国家賠償と免責特権の関係

甲斐素直

問題

 平成〇年〇月〇日に開かれた第〇回国会衆議院社会労働委員会において、衆議院議員であり同委員会の委員であったAは、同日の議題であった医療法の一部を改正する法律案の審議に際し、B市のC精神病院の問題を取り上げて、患者の人権を擁護する見地から問題のある病院に対する所管行政庁の十分な監督を求める目的で質疑し、その質疑の中で、C病院長X 女性患者Dに対して破廉恥な行為をしていること、同じくXが薬物を常用するなど通常の精神状態ではないのではないかということ、現行の行政の中でこのような医師はチェックできないのではないかなどという趣旨の発言を行った。

 しかし、Yに上記情報を提供したDは、上記の通り精神病で入院中の患者であり、その主治医に対し恋愛感情を持っていた。そして、Xがそれを峻拒したことから、逆にXから強制されて肉体関係を持ったという妄想を抱くに至ったものであって、一連の発言はすべて事実無根であった。精神病患者にこの様な現象が生じることは、専門家の間では広く知られた事実で、Aとしても適切な調査をすれば容易に判明したはずのことであった。

 そうした事実関係を十分に調査することなく行われたAの発言により、Xの社会的名誉は大きく傷つけられ、またC精神病院は、その患者が激減するなどの被害を受けた。

 そこで、Xは国(Y)を相手取って、国家賠償法1条に基づき、国家賠償を請求した。

 それに対し、Yは、本件発言は憲法51条にいう演説等にあたり、国会議員が議院で行った演説等については、国家賠償法上およそ違法が問題とされる余地がないことを定めたものというべきであるから、Yは賠償責任を負わないと主張した。
Yの主張の憲法上の当否について論ぜよ。

[はじめに]

(一) 本問のベースになっているのは、札幌病院長自殺事件(百選第5388頁参照)として知られるものだが、事例問題として考える限り、別に原告が自殺している必要は無いので、単純に病院長が訴えを起こしたものと変更した。

 問題文にあるとおり、XYに対して国家賠償を請求している。国家賠償の根拠規定は憲法17条である。それに基づき制定された国家賠償法11項の規定を充足していれば、普通は、国家賠償が認められる。すなわち、Yの主張は、憲法51条が憲法17条の特則として機能すると主張しているに他ならない。これに対し、Xとしては、憲法51条は、憲法17条の大原則たる公務員の個人責任の否定を、国会議員の場合に確認しているに他ならない、と主張する必要があることになる。これが、本問の中心論点となる。

 これは基本的には国家賠償法の問題であり、したがってどうしても17条が論点となる。それとの関係で、51条をどう考えるか、という問題が加わってくるのである。このことは、判例でもちゃんとそのように書かれている。単純に51条だけの問題と理解した諸君は、問題文及び判例を、正確に慎重に読む習慣を身につけなければならない。百選など、札幌病院長自殺事件の判例評釈は、17条に関する議論は当然の前提として、51条に関する議論だけが書かれるのが普通である。だが、諸君の論文では、そうした評釈が切り落としている17条の議論からスタートさせて、その上で、51条を論じない限り、合格答案にはならないのである。

(二) 国家賠償に関しては、平成14911日に、郵便法にある国家賠償法の特則を巡って、最高裁判所による法令違憲判決がでていることもあり、近年関心を集めているところである。以下で郵便法判決と呼ぶのは、この最高裁判決のことである。17条は、あまり教科書にも詳しく書かれておらず、そのため、諸君の勉強量が不足していることは、提出論文から明らかなので、この機会に詳しい説明をすることとした。今日において17条の賠償責任の本質を論じる場合には、それに賛成するか否かは別として、郵便法判決の論理を理解しておかねばならない。



一 憲法
17条の本質

 日本における国家賠償とは、そもそもどのような概念であるかについて、君たちの理解を確保するため、論文に書く必要のない、基礎の部分から説明する。

(一) 日本における沿革

 欧米では、早くから「王は悪事をなせず(King can do no wrong)」という概念が発達し、国家の違法行為という概念そのものが認められなかった。これを国家無答責という。当初は、そのために公務員個人に対する賠償請求が行われていた。しかし、公務員個人に賠償請求をすることについても、公務員の萎縮を防ぐために禁止する法理が登場する。これが、日本が欧米法を継受し、国家無答責の概念を受け入れた時期には確立していた。

 日本の明治憲法には国家無答責に関する条文はまったくなかった。しかし、法体系として欧米法を継受したため、早くから判例は国家無答責の原則を当然に憲法的秩序の一環として採用していた。そして、上記理由から、この国家無答責は、公務員個人に対する請求を否認するという内容までも含んでいた。

 しかし、社会の基盤整備が主として民間の手で行われた欧米と異なり、日本の場合は鉄道や港湾の建設なども国家によってなされる必要があった。このため、国家無答責原則の無批判な採用は、欧米よりも問題が大きかった。判例は早くからその問題性に気付き、この原則の適用範囲を狭める努力を行ってきていた。すなわちまず国の活動であっても私経済活動には、早くから国に民法を適用し、不法行為責任の成立を認めた。例えば国有鉄道の活動については民法に基づき、賠償責任を肯定した。鉄道工事による損害(大審院明治31527日判決)や汽車の煤煙で名松が枯死した事件(信玄公笠懸松事件=大審院大正833日判決)がそれである。

 ついで国家活動を権力活動と非権力活動とに区分し、国家無答責原則の適用を前者に限定した。徳島市立小学校の遊動円棒の欠陥のため生じた児童の死亡事故について国に損害賠償責任を認めたのが、その転機となった有名な判例である(大審院大正561日判決)。念のため、補足しておくと、教育活動は今日では非権力作用と考えているが、明治憲法の下においては、富国強兵思想の下、典型的な権力活動と考えられていたのである。しかし、校庭の遊具の設置・管理は非権力活動に属すると大審院は判断したのである。

 これに対して権力的活動については、一貫してこれを認めなかった。例えば、消防自動車の試運転時の事故も、「国家警察権の作用なりとす」と述べて、権力活動に属するとした(大審院昭和8428日判決)。憲法秩序が国家無答責の原則をとっている場合に、判例による努力には、一定の限界があったと評価することができる。

 また、公務員個人に対する賠償責任を否定する、という点に関しては修正がなされなかった。これは、官公吏が賠償責任を負うことをおそれて消極的行政に終始する、つまり官吏の萎縮を防ぐという観点からは適切である。しかし、それにより被害者の保護をいっそう弱いものとした事は否めない。ただし、官公吏が職権を乱用して私人の権利を侵害した場合にはもはや官公吏としての行為ではない、として民法の規定を適用して損害賠償を認めた。

 第二次大戦後に、日本の現行憲法が制定された時点では、欧米各国、特にアメリカでは国家無答責が依然として支配していた。このため、日本国憲法の原案とも言うべきマッカーサー草案には、国家賠償制度については論及がなかった。そして、これを受けて作成された日本政府の政府原案でも同様であった。しかし、衆議院段階で、上記の判例の努力を受け継ぐ形で、現行憲法17条が、刑事補償に関する40条とともに、議会修正という形で追加された。

 そして、その「法律」の中心をなすものとして制定されたのが、国家賠償法ということになる。


(二) 国家賠償の意義

 憲法17条は「法律の定めるところにより」国家賠償を受けることができると定める。

 ある事項についての詳細は国会が「法律でこれを定める」と憲法が書いている場合に、これを国会に対して無制限の立法裁量権を認めたもの(プログラム規定説)と考えるときには、国家賠償を憲法編入した意義が失われる。そこで、これを「制度的保障」と説明することで、国会の立法裁量権を制約すると理解することになる。

 日本国憲法17条には、中核概念を考える手がかりが条文中に全く書かれていない。したがって、この条文を文字通りに読むと、国家賠償をどの範囲で受けることができるのか、逆に言うと、どこまで否定することができるのかは、立法府の純然たる裁量の問題であるように読める。

 しかし、郵便法判決は、この点について次のように述べている。

「立法府に無制限の裁量権を付与するといった法律に対する白紙委任を認めているものではない」

 すなわち、国家賠償制度を法律で定めると言っている以上、本条もまた制度的保障と考えるべきである。その場合には、立法権によって侵すことのできない制度の中核は何か、ということは、理論的に決定するほかはない。

 本条の場合、普通はこのような議論の流れを採らないで、「賠償責任の法的性質」は何か、という形で論じられるので、少し判りにくいが、これは制度的保障の中核論だ、と理解することができる。

 すなわち、責任の本質を、国の代位責任と考えるのか、それとも自己責任と考えるのか、ということが、国の立法裁量の限界を形成することになるので、これが中核論になるわけである。

 代位責任と自己責任の区別は、正確に理解して貰う必要があるので、少し詳しく説明する。

 民法715条の定める使用者責任は、典型的な代位責任である。たとえば、甲運送会社の運転手乙が業務上運行するトラックに轢かれて、丙が重傷を負ったと仮定しよう。その場合、丙は乙が民法709条の要件を満たしている場合に、乙に代わって損害賠償をするように甲に求めることができる。したがって、乙の行為が709条の要件を満たしていない場合には、甲にも損害賠償を求めることはできないし、充たしていた場合にも、甲が乙の「選任及びその事業の監督に付き相当の注意をなしたるとき、又は相当の注意を為すも損害が生ずべかりし」時にもまた、請求することはできないことになる。これが代位責任である。戦前、非権力活動について民法を適用することで被害者を救済した、とはこのような責任を国家に認めたという意味である。

 戦前の判例法で被害者を救済できないのは、権力的活動のみであった。そこで、国家賠償法11項は、その部分を補完するという発想で、次のように制定された。

「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ず。」

 したがって、国家賠償法が、民法不法行為法の使用者責任を補完するものとして、代位責任説を妥当とするのが、立法者の意思であることは明らかである。

 いま、仮に17条の本質として代位責任説をとったらどうなるかを考えてみよう。その場合には、民法709条の賠償責任が公務員本人に成立することが明らかな事案では、715条よりも使用者としての責任を軽減する論理を引き出すことは困難である。

 これに対して、国家賠償責任とは、国家が公務員に代位して責任を負うのではなく、国家自身として何らかの理由から責任を負うべき場合に行うと考えるのが、自己責任説である。その場合、行為者たる公務員本人に不法行為責任が成立するかどうかは問題にはならない。

 国家賠償法を読むと、同法は、明らかに代位責任説を採用していることが判る。

 それに対し、今日、憲法学レベルでは自己責任説が通説と見ることができよう。そう考える理由は、実際面から考えた場合、かなり単純である。代位責任と考えた場合には、公務員個人に民法709条に基づく賠償責任が発生することが、国家賠償の前提要件になってしまうからである。それにより様々な問題が発生してしまう。わかりやすいところでは、公務員に萎縮効果が発生することがある。また、損害賠償請求をする国民の側として、責任ある公務員を特定しなければならないという問題も生ずる。このように、様々な好ましからざる問題を回避するためには、自己責任と考えるのが妥当なのである。

 現在の通説・判例は、このように国家賠償制度の本質を自己責任と解する結果、代位責任的に書かれている国家賠償法1条を、判例は次の通り、全面的に読み替えている。

 第一に国家賠償法の適用される範囲では萎縮効果を防ぐため、公務員本人に対する民法709条に基づく不法行為請求は認めない。

 そして、国家賠償法を厳格に文言解釈すると、709条が認められない結果、国民に不利益が生じる。そこで、自己責任にふさわしく、その適用範囲を拡大するため、

 第二に「公権力の行使」とは、非権力活動も含めたすべての国の活動とする。

 第三に、「公務員」とは上記公権力の行使にあたっている者であれば、公務員としての身分を有する必要はないとする。

 第四に、「職務の執行にあたり」とは、その外形が一般国民から見て職務行為であれば良いとする。

 第五に、「故意過失」とは当該行為者を基準とせず、公務員一般に要求される水準から客観的に決定されるとする。

 第六に、代位責任ではないから、加害公務員を特定する必要はなく、ある組織の責任と認められればそれで十分とされる。

 第七に、「違法」という場合も、特定の法律がある必要はなく、法秩序全体から見て判断される。ただし、単に違法であるだけでなく、「職務上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく漫然と」することが要件としている(職務行為基準説)。最後の点については学説的には批判が強いが、判例は確立している。

 行政法学者の中には、先に上げた立法者意思から、国賠法を代位責任と読みつつ、なお、こうした膨大な修正を説明できるとするものもあるが、オッカムの剃刀がいうとおり、単純に自己責任説を判例は採用していると理解するのが素直というものである。

 最大の問題は、その自己責任を、どのような憲法理念に基づいて説明するか、という点である。自己責任の根拠となる理論はいくつかある。

 憲法学における代表的な見解は、例えば「国家活動には違法な加害行為を伴う危険が内在して」(日本評論社『基本法コンメンタール憲法』(第4版)99頁より引用=菟原明執筆部分)いる点に、自己責任説の根拠を求める。これに限らず、従来の憲法のコンメンタールや国家賠償法の概説書では、自己責任の根拠を危険責任と説明しているものが多かった。例えば、同じような説明を、『青林書院注解法律学全集憲法』でも行っている(同書360頁=浦部法穂執筆部分)。

 危険責任というのは、典型的には民法717条がそれである。発生させる危険の範囲において、その管理者は無過失責任を負うべきだと考える。この考え方は、結局、国家賠償責任の本質は、民事責任の一種だと考えていることになる。確かに、国家賠償法2条は明白にこの考え方に基づいている。

 この危険責任説に立った場合には、どんな理由があるにせよ、国会が裁量的に賠償責任を全面的に免除するということは考えられない。だから国家賠償責任を免除した郵便法は、全面的に違憲となると解するべきである。また、本質を無過失責任と考えている以上、担当する公務員に故意・重過失がある場合と軽過失の場合とで、前者についてだけ賠償責任を認め、後者については否定する、というような結論が導かれるわけもない。その意味で、憲法学で有力なこの見解を、郵便法判決が採用しなかったことは明らかである。

 郵便法判決の論理は、明言されている訳ではないが、その背景にあるのは、従来から国家賠償法の領域では有力に主張され、通説となりつつある「国家補償法」という考え方と思われる。

 従来の考え方では、17条の国家賠償は国による違法な侵害を問題にするのに対し、293項の損失補償は適法な侵害なので、両者は、適法と違法という全く別の法現象を取り上げていると考えていた。それに対し、ここにいう考え方は、その両者を国家補償法という統一的な法体系として把握しようとする立場である。

 この考え方を最初に日本で打ち出したのは、田中二郎であろう。

「不法行為に基づく損害賠償の制度と適法行為に基づく損失補償の制度とは、従来、性質上、異なる制度と考えられ、かつ異なる制度として規定されてきた。すなわち、前者は、近世の個人主義的思想を基底とし、個人的道義的責任主義を持って基礎原理として構成されたのに反し、後者は、従来、団体主義的思想を基底とし、社会的公平負担主義の実現を基礎理念として構成された。しかし、今日においては、少なくともその基礎理念において、かような意味での対立は認めがたい。むしろ両者を融合統一し、公平負担の見地から、被害者の損害填補に重点を置いて、問題を解決しようとする傾向にあるといえよう。」(田中二郎『新版行政法上』弘文堂1964年刊184頁より引用)

 しかし、この場合、行政法の概説書であるため、憲法論との結びつきが書かれていない。

 その点を私が憲法学的に補完すると、次のようにいうべきであろう。旧憲法が前提とする天皇主権国家において国家賠償を考える時には、一般国民から見て、天皇は先の例の甲運送会社と同じく、第三者的立場の存在であった。したがって、民事法の論理に従い、代位責任と構成することは十分に可能であった。しかし、現行憲法では、国家の主権者が天皇から国民に代わっている。その結果、国民が国家に対して損害賠償を求める、という場合、その賠償を求める相手である国家とは、実際には我々国民の総体である。賠償金の原資は、我々国民の拠出した税金である。したがって、広く国家賠償責任を認めるときには、俗な言い方をすれば、同一人の右のポケットから左のポケットにお金を動かした程度の意味しかない。

 もう少し具体的な例を挙げれば、次のような事例を考えることができよう。今、仮に国の管理する原子炉が暴走し、全国民が等しく100万円の損害を受けたと仮定しよう。この場合、そのような膨大な賠償資金は国にはないから、その原資を得るためには、国民一人当たりに平均して100万ずつの臨時課税を行う必要が生ずるはずである。しかし、そのような賠償は全く無意味なことなので、すべての国民が被害者になるような場合には、そもそも国家賠償の必要は生じないと考えた方がよい。

 そうした無意味な国家賠償の成立を否定する論理として、293項の損失補償と共通する論理を求めるならば、国民相互間の公平負担の原則ということがいわれる(例えば宇賀克也『国家補償法』有斐閣法律学大系1997年刊3頁)。損失補償の場合には、あらゆる適法侵害について補償を認めるのではなく、特別犠牲の場合に限定して考える。換言すれば、国民総てが負担するべき損失を特定人が被る時、それを国民総ての負担で救済しようということである。

 次の文章は、損失補償に関するものであるが、国家補償法という考え方からすれば、当然に国家賠償の場合にも妥当するはずである。

「公益上必要な事業はそれによって利益を受ける社会の全員の負担において営まれるべきであることは平等の理想の要求するところであるが、しかるに実際においては、例えば事業のために特定の土地を必要とする場合に社会の全員の負担においてその需要を充たすと言うことは事実上不可能であり、しかも事業は公益上経営を必要とするものであるために、やむを得ず、その土地の権利者に一切の負担を負わせ、その犠牲において事業の需要を充たす」ことにならざるを得ない。この結果、「平等の理想は破られるので、この破られた平等の理想を元に復し、特定の一人に帰した負担を全員の負担に転化し、一旦失われた平等の理想を再び回復することがその目的とするところである」(柳瀬良幹『公用負担法』新版、有斐閣法律学全集14256頁より引用)
 これを明確に体系化したのは、今村成和である。今村成和は、自己責任と考える根拠として、一方において上述した危険責任という考え方も採用しているが(国家賠償法2条があるから、それは正しい。)、それと並んで社会保険という考え方を示す。すなわち、

「個人責任の場合には、結局においては、社会保険(危険の分散と社会化)との間に、両者の同視を許さない本質的な相違が存在するのに対し、国家責任の場合においては、責任の主体が国家(社会)であるということにより、それ自体の中に社会保険的効果を見出し得るということである」(今村成和『国家補償法』有斐閣法律学全集91957年刊、89頁より引用)

 このように国家賠償責任とは、社会保険のような制度だと考える場合には、そこに立法裁量の余地を認めることが可能になる。すなわち、損害が発生した場合に、それをしっかりと賠償する代わりにその保険費用相当額を国民全体で負担する法制度を導入するか、あるいは費用を必要最小限に抑える代わりに損害賠償をしないとする法制度とするか、という立法裁量である。ここまで説明して、初めて郵便法判決における次の一文の意味が判る。

「公務員の不法行為による国又は公共団体の損害賠償責任を免除し,又は制限する法律の規定が同条に適合するものとして是認されるものであるかどうかは,当該行為の態様,これによって侵害される法的利益の種類及び侵害の程度,免責又は責任制限の範囲及び程度等に応じ,当該規定の目的の正当性並びにその目的達成の手段として免責又は責任制限を認めることの合理性及び必要性を総合的に考慮して判断すべきである。」

 特定人に、避けることのできない、きわめて深刻な被害を与える場合には、たとえ国民全体の負担が増加しても国家賠償責任を免除し、あるいは制限することは許されない。しかし、一定の危険性があり、したがってその危険を甘受できない場合には利用しないことも可能である場合に、そのことを明らかにした上で、国民全体の負担を低額に押さえるという立法裁量は、国民国家において、個人の尊重と全体の負担の軽減という比較考量の中で、肯定されて良いはずである。この論理を、郵便法判決は次のように論じている。

「(郵便)法は,『郵便の役務をなるべく安い料金で,あまねく,公平に提供することによって,公共の福祉を増進すること』を目的として制定されたものであり(法1条),法68条,73条が規定する免責又は責任制限もこの目的を達成するために設けられたものであると解される。すなわち,郵便官署は,限られた人員と費用の制約の中で,日々大量に取り扱う郵便物を,送達距離の長短,交通手段の地域差にかかわらず,円滑迅速に,しかも,なるべく安い料金で,あまねく,公平に処理することが要請されているのである。仮に,その処理の過程で郵便物に生じ得る事故について,すべて民法や国家賠償法の定める原則に従って損害賠償をしなければならないとすれば,それによる金銭負担が多額となる可能性があるだけでなく,千差万別の事故態様,損害について,損害が生じたと主張する者らに個々に対応し,債務不履行又は不法行為に該当する事実や損害額を確定するために,多くの労力と費用を要することにもなるから,その結果,料金の値上げにつながり,上記目的の達成が害されるおそれがある。」

 補足して説明すると、この議論の背景になっているのは、郵便法3条である。3条は次のように述べている。

「郵便に関する料金は、郵便事業の能率的な経営の下における適正な費用を償い、その健全な運営を図ることができるに足りる収入を確保するものでなければならない。」

換言すれば、独立採算ということである。この当時は郵政事業特別会計、現在であれば郵政公社の枠内で、独立採算とされているのである。その結果、国家賠償を幅広く認めれば、その分だけ郵便料金が上がるという構造を持つことを判決は説明しているのである。

*   *                     

 以上の説明で、51条がどう問題になるかが判っただろうか。国会議員は国家公務員である(憲法15条参照)。したがって、国会議員の公務員としての活動、すなわち「議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で『民法上の不法行為』責任を問はれないのは17条の解釈上当然のことであって、51条というような特別の規定が存在する必要はない。だから、本問の場合に、Xとしては、51条は、単なる注意規定であると主張することになる。これに対し、Yは、51条がある以上、17条とは異なる特別の効果、すなわち「国家賠償法上およそ違法が問題とされる余地がないことを定めたもの」と主張し、Yが賠償責任を負うことがない、と主張していることになる。

 以下、この二つの見解のどちらが妥当なのかについて検討しよう。



二 免責特権と国家賠償の関係

(一) 51条の国民主権的意義

 憲法51条は、43条と並んでわが国現行憲法が、狭義の国民主権を採ると考える学説にとっては重要な根拠条文であり、人民主権説を採る学説にとっては説明に苦慮する条文と言うことになる。すなわち、本条は、狭義の国民主権原理の下、全体の奉仕者として活動する義務を負う国会議員に対して、法律あるいは契約により、拘束的委任を行ったり、あるいはその責任を追及してリコールしたりすることを禁じていると読む点に意義がある。

 現在、国会議員として立候補するものは通常政党の公認あるいは推薦をうたい、一般有権者は個々の議員の人格や政治信条、あるいは選挙公約もさることながら、そうした政党との所属関係を、投票に当たっての大きなよりどころとしている。すなわち所属政党は、その意味でいわゆる「公約」の重要な内容となっている。したがって、命令的委任が許容されるならば、国会議員は当選後に所属政党を変更し、あるいは新たな会派を結成したりする場合には、速やかに辞職し、その当否について、選挙民の判断を求めねばならない。もしくは国民は「公務員を選任し、あるいは罷免する」権利を有するのであるから、そうした行動に出た場合にはリコールすることが可能なはずである。そうした立法すらも禁じる点に、免責特権の第一の意義があることは明らかである。特定の党の比例代表制名簿に登載されて当選した者が、当選後に所属政党を変更するということがしばしば行われたが、これが可能なのも、本条が存在しているからに他ならない。

(二) 免責特権の自由主義的意義

 免責特権は、さらに進んで、一般国民の場合以上に、議院の職務における表現の自由を保障することに目的がある、とされる。その結果、免責特権の効果として民事上、刑事上の責任についても免除する効果がある。

 ここでの問題の第一は、こうした免責特権の存在は、議員の行為によって被害を受けた国民が、国家賠償法によって請求することをも禁ずるか、という点である。この点を巡る有名な判例として、本問のベースになった札幌病院長自殺事件がある。

 同事件の、札幌地方裁判所平成5716日判決は、次のように述べた。

「議会制民主主義が適正かつ効果的に機能することを期するためには、国民の代表たる国会議員が右統一的国家意思を形成していく際に行う議会における言論の自由が最大限保障されていることが必要であり、その際、国政を批判し又は反対党を攻撃する議員の発言が他人の名誉やプライヴァシーを侵害する場合のあることも避けられないところである。そして、それらの言論を一般国民がした場合には、違法な言論をしたとして、民事上あるいは刑事上の責任を問われることになるが、議員が民事上、刑事上の責任を問われるとすると、政府が反対党議員の言論をとらえて法的責任を追求する等により、議員が言論活動をするについて萎縮し、自由な言論活動をすることができなくなる可能性がある。憲法51条は、国民の代表者による政治の実現を期し、議会における議員の言論の自由を最大限保障するために、右のような他人の名誉・プライヴァシーを侵害することによる責任を含め、議員の議会内における言論に基づく一切の法的責任を免除したものである。
 以上からすれば、憲法51条は、議員の行った言論を絶対的に保障する趣旨に出たもの、すなわち、絶対的免責特権を規定したものと解するのが相当である。」

 これにより、個人に対する709条の責任追及を否定した。そして、国家賠償法11項の賠償請求については、要件が存在するか否かを検討し、存在しないという理由により退けている。この議論は、裁判所のおそらく17条に対する無理解、すなわち公務員一般に対して、この判決の用語に従えば「絶対的に」免責されているということを看過したものといえる。

 これに対し、最高裁判所第三小法廷平成999日判決は、51条については特段の解釈を示さず、憲法51条は、憲法17条に対して何ら特別の事項を定めたものではないとした。

 

17条の解釈に当たっては、最高裁判所は、それ以前の時点において、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民の権利に対応した関係での法的義務を負うものではなく、国会議員の立法行為そのものは、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法行為を行うというごとき、容易に想定し難いような例外的な場合」でない限り、国家賠償法上の違法の評価は受けないというべきであるとする判例を確立していた(在宅投票制度廃止事件=最高裁昭和601121日第一小法廷判決)。

 この札幌病院長事件判決では、最高裁判所は、この理を、個々の議員の国会における討論等にまで拡大したのである。

「国会議員が国会で行った質疑等において、個別の国民の名誉や信用を低下させる発言があったとしても、これによって当然に国家賠償法一条一項の規定にいう違法な行為があったものとして国の損害賠償責任が生ずるものではなく、右責任が肯定されるためには、当該国会議員が、その職務とはかかわりなく違法又は不当な目的をもって事実を摘示し、あるいは、虚偽であることを知りながらあえてその事実を摘示するなど、国会議員がその付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したものと認め得るような特別の事情があることを必要とすると解するのが相当である。」

 すなわち、その様な特別事情の存在することが、国家賠償責任を肯定する要件であるとするのである。先に、国家賠償法1条1項の解釈として、違法性の概念に関して職務権限説というものを紹介したが、これは、議員に関する職務権限説と理解することができる。

 ただ、この判決論理が、今日も先例として維持されているかどうかについては、大きな疑問がある。なぜなら、諸君も知るとおり、在宅投票制度廃止事件判決の理論は、その後、ハンセン病事件熊本地裁判決で大きな打撃を受けたからである。それに伴い、最高裁判所自身が大きく判例を変更している。例えば、平成17914日最高裁判所大法廷は、在外邦人の選挙権制限に対し、単に違憲判決を言い渡したのみならず、国に、被告に対し、5,000円及び遅延損害金の賠償を命じている。

 したがって、今日においては、ハンセン病事件熊本地裁判決が指摘したとおり、在宅投票判例の射程距離は、国会が憲法上広い立法裁量権を有していると認められる場合に限られるのであって、国会の活動が直接に人権を侵害した場合には及ばないと考えるべきである。そうすると、本問事例の場合には、個人の名誉権の侵害という直接的な人権侵害事例であるから、今日において、この事件が最高裁判所に係属したときには、異なる判決が出る可能性が高いということができるであろう。

 諸君の論文における最終的な結論がどうなるにせよ、札幌病院長事件において、最高裁判所は、憲法51条は、17条の注意規定であって、何ら特別の要件を加えるものではないと考えていることは明らかである。

 最高裁判所のいうとおり、一般公務員の場合と同じく、国会議員についても、その自由な討論を確保するためには、議員個人に対する不法行為責任の追及を禁止すれば十分であって、さらに進んでYが主張するように、国家賠償までも否定する趣旨を読むのは無理というべきである。国家賠償を否定したからといって、国会議員の討論の自由が拡大するわけではないからである。



三 議院の自律権と免責特権について

 今回の論文提出者にはいなかったが、学説としては、議院の自律権と結びつけてこの問題を論じる説がある。それは、免責特権を相対的保障にとどまるとし、場合によっては議員個人に対して損害賠償請求を行うことを承認しようとする説である。札幌病院長事件の被害者の場合、金銭賠償を得ることが目的ではなく、議員個人を金銭的に痛めつけることで、精神的満足を得ようという意図が大きい。その意図を実現するために工夫されたのがこの説である。これについては、私は完全に誤った説と考えている。以下、簡単に説明しておきたい。

 一般に、議員個人特権は、自律権とは関連づけない方が妥当である。

 1 歳費受領権は、自律権と考えることはできない。あくまでも議員の生活の基盤を確保し、議員が全体の奉仕者としての活動に専心できるようにすることが目的である。

 2 不逮捕特権で、最初に、個人特権か自律権かが問題となった。個人特権と考える場合には、その個人が客観的に犯罪を行ったのか否かだけを考慮すればよい。だから、逮捕許諾は、イエスかノーのどちらかとなる。それに対して、議院の自律権と考えた場合には、例え犯罪者であったとしても、議院にとりその者が必要であれば、期限付き許諾も可能となる。しかし、そもそも犯罪者であることを議院として認めつつ、その者を必要とするような病理現象を肯定する必要があるのだろうか。少なくとも、わが国現行憲法に影響を与えた英米独仏等の諸国では、自律権と考える説はないという点も、比較法的根拠としてあげることができる。

 3 免責特権の場合には、そうした実際面における不合理性を云々する以前に、理論的にも問題が多い。

 第一に、免責特権の持つ二つの機能のうち、少なくとも民主主義的意義、つまり選挙民からリコールされない権利について、これを議院の自律権と構成することは不可能であろう。内閣や裁判所からの侵害を防ぐという趣旨は、決して存在していないからである。そうなると、なぜ自由主義的意義だけは、自律権と構成できるのか、という問題に対して解答できない限り、理論としておかしいと言わざるを得ない。

 この説の論者は、自分ではその理由を書いていないので、この説をとる以上、諸君が自分でがんばらねばならない。それが何かの論理でできたとして、この説が唱えられるメインの狙いの段階でも、この考え方はかなり苦しい。

 この説の主たる狙いは、免責特権を相対的保障という結論を導くことにある。すなわち、免責特権は、議員個人ではなく、他の権力及び私人から議院の自律権を確保するために手段として設けられた規定であるという考えから、相対的な免責であると論じる。つまり、客観的に見て、自律権と関係のない行為については、免責を認めないと論じるのである。

 第一の問題は、この説が、一般公務員よりも、国会議員について保障を低下させる点である。すなわち、一般公務員でさえも17条から絶対的禁止と解される。それなのに、それ以上に表現の自由が保障されるべき国会議員について、一般公務員よりも保障を低下される根拠として51条を読むことは、論理的破綻というべきである。もちろん、同様の要件が存在すれば、一般公務員についても、個人責任を追及できると論じるのであれば、そうした破綻は免れるが、それは17条の解釈論として展開するべきであって、51条で論じるのは誤りである。

 第二の問題は、この議論が「客観的」という概念を使用していることである。すなわち、自律権保護のための規定であるならば、ある行為が自律権に含まれるかどうか自体が、議院の自主的決定に任されねばならない。だから、それが「客観的に」議員の職務かどうかは問題ではないからである(先に上げた不逮捕特権における自立権説は、客観的に犯罪者であっても、逮捕拒否ができると論じていたことを思いだそう。)。

 より正確に言うと、こういうことになる。我々の社会では、普通、客観的か否かは裁判所の決定するところである。紛争当事者から独立した第3者的地位にあるため、何が客観的かを決定するのに適していると考えられるからである。ところが、議院の自律権の場合には、この理屈は通用しない。そもそも自律権は、他の権力から議院を守るために認められる。この場合の他の権力というのは、ー議院内閣制を採っている関係で行政権からの侵害というのは事実上考える必要がないからー専ら司法権を意味する。すなわち、裁判所は、自律権が問題になる場面においては、第3者ではなく、紛争当事者そのものなのである。したがって、ある問題が自律権に属するか否かを決定する権限を裁判所に認める場合には、自律権の保障という議論そのものが崩壊していることを意味する。裁判所は、それが「客観的に」みて、自律権に含まれないとすることにより、ほしいままに議院の自律権を侵害することが可能になってしまうからである。

 国家賠償の場合には、議員個人の負担にならないから、裁判所にそれを認めても、自律権の侵害にはならないという考え方をする人もいる。しかし、これもおかしい。

 議院の自律権に対応する裁判所側の権能を「司法権の独立」という。例えば、浦和事件を考えてみよう。これは、既に結審した事件だから、国会がその判決の当否についてなんと言おうと、少なくとも、この事件の判決に国会の国政調査権が影響を与えることはあり得ない。それにも拘わらず、最高裁判所は、今後の司法活動に影響を与えるおそれがあるとして、国政調査に猛反発し、芦部先生なども、それを支持した。議院の自律権についても同じことである。直接に議員に対して損害賠償を認めなくとも、それが賠償するべき行為であるという判断を裁判所が示した場合には、その後の議院活動に影響を与えるという意味において、自律権に対する侵害と見るべきなのである。

 したがって、自律権に基づく相対的免責と構成した場合には、議院が自律権の問題ではないと明確に議決しない限り、国家賠償請求はいかなる場合にも否定するべきである、という答えが出てくる。つまり、説が狙いとしていたところに反して、個人に対する絶対的免責とした上で、国家賠償は別問題と構成するよりも、国家賠償が認められる可能性は非常に小さくなるという答が導かれるのである。

[おわりに]

 諸君から出てきた論文が、明らかに17条に関する無知を示していたので、本講では大きな力点を17条において説明した。しかし、本問の論点は、表題に示したとおり、17条と51条がどういう関係にあるのか、という議論にある。だから、答案構成としては、本講のように17条の説明に大きな比重を掛けてはいけない。あくまでも17条と51条の関係が中心論点であることを認識した上で、答案構成を工夫してほしい。