恵庭事件とブランダイスルール

甲斐素直

問題
 Xは、自衛隊が実弾演習をするため、その砲声に驚いて飼育する乳牛が乳を十分に出さなくなったのに腹を立て、XX1211日午後320分頃、北海道千歳郡恵庭町桜森陸上自衛隊島松演習場内の東南部附近に侵入し、実弾射撃演習の目的で設けられてあつた陸上自衛隊北部方面隊第1特科団第1特科群102大隊第2中隊の加農砲計2門の射撃陣地において同中隊が射撃命令伝達等のため、同中隊射撃指揮所と戦砲隊本部に1台宛設置した野外電話機に接続して両電話機間に敷設した長さ約4260cmの通信線をペンチを使用して数箇所で切断し、砲と射撃指揮所間の連絡を不可能に陥らせた。
 野戦砲の場合、砲の発射地点からは着弾点が見えない状態の下で、射撃指揮所が着弾地点を直接目視により観測し、電話で野戦砲に射撃方法の修正を指示することで、はじめて訓練としての意味が生ずる。その意味で、野戦砲と射撃指揮所を繋ぐ野戦電話線は、野戦砲の不可欠の一部ということができるとして、検察側は、Xを、自衛隊法121条「自衛隊の所有し、又は使用する武器、弾薬、航空機その他の防衛の用に供する物を損壊し、又は傷害した者は、五年以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する。」に該当するとして起訴し、刑法上の器物損壊罪については、これが自衛隊法121条と観念的競合にあたることから、起訴しなかった。
 Xは、これに対して、自衛隊法121条を含む自衛隊法全般ないし自衛隊等が憲法9条に違反し、したがって自衛隊法違反の点については無罪である旨を主張した。
 それに対し、裁判所は、次のように述べた。
「一般に、刑罰法規は、その構成要件の定め方において、できるかぎり、抽象的・多義的な表現を避け、その解釈、運用にあたつて、判断者の主観に左右されるおそれ(とくに、濫用のおそれ)のすくない明確な表現で規定されなければならないのが罪刑法定主義にもとづく強い要請である。その意味からすると、本件罰条にいわゆる『その他の防衛の用に供する物』という文言の意義・範囲を具体的に確定するにあたつては、同条に例示的に列挙されている『武器、弾薬、航空機』が解釈上重要な指標たる意味と法的機能をもつと解するのが相当である。すなわち、およそ、防衛の用に供する物と評価しうる可能性なり余地のあるすべての物件を、損傷行為の客体にとりあげていると考えるのは、とうてい妥当を欠くというべきである。
 そして、およそ、裁判所が一定の立法なりその他の国家行為について違憲審査権を行使しうるのは、具体的な法律上の争訟の裁判においてのみであるとともに、具体的争訟の裁判に必要な限度にかぎられることはいうまでもない。このことを、本件のごとき刑事事件にそくしていうならば、当該事件の裁判の主文の判断に直接かつ絶対必要なばあいにだけ、立法その他の国家行為の憲法適否に関する審査決定をなすべきことを意味する。
 したがつて、すでに説示したように、Xの行為について、自衛隊法121条の構成要件に該当しないとの結論に達した以上、もはや、X指摘の憲法問題に関し、なんらの判断をおこなう必要がないのみならず、これをおこなうべきでもないのである。」
 この裁判所の見解の憲法上の当否について論ぜよ。

[はじめに]
(一) ブランダイスルール
 被告人数を1人にするなど、事例を簡略化してあるが、その他の点では、恵庭事件札幌地裁判決(昭和42329日)の判決をそのまま紹介してある。
 事件と判決の内容について若干補足すると、電話線切断という明白な器物損壊にもかかわらず、検察側では、刑法の器物損壊罪では起訴せず、自衛隊法121条の防衛器物損壊罪のみで起訴した。両者は観念的競合になるから、防衛器物損壊罪が成立する限り、刑法の器物損壊罪で起訴する実益はない。防衛器物損壊罪が否定された場合にのみ、器物損壊罪でも起訴する実益が生ずることになる。野戦砲の場合、問題文中に明記したとおり、射撃指揮所が着弾地点を直接目視により観測し、電話で野戦砲に射撃方法の修正を指示することで、はじめて訓練としての意味が生ずる。その意味で、野戦砲と射撃指揮所を繋ぐ野戦電話線は、野戦砲の不可欠の一部ということができる。少なくとも検察側はその様に解釈した。しかし、裁判所は、例示されている『武器、弾薬、航空機』のいずれに類するものでもない、という理由から、電話線切断行為の防衛器物損壊罪の構成要件該当性を否定したのである。
 このように、法律の解釈段階で無罪という判断が下った場合に、その法律が合憲か違憲かを判断する必要があるか。これが本判決の最大の問題点である。そして、その場合の準則は、米国ブランダイス判事が、その判決意見中に整理したブランダイスルールの名で知られている。したがって、本問の論点は、この札幌地裁判決が、きちんとブランダイスルールに則っているか否かということになる。残念ながら、この最大の論点については、皆、スルーしてしまい、したがって合格答案に接近したものすらゼロという結果になってしまった。
(二) その他の論点について
 この論文は、まともに書くと極めて論点が多い。
 第一に、司法権の本質は何かという論点がある。憲法76条にいう司法権とはどのように定義するのが妥当かという問題である。現行憲法成立直後、警察予備隊事件判決の時代においては主観訴訟だけが司法権の内容だとされていた。実際、非訟事件や家事審判事件などを除く、本来の訴訟事件はすべて主観訴訟だったから、その考え方で何の問題も無かった。しかし、今日では住民訴訟、選挙訴訟、少数株主訴訟など数多くの客観訴訟が認められるようになってきており、その結果、客観訴訟は司法権に属するのか否かは重大な問題となってきた。
 第二に、裁判所の違憲審査権の根拠規定という問題がある。警察予備隊事件判決は、明確に憲法76条の司法権が違憲審査権の根拠だと述べた。これまた、客観訴訟の出現が大きな問題となる。仮に、客観訴訟は司法権には属さないと考えると、76条が違憲審査権の根拠とする場合、住民訴訟等では憲法判断は禁じられることになる。現実に、愛媛玉串訴訟や衆議院議員定数違憲訴訟が存在している今日、その結論は明らかに不都合である。そこで、上記第一の点と結びついて、司法権概念を拡張して客観訴訟も司法権概念に含ませようという説や、司法権概念は昔のままにとどめておいて、違憲審査権の根拠を76条では無く81条に求めようとする説などが激しく対立している。
 第三に、憲法審査は付随的憲法審査なのか否かという問題もある。今回論文を提出した諸君は、皆、何の疑問も持たずにそれを肯定していた。しかし、例えば文面審査という審査基準がある。この場合、裁判所は、その事件の解決と離れて法律の文言を抽象的に審査し、過度に広汎であったり、曖昧であった場合には、文面違憲判決を下すこととされている。このような論理が付随的憲法訴訟の論理から単純に引き出せるはずはない。したがって、付随的憲法訴訟とは何か、という事も真剣に検討する必要がある。
 これ等の論点は極めて複雑で、どう簡略化して書いても、かなりの紙幅を奪われることは避けられない。
 そこで思い出して欲しいのが、何時も教えている「論文は三角形に書く」と言うことである。先に述べたとおり、本問の中心論点はブランダイスルールである。これが三角形の底辺というべき、一番多くの記述をするべき点である。上述の論点に言及してしまうと三角形どころか、試験で許された紙幅と時間の中では、良くて四角形、悪ければ逆三角形というウェイト配分になってしまい、落第答案への道をまっしぐらに進んでしまうことになってしまう。中心論点以外の所に対する配点は少ないのである。だから、間違いなく論点であっても、これらに試験官がブランダイスルール以上の配点をしているはずはない。確かに書かなければ、その論点に配分されている点はもらえない。しかし、それ以上の点を中心論点で稼げば、諸君は楽勝で合格できるのである。だから、上記のような論点は、この際すっぱりと切り捨てて、ブランダイスルールを引き出すのに絶対に必要な論点から本文は書き始めるのが正しい答案構成なのである。

 

一 自制論
 裁判所として、違憲立法審査権を行使するにあたっては、司法積極主義が妥当するであろうか、それとも司法消極主義が妥当するであろうか。
 米国の連邦最高裁における違憲審査は、司法積極主義で出発したといって良い。当事者のいずれもが、そもそも裁判所が違憲審査を行うことを予定していなかったマーベリ対マディソン事件、南北戦争を結果として引き起こしてしまったドレッド・スコット事件、そしてニュー・ディール政策を破綻に追い込んだオールド・コートの判例は、いずれも司法積極主義に立っていたといって良い。
 今日の米国連邦最高裁の判例を作り出したニュー・コートは、そうした過去の判例に対する批判に立脚する形で、司法消極主義を是とするスタンスを示すに至った。すなわち、形式的には違憲審査が可能な場合にも、裁判所としては、一旦はその行使を自制すべきだとするスンタンスである。何故そういう考え方を示すのであろうか。以下、芦部信喜が『憲法訴訟の理論』(有斐閣昭和48年刊)で説くところにしたがって、簡単に説明したい(以下の文中「」内は、いずれも同書30頁以下からの引用)。
(一) 裁判所の非民主性
 芦部信喜が指摘する第一の点は、裁判所の非民主性である。
「裁判所は本来非民主的な機関であるから、国民の代表者(多数者)の意思を最大限に尊重し、法律の『賢明さ又は弊害』ではなく『立法者が当該法律を制定できる合理性があったかどうか』を探求すべきである、という理論的理由である」
 ここで指摘されている点は重要である。諸君は、違憲審査基準というと合理性基準を思い出すであろう。何故合理性が審査基準になるのか、ということに対する答えがこれである。すなわち、文字通りの司法消極主義を貫いている狭義の合理性基準はもとより、司法積極主義として説明される厳格な審査基準も、それが合理性基準である限りにおいて、基本的に自制説に立つ基準であるということを、ここで理解して頂きたい。
 また、この合理性の探求という事は、審査にあたり、可能な限り合憲と解釈する道を探るべきである、ということを意味する。例えば都教組事件(最大昭和44年4月2日=百選第5442頁参照)に代表される合憲限定解釈は、この点を根拠としているのである。
(二) 国民の信頼確保の必要性
 この見出しは、私が考えたもので、芦部信喜の用語ではない。しかし、以下に述べていることを要約すれば、こう表現できるであろう。
「最高裁の憲法裁判の権威は、国民が最高裁は『いかなる欠点を持とうとも、・・・・抽象的な憲法上の命令を具体的なそれに変えうるもっとも客観的な、公平な、また信頼するに足る管理者であると考え』るところに究極の根拠があるのだから、最高裁がもし多数者の意思に余りにも反対するなど、『みずからの慎重さによってのみ拘束される・・・・おそろしい権力(司法審査権)』を積極的に行使すべきだとすると、最高裁の客観性と公平さに対する国民の信頼は傷つけられ、司法部の積極的な発言も、結局『混沌たる状態の中ではほとんど尊重されない』から、最高裁の権威は低下し、その実効的な活動は阻害される。このような他権力との衝突を避けるためには、自己制限の技術に訴えることが必要である、という理由である。」
 このうちで、『』の部分の最初のものは、米国連邦最高裁判所における自制論の旗頭というべきジャクソン(Robert H. Jackson)判事の、第2の箇所は同じく著名な自制論者であるフランクファータ(Felix Frankfurter)判事の、そして第3の部分は再びジャクソン判事の言葉の引用である。
 ここで述べられていることは、ある意味では逃げの姿勢で、学生諸君は汚いと感じるかもしれない。しかし、オールド・コートが強硬な司法積極主義路線を貫いた結果、連邦最高裁判所改組論を唱えたルーズベルトの大統領再選に、米国民が圧倒的な支持を与え、その世論の力の前に、主要な司法積極主義者達が連邦最高裁判事の辞職に追い込まれ、オールド・コートに終止符が打たれた、という米国憲法史を想起するならば、これもまた、もっとも弱い統治機構である裁判所が、その権威と権力を守るための大事な法技術であることを否定することはできない。
(三) 他の国家機関活動に対する信頼性
 このように表題をつけたが、これは次に引用した芦部信喜の文章のもっぱら後半部分に焦点を置いたものである。
「自制論が以上の論拠に付け加えて、重大な憲法事件での合憲性は事件をめぐる事実(circumstances)に関する判断に還元されるという経験的なアプローチしたがって『憲法問題を抽象的に扱い、それを空疎な法的問題の面から形式的で表す傾向は、すべて実際とは無関係の内容貧弱な結論に至る』という立場を強調する点が注目される。フランクファータが、政治の第1次的責任を負う機関の判断を司法的判断をもって替える違憲審査は、具体性のない通則によって決して正当化できない、という見解を堅持したのは、そのためである。ここに『不確実は同位の統治機関の賢明さと誠実さ、及びそれらの機関が責任を負う国民の利益になるよう、解決さるべきである』という自制論の重要な一つの論拠が見出される。」
 この引用文は、諸君が学ぶ憲法訴訟論の多くの部分に関する根拠を示している。第12行目で言われていることは、立法事実論の根拠である。その次に来る『』で示されるフランクファータ判事の見解は、付随的憲法訴訟が何故妥当かという点に関する根拠の一つでもある。
 そして、第2のフランクファータ判事の言葉が、表題に上げた点である。この機会に、是非小売市場最高裁判所昭和471122日判決(判例百選第5204頁参照)を改めて読み返してほしい。そこで言われているのが、まさにこのことであることが理解されよう。
 
 芦部信喜が、その著作で述べているのは以上3点である。だから、諸君が論文で自制論を展開する場合に指摘するのも、以上の3点で十分である。しかし、上記の点と若干重複するが、何人かの学者がそれ以外の点も指摘しており、それを知っておくことも、諸君の知識の整理に役立つと思われるので、以下、紹介する。
(四) 裁判所の情報収集力及びその判断力の弱さ
 裁判所が、活動を自制すべき根拠の重要な一つに、司法権の作用と機能には、その特有の手続的な制約があることがある。つまり、例えば民事訴訟における当事者主義、刑事訴訟における「起訴状一本主義」(刑事訴訟法2566項)などの原則の下に、主張、立証は原則としては当事者の訴訟活動に委ねられ、裁判所が職権をもつて証拠などの取調をする場合も補充的なものにすぎず、かつ、その裁判の執行方法も限定されていることである。この結果、裁判所はその組織の特質として、憲法判断に必要な広範囲の社会的利害に関係した資料を入手するのに適していないのである。
 ブランダイスルールは、その第一ルールにおいて、次のように述べる。
「最高裁は、友宜的・非対決的な訴訟手続においては、立法の合憲性の判断を下さないであろう。この拒絶は以下の理由による。そのような問題を決めることは、『万策尽きた場合に限って、そして、個人間の真剣で熱心で活力に満ちた争訟の決定に当たり不可欠とされるときに正当性をもつ。立法部において破れた者が、友誼的訴訟を用いて当該立法行為の合憲性に関する吟味を持ち込めるということは決して予期されていなかった。』」
 そこで述べられていることの特に前半は、まさに司法府における事実調査能力の限界と密接な関連があるといえる。
(五) 憲法判断内容の社会的妥当性
 法律、命令規則等に対する違憲審査権の行使の結果に伴なう政治的、社会的あるいは経済的影響力のもつ意味は予測しにくい、微妙なものがある。従って、憲法上の争点についての公権的な解決は、社会のなかで様々な観点から議論が尽くされ、論点が煮詰まり、明確化するのを待ってするのが妥当なことである。
 ここで述べていることは、芦部信喜が指摘した第2の点の別の表現である。しかし、ここまで掘り下げて表現して、はじめて意味が通じるところもあると考え、紹介した。
 例えば、平成5921日に、最高裁第3小法廷(園部逸夫裁判長)が、死刑合憲判決を下した(判例集未搭載)。その判決の中で、大野正夫判事が補足意見を書いている。それを簡単に要約すると、「死刑を合憲とした昭和23年の最高裁大法廷判決からの45年間に、死刑廃止国の増加や再審無罪など重大な変化が生じ、死刑が違憲と評価される余地は著しく増大した。」として、死刑廃止に向かう国際動向と、世論調査では存続論が多数を占める国民意識が大きく隔たっている事を「好ましくない」として漸進的な死刑廃止方法を提案しつつ、そうした世論の存在に加え、死刑判決に慎重な裁判所の姿勢を上げ、「今日の時点において死刑を違憲と断ずるにはいたらない。制度の存廃や改善は立法府にゆだね、裁判所としては厳格な基準の下に、限定的に死刑を適用するのが適当」としたのである。すなわち、大野判事は、裁判官個人の主観的良心としては、死刑廃止を正義としつつ、世論の支持の欠如という事を理由として、死刑合憲という意見を示したのである。ここに、国民の間で意見の分かれている問題については、裁判所はその意見の表明を自制するという姿勢が端的に見て取ることができる。
 最高裁判所は、民法の非嫡出子相続分差別規定について合憲という判断を下した(平成775日=百選第564頁参照)が、そこでも、同条項の改正に消極的な国民世論の動向が影響を与えていたと言えるであろう。
 もちろん、このようなスタンスが、常に妥当性を有するわけではない。世論に抗しても、社会正義を明確に示し、世論をその方向に誘導しようと務めることもまた、最高裁判所の重要な使命なのである。ただ、原則的には自制するのが妥当というのが、ここで述べている話のポイントである。

 

二 憲法判断回避の準則とブランダイスルール
(一) 憲法判断回避準則
 裁判所による違憲立法審査権の行使に関し、上述のとおり、裁判所の非民主性等を根拠に、自制説=司法消極説が妥当すると考えた場合、ここから司法判断回避の準則が導かれる。例えば、百里基地訴訟において、東京高裁昭和5677日判決(民集436590頁=LEXDB27431916。この事件の最高裁判決については百選第5380頁参照)は、次のように述べた。
「我が国憲法のもとでそれ(注=違憲立法審査権)が司法裁判所に与えられているのは、具体的訴訟事件の解決という司法の使命を達成するためであつて、憲法の有権解釈それ自体のためではない。したがつて、裁判所は、具体的訴訟事件の解決を離れて法令等の合憲性を審査する一般抽象的な権限を有するものではない。しかも、この権限は、極めて重大で、かつ、微妙な判断作用を伴うものであるから、他に特段の事情がない以上、その行使は、具体的訴訟事件の解決に必要・不可避な場合に限り、しかも、その限度においてのみ、正当化されるのであつて、たとえ憲法問題が記録上適法に提起され、この点の審理が行われた場合であつても、単なる当事者の希望や憲法判断の理論的先行性の故をもつて右の権限を行使することは、許されないものというべきである。」
 もちろん、これは絶対的な準則ではない。これまで一貫して強調してきたとおり、違憲立法審査権は、確かに一方において具体的事件において私権の保障の為に存在している。しかし、憲法訴訟の今ひとつの重要な意義に憲法保障機能があることもまた疑う余地がない。裁判所が、この権限の行使をあまりに自制しすぎれば、それが裁判所に与えられた意義を失わせる恐れもあるのである。戸波江二は次のように主張する。
「司法積極主義にも相応の理由があるので、憲法判断回避のルールはいちがいに否定されるべきではないが、憲法判断を回避するかどうかは最終的には裁判官の判断に委ねられていると解される。そして、違憲審査制が個人の権利保障を超えて、憲法秩序の保障にも資することをも考慮すれば、憲法判断を示すことに十分な理由がある場合には、事件の解決にとって不必要な憲法判断を行うことも許されよう。」
(戸波『憲法』新版451頁より引用)
 しかし、単に裁判官に任されているといわれても困るであろう。少なくとも、憲法判断回避が準則だ、といわれる以上は、こちらが原則であり、司法積極主義を採用するのが例外となるはずである。何故そうなのかという点については、高橋和之が判り易く述べているので、紹介する。
「日本国憲法81条の定める違憲法令審査権は付随審査制であり、裁判所に適法に係属して事件の解決に必要な(不可欠なではない)範囲内で行使しうるものであった。そこで、ある事件の中で、@憲法上の争点とA法律上の争点の両者が存在し、いずれの争点の判断を通じても事件の解決が可能という場合には、違憲審査権を行使する前提は存在しているということになる。Aの方から先に判断すべきだという論理は、付随審査制の諭理そのものからは出てこない。しかし、付随審査制の精神からいえば、Aを先にするというのが原則的な態度であるとはいえよう。というのは、第一に、統治機構全体の中で司法権に与えられている役割は、まず第一に私権保障にあると考えられるからである。Aの争点の判断により私権の救済が結果的になされるなら、あえて@の判断をする必要もないのである。しかし、@の争点の判断によっても私権の救済は可能なわけであるから、私権保障という点からただちにAが先行するのが原則だとはいえないであろう。より重要なのは、第二に、司法制度全体の構造が、伝統的な私権保障、すなわち、違憲審査権を前提としない私権保障のあり方とより適合的に構成されているということである。つまり、Aの領域こそ司法権の伝統的な本来の土俵なのである。ゆえに、本来の慣れ親しんだ土俵と新しい土俵が並存する場合には、本来の土俵で勝負をした方が、統治構造全体の中で無用な波風を立たせるおそれが少ないという意昧で無難なのである。」(高橋「憲法判断回避の準則」芦部編『講座 憲法訴訟』第214頁より引用)
 だから、個々の場合において、裁判官は勇気を持って司法積極主義を採用すべき場合もあるのである。芦部信喜は、自制論の旗頭であるフランクファータ判事が、法の下の平等や手続的デュープロセスに関する事件では、司法積極論者に同調している事を紹介している。長沼事件札幌地裁昭和4897日判決(民集3691791頁=LEXDB27200135、百選第5376頁参照)は、わが国で、司法積極主義を採用した数少ない判例である。同判決は、その根拠を次のように述べている。
「(憲法判断回避)の原則は、いつ、いかなる場合にも、裁判所が当事者の主張のうち憲法違反の主張については最後に判断すべきであるとまでいうものではない。むしろ、わが国は、憲法を中心とする法治国家であるから、立法、司法、行政の三権はいずれも憲法体制、あるいは憲法秩序のなかでその権限を行使しなければならないのであつて、それら三権のなかでも司法権だけが法令等の憲法適合性を最終的に判断する権限と義務をもつているのであるから、裁判所は具体的争訟事件の審理の過程で、国家権力が憲法秩序の枠を越えて行使され、それゆえに、憲法の基本原理に対する黙過することが許されないような重大な違反の状態が発生している疑いが生じ、かつその結果、当該争訟事件の当事者をも含めた国民の権利が侵害され、または侵害される危険があると考えられる場合において裁判所が憲法問題以外の当事者の主張について判断することによつてその訴訟を終局させたのでは、当該事件の紛争を根本的に解決できないと認められる場合には、前記のような憲法判断を回避するといつた消極的な立場はとらず、その国家行為の憲法適合性を審理判断する義務があるといわなければならない。〈中略〉なぜならば、もしこのような場合においても、裁判所がなお訴訟の他の法律問題だけによつて事件を処理するならば、かりに当面は当該事件の当事者の権利を救済できるようにみえても、それはただ形式的、表面的な救済にとどまり(同一の紛争がまた形を変えて再燃しうる)、真の紛争の解決ないしは本質的な権利救済にならないばかりか、他面現実に憲法秩序の枠を越えた国家権力の行使があつた場合には、裁判所みずからがそれを黙過、放置したことになり、ひいては、そのような違憲状態が時とともに拡大、深化するに至ることをもこれを是認したのと同様の結果を招くことになるからである。そして、このことは、さらに本来裁判所が憲法秩序、法治主義(法の支配)を擁護するために与えられている違憲審査権を行使することさえも次第に困難にしてしまうとともに、結果的には、憲法第99条が、裁判官をも含めた全公務員に課している憲法擁護の義務をも空虚なものに化してしまうであろう。」
 これもまた、疑う余地の無い真実である。恵庭事件判決のように判断を回避するのが妥当なのか、それとも、この長沼事件福島判決のように積極的に踏み込むべきか、法曹は常にこの二つの命題の間にあって真剣に悩むべきである。
 
(二) ブランダイスルール
 ある事件に際して、憲法判断回避準則を適用するのが妥当であると判断された場合において、具体的に、どのような場合には、どのような基準で判断すべきであろうか。この点に関する米国連邦最高裁の判例を集大成したものとして有名なのが、米国連邦最高裁のブランダイス(Louis D. Brandeis)判事が、アシュワンダー対テネシー渓谷開発公社事件判決(Ashwander v. Tennessee Valley Authority Case297 U.S. 288(1936))の中で、補足意見として述べたことで有名なブランダイスルールである(これについて、詳しくは渋谷秀樹『憲法訴訟要件論』信山社1995年刊、255頁以下参照)
 ブランダイスルールは、全部で7つの項目から成り立っている。原文は長いが、たいていの教科書では、次の様な簡略化した形で示している。
 第1ルール:裁判所は、友誼的・非対決的な訴訟手続においては立法の合憲性の判断をしない。
 第2ルール:裁判所は、憲法問題を決定する必要が生ずる前に前もって取り上げることをしない。
 第3ルール:裁判所は、憲法原則を、それが適用さるべき明確な事実が要求する範囲を越えて定式化しない。
 第4ルール:裁判所は、憲法問題が記録によって適切に提出されているとしても、その事件を処理することができる他の理由がある場合には憲法問題について判断しない。
 第5ルール:裁判所は、法律の施行によって侵害をうけたことを立証しない者の申立てに基づいて、その法律の効力について判断することはしない。
 第6ルール:裁判所は、法律の利益を利用した者の依頼で、その法律の合憲性について判断するようなことはしない。
 第7ルール:裁判所は、法律の合憲性について重大な疑いが提起されたとしても、その問題を回避できるような法律解釈が可能であるか否かをまず確認すべきである。
 これらがそれぞれ何を言っているのかは、各自、きちんと勉強しておいて欲しい。
 本問で問題となるのは、このうち第4ルールと第7ルールである。これを議論するには、このような簡略化されたものでは、不安があるので、上記渋谷の翻訳を紹介すると次のとおりである。
 第4ルール: 最高裁は、事件が処理可能な他の根拠が提出されているならば、訴訟記録によって憲法問題が適正に提出されていても、それの判断を下さないであろう。この準則は多種多様な形で適用されてきている。例えば、もし、事件が憲法問題を含む根拠と法律の解釈または一般法の問題の根拠のいずれによっても裁判されうるならば、最高裁は、後者のみによって裁判するであろう。連邦憲法に関する問題について州の最上級裁判所によって下された判断を争う上訴は、判決が、州の別の根拠に基づいて維持されうるという理由でしばしば斥けられている。
 第7ルール:『連邦議会の制定法の有効性が問題とされたときは、合憲性について重大な疑念が提起されている場合でも、当最高裁は、その問題が回避できる当該法律の解釈が十分可能か否かをまず確認することが基本的な原則である。』*[1]
(三) 恵庭事件判決とブランダイスルール
 この二つのルールは、内容において類似性が高く、どう違うのか、紛らわしいところがある。これは決して諸君だけが悩む問題ではなく、一流の学者の間でさえも、判断に迷うところがあるのである。すなわち、恵庭事件で、裁判所が述べたのはいったいどちらのルールなのか、ということを巡って、芦部信喜、高橋和之、佐藤幸治の示している見解にずれがあるのである。
 芦部信喜は、第7ルールだという。
「この判決は、違憲か合憲かの判断を一切しておらず、その意味では法律を厳格解釈して『法律の合憲性に対する疑い』を回避した判決である。」
(芦部信喜『憲法』第4365頁より引用)
 これに対し、高橋和之は第4ルールだという。
「恵庭型では、憲法判断は全く行われない。ここでは、法文が合憲的部分と違憲的部分(あるいは違憲の疑いのある部分)を含んでいるわけではない。つまり、規制自体は許されるとしても規制の及ぶ範囲が広すぎるのではないか、ということが問題になっている型ではないのである。ゆえに、構成要件に限定解釈をほどこしたとしても、それにより自衛隊法121条が合憲的意味へと確定されたわけでもなければ、また、121条の違憲的部分の少なくとも一部が確定されたというわけでもない。要するに121条の憲法判断は全くなされなかったのであり、限定解釈の前後において憲法上の争点に関するかぎり事態は全く変化していない。恵庭型は純然たる『憲法判断の回避』の類型であり、ブランダイスルールでいえばその第4準則に属するものというべきであろう。」(高橋・前掲論文11頁より引用)
 そして、佐藤幸治は、両者の中間的な、折衷説ともいうべき見解を示す。
「これは、上述したブランダイス裁判官の明示した『憲法判断回避の準則』のうちのCの準則にかかわるが、Fの準則も、イ『法律の違憲判断の回避』(純粋の合憲解釈)とロ『法律の合憲性の対する疑いの回避』という二種類のものを含んでいるといわれており、そうするとこのロとも関係している。ただ、ロは『疑いの回避』の程度で憲法判断をしているのに対し、Cの準則は、当該法律の違憲ないし違憲の疑いの除去を直接の目的とするのではなく、文字通りの憲法判断の回避であり、これを狭義の憲法判断の回避と呼ぶことにする。〈中略〉この判決(注=恵庭事件判決)は、狭義の憲法判断回避によったものといえる。ただ、裁判所が審理の過程で自衛隊の実態に関心を示したところがあり、かつ自衛隊法121条についてやや無理ともいえる解釈をしているという点からみると、Fの準則中のロの型であるという見方も生ずるかもしれない。」(佐藤『憲法』第3361頁参照)。
 なぜ、このような見解の対立が生ずるかというと、上記佐藤幸治の説明にあるとおり、第7ルールに関しては、表現が複雑で、内容的に複数のものが含まれているからである。芦部信喜も、それは「法律の違憲判断の回避」と「法律の合憲性に対する疑いの回避」の二つから成り立っているという(芦部信喜『憲法訴訟の理論』有斐閣刊、300頁)。芦部信喜は、ここでは第7ルールの典型といわれるNLRB v. Jones & Laughlin Steel Corp.事件*[2]を紹介しつつ、次のように述べる。
「ここでは、違憲性から『法律を救済する』ことと『重大な疑いを回避する』こととは、観念的には区別されている。前者は文字通りの『合憲解釈のアプローチ』であり、そこでは原則として合憲判断を行うことが前提とされている。ところが後者は、ある法令の条項について甲という解釈をとればその合憲性について重大な疑いが生ずるので、少なくともその解釈だけはとらない、というような場合を指すと考えられるので、そこでは右法条にたいする明確な合憲判断は原則として前提になっていない。甲という違憲になる可能性の強い解釈は排除されたが、そのほか、たとえば乙という解釈をとっても『重大な疑い』が生ずるのか、合憲解釈としては丙という解釈を採用しなければならないのか、しかし丙という解釈が合理的に成立する可能性がはたしてあるのか、というような点は原則として未解決の状態におかれ、したがって当該法令そのものの合憲・違憲については何ら触れられていないからである。」
 このように、一流の学者の間でさえ、判断が異なる問題なのであるから、諸君の論文のレベルにおいて、第4と第7のいずれが正解である、ということはありえない。ただ、論文を書くにあたっては、明確に、理由を添えて答えるべきである。特に、芦部説による場合には、教科書の記述はあまりに単純で理由が不足しているので、ここに紹介したところを参考に、自分なりの説明方法を工夫しておいてほしい。
(四) 恵庭判決の問題性
   恵庭事件判決には、もう一つ大きな問題がある。付随審査制ということから直ちに違憲審査は「当該事件の裁判の主文の判断に直接かつ絶対必要なばあい」にだけしかできない、という結論を導いている、という点である。先に述べたとおり、憲法訴訟の意義は、決して私権の保障に尽きるのではなく、憲法秩序の保障もまた重要な使命である。そう考えると、この判決のこの点は明確な誤りであるというべきであろう。早い話、このような考え方からは、文面審査、文面違憲というような憲法判断は決して導かれないのである。
 恵庭事件判決に機械的に賛同すると、このような落とし穴が待っていることに注意してほしい。今ひとつ紹介した百里基地訴訟東京高裁判決の場合には、類似した言い回しではあるが、その前に「他に特段の事情がない以上」という留保を付している点で、辛うじてこのような批判を免れる構造になっている。


*[1] 参考までに、第4ルールと第7ルールの原文を示す。

4. The Court will not pass upon a constitutional question although properly presented by the record, if there is also present some other ground upon which the case may be disposed of. This rule has found most varied application. Thus, if a case can be decided on either of two grounds, one involving a constitutional question, the other a question of statutory construction or general law, the Court will decide only the latter.

7. 'When the validity of an act of the Congress is drawn in question, and even if a serious doubt of constitutionality is raised, it is a cardinal principle that this Court will first ascertain whether a construction of the statute is fairly possible by which the question may be avoided.

*[2] フルネームで紹介すれば、National Labor Relations Board v. Jones & Laughlin Steel Corporation, 301 U.S. 1 (1937)という。これはNLRBの設立根拠となった National Labor Relations Act of 1935 という法律の合憲性が問題となった事件である。Jones & Laughlin Steel Corporationは、事件当時、全米第4位の規模を持つ鉄鋼会社であった。同社は、労働組合に加盟しようとした労働者に対し、解雇する等不利益な扱いをしたことから、NLRB は、同社に対しそれら職員の再雇用及びその間の給与の支払いを命じた。これに対し、同社はNLRBの設置は違憲であるとして争ったものである。