裁判の公開
甲斐素直
問題
XはA女に対する強姦罪(刑法177条)で逮捕され、起訴された。その公判において、被害者A女に対する証人尋問を行うに際し、担当裁判官Yは、非公開で行うと決定した。
そこで、Xは、非公開による証人尋問は憲法37条および82条に違反すると異議を申し立てた。
これに対し、Yは、国際人権B規約14条1項に照らし、非公開とすることに何ら問題は無いとして、異議を却下した。本問における憲法上の問題点について論ぜよ。
[問題の所在]
このテーマについては、平成5年に司法試験で、次の問題が出ている。
次の各事例における裁判所の措置について、「裁判公開の原則」との関係で生ずる憲法上の問題点を挙げて論ぜよ。
(1)映画の上映がわいせつ図画陳列罪に当たるとして、映画製作者が起訴され、当該映画の芸術性・わいせつ性を巡って争われた刑事訴訟において、裁判所が、わいせつ物の疑いのあるものを一般傍聴人の目にさらすのは適当ではない、という理由で、公判手続きの傍聴を禁止した場合
(2)ある企業が、その保有する営業秘密を不正に取得し、使用しようとする者に対し、右不正行為の差し止めを求めた民事訴訟において、裁判所が、審理を公開すると営業秘密が公に知られる恐れがあるという理由で、口頭弁論の傍聴を禁止した場合
(3)右の(2)の訴訟において、裁判所が、口頭弁論の傍聴は禁止しなかったものの、傍聴人がメモを取ることを禁止した場合
裁判の公開は、司法権の中心概念をどこに求めるにせよ、その本質的要求として重要視されてきた。そのことから、わが国憲法は、ほとんど例外を認めない形で裁判の公開を保障している。しかし、そのためにかえって様々な場合に、国民として裁判を受ける権利を実質的に侵害されている、という事態が生じている。本問及びこの司法試験問題で具体的にテーマとされている猥褻物陳列罪や公私の領域における秘密漏洩行為という三つの点が従来から問題とされてきた。
また、これとは少し異質の問題として、近時、情報公開法において、委員会段階ではイン・カメラ審理(in camera review)が許容されているのに、裁判段階になると認められないという点が問題となっている。
すなわち、今日的要求としては、裁判の本質に反しない限度で、可能な限り、公開原則に対する例外を許容しなければならない。他方、無造作に例外を許容しすぎることも問題で、その限界をどこに求めるか、ということが問題となる。全く同様の事件を取り上げていながら、少年事件や家事審判事件となると公開原則が無造作に排除されるのが正しいのか、という問題も存在している*1。本問においても論じてかまわないが、可能な限り論点を削るという視点から見た場合、本問の枠からはみ出すので、この非訟事件関連の問題は、ここでは取り上げないが、諸君自身として研究しておいてほしいところである。
このように近時、強い問題意識が持たれている領域であり、以前と違って教科書でも取り上げているものが多くなった。しかし、依然として書いてない教科書も有り、他の教科書に目を通したり、幅広く演習書を読んで勉強したりする必要がある問題である。
一 裁判の公開概念と、その限界構築の方法
公開という言葉には二つの意味がある。裁判の原告や被告に公開することを要求する当事者公開と、国民に対して広く公開することを求める一般公開である。国会における本会議の公開との対比で言えば、ここでの公開は後者、対国民的な公開を意味し、具体的には裁判の傍聴を許容することを言うと解される。
裁判の一般公開はなぜ必要とされるのだろうか。
それについて、レペタ事件最高裁判決は「裁判を一般に公開して裁判が公正に行われることを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとすることにある」と述べる(最大平成元年3月8日=百選第5版160頁)。すなわち、制度的保障である。したがって、制度の中核を侵害しない限り、公開原則を制限することは一般論として可能である。
そこで、この制度の犯すことのできない中核は何か、ということが問題となる。一般論的に言えば、それはこの国民の裁判に対する信頼ということになる。この点についてきちんと論じている判例はないが、レペタ事件最高裁判決は次のように述べている。
「傍聴人のメモを取る行為についていえば、法廷は、事件を審理、裁判する場、すなわち、事実を審究し、法律を適用して、適正かつ迅速な裁判を実現すべく、裁判官及び訴訟関係人が全神経を集中すべき場であって、そこにおいて最も尊重されなければならないのは、適正かつ迅速な裁判を実現することである。傍聴人は、裁判官及び訴訟関係人と異なり、その活動を見聞する者であって、裁判に関与して何らかの積極的な活動をすることを予定されている者ではない。したがって、公正かつ円滑な訴訟の運営は、傍聴人がメモを取ることに比べれば、はるかに優越する法益であることは多言を要しないところである。してみれば、そのメモを取る行為がいささかでも法廷における公正かつ円滑な訴訟の運営を妨げる場合には、それが制限又は禁止されるべきことは当然であるというべきである。適正な裁判の実現のためには、傍聴それ自体をも制限することができるとされているところでもある」
要するに、公開原則が要求しているのは、文字通り、一般公衆に対して傍聴を許すことに尽きるのであって、それ以上のものではない。公正かつ円滑な審理がまず要求されるのであって、それと抵触しない限りで傍聴を許す必要があるのに留まるということである。換言すれば、国民の知る権利の保障ではない、というのが判例の見解である。
二 憲法82条2項について
ここで問題は、82条2項がその例外を非常に厳しく制限する姿勢をとっていることである。すなわち、非公開が許されるのは、文言に依存する限り、「公の秩序又は善良な風俗を害する虞」がある場合に限定される。
そこで、問題となるのは、この公序良俗という言葉が何を意味しているか、ということになる。かつての通説は次のように説いていた。
「公序良俗違反という観念は、違法性の実質的、社会学的側面を表現するために用いられることもあるが、ここではそのような一般的意味ではなく、より具体的に、人身を刺激して公共の治安を破り、あるいは猥褻等人心に不良の影響を及ぼして風教を傷つけるようなことをいうものと解される。旧憲法『安寧秩序又は風俗を害する』というのと同義である。」(『註解日本国憲法』有斐閣1241頁より引用)
このように公序良俗概念を狭く解する場合には、猥褻物陳列罪は何とかなるかもしれない(刑事裁判という点をどう考えるか、という問題が残るが)としても、秘密漏洩罪や現時点で最大の問題となると考えられる情報公開におけるインカメラ審理の導入などを公序良俗で説明することは不可能という答えが導かれることになる。本問の強姦罪は公序良俗で制限できるかは非常に微妙である。このような解釈の背景には、公開原則を非常に大事なものとする考えが存在していることはいうまでもない。
これに対して、近時は次のように述べて、例外を幅広く認めるべきである、という見解が一般的である。
「憲法82条の定める公開の保障の重要性を承認するとしても、それだけが問題なのではなく、それを包み込むところの、公正な手続き的配慮の要請というものがその基底にあり、今やむしろそこにこそ着眼して裁判の運営を考えるべき時期に来ているのだ、ということも、はっきり自覚すべきところなのであろう。」
(三日月章『民事訴訟法研究(7)』有斐閣、昭和53年11頁)
こうして、基本的な方向としての裁判の非公開という目的を、憲法82条2項の極めて限定的な文言にも関わらず達成するために、様々な手法が検討されることになる。以下、簡単に紹介しよう。
(一) 国際人権B規約14条との関連
解釈法学として、本問において、まず第一に考えなければならないのは、憲法82条と国際人権規約の関係である。本問では、その点を確実にするために、問題文の中に明確に書き込んであるが、そうした書き込みの有無とは関係なく、この問題を論じなければ、自動的に落第答案である。
わが国は昭和54年に国際人権規約を批准し、この条約は自力執行可能な条約に属するから、この規定もまた国内法としての効力を有する。しかも条約は法段階説的に、法律に優越する法段階にあるとされるから、条約違反の立法や行政行為は無効と考えなければならない。
ところが、国際人権規約14条1項は、憲法82条と相当に異なる定め方をしているため、両者をどのように調和的に解釈するべきかが問題とならざるをえないのである。同項は次のように述べる。
「報道機関及び公衆に対しては、民主的社会における道徳、公の秩序もしくは国の安全を理由として、当事者の私生活の利益のため必要な場合において又はその公開が司法の利益を害することとなる特別な状況において、裁判所が真に必要と認める限度で、裁判の全部又は一部を公開しないことができる」
つまり、単純に読めば、82条の言っている公序良俗違反に加えて、国の安全及び私生活上の利益保護の場合に裁判の公開の例外を認めているのである。
これを根拠とすれば、先に問題となるとして挙げた領域のほぼすべてについて裁判の非公開を根拠づけることが可能となる。本問の強姦罪における被害者の保護については、「当事者の私生活の利益」という言葉で読めることは明らかである。
問題は、どのようにして憲法82条と国際人権規約の整合性をとるかである。考え方としては次のようなものがあり得る。
第一は単純に国際人権規約が憲法に優位する、と説明することである。
この説を採る場合には、本問は、論文としては、憲法82条の問題ではなく、専ら憲法98条の解釈論となる。今回の出題は、司法の章の議論をすることに狙いがあるから、この説については、それがあるという以上の説明はしない予定であった。しかし、かなり多くの諸君がこの説を採用し、理由付けに無残に失敗していたので、予定とは異なるが、最後に、少し詳しく説明する。
第二は、憲法優位としつつ、憲法の文言の中に国際人権規約を読み込むという手法である。例えば、憲法21条の表現の自由という言葉は、その例示からする限り、意見発信の自由だけを保障している読める(石井記者事件最高裁判決=百選第5版156頁参照)。しかし、国際人権B規約19条2項の要求する「あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け」る権利も読み込む。それと同じように、公序良俗という言葉の理解としてこの14条を読み込んでいく、という方法である。
第三は、同じく憲法優位としつつ、憲法が82条2項以外の場合にも、非公開の場合を認めていると解する立場である。この場合、憲法82条2項は単なる例示と解釈することになる。
以下においては、第二説及び第三説について説明する。
(二) 公序良俗概念拡張説
憲法の文言解釈という観点から見れば、公序良俗という言葉の意味を戦前の安寧秩序よりも拡大することができれば、それがもっとも簡明な説明であることは疑う余地がない。もっとも問題がないわけではない。
例えば佐藤幸治は次のように言う。
「この『公の秩序…』の要件が刑事裁判の公開停止にもかかっているのをみると、それを広く解釈することには疑問が残る。」(佐藤『日本国憲法論』成文堂609頁)
この引用だけでは判りにくいと思うので補足すると、憲法82条は「政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。」として絶対的公開事項を定めている。これらはいずれも刑事事件に関する保障と読める。その結果、安易に公序良俗を拡張すると、この規定との整合性が問題になってくるのである。
したがって、この説を採る場合には、こうした批判があることを頭に置いて、それを跳ね返せるだけの理由を展開し、あるいは十分に限定的に議論を展開する必要がある(念のため強調しておくが、こうした批判があると言うこと自体を論文に書くのは間違いである。それは短答式的な知識であり、論文式試験の評価対象者はそれに合格しているのだから、もはやそうした知識の有無は評価対象にならない。つまり、そのような記述はちゃんと書けた場合にも、いたずらに論文を長くし、他の論点に投入できる時間と紙幅を削るだけで、評価の向上にはつながらない。しかも、内容が誤っていれば、減点される。)。
そこで、例えば戸波江二は次のように述べる。
「従来の憲法学説が『公の秩序』の内容を公共の安全と狭く解釈してきたこととの関係では問題が残るもののそれを社会的に認められた権利と解し、かつ、非公開にことに十分な理由が認められる場合に限定したうえで、『公の秩序』を広げることがもっとも異論の少ない解釈であるように思われる。」
(戸波江二「裁判を受ける権利」ジュリスト1089号281頁より引用)
しかし、公序良俗という言葉は様々な場面で使われるだけに、ここでの意味をなぜ社会的に認められた権利と決定できるのかははっきりしない。また、社会的権利というのは具体的に何かもはっきりしない。
高橋和之は次のように述べる。
「プライバシーや営業の秘密、情報公開に関する訴訟で、公開裁判がかえってプライバシーや営業の秘密を侵害し、あるいは秘密とすべき情報を公開してしまう危険を伴う場合には、公開が『公の秩序』を害する恐れのある場合と解される。ここでの『公の秩序』とは、人権規定を含む憲法の諸原理により形成されているものであり、公開がこれらの諸原理と抵触する場合には、『公の秩序』を害すると解されるのである。」
高橋『立憲主義と日本国憲法』第2版、有斐閣382頁)
この高橋説を重ねて読むと、戸波説でいう社会的権利というのも人権と読み替えて良いと思う。
裁判の非公開は、その審理内容が一般に公表されることを事前に抑制する行為であるという点において、表現の自由の事前抑制と同質の行為である。事前抑制禁止の法理に対する例外としては、その表現行為によって害悪の発生することが異例なほど明白であるか、あるいは回復不可能な損害が発生することが明白であることが要求される。戸波江二のいう「非公開にすることに十分な理由が認められる場合」というのも、この程度の十分さと考えないと、国際人権規約の要求する「裁判所が真に必要と認める限度」という要件にかみ合わないと考えている。
なお、浦部法穂は、次のように述べている。
「『公の秩序又は善良の風俗』という言葉は、〈中略〉裁判の公開に関しては、今日ではむしろ、当事者や証人など訴訟関係人の名誉・プライバシーその他の人権に対する配慮の必要性の方が高いと言うべきである。先にも引いた国際人権規約14条が裁判公開原則をかなりの程度相対化しているのは、そのためである。したがって、本条の解釈としても、訴訟関係人の人権を害する恐れがある場合も、ここにいう公の秩序または善良の風俗を害ずる恐れがある場合に含めて解すべきであろう。」
(『注釈日本国憲法下巻』青林書院1296頁)
このように、拡大して考える説を採る論者は、比較的多いように思われる。
(三) 例示説
例示説は、82条2項は公序良俗に限定したものでは無く、それ以外にも、同条の基礎となっている裁判の公正という要求により合致する場合には、公開の制限が可能である、と説く。
例えば佐藤幸治はかつて次のようにのべた。
「フランス革命前のアンシャン・レジームの下での秘密裁判を克服することを課題とした近代の公開・対審・判決という訴訟原理(公開即公正という発想)は、その当時に比べれば、裁判、特に民事の裁判に期待される役割は大きく拡がってきている現代において、多少修正し、実質的に公正を確保するような裁判原理を模索購求すればよいのだという認識がある」
(佐藤幸治『現代国家と司法権』有斐閣昭和63年刊434頁より引用)
文言解釈として少し弱いところに問題があるが、前に述べたとおり、制度的保障と解し、裁判の公正がまず要求される、という原点にたつ限り、十分説得力はある。
近時は少しトーンが変わって、次のように述べている。
「民事訴訟については、『公の秩序…』に匹敵するような重大な事由がある場合には人権ないし権利の内容・性質、公開によって引き起こされる害悪の重大性、非公開審理を回避しうる方策の有無等の検討を求めるということになろう(『公の秩序』例示説といわれれば、そうかもしれないが)。」
このように例示と述べれば、その例示の外延を画するものとして、国際人権規約を引用して、例外を限定的に拡大することは容易に可能となる。
(四) 非公開審理を求める権利
先に触れたとおり、82条を制度的保障ではなく、人権と考える立場がある。
すなわち、およそ一般的に人権が審理の公開によって侵害されるような事態が発生すれば、32条の裁判を受ける権利から一般的に、非公開審理を求める権利というものを構成するのはそう突飛な発想とは言えない。
「本稿は、憲法32条を、裁判所へのアクセスを保障しただけでなく、非刑事裁判手続きにおけるデュー・プロセスを保障したものと理解し、その一要素として実効的な救済を求める権利を内包するものと理解する立場に立ち、裁判を公開にすることが実効的な救済を不可能にする場合、原告は非公開審理を求める権利を主張しうるものと考える。従って、政府が国民の秘密を侵害し、その秘密に対して有する基本的人権を侵害している場合には、国民は憲法32条の下でその秘密について有する基本的人権の侵害に対して実効的な救済を求める権利を有しており、そこから非公開審理を求める権利が導かれると考えるべきである。」
(松井茂記「裁判の公開と『秘密』の保護」民商法雑誌106巻581頁より引用)
ここだけを見ると、この説は極めて魅力的であるが、諸君としてこの説に依拠しようとするときには注意するべき点が一つある。それは、非公開要求が国民の権利である、ということは、裁判所の裁量権を否定してしまう、という点である。したがって、当事者の非公開要求にも関わらず、裁判所が公開とした場合に、違憲問題が発生する。このことは、制度的保障という理解そのものの限界などと絡んで、論文における理論体系全体に影響を及ぼす、ということである。
高橋和之も抽象的権利にとどまらず、具体的権利だと主張する(『立憲主義と日本国憲法』第2版、有斐閣381頁)。この場合にも、高橋説の前提を為す司法権概念を理解する必要があり、それは少々複雑な議論なので、ここでは割愛する。
(五) イン・カメラ審理と公開原則
傍聴人の排除という点に絡む主要学説は以上の通りであるが、冒頭にも述べたとおり、今後、こうした問題が出題されるとすれば、むしろ情報公開法との関連で出題される可能性が高い。その場合における重要な学説を紹介しておきたい。
この説では、公開審理とは、まさに本問で問題になっているような、傍聴人を排除して訴訟当事者と裁判官だけで行う審理のことをいう、ととらえる。その結果、次のように述べる。
「これまで構築されてきた憲法秩序の下では、企業秘密、財産権よりも、知る権利を具体化するための権利である情報公開請求権の方が高い価値を持っているとされているのであるから、いくつかの裁判例で説かれているように、この権利の制限に対しては、裁判所は厳格な司法審査を行わなければならない。すなわち、情報公開請求権の保護のために厳格な司法審査を行う過程で、裁判所は、当該情報・文書を非公開で審理することができるのである。<改行>ところで、この非公開審理は、傍聴人を法廷から排除して証拠調べを訴訟当事者と裁判官の間で行うという方式ではないことに注意しなければならない。非開示処分の対象となった、あるいは、開示の執行停止の対象となった情報・文書を裁判官のみが直接閲覧するという形の証拠調べである。この方式は、裁判官に与えられた裁量権の範囲内のものであり、その権限行使が公正な裁判を維持し、裁判への信頼を得るためであることは前述したとおりであり、憲法82条が認めるところと解される。」
(戸松秀典「裁判の公開と非公開文書の裁判」ジュリスト増刊『情報公開と著作権法』49頁より引用)
すなわち、インカメラ審理は、裁判官の証拠調べの方法にすぎず、公開原則と直接的には抵触することはない、と把握するわけである。確かに現場検証その他の証拠調べは一般に対審とされていないから、これは非常に説得力がある。
(六) まとめ
いつも強調するとおり、諸君としては自分のとらない学説を非難する必要はない。自分のとる学説を、なぜそれを採るのか、という根拠とともに説明すれば十分である。だから、ここに紹介した学説の中のどれかを、その論拠とともに理解すれば十分である。
上記の学説について、それが相互排斥的なものと理解する必要はない。例えば、非公開審理を求める権利説は、当然82条の条文解釈としては、例示説を前提にしていると考える必要がある。それ自体は公序良俗としているわけではないからである。
また、国際人権規約について国内法上の効力を否定する、というような極端な学説を採らない限り、国際人権規約は、どの説を採る場合にも、その根拠として把握するべきであろう。
三 憲法37条について
設問に明記されていながら、誰も論じてくれなかった今ひとつの大きな問題は、刑事事件については憲法37条が明確に公開裁判を要求していることである。したがって、仮に37条が刑事事件において絶対的公開原則を要求していると読む場合には、それ以上論ずるまでもなく、本問については非公開は許されない、と結論されることになる。
しかし、一般的には37条は82条の原則を確認しているに過ぎないと解する。なぜなら、82条が絶対的公開事由としてあげているのは、「出版に関する犯罪」「政治犯罪」と明らかに刑事事件を限定的にあげているからである。すなわち、82条は刑事事件についてさえ、公開しなければならないものと非公開にできるものの区別があることを予定している、と読めるのである。
第3章の権利という言葉をどう読むかは、この点と絡んで考える必要がある。仮に第3章の権利という言葉で、31条を読めば、同条は罪刑法定主義を保障していると解する点については争いはないから、刑事事件は自動的にすべて含まれることになる。また、13条で一般的行為自由を読んでも、刑事法というのは行為自由の制限法であるから、すべて含まれることになる。前に述べたように、刑事裁判でも非公開が許容されるという前提からいう限り、このような解釈は間違いというべきであろう。結局、第3章で人権カタログに具体的に継起されている権利、具体的には15条から29条までをいうと見るのが妥当と考えている。
ここで最後の問題となるのが、そのような権利を規制する法律に抵触して刑事裁判になった場合には、常に絶対的公開事由に該当することになるのか、という点である。
おそらく肯定するのが通説であろう。しかし、私は訴訟法の基本原理たる当事者主義の原則に照らし、そのように拡大するのは不当と考える。法規の違憲性を当事者が主張した場合にのみ、絶対的公開事由に該当すると考える。
司法試験問題の場合、事件は芸術性、猥褻性をめぐって争われているとあり、要するに構成要件該当性があるかどうかが問題になっているのであって、猥褻性ある表現の自由が認められるべきである、というような憲法上の概念が争点になっている事件ではない。したがって、第3章で保障する国民の権利が問題となっている事件ではない。要するに、訴訟で問題になっている法令が人権制限の内容を持っているからといって直ちに第3章に関する事件になるのではなく、当事者間で憲法上の概念が争点とされている場合にのみ、それに該当する。
本問の強姦罪については、ここまでの議論でだいたい解決できる。しかし、はじめにで紹介した司法試験問題に出てきた猥褻映画の場合にはもう少し議論が必要である。
私自身は、82条に言う出版に関する犯罪にいう出版とは文字通りの出版、すなわち印刷という形態による表現行為に限定する理由はなく、同問で問題となっている映画なども含めて一般公衆に向けられた表現形態のすべてを意味するものと理解するのが妥当と考えている。なぜなら、出版に関する犯罪にせよ、政治犯罪にせよ、それは第3章で定める権利が問題となっている事件の一類型に過ぎず、それをわざわざ特記したのは、それが国家による侵害の危険性が高いからである。その観点から見れば、映画は印刷と並んで、国家による検閲等の対象となってきたメディアであり、公開裁判の要求は同様に強いものといわねばならないからである。
ただし、この点をめぐって議論するのは実益のあることではない。上述のとおり、映画による表現の自由を、出版で読もうと、第3章の権利で読もうと、結論に変わりはないからである。
四 国際人権規約優位説について
この説を採る場合には、先に触れたように論文の中心は98条2項になるので、82条について論じたりすると、焦点ぼけになって落第答案になる。98条2項はそれだけで一つのレジュメが書ける大きな問題であるから、ここでは要点のみ説明する。
(一) 確立された国際法規の意義及び効力
憲法98条2項の最大の特徴は、国際法規を「わが国が締結する条約」と「確立された国際法規」の2種類に分類している点にある。前者は「わが国が締結する」と、わが国を主語にした能動的な表現をとっているから、典型的には憲法73条によって内閣に授権された条約締結権の発動により成立する国際法規を意味していることは明らかである。憲法によって授権された権限の発動であるから、それによって締結された条約の内容が憲法に抵触することが許されないのは当然である。
これに対し、「確立された国際法規」という場合には、受動的な表現であるから、わが国が特段の締結行為をしないにも拘わらず、わが国を拘束する国際法規の存在を予定していると読むことができる。典型的には国際慣習法を意味すると考えられている。国際慣習法は、わが国憲法とは関係なく生まれ、成長するものであるから、その内容がわが国憲法と整合性を持っているという保障は無い。しかし、わが国憲法98条2項は、そういうものであっても誠実に遵守すると述べている。つまり、憲法に抵触する内容の国際法規であっても、国際慣習法として確立している場合には、その法的効力を承認するのである。その意味で、国際慣習法は超憲法的な効力を有していると言える。例えば、外国公館は治外法権という国際慣習法がある。これは明らかに我が憲法に抵触するが、認められている。
(二) 国連による国際慣習法の成文化努力
国連では、こうした国際慣習法を、そのまま不文法として放置しておくと、その内容を巡って無用の国際紛争が生じるところから、これを成文法化する努力を行っている。上記例の場合であれば、国連領事条約という名の条約に成文法化されている。
この場合、これは「わが国が締結した条約」であるが、内容は国際慣習法と一致しているのであるから、いぜんとして超憲法的効力が肯定されるべきである。
(三) インスタント国際慣習法
国連では、従来、国際慣習法のなかった問題に、新たな国際法秩序を樹立する狙いから条約を制定する努力を重ねている。その様な条約を、多くの国が批准することにより、国際紛争の可及的防止を図っている。
こうした条約は、上記2分類のどちらにはいるのだろうか。基本的に条約として作られ、少数の国が批准しただけでは、それは「わが国が締結した条約」に属し、したがって、その内容に憲法に抵触するところがあれば、その限りで違憲・無効と言うべきである。
しかし、十分に多数の国がその条約を批准し、その結果、その条約内容の新たな国際慣習法が形成されたと認められる場合には、その条約は「確立された国際法規」に属し、わが国が批准していると否とに関わりなく98条2項からわが国を拘束すると解するべきである。
例えば、大陸棚条約は、わが国が批准していない条約であるが、世界70ヶ国以上が批准していることを根拠に、わが国を拘束しているとされる(東京高等裁判所昭和59年3月14日判決=オデコ日本S.A事件)。このように、成文条約をベースに、短期間で国際慣習法が形成される現象を、インスタント国際慣習法と呼んだりする。
また、例えば、国連宇宙条約(正式名称は「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」)は、世界100ヶ国が批准しており、問題なく、確立された国際法規と言える。それに対し、この宇宙条約の細則といえる月協定(正式名称は「月その他の天体における国家活動を律する協定」)は、わが国が批准していないばかりで無く、発効から30年近くが経過した2012年現在でも、わずか13ヶ国しか批准しておらず、とうてい「確立された国際法規」ということはできない。
(四) 国際人権規約の「確立された国際法規」性
本問の国際人権規約の場合、わが国が締結した条約ではあるが、、締約国は167ヶ国(2012年現在)に達しており、明らかに「確立された国際法規」ということができる。したがって、その条項には、わが国憲法に優越する効力を認めることができる。
この説による場合には、日本国憲法82条や37条について検討する必要は無く、単に国際人権規約との整合性だけを検討すれば足りることになる。