昭和女子大事件といわゆる部分社会の法理

甲斐素直

問題

 Yは、「穏健中正な思想」を教育の指導精神とし、保守的教育で知られる私立大学である。

Yでは、その指導精神に基づき「生活要録」という名称の学生心得を定めており、その中で、学内における政治活動を禁止すると共に、外部の政治団体への加盟を禁止していた。ところが、同大学学生であるXは、生活要録の規定に反して、左翼系の過激な活動を行うことで知られる政治団体Zに加入し、また、大学構内で学友に対し、Zへの加入を求めるビラを配布した。

 そこで、

YはXに対し停学1ヶ月の処分に付すると共に、Zからの脱退を求めた。これに対し、Xはマスコミに、Yの処分を憲法21条に違反するとして批判する談話を発表した。Yは、このような一連の行動は、生活要録に違反し、Y学生たるにふさわしくないとして、Xを改めて退学処分に付した。

 Xは退学処分無効及び学生身分確認の訴えを提起した。これに対し、

Yは、そもそもこのような学内の処分は、司法判断になじまないと反論した。

 Yの反論における憲法上の問題点を指摘し、論ぜよ。



[はじめに]

 本問は、出題時にも警告したとおり、ちょっと難しい問題である。本問の事例そのものは、比較的忠実に昭和女子大事件を事案化している。昭和女子大事件といえば、憲法判例百選には人権の私人間効力の問題に関する判例として掲記されている。だから、諸君としては、私人間効力の問題としてまとめたいと思うであろう。

 ところが、少なくとも現時点における判例にしたがう限り、そうはいかない。なぜなら、富山大学事件と呼ばれる最高裁判例が存在しているからである。そして、後述するとおり、最高裁は、そこで説かれたいわゆる部分社会の法理は私立大学にも適用になると明言しているからである。したがって、現時点で、この事件が起きたならば、大学側は当然にいわゆる部分社会の法理にしたがって争うことが予想される。実際、本問における

Yの主張は、そのことに他ならない。だから、本問の回答は、私人間効力論などは無視して、いわゆる部分社会の法理について議論を展開するのが正しい、ということになる。問われているのはYの主張に関する意見だから、私人間効力論に言及すると積極ミスになる。また、これを憲法判断回避準則と誤解していた人がいたが、これも大変大きな積極ミスと評価される。

 憲法訴訟論的な説明を加えると、こうなる。いわゆる部分社会論は、司法審査の対象となるか否かを論じている。それに対して、憲法判断回避準則は、司法審査の対象となる事を肯定した上で、それを解決するに当たり、法律判断を優先させるべきか憲法判断を優先させるべきかという議論である。そして、私人間効力論は、司法審査の対象となることを肯定し、憲法判断の対象にはならないことを確定した上で、かわりに民法

90条を適用し、Yの処分が、公序良俗違反といえるレベルか否かを判断する議論である。つまり、憲法訴訟を段階的に説明すると、①司法審査適合性、②憲法判断回避準則、③審査基準論というように発展することになるが、いわゆる部分社会論は①の段階に、そして憲法判断回避準則は②の段階に、そして私人間効力論は③の段階に属する議論である。したがって、論理的には常にいわゆる部分社会論が先行する。そこで、後に説明する有害説を採用してこの説の適用を排除し、司法審査の対象になると確定して、はじめて私人間効力論を論じる余地が生ずるのである。いわゆる部分社会論において、無益説(これが通説か?)ないし原則肯定説を採用する場合には、Yの主張通り、学園内紛争であって司法審査の対象にはならないという結論が導かれるから、私人間効力論に議論が届くことはないのである。



一 問題の所在

 諸君の答案はいずれも、本来の部分社会と、本問で問題となっているいわゆる部分社会論で言う部分社会の違いを全く理解せず、すべての部分社会で司法審査の対象から外れると誤解した定義を与えていた。その結果、後は何を書くかに関わりなく、その段階で自動的に落第答案となっていた。これは第一に本問のベースとなった富山大学事件を熟読せず、斜め読みしていたためであり、第二に法学の時間に習った法の基盤となる社会論を全く理解していないことから来る必然的な結果である。そこで、基礎の部分から説明していくことにしたい。


(一) 全体社会と部分社会

  1 総論

 法規範は、社会規範の一種である。そこから、法の基盤となる社会とは何か、という問題が、法学のもっとも基礎的な議論として出現する。かつては、それは国家である、という説が強力に唱えられた。しかし、国民、領土、主権の三要素を構成要件とする国家概念は近代市民革命後の概念であるから、国家が法の基盤となる社会だとすれば、法は中世以前には存在しなかったことになる。それは明らかに経験則に反するから、この説を採る人は今日においては存在しない。そこで、法的価値観を共有する人の全部集合(全体社会)が基盤であるという説と、その中で、何らかの法的メルクマールで他から区別しうる部分集合(部分社会)であるという説が対立している。

 つまり、あらゆる部分社会は、それ自身の法を有している。その意味で、あらゆる部分社会が、「自主的・自律的」な法を有しているといえる。例えば、甲が乙と家屋の売買契約を結んだとする。その場合、その売買契約によって甲と乙を構成員とする部分社会が誕生している。そして、その家屋の売買契約は、甲乙両名が形成した自主的自律的な法であり、仮にこの部分社会で紛争が発生した場合には、裁判所は、民法債権法にある売買契約の一般則ではなく、この部分社会の形成した契約という法に基づいて紛争を解決する。

 同様に、株式会社は、その定款及び取締役会や株主総会決議という自主的・自律的な法規範を有する部分社会である。仮に株式会社内部で紛争が生じた場合には、裁判所は、それらの法規範の内容を把握し、それに基づいて紛争を解決する。

 このように考えると、法の基盤となる社会は部分社会であるとする説が正しいように思える。しかし、実は、それはその部分社会が基本的に全体社会の価値観に整合している場合である。

 たとえば甲乙間の売買契約の内容が公序良俗に違反している場合には、裁判所は、その部分社会の法を排除して、全体社会の法を適用して紛争を解決する。同様に、その株式会社の法が、少数株主権を侵害していたりすれば、裁判所は、その株式会社の法を排除して、全体社会の法である民法や商法の規定を直接適用して、紛争を解決するのである。

 このように考えると、法の基盤となる社会とは、全体社会と考えるべきことになる。

  2 「いわゆる」

 富山大学事件等で問題にされている部分社会は、以上に説明した一般的な部分社会ではあり得ない。強調する。裁判所は、間違っても部分社会の紛争を、その自主的自律的法規範の存在の故に、司法審査を拒否したりすることはありえない。そんなことをいったら、司法審査の対象となる事件は無くなってしまう。そこで、例えば1992年度司法試験憲法論文式試験問題は、次の様に述べている。

「『いわゆる部分社会における法律上の係争は、その自主的、自律的解決にゆだねるのが適当であり、裁判所の司法審査の対象にはならない。』という見解について、事例を挙げて論ぜよ。」

 下線部を見れば判るとおり、この問題は、神経質に「いわゆる」の語を付して論じなければならない。この「いわゆる」がなければ、ここまでに論じたことを述べて、その様な見解は完全な誤りである、と書いておしまいにして良い。

 富山大学事件等で判例が作り出した「いわゆる部分社会」という概念は、普通の「部分社会」という概念とは全く別のものだからである。諸君は、この二つを完全に混同して論じていた。そして、その誤解は、論文の最後まで尾を引いていたのは当然のことである。その意味で、「いわゆる」を落として記述した瞬間に諸君の答案は落第答案となったのである。

 繰り返し強調する。部分社会というものは、どれでも、それ固有の自主的・自律的な法を有している。それが部分社会というものの基本的な定義だからである。すなわち、そうした自主的・自律的な法の存在をメルクマールとして、社会の他の部分と識別できる部分集合のことを部分社会と呼ぶのである。そして、部分社会の紛争は、司法審査の対象になる。というより、現実の司法審査は、そのすべてが部分社会の紛争である。

 富山大学事件の場合には、裁判所は、この「いわゆる」の部分を次の様に表現している。

「一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならないものと解するのが、相当である」

 この場合には、下線を付した「特殊な」という部分が通常の表現の「いわゆる」に当たる。あるいは、最高裁のいわゆる部分社会論を肯定した最初の判例である新潟県村議懲戒事件(最高裁判所大法廷昭和35年10月19日判決)では、次の様に表現している。

「自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当としないものがあるからである。」

 この場合には、部分社会の一部が司法審査の対象から外れることを、下線部が明確に示している。もし、諸君が書いているように自立的な法規範を有するすべての部分社会が司法審査から外れるならば、「自治的措置に任せ、裁判にまつを適当としない」と書いて終わるはずである。


(二) いわゆる部分社会論の本質について

 では、いったい、いわゆる部分社会論とはなんだろう。

 裁判所というものの持つ様々な性格上の限界から、裁判所が、司法判断を下すことを回避するという結論を下す場合が良くある。例えば、私が諸君に対し、不可という評価を与えたとする。それに対し、いや自分は絶対に優のはずだ、と訴えても裁判所は取り合ってくれない。成績評価は、学問的な問題であって、法的判断になじまないという理由からである。富山大学事件は、それによく似ている。

 しかし、その事件では、教員による成績評価の当否自体が争われているのではなく、学内における行政処分で、特定教員に成績評価権を認めないとしていることが争われている。その結果、法的判断にはなじみうることになる。しかし、学内における処分それ自体が、司法判断を下すのに適当な問題なのか、という基本的な疑問が存在する。つまり、大学の内部に、国家権力の一環である司法権が介入して良いのか、という問題である。

 この理論以外に、大学内の問題に司法介入を回避するという結論を説明する手段として、判例は二通りの論理を持っていた。

 私立大学の場合には、私人間効力論である。本問が事例化している昭和女子大事件が、そのリーディングケースである。この場合には、先に説明したとおり、一応司法審査の対象とした上で、実質的には判断を回避する。

 それに対し、国公立大学の場合には、特別権力関係論を採用していた。富山大学事件の第1審、第2審は、いずれもその立場である。しかし、拘置所における在監者の人権に関して、判例は特別権力関係論を否定しているのに、国公立大学で認めては理論的な一貫性に乏しい。そこで、本判決で、それに代わって登場したのが、いわゆる部分社会論である。

 そして、富山大学事件判例は、この理論は、単に国公立校だけではなく、私立校にも適用になると明言している。

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であつて、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものである」

 したがって、この判例に先例性を認める限り、昭和女子大事件も、この判決理論のうちに含めて考えていかねばならない。そこで、問題は、この事件の射程距離がどこまであるか、である。

 上記昭和女子大事件の場合、学生は退学になっている。あるいは、後で説明する日本共産党・袴田事件では、袴田里見は共産党から除名になっている。つまり、富山大学事件の論理的を当てはめれば、どちらも一般社会との交わりがある処分ということになりそうである。それにも関わらず、裁判所は、いずれについても司法判断を拒否している。特に、袴田事件の場合には、富山大学判決と同じ、いわゆる部分社会論を使用していることを明言しているだけに、この理論は、果たして統一的な説明理論として成立しているのか、ということが問題になるのである。

 つまり、富山大学事件の場合、正確に言うと二つの判決がある。そのうち経済学部事件については司法判断を回避したが、大学院専攻科事件においては司法判断を下した。なぜ二つは違うのかという事がここでのポイントである。

 あるいは、私立大学と国公立大学では、司法介入を許す余地に違いがあると立論して、富山大学事件と昭和女子大事件の落差を説明する方策を採用することもできる。とにかく、この判例だけを見るのではなく、一連の最高裁判決の流れの中で、この判決の射程距離を見極める必要がある。


(三) 施設利用権について 

 富山大学事件判決のうち、大学院専攻科に関するものには、奇妙な表現が現れる。大学を卒業する権利のことを、「学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利」だといっているのである。公の施設を利用する権利とは、例えば、地方自治法

244条が明言している権利である。すなわち、
「普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。
 普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。
 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。」

 すなわち、公の施設とは、図書館とか公民館というように、誰でも利用できる施設のことで、だからこそ、施設側の一方的判断で使用を拒めば、例えば泉佐野市民会館事件のように、その合憲性が問題になるのである。

 しかし、大学というものは、本当に一般市民の誰もが利用できるのだろうか。本当に大学側の一方的判断で使用を拒まれることはないのだろうか。例えば、諸君が富山大学を受験して落ちた場合に、入学許可処分を求めて訴訟を起こしたら、本当に裁判所は、諸君を入学させることにより明白かつ現在の危険が発生するとは認められないから、入学拒否は違憲であるといって救済してくれるのだろうか。

 明らかにそうではない。つまりこの論理は、難しい法律論を展開するまでもなく、明らかにおかしい。

 何でこんなおかしなことを最高裁判所が言うのかというと、それは東大ポポロ事件(百選第

5188頁)のためである。この事件で、学生側は、警察の活動が大学の自治を侵害していると主張した。それに対し、最高裁判所は、学生に学問の自由の主体性を否定し、したがって大学の自治の主体性も否定した。そして、学生の権利は、単なる公の施設の利用権であると論じたのである。

 後で説明するとおり、本問では、いわゆる部分社会論をどのようにとらえようと、最終的に大学の自治を避けて論じることはできない。だから、間違っても、こういうおかしな所をそのまま論文上に再現してはいけない。



二 判例の見解

いわゆる部分社会の法理が、判例の発展の中から現れてきたことについては疑問の余地がない。したがって、本問を論ずるに当たっては、どのような判例で、どのような議論を行ってきたかを理解しておくことが必要である。

 関係する重要な判例はたくさんあるが、紙幅の都合もあるので、理論的に重要な、次の三つの判例に限定して説明する。すなわち、①村議会議員懲罰事件、②富山大学単位認定事件および③日本共産党袴田里見事件である。


(一) 村議懲罰事件(昭和
351019日大法廷判決)

 いわゆる部分社会論に関する嚆矢といえるのは、米内山事件(最大昭和

28116日=行政判例百選に載っているので参照のこと)における田中耕太郎判事の少数意見である。それが発展してきて、この判決に至って、最高裁判所多数意見が初めて部分社会の法理を使用することを述べた、という点で、この事件は重要である。ここでは、最高裁は次のように述べた。
「司法裁判権が、憲法又は他の法律によつてその権限に属するものとされているものの外、一切の法律上の争訟に及ぶことは、裁判所法三条の明定するところであるが、ここに一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争という意味ではない。一口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上司法裁判権の対象の外におくを相当とするものがあるのである。けだし、自律的な法規範をもつ社会ないしは団体に在つては、当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せ、必ずしも、裁判にまつを適当としないものがあるからである。本件における出席停止の如き懲罰はまさにそれに該当するものと解するを相当とする。」

 要するに、ここではすべての部分社会ではなく、「自律的な法規範をもつ社会」においては、その内部自律に関する紛争は「必ずしも、裁判にまつを適当としないものがある」と述べるにとどまり、裁判で解決するのがふさわしくない問題とは何かについては、一般的な形では全く論及しなかった。

 この判決では、それに先行する米内山事件や板橋区議事件(最大昭和3539日)との差異を明確にする目的から、傍論としてであるが、次のように述べた点にもう一つの特徴がある。すなわち、

前述した二件の事件では、「議員の除名処分を司法裁判の権限内の事項としているが、右は議員の除名処分の如きは、議員の身分の喪失に関する重大事項で、単なる内部規律の問題に止らないからであつて、本件における議員の出席停止の如く議員の権利行使の一時的制限に過ぎないものとは自ら趣を異にしているのである。従つて、前者を司法裁判権に服させても、後者については別途に考慮し、これを司法裁判権の対象から除き、当該自治団体の自治的措置に委ねるを適当とするのである」。

 要するに、懲罰だから司法権は及ばないのであって、除名では及ぶのである。しかし、どのような点で重大性があれば、司法権が及ぶことになるのかは、この判決でははっきりしない。


(二) 富山大学単位認定事件(昭和52315日第3小法廷)

 この判決は、いわゆる部分社会の法理の内容を明確にした最高裁判決という意味で重要である。そして、内容的には、同じ単位の認定事件でありながら、卒業資格に直結する大学院専攻科の学生と、直結しない学部の学生とで区別して論じた、という点で重要である。学部の学生に関しては、最高裁は次のように述べた。

「裁判所は、憲法に特別の定めがある場合を除いて、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有するのであるが(裁判所法31項)、ここにいう一切の法律上の争訟とはあらゆる法律上の係争を意味するものではない。すなわち、ひと口に法律上の係争といつても、その範囲は広汎であり、その中には事柄の特質上裁判所の司法審査の対象外におくのを適当とするものもあるのであつて、例えば、一般市民社会の中にあつてこれとは別個に自律的な法規範を有する特殊な部分社会における法律上の係争のごときは、それが一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならないものと解するのが、相当である。」この後に、先に紹介した、大学は国公立であると私立であるとを問わず、このような特殊な部分社会だ、という記述が行われることになる。

 この判決でも、主体となる部分社会そのものは、単に「自律的な法規範を有する特殊な部分社会」と呼ばれているだけで、その範囲に関しては、はっきりしない。しかし、司法権の及ぶ限界については明確化した。すなわち、「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、その自主的、自律的な解決に委ねるのを適当とし、裁判所の司法審査の対象にはならない」というのである。

 この点から、この判決では大学院専攻科の学生については、一般市民法秩序の問題と位置づけて部分社会論を排除した。

「大学の専攻科は、大学を卒業した者又はこれと同等以上の学力があると認められる者に対して、精深な程度において、特別の事項を教授しその研究を指導することを目的として設置されるものであり(学校教育法57条)、大学の専攻科への入学は、大学の学部入学などと同じく、大学利用の一形態であるということができる。そして、専攻科に入学した学生は、大学所定の教育課程に従いこれを履修し、専攻科を修了することによつて、専攻科入学の目的を達することができるのであつて、学生が専攻科修了の要件を充足したにもかかわらず大学が専攻科修了の認定をしないときは、学生は専攻科を修了することができず、専攻科入学の目的を達することができないのであるから、国公立の大学において右のように大学が専攻科修了の認定をしないことは、実質的にみて、一般市民としての学生の国公立大学の利用を拒否することにほかならないものというべく、その意味において、学生が一般市民として有する公の施設を利用する権利を侵害するものであると解するのが、相当である。」

 これは、第一の事件で、除名と懲罰とを区別して論じていた点とも対応する議論となる。つまり、この判決までであれば、判例の論理は一貫していると一応言いうる。


(三) 日本共産党袴田里見事件(昭和
631220日第3小法廷判決)

 この判決は、除名が明確に部分社会の問題になる、と判決した点で重要である。最高裁は次のように述べた。

「政党の結社としての自主性にかんがみると、政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきであるから、政党が組織内の自律的運営として党員に対してした除名その他の処分の当否については、原則として自律的な解決に委ねるのを相当とし、したがって、政党が党員に対してした処分が一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」

 この判決では、一見すると、第一及び第二の判決と同じ論旨を展開しているように見える。しかし、決定的な一点で異なっている。それは、袴田氏が日本共産党から除名されているにも関わらず、それを「一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題にとどまる限り、裁判所の審判権は及ばない」という理由の下に救済を拒否している点である。先に強調したとおり、第一及び第二の判決では、裁判所は懲罰と除名あるいは単に認定と卒業認定を区別して、後者については司法権が及ぶという姿勢を示した。第二の判決では実際にその旨の本案判決を行っている。ところが、本判決では、除名に対して司法権が及ばない、と明言したのである。

しかもこれは判例変更ではない。すなわち、先の二つの判決がいずれも大法廷判決であるのに対して、これは第3小法廷判決なのである。したがって、市民法秩序との関わりという点において、部分社会の種類によって異なる判断を許容する、という姿勢が裁判所には存在している、と見ることができる。この事件の場合には、いわゆる部分社会論ではなく、私人間効力論で処理することも可能であろう。しかし、日本新党繰り上げ当選事件のように、政党の公的性格が問題となる場面では、それが使えないことは明らかである。



三 自説の展開

この問題をどのように解決するにせよ、いわゆる部分社会論というものに対する見解を、諸君としては、明確に示さなければならない。

 この問題に対する学説の対応は、大きく二つに分けることができる。すなわち原則的肯定説と、否定説である。否定説はさらに大きく二つに分けられるから、学説的には3つに大別できることになる。


(一) 有害説

 第一は有害説である。例えば戸波江二は、いわゆる部分社会論は、過度の司法消極主義の原因となり、あるいは裁判を受ける権利の侵害になるので有害であり、速やかに放棄すべきである、とする。有害説を採る場合には、判例の問題点を指摘していけば、判例の見解に対しては、自ずと答案ができあがる。例えば、

  1 部分社会とされる団体には、地方自治体の議会、国立大学の一学部、政党というような異質のものが混在しており、論理的一貫性がない。すなわち政党はともかく、前2者は通常の場合には、通常は団体の一部であって、団体とは認められていないのである。
  2 司法権が及ばないとする根拠が大雑把にすぎ、説得力がない。内部自律には及ばない、というが、それがどのような場合なのかは、日本共産党事件と他の事件とで矛盾を示しているように、統一ある理論を構築できていない。
  3 大学や労働組合の処分で、司法審査を行っている事例もあり、どのような場合に部分社会論が妥当するか、はっきりとしない。この点は、ここに書くと論点がぼけるので、本稿最後に補論として記述しておいた。

というようなことを書いていけばよいわけである。

 問題は、それに代わって、どのような理論でこの問題を解決すればよいのかがはっきりしないことである。この説は、いわゆる部分社会論を採用した場合には「団体によって不利益処分を受けた構成員の救済が図られない(戸波江二[新版]436頁)」と主張しているから、学部・大学院専攻科の別なく、実体判断を求めているように思える。諸君としてはそう割り切って論文を書いて構わない。その場合には、この段階で論文は終わることになる。

 しかし、それが本当に大学の自治に対する裁判所のよる干渉とならないのか、という問題がある。その点には基本書は回答を与えてくれていないから、もしそういう疑問を感じている場合には、そうした問題点については自力で理論を構築しなければならない。そして、本問の場合、ここからは私人間効力論の議論につなげていくことになる。


(二) 無益説

 第二は、無益説である。例えば地方議会の自律については地方自治の本旨(92条)から、大学の自律については大学の自治(23条)からそれぞれ部分社会論を使用した場合と同様に処理しうるので、このような統一理論は不要とする立場である(芦部信喜、佐藤幸治、樋口陽一等)。

 無益説を採る場合には、上記のようなばらつきを指摘した上で、判決がとろうとしている結論は、要するに、地方自治(92条)、大学の自治(23条)、結社の自由(21条)、宗教的結社の自由(20条)等の理論をきちんと構築していけば自ずと解決できるものであって、部分社会の法理というような特別の理論を必要とするものではない、と論じていけばよい。 その上で、大学の自治の理論から、司法介入を禁じると説けば、同じ結論が導けるはずである。ただ、この立場では、おそらく学部と大学院専攻科の別なく、否定するのが妥当であって、判決のように区別した議論にはならないのではないかと思う。もちろん、その辺は諸君の大学に自治に対する理解次第である。

 本問の場合、私立大学であるから、大学の自治に対する国家権力の介入はより厳しく制約されると考えることができる。そのための論理は、後に詳述するが、Yの主張が肯定されることになる。


(三) 原則肯定説

 原則的肯定説は、この無益説に非常に近い立場である。例えば伊藤正己は

「部分社会と司法権の関係については共通の問題があることを意識しつつも、これを一律に考えるのではなく、当該団体の目的、性格、社会的役割などを考慮して判断することになろう」(第3268頁)

と説く。すなわち、部分社会という認定の下に機械的に同一に扱おうとするのではなく、個々の問題についてそれぞれの特徴に応じて個別に処理することを肯定しつつ、そこに特定の性格の部分社会としての共通性を認めているに過ぎない。したがって、共通性の承認という点を除くと、この説と無益説とはかなり近い考え方を示すことになる。現実の判例は、前述のとおり、この説で理解しやすい。すなわち、部分社会という概念で画一的に一定の範囲について司法審査を排除するのではなく、部分社会の性質に応じて、その範囲が変化するからである。

 このいわゆる部分社会論の難点の一つは、「自律的な法規範を持つ社会」と述べるだけで、その概念を明確化していない点にある。

 しかし、それをいきなり判例に期待するのはそもそも無理と考える。これは、具体的事案を離れた過度の一般化を禁ずるブランダイスルール3の要求するところだからである。そもそも憲法訴訟における様々の理論、すなわちブランダイスルール、二重の基準、合理性基準などは、いずれも、単一の判決によって一挙に成立したものではなく、数多くの判例の積み重ねの中から、徐々に構築されてきたものである。いわゆる部分社会論も、同様に、そうした判決の積み重ねの中からその含意するところを把握し、構築していくべきものであって、いきなり完成品を望むのは妥当な姿勢とは言えない。

 司法権が及ばない、とする根拠が大雑把である点も、同様に、判例の積み重ねの中で解決されるべき問題であろう。実際に、判例はきめ細かな対応を示している。国や地方公共団体の機関における除名や退学には司法審査が及ぶとする一方で、日本共産党のようなきわめて政治色の強い団体については、除名までも内部自律の問題とする。同様に、昭和女子大事件では、私立大学からの退学は人権の私人間効力の否定から、実質的には司法審査が及ばない、とした。

 このような問題について、果たして個別の法理でどこまで対応できるのかは疑問である。例えば、同じく地方自治の尊重といっても、県議会内部における懲罰と、知事部局における懲罰とでは異質のものがあり、

92条だけからそのことを説明しきれるとは思えない。むしろ、いわゆるいわゆる部分社会という共通性からアプローチをとる余地が十分にあり得るのではないか、と私は考えるのである。その上で、個々の団体の性質に応じて、きめ細かく適用限界を定めていくべきであり、そこに学説の使命があると考える。

 しかし、このように説明したからと言って、本問について、判例に則して論理を展開すればよいことにはならない。やはり憲法

23条の学問の自由=大学の自治から、この場合における部分社会論の限界を探っていくという構成になる。だから、いわゆる部分社会論を肯定するか否定するか、という点を除くと、答案構成においては、無益説と原則肯定説は同じものだと言うことになる。

 以上の説明から判るとおり、芦部説などを採る人の場合には、本問は事実上憲法23条の論文になる。



四 大学の自治

 提出された論文は、いずれも憲法23条の保障する大学の自治を根拠に、司法審査を否定すると無造作に述べていた。ここで注意して欲しいのは、昭和女子大事件の場合には、退学に関して、私人間効力論を利用して,事実上司法判断を拒否していた。しかし、富山大学事件の場合には、大学院専攻科学生という、単位認定が課程修了と直結する者については、司法判断を必要としていたのである。だから、単純に大学の自治から司法判断の拒絶を導くと、富山大学事件の場合と噛み合わなくなる。富山大学事件の判決も尊重しつつ、退学について司法審査を否定したい場合には、大学の自治という概念が、国立大学と私立大学とでは異なる形で現れてくると論じなければならない。そこまで論じて、始めて、無益説の批判、つまりいわゆる部分社会論判例のばらつきを、個別の理論で対処すれば,矛盾無く解決できるという主張と整合することになる。

 そのためには、大学の自治とは何であり、それが存在すれば司法審査権はどの範囲で否定されるのか、ということをきちんと論証する必要がある。以下、その点について検討しよう。


(一) 学問の自由の解釈

  1 学問の自由と表現の自由の関連

 学問の自由のの基本的概念内容は、すべて表現の自由の中に含まれている。その意味では、表現の自由から当然に導くことのできる下位概念である。このため、独立の条文としてこれを保障している憲法は、世界的にみても少ない。非常に詳細な人権カタログを持つ国際人権規約においても、学問の自由の保障は行われていない。わが国でこれがわざわざ明文化されたのは、天皇機関説事件に代表されるように、戦前のわが国で、大学における研究活動に対して露骨な干渉が存在していたため、特にこれを保障する独自の意義の存在が認められたからである。その意味で、学問の自由を表現の自由から独立して保障する意義は、主として大学の自治を中心として発生する。

 表現の自由は、人権規約にあるとおり、今日においては「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」ものと理解されている。これを学問の自由に投影して考えれば、情報を求め、受ける活動に対応するものとしては「学問的真実の研究の自由」が考えられる。もちろん研究そのものは内心の自由の形態をとって行われる部分もあるが、それは独立の概念として把握する必要はない。また、その成果を他に伝える自由に対応するものとしては「研究成果の発表の自由」を考えることができる。要するに学問の自由はこの二つの下位概念に分解して理解するのが妥当である。このうち、後者の研究成果発表の自由の重要な内容としては、さらに「教授の自由」と「成果刊行の自由」がある。

 この最後の教授の自由が、大学という場を利用して行われる教育活動と関連して、様々な論争を引き起こすことになる。大学の自治がいわれる理由の一つはここにある。


(二) 大学の自治の保障根拠

 大学の自治について、学問の自由の一環として論ずる場合に、その本質をどのように把握するかについては、かなり説が分かれている。

 例えば一番簡単なコンメンタールであり、したがって国家試験受験生諸君であれば当然にもっていると思われる「基本法コンメンタール=憲法」第4版、日本評論社刊147頁を開いてみると、この問題に関しては、通説である①制度的保障説の他に、②機能的自由説(高柳信一他)、③23条・26条説(兼子仁、永井憲一他)、④教師団自治説(佐藤功)など多数の異説が存在していることが直ちに判るはずである。更に同書に載っていない異説として⑤結社の内部運営の自由説(阪本昌成)等も存在している。

 諸君が使用している基本書は、おそらくほとんどが制度的保障説であろうから、これら異説の内容をさしあたり理解する必要はない。それら異説から制度的保障説に対してどのような批判が行われているかを知っていれば、それだけで十分異説を意識した理由付けが可能になるはずである。

 先に紹介した他説から、制度的保障説に対して指摘される問題点は、端的に言ってしまえば、制度的保障といいながら、その不可侵の中核が何かを論じていないという点にある。

 この指摘はまことにもっともで、制度的保障説という以上、どのような点が不可侵の中核であり、どの点については立法等により侵害可能であるかをきちんと説明しなければ、説として成立し得ない。困ったことに、制度的保障説を採用している学者で、こうした疑問点に対する回答をきちんとした形で論じている者は管見の限りでは見あたらない。そこで、以下に述べるのは私見である。

 私は、この問題は、地方自治との比較論で理解するのが一番妥当と考えている。すなわち、地方自治制度を制度的保障ととらえる場合、住民自治と団体自治の二つの概念を、その制度の中核を構成する概念ととらえている。この二つの理念は、単に地方公共団体に限らず、およそあらゆる団体における自治を考えるに当たり、普遍妥当する理念であると考える。住民自治とは、すなわち、団体内部における意思決定は、その団体を構成する者の合議によって決せられるべきである、という意味であり、団体自治とは、その団体の意思形成に、外部勢力、特に国家が介入することを禁ずるという意味である。大学の自治においても、この二つが同じように、不可侵の制度的中核として存在する。

 このように中核概念を把握した場合、実定法上のそれとは若干の相違を示すことを理解する必要がある。すなわち、私立大学において大学の自治の主体となる大学と、学校教育法上、公教育の主体とされている学校法人とは全く別の存在である。学校法人は財団、すなわち財産の集まりであり、その意思決定は理事会によって行われる。これに対して、大学の自治にいう大学は、学問の自由の主体である研究者の集まりとして把握しなければならないから、社団としての性格を有することになる。その社団における意思決定は、少なくともその中核的構成員たる教授団によって行われねばならない。大学の規模が小さく、教授団が全学的に形成されている場合は、大学の自治にいう大学と実定法上の大学とはあまり差違を示さない。それに対して、例えば日本大学のように大学の規模が大きく、学部ごとにかなりの程度まで自律的な意思決定が行われている場合には、大学の自治にいう大学とは、実は学部のことを意味することになる。

 同様に、国公立大学においては、実定法上は国立学校法人法にいう法人であるが、上記同様に、大学の自治との関係では教員によって組織される社団として把握すべきことになる。

 大学の自治をどのように把握するにせよ、いわゆる法人の人権享有主体性と結びつけて論ずるのは間違いである。むしろ、上記のように、法人の人権主体性では説明不可能な問題であるからこそ、制度的保障としての大学の自治がいわれると考えた方がよい。


(三) 大学の自治の主体

 わが国戦後の大学の自治は、一般に教員のうち、教授としての地位にある者により組織される教授会が最終的な意思決定機関として活動するという慣行を伴っている。これについて注意すべきことは、教授だけが大学において学問の自由の享受主体ではないということである。すなわち大学という社団の一員として、学問の自由を享受するものとしては、教授以外に、准教授、講師、助教、助手、大学院生などが該当する点については異論がなく、後に述べるとおり、学部における学生もその主体の一つと数えることが許されよう。


(四) 大学の自治の内容

 大学の自治の内容については、基本書は一般に人事の自治、施設管理の自治など、現実に行われている活動を即物的に羅列する傾向があるが、私は批判的である。なぜ大学に自治が認められることから、そうした個別の自治権が認められるのかがこれでは判らないからである。また、このような論じ方では、例えば学内規則制定権が、それぞれの自治で別個に重複して論じられなければならない、という欠陥を示す。

 先に制度的保障としての大学の自治の本質として、地方自治にいう団体自治と住民自治(団体構成員による自治)を使用できると述べたが、このことから、大学の自治の内容についても、地方自治における自治権の内容を準用することが可能になると考えている。

 地方自治については、別個述べているので、そちらを参照してほしいが、私は、地方公共団体における自治が、その団体内部における自主立法権、自主行政権、自主司法権及び自主財政権を意味すると考えている。それと同様に、大学の自治もそれら4者を意味すると解するのが妥当である。

 その場合、自主立法権とは学則あるいは学部規則など内部法の制定権を意味する。

 自主行政権は、内部行政を意味するが、ここの研究者の研究内容を統制することは、学問の自由を侵害することになるので許されない。結局、研究者との関係での中核は、自主人事権、すなわち、誰を学長、学部長、教授その他の教員として誰を任用するかの権限となる。

 自主司法権は、もっぱら学内における秩序を乱した者に対する懲罰権の行使の形で現れる。後に詳述するとおり、判例は、部分社会の法理を適用することにより、それに対しては、退学など、その部分社会からの排除に至らない限り、司法権も及ばないとして、その自治権の存在を承認している。

 本問で問題となるのは、自主立法権としての内部規則制定権及び自主司法権としての懲戒処分権である。

 自主規則制定権について、昭和女子大事件最高裁判所判決(昭和49719日=百選第528頁参照)は次のように述べた。

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置目的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによつて在学する学生を規律する包括的権能を有するものと解すべきである。」

 ここまでは、国立大であると、私立大であるとを問わず、共通に言えることである。しかし、その後、最高裁は私立大学の特殊性を述べている。

「特に私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによつて社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎり、かかる規律に服することを義務づけられるものといわなければならない。」

 つまり、国立大学の場合には、国が国民に提供する施設としての一般性があり、そこから、退学など、この部分社会から、その構成員を一般市民社会に放逐する退学処分等は,司法審査に服することになる。それに対し、私立大学では、その建学の精神から来る特殊性が働くのである。その特殊性の射程距離が問題となる。

「もとより、学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえない。在学関係設定の目的と関連し、かつ、その内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動についていかなる程度、方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の措置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし校風や教育方針によつてもおのずから異なることを認めざるをえないのである。」

 これを受けて、昭和女子大事件の場合には(したがって本問も)、学生の政治活動の自由との兼ね合いの問題に論点は移っている。

「これを学生の政治的活動に関していえば、大学の学生は、その年令等からみて、一個の社会人として行動しうる面を有する者であり、政治的活動の自由はこのような社会人としての学生についても重要視されるべき法益であることは、いうまでもない。しかし、他方、学生の政治的活動を学の内外を問わず全く自由に放任するときは、あるいは学生が学業を疎かにし、あるいは学内における教育及び研究の環境を乱し、本人及び他の学生に対する教育目的の達成や研究の遂行をそこなう等大学の設置目的の実現を妨げるおそれがあるのであるから、大学当局がこれらの政治的活動に対してなんらかの規制を加えること自体は十分にその合理性を首肯しうるところである。」

 さらに昭和女子大の場合には、極めて特殊な校風を有する点にその特色がある。

「特に、私立大学のなかでも女子大学のように、学生の勉学専念を特に重視しあるいは比較的保守的な校風を有する大学がその教育方針に照らし学生の政治的活動はできるだけ制限するのが教育上適当であるとの見地から、学内及び学外における学生の政治的活動につきかなり広範な規律を及ぼすこととしても、これをもつて直ちに社会通念上学生の自由に対する不合理な制限であるということはできない」

 このような判断を重ねていって、ようやくのことで、本問場合に司法審査の対象から除外されると言いうるのであって、一般に退学処分に対し、いわゆる部分社会論からただちに司法審査の対象になるというのは間違いである。

 むしろ、ここまで述べて、始めて、いわゆる部分社会論で一律に処理するのは間違いで、23条の法理に従って区分して考えるべきであるという主張が説得力を持つことになる。


補論 「いわゆる部分社会の法理」の射程距離

 戸波江二説の第3点で指摘された問題に対する回答を書いておく。もちろん、諸君の論文のレベルで書く必要のある問題ではない。あくまでも参考のためである。

 確かに判例は、分類上、「いわゆる部分社会」に属すると認められるような団体であっても、常に「いわゆる部分社会の法理」を適用して、司法審査の対象外としているわけではない。

 たとえば、南九州税理士会事件がその一つの典型である。また、労働組合内部の紛争の場合にも、三井美唄事件や国労広島地本事件に代表されるように、積極的に団体内部の紛争原因を把握した上、個々具体的に紛争解決に当たるのが普通なのである。その意味では、「いわゆる部分社会の法理」の射程距離というのは、意外に短いものと言うことができる。本論とずれるから、ここでは簡単に私の見解の結論のみを述べる。これは要するに、中間団体というものを憲法的にどう取り扱うか、という問題なのである。

 近代市民社会が成立した当初、中間団体というものを憲法は否定していた。裸の個人というものが、直接国家と相対していたのである。しかし、現代国家において、国家と個人の中間に位置する団体の存在を無視し得ない。多くの場合、そうした中間団体は、裸の個人を強大な国家権力から庇護する存在として登場する。そこでそうした中間団体自体が人権を保障されているかどうかが議論の対象となる。それが肯定されれば、一々裸の個人に換言することなく、国家と団体の関係だけを調整すれば、人権救済は実現するからである。いわゆる法人の人権享有主体性という議論である。

 それに対して、いわゆる部分社会論で問題となっているのは、その人権保護の役割を担っているはずの団体とその構成員である個人との間の,団体設置目的自体と結びついたトラブルである。この場合、裁判所が安易にそのトラブルの解決に乗り出すことは、国家が団体自治に干渉することを意味し、上記団体の人権侵害という面を有することになる。それを避けるべきであるとする議論こそが、いわゆる部分社会論の本質である。その意味で、すべての領域に共通する理論としての部分社会論の意義があると考える。

 他方、中間団体を過度に尊重し、個人の権利の、団体による侵害を放置するときは、個人の自由の実質的侵害を許容する事態を生じかねない。これは、かつて契約の自由を尊重するあまり、資本家による労働者の搾取、大企業による中小企業の搾取を認めた悪しき前例に明らかなとおり、非常に問題である。

 ここに、部分社会論の限界を見いださなければならない。南九州税理士会事件に示されるような、きめ細かな対応がここには必要とされるのである。

 この場合、物差しになっているのは、団体の目的という概念である。目的に正確に合致する活動の場合には、裁判所は「いわゆる部分社会の法理」を適用して、団体自治にゆだねる。それに対して、定款等に書かれた目的には明らかにあたらないが、それに反しない、という程度の意味で、団体の目的に含まれる活動について、団体と構成員との間に紛争が生じた場合には、裁判所は、団体内部に介入して、団体と個人の利害調整を行うのである。