裁判所規則と裁判所法

甲斐素直

問題

 次のものは、19484月当時の裁判所法である。

10

 事件を大法廷又は小法廷のいずれで取り扱うかについては、最高裁判所の定めるところによる。但し、左の場合においては、小法廷では裁判をすることができない。

1.当事者の主張に基いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを判断するとき。
2.前号の場合を除いて、法律、命令、規則又は処分が憲法に適合しないと認めるとき。
3.憲法その他の法令の解釈適用について、意見が前に最高裁判所のした裁判に反するとき。

 当時、最高裁判所は最高裁判所事務処理規則を以下のように改正した。

最高裁判所事務処理規則

9条 事件は、まず小法廷で審理する。

 左の場合には、小法廷の裁判長は、大法廷の裁判長にその旨を通知しなければならない。

一 裁判所法第十条第一号乃至第三号に該当する場合
二 その小法廷の裁判官の意見が二説に分れ、その説が各々同数の場合
三 大法廷で裁判することを相当と認めた場合

2 前項の通知があつたときは、大法廷で更に審理し、裁判をしなければならない。この場合において、大法廷では、前項各号にあたる点のみについて審理及び裁判をすることを妨げない。

 前項後段の裁判があつた場合においては、小法廷でその他について審理及び裁判をする。

裁判所法第十条第一号に該当する場合において、意見が前にその法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するとした大法廷の裁判と同じであるときは、第二項及び第三項の規定にかかわらず、小法廷で裁判をすることができる。

法令の解釈適用について、意見が大審院のした判決に反するときも、また前項と同様とする。


 この最高裁判所規則の改正において発生する憲法上の問題を論じなさい。

[はじめに]

(一) 類題

 かつて、司法試験で次の問題が出たことがある。

 最高裁判所の規則制定権と国会の法律制定権の競合関係について、議院の規則制定権と国会の法律制定権の競合関係と対比しつつ、論ぜよ。

平成12年度司法試験問題

 論点は基本的に同じなので、以下、この問題もある程度念頭に置いて説明を行う。

(二) 問題の意味

 本問は、問題の意味そのものが判らなかった人がいるみたいなので、まずその説明から開始する。

 憲法761項は、司法権は「最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と定めている。ここで、法律と呼ばれているものが裁判所法である。だから、憲法上に根拠がなく、その存在の合憲性そのものに疑問がある国会法と違って、裁判所法が合憲である事は疑いの余地が無い。

 問題は、この761項にいう法律が41条とどういう関係に立つかである。これが本問の第一の論点になる。後で詳しくは説明する。

 次に問題になるのが、裁判所規則制定権と、この裁判所法の関係である。仮に、771項は、76条及び41条に対して憲法自らが定めている特則であると考えた場合には、そこに列挙している事項については、裁判所の独占的な立法管轄に服すると考えることができる。しかし、そう考えると、現に存在する民事訴訟法や刑事訴訟法は違憲で、すべて裁判所規則で定めるべき事になる。

 憲法77条の列挙事項は規則の専管事項という解釈は、憲法学的には十分に成り立つ。だから、現行憲法成立時に、訴訟法はすべて法律ではなく、規則で作られるという慣行され確立していれば、いま現在、諸君はそのように憲法で習うことになっていたであろう。しかし、歴史はそのようには走らなかった。上述のように、基本の部分は法律で定め、それを受けての委任命令、執行命令に相当する部分だけが裁判所規則で作られているのである。そうなると、41条との関係をどう読むかが深刻な問題になるのである。

 問題の具体的意味を説明する。

 現在の裁判所法は、大法廷と小法廷の区別を定めているが、これ自体は国民の権利義務には関係が無い、純然たる内部事項である。つまり、国民として大法廷で裁判を受ける権利などというものを考えることはできないからである。仮に、大法廷を設けず、小法廷ですべての事件を処理すると定めても、違憲問題は生じない。例えば、ドイツの連邦憲法裁判所には大法廷はなく、二つの小法廷ですべての事件を処理している。大法廷を設けても、それがどのような権限を有するかは、裁判所の純然たる内部事項である。

 問題文に出ている裁判所法の規定だと、訴訟当事者が違憲と主張すれば、それは自動的に大法廷の管轄になる。それに対して、規則の規定だと、違憲と主張した場合にも、以前に大法廷で合憲と言っていて、小法廷としてその結論を維持するつもりである場合には、大法廷を開く必要が無い。だから、法律に比べて規則の方が、大幅に大法廷を開く必要が減少するのである。

 当然のことながら、これは法律と規則の不一致である。したがって、仮に法律優位説を採る場合には、この規則の改正は全く意味の無い行為である。しかし、現実問題として言えば、最高裁判所としては、わざわざ規則の改正を行ったのであるから当然に規則に従って事務を処理する。そこで、法務省は慌てて裁判所法を改正し、現行の規定になおしたのである。ここから、裁判所の内部事項に関しては、規則が優位すると説明しないと、理論が現実と乖離してしまうことが判明した。

 我が憲法が制定された当時は、法律優位説が当然と誰もが考えていた。今日でも、司法試験の受験予備校では法律優位説を教えている。しかし、現実には今日の学説のほとんどは規則優位説を採用している。この事件は、このような歴史的転換のきっかけになった重大事件なので、そのまま問題化したものである。

一 二重立法概念

 この概念については別に詳しく説明しているので、ここでは要点のみを説明する。

(一) 実質的意味の立法

 わが国においては、通説は、実質的意味の立法概念と形式的意味の立法概念を区別し、実質的意味の立法概念を採用することを規定したものと理解する。すなわち権力分立制を国民の自由の実質的保障手段と理解する場合、その適用範囲はすべての国家活動である必要はない。国家活動のうちで、対国民的な活動に限定して良い。

 このことを基準に、国が作るさまざまな法規範を分類すると、対国民的な効力を持つ法規範がある。これを「法規命令Rechtssatz」と呼ぶ(略して「法規」と呼ぶことも多い)。これを実質的意味の立法と呼ぶ。権力分立制の本旨から、これだけが国会に独占を要求される立法と考える。

 そこで、この法規命令をどのように定義するかが、次に問題となる。ここでは、理由まで一々述べないが、諸君が以下の説の一つを採る場合、必ずその理由を述べるべきは当然であることを忘れないで欲しい。

 もっとも通説に近い説といえる権利義務説をとれば、国会法や裁判所法の規定は、傍聴人等に関するごく一部の規定を除き、実質的意味の立法に該当しないことになる。したがって、この説の場合には、さらに次のように述べて、はじめて国会法や裁判所法の制定が許容される。すなわち、この法律中、実質的意味の立法以外の立法は、憲法が特に国会の法律によることを定めている場合を除いて、国会の独占は要求されない。ただし、その場合でも、国会が法律を制定することは妨げない(この但書が、なぜ導けるかについては、後述する)。

 これに対して、佐藤幸治は、上記権利義務に加えて、国家の基本的な組織法は実質的意味の立法に属する、と説く。したがって、現に国会法や裁判所法に属する法領域で、実質的意味の立法に属する範囲が広がることになる。しかし、それでも本問に現れた最高裁内部の組織編成と事務配分というような細かな事項が基本的な組織法に該当するわけはないから、実質的意味の立法とはいえない。だから、この裁判所10条のような規定を説明するには、やはり上記但書のような補足が必要になる。

 芦部信喜の場合には、一般的抽象的法規範はすべて実質的意味の立法概念に該当すると説くから、この場合には問題なく国会法や裁判所法のすべてが実質的意味の立法概念に属すると考えることができる。したがって、裁判所規則や議院規則は、憲法77条や582項が41条の特則と考えることにより、はじめて制定権が認められることになる。この場合、理論構造はかなり複雑になる。本来なら、芦部信喜としては、法律に対する政令と同様に、執行命令と委任命令の性格を有する規則だけが制定出来る、といいたい。しかし、なんと言っても訴訟に関する内部事項になると専門技術性が高く、法律には全く規定がなく、規則だけで律されている問題も多いからである。そこで、競合的管轄権を考え、かつ規則が劣後すると説明することになる。

(二) 形式的意味の立法

 上述したどの形で実質的意味の立法概念を把握するかは、基本書と相談して決めて欲しいのだが、その残った部分が形式的意味の立法概念となる。芦部信喜説の場合には、結局一般性のあるすべての立法が実質的意味の立法になるから、結果から見れば、実質と形式を区別する必要がほとんどないことになる(予算は具体的立法だから、それとの識別理由にはなる。)。これが、芦部信喜の愛弟子、高橋和之が、芦部信喜の説に反旗を翻し、実質的意味の立法とは、国会が法律という法形式で定立する立法のことである、と論じる最大の原因である。

 芦部信喜説を除けば、しかし、かなり広汎に形式的意味の立法が存在している。そして、本問の最大の特徴は、その形式的意味の立法に関する国会の立法権は、どの範囲で認められるか、ということが、中心論点になるという点にある。なぜなら、規則が制定されるのは、芦部説などを採らない限り、通常、形式的意味の立法に属する領域だからである。

 この形式的意味の立法権が国会にあるか否かは、「唯一の立法機関」という概念からは答えを引き出すことができない(そこにいう立法は実質的意味と限定しているからである)。そこで、今ひとつの「国権の最高機関」という概念に依存する。形式的意味の立法に属する領域についても、国会は、特に憲法によって禁じられていない限り、その意思を法律という形式で表明することができると考えるのである。

 この下りを記述するにあたって注意するべきは、できるだけ簡略な記述に押さえる、ということである。すなわち、本問の中心論点は、自律権であって、二重立法概念ではないから、二重立法概念にスペースを割きすぎると、自律権に関する記述不足となって、自動的に落第答案になってしまうからである。

二 自律権の概念

 裁判所や国会の自律権は、権力分立制から導かれる。すなわち、裁判所であれば、司法権の独立を維持するためには、その内部自律を、国会や内閣から干渉されない権利を保障する必要があると考える。国会の場合にも、同様に、行政府や司法府からの自律を考えなければならない。

 ここで少し特殊性が発生するのが、立法府の場合、問題になっているのが「議院」であって、「国会」ではない、ということである。したがって2院制との関連こそがもっとも重要な点である。もちろん、本問では、それは導入部であって、主たる論点ではないから、簡略に触れれば十分である。

 すなわち、国民主権理念の下においては、普通選挙によって選ばれる第一院の意思が常に国民の意思と一致しているという保障はない。そこで、議会に民意を忠実に反映する方法として第一院とは異なる選挙方法で選出される第二院を設け、第一院の軽率な行動の抑制を行わせることによって、議会が真に民意を反映している存在とする訳である。このような目的から第二院を設けたことから、必然的に、両者は対等であり(両院対等の原則=591項)、相互に独立して活動する(両院独立活動の原則)存在でなければならない、という原則が導かれる。この後者の、両院活動の独立原則こそが議院の自律制の根拠なのである。

 ただ、これは議院が相互に自律権を有する根拠であって、他の国家機関との関係を説明することはできないから、それについては、裁判所の場合と同様、権力分立制から説明していく必要がある。すなわち、他の国家機関は、国会の構成要素たる議院に対しては、権力分立制の枠を越えてその自律を侵害することはできない。

 その意味で、議院の自律権には、二つの根拠があることになる。

三 裁判所規則制定権について

 規則と法律の関係を考える場合には、裁判所の場合よりも議院の場合の方が、はるかに難しい問題になる。なぜなら、裁判所法の制定は、憲法761項の予定するところであるのに対して、国会法は予定されておらず、旧憲法51条との対比からいえば、むしろ禁止されていると読むことができる。そこで、諸君の参考のため、国会における問題については、後で詳しく説明し、まず裁判所規則について考えることとする。

(一) 裁判所規則制定権の意義

 芦部信喜は、77条の規則制定権を次の様に説明している。

「権力分立制の見地から裁判所の自主性を確保し、司法部内における最高裁判所の統制権と監督権を強化すること、および、実務に通じた裁判所の専門的判断を尊重することにある」(芦部信喜・第5141

 それに対して、佐藤幸治は次の様に説明する。

「①司法府の専門性を尊重するという前提の下に、②司法府の自主独立性を確保する上できわめて重要な権能であるという認識に基づき、最高裁判所に付与された」(佐藤『日本国憲法論』成文堂611頁)

 つまり、芦部信喜とは順序が逆転している上に、芦部信喜が主たる目的として挙げている「司法部内における最高裁判所の統制権と監督権を強化すること」が完全に欠落していることが判る。

 長谷部恭男はほぼ芦部信喜と同説である(長谷部『憲法』第5版、新世社401頁)。それに対し、植村みよ子は、佐藤に近い(植村『憲法』第2版、日本評論社495頁)。このように、裁判所規則制定権の意義については、大きな学説の対立が存在しているのであり、しかも本問の中心論点なのであるから、ここを理由も無しに書き飛ばしてしまうのは論外である。基本書の、この定義を特定の書いた箇所には、どの教科書でも理由は書かれていない。しかし、いつも強調するとおり、教科書はその全体の流れの中から理由を読み解く努力が必要なのであり、だからこそ何回も繰り返し通読しなければならないのである。

 先に述べたとおり、権力分立制から自律権を導き、そこから自主立法権を引き出すのが難しい議論ではない。難しいのは、芦部信喜説で説かれている最高裁判所の統制権等の強化という議論である。こここそが、芦部信喜説の佐藤説に対する最大の特徴なのであるから、芦部信喜説を採りながら、この点を書き落とせば、減点は必至である。単に書くだけでなく、何とか自力で理由を付する努力をしてみよう。

 なお、私自身は、これらの説の最後の部分、すなわち「付与された」とする解釈には反対している。すなわち、自主立法権は、権力分立制から必然的に導かれるものであって、特に憲法に特段の規定がなくとも、各独立機関は当然に有していると考える。ここから、行政規則制定権というものを考え、独立行政委員会における規則制定権を導くという議論をする。このように考えないと、独立行政委員会における規則制定権規定は、白紙委任で無効と考えなければならなくなるからである。

(二) 列挙事項の意義

 憲法771項は「訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項」と述べて、4つの領域について、規則制定権を肯定している。

  1 専管領域説

 冒頭に述べたように、この4つの事項のすべてについて、憲法の定めた特則と考えれば、理論的には簡明である。しかし、困ったことに、訴訟に関する手続を定めたものとしては民事訴訟法や刑事訴訟法等が、弁護士に関する事項を定めたものとしては弁護士法がそれぞれ存在しているので、これらの法律はすべて77条に違反して無効と言う度胸がない限り、その説をとることは出来ない。

  2 権利義務説

 そこで、通説・実務となったのが、憲法41条における権利義務説である。この説を基準として採用すると、771項列挙事項は、明確に二つのグループに分けることが出来る。すなわち、「訴訟に関する手続、弁護士」は、国民の権利義務に関わるから、憲法41条が適用され、法律の専管事項となる。その結果、裁判所規則は、その法律に対する執行命令、委任命令としての範囲で制定されると考えるのである。冒頭で、現行民事訴訟法の制定過程を紹介したが、その際には、民事訴訟規則も同時に制定したため、この区分が極めて明確に貫かれた。その結果、旧民訴法時代とは、規定する法規範が若干変動している。

 それに対し、「裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項」は、いずれも内部事項である。もちろん、国会は形式的意味の立法についても、先に説明したとおり、立法権を有している。その結果、競合的管轄の問題が発生する。

 憲法76条は、先にも紹介したとおり下級裁判所の設置に関する法律を予定している。これは形式的立法ではあるが、憲法が特に国会に与えた権限であるから、それらについては法律が規則に優越する。しかし、それ以外の裁判所内部事項は本質的に裁判所の自主立法権の本来的管轄領域である。そこでは規則が法律に優越することになる。具体的には、国会の定めた法律は、裁判所規則がない限りにおいて裁判所の活動も拘束するが、裁判所が自ら規則を制定すれば、その限度で自動的に法律は無効となる。

 この論理を本問に当てはめれば、裁判所法10条の旧規定は、それに抵触する裁判所規則がなかった時には有効な法規範であったが、それに抵触する裁判所規則が出来た、その瞬間に無効となり、大法廷と小法廷の職務の分担に関しては、規則に従うべきことになる。

  3 一般性説

 芦部信喜に代表されるこの説では、前二つについては権利義務説と全く同じ論理を展開出来る。問題は、後ろ二つについても、それが本問に示された規則のような一般性ある法規範である限りにおいては、前二つと同様に依然として41条の問題であり、その間に質的差異を認めることが出来ないのである。

 そこで、芦部信喜は次の様に言う。

「実際の取扱いとしては、規則事項はなるべく規則で規定し、もし法律と矛盾する規則が制定された場合は、規則事項を規則のために解放するよう措置することが望ましい」

 そして、これを受けて本問の事例を紹介している。

 改めて説明するまでもなく、これにはおよそ論理というものが欠けている。上位法に抵触する下位法が制定された場合には、上位法を下位法に合わせて修正しろという一般論は存在するはずがない(この文章の規則を政令に置き換えれば、この主張のおかしさは明白であろう)。法律が優越しているのであれば、規則は無効なのだから無視すれば良いのであって、法律をそれに合わせて改正する理由は無いのである。法律を規則に合わせなければならない理由は、規則が優越しているからに他ならない。

 しかし、芦部信喜説を基本書としている人としては、この点を勝手に修正することは出来ない(するなら、41条の一般性説の段階から修正する以外に手はない)。だから、余計なことは言わずに、ここに引用した文章を一言一句も違わず、答案に書き写すことが大切である。そうすれば、採点者としては、諸君が自分の基本書をきちんと理解していることを評価して、合格点をくれるはずである。

 ちなみに今1人の一般性説の主唱者、浦部法穂の場合には、芦部信喜のような妥協は試みず、4つの場合のすべてについて、法律優位で貫いている。そういう論文の書き方も当然にあり得る。学生の答案であれば、合格点がもらえるはずである。ただ、様々な点で現行法規を違憲と言わねばならなくなるので、実務的には到底耐えられない。

(三) 補論:憲法31条について

 裁判所規則制定権との関連で、憲法31条に言及していた人がいた。芦部信喜が31条についてくどく言及しているので、それに引きずられたものと思われる。しかし、31条は列挙事項の冒頭である「訴訟に関する手続」との絡みで問題になるのであって、本問とは関係がない。その理由を一言でいえば、31条は人権規定であり、今論じているのは統治機構論なので、両者は本質的に関係がないからだ、ということになる。

 さらに言うと、訴訟法に関しても31条から直接に導くのは無理がある。そのことは、芦部信喜・新版316頁などでは、法律優位説の根拠の一つとして「ことに刑事訴訟については、そう解することが憲法31条によって要請される」と述べて、要請という歯切れの悪い言葉が使いつつも法律事項とする姿勢を示していたのが、第5版になると削除され、逆に憲法が規則事項を何ら留保無しに定めていると述べて、法律が無い場合における規則制定権を認めていることにも明らかである。まして、訴訟法一般にそう考えねばならない、というような表現はないのである。

 しかし、このように抽象的にいっても判りにくいと思うので、もう少し掘り下げて、簡単に説明したい(本格的に説明すれば、10頁くらいが必要となる)。

 そもそも31条は、英米法でいうところのデュープロセスdue process概念を述べているものと、近時では一般に理解されている。米国法では、この概念は、さらに実体的デュープロセスと手続き的デュープロセスとに分けて論じられる。このうち、実体的デュープロセスは、わが憲法学では一般に幸福追求権として論じられる概念にきわめて近く、わざわざ31条の枠内で論ずる実益がない。そこで31条で専ら問題になるのは手続き的デュープロセスとなる。

 しかし、この概念が要求するのは、文字通り、個人の人権を侵害するに当たり、告知・聴聞に代表される適正な手続きが法定されていることを求めるだけである。すなわち、第一に、告知・聴聞等、個人の人権に直結するものだけがここで問題となり、直結しない一般的な手続きの法定は、要求されていない。広く、刑事訴訟法や民事訴訟法の全条文が、本条の要求と見るのは間違いなのである。第二に、法定とは、客観的な明確性を持っていれば、十分である(なぜか、という点は、この概念に関する本格的な議論を必要とするので、ここでは割愛)。確かに31条は「法律」という言葉を使用している。しかし、この言葉だけを根拠として、国会が法律という形式で定立する法規範に限定する必要がある、とは一般に解されていない。客観的な明確性さえあればよいから、例えば、条例でも良いし、政令や省令、あるいは官庁の告知等でも良い。さらには行政庁内部で制定している基準程度でも構わない(例えば個人タクシー事件最高裁判所昭和461028日判決参照)。だから、もちろん、ここで問題となっている裁判所規則でももちろん構わない。

 すなわち、本問についていえば、法律と規則のどちらでも申し分ない、というのが、31条における答えである。だから、本問では、31条は論点とはならないのである。

四 議院規則制定権

 本問とは直接の関係はないが、累代のような出題は今後もあり得るので、この機会に議院規則制定権についても説明をしておく。

 憲法は、会議その他の手続き及び内部の規律に関する規則の制定権を明確に各議院に与えている(582項前段)。ここで問題となるのは、第一に国会法の合憲性であり、第二に国会法及び議院規則の管轄であり、第三に国会法と議院規則の優劣である。

(一) 国会法の性格

 旧憲法第51条は明確に議院法というものを予定していた。したがって、各議院の自律に属する事項に関する法律を制定することが合憲であることは疑問の余地がなく、当然に議院法は、各議院規則に優越すると解された。換言すれば、旧憲法下においては、議院規則制定権は政令と同様に、議院法の施行細則を制定する権限に過ぎず、自律権とは関わりのない権限であった、と理解できる。

 この伝統を受けて、現行憲法下においても当然のこととして、憲法施行と同時に国会法が制定された。しかし、二院制をとりながら、このように各院の内部自律に関する事項について、それを専管する法律が制定されているという例は諸外国に見られない。

 しかも、現行憲法は、議院法というものを予定しておらず、また、法律の制定にあたり、衆議院に優越を認めている。したがって、国会法の制定を認めることは両院独立活動の原則に違反する疑いが濃厚である。ここから、現行国会法制定の当初から、その合憲性については疑問が投げかけられてきた。これについては、学説としては論理的には次の三説が存在しうる。すなわち国会法は、

① 明治憲法以来の慣行と便宜上の必要に基づいた存在で、合憲とする説
② 議院の自主性を害しない限り合憲とする説
③ 議院の自律性を侵害するもので、違憲とする説

の三説である。

 他国との比較法及び現行憲法の文言解釈から見れば、正しいのは明らかに③説である。しかし、国会法が長期にわたって存在し、それに基づいて議院運営がなされてきているから、③説はあまりに問題が大きく、現状としてはとる者はいない。結局、現実的な学説としては①説と②説が対立していることになる。

 この二つの学説は、簡単にいってしまえば、現行の国会法を旧議院法と同様に、規則に優越するものと考えるか否かで対立していることになる。だから、かつては、自律権に関してほとんど問題意識が見られないままに、①説が疑う事なき通説であった。しかし、近時は自律権の尊重が当然のように認められるようになってきたから、むしろ②説の方が多数説になっているのではないか、と私は考えている(同旨、戸波江二新版386頁)。いずれにせよ、どちらが多数かということは、論文の論理に影響を与える問題ではないから、下手に言及しない方がよい。

 しかし、諸君が今使っている基本書で、①説の論者はいないから、以下では②説に力点を置きつつ説明していきたい。

(二) 国会法及び議院規則の規制する対象範囲

 ここからが、いよいよ本問が詳しく述べることを要求した部分である。

 この点については、①②どちらの説も、国会法及び議院規則の存在を肯定しているから、論点は次の二つである。

  ア 議院規則は、法規命令を含みうるか?

  イ 国会法は、内部事項を含みうるか?

 順次論じよう。

  1 規則と法規命令

 冒頭に述べたとおり、公述人や傍聴人などは一般市民であるから、法規命令をどのように定義しようとも、かならずそれに関して定めた規定は、実質的意味の立法概念に該当することになる。したがって、それは法律で独占しているはずだから、議院規則は委任命令あるいは執行命令という性格を持つ場合にのみ、これを規定しうると、41条の理論からはいうべきことになる。

 しかし、このように説く論者は普通、見あたらない。

 この点に関しては、憲法がわざわざ議院規則を予定した点から、憲法582項を、41条に対する特則と捉える。すなわち自ら定めた例外として説明するのが普通である。したがって、上記アの問に対する答えは、すべて含むことができる、ということになる。

  2 法律と内部規則制定権

 イの点では、まさに議院や裁判所の自律権との関連が問題となり、この点が、上記(一)の論点と結びついて、先鋭的な対立を示すことになる。学説的には大別すれば、次の二説がある。

  ① 内部事項についても、法律と規則の競合的所管事項とする説

  ② 内部事項については、規則の排他的、専属的所管事項とする説

の二説が存在することになる。(一)で①説を採った者は、ここでも必然的に①説を採るのは必然である。これに対して、②説を採った場合には、ここでは①説を採るものと②説を採るものとに分かれることになる。この分かれは、基本的には次に述べる効力関係での説によって決まることになる。

(三) 議院規則と国会法の優劣

  1 対国民的関係

 公述人や傍聴人など、一般国民との関係では、41条から法律が本来独占している法領域であることを考えると、国会法が議院規則に優位すると考える、という見解が導き出される。しかし、当然、議院自律権を重視し、議院規則制定権という特則の存在を重視すれば、両者が抵触する場合には、議院規則が優越すると結論を出すものもある。基本書と相談して決めて欲しい。

  2 対内部規律

 内部規律に関しては、上記の対立は、この場面に来ると、当然①法律優位説と②規則優位説に分裂する。

 (一)で①説を採った者の場合には、ためらうことなく、法律優位説、すなわち両者が抵触した場合には、法律が優越する、と結論する。この場合、直接の根拠となっているのは、一院だけの議決で足りる議院規則よりも、両議院の議決を必要とする法律が優位するのは当然、という論理である。私が学生だった頃は、このような素朴な議論でこの問題は終わりだった。

 これに対して、近時は一般に、議院の自律を重視する結果、議院規則が一院だけの議決で完結的に成立するものだからこそ、院の内部自律に関しては規則のみが定めうる、と考える。この場合、それにも関わらず、現実に国会法が内部規則を規制していることの効力が問題となる。

 この視点に立った場合でも、いくつかの説の分かれがあり得る。

 もっとも有名なのが、小嶋和司の説いた「国会法=紳士協定説」である。すなわち、国会法の定める内部規律に関する部分は、各議院がそれに従う限りにおいて有効であるが、これと異なる議院規則が制定された場合には、議院規則が当然に優越すると考える(私はこれに賛同する。記述が今一つはっきりしないが、おそらく戸波江二もそうである)。

 例えば佐藤幸治は次のように述べる。

「議院規則で定めるべき事項を国会法で定めようとする場合、一院だけで決めることを意味する衆議院の優越は妥当せず、また、その国会法は道義的拘束力を持つにとどまり、法的に議院規則を排除する力を持ち得ないと解される」(三版193頁より引用)

 また、佐藤幸治は、前に述べたように行政組織編成権は、法律の専管事項だと考えるから、その限りでは法律が優位すると考える。そこで立場から、若手学者の間では、大綱部分は国会法が優越し、具体的運用については規則が優越すると説くものがある。

 これに対して、芦部信喜の場合には、前に述べたとおり、内部規律であっても全面的に実質的意味の立法概念に該当すると考えるから、国会法の制定権をこのように強く否定することは辛い。そこで、議院規則を尊重しつつも、国会法の制定にあたっては、衆議院の優越を認めない、という点で調整しようとすることになる。すなわち、

「規則優位説も有力であるが、法律優位説が支配的である。しかし、いずれかに割り切って考えるべきではなく、法律が優位するとしても、国会法の改正には衆議院優越の原則を適用しない慣行と、規則固有の所管に属する内部事項については規則を尊重し、法律をそれに適合するよう改定する慣行を樹立すべきであろう。」(芦部信喜・第5306頁より引用)

 つまり、芦部説では、理論的には法律が優位する。それを議院慣行によって、実質的に規則優位に換えるべきである、という政策論でカバーしようとしているのである。二番目の慣行という文字には、原文ではわざわざ傍点が打ってあって、あくまでも法律論のレベルの議論ではないことを強調している。しかし、これでは憲法論として成立しないと考える。芦部説を採る諸君は、少なくとも592項の不適用は、憲法解釈論のレベルで明確に主張するべきであろう。なお、今1人の一般性説主張者である浦部法穂の場合、通説は法律優位だとしつつ、反対説も強いとだけ述べ、自説を書いていない(浦部『憲法学教室」全訂第2版、日本評論社560頁参照)。

 以上を要約すれば、①説というのは基本的に規則制定権を議院の自律権と関連づけて考えていない、と断定して良い。戦前の議院法のように、憲法の定めた例外の場合だけでなく、一般的に規則に対する法律の優位を承認しているからである。これに対して、議院の自律権というものを重視すれば、いやでも議院規則優越説に移行することになる。

 なお、現実の国会運営では規則優位説にしたがって行われている。例えば国会法

25条は「常任委員長は、各議院において各々その常任委員の中からこれを選挙する」と規定しているが、衆議院規則は次のように定めて抵触している。
「第十五条 常任委員長の選挙については、議長の選挙の例による。
      議院は、常任委員長の選任を議長に委任することができる。」

 同様に参議院規則は次のように定めて抵触している。

「第16条 召集の当日に常任委員長がないときは、議長の選挙の例により、その選挙を行う。
  議院は、常任委員長の選任を議長に委任することができる。

 そして、いずれの場合にも、規則に従って運営されている。すなわち、紳士協定説が支配しているということになる。