお、名誉毀損である、ということから直ちに重大性ないし回復困難性を肯定する、という記述を行うことは、減点対象になるような積極的な間違いである。民法723条及び刑法230条は、いずれも名誉毀損事件が発生した後に、損害賠償、謝罪広告、あるいは刑罰により名誉毀損の原状回復は可能と考えて立法されていることは明らかだからである。本問の場合、重大性ないし回復困難性は、選挙のわずか2ヶ月前というきわどい時点で名誉毀損がなされた点に求められる。すなわち、その名誉毀損を選挙民が信用するような事態が発生すれば、その短い期間にその事実を否定することは困難で、その結果、それが原因となって落選するという重大かつ事後の謝罪広告などでは絶対に回復不可能な損害が発生するからである。



六 手続き的保障

(一) 原則

 手続き的保障(due process of law)が裁判手続きにも適用になることは、古くは第3者没収違憲判決(最大昭和371128日=百選〔第5版〕250頁)が次のように明言しているところである。

  「第三者の所有物を没収する場合において、その没収に関して当該所有者に対し何ら告知、弁解、防禦の機会を与えることなく、その所有権を奪うことは、著しく不合理であつて、憲法の容認しないところであるといわなければならない。」

 したがって、事前抑制禁止の原則の例外というような、表現の自由保障の大きな例外となる事案において、この手続き保障が必要とされるのは明らかであろう。それは、仮処分事件の場合、冒頭に指摘した口頭弁論を要するか、あるいは疎明で足りるか、という形で現れる。北方ジャーナル事件判決は、この点について次のように述べている。

「表現行為に対し、その事前差止めを仮処分手続によつて求める場合に、一般の仮処分命令手続のように、専ら迅速な処理を旨とし、口頭弁論ないし債務者の審尋を必要的とせず、立証についても疎明で足りるものとすることは、表現の自由を確保するうえで、その手続的保障として十分であるとはいえず、しかもこの場合、表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることとの立証にあるのであるから、事実差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である。」

 非常に簡明な、わかりやすい説明と思う。通常の答案としてはここまで書いてくれれば十分と想定していた。

 なお、Yが摘示した事実が真実という前提で論文を書いている人もいた。しかし、問題文のどこにもそんなことは書いていない。ここに述べたように、先に示した実体3要件が存在しているか否かかが不明な状況の中で、裁判所として、Xに対して、それらの要件の存在の証明を要求するべきなのか、それとも疎明を求めれば足りると考えるべきなのか、ということが本問の論点である。したがって、真実性等を仮定するのは、むしろ積極的な間違いということになる。


(二) 例外=北方ジャーナル事件の特殊性

 本問の場合には、以下の点は問題文には書かれていないので、記述する必要は無い。書いていた人がいたが、余計な記述で、おそらく減点はされないだろうが、加点も普通であれば期待できない(全体が低水準の場合には、正しく記述していれば加点の可能性はあるが)のでその余力を上述した点に振り向けた方が、大きな加点を期待できる。

 しかし、忠実に北方ジャーナル事件判決をなぞった問題もありうるので、以下に簡単に説明しておく。

 北方ジャーナル事件の場合には、仮処分を求められた地方裁判所は、ここで最高裁判所が必要と判断した厳格な手続きを行わず、通常の仮処分事件と同様に、債権者による疎明だけで仮処分決定を下してしまっていたのである。したがって、ここまでの論理だと、北方ジャーナル事件の場合、憲法31条違反の不適切な手続きにより仮処分がなされたとの結論を下さざるを得なくなり、したがって国家賠償の対象となってしまうのである。

 そこで、最高裁判所は、下級審の失態を救うべく、次のような補完的な論理を展開する。

「差止めの対象が公共の利害に関する事項についての表現行為である場合においても、口頭弁論を開き又は債務者の審尋を行うまでもなく、債権者の提出した資料によつて、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものではないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法21条の前示の趣旨に反するものということはできない。けだし、右のような要件を具備する場合に限つて無審尋の差止めが認められるとすれば、債務者に主張立証の機会を与えないことによる実害はないといえるからであり、また、一般に満足的仮処分の決定に対しては債務者は異議の申立てをするとともに当該仮処分の執行の停止を求めることもできると解されるから、表現行為者に対しても迅速な救済の途が残されているといえるのである。」

 すなわち、先に実体的要件として紹介した記述は、ここまで来ると、手続き的保障が不十分な場合における担当裁判所の救済を可能にするために、特に要件を加重したものだと読むことができる。それが先に述べた、北方ジャーナル事件の特殊性であり、したがって、ここであげられた実体要件が常にあらゆる事件で必要になる、と考えなくとも良い根拠である。手続き的保障まできちんとなされている場合には、重大性と回復困難性の二つの要件をandではなくorで結ぶことが日本においても許容されると考えるべきであろう。

 なお、この点に関して、憲法判例百選の148頁判旨は、この特殊な救済のための要件であることを説明することなく、いきなり「債権者の提出した資料によってその表現内容が前記の実体的要件を満たすと判断できるならば」手続き的保障は不要と読めるような要約の仕方をしている。これは、理論的には誤った記述であり、るが、憲法判例百選のそのような細かい記述までしっかりと記憶して記載したという努力を評価し、今回だけは加点要素とした。しかし、これはあくまでも、例外的な救済措置であり、本来ならば、諸君は、こうした重要な判例は百選などにおける要旨ではなく、判決原文を読んでいることを要求されるのだ、ということを理解して欲しい。