内閣総理大臣の地位と権限

甲斐素直

 問題

 甲内閣総理大臣が、A航空機製造会社の請託を受けて、国土交通大臣に、A社の製造する旅客機をB民間航空会社に購入させるよう働きかけるよう命じ、A社より、その報酬として金銭を受理した。
 この事件における憲法上の問題点を指摘し、論ぜよ。

<参考>

内閣法 6条:内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する。

航空法 1001項 航空運送事業を経営しようとする者は、国土交通大臣の許可を受けなければならない。

101条  国土交通大臣は、前条の許可の申請があつたときは、その申請が次の各号に適合するかどうかを審査しなければならない。

 当該事業の計画が輸送の安全を確保するため適切なものであること。

 前号に掲げるもののほか、当該事業の遂行上適切な計画を有するものであること。

 申請者が当該事業を適確に遂行するに足る能力を有するものであること。(4号以下略)

1091項 本邦航空運送事業者は、事業計画の変更をしようとするときは、国土交通大臣の認可を受けなければならない。

[はじめに]

 本問は大変平易な問題である。問題を見れば判るとおり、ロッキード事件最高裁判所判決をそのまま問題化しただけである。したがって、同判決をしっかりと読み、1000字程度にダイジェストすれば、基本的には合格答案となる。

 さらに本問では、難易度を下げる目的から参考条文を付した。すなわち、論点が72条の解釈であることを示す狙いから内閣法6条を参考条文として付し、また、国土交通大臣にとっては本件処理が「職務上不正な行為」に該当することを明らかにするため、航空法の関係条文を示しておいた。ここまで配意したにも拘わらず、君たちが手こずった理由が理解できない。

(一) 答案構成のポイント

 かつて、国家公務員試験第1種法律職で次の問題が出たことがある。

 内閣法は、「内閣は、国民主権の理念にのっとり、日本国憲法第73条その他日本国憲法に定める職権を行う。」(第1条第1項)、「内閣は、国会の指名に基づいて任命された首長たる内閣総理大臣及び内閣総理大臣により任命された国務大臣をもって、これを組織する。」(第2条第1項)、「閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的方針その他の案件を発議することができる。」(第4条第2項)、「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する。」(第6条)等々と定めている。
 内閣法のこれらの規定は、日本国憲法についてのどのような理解に基づくものと解すべきかについて、論述せよ。

 ずいぶん問題の形式が違うが、実は本問と答案構成的にはまったく違うところがないことは、参照条文としてあげた内閣法の規定と、この問題に紹介されている条文とが一致していることからも明らかである。

 残念ながら、提出された論文は、これら参考条文の意味を考えようともしていなかった。問題には余計な情報は無いと言う前提から、与えられた情報の意味をきちんと考えて、結論が出てから答案を書くようにしないと、国家試験での合格は無理である。

(二) 刑法について

 諸君は、当然刑法の勉強もしているはずだから、公務員に対する贈収賄事件が成立するためには、刑法上厳しい要件が存在することを知っているはずである。ロッキード事件そのものは、昭和55年の刑法改正以前だから197条の4のあっせん収賄罪は存在しておらず、1971項後段の受託収賄罪で内閣総理大臣は起訴された。本問では、特に時点を限定していないから、現時点の問題としてあっせん収賄罪を想定しなければいけない。しかし、本問に答えるにあたっては大差は無い。受託収賄罪では職務性の要件が、あっせん収賄罪では公務員としての立場で行ったか否かが問題となる(単なる私的働きかけでは成立しない)。その結果、いずれの犯罪を想定するにせよ、内閣総理大臣が、その地位に付随してどのような法的権限を持っているかが問題となるのである。

 仮に、内閣総理大臣には法的権限がなく、政治責任だと言うことになれば、内閣総理大臣は無罪という結論になる。

(三) 問題の基本構造

  1 民主主義と自由主義

 統治機構の問題は、ほとんど例外なく、自由主義から導かれる権力分立制と民主主義から導かれる権力統合の原理の相克として理解することができる。権力分立と権力統合を同時に実現することは不可能である。そこから、個々の場面で、両者の支配する限界を決定することが重要な論点となるのである。

 それが端的に表れているのが国会に関する憲法41条である。同条は、国会が国権の最高機関という地位と、唯一の立法機関という地位の二つを持っていると宣言している。前者が、民主主義から導かれる権力統合の宣言であり、後者が自由主義から導かれる権力分立の原理である事ははっきりしている。権力分立制が支配する領域では、国会は他の行政や司法の機関と対等の権力を持つに過ぎない。これに対し、民主主義が支配する領域においては、国会は内閣や裁判所の意思を踏みにじることが認められる。

 その点、内閣に関する規定は、41条ほどの明確性がない。内閣に関する冒頭の規定である65条は、あきらかに唯一の立法機関という地位に対応して、内閣の権力分立制上の地位が行政権であることを宣言している。これに対し、民主主義的ヒエラルキーの中での内閣の地位については、少し離れた663項において、連帯責任=議院内閣制を宣言するという形で規定されている。つまり、内閣は行政権に関しては国会の立法権と対等の地位にあるが、民主主義的な問題が現れると、国会に対して連帯責任を負うという形で、内閣の意思は国会の意思に劣後する事が宣言されて、41条の国権の最高機関性と対応しているのである。

  2 合議制機関

 国会と内閣は、どちらも合議制の国家機関である。国会は衆参両院で構成され、議事は議長の掌るところである。内閣の場合には、内閣法42項は「閣議は、内閣総理大臣がこれを主宰する。」と定め、閣議における議長役は、内閣総理大臣である事を明らかにしている。しかし、衆参両院議長も、内閣総理大臣も、議決に当たっては、他の合議体構成員と同等の1票の投票権しかない。考え方によっては、衆参両院議長よりも、議長としての内閣総理大臣の権限は弱い。なぜなら、衆参両院議長は可否同数の時には、自らの1票で議事を決定する権限を有しているが、内閣総理大臣は、連帯責任制が要求する全会一致の原則により、可否同数という場合は、そもそも発生しないからである。

 しかし、現行憲法は、内閣総理大臣に関し、それが首長としての地位を有していると66条の冒頭で宣言している。これは一体何を意味するのだろうか。内閣総理大臣(Prime Minister)は、議長(Prime Speaker)としての地位以外の何かを内閣において有しているのだろうか? それが本問の基本的な問題である。

 すなわち、現行憲法上、内閣の権限及び主任の国務大臣の権限については比較的はっきりした地位と権限に関する規定がある。これに対して、内閣総理大臣に関しては、72条に「内閣を代表して……行政各部を指揮監督する」という規定があるくらいで、その地位及び権限の内容がはっきりしない。このため、特に内閣の決定がない場合や、不明確な場合における職務権限の範囲が問題となるのである。

 本問で特に問題となるのが、内閣総理大臣は他の閣僚に対して優越的な地位を有しているか否か、そしてその優越的な地位の効果として、指揮命令権を有しているか否かである。それが否定的に解される場合には本問において、甲には何ら犯罪は成立しない可能性が高くなる。

 そこで内閣総理大臣の地位及び権限という、純然たる憲法上の問題が、ロッキード事件は大きな論点となったわけである。


一 首長の意義

 憲法661項は、内閣総理大臣を内閣の「首長」と呼ぶ。現行憲法は、内閣総理大臣を、上述のとおり一方で合議体である内閣の一員に過ぎないとしながら、他方で他の国務大臣の任免権(特に罷免権)を与えている。このような相互に矛盾する性格の権限をもつ地位のことを、この特殊な用語で呼んだと理解される。

 芦部信喜は、『演習憲法[新版]』272頁で、憲法調査会における次のような発言を紹介することで、端的に問題意識を示されている。

「内閣制度で最も重要なことは内閣の国会(国民)に対する責任である。総理大臣が意見の違う大臣をやめさせることができる、という制度のもとでは、内閣の統一性は保たれるが、連帯性は保たれず、連帯責任の原則が守られない。その点では、明治憲法時代の内閣管制の下の内閣の責任の方が強かったといえる。現行憲法の下で責任政治が行われない理由は、内閣制度がちぐはぐになっている点にある」

 これを受けて、宮沢俊義は、内閣が合議体である以上、総理大臣は明治憲法下の総理大臣と同じく「同輩者中の主席」であるのがむしろ自然であり、「その矛盾は、実際の運営において、関係者の実践的英知によって、解決されていくほかしかたがない」と述べていた(と芦部が、上記箇所に続けて紹介している。ただし、その出典とされている箇所にその様な文はなく、どこから引用したのかは不明である)。

 結論的に、首長という用語を、明治憲法下の総理大臣と同様に単に「内閣の首班」というだけの意味と理解するか(宮沢俊義著=芦部信喜補訂『全訂日本国憲法』505頁)、それとも他の国務大臣の上位に位置すると解する(例えば伊藤正己)かは、個人(諸君及び諸君の使っている基本書の著者)の好みの問題であって、どちらを採ろうと構わない。その場合に大事なことは、そうした結論に至るまでに、こうした問題意識がどこまできちんと把握しているか、そして、その結果、その用語理解の射程距離がどこまでか、を十分に理解しているかどうかである。

 なぜなら、どちらの理解をしたところで、現行憲法には相矛盾する規定があるのだから、特定の理解ですべての場合を押し切ることはできないからである。たいていの教科書が「日本国憲法は、内閣総理大臣に首長としての地位を与え、国務大臣の任免権、行政各部の指揮監督権を与えている(戸波江二『憲法』新版403頁より引用)」という調子で、首長という言葉そのものについては明確な定義せずに逃げているのは、こうした複雑さの反映である。

 すなわち、本問の中心論点は、内閣と内閣総理大臣の関係である。現行憲法上、内閣総理大臣には、大別して、内閣という合議体の一員としての地位と、内閣を対外的に代表する地位という二重の地位が存在していることをきちんと押さえていることが、ここでの議論の中心となる。

 なお、内閣総理大臣は、法律のレベルにおいて第3の地位を有している。それは主任の国務大臣としての地位である。現行法上は、内閣府の長としての地位となる。が、これについては、本問では問題が明確に論点から除外しているので、述べる必要はない。


二 内閣=行政の意思決定機関=の一員としての地位

 憲法65条によれば、行政権は内閣に属する。すなわち、内閣という合議体が、行政における最高の意思決定権を保有している。内閣が意思を決定するための会議を「閣議」と呼ぶ(内閣法41項)。

(一) 同等者中の第一人者

 閣議において、内閣を構成している国務大臣は、すべて対等の権限を有している。すなわち、各大臣は、案件の如何を問わず、閣議を求めることができ(同3項)、発言し、表決することができる。

 こうした閣議において、内閣総理大臣が有する権限は従来は「閣議を主宰すること(同2項)」に尽きていた。要するに、閣議を召集し、議長として活動するだけであって、それ以上、何ら特別の権限を有しなかった。内閣法の平成5年改正で、これに加えて「内閣の重要政策に関する基本的な方針」の発議権が認められた。しかし、これも発議権であるにとどまり、それ以上の積極的権限を予定していない。さらに、閣議においては、全会一致制が、明治憲法時代以来、憲法慣行として採用されてきている。この全会一致制は、責任本質説に立つならば、内閣の本質的要素である連帯責任制度(663項)の反映と考えられる。この結果、全閣僚が拒否権を持つ。すなわち、一人でも閣僚が反対すれば、どれほど首相として推進したい案件であっても、葬られることになる。

 したがって、この閣議の中の関係を見るならば、内閣総理大臣は、明治憲法時代と同様に、同等者中の第一人者に過ぎない。このことを重視するならば、首長という言葉は、宮沢俊義のように「内閣の首班」を意味すると理解するのが妥当ということになる。

 これに対して、例えば米国の大統領制の場合には、大統領は、文字どおり首長であり、閣議においても他の国務大臣の上位者として優越的地位に立つ。というより、そもそも閣議という概念そのものが厳密にいうと存在しない。あるのは、大統領が、自らの意思を決定するために関係閣僚ないし大統領特別補佐官を集めて行うミーティングである。そこでは、閣僚達の意見はあくまでも参考意見であって、決定は大統領個人の権限である。その場にいる全員が反対しようとも、大統領はその好むところにしたがって意思決定をすることができる。これに対して、閣僚は黙ってその決定に従うか、辞職するかという選択の自由はあるが、決定を拒否する権利はないのである(リンカーンは、会議で議論の結果『賛成1名、反対9名ですね。では本件を可決します』と言ったという有名な挿話がある)。

 閣議においてリーダーシップをとるべきだから、と論ずる者があるが、合議制機関においてどこまでリーダーシップがとれるかは基本的に個人の資質に依存するものであって、米国大統領のように憲法制度的に保障されたものではない。したがって、憲法論としてそのことを言うのはやはり誤りである。

(二) 内閣存立の要としての内閣総理大臣

 内閣総理大臣は、内閣を存在させるという一点に関しては、しかし、疑う余地無く、他の大臣に優越する地位を有している。すなわち、国会は内閣総理大臣だけを選出し、他の閣僚としてどのようなものを選ぶかは、その裁量に委ねている。憲法は、裁量権の行使に対しては、わずかに文民であること(662項)及び大臣の過半数が国会議員であること(681項但書)というたった二つの制約を課しているにすぎない。

 そしていったん成立した内閣において、国務大臣の誰かが欠けても内閣は総辞職する必要がないのに対して、内閣総理大臣が欠けた場合には、内閣は必ず総辞職しなければならないと定めて(70条)、その存続の要としての重要性を明らかにしている。

 しかし、上記の点は、憲法が確認的に定めたのであって、戦前の政党内閣においても当然のこととして認められていた。これに対して、現行憲法の最大の特徴というべきものは、内閣総理大臣に、意見の合わない閣僚を罷免する権利が認められたことである。

 これは、議院内閣制の根幹と言うべき責任内閣制の観点からする限り、かなり奇妙な規定といわざるを得ない。行政は一体的に執行されるべきであるから、内閣のような均質の小集団の中にあって、行政に関する意思決定に克服しがたい意見の対立が発生したような場合には、閣内不統一の責任をとり、内閣は常に総辞職をして、いずれの判断が正しいかの裁定を国会(国民)に求めるのが本来の姿というべきである。しかるに、この規定があるがために、内閣を改造して延命を図ることが可能となっている。換言すれば、連帯責任の原則を破っていることになるからである。

 先に述べたとおり、わが国の内閣制では、戦前から一貫して閣議の全会一致制を採用しているために、一部閣僚の拒否権の発動により、閣内不統一ということで、内閣がしばしば崩壊する原因になった。このため、政府が弱体で変わり易く、政治状況の不安定性から、軍部のファッショに道を開く結果となった。このような脆弱性をカバーするために、閣僚の拒否権に対して罷免権で応戦し得る力を内閣総理大臣に与え、閣僚が拒否権を濫用する事態を抑止する方策を導入した、と理解することができる。

 内閣の本質論として、均衡本質説が存在する。すなわち、議会の内閣不信任権の濫用に応戦する武器として、現行憲法は衆議院解散権を内閣に与えている(69条)が、これにより権力分立制の要請する立法府と行政府の均衡を確保することに、議院内閣制の本質があるという考え方である。この考え方に従う場合には、内閣総理大臣の閣僚罷免権もまた、それと同様の配慮から、政権の安定性確保のために導入されたものと理解するのが妥当である。

 しかし、罷免権が憲法上存在しているということと、それを実際に行使できるということの間には、相当の隔たりがある。内閣総理大臣が罷免権を行使しなければならないほどに閣内不統一をさらけ出した内閣は、政治的求心力を失い、そのまま存続を続けることは政治的に困難だからである。実際、戦後においても、深刻な閣内不統一に見舞われた内閣は、ほとんどが総辞職に追い込まれている。例えば、ワンマンといわれた吉田茂も、第5次吉田内閣の際、195412月の第20臨時国会で内閣不信任案を突きつけられたとき、解散しようとしたが、副総理緒方竹虎の署名拒否にあい、彼を罷免しようとして果たせず、総辞職に追い込まれている。ちなみに、この内閣を最後に、吉田茂は事実上政界から引退することになる。その後、海部俊樹が、やはり第2次海部内閣の際、199111月に衆議院を解散しようとして閣僚多数の反対にあい、やはり総辞職に追い込まれている。唯一の例外は、小泉純一郎が200588日の衆議院解散の際、解散に反対する閣僚を罷免した上で解散を断行し、勝利した例である。

 確かに、問題発言をしたなど不祥事を引き起こしたにも関わらず、辞職しようとしない閣僚を罷免した例は存在するが、単なる意見の対立で罷免に成功した例は皆無なのである。その意味で、69条の定める内閣の衆議院解散権と同じく、これは伝家の宝刀であって、抜くことは本質的に予定されていないといえる。

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 要するに、単なる同等者中の第一人者と見る説も、他に優越する地位を有するとする説も、その一面の真実を捉えたものであって、あらゆる場合に通用する説ではない、ということを、論文を書く場合には、しっかりと押さえていなければならないのである。


三 行政の執行機関としての地位

 現行憲法は、意思決定機関としての内閣についてもっぱら規定し、その決定された意思をどのような形で実施しうるかについてはほとんど規定していない。わずかに74条に「主任の国務大臣」という言葉が登場することが、その執行に関する唯一の規定となっている。

 ここに主任の国務大臣とは、「別に法律の定めるところにより、行政事務を分担管理」する国務大臣のことである(内閣法31項)。別の法律とは、内閣府設置法及び国家行政組織法5条のことである。この行政事務を分担管理するためにおかれている行政機関を、府又は省という(国家行政組織法33項)。すなわち府又は省というのは、独任制の国家機関である。

 国務大臣は、一方において内閣という合議体の一員として意思決定に参画するとともに、その決定された意思について、内閣を代表して特定行政領域に関して執行するものとしての地位を有するのである。この点、内閣総理大臣も同様である。ただ、内閣総理大臣は、これに加えて、行政各部の指揮監督権というものも予定されているところに特殊性がある。

(一) 内閣の対外的代表者としての地位

 憲法72条は、内閣総理大臣の権限として、内閣を代表して行政各部を指揮監督する権限を有することを予定している。この言葉はそれ自体では意味を確定できない。が、上述のように、74条に主任の国務大臣という言葉が登場することにより、この行政各部とは、具体的には、行政各部の主任の国務大臣の意味であることがはっきりする。また、執行機関としては、主任の国務大臣と考える場合には、法律の執行責任を明らかにするには主任の国務大臣の署名だけで十分なはずである。しかし、74条は、それに重ねて内閣総理大臣の連署も要求していることから、行政各部に関する指揮監督権とは、執行にあたっての指揮監督権を意味していることが明らかである。

 なお、以下の点に注意する必要がある。

1 この対外的代表権を、首長としての地位(661項)からでてくる、と通説は述べている。しかし、この通説は誤っている、と私は考えている。なぜなら、第一に、661項は明らかに意思決定機関としての内閣に関する規定だからである。仮に66条が執行機関としての個々の国務大臣に関する規定と読めるならば、個々の省庁の執行に関して問題が発生した場合にも、663項により連帯責任とならなければおかしい。要するに、個々の閣僚の辞任という形での内閣の延命策は、それ自体、憲法違反と評価すべきであろう。また、74条も連帯責任という考えからは説明できない。連帯責任ならば、主任の国務大臣ばかりでなく、全閣僚が署名しなければならないはずだからである。第二に、対外的代表権は、すべての主任の国務大臣がその担当領域に関して有しているからである。我々国民に対する国の行政活動が、主任の国務大臣名で行われるのはそのことを示している。また、条約の締結に当たり、内閣総理大臣ばかりでなく、外務大臣の場合にも、全権委任状が不要とされる(条約法条約72項)が、これも、外交のいう領域に関して、主任の国務大臣が当然に内閣を対外的に代表する権限を有しているところから生じている。

2 この執行機関としての活動は、閣議による意思決定を受けて行われなければならない。このことから、閣議による決定がない場合には、どうしたらよいか、ということが問題となる。

 ここからが本問の中心論点となる。

 ロッキード事件最高裁判決は、この点について、肯定的に理解している。すなわち次のように述べる。

「内閣総理大臣は、少なくとも内閣の明示の意志に反しない限り、行政各部に対し、随時その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有するものと解するのが相当である。」

 問題は、何を根拠にこのように述べることが可能か、という点にある。それについては、判決に参加した判事の意見は大きくずれている。すなわち、この部分については、実に4つの補足意見が付されているのである。順に見ていくことにしよう。

(1) 園部逸夫、大野正男、千種秀夫、河合伸一各判事の補足意見(以下「園部等意見」という。)

 この意見は「内閣総理大臣は、憲法72条に基づき、行政各部を指揮監督する権限を有するところこの権限の行使方法は、内閣法6条の定めるところに限定されるものではない」と主張される。換言すれば、指揮監督権は、閣議による意思決定がなくとも行使可能と主張する。その根拠は、指揮監督権が

「行政権の主体たる内閣を代表して、内閣の統一を保持するため、行使されるものであり、その権限の範囲は行政の全般に及ぶのである。そして、行政の対象が、極めて多様、複雑、大量であり、かつ常に流動するものであることからすると、右指揮監督権限は、内閣総理大臣の自由な裁量により臨機に行使することができるものとされなければならない。したがって、その一般的な行使の態様は、主任の国務大臣に対する助言、依頼、指導、説得等、事案に即応した各種の働き掛けによって、臨機に行われるのが通常と考えられ、多数意見が『指示を与える権限』というのは、右指揮監督権限がこのような態様によって行使される場合を総称するものと理解することができる。」

この場合、内閣法6条が定める場合とそうでない場合とでどのような違いが生ずるかが問題となる。その点については次のように述べる。

「内閣総理大臣の指揮監督権限が右のような通常の態様で行使される場合、それは、強制的な法的効果を伴わず、国務大臣の任意の同意、協力を期待するものである。これに対し、内閣総理大臣が、内閣法6条の定めるところにより、閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部の長たる主任大臣を指揮監督する場合には、主任大臣はその指揮監督に従う法的義務を負い、もしこれに従わない場合には、閣議決定に違反するものとして、行政上の責任を生ずることとなる。このように、内閣法6条は、内閣総理大臣が憲法72条に基づく指揮監督権限の行使について右のような法的効果を伴わせる場合の方法を定めるものであって、本来前項で述べたような性質を有する憲法上の指揮監督権限を制限するものではなく、もとより制限できるものでもない。」

(2) 尾崎行信判事の補足意見(以下「尾崎意見」という。)

 この意見では、内閣の意思とは別に、内閣総理大臣の意思の自由が認められ、それに基づいて主任の国務大臣を指揮監督する自由がある、と主張している点においては、園部等意見と変わらない。異なるのは、指揮監督権は、内閣総理大臣の本来的権限であり、内閣法6条は、その憲法の付与した権限に対する制約と理解している点である。

「この指揮監督権限は憲法72条によって付与されたものであって、内閣総理大臣からこの権限自体を奪うことは憲法に違反して許されない。しかし、その権限行使の方法について合理的条件を付することは許される。この権限は内閣を代表して行使されるものであるから、内閣法6条のように内閣の統一された意思に沿って行使されるよう内閣総理大臣が自己の賛成を含む合意である閣議決定に従って行使することとするのは合理的であり、しかも、罷免権によって最終的には内閣総理大臣の意見を優先させる方途があるのであるから、かかる条件は憲法72条に反するものではない。内閣法6条は、指揮監督権限の行使方法を定めたにすぎず、権限そのものの範囲を消長させるものではない。この権限は、憲法に由来するのであって、閣議決定がある場合に初めて発生するものではない。」

 この見解によれば、わが国行政権は内閣ではなく、内閣総理大臣に帰属していることになる。したがって通常の場合には、行政の進め方を閣議にかける必要はなく、随時、内閣総理大臣が主任の国務大臣に指揮監督すればよいことになる。すなわち、

「当初から内閣法6条に定める手続に従ってこれを行使し、権力的に強制するのではなく、それに先立つ代替的先行措置あるいは前置手続として、指導、要望、勧告等、これを『指示権(能)』というかどうかはともかく、これらによって内閣総理大臣の所期する方針を主任大臣に伝達し、任意の履行を求めるのが通例と認められる。そして、この指導等は、内閣総理大臣の指揮監督権限の行使の一態様であるが、内閣法6条に基づく場合とは異なり強制力を有しない。したがって、内閣総理大臣は、その指導等に主任大臣が従わない場合には、内閣法六条に従って閣議決定を求めることになる。その結果、閣議において、内閣総理大臣の所期する方針が合意されれば、これによって強制的な指揮監督権限を行使するし、期待する閣議決定が得られない場合(閣議決定は全員一致によるのが慣行とされている。)に内閣総理大臣があくまで自らの方針を貫こうとすれば、罷免権(憲法682項)を行使してでも強行することとなる。このように、指導等は、右権限の強制的行使に至る道程として採られる先行的措置であり、この権限の内容の一部をなすものとみるべきで、憲法72条に定める指揮監督権限に包摂され、内閣総理大臣の職務権限に属するのである。」

 要するに、意思決定がない場合には、好きなように指揮監督できる、という解釈をこの説はとっている。しかし、この見解は、立法論としては成り立ち得るかもしれないが、現行内閣法の解釈論としては明らかに誤っていると考える。なぜなら、内閣法8条は、内閣総理大臣の権限として中止権を定めているからである。

 すなわち、内閣総理大臣は、第一に、明示・黙示を問わず、内閣の意思に反する行動はできないというべきである。第二に、ロッキード事件で問題になったのは、内閣が決定すべき事項というよりも、運輸大臣に内閣から包括的に委任されている事項に関する内閣総理大臣の指揮監督権の有無である。したがって、まったく内閣としての意思決定がない場合における指揮権行使が内閣の意思に反していないことは明らかといえる。

(3) 草場良八、中島敏次郎、三好達、高橋久子各判事の少数意見(以下「草場等意見」という)

 この意見における72条関連部分は比較的短いため、以下に全文を紹介する。

「内閣総理大臣は、憲法72条に基づいて、主任大臣を指揮監督する権限(内閣法6条)を有するとともに、これと並んで、主任大臣に対し指示を与えるという権能を有している。すなわち、内閣総理大臣は、行政権を行使する内閣の首長として、内閣を統率し、内閣を代表して行政各部を統轄調整する地位にあるものであり、閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部を指揮監督する職務権限を有するほか、国務大臣の任免権(憲法68条)や行政各部の処分の中止権(憲法72条、内閣法8条)を有している。憲法上このような地位にある内閣総理大臣は、内閣の方針を決定し、閣内の意思の統一を図り、流動的で多様な行政需要に対応して、具体的な施策を遅滞なく実施に移すため、内閣の明示の意思に反しない限り、主任大臣に対し、その所掌事務につき指導、勧告、助言等の働き掛けをする、すなわち指示を与える権能を有するというべきである。」

(4) 可部恒雄、大西勝也、小野幹雄各判事の補足意見(以下、「可部等意見」という。)

 この意見の72条関連部分も比較的短いので、全文を紹介する。

「内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権限の行使は、『閣議にかけて決定した方針に基づいて』しなければならないが、その場合に必要とされる閣議決定は、指揮監督権限の行使の対象となる事項につき、逐一、個別的、具体的に決定されていることを要せず一般的、基本的な大枠が決定されていれば足り、内閣総理大臣は、その大枠の方針を逸脱しない限り、右権限を行使することができるものと解するのが相当である。けだし、内閣総理大臣の指揮監督権限は、行政の統轄調整を図る手段として、内閣の首長である内閣総理大臣にのみ付与された憲法上の権限であって、それが機能するためには、内閣の意思として閣議決定された方針を逸脱しない限り、いかなる場合に、どのような事項について右権限を行使するかは、内閣総理大臣の自由裁量に委ねられていると解すべきであるからである。そして、このことは、『閣議決定に基づいて』と規定することなく、『閣議にかけて決定した方針に基づいて』と規定する内閣法6条の文理にも合致する。
 したがって、内閣総理大臣は、閣議決定が一般的、基本的大枠を定めるものであるときは、それを具体的施策として策定し、実現する過程で生じる様々な方策、方途の選択等に関しても、閣議決定の方針を逸脱しない限り、適宜、所管の大臣に対し、指揮監督権限を行使することができるというべきであり、行使の対象となる具体的事項が閣議決定の内容として明示されているか否かは問うところではない。」

 可部等意見は、判決文の掲載順序では、二番目であったが、最後に紹介した。理由は簡単で、私はこれが、少なくとも書かれている限りでは正しい意見だと考えているからである。少なくとも実務の流れにはこれが一番近い。

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 このように、職務権限としての指揮監督権を承認する場合にも、大きな説の対立があるのであるから、このあたりをどの程度しっかり書くかが本問の論文としてのよしあしを決めることになる。

 採点に当たっては、単に判決の主たる理由にとどまらず、個別理由にまで踏み込んだ形で理由を展開していさえすれば、十分なものとされるであろう。